アドリア海の復讐 (上・下)/ジュール・ヴェルヌ;金子博訳(集英社文庫,1993)
1867年、オーストリア帝国の一部だったイタリアのトリエステから物語は始まる。言うまでもなく、当時のオーストリアはハンガリー、チェコ、スロヴァキア、クロアチア、ポーランドやイタリアの一部などを支配する大国である。ハンガリーの独立運動家、マーチャーシュ・サンドルフ伯爵は二人の同志とともにトリエステの街にひそみ、蜂起計画を準備していた。ところが、オーストリア帝国各地の同志に蜂起を呼びかける暗号文書が、偶然のいたずらで二人組の悪党の手に落ちてしまう。
二人組はサンドルフ伯爵と取引のある銀行家と共謀して、独立運動家たちを罠にはめ、オーストリア官憲に売り飛ばしてしまう。捕らえられた3人はイストリア半島の中心にある町パジンに連行され、そこの城に収監されるが、不屈の精神の持ち主サンドルフ伯爵は、夜陰にまぎれて城から脱出する。だが、苦難はまだまだ続く。同志の一人は城から脱出に失敗、もう一人も、たどりついた港町で裏切りに合って再び捕らえられる。そして、追い詰められたサンドルフ伯爵は、死を覚悟して海に身を投じる。
サンドルフ伯爵はそのまま行方不明となって死亡認定、二人の同志は反逆罪で処刑されて、この独立蜂起未遂事件が終結するところまでが第一部。上巻の半分をちょと過ぎたところ。
で、この第1部だけでもずいぶん見せ場の多い話なのだが、実は導入部にすぎない。第2部はそれから15年後、やはりオーストリア領の港町ラグサ、今のクロアチア領ドゥブロヴニクに、正体不明の大富豪アンテキルト博士が優美な船に乗って姿を現すところから始まる。まあ、話の展開から見て、この博士の正体はバレバレなわけだが、とにかくここからが、この小説の本題である、冒険と復讐の物語になるわけである。アドリア海から地中海を股にかけて、追跡と逃亡、陰謀と策略、謎の新兵器(ここがヴェルヌ!)、暴風に大爆発、宿命の恋(ヴェルヌ作品には珍しい)、海賊との戦い――と、波乱万丈の物語が展開する。
ヴェルヌと言えば、普通連想するのは(特にSFファンにとっては)『海底二万里』、『月世界旅行』、『地底旅行』、『八十日間世界一周』、『二週間の休暇(十五少年漂流記)』といったところではないだろうか。『アドリア海の復讐』は、知名度から言えばマイナーな作品である。正直、それがここまで面白いとは思わなかった。今まで読んだヴェルヌの小説で一番おもしろいんじゃないか。
まあ、この小説について言いたいことは以上で充分なのだが、おまけに、トリビアなネタをいくつか。
この物語の舞台は冒頭のトリエステから目まぐるしく移り変わる。パジン、ラグサ(ドゥブロヴニク)、コッタロ(現・モンテネグロ領コトル)、マルタ、カタニア(シチリア島)、セウタ(モロッコ海岸にあるスペイン領)、ジブラルタル、モナコ、チュニス、テトゥアン(モロッコの町)、トリポリ、そして主人公が築いた町がある架空の島、アンテキルト島(リビアの沖合にあるらしい)。特に下巻は地中海を端から端まで行ったり来たりしている感じだ。だから翻訳タイトルは『地中海の復讐』の方が内容に合っているのかもしれないが、やはり『アドリア海の復讐』がタイトルとしてはいい。ちなみに原題は単に主人公の名前、"Mathias Sandorf"である。
それはともかく、上の地名の中で、架空の島はともかく、一番知られてないのは、現クロアチア領のパジンだろう。イストリア半島のほぼ中央にあるこの町には、小説に出てくる絶壁の上の城や、川が流れる大洞窟が実際にある。他に有名になる要素があまりないこの小さな田舎町にとって、「ジュール・ヴェルヌの小説の舞台になった」というのは、またとないセールスポイントらしい。町には「ジュール・ヴェルヌ通り」なんてのまである。Webに載っている観光ガイドには、必ずと言っていいほど、この小説のことが書いてある。「ジュール・ヴェルヌの町」なんて紹介してあるページまであった。ヴェルヌの1作品の、しかも第1部だけに出てくるのにすぎないのに、あつかましいのではないか。
この小説の始まりは1867年。皮肉なことに、この年「オーストリア帝国」は連邦国家「オーストリア・ハンガリー帝国」に改編される。ハンガリーはオーストリアと君主を共有し(皇帝がハンガリー王を兼ねる)、外交・軍事・通貨はオーストリアと共有するが、それ以外では独自の政府・議会を持ち、内政が自由にできるようになったのだ。しかもややこしいことに、ハンガリー王国は多民族国家で、領内には多数のクロアチア人、スロヴァキア人、ルーマニア人などが住んでいた。ハンガリー人はオーストリアのドイツ人から見たら相変わらず格下扱いだが、王国内の諸民族に対しては支配民族になったのだ。
この状況の変化のせいか、アンテキルト博士は悪党二人組と銀行家への復讐には執念を燃やすが、事件の発端だったハンガリー独立の話は、第2部以降ではどこかに行ってしまっている。その件は誰も口に出さないのである。
『アドリア海の復讐』は申し分なくおもしろい小説である。訳文も読みやすい。ただ、登場人物の名前については、ひとこと言いたくなる。この小説の主人公は、上にも書いたようにマーチャーシュ・サンドルフ。原作ではMathias Sandorf。普通に読めば「マティアス」となるところを、ハンガリー風に「マーチャーシュ」に変えているわけである。もっとも、本来のハンガリー語の綴りは"Matyas"だが。それはまだいい。彼と一緒に捕らえられる二人の同志の名は、ラディシュラシュ・ザトマール(Ladislas Zathmar)と、エチェーヌ・バートリ(Etienne Bathory)。
「ラディシュラシュ」というのは、原綴を無理矢理ハンガリー語風に読んでいるだけで、そんな名前はハンガリーにはない。ハンガリーの名前にするなら、ラースロー(Laszlo)とするべきだし、そこまでしないなら、そのまま「ラディスラス」でいいと思うのだが。もう一人のエチェーヌ・バートリは、姓はハンガリーの名家のものだが、名前は完全にフランス語である。エチェーヌはハンガリー語だとイシュトヴァーン(Istvan)、さらにハンガリー風に名前を姓・名の順にすればイシュトヴァーン・バートリになる。実はハンガリーの歴史上に同姓同名の人物が何人もいる(そのうちの一人はポーランド王になった)。だがまあ、この小説の場合、エチェーヌ・バートリのままでいいと思うし、他の二人も、中途半端にハンガリー風の名前にしようとせずに、そのまま読んでいた方がましだった。なお、英訳だとエチェーヌ・バートリは英語化して"Stephen Bathory"になっている。
この小説はSFの始祖ヴェルヌの作品だが、通常はSFではなく、冒険小説に分類されている。ではまったくSF性がないかというと、そうでもない。上の方にちらっと書いた、第2部以降で活躍する「謎の秘密兵器」である。その正体は、全鋼鉄製で、見た目は潜水艦そっくりの快速船、「エレクトリック1号」と「エレクトリック2号」。その名のとおり、動力は電気(ヴェルヌは本当に電気が好きだね)、速力は時速50キロを楽に超す。1882年の時点でこのスペックは明らかにオーバーテクノロジーである。他にも、アンテキルト博士が操る超能力としか思えない催眠術とか、彼がリビア沖の架空の島に築いたユートピア的都市とか、ちょっと(本当に、ちょっと、ではあるが)SF的な要素はある。だからこの小説を広い意味でSFと読んでも間違いではないだろう、とSF好きとしては思うのである。
蛇足の蛇足ながら、メビウスの表紙イラストがいい。中身と全然関係ないけど。
