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2008年10月30日 (木)

バルト海の復讐

バルト海の復讐/田中芳樹(光文社・カッパ・ノベルズ,2004)
 この小説、タイトルからして『アドリア海の復讐』を意識していることは明らかである。では、ジュール・ヴェルヌへのオマージュ作品なのかというと、その点は少々疑問がある。
 まず、前回(2008年10月28日)のエントリーでも書いたように、『アドリア海の復讐』というのは、翻訳の題名であって、ヴェルヌがつけた原題とは全然違う。
 次に内容。これがまた、『アドリア海の復讐』とは似ても似つかない。そもそも『アドリア海の復讐』は、ヴェルヌが『モンテ・クリスト伯』へのオマージュをこめて書いた小説で、ストーリーの根幹にも似た要素がある。例えば、罠にはめられ投獄され、脱出するものの行方不明となる主人公。年月を経てから名を変え身分を隠し、大富豪になって再び現れる主人公。子の世代を巻き込んで繰り広げられる愛憎劇...。
 『バルト海の復讐』にはそんなものはない。1492年、ハンザ同盟都市リューベックの若き船長エリックは部下に裏切られ、凍てつくバルト海に放り込まれる。死の間際で、ホゲ婆さんと名乗る謎の老婆に助けられたエリックは、自分が陥れられた陰謀の真相と裁きを求めてリューベックに戻る。しかし陰謀の張本人たちは彼を再び陥れ、エリックは身を守るために戦うことになる――ざっとこんな内容の歴史冒険小説である。
 エリックは復讐に立ち上がったのではない。自分を裏切った部下たちに、最初は法の裁きを下すことを考えていた。だが、そのために動いた結果、新たな罠に陥ることになってしまい、追い詰められて仕方なく相手と戦い、結果として復讐を果たすことになるのだ。なお、この物語の開始から結末までに経過する時間は2ヶ月足らずに過ぎない。
 十数年をかけて復讐を果たすサンドルフ伯爵やエドモン・ダンテスとは、執念のレベルにかなり差がある。
 それに、エリックは田中芳樹の作品の主人公としては珍しいが、あまり頭がよくないし、人を見る目もない(作品中ではっきりそう指摘されている)。武術の達人でもないし、金持ちでもない。生命力と運の強さ、それにホゲ婆さんや謎の騎士ギュンター・フォン・ノルト(『七都市物語』にギュンター・ノルトという登場人物が出てくるが、先祖か?)といった強力な援護者の助けを借りて、なんとか危地を乗り切っていくのだ。
 ナイーブで力も金もない主人公が間一髪で危機をくぐり抜けながら目的を果たす、というのは冒険小説の黄金パターンの一つではある。しかし、主人公の圧倒的な意志と知略と財力がものをいう『モンテ・クリスト伯』や『アドリア海の復讐』とは、全然違うパターンの話であることは確かである。
 結局、ヴェルヌへのオマージュでないとすれば、この小説は何なのか。もしかしたら、『アドリア海の復讐』というタイトルへのオマージュ、つまりは『○○海の復讐』というタイトルの小説が書きたかっただけなのかもしれない。本家の「アドリア海」は使えないし、「瀬戸内海」や「オホーツク海」ではトラベルミステリーみたいだし、「エーゲ海」は誰かが書い ていそうだし、言葉の響きもよく、話を作りやすそうなのが「バルト海」だったのかもしれない。

バルト海の復讐 (カッパノベルス)

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2008年10月28日 (火)

アドリア海の復讐

アドリア海の復讐 (上・下)/ジュール・ヴェルヌ;金子博訳(集英社文庫,1993)
 1867年、オーストリア帝国の一部だったイタリアのトリエステから物語は始まる。言うまでもなく、当時のオーストリアはハンガリー、チェコ、スロヴァキア、クロアチア、ポーランドやイタリアの一部などを支配する大国である。ハンガリーの独立運動家、マーチャーシュ・サンドルフ伯爵は二人の同志とともにトリエステの街にひそみ、蜂起計画を準備していた。ところが、オーストリア帝国各地の同志に蜂起を呼びかける暗号文書が、偶然のいたずらで二人組の悪党の手に落ちてしまう。
 二人組はサンドルフ伯爵と取引のある銀行家と共謀して、独立運動家たちを罠にはめ、オーストリア官憲に売り飛ばしてしまう。捕らえられた3人はイストリア半島の中心にある町パジンに連行され、そこの城に収監されるが、不屈の精神の持ち主サンドルフ伯爵は、夜陰にまぎれて城から脱出する。だが、苦難はまだまだ続く。同志の一人は城から脱出に失敗、もう一人も、たどりついた港町で裏切りに合って再び捕らえられる。そして、追い詰められたサンドルフ伯爵は、死を覚悟して海に身を投じる。
 サンドルフ伯爵はそのまま行方不明となって死亡認定、二人の同志は反逆罪で処刑されて、この独立蜂起未遂事件が終結するところまでが第一部。上巻の半分をちょと過ぎたところ。
 で、この第1部だけでもずいぶん見せ場の多い話なのだが、実は導入部にすぎない。第2部はそれから15年後、やはりオーストリア領の港町ラグサ、今のクロアチア領ドゥブロヴニクに、正体不明の大富豪アンテキルト博士が優美な船に乗って姿を現すところから始まる。まあ、話の展開から見て、この博士の正体はバレバレなわけだが、とにかくここからが、この小説の本題である、冒険と復讐の物語になるわけである。アドリア海から地中海を股にかけて、追跡と逃亡、陰謀と策略、謎の新兵器(ここがヴェルヌ!)、暴風に大爆発、宿命の恋(ヴェルヌ作品には珍しい)、海賊との戦い――と、波乱万丈の物語が展開する。
 ヴェルヌと言えば、普通連想するのは(特にSFファンにとっては)『海底二万里』、『月世界旅行』、『地底旅行』、『八十日間世界一周』、『二週間の休暇(十五少年漂流記)』といったところではないだろうか。『アドリア海の復讐』は、知名度から言えばマイナーな作品である。正直、それがここまで面白いとは思わなかった。今まで読んだヴェルヌの小説で一番おもしろいんじゃないか。

 まあ、この小説について言いたいことは以上で充分なのだが、おまけに、トリビアなネタをいくつか。
 この物語の舞台は冒頭のトリエステから目まぐるしく移り変わる。パジン、ラグサ(ドゥブロヴニク)、コッタロ(現・モンテネグロ領コトル)、マルタ、カタニア(シチリア島)、セウタ(モロッコ海岸にあるスペイン領)、ジブラルタル、モナコ、チュニス、テトゥアン(モロッコの町)、トリポリ、そして主人公が築いた町がある架空の島、アンテキルト島(リビアの沖合にあるらしい)。特に下巻は地中海を端から端まで行ったり来たりしている感じだ。だから翻訳タイトルは『地中海の復讐』の方が内容に合っているのかもしれないが、やはり『アドリア海の復讐』がタイトルとしてはいい。ちなみに原題は単に主人公の名前、"Mathias Sandorf"である。
 それはともかく、上の地名の中で、架空の島はともかく、一番知られてないのは、現クロアチア領のパジンだろう。イストリア半島のほぼ中央にあるこの町には、小説に出てくる絶壁の上の城や、川が流れる大洞窟が実際にある。他に有名になる要素があまりないこの小さな田舎町にとって、「ジュール・ヴェルヌの小説の舞台になった」というのは、またとないセールスポイントらしい。町には「ジュール・ヴェルヌ通り」なんてのまである。Webに載っている観光ガイドには、必ずと言っていいほど、この小説のことが書いてある。「ジュール・ヴェルヌの町」なんて紹介してあるページまであった。ヴェルヌの1作品の、しかも第1部だけに出てくるのにすぎないのに、あつかましいのではないか。

 この小説の始まりは1867年。皮肉なことに、この年「オーストリア帝国」は連邦国家「オーストリア・ハンガリー帝国」に改編される。ハンガリーはオーストリアと君主を共有し(皇帝がハンガリー王を兼ねる)、外交・軍事・通貨はオーストリアと共有するが、それ以外では独自の政府・議会を持ち、内政が自由にできるようになったのだ。しかもややこしいことに、ハンガリー王国は多民族国家で、領内には多数のクロアチア人、スロヴァキア人、ルーマニア人などが住んでいた。ハンガリー人はオーストリアのドイツ人から見たら相変わらず格下扱いだが、王国内の諸民族に対しては支配民族になったのだ。
 この状況の変化のせいか、アンテキルト博士は悪党二人組と銀行家への復讐には執念を燃やすが、事件の発端だったハンガリー独立の話は、第2部以降ではどこかに行ってしまっている。その件は誰も口に出さないのである。

 『アドリア海の復讐』は申し分なくおもしろい小説である。訳文も読みやすい。ただ、登場人物の名前については、ひとこと言いたくなる。この小説の主人公は、上にも書いたようにマーチャーシュ・サンドルフ。原作ではMathias Sandorf。普通に読めば「マティアス」となるところを、ハンガリー風に「マーチャーシュ」に変えているわけである。もっとも、本来のハンガリー語の綴りは"Matyas"だが。それはまだいい。彼と一緒に捕らえられる二人の同志の名は、ラディシュラシュ・ザトマール(Ladislas Zathmar)と、エチェーヌ・バートリ(Etienne Bathory)。
 「ラディシュラシュ」というのは、原綴を無理矢理ハンガリー語風に読んでいるだけで、そんな名前はハンガリーにはない。ハンガリーの名前にするなら、ラースロー(Laszlo)とするべきだし、そこまでしないなら、そのまま「ラディスラス」でいいと思うのだが。もう一人のエチェーヌ・バートリは、姓はハンガリーの名家のものだが、名前は完全にフランス語である。エチェーヌはハンガリー語だとイシュトヴァーン(Istvan)、さらにハンガリー風に名前を姓・名の順にすればイシュトヴァーン・バートリになる。実はハンガリーの歴史上に同姓同名の人物が何人もいる(そのうちの一人はポーランド王になった)。だがまあ、この小説の場合、エチェーヌ・バートリのままでいいと思うし、他の二人も、中途半端にハンガリー風の名前にしようとせずに、そのまま読んでいた方がましだった。なお、英訳だとエチェーヌ・バートリは英語化して"Stephen Bathory"になっている。

 この小説はSFの始祖ヴェルヌの作品だが、通常はSFではなく、冒険小説に分類されている。ではまったくSF性がないかというと、そうでもない。上の方にちらっと書いた、第2部以降で活躍する「謎の秘密兵器」である。その正体は、全鋼鉄製で、見た目は潜水艦そっくりの快速船、「エレクトリック1号」と「エレクトリック2号」。その名のとおり、動力は電気(ヴェルヌは本当に電気が好きだね)、速力は時速50キロを楽に超す。1882年の時点でこのスペックは明らかにオーバーテクノロジーである。他にも、アンテキルト博士が操る超能力としか思えない催眠術とか、彼がリビア沖の架空の島に築いたユートピア的都市とか、ちょっと(本当に、ちょっと、ではあるが)SF的な要素はある。だからこの小説を広い意味でSFと読んでも間違いではないだろう、とSF好きとしては思うのである。

 蛇足の蛇足ながら、メビウスの表紙イラストがいい。中身と全然関係ないけど。

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2008年10月25日 (土)

不良のための読書術

不良のための読書術/永江朗(ちくま文庫,2000)
 単行本は1997年刊行。2000年に出たこの文庫版は、今でも入手可能だから、最近の文庫の出版事情を考えると、ロングセラーと言えるだろう。
 内容は読書術というより、半分以上は出版業界、書店業界の裏ばなし。「フリーライターは単行本では食っていけない」という話とか、「サイン本は返品できないので、書店にとってはリスクが大きい」という事情とか、自費出版の落とし穴とか、各地の個性派書店の評価とか。
 それはそれでいいのだが、この本のタイトルで、こんな話を読みたいと思う人はいるのだろうか。
 後半は実践編になるのだが、それも本屋で欲しい本を手に入れる方法とか、図書館の活用法とか、古本屋入門とか、実に普通である。どこが「不良のため」なのかわからない。
 本当に「読書術」と言えるのは、最後の第十一章「本を閉じてからの大切なこと」と、結びの「不良なヤツほど本を読む」くらいだろう。その読書術にしても、「本は増やすな、整理するな、最後まで読むな、直感で買え、なんでも読め」というまあ、単なる乱読のすすめと変わらない。極力本を持たない、増やさないことを勧めているあたりは、ちょっと「反・読書術」的に見えるが、増やさない方法が「図書館から借りる」と「買った分だけ売る」という、きわめて常識的かつ穏当なもの。これまた、どこが「不良」なのか。
 だいたい、この本には「不良のための」と言いながら、過激なところがほとんどないのだ。気をひくようなタイトルで人を釣っておいて、これでは羊頭狗肉もいいところではないか。まあ、タイトルさえ気にしなければ、特に内容が悪いわけではないのだが。
 著者の忠告に従えば、本を増やさないために、この本は売り払ってしまうのが妥当なのだろうが、文句を言いながらも、何かの参考になるかもしれないと思って捨てられずにいる。「不良のための読書術」を実践するのは難しい。

不良のための読書術 (ちくま文庫)

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2008年10月22日 (水)

捕虜たちの日露戦争

捕虜たちの日露戦争/吹浦忠正(NHKブックス,2005)
 戦争になれば当然捕虜という存在が生まれる。日露戦争でも、敗れたロシア側に7万人を超える膨大な数の捕虜が出たのはもちろんのことだが、日本からも約2000人の捕虜が出て、ロシアのメドヴェージ村に収容されていた。
 著者は公文書や日記などの資料や現地取材により、捕虜たちの経歴、収容所での生活、帰国とその後の状況などを丹念に調べている。労作である。特に前半部分の、メドヴェージ村の日本人捕虜たちについての記述は、これまでほとんど知らなかった部分で、目新しかった。
 一方、日本が捕虜にした外国将兵については、この後の第一次世界大戦でのドイツ人捕虜を、徳島県の板東収容所で厚遇したことが、映画にもなったくらい有名である。が、この本によれば、ロシア人捕虜も自由散歩や観劇を許されたり、大量の慰問品が送られたりして、結構寛大に扱われていたという。大阪の浜寺(今の浜寺公園のあたり)に、2万人以上を収容する最大の収容所(テント村だったらしい)があったというのも、この本で初めて知った。だいたい、第一次大戦の時のドイツ人捕虜より、日露戦争の時のロシア人捕虜の方がはるかに数が多いのに(というか、日本が歴史上抱えた最大の捕虜集団だろう)、知られてなさ過ぎるのではないか。(私が知らないだけかもしれないが...)
 日本の捕虜生活についても、個人の記録を元にきわめて具体的に書かれているが、労役もなく待遇はよかったようだ。食料は肉も含めて不足なく供給されており、紅茶は飲み放題、時々は酒も支給され(将校はいつでもビールが飲めたそうだ)、時間を決めて市中に買い出しに行くことも認められていた。日本人捕虜の一人は、収容所の周辺をかなり自由に歩き回って大量の写真を撮っており、この本の貴重な資料になっている。ちなみに、ロシアでの捕虜収容所というと、第二次大戦の印象ですぐシベリアを連想するが、メドヴェージはロシア本土、モスクワとサンクトペテルブルクの中間くらい、古都ノヴゴロドの近くにある。もちろんロシアだから冬は厳しいが、シベリアほど過酷な環境ではなかったわけだ。まあ、別に捕虜たちの健康のためにメドヴェージに収容したわけではないのだが。(なぜ遠く離れたロシア本土に捕虜たちを連れてきたかについては、ちゃんと理由が説明してある。)
 両国ともに後の第二次大戦の時とはえらい違いである。
 ただ、日本に帰国した捕虜が冷たい目で見られたり、サハリンでロシア人捕虜の殺害事件があったりという暗い面も、著者は忘れることなく書いている。とはいえ、この時代は全般的に日本もロシアも捕虜に対してかなり人道的な扱いをしていたことは間違いないようだ。日本での、捕虜になったことを恥辱とするという観念も、後の時代ほどはきびしくなかったらしい。
 この頃はまだ余裕があったということなのだろうか。捕虜の扱いについて、第二次大戦やその後の歴史で起きたことを思うと、人類は歴史に学んでないとしか思えない。

捕虜たちの日露戦争 (NHKブックス)

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2008年10月18日 (土)

地図もウソをつく

地図もウソをつく/竹内正浩(文春新書,2008)
 タイトルが示すとおり、地図をテーマにした、雑学ネタたっぷりのエッセイ集。
 第一章「おしゃべりな地図」は、緯度によって変わる地形図の余白、由布院付近のJR路線の大カーブの由来、千葉県の数字地名の起源など、地図・地名にまつわる小ネタ集。もっとも、緯度と余白の話はどこかで読んだことがある。
 第二章「ウソつきな地図」は、この本のタイトルの元になったパート。戦前・戦中の日本のや、現在の韓国で、軍事上の理由で隠蔽されたり改変されたりした部分がある地図、測量技術や地図作成技術が未熟なために不正確になった地図、山の高さの表記ミスなど、真実を伝えてない地図を巡るエピソードを語る。
 第三章「気まぐれな地図」は、名もない山が九州最高峰に出世するまでの変遷、門外不出の自衛隊製地図、地図に見る国の自由度、ある日突然変わってしまった日付変更線、アフリカに3年だけ存在した「帝国」の話など、タイトルどおり気まぐれというか、ちょっととりとめがない。あえて言えば、時の流れとともに変わってゆく地図、がテーマか。
 第四章「小悪魔な地図」は、文化や政治に左右される地図表現を巡るエピソードの数々。デフォルメされた外交プロパガンダ地図、ナチスドイツや大日本帝国最盛期を物語る地図、中国全土はもちろんモンゴルまで領土に含まれている1997年版「中華民国」の地図、中国で生産したばかりに、日本にとってまずい表現が数々記載されてしまい商品回収に至った「毒地球儀」の一件など。正直、この章が一番おもしろい。「地図は主観の産物」という点で、この本のタイトルにも合致している。
 著者は地図関係の本はこれが初めてのようだが、かなりの地図好きらしいことはわかる。売れ行きが落ちる一方の地形図やネット時代の地図のあり方に危機感を訴える終章は、短いが読み応えがある。
 あとは、今尾恵介などの先行する地図エッセイと違った独自性をどう打ち出していくかがポイントだろう。正直、第一章から第三章までは、どこかで読んだことのあるようなネタが多い。本書の中心テーマになっている「地図にもウソがある」というのは、地図マニアにとっては当たり前のことなので、今さら取り立てて言うほどのことでもないのだが、新書だからこの点は仕方がないか。この本の第四章の路線など、おもしろい方向性だと思うのだが。

地図もウソをつく (文春新書 651)

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2008年10月14日 (火)

9月に読んだ本から(2)

昨日の続き。9月に読んだ本からまた2冊。

SFはどこまで可能か?/福江純(扶桑社・空想科学文庫,2004)
 SF好きの天文学者としてその世界では有名な作者が、SFの主要テーマと最先端科学をからめて語る、『やさしいアンドロイドの作り方』(1996)の改題・増補版。
 この「空想科学文庫」というのは、扶桑社とメディアファクトリーが共同で刊行しているという変なシリーズで、柳田理科雄の『空想科学読本』など、SFや特撮・アニメに科学的ツッコミを入れる一連の本を収録している。その中では、この本は明らかに方向性が違っていて、なぜ収録されたのかよくわからない。
 取り上げられているSFのテーマは、宇宙人、宇宙旅行、宇宙移住、時間旅行、異次元、ロボット、遺伝子操作、ミュータント、不老不死とごくごくポピュラーなものばかり。最終章のみ、「他者との相互理解」という抽象的なものだが。それぞれのテーマに対応して取り上げられている作品も、「スタートレック」、「スターウォーズ」、「2001年宇宙の旅」、「機動戦士ガンダム」、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」など、誰でも知ってるようなタイトルから入っていくのが常。
 SFにも科学にも素人の読者が入れるように、入り口は広く開けてあるという印象である。もっとも、話が深入りするにつれ、ベンフォード、フォワード、アシモフ、アンダースン、バクスター、ソウヤーなど、それなりのSF作品のタイトルが出てきて、話はどんどんマニアックになっていく。中にはラリー・マドックの「TERRAの秘密工作員」などというかなりマイナーなシリーズも出てきたりする。この落差はなかなかすごい。
 なお、タイトルとは裏腹に、SFの実現可能性をそんなに真剣に論じているわけではない。そういうテーマならロバート・L・フォワードの『SFはどこまで実現するか』(ブルーバックス)が、ずっとマジメである(タイトルはよく似ているが)。この本は、SFと科学を巡る、SF好き科学者のエッセイ集として読むべきだろう。

本能寺の変/樋口晴彦(学研新書,2008)
 著者は元警察官僚で、警察大学校教授。企業経営、組織論の著作の一方で、『信長の家臣団』などの戦国史ものや戦史も書いている。この本は、本能寺の変について世間に氾濫する謀略説その他、憶説俗説に反論するのが執筆の動機らしい。
 著者はまず序章「光秀の人物像」で、明智光秀にまつわる小心者、保守的、神経質といった、「線の細い優等生」みたいなイメージを一つ一つ史料を元にくつがえしていく。さらに、武田攻めから本能寺の変の前夜までを述べる第一章、第二章では、光秀が謀反を起こすに至った動機に関する様々な説(信長のせいで母を殺された、徳川家康の饗応にあたって不手際を責められた、領地を召し上げられた、etc.)に反論。光秀の謀反の原因は怨恨でも謀略でも恐怖でも反感でもなかったと断定する。
 ではなぜ本能寺の変が起きたかというと、偶然がもたらした千載一遇の「天下取り」のチャンスがそこにあったから、というのが著者の主張。その主張を補強するように、本書の後半では当時の織田勢力圏下各地の情勢を分析し、光秀には充分な勝算があった、と結論づける。光秀の唯一の誤算は、羽柴秀吉が自分に敵対し、信じられないような早さで畿内に引き返してきたこと。著者によれば、この二人は織田政権内では似たような立場で、元々仲が悪いわけではなく、光秀は秀吉が自分の側につくことを期待していたのではないかという。秀吉が本能寺の変をいち早く知ったのは、毛利への密書をたまたま入手したのではなくて、光秀から味方になるよう誘いの手紙を出したのではないかというのが著者の推測で、これは今までになかった見方である。
 著者の主張、特に光秀の謀反の動機には無理がない。「そこにチャンスがあり、勝算もあったからだ。」史料から見る限り、それ以外の動機は見いだせないという消去法ではあるが、確かに説得力はある。
 ただ、当たり前といえば当たり前すぎて、何だかおもしろみがないことも確か。好みの問題かもしれないが、もうちょっと深いドラマを期待するのは、歴史小説の読み過ぎだろうか。司馬遼太郎の『国盗り物語』はじめ、多くの小説で、光秀が謀反を決意するまでの心理の動きを克明に追い、読者を納得させよう力を注いでいるのに、「チャンスがあったから謀反しちゃいました」では身も蓋もないではないか。
 本能寺の変前後の各地、各武将の動静は非常にわかりやすく書いてあって、歴史ドキュメントとしての有用性は高い。

本能寺の変―光秀の野望と勝算 (学研新書 32)

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2008年10月13日 (月)

9月に読んだ本から(1)

 9月に読んだ本から、まず2冊。

三蔵法師/中野美代子(中公文庫,1999)
 「三蔵」という称号を持つ僧は、知ってる人も多いと思うが、何人かいる。本書の257ページあたりにもそのことが書いてあって、そもそも「三蔵」というのは「経」「律」「論」という三種類の仏教経典すべてに通じた高僧という意味の称号で、古くは晋代の鳩摩羅什をはじめ、この名で呼ばれる僧はけっこう多いのだそうだ。唐代だけでも義浄、不空など何人かの「三蔵」がいる。
 しかしこの本の「三蔵法師」というのはもちろん、俗名を陳イ[衣+韋]、法名を玄奘という、『西遊記』のモデルになった人物である。中国でも単に三蔵法師といえば玄奘を指すのは昔からもことのようで、唐代にすでに、、上に書いたように他に何人も「三蔵」がいたにもかかわらず「唐三蔵」=玄奘という図式ができていたらしい。何しろ唐の太宗李世民が自ら玄奘の事績を讃えて「大唐三蔵聖教序」という文章を書いたくらいだから、三蔵といえば玄奘、というのはいわば皇帝のお墨付きだったわけだ。
 ちなみに「玄奘」は日本では普通「げんじょう」と読まれているが、これは実は誤りで、本当は「げんぞう」と読むのが正しいそうだ。「げんじょう」があまりに定着してしまって今さらどうしようもないので、著者も最初の方でそのことを指摘した後、慣用に従うと書いている。
 それはともかく、この本は玄奘の生涯、特にインドへの取経の旅を語るのはもちろん、いかにも中国文学の専門家らしく、実在の玄奘がいかに伝説上の人物となっていくか、そのイメージの変遷にもスポットを当てている。もっとも、著者の専門である『西遊記』まで筆が及ぶとページ数が増えすぎるためか、『西遊記』への言及は最小限に留めているようだ。
 『西遊記』の三蔵法師があまりに弱々しく、日本のドラマでは女性が演じているせいもあって、玄奘といえば女みたいな優男というイメージが強いようだが、この本で描かれている玄奘は、当たり前といえば当たり前だが、そんな人間ではない。国禁を侵してまで出国する強固な意志力と行動力、砂漠や猛暑の地での過酷な旅に耐える頑健な身体、異国での活動を可能にする巧妙な交渉力と政治力、それにもちろん並外れた知力を兼ね備えた、男の中の男ともいうべき人物だったのだ。
 そんなたくましい三蔵を、一度映像でも見てみたいものである。

三蔵法師 (中公文庫)

天竺熱風録/田中芳樹(祥伝社・NON NOVEL,2007)
 唐の時代、三度にわたってインドに使いした王玄策を主人公にした歴史冒険小説。
 別に三蔵法師つながりで読んだわけではないのだが、冒頭、主人公よりも先にいきなり玄奘が登場する。この作品の玄奘は「六尺にも届きそうな長身」、「堂々たる偉丈夫ぶり」で、「壮年の英気が全身にみなぎって」いるという逞しい中年男として描写されている。上の『三蔵法師』でのイメージのとおりで、この方が実像に近いだろう。
 ところでこの作品で玄奘が登場するのは数ページだけ、主人公、王玄策の行く手を暗示する不吉な予言をするためだけに出てくる。王玄策があまりに無名なので、有名人をまず登場させて読者の注意を引く趣向である。
 その主人公、王玄策だが、詳しいことはほとんどわかってない。2回目にインドに渡った際、北インドの覇者ハルシャ王が死去して臣下のアルジュナが王位を簒奪しており、王玄策一行は簒奪者に捕らえられるという災難に遭う(冒頭の玄奘の予言というのは、このハルシャ王が死んだという予知夢だったのだ)。だが、王玄策たちはどうやってかわからないが脱出し、どうやってかわからないがチベットとネパールから1万弱の兵を借りて、どうやってかわからないが簒奪者政権の大軍を破り、アルジュナを捕虜にして唐に連れ帰る。そんなことが『旧唐書』にごく簡単に書いてある。原文の文章は、1ページ分あるかどうか。
 その簡単な記述から想像をふくらませ、インドを舞台にした冒険活劇に仕立て上げたのがこの小説。大筋は歴史のとおりだが、ディテールはすべてフィクションである。古い時代の中国を舞台にした歴史小説というのは、だいたいがそんなものだが。後半の戦闘シーンでは、いかにも田中芳樹らしい、読者にはおなじみの戦術や戦法が繰り出される。
 講談調の文章だけが、田中芳樹作品としては異例。あとがきに、ずいぶん悩んだ末にこの文体を選んだようなことが書いてある。史実が元とはいえ、神秘の地インド、超人的な活躍をする中国の外交官、と現実離れした要素の多い物語だけに、こういう語り口も手法としてはありかもしれない。少なくとも、読んでる間にあまり違和感は感じなかった。
ただ、この文体のおかげで、せっかく歴史に埋もれた英雄を掘り起こしてきたというのに、全体的に昔話みたいな現実味のない雰囲気になってしまっているのも事実。普通の文章で書くことも充分にできたのではないか、という気もする。
 なお、この小説で王玄策に同行する王玄廓と、彼岸、智岸の両法師は、史料の上では王玄策とは何の関わりもないらしい。そのあたりも含め、この小説と史実との違いを検証したページが中国史愛好サイト『枕流亭』(http://ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/)に掲載されていて、なかなかおもしろい。

天竺熱風録 (ノン・ノベル)

(カバーと本文イラストは藤田和日郎)

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2008年10月 9日 (木)

<鬼子>たちの肖像

<鬼子>たちの肖像 中国人が描いた日本/武田雅哉(中公新書,2005
 「鬼子」(グイヅ、と読む)という言葉で多くの人がまず連想するのは、満州事変から太平洋戦争終戦に至るまでの、中国に攻め込んだ日本兵に対する、中国の側からの憎悪のこもった呼び方「日本鬼子」だろう。
 実際、この本でも第1章では20世紀前半から現在までに至る「日本鬼子」のイメージを取り上げている。が、そういうテーマを扱った本なのかと思うと、これは全体から見るとプロローグに過ぎないのだった。
 第2章ではいきなり時代が遡って、中国で言う「鬼」とは何かという根元的な問いかけに始まり、明朝以前の書物に現れた「日本人の図」を扱う。だがこれもやはり前説にすぎない。
 この240ページあまりの本のうち、200ページほどは、清末の「画報」に現れた日本と日本人に関する絵入りの報道を扱っているのだ。本来、これが武田雅哉の専門分野なのである。
 「画報」というのは、まあ日本の瓦版みたいなもので、はっきり言って興味本位のB級メディアである。だからこそ、近代化の曲がり角に立つ時代の中国から日本に向けた、かなり下世話な生のまなざしというものが見てとれる。ちなみにその見方というのは、別に好意的というわけではないが、特に悪意がこもっているわけでもない。「日本人というのは変な連中だよ」みたいな感じである。もっとも、日清戦争の期間中だけ日本人に対する見方が極端に悪意に満ちてきたりしている(それでも日中戦争時ほどではないと思うが)。そして、そんな「画報」の報道ぶり自体が、現代の日本人読者から見ると、かなり「変」なのだ。題材としてはおもしろいし、独創的である。(武田雅哉の本というのはどれも、独創性が命、みたいなところがある。)
 だからそれはそれでいいのだが、このタイトルから、「清末中国が報じた日本」がメインであることがわかるだろうか。まあ、人目を引くタイトルには違いないから、出版社の作戦としてはいいのかもしれないが、日中戦争に関する本だとばかり思って買った人は怒らないだろうか。

「鬼子」(グイヅ)たちの肖像―中国人が描いた日本人 (中公新書)

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2008年10月 6日 (月)

刮目すべき短篇集

目を擦る女/小林泰三(ハヤカワ文庫JA,2003)
 奇想SF短編集。シリアスと冗談とが適度に入り混じっている。
 標題作「目を擦る女」は、わりとありがちなディック風の「二重現実」を扱った作品。「目をこすうて見る」という慣用句のとおり、「目をよくよく擦ってみたら、現実が見えた」という冗談みたいな話だが、状況のグロテスクさはしっかり小林泰三の持ち味が出ている。
 「超限探偵Σ」は、とんでもない超ミステリ。とうていあり得ないような二つの事件を解決する名探偵「Σ」だが、その解決が、これにまさる推理はないだろうという、現実をくつがえすようなとんでもないもので、前回の東野圭吾『超・殺人事件』のはるか斜め上を行くようなミステリのパロディになっている。
 「脳喰い」は、文字通り人間の脳を喰ってしまうエイリアンの話で、なんとなく結末は予想がついた。
 「空からの風が止む時」は、ちょっと「竜の卵」を思わせるハードSF。しかしこれも物語世界の正体は途中で予想できてしまった。
 「刻印」は巨大な蚊とのラブストーリー。いや、自分でも何を言ってるのかよくわからないのだが、そのとおりの話なのだから仕方がない。
 「未公開実験」は、前代未聞のタイムマシン、いや「ターイムマスィ――ン」による現実改変の話で、「決してタイムパラドックスを起こさないタイムトラベル」のアイデアは秀逸。デビュー作『玩具修理者』に標題作とともに収録されていた「酔歩する男」も時間SFの傑作として評価が高いが、小林泰三はもしかしたら時間旅行ものSFの名手なのかもしれない。
 「予め決定されている明日」は、算盤(!)によって計算されている仮想現実を描いたもので、標題作と並んで、小林泰三の「おぞましさ」がかいま見える。
 こうして見ると、「刻印」以外はすべて、ある意味で「現実と非現実の転倒」を扱っている。小林泰三の得意とする、目をそむけたくなるようなグロテスクな描写も本書ではかなり押さえられており、その分SF度が高くなっている。現代SFの王道を行く作品集と言えるのではないか。まさに刮目して見るべきだろう。
 ただ、題名のつけ方だけは、どうも私の趣味には合わない。
 ベスト3は、「超限探偵Σ」、「空からの風が止む時」、「未公開実験」。

目を擦る女 (ハヤカワ文庫JA)

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2008年10月 2日 (木)

超・殺人事件

超・殺人事件 推理作家の苦悩/東野圭吾(新潮文庫,2004)
 「ミステリの約束事そのもの」をネタにしたあぶない短編集。この著者の『名探偵の掟』と同系列。それにしても東野圭吾という人は、どシリアスから完全ギャグまで作風が幅広いな。実は何人もいるんじゃないか。
 それはともかく、中味はこんな具合。
 「超税金対策殺人事件」は税金対策がミステリをメチャクチャにしてしまう話で、これ自体はミステリではない。
 「超理系殺人事件」は、いつのまにか読者が被害者になってしまう。次の「超犯人当て小説殺人事件」は、ミステリが本当の殺人を生む。この二つは、虚構が現実を浸食するメタ・ミステリ。
 「超高齢化社会殺人事件」は、近未来が舞台で、ボケが進行する作家になんとかして小説を書かせようとする編集者の苦闘を描くが、若い人間は小説など誰も読まなくなり、作者も読者もみんな老人ばかりというのが、本当にそうなりそうでこわい。
 「超予告小説殺人事件」は、小説の中で書かれたとおりに現実に殺人が起こってしまい、最後はちゃんと現実的な解決もされている、収録作の中では珍しく普通のミステリ。
 「超長編小説殺人事件」は、ひたすら分厚くなる昨今の小説を強烈に皮肉った作品だが、どこが「殺人事件」なのかわからない。
 最後の「超読書機械殺人事件」も、文芸批評への痛烈な皮肉に満ちている。「どうせ書評家なんておれたちの小説をろくに読みもせずに勝手なこと抜かしてんだろ」という本音が実によくわかる。先が読めるが、これが一番おもしろい。しかしこれもどこが「殺人事件」かね。ただのSFだと思うが。
 総じて『名探偵の掟』の方がギャグが冴えていたし、小説としてもおもしろかったような気がする。毒は増えているが。それに、メチャクチャなミステリという点では、芦辺拓の『名探偵Z』や清水義範の『茶色い部屋の謎』の方がおもしろかったという印象がある。「小説の約束ごとそのものをネタにする小説」というのが、私はけっこう好きなので、これらの作品もそのうち取り上げたい。

超・殺人事件―推理作家の苦悩 (新潮文庫)

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