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2008年11月16日 (日)

10月に読んだ本から

 10月に読んだ本から3冊。

天使の蝶/プリーモ・レーヴィ;関口英子訳(光文社古典新訳文庫,2008)
 プリーモ・レーヴィという作家のことは知らなかった。カバー裏の紹介によると、イタリアの化学者、作家。ユダヤ系で、第二次世界大戦中アウシュヴィッツ強制収容所に入れられていたが、奇跡の生還を果たしたとのこと。日本での翻訳はアウシュヴィッツもののノンフィクションと評論集が出ているだけで、小説の翻訳が出るのはは初めてらしい。
 そんなわけで、予備知識なしに買ってみた本だったのだが、これが意外。奇想に満ちたSFとファンタジーの作品集だった。ブッツァーティの『神を見た犬』(2008年2月12日のエントリー)といい、古典新訳文庫はイタリアの幻想作品を発掘してくれているようだ。あなどれない。
 収録作品は15編。
 最初の「ビテュニアの検閲制度」は、思想統制が行き届いた国で採用された、意外な「究極の検閲者」について語るショートショートで、全体主義体制に苦しめられた人間ならではの皮肉がきいている。
 次の「記憶喚起剤」はタイトルのとおり、ある方法によって人間の記憶を喚起する薬剤の話。SFの原点ともいえる「奇妙な発明」テーマだが、実はこの本に収録されている作品の大半がこのタイプなのである。
 典型的なのが、次の作品「詩歌作成機」から始まる「NATCA社」のシリーズ。
 「詩歌作成機」は戯曲形式の作品。NATCA社が販売したタイトルどおりの機械をめぐって、詩人と秘書とセールスマンのシンプソン氏と当の機械自体がドタバタ劇を繰り広げ、最後にはいかにもなオチがついている。NATCA社の変な製品を巡る作品は、この作品を含めて、本書中にとびとびに6編収録されている。どの作品にもシンプソン氏が登場し、狂言回しの役(作品によっては主役)をつとめている。
 収録されたNATCA社シリーズの作品と出てくる製品は次のとおり。「低コストの秩序」と「<ミメーシン>の使用例」では三次元複製機、「美の尺度」では美の測定装置、「完全雇用」ではシンプソン氏自身の開発した昆虫雇用システム、「退職扱い」ではヴァーチャル・リアリティ装置(これも時代の先取り?)。戯曲形式なのは最初の「詩歌作成機」だけで他は普通の小説形式。
 表題作「天使の蝶」は、やはり収録作中一番の傑作。人類は実は幼体成熟の種族であり、真に成熟すれば本当の姿「天使」になることができる――こんな仮説の元に、第二次大戦中にナチスが行った生体実験のおぞましい結末とは...。なんだかこれだけで本1冊書けそうだが、実際は20ページ足らずの短編。それにしてもすごいアイデア。というか、ラリイ・ニーヴンの「プロテクター」を先取りしてるよ。(この本の原書発行は1966年、ニーヴンの「成年者」発表が1967年。レーヴィの方が早い。)
 もうひとつ注目すべき作品としては、「ケンタウロス論」がある。牧歌的なイタリアの田舎を舞台に、ケンタウロスと人間との交流を写実的に描く、という意表をついた設定の作品。ケンタウロスの食生活に関する科学的説明がすごい。
 「ケンタウロスは馬の部分が過半を占めるという身体の構造から、厳格な草食を余儀なくされているが、頭部と胸部は人間とおなじ造りをしている。そのために、人間の小さな口から、彼らの大きな身体を維持するのに必要な、驚くほど膨大な量の牧草や干し草や穀物を摂取しなければならない。」
 そのために、ケンタウロスは一日の大半を食べることに費やさなければならないというのだ。悲劇的な結末も含め、この作品を読んでケンタウロスに同情しない人は少ないだろう。
 他に収録作は、冷凍睡眠で未来に旅する美女を巡る戯曲スタイルのコメディ「眠れる冷蔵庫の美女」と、これまた戯曲スタイルで人間の創造を巡る珍議論を描く「天地創造六日目」、自動車に雌雄があるという奇想が光るショートショート「猛成苔」、寄生虫の創作活動を扱った「人間の友」、苦痛を快楽に転換する薬剤を巡る悲劇(そりゃ悲劇にしかなりようがないよな)「転換剤」といったところ。
 洗練された今のSFのスタイルからはほど遠いが、素朴な奇想の持つパワーを感じさせる作品集である。「テクノロジーは人間を裏切る」という、作者の科学者らしからぬペシミズムがスパイスとして効いている。

天使の蝶 (光文社古典新訳文庫 Aフ 5-1)


近くへ行きたい/唐沢俊一(講談社,2003)
 インターネットの発達で遠くの出来事は知ることができるが、ご近所コミュニティの衰退で近くのことはよくわからなくなった。近所こそがテラ・インコグニタ(未知の領域)なのだ、というこじつけめいたコンセプトで、「WEB現代」に連載されたルポを抜粋したもの。
 「著者の家から一時間以内で到達できる場所」を中心にあちこち立ち寄ってみたのだそうで、収録された各編にも目的地までの所要時間が書いてあり、確かにどれも一時間以内である。一番近いところは徒歩3分。まさに近所。
 全体が「食」「買」「観」「知」4章構成になっている。
 訪問先は、例えば「食の章」では「談話室 滝沢」(新宿)、「チャイナハウス」(幡ヶ谷)、「グリーン食堂」(新大久保)、「渋谷区役所地下食堂」(渋谷)といった具合。区役所の食堂などは、まあ普通のルポなのだが、「チャイナハウス」での薬膳料理(ゲテモノとしか思えない)や「グリーン食堂」での犬料理を食うあたりになると、著者の文章は俄然いきいきとしてくる。
 この傾向はその後も同じで、「買の章」で前後編にわたって「オタクの魔窟」と題して「中野ブロードウェイ」を紹介したり、「観の章」で「ロフトプラスワン」の怪しげなイベントや、ホモ映画館「世界傑作劇場」を語る文章など、著者の嬉しげな顔まで浮かんできそうである。
 一方、「知の章」の「羽田空港神社」、「国連大学」などはネタの怪しさが足りないので今ひとつおとなしく、読んでいてもあまりおもしろさが伝わってこないのだ。
 いくら距離的に「近く」であっても、「日常から遠い」ところこそが、この著者の本領を発揮するフィールドなのだと、再確認した。

世界の言語入門/黒田龍之助(講談社現代新書,2008)
 冒頭にいきなりこんなことが書いてある。

 世界の言語について、一人でどこまで語れるか?
 本書はひとつの試みである。

 世界の言語について紹介した本はいくつもある。著者が「はじめに」で書いているように、そうした本はそれぞれの言語の専門家たちが分担執筆しているのが普通である。例えば大修館書店の『世界のことば小事典』(1993)は、107人が128の言語について分担執筆している。ところがこの本は、世界中の90の言語について、著者が一人だけで全部書こうというのだ。「無謀な話ではないか。」と著者自らがいうのも無理はない。
 そこで著者は、学術的な内容を放棄することを序文で宣言する。各言語について専門的なことを書こうというのなら無理だが、エッセイなら書けるのではないか、というのだ。
 どっちにしてもちょっと無茶な気もするが、おもしろそうである。しかし単なるエッセイにしても、自分が全然知らない言語について書くネタがあるのだろうか。
 著者はスラヴ系言語の専門家である。だからロシア語、ウクライナ語、ポーランド語といったスラヴ系の諸言語はもちろん、ヨーロッパ系の言語にはある程度詳しい。だからヨーロッパ各地の言語について書いている時はまだ余裕がある。言語学的な内容も少しは出てくる。
 まったく畑違いのアジアやアフリカ系の言語になると、それこそ、素人が書いているのと大差ないような、まったくのエッセイになる。
 「シンハラ語」ではスリランカの首都の名前が長い、という話から始まり、「トルコ語」だとドネルケバブの話から入る。「ネパール語」では、いきなり、何も知らないことに気づいて辞書を引いた、なんて書き出す。「ベルベル語」に至っては、名前がおもしろいだけでノミネートした言語なので、本を読んで調べてみたら、言語名ではなく語派名だということがわかった、なんて書いてある。「ベルベル語」という言語はなくて、「ベルベル語派」に属するいくつもの言語があるということなのだ。タイトル自体が間違っていたことを白状する、というかそれ自体をネタにしているエッセイなんて、なかなか読めない。

 正直言って、こういうネタ捜しにも難渋して、苦し紛れに書いている項目の方が、読んでいる側としてはおもしろい。
 本書は言語についての知識を得るという意味では、あまり役に立たないだろう(雑学は別として)。。だから「入門」というタイトルは実は怪しい。だけど言語の多様性の持つ混沌としたおもしろさ、というか、話のネタとしてのおもしろさは味わえる。それこそが著者がこの「無謀な試み」で伝えたかったことのはずだ。

世界の言語入門 (講談社現代新書 1959)

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