三国志 一の巻~十三の巻/北方謙三(ハルキ文庫,2001-2002)
ハードボイルド作家、北方謙三の『三国志』(単行本は1996~1998年)は、ある意味、三国志もの小説の革命だった。まったく新しい解釈による人物像――例えば、キレる劉備、思慮深い張飛、人間的な呂布など――、正史三国志と「三国志演義」のどちらにも偏らず、おもしろい材料を取捨選択してまとめあげた独特の物語世界、架空の人物の活躍、そして全体を貫く「滅びの美学」。
まさに三国志世界のハードボイルドタッチによる再話である。
その語り口の特徴は、「後の○○である」とか、「史書によれば~」とかいう記述は一切出てこないあたりにも出ている。登場人物が知っているはずのないことは、何一つ書かれてない。完全に同時代の視点から書かれた三国志なのだ。
細かく歴史的に見れば、どうかというところはあるかもしれないが(例えば人物名の呼び方など)、そんな細かいことは気にさせないだけの力がある。
三国志マンガの世界における『蒼天航路』にも匹敵する、画期的な作品ではないだろうか。
ところで、各巻のサブタイトルには、「○○の星」という見慣れない漢字二文字が入っているのだが、これは実は中国の伝統的星座名。高松塚古墳の天井にも描かれていた、二十八宿とかそういうやつ。だから、「星」なのである。
以下、各巻の中味とサブタイトルをざっと見ていく。
一の巻 天狼の星
第1巻は、関羽と張飛が劉備と出会うシーンから始まり、孫堅が死ぬシーンで終わる。その間に劉備、曹操、孫堅それぞれの黄巾軍との戦い、董卓との戦いが描かれる。この3人と同じくらいの比重を持って書かれているのが呂布。呂布の内面まで描写している作品は珍しい。第1巻から盛りだくさん、というかこれだけの内容をよく300ページ余りにつめこんでいるものだ。
「天狼」は井宿の星座の一つ、いうまでもなく、おおいぬ座α、シリウスにあたる。中国の星座は星一つだけというケースもある。
二の巻 参旗の星
呂布が董卓を殺す。本作には貂蝉は出てこない。呂布の謀反の動機は、早い話がヨメさんをバカにされためである。この小説の呂布はめちゃくちゃ愛妻家なのだ。この巻はその呂布中心に動く。曹操が青州兵を手に入れたり、劉備が徐州を取ったり取られたり、孫策が旗揚げしたり、三国の創始者たちが助走を始める。
「参旗」は畢宿の星座の一つ、オリオン座の一部にあたる。
三の巻 玄戈の星
呂布は曹操と戦い続け、ついに敗死する。この作品の呂布は、三国志ものマンガによく出てくるような化け物じみた怪人ではなく、無類に強いが、情も理性もある普通の人間だった。一方では、孫策と周瑜の二喬嫁取り(というか、略奪婚)の顛末も語られる。このエピソードがあるのもも本作品だけ。
「玄戈」は紫微垣の星座の一つ、うしかい座λにあたる。
四の巻 列肆の星
曹操は官渡で袁紹の大軍と対峙。劉備は曹操から離反するが、あっさりと敗走。曹操に降伏した関羽は、顔良を斬ってその足で劉備の元に帰って行く。見送る曹操。実にあっさりしている。これがこの作品の持ち味だろう。「演義」と違って、関羽は文醜まで斬ったりしない(正史では関羽が斬ったのは顔良だけ)。
「列肆」は天市垣の星座のひとつ、へびつかい座・へび座の一部にあたる。
五の巻 八魁の星
官渡の戦いに決着をつけた曹操だが、袁家残党との戦いが続く。荊州に逃れた劉備は徐庶と出会い、別れる。別れ際に徐庶が諸葛亮の名をあげるのが、最後のページ。引っ張るなあ。
「八魁」は室宿の星座の一つ、くじら座の一部にあたる。
六の巻 陣車の星
劉備が三顧の礼で諸葛亮を迎える。そのアレンジの仕方も、この作品では独特。後半は、いよいよ曹操の荊州攻めが始まり、劉備が敗走。物語は赤壁の戦いへと向かう。
本作品後半の最重要人物の一人、馬超もこの巻で登場。
「陣車」は氐宿の星座の一つ、おおかみ座、てんびん座、みずへび座の境目にまたがっている。
七の巻 諸王の星
赤壁の戦いとその前後。この小説での周瑜は「演義」と違って孔明に敵対心は抱いておらず、相互理解が見られる。その点はむしろ「レッド・クリフ」に近い。赤壁の戦いそのものは、えらくあっさりと、数ページで片づけられている。風向きが変わったことを知った途端、曹操は負けを悟り、退却を決意するのだ。
風向きが変わるかどうかが勝敗の鍵だった。戦いの前夜の周瑜を描く文章がすべてを語っている。こんな短い文章で、どんな大作映画のスペクタクルシーンにも匹敵するくらい盛り上がるのだからすごい。
勝てる。周瑜は思った。
風さえ吹けば、勝てる。
「諸王」は畢宿の星座の一つ。おうし座の一部にあたる。
八の巻 水府の星
赤壁の戦いの後、三国(正確にはまだ三国ではなく、漢王朝内の有力軍閥だが)はそれぞれ新たな作戦を始める。周瑜が益州を目指す途上で死亡、曹操は関中に侵攻し、荊州を得た劉備は益州に攻め込む。
「水府」は井宿の星座の一つ、オリオン座の一部にあたる。
九の巻 軍市の星
怒濤の展開の巻。馬超と劉備の出会い。劉備の益州制圧、曹操と劉備の漢中争奪戦、劉備の漢中王即位、関羽の魏領侵攻と、呉の裏切りによる荊州喪失、そして関羽の死。
馬超は、どんどんニヒルな一匹狼化していく。
「どうでもいい。人と人の争いなどな。この国は乱れるだけ乱れて、滅びてしまえばいいのだ。」
関羽の壮絶な最期は、この北方三国志の、というかあらゆる三国志小説を通じての、屈指の名場面の一つだろう。
「軍市」は井宿の星座の一つ、おおいぬ座の一部にあたる。
十の巻 帝座の星
天下統一を目指して走り続けてきた曹操が巻の半ばで死ぬ。この小説の曹操は、死ぬ間際まで理屈が多い。劉備が皇帝に即位し、蜀は対呉戦の開戦準備を進めるも、出陣直前、張飛が暗殺される。それでも張飛の弟子陳礼を先鋒に、蜀軍は呉が占領する荊州へ侵攻を開始する。滅びの美学がますます冴える一巻。
「帝座」は天市垣の星座の一つ、ヘルクレス座α(ラスアルゲチ)にあたる。
十一の巻 鬼宿の星
荊州深く攻め入った蜀軍だが、張飛軍の指揮を引き継いだ若い陳礼が陸遜の罠にはまって壊滅的敗北。張飛が生きていれば蜀は勝っていた、というのがこの小説の見方。歴史のとおり、この敗北に打ちのめされた劉備は、本巻の終わり近くでついに死亡。
この小説の劉備は本当に英雄だった。
一方、馬超は呉との戦いをよそに、ひっそりと劉備軍から去る。「演義」でもいつのまにか出てこなくなるのだが、この小説では、死んだことにしてわざと姿を消すのだ。その後の馬超の物語は、完全に本作のオリジナル。メインストーリーの裏で、地下水流のように続いていく。
「鬼宿」はその名のとおり二十八宿の一つ鬼宿の筆頭の星座(各「宿」にはそれぞれの宿と同じ名称の星座がある)、かに座の一部にあたる。
十ニの巻 霹靂の星
諸葛孔明は完璧な作戦を立てながら、必ずどこかで綻びが出て失敗する。不運ぶりがますますひどくなってくる、というか、本人に問題があるのか。
この巻でも、長安を奇襲し、魏帝曹叡の首を狙うという乾坤一擲の作戦が、街亭で馬謖がドジを踏んで失敗する。従来の諸葛孔明のイメージからは考えられないような、大胆でダイナミックな用兵をする孔明もすごいが、そのすごさを察知して失禁してしまう司馬懿も、ある意味すごい。
「霹靂」は、普通は雷のことだがここではもちろん星座名で、壁宿に属する。うお座の一部にあたる。
十三の巻 極北の星
ついに最終巻。乱世の英雄たちも前の巻まででほとんど死んでしまい、諸葛亮と司馬懿が蜀と魏をほとんど一人で背負って対決する。三国志もの小説の定番どおり、諸葛亮が五丈原で死ぬところで物語は終わるが、その後に少しだけ挿入される最後のエピソードが、深い余韻を残す。この小説での馬超は、このために出てきたのだと思わせる。
サブタイトルの星座名は、この巻だけ少しオリジナルの名称から変えられている。中国星座としての名前は「北極」。中国の星座大系で最上位に位置づけられる紫微垣(北極星を中心としたエリア)の、さらに最上位の星座。こぐま座からきりん座の一部にあたる。なお、その名前とはうらはらに、北極星は含んでない。
最後の巻が最上位の星座で終わるというのも、意味ありげである。まさに三国志小説の極北をめざした作品だった。
