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2008年12月28日 (日)

傭兵ピエール

 今年最後の書き込み。といっても、去年と同じく、いつもと何も変わらない。

傭兵ピエール(上・下)/佐藤賢一(集英社文庫,1999)
 小説家としての佐藤賢一の出世作。
 百年戦争末期のフランスを舞台にした、「大河小説」風歴史小説。
 さすがにフランス中世史の専門家だけあって、当時の風俗や社会情勢、傭兵の生態などは実に詳しくかつリアルに描かれている。
 ものすごくおおざっぱに言ってしまえば、フランス王の側に立つ傭兵隊長ピエールと、ジャンヌ・ダルクとの愛と冒険の物語なのだが、ストーリー展開は読者の予想を裏切り続ける。一貫性がないと思われるほどに。
 ピエールは途中で王軍を抜けて南フランスの田舎町アランヴィルへ行き、守備隊長に収まってしまうし、一時はヒロインになるかと思われたピエールの恋人は途中で死んでしまうし。何がメインのストーリーかよくわからなくなった状態で上巻は終わった。
 上巻のラスト近くの、アランヴィル防衛戦のエピソードは迫力がある。この小説を通じて、最大の戦争シーンだろう。
 下巻に至って、話は歴史小説の枠を超えて意外な方向に突き進む。ジャンヌ・ダルクが主人公の恋人として出てくる以上、悲劇にしかなりようがない、と思っていたが、まさかああなってああなるとは。
 もっと史実に忠実な正統派歴史小説かと思っていただけに、この展開にはちょっと驚いた。話の根本で大胆な歴史改変を行っていても、細かい歴史考証はさすがに専門家だけあってしっかりしている。
 が、ストーリーは少々ご都合主義。主人公ピエールが行き当たりばったりに行動しても、どこかから助けが現れて結局すべてがうまくいってしまう。そんな都合のいい話があるかよ、と言いたくなる場面もたびたび。
 また、主人公のピエールとあと2、3人を除いてはキャラが立ってなくて誰が誰だか覚えられないのも問題。全体として、丁寧に書かれてはいるが、小説の作りとしてはまだ未完成な部分を感じる。
 しかしまあ、これだけの歴史知識を盛り込んでいて、充分におもしろいのだから、これ以上を求めるのは欲張りすぎかもしれない。
 最後は余韻を残すほろ苦い終わり方で、けっこう好きなパターンである。
 物語の結末、「ピエール兄き、あんたは歴史に抹殺された男なんだ」と舎弟のジャンに憐れまれるピエールは、戦 士としては死んだも同然。エンタテインメントとしては消化不良気味の終わり方かもしれないが、文芸作品としてはよくできている。
 「冒険小説」なのか「歴史文学」なのか、最後までどっちなのかよくわからなかった小説でもあった。

傭兵ピエール〈上〉 (集英社文庫)

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2008年12月25日 (木)

活字探偵団

活字探偵団 増補版/本の雑誌編集部編(角川文庫,2000)
 本に関する、何の役にも立たない突発的調査とその独断的な結果を集めた雑学本。
 例えば、こんな具合。
 同じタイトルで中味が違う本を調べまくった「同名異書は世の中にどのくらいあるか」。
 出版社に届いたとんでもない間違い書名の例を集めた「『サンラカン八万将軍』を知っているか」。
 日本で一番文庫に収録された作品が多い作家調べ。
 『日本書籍総目録』に収録された同姓同名の著者の調査。
 外国の作家名の表記バリエーション調査。
 名探偵たちの防御率(殺人阻止率)調べ。一番防御率が悪いのは金田一耕助だそうだ。(そりゃまあ、あれだけ被害者が続出してたらなあ。)
 ミステリがらみでは、「都道府県別殺人事件分布数」(もちろん、小説の中での件数)なんてのもある。
 調査の類だけじゃなくて、『レイモンド・カーヴァー全集』の箱がきつくて中味が出せないという話とか、今はなき京都丸善にレモン(ここはやはり「檸檬」と書くべきか)を置く人がどれくらいいるか、とか、続編の正しいタイトルについて考察する、という冗談企画とか、わけのわからない記事も多い。
 中にはなぜか、世界SF大会レポートも混じっているのが、また謎。

 あとがきにもあるように、まさに、何の役にも立たない「活字無駄話」そのもの。しかし、実をいうと、こういうことこそ、私自身がやりたいたぐいのことなのである。
 世の中に、こんなアホなことにエネルギーを注ぐ人間が自分だけでないということを知るのはうれしい。しかしこういうことをやって本を出し、金をかせげるというのは、うれしいをとおりこしてねたましくもある。
 「増補版」とつく前のオリジナルは1994年刊。インターネット普及前に書かれたものなので、今ならネットで調べりゃすむだろ、というネタでも、いちいち現物に当たって確認しているのだ。その、「ネット以前」の手作り感がまたいい。

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2008年12月23日 (火)

三国志の後の時代

 前回『三国志』を紹介したが、原典にあたる「三国志演義」は、晋の武帝による三国統一をもって終わる。今回は、その晋の武帝を扱った本。

西晋の武帝 司馬炎/福原啓郎(白帝社・中国歴史人物選,1995)
 一般的には諸葛亮のライバルとして知られている司馬懿は、稀代の戦略家であり、政治家だった。そのやり口があまりに非情なところから人気は今ひとつだが、彼が外敵や反乱勢力や政府内のライバルとの戦いにすべて勝利し、最終的には魏王朝を事実上支配することに成功したところから見ても、その能力は諸葛亮を上回っていたのではないかと思われる。戦争と謀略の天才だったと言ってもいい。
 司馬懿の事業(=魏王朝乗っ取り)は、二人の息子司馬師と司馬昭によって受け継がれる。司馬師は朝廷内の反対勢力を粛正し、地方の反乱を鎮圧するなど手腕を発揮するが若死にする。兄の後を継いだ司馬昭は、諸葛誕の反乱を鎮圧し、蜀漢を滅ぼして魏王朝簒奪の一歩手前まで行く。この二人も父親ほどではないが優秀で、言わば秀才だろう。
 司馬昭の子が武帝司馬炎である。
 司馬炎は「武帝」という勇ましい諡(おくりな)の割には性格温厚な、「いい人」だったようだが、能力的には平凡だった。魏王朝を廃して晋王朝初代の皇帝の座につき、呉を滅ぼして三国を統一したのも、祖父の代から引かれたレールの上を進んだに過ぎない。要するに凡人である。
 もっとも、司馬炎はまだ凡人というだけましで、その息子で晋の二代目皇帝になった恵帝司馬衷は、どこからどう見ても完全なアホだった。そのアホぶりは、人民が食べる米がなくて苦しんでいると聞いた時に、「米がないならなぜ肉を食わないのか」と言ったというマリー・アントワネットみたいな(ただしこっちの方が1500年ほど古い)エピソードで知られている。おまけに皇后が自分勝手で陰険な性格最悪の女だった。この司馬衷が無能愚鈍でなければ、そして皇后がまともな性格だったら、西晋の全国統一はもう少し長続きしていたかもしれない。
 司馬家は代を重ねるごとに質が低下していったのだ。(もっとも、西晋から東晋に変わって帝位が傍系に移ってから、劣化は止まったようだが、あまり優秀な人物もその後出てないようである。)

 で、この本だが、タイトルとは裏腹に、司馬炎の事績が語られるのは中程の60ページ足らずで、全体の5分の1にも満たない。司馬氏の起こりから始め、魏時代の司馬懿の台頭から、長安が陥落して西晋が滅亡するまでを語っており(つまり上に書いた司馬家歴代はみんな出てくる)、西晋の通史という方が正しい。
 要するに司馬炎というのは人物としても皇帝としてもあまり大した人ではなく、1冊の本にするほどの材料がないということだろう。
 むしろこの本のメインになっているのは、司馬炎の死後に起きた「八王の乱」の始終である。後半約100ページが、この皇族貴族異民族まで巻き込んで繰り広げられた複雑怪奇な闘争に費やされている。本のタイトルを「八王の乱」にしてもいいのではないかと思うほどだ。
 とにかく、何かなんだかわけがわからないということで、普通の歴史書では詳細を略されることの多い八王の乱について、これだけ詳しく書いた一般書は他にないのではないか。目まぐるしく転変する敵味方の組み合わせをわかりやすく解説するための図解までついている。この時代に興味のある人間(どれだけいるかわからないが...)にとっては、実にうれしい本なのである。

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2008年12月21日 (日)

北方三国志

三国志 一の巻~十三の巻/北方謙三(ハルキ文庫,2001-2002)
 ハードボイルド作家、北方謙三の『三国志』(単行本は1996~1998年)は、ある意味、三国志もの小説の革命だった。まったく新しい解釈による人物像――例えば、キレる劉備、思慮深い張飛、人間的な呂布など――、正史三国志と「三国志演義」のどちらにも偏らず、おもしろい材料を取捨選択してまとめあげた独特の物語世界、架空の人物の活躍、そして全体を貫く「滅びの美学」。
 まさに三国志世界のハードボイルドタッチによる再話である。
 その語り口の特徴は、「後の○○である」とか、「史書によれば~」とかいう記述は一切出てこないあたりにも出ている。登場人物が知っているはずのないことは、何一つ書かれてない。完全に同時代の視点から書かれた三国志なのだ。
 細かく歴史的に見れば、どうかというところはあるかもしれないが(例えば人物名の呼び方など)、そんな細かいことは気にさせないだけの力がある。
 三国志マンガの世界における『蒼天航路』にも匹敵する、画期的な作品ではないだろうか。

 ところで、各巻のサブタイトルには、「○○の星」という見慣れない漢字二文字が入っているのだが、これは実は中国の伝統的星座名。高松塚古墳の天井にも描かれていた、二十八宿とかそういうやつ。だから、「星」なのである。

 以下、各巻の中味とサブタイトルをざっと見ていく。

一の巻 天狼の星
 第1巻は、関羽と張飛が劉備と出会うシーンから始まり、孫堅が死ぬシーンで終わる。その間に劉備、曹操、孫堅それぞれの黄巾軍との戦い、董卓との戦いが描かれる。この3人と同じくらいの比重を持って書かれているのが呂布。呂布の内面まで描写している作品は珍しい。第1巻から盛りだくさん、というかこれだけの内容をよく300ページ余りにつめこんでいるものだ。
 「天狼」は井宿の星座の一つ、いうまでもなく、おおいぬ座α、シリウスにあたる。中国の星座は星一つだけというケースもある。

二の巻 参旗の星
 呂布が董卓を殺す。本作には貂蝉は出てこない。呂布の謀反の動機は、早い話がヨメさんをバカにされためである。この小説の呂布はめちゃくちゃ愛妻家なのだ。この巻はその呂布中心に動く。曹操が青州兵を手に入れたり、劉備が徐州を取ったり取られたり、孫策が旗揚げしたり、三国の創始者たちが助走を始める。
 「参旗」は畢宿の星座の一つ、オリオン座の一部にあたる。

三の巻 玄戈の星
 呂布は曹操と戦い続け、ついに敗死する。この作品の呂布は、三国志ものマンガによく出てくるような化け物じみた怪人ではなく、無類に強いが、情も理性もある普通の人間だった。一方では、孫策と周瑜の二喬嫁取り(というか、略奪婚)の顛末も語られる。このエピソードがあるのもも本作品だけ。
 「玄戈」は紫微垣の星座の一つ、うしかい座λにあたる。

四の巻 列肆の星
 曹操は官渡で袁紹の大軍と対峙。劉備は曹操から離反するが、あっさりと敗走。曹操に降伏した関羽は、顔良を斬ってその足で劉備の元に帰って行く。見送る曹操。実にあっさりしている。これがこの作品の持ち味だろう。「演義」と違って、関羽は文醜まで斬ったりしない(正史では関羽が斬ったのは顔良だけ)。
 「列肆」は天市垣の星座のひとつ、へびつかい座・へび座の一部にあたる。

五の巻 八魁の星
 官渡の戦いに決着をつけた曹操だが、袁家残党との戦いが続く。荊州に逃れた劉備は徐庶と出会い、別れる。別れ際に徐庶が諸葛亮の名をあげるのが、最後のページ。引っ張るなあ。
 「八魁」は室宿の星座の一つ、くじら座の一部にあたる。

六の巻 陣車の星
 劉備が三顧の礼で諸葛亮を迎える。そのアレンジの仕方も、この作品では独特。後半は、いよいよ曹操の荊州攻めが始まり、劉備が敗走。物語は赤壁の戦いへと向かう。
 本作品後半の最重要人物の一人、馬超もこの巻で登場。
 「陣車」は宿の星座の一つ、おおかみ座、てんびん座、みずへび座の境目にまたがっている。

七の巻 諸王の星
 赤壁の戦いとその前後。この小説での周瑜は「演義」と違って孔明に敵対心は抱いておらず、相互理解が見られる。その点はむしろ「レッド・クリフ」に近い。赤壁の戦いそのものは、えらくあっさりと、数ページで片づけられている。風向きが変わったことを知った途端、曹操は負けを悟り、退却を決意するのだ。
 風向きが変わるかどうかが勝敗の鍵だった。戦いの前夜の周瑜を描く文章がすべてを語っている。こんな短い文章で、どんな大作映画のスペクタクルシーンにも匹敵するくらい盛り上がるのだからすごい。

 勝てる。周瑜は思った。
 風さえ吹けば、勝てる。

 「諸王」は畢宿の星座の一つ。おうし座の一部にあたる。

八の巻 水府の星
 赤壁の戦いの後、三国(正確にはまだ三国ではなく、漢王朝内の有力軍閥だが)はそれぞれ新たな作戦を始める。周瑜が益州を目指す途上で死亡、曹操は関中に侵攻し、荊州を得た劉備は益州に攻め込む。
 「水府」は井宿の星座の一つ、オリオン座の一部にあたる。

九の巻 軍市の星
 怒濤の展開の巻。馬超と劉備の出会い。劉備の益州制圧、曹操と劉備の漢中争奪戦、劉備の漢中王即位、関羽の魏領侵攻と、呉の裏切りによる荊州喪失、そして関羽の死。
 馬超は、どんどんニヒルな一匹狼化していく。

 「どうでもいい。人と人の争いなどな。この国は乱れるだけ乱れて、滅びてしまえばいいのだ。」

 関羽の壮絶な最期は、この北方三国志の、というかあらゆる三国志小説を通じての、屈指の名場面の一つだろう。
 「軍市」は井宿の星座の一つ、おおいぬ座の一部にあたる。

十の巻 帝座の星
 天下統一を目指して走り続けてきた曹操が巻の半ばで死ぬ。この小説の曹操は、死ぬ間際まで理屈が多い。劉備が皇帝に即位し、蜀は対呉戦の開戦準備を進めるも、出陣直前、張飛が暗殺される。それでも張飛の弟子陳礼を先鋒に、蜀軍は呉が占領する荊州へ侵攻を開始する。滅びの美学がますます冴える一巻。
 「帝座」は天市垣の星座の一つ、ヘルクレス座α(ラスアルゲチ)にあたる。

十一の巻 鬼宿の星
 荊州深く攻め入った蜀軍だが、張飛軍の指揮を引き継いだ若い陳礼が陸遜の罠にはまって壊滅的敗北。張飛が生きていれば蜀は勝っていた、というのがこの小説の見方。歴史のとおり、この敗北に打ちのめされた劉備は、本巻の終わり近くでついに死亡。
 この小説の劉備は本当に英雄だった。
 一方、馬超は呉との戦いをよそに、ひっそりと劉備軍から去る。「演義」でもいつのまにか出てこなくなるのだが、この小説では、死んだことにしてわざと姿を消すのだ。その後の馬超の物語は、完全に本作のオリジナル。メインストーリーの裏で、地下水流のように続いていく。
 「鬼宿」はその名のとおり二十八宿の一つ鬼宿の筆頭の星座(各「宿」にはそれぞれの宿と同じ名称の星座がある)、かに座の一部にあたる。

十ニの巻 霹靂の星
 諸葛孔明は完璧な作戦を立てながら、必ずどこかで綻びが出て失敗する。不運ぶりがますますひどくなってくる、というか、本人に問題があるのか。
 この巻でも、長安を奇襲し、魏帝曹叡の首を狙うという乾坤一擲の作戦が、街亭で馬謖がドジを踏んで失敗する。従来の諸葛孔明のイメージからは考えられないような、大胆でダイナミックな用兵をする孔明もすごいが、そのすごさを察知して失禁してしまう司馬懿も、ある意味すごい。
 「霹靂」は、普通は雷のことだがここではもちろん星座名で、壁宿に属する。うお座の一部にあたる。

十三の巻 極北の星
 ついに最終巻。乱世の英雄たちも前の巻まででほとんど死んでしまい、諸葛亮と司馬懿が蜀と魏をほとんど一人で背負って対決する。三国志もの小説の定番どおり、諸葛亮が五丈原で死ぬところで物語は終わるが、その後に少しだけ挿入される最後のエピソードが、深い余韻を残す。この小説での馬超は、このために出てきたのだと思わせる。
 サブタイトルの星座名は、この巻だけ少しオリジナルの名称から変えられている。中国星座としての名前は「北極」。中国の星座大系で最上位に位置づけられる紫微垣(北極星を中心としたエリア)の、さらに最上位の星座。こぐま座からきりん座の一部にあたる。なお、その名前とはうらはらに、北極星は含んでない。
 最後の巻が最上位の星座で終わるというのも、意味ありげである。まさに三国志小説の極北をめざした作品だった。

文庫版 三国志完結セット 全13巻+読本

 

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2008年12月18日 (木)

文章読本さん江

文章読本さん江/斎藤美奈子(ちくま文庫,2007)
 文章読本を読んだ覚えはあまりない。
 ところが、念のため読書記録を調べてみたら、意外なことに何冊か読んでいた。
 波多野完治『新文章入門』、丸谷才一『文章読本』、井上ひさし『自家製文章読本』、橋本治『よくない文章ドク本』。
 どれもこれも全然中味を覚えてない。まあ、読んだ内容が少しでも身についていたら、このブログに書いているぐだぐだな文章も、少しはましになっていたかもしれない。

 本書は「文章読本」について書いたものだが、文章を読む上で参考になるとか、そういうものでは全然ない。古今の文章読本を材料に、遊びまくっている本である。
 だいたい、タイトルからしてふざけている。「はじめに」によれば、「このジャンルは、数ある書物のなかでも、もっとも花を贈るにふさわしい晴れの舞台だと思われます。」とのこと。つまり開店した店の前に出ている大きな花輪を、文章読本を出して晴れがましい気分でいっぱいの著者に贈ろうというのが、このタイトルの意味。著者をおちょくっているとしか思えない。
 著者がおちょくっている相手は、名だたる大家たちである。「旧御三家」、このジャンルの開祖である谷崎潤一郎(本書の表紙は谷崎の『文章読本』の表紙のパロディになっている)、三島由紀夫、清水幾太郎。「新御三家」、本多勝一、丸谷才一、井上ひさし(このうちの2冊が上の読んだ本に入っている)。
 その他、川端康成、中村真一郎、大野晋といったビッグネームから、聞いたこともない著者に至るまで、斎藤美奈子は有名無名を問わず、ツッコミを入れ、疑問を投げかけ、批評し、果ては文体模写をしてもてあそぶ。例えば旧かなづかい派の丸谷才一の文章読本を論じる一節では、いつの間にか著者の地の文まで旧かなになっている、という具合。
 そして、何十冊という文章読本をちぎっては投げちぎっては投げしながら、「文章読本」というジャンルそのものにひそむ差別や偏見や詐術や矛盾を暴き出すのだ。
 おそれを知らないというか何というか。 

 アマゾンで、『文章読本』というタイトルを検索し、売れている順に並べてみると、この本に出てくる新旧御三家がかなり上位に入っていることがわかる。2位に本多勝一、3位に谷崎潤一郎、7位に丸谷才一、8位に三島由紀夫、12位に井上ひさしの『自家製文章読本』(1位は『どんどん話すための瞬間英作文トレーニング』なので、ここでいう文章読本ではない。)。
 今の時代でも、御三家の威光は衰えてないようだ。でも、どんな人が買っているのだろう。本書を読んだ後だと、こういう本を買う人たちは何を考えているのだろうと、その動機を詮索したくなる。昔自分が読んでいたことは棚にあげて。
 「文章読本」は、役に立たない。それを教えてくれるこの本は、文章読本よりは少し役に立つかもしれない。そして間違いなく、文章読本を読むよりはおもしろいだろう。

 ちなみに著者はこの本を書くために何十冊という文章読本の類を読んだのだが(巻末の参考文献を数えると81冊あった)、十冊めまでは何を言ってるのだと「好戦的な姿勢」になるが、二十冊で「何を読んでも笑って許せる」ようになり、三十冊を超えるころには「退嬰的な気分が支配的となり」、五十冊めともなればすっかり解脱して「無の境地」に至るのだそうだ。文章読本の読み過ぎには注意した方がいいらしい。

文章読本さん江 (ちくま文庫)

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2008年12月16日 (火)

11月に読んだ本から

 またまた先月分を書くのが遅くなってしまった。他にもとりあげたい本はあるが、それを書いてるとますます遅れるので、とりあえずこの2冊だけ。まあ、一応、私の読書の2本柱である(最近だいぶ怪しいが)、歴史とSF、ということで。

長州戦争 幕府瓦解への岐路/野口武彦(中公新書,2006)
 幕府と長州との戦争は、今年の大河ドラマ『篤姫』ではごくあっさりと片づけられていたが、実はこの戦いこそが歴史の転回点だった。「長州戦争は、徳川幕府の命取りになった戦争である。」という本書の冒頭の一文が、すべてを語っている。やらなければよかった戦争を始めたばかりに、徳川幕府は崩壊してしまった。
 ところでこの戦いは、辞書や事典では「長州征伐」と呼ばれていることが多い。「第一次長州征伐」は実際の戦いには至らず長州の降伏により終結したが、ここまでは「征伐」と呼べるかもしれない。しかし第二次「征伐」は、惨憺たる敗北に終わった。「命取り」とか「やらなければよかった」と言われているのは、もちろんこの第二次の方なのである。
 幕府側が負けているのに、この戦いを「第二次長州征伐」と呼ぶのは、著者によれば「名前負け」だ。一方、山口県では今でもこの戦いを「四境戦争」と呼んでいるという。大島口、芸州口、石州口、小倉口の四つの戦線で戦いが繰り広げられたからで、戦争の実態をよく表しているし、カッコいい呼び方だが、あまりにも長州中心である。「長州戦争」とか「幕長戦争」と呼ぶ方が確かに客観的だろう。
 一大名にすぎない長州が、薩摩と密かに同盟していたとはいえ、事実上単独で、幕府・諸大名連合軍を相手に四方面での作戦を繰り広げる、というのは、戦史的にはなかなかおもしろそうな題材である。
 しかし本書は戦史ではなく、あくまでも歴史の本。「長州戦争」そのものの戦闘経過は、全体の4分の1くらいで語られるだけである。まあ、その部分だけでも充分おもしろい―特に戦国時代に勇名を馳せた井伊家や榊原家が、長州の近代的ゲリラ戦術に惨敗するあたり―が、戦史だけを求める読者にはもの足りないかもしれない。
 著者が主に語るのは政治である。長州戦争の6年前、京都朝廷と長州との関係から語り始め、禁門の変、長州攘夷戦争と、開戦までに至る長州と幕府の複雑な動きを解きほぐし、「やらなければよかった戦争」がなぜ始まってしまったか、その過程を追っていく。幕府勢力と長州との闘争を中心に見れば、複雑怪奇に見える幕末から戊辰戦争に至る動きが、不思議なほど明快に見えてくる。だから本書は、明治維新前史としても格好の読み物である。
 さらに、こんな読み方もできる。長州の毛利家は、いうまでもなく、関ヶ原の戦いで名目上とはいえ西軍の総大将だった。関ヶ原で敗れ防長二州に押し込められた毛利家が、この長州戦争に勝利することによって反幕府勢力結集の核となる。長州に呼応した薩摩(これも関ヶ原の負け組)、土佐などの有力大名が京都に攻め上って鳥羽伏見でまた勝利し、西国諸藩がなだれをうって反幕府側に寝返り(あの井伊家でさえも)、ついには明治維新が達成される。つまり、長州戦争は、260年余を経て勃発した「関ヶ原リターンマッチ」の第一幕、としても読めるということだ(本当か?)。

長州戦争―幕府瓦解への岐路 (中公新書)


楽園の日々:アーサー・C・クラークの回想/アーサー・C・クラーク;山高昭訳(ハヤカワ文庫SF,2008)
 原題は、Astounding Days : a Science Fictional Autobiography (1989)、翻訳単行本は1990。18年を経ての文庫化ということになる。文庫版発行日は6月25日。3月19日にクラークが亡くなって、追悼記念で急に文庫化の話が出たのだろう。

 同じようなことをブログで書いている人もいるが、読んでから、『楽園の日々』という邦題は、なんか違うのではないかと思ってしまった。この本はクラークの回想が3割、英米SF誌に一時代を築いた「アスタウンディング・ストーリーズ」の歴史が7割くらい。ASの歴史といっても、クラークの目から見たものだから、回想といえば回想なのだが。タイトルをなるべく忠実に訳せば『アスタウンディングとの日々』、むしろ『アーサー・C・クラーク「アスタウンディング」誌を語る』の方が内容に合っている。
 1930年、13歳のアーサー少年は、創刊されたばかりの「アスタウンディング・ストーリーズ」(長いので以下、ASと略す)と出会う。「それは、私の人生を決定的に変えた」とクラークは書いている。
 創刊当時のASは、後に「アナログ」へと変身するハードでハイレベルなSFの牙城とはほど遠い。パルプ雑誌の典型である。掲載作品の半分以上は、今では忘れられた作家の冒険SF。ただ、レイ・カミングスやマレイ・ラインスターといった、日本でも(オールド・ファンには)知られている作家の名前もある。
 初期のAS掲載作品は、どこからどう見てもB級どころかC級、今から見ればSFとしても小説としてもダメダメな作品がほとんどである。だが、ダメ作品に容赦なくツッコミを入れるクラークの文章の楽しそうなこと。夭折した天才作家ワインボウムや彗星のごとく登場した「新人作家」ハインラインの作品を讃えながらも、同時にB級もC級も、バカSFも含めたす 奇しくもクラークと同年に亡くなることになった野田昌宏が、昔のSF雑誌のしょうもない作品を嬉々として紹介していたのと同じ空気が、そこには確かに感じられる。何より、本書52ページにあるクラークの言葉が、すべてを語っている。「SFは、あまり真剣にならないときのほうが楽しいのだ。」
 歴史に埋もれた作品に注ぐ愛情は、前に紹介した野田大元帥の『科學小説神髄』と同じ。これはクラーク版「SF実験室」なのだ。
 明らかに、本書を書いている時のクラークは、正統派SFの巨匠ではなく、一人のSFファンである。というか、立派なオタクである。H・P・ラヴクラフトを評価するあたり、そのオタク感性の鋭さをうかがわせる。

 本書を読むと、クラーク自身の作品が、ハインラインやアシモフの作品のようなドラマチックなストーリー展開に乏しいにもかかわらず、SFファンを惹きつけてやまないのも、テーマの壮大さに加えて、実は作品の奥底から漂う微妙なオタクっぽさの作用だったかもしれないと、ふと思ったりもするのだ。

楽園の日々―アーサー・C・クラークの回想 (ハヤカワ文庫SF)

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2008年12月12日 (金)

気になる部分

気になる部分/岸本佐知子(白水社・U-books,2006)
 翻訳者の書くエッセイはおもしろいものが多い。
 思うにこういうことではないだろうか。
 翻訳をやってると、いやでも多方面のことを調べなければならない。原文を的確に訳そうと思ったら、どんな専門用語でも、ローカルな用語でも、作者しか知らないような言葉でも、古今東西前後左右老若男女いっさいおかまいなしに、とにかく調べざるを得ない。自分の専門分野とか日本の常識とか、言ってられないのだ。
 だから、自然と知識が増え、ものの見方も多様化する。当然ながら、バラエティに富んだ文体も身につく。おもしろいエッセイを書ける条件が、意図せずとも備わっていくというわけだ。

 ニコルソン・ベイカーの訳者として知られる岸本佐知子のこのエッセイ集も、ユニークな感性にあふれている。というか、ユニークを通り越して変である。
 最初のエッセイ、「空即是空」は、典型的な文系人間による「数学がダメだった」話で、これはまあ、よくあるパターン。が、ちょっと後の「夜枕合戦」のあたりから、にわかにそのユニークさ、というか「変」さが発揮され始める。
 「夜枕合戦」というのは、タイトルからはおよそ想像できない内容で、要は、寝つきをよくするために頭の中でしりとりをしていたという話なのだが...。しりとりのルールをめぐって、「音引き論争」とか、レフェリー制とか、審判団とか、行司差し違えとか、だんだんややこしいことになっていき、しまいには語尾の"ん"を容認するかどうかという問題で容認派と厳密派の抗争が起こり、「ついに武闘容認派が人質をとって立て籠もるという緊迫した状況にまで発展」、しりとりは当面競技が凍結されることになったという。
 次の「私の健康法」というのも、同じくらい変。寝る前に美しいお花畑などをイメージする「ポジティブ・シンキング」を実践しようとした作者が、実際に菜の花畑を思い描いてみるのだが、「黄色いじゅうたんの中ほどに、何やら黒いものが蠢いている」。ズーム・インしてみると、「なぜか河童が一匹こちらに背を向けてうずくまり、花をむしゃむしゃ食っている」。この後著者はこの目ざわりな河童を排除しようとしてひどい目にあう――。
 とにかくこんな調子の、そもそもどこまでが本当なのか(ということは、本当にエッセイなのかどうかも)よくわからない、著者の脳内世界のイメージやドラマが次々と披露される。辞書の話や書評といった翻訳家らしい文章も一部収録されているが、全体の一割もないだろう。
 読んでいるうちに、こっちの脳も変な部分が活性化して妄想がぼこぼこと湧いてきそうな気分になる。でもやたらとおもしろい。
 でもこれは、翻訳者ならではの視野の広さとか知識の豊富さとかとは、ちょっと種類の違うおもしろさだ。著者が天然に持ち合わせている変な感性や発想にかなりの部分を負っている。
 最初の文章はこう言い直した方がよさそうだ。翻訳者の書くエッセイはおもしろいものが多い。でもこのエッセイは、翻訳者だからではなく、岸本佐知子だからおもしろいのだと。

気になる部分 (白水uブックス)

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2008年12月 9日 (火)

忍城戦記

のぼうの城/和田竜(小学館,2007)
 1590年、豊臣秀吉は北条氏を攻める。秀吉率いる大軍が小田原城を包囲する一方で、配下の軍は関東各地の北条方の城を次々と落としていく。そんな中、成田氏の居城、忍城だけは、石田三成による水攻めや度重なる猛攻に耐えて最後まで陥落せず、北条氏降伏の後になって開城した。城兵たちは関東武者の最後の意地を示し、一方で、大軍を擁して忍城を攻めながら攻略に失敗した石田三成は、後々まで戦下手というレッテルを貼られることになってしまう。
 忍城攻防戦のあらましはこのようなものだが、知っている人はごくわずかだっただろう――この本が出るまでは。
 主人公はまったく無名の武将、舞台となるのは地元以外にはほとんど知られてない関東の田舎城の、歴史ファン以外にはほとんど知られてないマイナーな戦い。おまけに作者は無名の新人。
 これほど売れない要素を備えた本も珍しいかもしれない。にもかかわらず、歴史小説としては異例なほどに売れまくっている。
 「売れている本」には普段は滅多に手を出さないのだが、この本については、その理由を知りたくもあって、読んでみた。

 人気の原因のひとつは主人公だと、よく言われている。主人公、成田長親は徳の人物である。本人は何の能力もないが、まわりの人間が助けてやらなければいけない気持ちにかきたてられ、勝手に手を貸すのだ。「でくのぼう」を略して「のぼう」と呼ばれる茫洋とした好人物。三国志演義の劉備みたいな人物である。
 だけど、長親のどこにそれだけの人間的魅力があるのか、実は読んでもよくわからない。客観的に見れば、無能なくせに人一倍頑固な、空気を読めないわがままなオヤジなのだ。これだけの人物だから周りが助けたくなる、と納得するのではなく、周りがこれだけ助けたくなるのだから、それだけの人物に違いない、と思うしかない。
 まわりを固めるのは、それなりに有能で個性的な武将たちである。常識人の参謀役、正木丹波守。自称天才の知将、坂巻靱負。猛将タイプの巨漢、柴崎和泉守。そして、城主の娘で男まさりの甲斐姫。
 実はこの甲斐姫、伝承によると自ら槍を振るい城から討って出て、寄せ手を撃退したという武勇伝を持つ女戦士である。鎧に身を固め、颯爽と馬を駆る美少女――およそ小説家なら、必ず書きたくなるようなシーンだろう。しかし、作者は甲斐姫の出撃シーンをばっさりとカットしてしまっている。甲斐姫を活躍させると主役を食ってしまう。長親の影が薄くなるのを防ぐためなのだろう。
 同じように、戦いそのものも、石田三成自慢の水攻めだけに焦点を絞って、他の要素を省略している。実際には、その後も忍城攻めはしばらく続くのだが、この小説では水攻めが失敗に終わってすぐ、戦いも終わったかのように書いている。また、忍城攻めに先立つ館林城攻めも、実際には何日か包囲戦が続いたのに、包囲された途端にみっともなく降伏したことにされている。
 ストーリーのためには史実を思い切り無視してしまうこの大胆さ。極端にデフォルメされたキャラクター(長親は人徳以外はまったく無能だし、三成は調子に乗りすぎ)。既存の歴史小説家にはなかなか真似のできないところだろう。『レッド・クリフ』にも匹敵するようなアレンジぶりである。
 歴史小説本来のおもしろさとは違うが、娯楽物語の原点みたいなものは感じる。ただ、話も文章もとんでもなく荒削りだが。ところどころ変な文章もあるし。
 細かいことにはこだわらず、エンタテインメントに徹したところが、今どきの読者には受けたのかもしれない。

水の城 いまだ落城せず/風野真知雄(祥伝社文庫,2008)
 2000年に刊行された作品の新装版。大売れした『のぼうの城』と同じく、忍城攻防戦を題材としている。明らかな便乗出版。
 風野真知雄は50冊以上の著書がある時代小説のベテラン作家。新人の和田竜とはえらい違いである。
 この小説もベテランらしく、忍城を巡るドラマを手堅くまとめている。攻める側の主役は石田三成。守る側の主役は成田長親。これは『のぼうの城』と同じ。だが、両方ともそれなりに常識的なキャラクターになっている。石田三成はあくまでまじめ。『のぼうの城』みたいに舞い上がってない。成田長親も、一見昼行灯みたいだが、実は非凡な戦略の才を秘めている(ヤン・ウェンリーみたいだな)。
 他の登場人物も、当然ながら共通するところが多い。石田三成とともに忍城を攻める大谷吉継、長束正家。忍城の参謀役、正木丹波。ただ、『のぼうの城』の重要キャラクターである柴崎和泉守については、柴田和泉守というよく似た名前の人物が出てくるのだが、こっちの和泉守は、戦いが始まる前に城から逃げてしまう。坂巻靱負に至っては、それらしき名前がまったく出てこない。
 大きく扱いが違っているのは甲斐姫。この作品の甲斐姫は、伝承が語るとおり自ら出陣して奮戦する。戦いのシーンでは、完全に主役なのだ。表紙にも甲斐姫が描かれているように。で、その分、成田長親は影が薄くなっている。甲斐姫を活躍させなかった和田竜の判断は正しかったのかもしれない。
 さらに大きな違いは、この作品での忍城攻防戦は水攻めだけでは終わらないことだ。長親があらかじめ堰に細工をしていたおかげで、水攻めは失敗するのだが、攻城軍にはその後も続々と援軍がやってくる。浅野長政、木村常陸介(『太閤暗殺』の主人公の一人だな)、本多忠勝、そして真田昌幸。若き真田幸村が城に迫り、甲斐姫と対峙するシーンもある。水攻めが終わってからの見せ場もたっぷりあるのだ。
 その分、どこがクライマックスなのかよくわからなくなってしまった感はある。物語の中心にしても、後半は成田長親よりも甲斐姫の方が目立ってしまっているし、サービスが多すぎて焦点がぼけてしまった印象なのである。
 さすがにベテラン作家だけあって、『のぼうの城』と比べると文章はしっかりしているし、語り口もうまい。だが、今の時代に読者をひきつけるのは、『のぼうの城』のような、素人くさいが軽快な娯楽性に満ちた作品なのだろうな、と思う。

水の城―いまだ落城せず (祥伝社文庫)

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2008年12月 6日 (土)

鉄道用語の不思議

鉄道用語の不思議/梅原淳(朝日新書,2007)
 誰でも知ってるような言葉から、鉄道関係者(またはマニア)しか使わないような専門用語まで、鉄道に関わる様々な言葉を簡潔に解説したもの。
 第1章「よく見聞きする基本用語」では、「鉄道」、「線路と軌道」、「旅客」、「路線」、「新幹線」、「在来線」、「起点と終点」といった具合。
 「鉄道」というもっとも基本的な言葉そのものをとっても、厳密に定義しようとすれば、普通の鉄道はともかく、モノレールは、新交通システム(レールがない)は、トロリーバスは、鉄道に含まれるのか、含まれるとしたらどのような根拠によるのか、とか様々な論点が生まれてくる。あるいは「旅客」という議論の余地がなさそうな言葉にしても、運賃を支払って乗っているのが旅客だとしたら、無賃乗車している人間は旅客ではないのか、だとすれば旅客を対象とした法律は適用されないのか、とかいう議論が出てくる。
 ひとつひとつの言葉について、法律、規格、統計等々を引用しながら、そういうことを論じる。要するに非常に理屈っぽい本である。
 第2章以下、「組織に関する用語」、「車両に関する用語」、「線路や施設に関する用語」、「マスコミでよく取り上げられる用語」と続く。当然ながら、「専用鉄道」、「専用軌道」、「信号場、信号所」、「系と形」といった、いかにも専門用語風な鉄道用語も登場するが、それよりも、「車両」、「電車」、「駅」、「踏切」といった日常的な用語の説明の方がおもしろい。誰もが意味がわかっていると思っている用語が、実は意外に奥が深く、思いもよらない側面を持っていることがわかったりするからだ。例えば、「駅」と分類される施設の中に、列車が発着しない、旅客も出入りしない、レールすらない場所がある、とか。そういったトリビア的知識も豊富に含まれている。各章の末尾に、取り上げられた用語の簡潔な説明が別枠でまとめてあるのが親切。
 この本を読むと、鉄道に詳しくない人の前でなら、ちょっとだけ知ったかぶりができるかもしれない。ただ、実際はそうでもないのに濃いテツだと思われても何の得にもならないだろうが。
 「読みテツ」にとっては必読書か。

鉄道用語の不思議 (朝日新書 88)

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2008年12月 2日 (火)

大江戸番付づくし

大江戸番付づくし/石川英輔(実業之日本社,2001)
 とにかく江戸時代の人々は、何でもかんでも「番付表」にしたてあげた。これは、江戸の「見立番付」コレクション。要するにランキング集。
 どんな「番付」があるかというと、まずは現代の日本でもおなじみのものから、第一章の料理茶屋、うなぎ屋、酒など飲食関係。江戸時代から、日本人はグルメランキングが大好きだったのだ。
 職人の種類、名刀、儲かる商売。これもまあ、似たようなものがないとは言えない。儲かる商売の筆頭は、大関(この時代の相撲にはまだ横綱という位はなく、大関がトップだった)の米屋(米問屋)と両替屋。続いて関脇の唐物屋と造酒屋となっている。もっとも、番付外に書かれている「勧進元」(主催者)の呉服店と「差添人」(副主催者)の廻船屋は別格扱いだから、本当に儲かっていたのはこっちかもしれない。
 第三章のの山、橋、名所旧跡、温泉、神社仏閣、祭り、物産、これも今でもよくあるランキング。山の番付では、富士山が「勧進元」になっていて別格扱い。ところで富士山の相棒の「差添人」は、何と天保山である。天保山は大阪市内にある、「日本一低い山」。これを富士山と組ませるというのは、すごいギャグのセンスだ。番付そのものは、東の鳥海山、西の阿蘇山が大関になっている。また、主観的な格付けが多い番付の中で、神社仏閣の番付は、それぞれの寺社領の石高で並べてある。要するに寺社を財産で格付けしているわけで、実に客観的なランキングではあるが、生臭い。今の時代に全国の神社仏閣を年間収入の順に格付けなどしたら、抗議がどっと来そうだ。
 時代を感じさせるのが、第二章に出てくる「よい娘悪い娘」(これは明治時代のものだが)、「よい奉公悪い奉公」、「よい女房悪い女房」あたりか。今では作りたくても作れないランキングである。なお、「娘」や「女房」というのは、別に個人をランキングしているのではなく、性格や行動を挙げているのである。「よい娘」の大関は「針仕事の好きな娘」、「悪い娘」の大関は「親へ悪口する娘」となっている。しかしこの二つは両立することもあると思うのだが、その場合はどうなるのだろう。
 他に、ほとんど言葉遊びの「大小くらべ」、「雲泥の差があるもの」なども江戸独特のランキングか。「大」の大関は「大坂米相場」、「小」の大関は「伊勢暦の字」なのだそうだ。客観的な大小を言ってるのではなく、完全に冗談の世界だとわかる。こういうランキングの方が、この時代の人間のセンスがよくわかる。
 世の中のすべてを相撲番付に見立ててパロディ化してしまう江戸時代人の。現代人と代わらない遊びの精神を確かに感じる、楽しい本である。ただ、ところどころで石川英輔の著作につきものの江戸時代礼賛、現代社会批判が目につく。この本のテーマからいって、そんなことを書く必要はないと思うだけに、どうもその部分が鼻についてしまうのが残念だった。

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