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2008年12月16日 (火)

11月に読んだ本から

 またまた先月分を書くのが遅くなってしまった。他にもとりあげたい本はあるが、それを書いてるとますます遅れるので、とりあえずこの2冊だけ。まあ、一応、私の読書の2本柱である(最近だいぶ怪しいが)、歴史とSF、ということで。

長州戦争 幕府瓦解への岐路/野口武彦(中公新書,2006)
 幕府と長州との戦争は、今年の大河ドラマ『篤姫』ではごくあっさりと片づけられていたが、実はこの戦いこそが歴史の転回点だった。「長州戦争は、徳川幕府の命取りになった戦争である。」という本書の冒頭の一文が、すべてを語っている。やらなければよかった戦争を始めたばかりに、徳川幕府は崩壊してしまった。
 ところでこの戦いは、辞書や事典では「長州征伐」と呼ばれていることが多い。「第一次長州征伐」は実際の戦いには至らず長州の降伏により終結したが、ここまでは「征伐」と呼べるかもしれない。しかし第二次「征伐」は、惨憺たる敗北に終わった。「命取り」とか「やらなければよかった」と言われているのは、もちろんこの第二次の方なのである。
 幕府側が負けているのに、この戦いを「第二次長州征伐」と呼ぶのは、著者によれば「名前負け」だ。一方、山口県では今でもこの戦いを「四境戦争」と呼んでいるという。大島口、芸州口、石州口、小倉口の四つの戦線で戦いが繰り広げられたからで、戦争の実態をよく表しているし、カッコいい呼び方だが、あまりにも長州中心である。「長州戦争」とか「幕長戦争」と呼ぶ方が確かに客観的だろう。
 一大名にすぎない長州が、薩摩と密かに同盟していたとはいえ、事実上単独で、幕府・諸大名連合軍を相手に四方面での作戦を繰り広げる、というのは、戦史的にはなかなかおもしろそうな題材である。
 しかし本書は戦史ではなく、あくまでも歴史の本。「長州戦争」そのものの戦闘経過は、全体の4分の1くらいで語られるだけである。まあ、その部分だけでも充分おもしろい―特に戦国時代に勇名を馳せた井伊家や榊原家が、長州の近代的ゲリラ戦術に惨敗するあたり―が、戦史だけを求める読者にはもの足りないかもしれない。
 著者が主に語るのは政治である。長州戦争の6年前、京都朝廷と長州との関係から語り始め、禁門の変、長州攘夷戦争と、開戦までに至る長州と幕府の複雑な動きを解きほぐし、「やらなければよかった戦争」がなぜ始まってしまったか、その過程を追っていく。幕府勢力と長州との闘争を中心に見れば、複雑怪奇に見える幕末から戊辰戦争に至る動きが、不思議なほど明快に見えてくる。だから本書は、明治維新前史としても格好の読み物である。
 さらに、こんな読み方もできる。長州の毛利家は、いうまでもなく、関ヶ原の戦いで名目上とはいえ西軍の総大将だった。関ヶ原で敗れ防長二州に押し込められた毛利家が、この長州戦争に勝利することによって反幕府勢力結集の核となる。長州に呼応した薩摩(これも関ヶ原の負け組)、土佐などの有力大名が京都に攻め上って鳥羽伏見でまた勝利し、西国諸藩がなだれをうって反幕府側に寝返り(あの井伊家でさえも)、ついには明治維新が達成される。つまり、長州戦争は、260年余を経て勃発した「関ヶ原リターンマッチ」の第一幕、としても読めるということだ(本当か?)。

長州戦争―幕府瓦解への岐路 (中公新書)


楽園の日々:アーサー・C・クラークの回想/アーサー・C・クラーク;山高昭訳(ハヤカワ文庫SF,2008)
 原題は、Astounding Days : a Science Fictional Autobiography (1989)、翻訳単行本は1990。18年を経ての文庫化ということになる。文庫版発行日は6月25日。3月19日にクラークが亡くなって、追悼記念で急に文庫化の話が出たのだろう。

 同じようなことをブログで書いている人もいるが、読んでから、『楽園の日々』という邦題は、なんか違うのではないかと思ってしまった。この本はクラークの回想が3割、英米SF誌に一時代を築いた「アスタウンディング・ストーリーズ」の歴史が7割くらい。ASの歴史といっても、クラークの目から見たものだから、回想といえば回想なのだが。タイトルをなるべく忠実に訳せば『アスタウンディングとの日々』、むしろ『アーサー・C・クラーク「アスタウンディング」誌を語る』の方が内容に合っている。
 1930年、13歳のアーサー少年は、創刊されたばかりの「アスタウンディング・ストーリーズ」(長いので以下、ASと略す)と出会う。「それは、私の人生を決定的に変えた」とクラークは書いている。
 創刊当時のASは、後に「アナログ」へと変身するハードでハイレベルなSFの牙城とはほど遠い。パルプ雑誌の典型である。掲載作品の半分以上は、今では忘れられた作家の冒険SF。ただ、レイ・カミングスやマレイ・ラインスターといった、日本でも(オールド・ファンには)知られている作家の名前もある。
 初期のAS掲載作品は、どこからどう見てもB級どころかC級、今から見ればSFとしても小説としてもダメダメな作品がほとんどである。だが、ダメ作品に容赦なくツッコミを入れるクラークの文章の楽しそうなこと。夭折した天才作家ワインボウムや彗星のごとく登場した「新人作家」ハインラインの作品を讃えながらも、同時にB級もC級も、バカSFも含めたす 奇しくもクラークと同年に亡くなることになった野田昌宏が、昔のSF雑誌のしょうもない作品を嬉々として紹介していたのと同じ空気が、そこには確かに感じられる。何より、本書52ページにあるクラークの言葉が、すべてを語っている。「SFは、あまり真剣にならないときのほうが楽しいのだ。」
 歴史に埋もれた作品に注ぐ愛情は、前に紹介した野田大元帥の『科學小説神髄』と同じ。これはクラーク版「SF実験室」なのだ。
 明らかに、本書を書いている時のクラークは、正統派SFの巨匠ではなく、一人のSFファンである。というか、立派なオタクである。H・P・ラヴクラフトを評価するあたり、そのオタク感性の鋭さをうかがわせる。

 本書を読むと、クラーク自身の作品が、ハインラインやアシモフの作品のようなドラマチックなストーリー展開に乏しいにもかかわらず、SFファンを惹きつけてやまないのも、テーマの壮大さに加えて、実は作品の奥底から漂う微妙なオタクっぽさの作用だったかもしれないと、ふと思ったりもするのだ。

楽園の日々―アーサー・C・クラークの回想 (ハヤカワ文庫SF)

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