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2009年2月28日 (土)

詩人、本を語る 2

 前に荒川洋治の『本を読む前に』を取り上げたが(2008年11月27日)、今回はねじめ正一による書評エッセイ。

読むところ敵なし 言葉のボクシング/ねじめ正一(ハルキ文庫,1998)
  銀座と巨人をこよなく愛する詩人・作家のエッセイ集である。
 ねじめ正一といえば、『高円寺純情商店街』で直木賞を受賞し、テレビドラマ化までされたことでよく知られているが、やはり本業というべきは小説ではなく詩だろう。1997年には「詩のボクシング」の初代チャンピオンにも輝いている。その翌年に出たこの本のタイトルは、もちろん「詩のボクシング」から来ているに違いない。
 この本だが、要はコラムや書評が中心の軽いエッセイ集である。が、言葉の選び方のはしばしに詩人らしい感性が埋め込まれている。中には「中上健次に捧げる」や「美空ひばりに捧げる」みたいに詩の形式のエッセイまである。
 が、詩人が書いているから高踏的なところや抽象的なところがあるかというとそんなことはなく、その感性はあくまで日常的。高橋源一郎や長島茂雄や藤井貞和の「地に足がついてない」ところを誉めているが、本人は実に地に足がついた人のようだ。
 無論、詩人だけあって詩関係のエッセイも多く、この世界をよく知らないこともあって、なかなか新鮮だった。現代詩のおもしろさを力説する著者の言葉には、詩の世界への思い入れがこもっていて、この人はあくまで詩人が本領なのだと思わせる。
 特に、北村太郎、高橋鏡太郎(俳人)、藤井貞和(高橋源一郎の「ゴヂラ」の登場人物としてしか知らない)、山口哲夫、高岡淳四、田中庸介などの詩は実におもしろそうに見える。もっとも、詩を紹介するというのは至難の業である。この本でも、実は詩の中身はさっぱり見当がつかないので、それぞれの詩人のキャラクターの書きぶりのが、おもしろそうに見える主な原因だが。
 「ボクシング」と言うほどのインパクトは正直なところ感じられないが、頭を心地よく揺さぶられる気分にはなる。なお、巨人ファンだというところだけは残念だが、誰にも欠点の一つ二つはあるものだから仕方ない。

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2009年2月24日 (火)

石川喬司の『SFの時代』

SFの時代/石川喬司(双葉文庫,1996)
 『日本SF論争史』の中で、巽孝之が「日本初のSF批評家」と呼んだ石川喬司による、日本SF界初期の歴史を語る貴重な評論集。
 本書は最初、1977年に今は亡き奇想天外社から出版された。この文庫版は、双葉社から「日本推理作家協会賞受賞作全集」の1冊として出たもの。だから内容は1977年以前、今から30年以上前の日本SFの状況を語っているわけで、この本自体が歴史の証人である。

 内容は3部構成。第1部は日本SF作家論、第2部がSF論、そして第3部が時評。
 第1部「作家論のためのノート」で取り上げられている作家は、小松左京、星新一、筒井康隆、光瀬龍、半村良、福島正実、眉村卓、石原藤夫、広瀬正、海野十三。海野十三を除く9人は、これが書かれた時点での同時代作家―当時の日本SFを代表する作家たちなのだが、時の流れを感じさせる。何しろ、半村良や眉村卓は新人扱いだし、その半村良を含め、9人のうち5人がすでに故人なのである(もっとも、広瀬正はこの時すでに亡くなっている)。
 第2部「SF・夢の文学―初心の周辺」には、サブタイトルが示すとおり、日本にジャンルSFが成立した直後の1960年代前半に書かれた二つのSF論、「日本SF史の試み」と「戦略的SF論」、それにブラッドベリの『火星年代記』とハインラインの『宇宙の戦士』についての評論が収録されている。
 「日本SF史の試み」は、なんと古事記から始まり、「竹取物語」はもちろん、仏教経典、説話、落語、江戸随筆、明治以後は谷崎潤一郎、芥川龍之介(これはまあわかる)、横光利一、川端康成等々、ちょっとでも超現実的要素のある作品は何もかもSFに取り込もうという野心的なSF史である。別の見方をすれば、生まれたばかりの日本SFに、文学史の流れの中で何とか納まるべき場所を見つけてやろうとする涙ぐましい努力の産物とも言える。
 「戦略的SF論」の方は、私は歴史に残る傑作評論だと見ている。特に最後の方に掲げられた「SF十則」は、今でも通用する部分が多い。もっとも第四則「飛躍の次元の異なる二つ以上の設定が混在してはならない。」というのは、そんなことを言ってると今や新しい設定が生み出せないので、破られまくりだが。
 『宇宙の戦士』論は、上の『日本SF論争史』にそのまま収録されている。

 さて実は、第3部「時評―同時代の記録」こそがこの本の一番価値のある部分である―と言いたい。特に、『SFマガジン』に1963年から1977年まで連載された新刊書評「SFでてくたあ」。要するに今の『SFマガジン』に載っている「SFブックスコープ」の先祖である。もっとも、スペースの都合で内容がブツ切りの抄録になっているのは残念だが、まさに日本SFが若かった頃の、同時代の証言なのだ。
 ところでこの「SFでてくたあ」抜粋の中に、こんな一文が出てくる。

 珍しいことに(!)先月は国産SFの単行本が一冊もなかった。一種のエアポケットだろうか。(この欄がスタートした頃、こんな書き出しを使える日が来ることを、夢みたことがあったっけ) (p.476)

 最近のSFしか知らない人には、なぜ「!」がついているのか、石川喬司が何を夢みていたのか、説明が必要かもしれない。
 「SFでてくたあ」の連載が始まったのは、1963年6月号。なぜか本書には収録されてない第1回で取り上げられているのは、松本清張の雑誌連載『神と野獣の日』、『サンデー毎日』別冊のSF特集、『朝日ジャーナル』に抄訳が掲載された『五月の七日間』。当初は海外・国内の区別はされてないが、それでも取り上げるべき本がなく、全部雑誌掲載作品の紹介なのである。第2回で翻訳本が出てくるが、日本作家の本が取り上げられるのは第3回の眉村卓『燃える傾斜』が最初。とにかく最初の頃は、日本作家によるSFの本は、月1冊出ればいい方だったのである。もっとも、海外SFだって似たようなものだったが。
 それでも少しずつSFの出版も増えてきて、このコラムが「新・SFでてくたあ」と題して海外セクションと日本セクションに分離するのが1969年9月号(タイトルはその後すぐに「新」がとれて元に戻る)。石川喬司は当然のごとく日本セクションの担当になる。海外セクションの担当は福島正実。ところが分離したとはいえまだ国産SFの出版数は少なく、1969年12月号にはネタがなくて日本セクションは休載になってしまう。その次の号、1970年1月号の「SFでてくたあ」(この時はもう「新」がとれている)日本セクションの冒頭の文章が、上の引用だったのだ。
 つまり、石川喬司が「SFでてくたあ」の連載を始めた頃、日本SFが月に1冊も出ないのは珍しくもなんともなかった。それが毎月のように出版されるようになり、1冊もないことを「珍しい」と言えるようになることを、著者は夢みていたわけである。「!」は、珍しいと言えるようになったことに、自ら嬉しい驚きを感じているマークなのだ。
 ところで、『SFが読みたい!2009年版』の巻末のリストに載っている、2008年に刊行された国内作品の冊数をざっと数えてみると、380冊くらいあった。しかもこの中には、架空戦記、架空歴史小説、近未来シミュレーション小説などは基本的に含まれてない。まあ半分くらいはライトノベルが占めてるわけではあるが。とにかく、日本作家による広義のSFやファンタジーは、確実に1日1冊を上回るペースで出ていることになる。
 石川喬司が「せめて月1冊」を夢みていた頃から、日本SFはいかに遠いところに来てしまったことか。なんだか呆然とする。

SFの時代 日本推理作家協会賞受賞作全集 (36)

 

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2009年2月22日 (日)

山田風太郎の八犬伝

 本ブログ初登場、山田風太郎。山田風太郎といえば、忍法帖シリーズだが、ここではあえてそれ以外の作品から取り上げる。
 自分で言うのも変だが、このブログで取り上げる本は、どちらかといえばマイナーな、他の人があまり感想など書かないような本が多い傾向がある。それほど意図しているわけではなく、なんとなくそうなってしまってるだけだが。

八犬伝(上・下)/山田風太郎(朝日文庫, 1986)
 単行本は1983年。元は朝日新聞の連載小説で、そのせいか忍法帖シリーズほどの破天荒さはなく、山田風太郎の小説にしては穏健。
 だが、構想は凝っていて、戯作者・滝沢馬琴の生きる江戸時代の市井の世界を描く「実の世界」と、馬琴の創造する八犬伝の物語世界を描く「虚の世界」という入れ子構造からなる、メタフィクション的構造になっている。
 実は、その上にさらに、作者・山田風太郎が解説や感想を書く「作者の世界」というレベルがあって、ますますややこしくなっている。
 1990年代初めに、筒井康隆が同じ朝日新聞に『朝のガスパール』を連載し、読者まで巻き込んだメタフィクション性が話題になったが、本作は新聞連載メタフィクションの走りと言えるかもしれない。
 が、別に読む上ではそんなことを考える必要はなくて、実質的にメインになっているのは、『八犬伝』という前代未聞の大長編を書こうとする滝沢馬琴の苦闘の物語である。だから、「ところどころ『八犬伝』のダイジェストが出てくる、滝沢馬琴を主人公にした歴史小説」と考えてそう間違いではない。
 とはいえ、この作品で語られる『八犬伝』前半のストーリーダイジェスト版は、まとめ方の巧みさもあって、なかなかにおもしろい。これだけ読みやすい『八犬伝』は他にないのではないか。本筋である作者馬琴の言動、その偏屈ぶりも、『八犬伝』の物語に輪をかけるくらいおもしろいのだが。
 上巻では『八犬伝』物語も、馬琴の執筆も順調に進む。が、下巻に至って、滝沢馬琴の人生は次第に破綻していく。それでも、もはや人生そのものとなった、文字通りのライフワーク『八犬伝』だけは執念で書き続けるのだが、その八犬伝の物語世界も、年老いた馬琴の脳の衰えに従って破綻していくのだった―というのが作者の解釈。
 ただ、その証拠として、里見家のものになっているはずの館山が他の領主のものになっている矛盾をあげるのだが、八犬伝関係のウェブサイトなどを見たところ、物語後半に出てくるのは上総館山で、物語の最初に出てくる安房館山とは別だという。そういえば、本文中にも「上総の館山」と書いてある。細かいことではあるが、山田風太郎ほどの人にして、綻びを見せることもあるのか。この作品を書いた時山田風太郎は60代半ば。どこかで馬琴と自分とを重ねていたのかもしれない。
 それはともかく、八犬伝の物語そのものが、後半は作者も根をあげるほど冗長きわまりないのは事実らしい。ダイジェスト版も途中でいやになったのか、中途半端である。よほど読みにくかったのだろう。
 ともあれ、本書は「馬琴とその時代」を描く小説であるとともに、八犬伝入門でもあり、二つの物語が同時に読めてお得な作品であることには間違いない。

 なお、山田風太郎には『忍法八犬伝』という作品もあるが、本作とは全然関係ない(らしい―読んだことないので)。

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2009年2月19日 (木)

大リーグと都市の物語

大リーグと都市の物語/宇佐見陽(平凡社新書,2001)
 タイトルだけだと、内容がなんだかわかりにくいが、要するに大リーグの略史がメイン。ただし、球団の成績やプレイヤーの話はほとんど出てこない。「野球」の話を期待すると当てがはずれるだろう。
 何が書いてあるかというと、球団の移転や拡張、誘致合戦、チームとファンや地域との結びつき、マイナーリーグと地域社会、球場の名称と建築様式の変遷、といった大リーグ周辺の話題に焦点を当てている。特に、最後の「球場進化論」みたいな話はオタクっぽくてけっこうおもしろい。
 つまりは、スポーツとしての「野球」に関する本ではなく、社会現象としての「大リーグ」という仕組みについての本。スポーツ史ではなく、歴史といっても、社会史なのである。
 ところで、当たり前だが大リーグチームは通常は大都市にフランチャイズを置いている。日本のプロ野球と同じように。だが日本と違ってアメリカでは、メジャーの下に200を超えるマイナーリーグがある。基本的に3A→2A→A→ルーキーとランクが下がるにつれ、所在地も小さな町になっていく。チームのランクと所在都市のランクが連動しているのである。逆にいうと、その町に本拠を置くチームのランクが高ければ、町のランクも高く見られるということだ。
 中部の町カンザスシティ(カンザス州ではなくミズーリ州にある)は人口50万弱、大都市というほどではないのだが、大リーグチーム、ロイヤルズの本拠地がある。ロイヤルズと、NFLのチーム、チーフス(本書ではなぜか「シェフス」と書かれている)があることが、カンザスシティの「格」を高くしているわけで、本書の98ページには、「この二つのチームがなければ、われわれの街はウィチタとなんら変わらない」という地元の政治家の言葉が引用されている。ウィチタはカンザス州にあるカンザスシティのライバル都市、だそうだが、田舎の街という印象が強い。大リーグチームがなかったら、カンザスシティもただの田舎町にすぎない、ということだろう。
 一方で、けっこう規模が大きい都市なのに大リーグのチームがない、という都市もある。オハイオ州コロンバス、ルイジアナ州ニューオーリンズ、インディアナ州インディアナポリス、テキサス州サンアントニオ、などだが、こういった都市がどのように見られているのか、また市民が大リーグをどう見ているのか、興味がわくところである。残念ながら新書のページ制限のためか、本書にはそこまでは書いてない。インディアナポリスが大リーグチーム誘致に失敗した、ということはちらっと書いているが。
 また、同一都市圏にチームが複数あるのは、大都市の証明(ニューヨーク、シカゴ、ロサンジェルスなど)との記述もある。都市の格や威信と野球チームとのつながりは、日本よりはるかに強いようだ。日本では、たとえば所沢や西宮にプロ野球チームがあるからと言って、そんなんい都市自体の格が上がると見られているようには思えない。日本のチーム名に都市名があまり入らない、ということも大きいかもしれないが。
 こんなふうに、スポーツファンよりはむしろ地理ファンの好奇心や想像力を刺激する、ユニークな視点の本である。

大リーグと都市の物語 (平凡社新書)

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2009年2月17日 (火)

カンブリア爆発の謎

カンブリア爆発の謎 チェンジャンモンスターが残した進化の足跡/宇佐見義之(技術評論社・知りたい!サイエンス,2008)
 グールドの『ワンダフル・ライフ』で、カンブリア紀の「爆発的進化」は、アノマロカリスをはじめとするバージェス生物群の奇妙奇天烈な姿とともに、一躍有名になった。バージェスといえばカンブリア紀化石の代名詞のようになっていたのだが、1980年代、中国は雲南省でバージェスを上回る規模のカンブリア紀膨大な化石が発見されていた。その化石発掘現場の中心となったのが、澄江という小さな村。サブタイトルにある「チェンジャンモンスター」のチェンジャンというのが、澄江のことである。
 少し前、カンブリア紀化石から最古の「魚」が見つかったというニュースが新聞にも載ったことがあるが、それもこのチェンジャンで見つかったもの。ただし、厳密に言うとその化石、ミロクンミンギアは魚類ではなくヤツメウナギなどと同じ「無顎上綱」に属する。その話もこの本の中で紹介されている。
 というわけで、バージェスの次はチェンジャン。本書はチェンジャンで発見されたカンブリア紀の動物たちの紹介を中心に、古生代の生物進化についての新しいイメージを解説する。
 もちろん話の流れでバージェスやシリウスバセット(グリーンランド)の生物群も出てくるし、カンブリア紀の前のエディアカラ紀の生物群についても触れられているが、やはりハイライトはチェンジャンの変な生物たちだろう。
 アノマロカリスの仲間、アンプレクトベラやパラペイトイア、魚に似た謎の生物ハイコウエラ、新たな「門」に分類された(つまり、既存のどの動物にも分類できないくらい何だかわからない)ベッツリコーリアとその仲間、三葉虫に似て非なるザンダレラやシノバリウス、ボール型の甲殻類オカカリス、フォルフェシカリス、などなど。最初にバージェス生物群を見た時ほどのインパクトはないけど、やっぱり異星の生物みたいに奇妙な連中である。

 この「知りたい!サイエンス」というシリーズは、出版社のサイトによれば「雑学本より奥が深く入門書より易しい」だそうで、確かに恐ろしく読みやすい。字が大きくて、読みにくい漢字にはルビがついていて、中高生でも読めるような文章だが、内容はけっこう細かい、というかオタク的興味も満足させるようにできている。わからないことは正直に「わからない」と書いているのも好感が持てる。読者にも好評なようで、私が持っているのは2008年8月に出た3刷だが、発売4ヶ月で3刷というのは、生物関係の本にしてはずいぶん売れている方ではないだろうか。
 アマゾンのレビューを読むと、初刷にはずいぶんミスもあったようだが、3刷では訂正されている。ただ、惜しむらくは豊富に入っている化石生物たちの復元想像図が、あまり上手ではない。それと、いくら一般向けの本とはいえ、学名の原綴は入れて欲しかった。そのへんは、やはりもうちょっと専門的な本を読むしかないか。例えば、『澄江生物群化石図譜』なんて本が、この本とほぼ同時に朝倉書店から発行されている。1万円くらいするけど。

カンブリア爆発の謎 ~チェンジャンモンスターが残した進化の足跡 [知りたい!サイエンス] (知りたい!サイエンス)

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2009年2月14日 (土)

1月に読んだ本から

 1月に読んだ本から2冊。最近小説が少ないなあ。

コミックマーケット創世記/霜月たかなか(朝日新書,2008)
 今や世界有数の巨大イベントになったコミックマーケットの前史。だが、「誕生秘話」みたいなものを期待するとあてがはずれるかもしれない。実際は「日本マンガファンダム創世記」というべき内容なのだ。
 ここに書かれているのは、1960年代から70年代にかけて、伝説のマンガ雑誌『COM』をきっかけにマンガファン活動を始めるようになった若者たちの、情熱と試行錯誤の物語である。中心になっているのは、著者が米澤嘉博らとともに結成したグループ「迷宮」を巡る回想。本書の文脈では、コミックマーケットの誕生は、「迷宮」の活動の産物のひとつに過ぎない。
 初期のコミックマーケットは、SFファンにおけるSF大会のような役割をしていたらしい。小さな規模で始まったのもSF大会と同じ。が、本家SF大会は、だいたい参加者2千人くらいを上限として、それ以上拡大をやめてしまったのだが、コミケの方は、ある時点から限りなく拡大をはじめ、いつしかあの化け物のような巨大イベントになってしまったのだ。
 ただし、本書はコミックマーケットが本格的に巨大化する前、1980年頃までのことしか書いてない。著者がコミックマーケットの運営を離れた時点で潔く筆を置いている。だから「コミケ拡大の秘密」や「社会的現象としてのコミケの実態」なんてものは、本書を読んでも全然わからない。あくまで著者の個人的回想なのだ。
 そして、個人的回想であるだけに、本書は読む人間をある程度選ぶ。マンガでもSFでもアニメでもいいが、サブカルチャーにかかわるファン活動の一端に関わったことのある人間にとっては、仲間内での裏話を聞いているような気分になる内容である。が、そういった世界に縁のない健全な市民が読んだら、何を言ってるのかわからないことだらけだろう。
 著者の文章は、「迷宮」がかつて発行していた同人誌『漫画新批評大系』(事実上の最終号となった15号を、なぜか持っている)の雰囲気を思わせるもので、熱気と理屈っぽさが入り混じっていて、少しばかり生硬。なんとなく1970年代風な文章である。この本が同人誌即売会ではなく、新書として一般書店で公然と売られていることに違和感を感じてしまう。いや、別に売られていて悪いということではないのだが。

コミックマーケット創世記 (朝日新書)

事典の語る日本の歴史/大隅和雄(講談社学術文庫,2008)
 著者は日本文化史、思想史の専門家。「はしがき」によれば、「政治史には、重要な世辞的事件があり、政治制度があって、それを中心に研究を進めればよく、経済誌には、生産や流通の構造を明らかにするという目標がある」が、文化史にはそういう共通の座標になるものがないのだという。「したがって、それぞれの論者・読者の関心がまちまちのままにすれちがいの議論ばかりが続き、座標軸がないままに繰り返される論議には積み重ねというものがなさすぎるように思われる。/そのためには、一つの社会に存在する思想や文化を構造的にとらえることが必要であろう。本書は、そうした試みの一つである。」
 本書が最初に出版されたのは1988年だが、その頃になっても、日本文化史というのは共通の土台がなくて研究者同士の話がかみ合わないとか、そんな状態だったのだろうか。それはいくらなんでも学問としてどうだろうかという気がするが。
 それはともかく、この「はしがき」ではずいぶん難しいことに取り組むように見えるが、実際には、日本の類書、事典、辞書類を時代を追って取り上げ、その分類や構成の大系を調べていく、という内容。つまり、以前取り上げた『知の分類史』(2007年3月12日)と共通するテーマなのだ。
 『知の分類史』が世界史上の分類大系の変遷を追っていたのに対し、本書は日本編。「日本書紀」に始まる国史の記事を分類再編成した、平安時代の『類聚国史』に始まり、大正時代に完成した日本初の近代的百科事典『日本大百科事典』に至るまで、事典・辞書類の編纂の歴史とそこに表れる「知の体系」を語っている。取り上げられた書物には、日本最初の百科事典といわれる『倭名類聚抄』、宣教師が作った日本語-ポルトガル語辞書『日葡辞書』、江戸時代の百科事典『和漢三才図会』、蘭学者たちが作ったオランダ語辞書『波留麻和解』などがある。中にはなぜか『太平記』も取り上げられているが。(『太平記』は、中世の武士たちにとっては、武家社会にとって必要なあらゆる知識が書き込まれた、一種の教科書みたいなものだったのだそうだ。)
 例えば、全200巻からなる『類聚国史』の編成、つまり国史のあらゆる記事を分類編集した大系は、「神祇、帝王、後宮、人、歳時、音楽、賞宴、奉献、政理、刑法、職官…」となっていて、平安時代の世界観がわかってくる――といった具合である。
 『知の分類史』の時にも書いたが、私は分類大系というものが大好きなので、本書もきわめておもしろかった。惜しむらくは、薄すぎる。索引も含めて237ページしかない。本文の字も大きい。この内容なら、もっと取り上げる本を増やして、ページ数を倍くらいにしてくれてもよかった。

事典の語る日本の歴史  (講談社学術文庫 1878) (講談社学術文庫)

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2009年2月10日 (火)

都筑道夫の『袋小路』

袋小路/都筑道夫(徳間文庫,1993)
 著者あとがきでは、本書のことを「推理小説集」と書いているが、読んだ印象は全然違う。実際には、「ホラー小説集」という方がふさわしい短篇集。これが「推理小説集」だというのなら、前に紹介した『25階の窓 都筑道夫モダンホラー・コレクション』(2008年9月12日のエントリー)だってそう呼べることになるだろう。傾向としてはほとんど同じようなものなのだから。ただ、『25階の窓』がショートショートも含めて25編を収録していたのに対し、本書に収録された作品は12編で、つまり比較的長い作品が多い。
 表題作にして最初の作品、「袋小路」は、異常と正常、加害者と被害者の立場がいつの間にか逆転している奇妙な幽霊話で、解決のつかない結末が不気味。
 「うらみの滝」は、過去の殺人をめぐる一種の幽霊話だが、前の作品と同じように、途中から何が真実かわからなくなって、解明がないまま終わる。
 「動物ビスケット」は動物ビスケットとワープロを巡る怪異話。翻訳を頼まれた小説の中身がだんだん変容してくる描写が不気味。これも解決がないまま終わる。
 「悪役俳優」は映画ネタ。死んだはずの俳優が出てくる映画を見たことから、生者と死者の境界が崩れはじめるのだが、これはわりと平凡なホラー。そういえば、『25階の窓』にも、「古い映画館」という映画ホラーがあった。
 「顔の見える男」。殺人者の精神がいつのまにか憑依する。淡々とした語り口が怖いホラー。
 「暗い鏡の中に」。不倫主婦がだんだんと自分が何をやっているのか、自分が誰なのかわからなくなってくる。一種のサイコホラー。
 「留守番電話」は、普通のミステリに近いが、これも解決があいまいなまま終わる。
 「風の知らせ」は電話の会話だけで進行するミステリ。全然ホラーではない。会話の迷宮というか、こういうのを書かせるとさすがに名人芸。ラストはちょっと…という印象だが。
 「指のしずく」は、主人公の一人称でだんだんと気が狂ってくる過程を描く、これも技巧の塊みたいな作品。
 「赤い月が沈む」。主人公は本当に怪物なのか、それとも気が狂ってるのか、解明されないままに終わる、心理描写が冴えるホラー。
 「夢処方」。悪夢をそのまま小説にした、という感じか。どこから現実でどこから夢か、最初からわけがわからない。
 「口ぐせに幽霊」。死んだと言われている知人がたずねてくる、幽霊なのか、死んだというのがデマなのか。真相を確かめるため会いに行った編集者は死んでしまう。これも結局何が真実なのかわからないまま不気味な余韻を残して終わる。
 こうして見ると、ホラーとは言っても、しかも何が本当なのかわからないまま終わる不条理小説的なパターンが圧倒的に多い。主人公が作家なのもほとんどに共通している。
 そして、同じようなパターンなのに、どれもこれも読ませてしまう。テクニックは抜群、しかし情感はない。「あまり感動するような作品はないけど、どれもうまい。」という、『25階の窓』の時に書いた言葉は、この本にもそっくり当てはまる。良くも悪くも、これが都筑道夫の持ち味である。

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2009年2月 7日 (土)

黄昏のカーニバル

黄昏のカーニバル/清水義範(徳間文庫,1995)
 最近、ちくま文庫から清水義範の「清水義範パスティーシュ100」と題して自選のパスティーシュが刊行され始めた。全6冊の予定だという。パスティーシュだけでこれくらいの分量の本が出せる作家は、他にいないだろう。それくらい、清水義範はパスティーシュ、パロディ、言葉遊びの印象が強く、普通のSFやミステリに出会うと、かえって新鮮味を感じたりする。
 この本がまさにそうで、清水義範の「SF短編集」である。パスティーシュや言葉遊びではなく、普通のSF短編(SFに「普通」というのも変だが)ばかり。ちなみに、単行本は1991年発行。
 最初はいつものあの路線かと思いながら読んでいて、巻頭の「外人のハロランさん」があまりに普通に終わってしまったので、「あれ?」と思った。改めてあとがきや解説を読んで、やっとそのことがわかった。
 巻末にはなぜか「著者あとがき」と牧真司による「解説」の二つがあるが、収録作については両方とも同じようなことを言っている。著者いわく、「ノスタルジック」、「古き良き時代を思わせる」、牧真司いわく、「オーソドックスなSF」、「往年のアイデアSFが持っていた妙味」。
 要するに、よく言えば懐かしく、味わいのある、悪く言えば古くさいということだろう。実際に読んでみた感想も、それに近かった。
 今時珍しいストレートなアイデアストーリー。ただし、ハードなSFではなく、「少し不思議」に近い話。実のところ、肝心のアイデアにしても、そんなに目新しいアイデアがあるわけでもないし、また、ショートショートで十分だろ、というアイデアも目につく。が、それをある程度の長さの話にしてしまうのは、パスティーシュで鍛えた饒舌な文体のせいだろう。昔のSFにはあまりなかったこの語り口が、清水義範の真骨頂である。いわば、「なつかしのSF」の清水義範的再話か。
 ベスト3は「外人のハロランさん」、「嘉七郎の交信」、「21人いる!」(時代を感じさせる題名だ)。偶然かもしれないが、どの話もある意味、未知の存在との「コンタクト」がメインテーマになっている。何とコンタクトするのかは、ネタバレになるので書かないが。
 表題作はなつかしの核戦争もの。今や希少価値のあるテーマだが、正直、あまりおもしろくない。なぜこれを本のタイトルにしたのかよくわからない。だいたい「清水義範らしくない」タイトルで、おもしろそうに思えないのだ。
 しかし上に挙げたベスト3のうち2編はタイトルとしてはいまひとつで、「21人いる!」もあまりにあからさまなパロディ風で、内容にそぐわない。インパクトという点では「デストラーデとデスティファーノ」も考えられるが、しかしこれでは小説ではなくて野球の本みたいだ。話としては、エッセイの後ろに無理矢理ストーリーをくっつけてSFにしていて、ある意味おもしろいが。残る二つ、「唯我独尊」、「消去すべし」は、本のタイトルとしてはしっくりこない上に、両方とも内容が今ひとつ。
 といういことで、消去法で行けば、ブラッドベリもどきで内容と雰囲気があわない「黄昏のカーニバル」しかなかったのかもしれない。


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2009年2月 4日 (水)

考える胃袋

 だいぶ前になるが、小泉武夫『地球怪食紀行』を紹介した時(2007年4月19日)、小泉武夫、石毛直道、森枝卓士の3人を、「日本3大食文化人」と言えるのではないか、などと書いたことがあった。
 その後、森枝卓士は取り上げたが(『味覚の探究』2008年11月25日)、石毛直道はまだである。石毛直道の『文化麺類学ことはじめ』はぜひ紹介したい好著だが、今回はとりあえず共著から。

考える胃袋 食文化探検紀行/石毛直道、森枝卓士(集英社新書,2004)
 石毛直道と森枝卓士という「日本3大食文化人」のうち二人の対談。
 小泉武夫ほどのはじけ方はしないが、石毛直道はアカデミックに、森枝卓士はルポあるいはドキュメント・タッチで、海外の食文化を巧みに語る名人である。さぞや食の話に花が咲くだろうと思ったら、実のところ、年齢・学歴でかなりひけめのある森枝がやたら下手に出て聞き役にまわるものだから、今ひとつトークが白熱しないのだった。
 だいたい、前書きからして、森枝卓士は「石毛さんには迷惑な話だろうが、勝手に師匠だと思っている。」なんて下手に出まくっている。対談の中でも、基本的に石毛直道に質問するか、発言を補完するかという役回り。親分と子分の対談みたいな感じである。
 ちなみに、石毛直道は京大卒、国立民族学博物館名誉教授(元館長)、森枝卓士は石毛より18才年下で、国際基督教大学卒、フリーのジャーナリスト。
 だいいち、酒の話があんまり出てこずに、マジメなことばかりしゃべってる。「酒がなくなる恐怖の話」というのもあるが、10ページくらいしかない。これで小泉武夫が混じって酒の話を始めたらさぞ興奮ものの対談になっただろうに。刺激的な要素に乏しく、顔ぶれから予想するほどおもしろくはなかったのが残念。
 とはいえ、石毛直道の得意分野の麺食文化の話(第四章「文化"麺"談」)は押さえてあるし、異文化を巡る旅と食の話(第三章「旅が食を、食が旅を」)、人類学視野からの食談議(第五章「サルから文明まで」)、現代社会と食の問題(最終章「食の現状をどう見るか」)など、食文化にまつわる基礎的なテーマはひととおり押さえてあるので、入門的な本としてはいいかもしれない。

考える胃袋―食文化探検紀行 (集英社新書)

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2009年2月 1日 (日)

暗殺者教国

暗殺者教国/岩村忍(ちくま学芸文庫,2001)
 かつてペルシアの山岳地方に、マルコ・ポーロが『東方見聞録』の中で語り、「アサッシン」の語源となったことで史上に名高いイスラム異端派の集団があった。「山の老人」と呼ばれる指導者に率いられ、若者を麻薬に溺れさせて暗殺者に仕立て上げたという、暗殺者教団である。
 この宗派の名は、「イスマイリ派」と呼ばれることが多いが、この本によれば、正確には「イスマイリ」ではなく、さらにその一派の「ニザリ」という宗派だという。だからその宗派の作った国は、「ニザリ教国」ということになる。マルコ・ポーロはこの国を「異端者」という意味の「ムラヒダ」と呼んだ。本拠地の名をとって「アラムート」と呼ばれることもある。
 と、ざっと見ただけで、アサッシン、イスマイリ、ニザリ、ムラヒダ、アラムートと、何通りも呼び名がある。この呼び名の多い、謎めいて特異な「国」について書かれた、他に例を見ない著作。著者は著名な東洋史学者で、本来シルクロードやモンゴル帝国の歴史が専門。暗殺者教国について書くことになったのは、モンゴル史の研究上必要になったからだそうだ。
 全体の構成は大まかに3部に分かれていて、最初はニザリ教団の創始から、モンゴルとの戦い、滅亡までを記した歴史編。暗殺者教団と言っても、年がら年中暗殺をやっていたわけではなくて、尾ひれがついて伝説化した部分も多い。が、かなり異様な集団であったことは間違いないらしい。それは次の第2部を読んでもわかる。
 第2部は、言わば思想編。歴史編に続いて、「ニザリ思想の系譜と展開」という長い一章があって、教義の解説が延々と続くのだ。上にも書いたように、ニザリというのは、シーア派の一派イスマイリ派のさらに分派なのだが、その教義では、教団指導者、イマームを唯一絶対の指導者と仰ぎ、ムハンマドすら認めないのだという。本文にも書いてあるが、これはイスラムの根本的な否定であり、イスラムの一派ではなく、新興宗教としか思えない。なんだか、10数年前にサリン事件を起こした某教団が強大化した国のようだ。もっとも、ニザリ教国は約2世紀にわたって存続したわけで、あの教団とは実力があまりに違うが。
 最後の「ニザリ城塞の遺蹟」という章が第3部にあたる。イランの教団関係遺跡を遍歴する紀行文、つまり紀行編。
 全体的に見ると、傾向の違う文章が寄せ集められていて、なんだかまとまりのない本である。日本では類書が他にないという点では、資料的価値はあるだろう。去年紹介した宇月原晴明のファンタジー時代小説『黎明に叛くもの』(2008年9月12日のエントリー)でも、この本を参考文献の筆頭に挙げていた。

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