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2009年3月31日 (火)

東大の教室で『赤毛のアン』を読む

東大の教室で『赤毛のアン』を読む 英文学を遊ぶ9章/山本史郎(東京大学出版会,2008)
 タイトルのとおり、東大教授である著者が、1年生相手の英文学の授業で講義した内容を元にした本。モンゴメリの『赤毛のアン』やトールキンの『ホビットの冒険』など、誰でも知っている児童文学作品を入り口に、イギリス小説の面白さ(『赤毛のアン』は正確にはカナダ文学だが、同一文化圏ということなのだろうか、著者はイギリス文学として扱っている)、小説の読み解き方、さらには小説の方法論に至るまでを教えようという、なかなか野心的な授業である。だが、東大生とはいえ1年生が相手なので、けっこう高度な内容を含んでいるわりには、きわめてわかりやすい。
 テキストとして取り上げられている作品としては、上に書いた『赤毛のアン』、『ホビットの冒険』が9章のうちそれぞれ3章、2章と半分以上を占めているのだが、後半になるとオースティンの『高慢と偏見』、ディケンズの『大いなる遺産』、C・ブロンテの『ジェイン・エア』といった、有名な古典作品が出てくる。
 タイトルは、「東大」と『赤毛のアン』という一見ミスマッチな組み合わせで興味をひくが、その本質は、古典的な手法で古典的な題材を扱う文学講義なのである。その基本は「著者の意図を正確に読み取る」こと。これが簡単なようでいて難しい。著者は原文を丹念に読み解きながら、その実践を解説してみせる。
 例えば第1章では、『赤毛のアン』の冒頭のシーンを題材に、文章に秘められた作者のもくろみをどのように見抜くかという技術の基本を講義し、「過剰なるものは解釈を誘発する」という格言風の言葉でまとめる。明日の読者のために、その一、みたいな感じだ。
 続く第2章では、『ホビットの冒険』の最初の方に出てくる「押し入り強盗(burglar)」というたった一つの単語から、この表現の背後にあるイギリスの文化的伝統、物語世界の構造、文章にこめられたユーモアなど、トールキンによる仕掛けの数々を解読し、その上で、『ホビットの冒険』をディケンズの『オリヴァー・トウィスト』と結びつけてみせる。
 かと思えば第8章、第9章では、『ジェイン・エア』のクライマックスシーンを、映画化した3作品がどのように扱っているのかを手がかりに、このシーンにこめられた作者の意図、というか、それを書かざるを得なかった心理を分析したりする。
 20世紀後半以降の文芸批評では、文学作品はどのような解釈も許容する、みたいな考えが主流なのだが、著者はあくまで伝統的に、文章を精密に解読することによって作者の意図に迫ろうとするのだ。
 デッサンがあらゆる絵画の基礎であるように、こういう手法は小説の読み方の基礎なのだろう。それがわかっていても実践は難しく、ストーリーだけを追って読んだ気になるのが常なのではあるが。こういう本はもっと若い頃に読みたかった。今まで読んだ小説の印象が、少しは変わっていたかもしれない。
 小説を「深読み」する技術論と方法論を知りたい人にはおすすめである。

東大の教室で『赤毛のアン』を読む―英文学を遊ぶ9章

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2009年3月29日 (日)

<はかる>科学

<はかる>科学 計・測・量・謀……はかるをめぐる12話/阪上孝、後藤武編著(中公新書,2007)
 中部大学の中部高等学術研究所が、「はかる」をテーマにした研究会での講演を元にした論集。新書の通常のイメージからすると、少々堅い内容である。
 だいたい、この「はかる」というテーマが曲者で、サブタイトルに四つの漢字が書かれていることからもわかるように、この言葉が導き出す、おそろしく広い意味とイメージを対象にしている。だから自然科学、社会学、産業、芸術、心理学と、様々な分野の専門家が、実質的にはまったく違うことを論じているのだ。
 12人の著者が、何を「はかる」話をしているかというと―。
 第1部、「はかる尺度、単位」では、まず第1章「はかることの革命」で、社会思想史の専門家で本書の主編者である阪上孝が、フランス革命とメートル法成立の歴史、つまり最初に1メートルを「はかる」話で始める。
 第2章「キログラムの再定義」では、物理と計測技術の専門家、藤井賢一が数式をたっぷり使って、キログラムの定義を巡る最新動向を報告(よく理解できないが、なんでもプランク定数が関わっているらしい)。
 第3章「環境をはかる」では、応用化学の専門家、瀬田重敏がCO2濃度をはじめとする環境指標を「はかる」現場を語る。
 第1部の最後、第3章「アフォーダンスという単位」では、生態心理学を専門とする佐々木正人が知覚を巡る理論を紹介するが、最後で「本章では、生態心理学として、情報の理論、サーフェスのレイアウトについて説明した」と書いてあるのが理解しがたい。タイトルと違うじゃないか。そもそも、何を「はかる」話なのかさっぱりわからない、というか内容そのものがわかりにくい。
 第2部、「国土・都市をはかる」でも、「はかる」対象はさまざま。
 第5章「古代シュメールでどのように土地が測られ、穀物が量られたのか」では、古代メソポタミア史を研究する前川和也が、シュメールの農地の度量衡と大麦の播種量・収穫量を細かく分析。
 第6章「風水で国土をはかる」では、地理学者で韓国地域研究を専門とする渋谷鎮明が、朝鮮半島の古地図「大東輿地図」の表現方法と思想を解説。
 第7章「空からはかる」では、地理情報システムの専門家である渡部展也が、リモートセンシングやGPSの考古学への応用を語る。
 第8章「身体から都市へ」では、建築家後藤武が、ル・コルビュジエの提唱した「モデュロール」という人間の身体寸法を基礎とする単位について説明。
 ここまでは、それでも一応「計測」に関係しているような話が多かったが、第3部、「感性・意味をはかる」は、さらに多様化し、そもそも何かを「はかる」と言っていいのかどうかわからないケースも出てくる。
 第9章「音をはかる」は、科学技術史を専門とする橋本毅彦が、古代の音律学から現代の音響学まで、音の高さ・音色・音の大きさの計測の歴史を語る。
 第10章「"美"をはかる」は、タイトルから連想されるような美術の話ではない。音楽人類学の専門家、藤井知昭が、「音の美」に対する認知と、その文化的背景を解説するというもの。同じ「音」関係でも、技術的な話題の多かった第9章より文章そのものはとっつきやすいが、何をどのように「はかって」いるのか、よくわからない。
 第11章「罪の重さをはかる」では、とうとう文学の領域に足を踏み入れる。サブタイトルは「ダンテの『神曲』地獄篇にみる罪と罰」。西洋史学者の山田慶兒による、要はダンテの地獄の構造と、そこで裁かれている罪と罰との説明。罪を「はかる」といえばそうなのかもしれないが。『<はかる>科学』の「科学」はどこへ行ったのか。
 第12章「メタファーで世界を推しはかる」。言語学者の柳谷啓子が、メタファーで用いられる「はかる」ことに関連した言葉を取り上げる。例えば気分や感情に用いられる「上下」、「大小」を比較する言葉。あるいは、「ゴージャスさの単位」、「気前よさの単位」といった冗談の単位。第1章から見るととんでもなく遠いところに来てしまった感じだが、正直言って私のような言葉好き人間には、この章が一番面白い。
 それにしても、「はかる」という言葉だけを共通点にするにしても、範囲を広げすぎではないだろうか。結局、各章の間に共通性がほとんどなく、何がテーマなのか読めば読むほどわからなくなる。

“はかる”科学―計・測・量・謀…はかるをめぐる12話 (中公新書)

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2009年3月26日 (木)

春秋戦国激闘史

春秋戦国激闘史/来村多加史(学研M文庫,2002)
 春秋戦国時代は、通常は紀元前770年の東周王朝の開始から、紀元前221年の秦による中国の統一までを指す。春秋時代と戦国時代の境目は、紀元前403年に春秋の大国、晋が韓・魏・趙に分裂した時とされている(晋そのものは、その後も何十年か細々と続く)が、そんなに劇的な変化が起きているわけではない。約550年にわたる、長い分裂時代である。
 もっとも、この時代より以前に後の秦以後のような中央集権的国家が成立していたわけではないので、「分裂」というよりは、「未統一」の状態だったという方がいいかもしれない。
 本書は、「戦闘」に重点を置いた春秋戦国史である。ただし全期間ではなく、春秋についてはごく一部、戦国も秦の始皇帝の登場前までで終わっている。第一幕は「柏挙の戦い」をクライマックスとする呉と楚の戦い(紀元前511~506年)。最後の第二十八幕が、秦の中国統一に先立つこと37年前、秦と趙・魏・楚連合軍との間の「邯鄲の戦い」(紀元前257年)。つまり、紀元前511年から257年までの約250年間。長い春秋戦国時代の半分以下である。
 どうしてこの期間に限定されているのかよくわからないが(ページの都合もあるもしれない)、伍子胥、勾践、夫差など、日本でもよく知られている人物が登場し始めるのが紀元前510年頃からであり、一方「邯鄲の戦い」は、秦が他の諸国に最後に大敗した戦争で、それ以後は秦が強くなりすぎ、一方的な侵略ばかりになっておもしろみがない、というところだろうか。
 文章は、歴史の本にしては小説的。「暗闇遠く、左右から地鳴りのように響いてくる無気味な鼓の音に、思わず夫差は声をあげた。」(p.36)とか、「田単の放った間諜は、一呼吸おいて話を続けた。」(p.198)とか、「見てきたような描写」が多い。まあ、これは文庫の性格もあるだろう。歴史本というより、戦史本なのだ、やはり。臨場感はたっぷりとある。
 また、戦況図や作戦面の詳細な描写など、軍事的な面での情報量は多い。反面、局地的な戦場の記述に特化していて、全体的な動きが見えにくく、多数の国々が織りなすダイナミックな興亡史にはなりきってない。文庫一冊でこの二つを両立させるのは至難の業なので、これは仕方がないところか。

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2009年3月22日 (日)

終わらない悪夢

終わらない悪夢/ハーバート・ヴァン・サール編;金井美子訳(論創社・Dark Fantasy Collection 8,2008)

 「ホラー」と「怪奇小説」の違いはなんだろうか。
 思うに、怪奇小説は、ファンタジーの一種であり、「怪奇なできごと」を描くもの。普通、怪奇なできごとに直面すると人は恐怖を覚えるので、結果的にホラー小説になることが多い。だが、書き方によっては、恐怖を感じない怪奇小説というものもあり得る。
 ホラー小説は、読書が恐怖を感じるようなストーリーを語るもの。ファンタジーやSFであることも多いが、超現実的な要素を持たず、人間の異常な心理や行動を描くことで恐怖を生み出すいわゆる「サイコホラー」も含まれる。恐怖を感じないホラー小説は、失敗作である。
 「ホラー」と「怪奇小説」のどこが違うのか、なんてことを考えてしまったのは、このアンソロジーを読んだからである。読む前は、「怪奇小説」のアンソロジーだと思っていたのだ。叢書名も「ダーク・ファンタジー・コレクション」だし(上にも書いたように、怪奇小説はファンタジーの一種だと思っている)。
 ところが最初の作品、表題作でもある「終わらない悪夢」(ロマン・ガリ)を読んでみたら、超自然的な要素などない、サイコホラー、というかむしろサスペンスものだった。第二次大戦後何年も経っても、終わることのないナチスへの恐怖に取り憑かれているユダヤ人の、異常な心理を描いた作品である。
 確かに鬼気迫る部分はあるが、これが「怪奇小説」とは、どうしても思えなかった。しかし、「ホラー・アンソロジー」という本書の趣旨からははずれてない気がする。では「怪奇小説」と「ホラー」とは、重なっている部分が多いにしても、意味するところがずれているのではないか。そこで上のようなことを考えるようになったわけである。なお、「重なっている部分」は、「怪談」と呼ぶのが適当ではないかと思う。
 本書には上の表題作も含め20編が収録されているが、サイコ・ホラーと怪奇小説とに分けると、次のようになる。

 サイコ・ホラーと明らかに判断できるのは、上の「終わらない悪夢」の他、以下の作品で、全部で9編。
 「誕生パーティ」(ジョン・バーク)は子供が起こす恐怖の事件を語る。
 「許されざる者」(セプチマス・デール)は狂信と妄想が生み出す悲劇。
 「心臓移植」(ロン・ホームズ)は三角関係のもつれの果てのスプラッター劇。
 「美しい色」(ウィリアム・サンソム)は、「色」に取り憑かれて狂っていく主人公を描く、異常心理もの。
 「冷たい手を重ねて」(ジョン・D・キーフォーバー)は歪んだ愛が生み出す狂気の話。
 「私の小さなぼうや」(エイブラハム・リドリー)は、タイトルでどういう話か予想がついてしまった。
 「うなる鞭」(H・A・マンフッド)は、タイトルからは予想できない、犬のサーカスと子供の残虐性を巡る話。
 「パッツの死」(セプチマス・デール)は、死刑囚と看守との憎悪に満ちたサスペンス劇。ホラー小説というよりミステリに近いかもしれない。

 何らかの超自然的要素を含み、怪奇小説と呼べる作品は、以下の9編。
 「レンズの中の迷宮」(ベイジル・コパー)は、悪人に下された意外な形での報いを辛辣な視点で描く。
 「人形使い」(アドービ・ジェイムズ)は、人形による人形つかいへの復讐譚。
 「入院患者」(リチャード・デイヴィス)は、「美女と野獣」の話。異常心理ものに含めるべきかもしれないが、科学的にあり得ないできごとを扱っているので、怪奇小説とした。
 「悪魔の舌への帰還」(ウォルター・ウィンウォード)は、わりと古典的なゴースト・ストーリー。
 「緑の想い」(ジョン・コリア)は、創元推理文庫の『怪奇小説傑作集2』などにも収録されている、「植物怪談」の佳品。
 「暗闇に続く道」(アドービ・ジェイムズ)は、「レンズの中の迷宮」と同じく悪人がおぞましい報いを受ける、古典的な因果応報もの。
 「死の人形」(ヴィヴィアン・メイク)は、人形の呪いにまつわる話で、これまたよくあるパターン。
 「私を愛して」(M・S・ウォデル)は、正体不明の亡霊らしきものに憑かれた男の異常心理を描く、サイコ・ホラーと怪談が合体したような作品。
 「基地」(リチャード・スタップリイ)は、一見不条理な虐待の犠牲者を描く話と思わせておいて、実はSF。後半の「種明かし」部分がとってつけたようなのが、ちょっといただけない。
 怪奇小説なのかホラーなのか、微妙なのが「皮コレクター」(M・S・ウォデル)。異常心理ものにも思えるが、「主役」があまりに人間離れしすぎていて、とても現実の存在とは思えない。
 もう一つ、どっちとも言えないのが、収録作中で一番の珍品、「蠅のいない日」(ジョン・レノン)。あのビートルズのジョン・レノンが書いた作品で、怪奇小説だとかホラーだとかいう枠を跳び越えてしまったシュールな怪作である。

 というように、作品数から見れば、怪奇小説とホラーが半々くらいだが、全体的な雰囲気としては、明らかにこのアンソロジーは、ホラーがテーマである。原題はThe Sixth Pan Book of Horror Stories(1965)で、はっきりと「ホラー・ストーリー」と書いてある。怪奇小説の場合は「Ghost Stories」となっていることが多い。
 ところで、ヴァン・サール編のこのアンソロジーは25巻まで出ているが、その中からなぜこの6巻が選ばれたのかは不明。多くの和製アンソロジーにネタを提供してきたようで、初期の巻の収録作はほとんど翻訳されているからかもしれない。下のサイトが参考になる。
 http://homepage2.nifty.com/ksbstr/panbook.htm

 日本でほとんど知られてない作家が大半を占めているのも、本書の特徴。日本である程度知られている作家と言えば、まあジョン・レノンは別として、ジョン・コリアとロマン・ガリくらいではないか。
 有名な作家がごく少ない一方で、M・S・ウォデルとかアドービ・ジェイムズとか、正体不明な作家の作品が複数収録されていたりするのも妙だ。そんなに優れた作品とも思えないのに。全体的にB級テイスト漂う、あやしげなアンソロジーなのである。

終わらない悪夢 (ダーク・ファンタジー・コレクション)

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2009年3月19日 (木)

迷宮と迷路の違い

迷宮学入門/和泉雅人(講談社現代新書,2000)
 「迷宮」と「迷路」とは全く違う。

 「迷宮を支配しているのは、きわめて高度な計算と理性と秩序に他ならない」

 ―と、著者は、恐らく多くの人の思いこみを打ち砕くこんな言葉をいきなり投げかけてくる。かく言う私も本書で初めて知ったのだが。
 ギリシャの各地で「迷宮形象」を描いた遺物が見つかっている。古いものだと紀元前1200年に遡る。その図形は、「振り子状に方向転換する一本道の周回路とひとつの中心を備えた構造」で、これが迷宮の基本構造となっている。この図形と、「迷宮(ラビリンス)」という言葉そのものの起源となったミノス王の迷宮の神話が一体となり、後世にまで伝わる迷宮概念ができあがった。ちなみに「ラビリンス」という言葉の語源は、謎なのだそうだ。
 要は、「迷宮」とは、「迷路」と違って枝道や行き止まりのない一本道。ただし、一見してそうとは見えないほど複雑に曲がりくねっている。さらに、「迷宮」には中心があり、多くの場合、そこには何かがある(または、いる)。言葉だけだとなんだかわけがわからないが、文中に挿入された豊富な図版が雄弁にそんな特徴を物語ってくれる。
 その図版のほとんどが、書物や器物に描かれた「迷宮図」である。迷宮は実在の建物としてではなく、「図」の形で存在してきた。言い換えれば、人々の頭の中にしか存在しなかったのだ。
 著者が言うように、多くの人が「迷宮」と「迷路」を混同してしまっている。が、この二つは全然別のものだし、よく考えてみれば、言葉の持つイメージもずいぶんと違う。小説やドラマのタイトルに使われるのは、断然「迷宮」の方が多い。「迷路」から連想するのはパズルだが、「迷宮」から連想するのはミステリーである。あるいはこうも言える。「迷路」は人を迷わせることそのものが目的だが、「迷宮」は何かを隠すためにある。
 「迷路」とは違う、「迷宮」という言葉の持つ神秘性や観念性を、無意識のうちに人は感じ取っているのだろう。
 もっとも、「迷路」と「迷宮」が歴史上しばしば混同されてきたのも事実らしい。そもそも、神話上のミノス王の迷宮(オリジナル・ラビリンス)も、どう考えても「迷路」である。もし一本道なら、テセウスはアリアドネの糸を必要としなかったはずだからだ。
 ともあれ、ヨーロッパの文化伝統の中で、迷宮は神話的、宗教的、哲学的な意味を持つ、奥深い形象として発展してきた―というのが、著者の説明。著者の専門は「ドイツ表象文化論」なので、この当たりの記述は専門的知見が満載。非常に勉強になる。全体として大学の講義ノート風で、あまりにも「勉強」ぽくなりすぎているのが、気になる人もいるかもしれない。

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2009年3月15日 (日)

2月に読んだ本から

 また遅くなってしまったが、2月に読んだ本からとりあえず2冊。

面白い小説を見つけるために/小林信彦(光文社・知恵の森文庫,2004)
 小林信彦の自伝的小説論。1992年に新潮文庫から出たオリジナル版のタイトルは、『小説世界のロビンソン』。こっちの方が絶対いいと思うのだが、なんでこんな味気ないタイトルに変えてしまったのだろう。「知恵の森文庫」なんて雑学系の文庫に収録されたのがよくなかったのかもしれない。それにしても、なぜ光文社文庫本体でなかったのか、よくわからない。

 小林信彦が少年時代を送ったのは、太平洋戦争をはさんだ激動の時代。小さい頃の著者が親しんだのは、児童文学よりむしろ落語。その後江戸川乱歩の「少年探偵団」、疎開先で夏目漱石全集。古今東西、ジャンルを問わず読みまくった大学時代―と、今から見ればそんなに変わった読書遍歴でもないように見える。
 だが、この時代、ひとくちに「小説」と言っても、そこには「純文学」と「大衆小説」というはっきりした区分があった。この二者の厳然たる区別を無視して見境なしに読みあさるなんて読書の邪道であり、ましてや一緒くたに論じるなんて、天も恐れぬ暴挙であった―らしい。
 そんな状況の中で、小林信彦はひたすら「物語の面白さ」を求めて、純文学も大衆小説も区別なく手を伸ばし、読みあさった。それは当時においてはかなりの冒険だったのだ(ここで原題名の「ロビンソン」というのが生きてくるのだろう)。だから、本書には「フレドリック・ブラウンと上林暁をほぼ同時に読んで、いっこうに矛盾を感じないというぼくの読書法は、いやでも、<文壇的な小説概念と異なる概念を、自己の中に育>まざるを得なかったのである」というような回想が出てくる。
 今から見れば、「いっこうに矛盾を感じない」という言い方の方がよほど異様であり、なんでそんなことが矛盾なのか、と思うのだが...。その頃はそういうものだったのだろう。
 とにかく、ジャンルの別なく面白い小説を求めるという、時代を先取りした著者の読書遍歴から取り上げられるタイトルは、例えば次のようなものである。
 夏目漱石『吾輩は猫である』、横溝正史『本陣殺人事件』、太宰治『グッド・バイ』、フィールディング『ジョウゼフ・アンドルーズ道中記』、バルザック『ラブイユーズ』、白井喬二『富士に立つ影』、フレドリック・ブラウン『火星人ゴーホーム』、カート・ヴォネガット『スローターハウス5』、リチャード・ブローティガン『愛のゆくえ』、プルースト『失われた時を求めて』、谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』…。
 恐るべき守備範囲の広さである。もちろん、これらの作品の「面白さ」は、それぞれ質の違うものだが、この本を読んでいるうちに(というか読んでいる間は)、すべてが一本の筋でつながっているように思えてくるからすごいものである。きわめて個人的でありながら、読者の小説に対する見方を変えてしまいかねない。解説で風間賢二が端的に「傑作である」と断言しているのもわかる(あまり「傑作」という言葉を安売りしたくはないが)。
 でも、タイトルはやはり元のままにしてほしかった。

サイモン・アークの事件簿 1/エドワード・D・ホック;木村二郎訳(創元推理文庫,2008)
 超常探偵ものには三つのパターンがある。人間離れした探偵が超常的事件を解決するもの。普通の人間が超常的事件に挑むもの。そして、人間離れした探偵が普通の事件に当たるもの。
 この本は3番目のパターン。
 探偵役でオカルト研究家のサイモン・アークは、自称二千歳。はるか昔から、悪魔やその崇拝者たちを追っているらしい。
 まあ、自称するだけなら何万歳だと言ってもかまわないのだが、このサイモン・アーク、本当に全然年をとらないらしいのである。
 このシリーズはエドワード・D・ホックがデビュー以来書き続けているものであり(そのわりには作品数が少ないみたいだが)、各作品とも、語り手(いわゆるワトソン役だが、名前は不明)の一人称形式をとっている。で、1955年に発表された第1作「死者の村」(著者のデビュー作でもある)は、語り手とサイモン・アークとの出会いのエピソードなのだが、その時語り手はまだ若い新聞記者。その後、ほぼリアルタイムで年齢を経て行き、新聞社から出版局に転職、出世し、本書に収録された一番新しい作品、2003年の「キルトを縫わないキルター」ではすでに退職している。
 その半世紀の間、物語に登場するサイモン・アークはまったく外見に変わりがないのだ。それどころか、あるエピソードでは、20世紀初め頃に目撃された時から少しも変わってないという証言も出てくる。不死かどうかはともかく、百年くらいは外見が変わらない、人間離れした存在なのである。
 そんな不老長寿のオカルト探偵が挑むのは、一見それにふさわしい怪奇な事件。「死者の村」では村の住民全員が一夜にして自殺し、「地獄の代理人」では中世の悪魔崇拝にまつわる古文書を巡って殺人が起き、「狼男を撃った男」では狼を撃ったら人間の死体が出現し、「妖精コリヤダ」ではロシアの伝説に出てくるクリスマスの妖精が人を殺し、「奇跡の教祖」では洗車装置の中で車が運転手ごと消滅し、「キルトを縫わないキルター」では死神に扮した女性が謎の死を遂げる。
 だが、サイモン・アークは見かけによらず非常に現実的な思考をする男で、怪事件の数々を、合理的な推理により解決していくのだ。探偵役以外、本当に超常的な要素は何もなく、むしろ謎解きがされてしまえば拍子抜けするような事件が多い。「奇跡の教祖」なんて、種明かしに思わずヘナヘナとなる読者が多いことと思う。
 上にも書いたように、サイモン・アークは悪魔とその崇拝者たちとの戦いに何世紀も捧げてきたらしいのだが、収録作のどこにも、本当の悪魔教徒は出てこない。犯人はどっちかというと小悪党ばかりで、到底二千歳のオカルティストの戦いがいのある相手とは思えない。
 これではちょっともったいないのではないか。料理の仕方によってはもっと面白くなるシリーズだと思うのだが。

サイモン・アークの事件簿〈1〉 (創元推理文庫)

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2009年3月12日 (木)

地理マニアと二匹目のドジョウ

えっ?本当?!地図に隠れた日本の謎/浅井建爾(実業之日本社・JIPPI COMPACT,2008)
 前に取り上げた『日本全国「県境」の謎』(2007年12月11日のエントリー)は、ずいぶん評判がよかったようで、刷を重ねているらしく今でも本屋で見かける。で、柳の下の二匹目のドジョウを狙ったか、同じ出版社から同じようなデザインで出た本がこれ。
 が、狙いどころがまったくはずれている。『日本全国「県境」の謎』は、「県境」だけにテーマを絞って細部にこだわったからこそ、地理好きのマニア心をくすぐる本になったのだ。
 この本はどうだろう。各章の構成を見ると、「I・日本の地形と自然の不思議」は自然地形と環境、「Ⅱ・地図ではわからない日本の姿」は人口、「Ⅲ・これだけは知っておきたい日本の文化と産業」は食文化や神社仏閣などがテーマ。ここまではわりとテーマが明確だが、続く「Ⅳ・地図で見つけた意外な事実」は、島・川・湖・温泉などの自然地形と市町村の変遷をミックスしたもので、「Ⅴ・「県庁」の謎、「道州制」のゆくえ」は、主として県庁の位置にまつわるトリビアで、最後に付け足しのように道州制論が入っている。
 と、ざっと見ただけで、統一したテーマも何もない、後半は章のテーマすら統一されてない、日本地理に関する多種多様なデータの寄せ集めである。しかもⅠとⅣは微妙にテーマがダブっていたりする。これでは凡百の地理雑学本と見た目変わらない。
 もっとも、個別の項目を見れば、着眼的がユニークでおもしろいものもあるし(「国分寺の北限と南限」とか、「横浜も神戸も2国の合体都市だった」とか、「市から町に降格した都市」とか...いかにもトリビアであるが)、低レベルの雑学本にあるような「雑学本を参考に雑学本を書く」というようなことはしてなくて、一応ちゃんとした情報源に当たって書いているようだし、コンビニで売っているような雑学本と同列に扱うには忍びない面もあるのだが。
 前著で見せた「ワンテーマのおもしろさ」を放棄してしまったのは、いかにも惜しいのだ。


えっ?本当?!地図に隠れた日本の謎(じっぴコンパクト) (じっぴコンパクト)

日本列島飛び地の謎/浅井建爾(廣済堂,2008)

 二匹目のドジョウを狙ってはずした『地図に隠れた日本の謎』は、やはり地理マニアへの受けがイマイチだったのだろうか。著者は『日本全国「県境」の謎』と実によく似た装幀の本を出した。しかも今度は出版社が違う。なのに、帯には「ベストセラー『日本全国「県境」の謎』の著者によるおもしろ地図雑学決定版!」と、よその出版社のタイトルを引き合いに出して惹句が書いてある。出版社を変えて、今度こそ2匹目のドジョウを狙いますよ、と宣言しているわけだ。
 それはともかく、著者自身、『地図に隠れた日本の謎』は失敗だったと認識しているのか、再びワンテーマ本に戻った。今度は「飛び地」。いかにも地理マニアが飛びつきそうなテーマだ。「県境」といい「飛び地」といい、「境界線」にまつわる知識が著者はよほど得意らしい。
 構成は、「第1章・飛び地って何?」(飛び地の形態さまざま)、「第2章・珍しい飛び地、不思議な飛び地」(飛び地実例集)、「第3章・飛び地が生まれたのにもわけがある」(飛び地の歴史)、「第4章・平成の大合併で生まれた飛び地」(そのまま)、「第5章・消えた飛び地、幻の飛び地」(飛び地の変遷)、「第6章・飛び地生活事情」(飛び地が生む問題の数々)、「第7章・飛び地以上、飛び地未満」(飛び地もどき、飛び地ではないが変な地域)の7章からなる。
 飛び地というだけで、よくこれだけのネタを集めたものだ。もっとも、著者の飛び地の定義はかなり広く、「これが本当に飛び地と呼べるのか」というようなものも中にはあるが。また、第7章には、地理マニアサイトの代表とも言える「世界飛び地領土研究会」からとってきたのではないかと思えるネタもある。それでも、「日本国内の飛び地」だけで本1冊書く狙いは、充分成功していると見る。
 日本にはまだまだ飛び地があるので、もう1冊書いて欲しいほどだ。地理マニアはとにかく「境界線」が好きなのである。

 ところで、本書第6章で取り上げられている、大阪府池田市と箕面市に挟まれた豊中市の飛び地、「石橋麻田町」に、実は私は一時期住んでいたことがある。本書では、「ゴミ収集は1ヶ月遅れ、水道代は2倍。あまりの仕打ちに住民の怒り爆発!」と書かれているが、それは1960年代の話で、私が住んでいた頃にはそんなことはなかった。もっとも、電話の市外局番は豊中市ではなく池田市と同じだったし、市の広報は豊中市と池田市の両方のものが配達されていたりと、今思えばやはりちょっと変なところだった。

日本列島飛び地の謎

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2009年3月 9日 (月)

壜の中の手記

 ジェラルド・カーシュの短篇集『壜の中の手記』には、2002年に晶文社から出たハードカバーと、それをベースに2006年に角川から出た文庫版がある。文庫版はハードカバーとまったく同一ではなく、一部の作品が差し替えられている。
 今回取り上げるのは、ハードカバーの方。

壜の中の手記/ジェラルド・カーシュ;西崎憲他訳(晶文社ミステリ,2002)
 「豚の島の女王」は無人島漂流もののバリエーション。ただし、無人島に漂着したのは、サーカス一座で見せ物になっていた双子の小人、怪力の巨人、そして手も足もない美女。彼らだけの王国の成立と崩壊が、「女王」の遺した手記から明らかになる。鮮烈な印象を残す異形のドラマである。
 「黄金の河」は、エル・ドラド物語の一種。酒場で出会った男が、アマゾン奥地での奇怪な風習を持つインディオたちとの経験を語る。黄金や宝石であふれた村、ナッツを使った奇妙なゲーム、「知能を持ったナッツ」との出会いと別れの物語。
 「ねじくれた骨」は、多分南米のどこかにある孤立した刑務所が舞台。脱出しても外にいるのは奇怪な風習を持つインディオで、脱出した囚人は、刑務所にいるより遙かに悲惨な目に会う。刑務所にいる方がまし―という救いのない現実を、老囚人が語る。
 「骨のない人間」は、旧・『奇想天外』で初めて翻訳された(その時の邦題は「「骨なし族」、ちなみに訳者は鏡明)、怪奇SFの佳品。アマゾン地方と思われる(また!)港町にさまよいこんできた「狂った男」が語る、ジャングルの奥に隠れ住む奇怪な種族「骨のない人間」と、その意外な正体。ラストの一文を読んで、「ウルトラセブン」のあるエピソードを思い出したのは、私だけではないだろう。
 表題作「壜の中の手記」の原題は"The Oxoxoco Bottle"。オショショコというのは架空の地名で、メキシコ奥地にある村の名前。そこは特異な形の壜の産地ということになっている。語り手がたまたま入手した「オショショコの壜」から、アンブローズ・ビアスの手記が発見される。ビアスが1914年にメキシコで行方不明になっているというのは歴史上の事実。異様な風習を持つインディオ(また!)に捕らわれたビアスの運命を、手記は示唆しているが、例によってどこまで本当なのかは、わからないままになっている。この作品の初出は1957年。宮沢賢治の「注文の多い料理店」は、この作品を先取りしていたのか?
 ブライトンの怪物」は、18世紀にブライトン沖の海で捕らえられた「怪物」の記録を巡る物語で、収録作の中では珍しく、明解な証拠の数々が動かない事実をつきつける。「怪物」の正体は、日本人には特に衝撃的なものである。1948年、原爆投下の記憶がまだ生々しい時代に書かれた作品で、冒頭の「それは人類史上最も恐ろしい出来事に関連した話なのだが」という文章に著者の思いが感じられる。「原爆文学」としても読めるSF。
 「破滅の種子」は持ち主に破滅をもたらす指輪を巡る物語。有名な寓話のヴァリエーションである。
 「カームジンと『ハムレット』の台本」は、自称天才的犯罪王、カームジンを主人公とした連作のひとつ。このエピソードでは、シェイクスピア劇の自筆脚本を使った詐欺の一幕を、犯罪王自らが自慢たっぷりに披露する。この作品と、次の「刺繍針」は、文庫版には入ってない。
 「刺繍針」は、タイトルどおり、刺繍針を凶器にした奇妙な殺人事件を巡るミステリ。
 「時計収集家の王」は、伯爵を名乗る胡散臭い男が語る、とある王国の崩壊の物語。伯爵は実は元時計職人で、彼が作った精巧な自動人形が、文字どおり一国を動かすことになるのだが...。
 「狂える花」は、一種のマッドサイエンティストもの。犯罪者の血が食虫植物を凶暴化させ、さらに植物から虫に、虫から動物や人間に、凶暴化因子が伝染していくという、とんでもない奇想が、実験に関わった科学者の手記(また!)の形で語られる。
 「死こそわが同志」は、収録作の中で一つだけ作風が違っている。この作品だけは、誰かの手記でも、語りでもなく、普通の小説の形式で書かれているのだ。果てしなく破壊兵器の開発を続ける死の商人を皮肉たっぷりに描く寓話風の物語。作中に、「あの男は自国の独裁者にとどまらず、世界に君臨したがっている」と隣国の大統領に言われるフェイエルバッハという独裁者が登場するが、これが誰をモデルにしているかは、この作品が書かれた1938年という時代背景を考えるとすぐにわかる。

 こうして見ると、大半の作品に共通する特徴があることがわかる。第一に、物語は孤島とか、ジャングルの奥とか、刑務所とか、王宮とか、日常生活から隔絶した場所で展開する。第二に、その物語は何者かの一方的な語り、あるいは手記という形で間接的に伝えられる。伝聞という枠の中に、閉ざされた舞台というもう一つの枠がはまっている。つまりは、真偽を確かめる術がない。
 これは実は、まったくホラ話のパターンなのだが、その内容は、ホラ話と呼ぶにはあまりに辛辣だったり悲惨だったり深刻だったりする。「残酷なホラ話」とでも言うべきか―、これがカーシュの持ち味なのだろう。

壜の中の手記   晶文社ミステリ

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2009年3月 6日 (金)

光瀬龍の遺作

異本西遊記/光瀬龍(ハルキノベルス,1999)
 1997年から1998年にかけて『赤旗日曜版』に連載された、光瀬龍の最後の長編である。この本が出たのは1999年2月で、その年の7月に著者は亡くなっている。生前に出た最後の本であり、遺作と言っていい。
 内容はかなり意表をついている。第1章がいきなり「傭兵隊のブルース」と、何が西遊記なのかわからないタイトルである。
 いつだかわからない時代、コータンという国の弥勒王(そういう名前なのだ)が国民の堕落を嘆き、文化の進んだ西方から「百科事典」を持ち込んで、知的レベルの向上を図ろうとする。ところが、西方世界最大の都サマルカンドに百科事典購入のため使者を派遣しようとするも、家臣の誰も行こうとしない。書記官長の蘭花の発案で民間から使節を募集しようとしたが、誰も応募しない。この「婆羅門の比丘尼」蘭花が、本作の三蔵法師役で、主人公である。三蔵法師を女性が演じるという日本の慣例にこの作品も従っているわけだ。もっとも、この場合は正真正銘の女性キャラクターなのだが。
 それはともかく、結局、応募がゼロだったため発案者の蘭花が責任をとらされてサマルカンドに派遣されることになる。この蘭花という女、秀才らしいが考えることが変である。いきなり留置場へ行き、そこにぶちこまれている連中をボディガードに雇おうとする。「ハードボイルド・ミステリーの世界では、このような場合には、どこへ行けばよいか定番がある」と本文に書いてあるが、普通そんな発想はしないと思う。
 ともあれ、留置場から引っ張り出されてきたのは、猿と河童と猪。もちろん、孫悟空、沙悟浄、猪八戒である。沙悟浄もなぜか女性。この連中を脅したりなだめたりしてサマルカンド行きを承諾させ、王から「三蔵法師」の称号をもらった蘭花は、西へ旅立つことになるのだ。
 ―という、登場人物たちの名前以外は『西遊記』と全然違う話である。蘭花と用心棒たちのキャラクターは、原作よりもむしろ、著者のスペースオペラ『宇宙航路』の主人公猫柳ヨウレと取り巻きたちに似ている。かみ合わない言葉のぶつけ合いで話が進行していくのも同じ。
 つまりは、『宇宙航路』のファンタジー版みたいな話なのだが、はっきり言って、蘭花一行がコータンを出発して以降のストーリーはないに等しい。行く手で待ち受ける妖怪変化たちとの、奇怪というより珍妙なエピソードがひたすら続く。
 それに、設定もなんだかわけがわからない。コータンもサマルカンドも、中央アジアに実在する都市名である。コータン(今はホータンと呼ばれることが多い)は中国の新疆ウイグル自治区、サマルカンドはウズベキスタンにあるが、この両都市の距離はそんなに遠いわけではない。だいたい1000キロくらい、大阪と札幌との距離くらいである。ところがこの作品の初めの方には、サマルカンドを「弥勒王の都を出でてより七千里」と書いてあるのだから、この二つを世界地図に載っている実在の都市と考えると、距離感がわけのわからないことになる。一方では実際の古代世界にまつわる事物が出てきたり、物語世界がこの世界の遠い過去であるみたいなことも書いてあって、とにかく最初から整合性をとろうとしてないとしか思えない。(まあ、もともと光瀬龍は、時々設定の整合性を無視するようなところはあるが。)
 それに、突然作者が顔を出して思い出話を語り出したりもする。小説としては、ほとんどトンデモ本の部類に属するだろう。それでいて、ところどころに顔を出す「光瀬節」はやはり昔の光瀬龍を思わせる。上に書いた冒頭の展開でもわかるように、基本的にドタバタ調の話なのだが、いきなり、こんな文章が出てきたりもするのだ。

 最初に目にした時と同じように、銀色のサイロが弱い陽射しをはね返していた。そこに悟空が映っていた。
 頭につけていたはずの、会話のための道具も消えていた。
 悟空は、自分は最初からここに立ったままだったのではないかと思った。
 アシュラと名乗った異形の存在も、あの広大な円形の部屋も、すべてが夢を見ているような気がした。

 孫悟空が「阿修羅王」と名乗る謎の存在と出会うシーンである。ストーリーも何もないようなドタバタした展開の中に、いきなり昔懐かしい「光瀬節」が出てくるのだ。この落差はすごい。
 結局、光瀬龍が何を考えてこの作品を書いたのか、よくわからない。私は初期の光瀬龍の宇宙SFには今でも愛着がある。でなければ、古本屋でいかにもわけのわからない雰囲気のこの本を見た時、買ったりしなかっただろう。著者の名前で買ったのだ。その遺作は、「怪作」としか言いいようのない作品だった。

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2009年3月 3日 (火)

言語世界地図

言語世界地図/町田健(新潮新書,2008)
 一人の著者が世界の言語について書いた新書―というと、黒田龍之介『世界の言語入門』(2008年11月16日のエントリー)と同じような趣向である。著者も同じ言語学者。元はフランス語が専門だそうだが、言語学理論に関する著作が多い。
 しかし、共通点は外枠だけ。中味は全然印象が違う。
 本書は世界の46の主な言語を取り上げ、地図つきで解説している。だからタイトルが「言語地図」。46という数は、90言語を取り上げた『世界の言語入門』のちょうど半分くらいである。
 「主な言語」というだけあって、ヨーロッパならスペイン語、イタリア語、フランス語、ドイツ語、オランダ語、ハンガリー語、ポーランド語と、各国の公用語レベルの言語をカバーしている。マイナーな言語はバスク語くらいではないか。
 アジアや中東・アフリカに行くと、ちょっとマイナー言語が増えてきて、チベット語、ウイグル語、広東語、クルド語などが出てくる。と言っても、少なくとも百万単位の話者を持つ、世界的に見れば大きな言語ばかりである。
 また、一つの記事で必ずしも一言語だけ取り上げているわけではなく、「チェコ語・スロバキア語」、「セルビア語・クロアチア語」、「スカンジナビア諸語」、「バルト三国」、「アフガニスタンの公用語」、「チュルク諸語」など、数言語をまとめて解説しているところもある。
 そのわりに大きな言語が抜けていたりして、なぜか世界最大の話者数を持つ「中国語」の項目がない。広東語や台湾語があるのに。また、タミル語は出てくるがヒンディー語やウルドゥー語は出てこない。そのかわり「インド英語」は出てくる。
 英語については、この「インド英語」以外に、本来の「英語」の項が上・下2部構成で解説されている。フランス語も、本来の記事の他に「ケベックのフランス語」が別建て。他にベルギーの言語として紹介されている「ワロン語」も実際にはフランス語だから、三つか。英語とフランス語には非常に手厚い。
 『世界の言語入門』に出てきた言語で、本書に出てこない主要な言語は、ウクライナ語、ウズベク語、カザフ語、カタルーニャ語、ブルガリア語、ベラルーシ語、ラテン語など。逆に本書に出てきて、『世界の言語入門』に出てこない言語はケチュア語(ペルーの原住民の言語、元はインカ帝国の公用語)だけ。
 もともと、本書はビジネス雑誌『フォーサイト』に連載されたコラムを再編集したものである。読者層を考えれば、あまりマイナーな言語を取り上げるより、ビジネスの現場で出会う可能性のある言語やその国についての情報を提供することを優先した、ということか。『世界の言語入門』みたいにソルブ語とかサーミ語とかフリースランド語とか、少数民族が話す消滅寸前の言語を取り上げるなど、考えられないことなのだろう。
 それにしても、いくらビジネス雑誌のコラムとはいえ、各記事の最後が判で押したような紋切り型の表現になっているのはどうかと思う。「イタリアとイタリア語の魅力が輝きを失うことはないだろう」(「イタリア語」の項)、「我が国との関係も今後深まっていくのではないだろうか」(「チェコ語・スロバキア語」の項)、「この国が一日も早く津波の被害と紛争を乗り越えることを切に願う」(「シンハラ語」の項)、「広東語には、中央に対抗する地方勢力の息吹が脈々と流れているのである」(「広東語」の項)。
 大学生のレポートじゃないんだから、もうちょっと工夫して欲しいものだ。まあ、こんな風に思うのは、ちょっと前に『世界の言語入門』で、「男子トイレだった」とか、「すてきだよね」とか、「もっと肩の力を抜いたらいかが?」とか、言語の解説書とは思えないようなまとめ方をさんざん読んでいたせいもあるだろうが。
 『世界の言語入門』は、「これをもとにレポートなど書いたら必ず失敗することは、著者自らが保証する」と、はしがきに書いてあるように、最初から実用性を無視して書かれた本であり、それに比べると、本書は確かに、手っ取り早く世界の主要言語やその国に関する知識を入手するのに役には立つかも知れない。地図もついてるし。しかし、読み物としては、『世界の言語入門』の方が絶対おもしろい。

言語世界地図 (新潮新書)

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