海底二万里
海底二万里/ジュール・ヴェルヌ;江口清訳(集英社文庫,1993)
あまりにも有名なSFの古典。
私が読んだのは、メビウスの表紙イラストが印象的な集英社文庫版だが、これはもう絶版らしい。今は創元SF文庫版か岩波文庫版で入手可能。
『海底二万里』と言えば、高性能潜水艦ノーチラス号が、世界の海を巡る冒険物語―。まあ、一般的なイメージはそういうところだろうし、基本的に間違ってはいない。
この作品、遙か昔、子供の頃に児童向けリライト版を読んだ。多分、多くの人がそうなのではないだろうか。原作の忠実な訳、つまりこの本を読んだのは、わりと最近である。イメージが全然違っていた。
登場人物は実質4人だけ。語り手である海洋学者アロナックス、その助手のコンセイユ、カナダ人の銛打ちネッド・ランド、そして、言うまでもなく、万能潜水艦ノーチラス号の謎の船長、ネモ。
この集英社版で600ページ近くある長い話だが、上の4人を除いては、「その他大勢」しか出てこない。女性の登場人物は、実質ゼロ。しかしまあ、登場人物が少なくても波乱に満ちたドラマを展開する小説というのはある。が、この作品の場合、ドラマ性はないに等しい。
アロナックスは研究のことしか頭になく、コンセイユは単なる分類オタク、自由人ネッド・ランドは自由を奪われて鬱屈し、ネモ船長は終始謎の人物としての立ち位置を崩さない。で、4人の関係は最初から最後まで変化しない。ネッドが時折思いついたように脱出計画を提案するが、それ以外には葛藤も駆け引きもないのだ。
で、登場人物の間にドラマが存在しないところに、表面だけ危機や事件が起きても、真の意味での波乱にはならないのである。原住民や人食いサメや巨大イカに襲撃されたり、氷山に閉じこめられたりするが、ちっとも緊張感が生まれない。
新しい海に移動すると、アロナックスがそこに生息する魚介類の種類を並べ立て、コンセイユは魚の名前を聞くたびにその学名を口にする。ネッド・ランドは脱出の機会を狙っては逃し、ますます苛立ちをつのらせる。ネモ船長は本人以外には理解できないような意味不明の言動を見せてアロナックスたちを煙に巻く。その繰り返し。
この作品の一番の見せ場は、ノーチラス号の性能を発揮する場面だろう。時代設定はちょうど明治維新の頃(アロナックスたちがノーチラスに拾われるのが1967年、とはっきり書いてある)。ノーチラスは氷の海を突破して南極へ到達したり、深度1万メートル以上に潜航したり、1万6千メートルの深度から水面まで4分で浮上したり(潜水病は?)、軍艦を体当たりで沈めて何のダメージも受けなかったりする。明らかなオーバーテクノロジーである。宇宙人が作ったのじゃないかと思えるほどだ(それじゃ『ナディア』だ)。
でも、やっぱりそれだけじゃドラマにならないのだ。
ヴェルヌは決してドラマ作りが下手なわけではない。それどころか、前に紹介した『アドリア海の復讐』(2008年10月28日)など、文字通り波乱万丈のドラマに満ちていて、稀代の冒険小説作家としての実力を見せつけていた。それがなぜ、この作品はこんなに平板なストーリーなのか。潜水艦というアイデアと、海底の驚異を描写することに入れ込みすぎたのか。
この作品が後世に与えた影響力は絶大である。だけど、現代のSFあるいは冒険小説のような話を期待して読むと、少々退屈かもしれない。多分、ストーリーを読むより、部分を楽しむべきなのだろう。あるいは、「世界の海洋ガイド」として読むとか...。
蛇足だが、マッコウクジラの大虐殺はどうかと思う。












