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2009年5月30日 (土)

海底二万里

海底二万里/ジュール・ヴェルヌ;江口清訳(集英社文庫,1993)
 あまりにも有名なSFの古典。
 私が読んだのは、メビウスの表紙イラストが印象的な集英社文庫版だが、これはもう絶版らしい。今は創元SF文庫版か岩波文庫版で入手可能。

 『海底二万里』と言えば、高性能潜水艦ノーチラス号が、世界の海を巡る冒険物語―。まあ、一般的なイメージはそういうところだろうし、基本的に間違ってはいない。
 この作品、遙か昔、子供の頃に児童向けリライト版を読んだ。多分、多くの人がそうなのではないだろうか。原作の忠実な訳、つまりこの本を読んだのは、わりと最近である。イメージが全然違っていた。
 登場人物は実質4人だけ。語り手である海洋学者アロナックス、その助手のコンセイユ、カナダ人の銛打ちネッド・ランド、そして、言うまでもなく、万能潜水艦ノーチラス号の謎の船長、ネモ。
 この集英社版で600ページ近くある長い話だが、上の4人を除いては、「その他大勢」しか出てこない。女性の登場人物は、実質ゼロ。しかしまあ、登場人物が少なくても波乱に満ちたドラマを展開する小説というのはある。が、この作品の場合、ドラマ性はないに等しい。
 アロナックスは研究のことしか頭になく、コンセイユは単なる分類オタク、自由人ネッド・ランドは自由を奪われて鬱屈し、ネモ船長は終始謎の人物としての立ち位置を崩さない。で、4人の関係は最初から最後まで変化しない。ネッドが時折思いついたように脱出計画を提案するが、それ以外には葛藤も駆け引きもないのだ。
 で、登場人物の間にドラマが存在しないところに、表面だけ危機や事件が起きても、真の意味での波乱にはならないのである。原住民や人食いサメや巨大イカに襲撃されたり、氷山に閉じこめられたりするが、ちっとも緊張感が生まれない。
 新しい海に移動すると、アロナックスがそこに生息する魚介類の種類を並べ立て、コンセイユは魚の名前を聞くたびにその学名を口にする。ネッド・ランドは脱出の機会を狙っては逃し、ますます苛立ちをつのらせる。ネモ船長は本人以外には理解できないような意味不明の言動を見せてアロナックスたちを煙に巻く。その繰り返し。
 この作品の一番の見せ場は、ノーチラス号の性能を発揮する場面だろう。時代設定はちょうど明治維新の頃(アロナックスたちがノーチラスに拾われるのが1967年、とはっきり書いてある)。ノーチラスは氷の海を突破して南極へ到達したり、深度1万メートル以上に潜航したり、1万6千メートルの深度から水面まで4分で浮上したり(潜水病は?)、軍艦を体当たりで沈めて何のダメージも受けなかったりする。明らかなオーバーテクノロジーである。宇宙人が作ったのじゃないかと思えるほどだ(それじゃ『ナディア』だ)。
 でも、やっぱりそれだけじゃドラマにならないのだ。
 ヴェルヌは決してドラマ作りが下手なわけではない。それどころか、前に紹介した『アドリア海の復讐』(2008年10月28日)など、文字通り波乱万丈のドラマに満ちていて、稀代の冒険小説作家としての実力を見せつけていた。それがなぜ、この作品はこんなに平板なストーリーなのか。潜水艦というアイデアと、海底の驚異を描写することに入れ込みすぎたのか。
 この作品が後世に与えた影響力は絶大である。だけど、現代のSFあるいは冒険小説のような話を期待して読むと、少々退屈かもしれない。多分、ストーリーを読むより、部分を楽しむべきなのだろう。あるいは、「世界の海洋ガイド」として読むとか...。

 蛇足だが、マッコウクジラの大虐殺はどうかと思う。

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2009年5月27日 (水)

お江戸の「食」と川柳と

お江戸の意外な「食」事情/中江克己(PHP文庫,2008)
 長ったらしいサブタイトルがついていて、「大都市江戸の四季折々の「おいしい生活」」。著者は江戸時代に関するコラムや雑学の本を何冊も書いている人。この本は江戸時代の食生活にまつわる話題を集めたものだが、単なる雑学本になってないのは、構成の巧みさと、テーマの扱い方による。
 構成だが、全体が季節ごとの5章からなっている。新年・春・夏・秋・冬。それぞれを形容する言葉がついていて、「ゆるゆるの新年」、「ふわふわの春」といった具合。夏は「さくさく」、秋は「ぱりぱり」、冬は「ふうふう」である。冬は納得がいくが、他はなんとなくわかるような、わからないような...。
 それはともかく、各章がさらに20前後の短い節に分かれ、一つの食べ物、あるいは飲み物がタイトルになっている。もちろん、それぞれの季節に対応した食べ物。江戸の食べ物に季節感は欠かせないだろう。読者は食べ物を通して、江戸の新年から年末を体験するようになっているのだ。
 ちなみに、新年最初は、「若水」。元日に最初に汲む水のことだそうだ。以下、「屠蘇」、「おせち」、「数の子」、と続く。冬の最後の方は、「蕪」、「慈姑(くわい)」、「薬食い」(肉食のこと)と来て、「鯨汁」で締めくくり。江戸では十二月の煤払いの日に鯨汁を食べる習慣があったのだそうだ。「年越し蕎麦」が最後になってないのは、蕎麦が「新蕎麦」としてすでに出てきているためか。
 しかし、ただ単にそれぞれの食べ物について知識やエピソードを並べるだけでは、普通の食べ物エッセイ集や雑学本と変わらない。この本のユニークなところは、テーマにまつわる江戸川柳を豊富に引用しているところ。というか、書き出しも川柳、要点も川柳、締めくくりも川柳と、食べ物と川柳、どっちがメインだかわからなくなるくらいである。とにかく、その視点と書きぶりが独創的なことは確か。
 どんな食べ物にも、それに対する川柳があり、江戸人たちの食に対する並々ならぬ関心が伺える。それだけの川柳を集めてきた作者も大したものである。どう考えてもタイトルは、『川柳から見る江戸の食』の方がふさわしい。

お江戸の意外な「食」事情 (PHP文庫)

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2009年5月23日 (土)

わからなくなる本

わからなくなってきました/宮沢章夫(新潮文庫,2000)
 劇作家宮沢章夫のエッセイ集。前に取り上げた同じ著者の、『牛への道』(2008年5月22日)も変なエッセイ集だったが、こちらも相当変。
 ページ数の半分を占める第1章「天の猿 地の牛」は、新潮社のPR誌『波』に1995年から1996年にかけて連載されたエッセイをまとめたもの。特に共通したテーマはない。というか、1篇ごとの内容にさえ、共通したテーマがない。
 どういうことかというと、7、8ページ程度のエッセイの中に、三つのテーマが入っている。というか、全然脈絡のないテーマに関する三つのパートに分かれている。例えば第1章冒頭のエッセイは「距離はない・手をぱたぱたやる・東京の坂道」というタイトルで、最初はパソコン通信(懐かしい言葉だ)について、次にいきなり話題が変わって夏の虫について、そして「まったくのところ、自転車はいい」と唐突に自転車の話をし始めたかと思うと、いつの間にか東京の坂の名前について語り出す。
 テーマがあちこち飛ぶばかりでなく、内容も想像を絶する方向へ飛んでいく。「胴上げ・こんなにとれました・蒲団」というエッセイの第一部では、タイトルどおり胴上げについて書いているのだが、胴上げ参加者は自分が何を上げているのかわからない、気がついたら牛を上げていたとか、天津丼を上げていたとかいうことかある―なんて書き出す。天津丼を上げていても、胴上げ参加者は気がつかないのだ。「私はそこに、胴上げが持つ不可思議さを見るのだ。」
 こういうシュールなパターンだけではなくて、わりとまともなエッセイもある。「黒人たちが踊っている・知りたがっている・家に帰るまでが遠足だ」のパート3では、「職業が寝言を規定する」ことについての話。俳優が電車の中でうたた寝をした時の寝言が、その時出演している劇によって規定される―という想定から、ギャグを連発する。それがシェイクスピアや別役実だったらかなり困ったことになるが、平田オリザなら大丈夫らしい。最後は「いまや演劇の言葉は、寝言で口にすることに耐えうるかどうかにかかっているのだ。」と、結論づける。いや、この本の中ではかなりまともなんですよ、これで。普通におかしいし。
 第2章「はじめに賢いものござる」は、あちこちの雑誌や新聞に書いた短いエッセイの寄せ集めで、それぞれ三つのテーマを持っているなどという妙な特徴は持ってない。が、やっぱり変な発想に満ちている。
 第3部「読む人は幸いだ」は、タイトルから予想されるとおり、書評集。さすがにそんなにぶっ飛んだことは書いてないが、文章のはしばしから、おかしな空気が洩れているような気もする。
 解説を書いているのは、本文中にも名前があがっている別役実。この人もわけのわからない発想をすることでは当代に並ぶ者がないほどだが、「読み終わって、「わからなくなってきました」ら、あなたは確かに読み終えたのである。」と、解説を締めくくっている。
 それは正しい。「わからなくなる」のは、著者ではなく読者の方なのだ。前に『牛への道』について、「なんだかよくわからない本」という感想を書いたが、またしても同じようなことを書かなければいけないようだ。「なんだかよくわからなくなる本」。同じことか...。

わからなくなってきました (新潮文庫)

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2009年5月20日 (水)

日本の歴代権力者

日本の歴代権力者/小谷野敦(幻冬舎新書,2008)
 「まえがき」によれば、前に中公新書から出た『歴代天皇総覧』(笠原秀彦)という本が「割に売れたようだから」、本書の企画を思い立ったとのこと。他人が他社から出した本に便乗したと、堂々と言ってるのもすごい。
 ただ、本書の意図は、ある意味理にかなっている。日本の歴史では天皇が実際に権力を握ることはほとんどなく、公家や武家が実権を握っていたので、天皇の系譜をいくら並べても、「日本の本当の権力者」はわからないのだ。
 問題は「本当の権力者」は誰なのかということで、鎌倉幕府の将軍が頼朝以外はお飾りだったのはよく知られているし、室町幕府や江戸幕府でも、名ばかりの将軍は何人もいた。明治以後の総理大臣でも、実権のない者は除外されている。こうなると、豊臣秀吉とか徳川家康とか、文句がつけようのない権力者はともかく、微妙な時期については、誰を選ぶかは著者の判断次第ということになる。
 そのへんは主観が入っていると割り切って上で、「著者が選んだ人物」を見ていくだけでも興味深い。

 古くは聖徳太子、蘇我馬子から始まり、平安時代は藤原氏の全盛、平清盛、源頼朝を経て、鎌倉時代は北条氏。もっとも、鎌倉時代も末期になると、北条氏の執権さえ名ばかりになっていて、北条家宗家のさらに執事である「内管領」が実権を握るという、「天皇-将軍-執権-得宗-内管領」の五重構造というとんでもない時期もあった。実権を握っていた内管領というと、NHK大河ドラマ『太平記』でフランキー堺が演じていた長崎円喜が代表格だろうが、彼の名はなぜか権力者一覧には入ってない。
 室町時代の足利氏将軍は15人いるが、この本で権力者に数えられているのは7人だけ。江戸幕府でも、15人の将軍のうち9人しか権力者と認められていない。そのかわり、室町時代であれば高師直、細川晴元、三好長慶ら、江戸時代なら、春日局、保科正之、柳沢吉保、田沼意次、水野忠邦、井伊直弼らが、真の権力者として名があがっている―といった具合。
 戦後の権力者については、一番議論になるところだろう。本書によれば、平成に入ってからの権力者は、宮沢、橋本、小渕、森、小泉の各首相。それに自民党幹事長時代の小沢一郎。著者によれば小沢一郎は一度天下をとっている。「その後も政局の台風の目であり続けたが、首相になる機会を悉く失ってきた。」という評は、この本が出て5ヶ月近く経つ今となっては、予言的にさえ思われる。

 このように、狙いはけっこうおもしろいが、記述はほとんど辞書風に事実を並べることに終始している。小谷野敦といえば辛口の評論で有名だが、そういう側面はほとんどない。ユニークな人名辞典だと思えばいいのかもしれない。

日本の歴代権力者 (幻冬舎新書)

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2009年5月16日 (土)

4月に読んだ本から(その2)

 前回に続いて、4月に読んだ本。今回はノンフィクションから。

日本庭園 空間の美の歴史/小野健吉(岩波新書,2009)
 造園の本ではない。日本庭園の鑑賞についての本でもないし、ガイドブックでもない。サブタイトルに「歴史」の語があるように、日本庭園の歴史の本。もちろん、日本庭園に関する本には歴史についても書いてあるのだろうが、「歴史だけ」を扱った本というのは、珍しいような気がする。まあ、庭そのものにそんなに興味があるわけではないので、そういう本でなければ読まなかっただろうが。
 なにしろ歴史の本である。最初は縄文時代から始まる。縄文時代のストーンサークル、弥生時代の「まつり」の場、古墳時代の水辺祭祀の場、と古代社会の「庭」に相当する事例を、かなり強引に集めている。日本の歴史とともに庭もあった、ということか。もちろん、この時代の「庭」は今の日本庭園とは何のかかわりもない。でも、歴史好きにとっては、古代から始まるところがいいのである。
 続く飛鳥時代、やっと庭らしい庭が誕生する。この時代の庭は新羅の影響を受けていたとか。奈良時代、現在の日本庭園につながる宮殿庭園が、唐の影響下に生まれる。以下、平安時代の貴族庭園、鎌倉時代の寺院庭園、室町時代の武家庭園、戦国時代に生まれた茶室の庭、江戸時代の大名庭園―と、各時代を代表する庭園が図版をまじえて紹介される。
 スペースの関係もあるのか、事実の説明に終始していてやや教科書的になっている感はあるが、庭についてあまりよく知らない人間こそ、知らない事実が多くて読みがいがあるのではないだろうか。庭園は歴史とともにあり、歴史は庭園とともにあった、ということがわかる。

 ところで、私は日本庭園をそんなに見ているわけではないが、どっちかというと枯山水みたいなものより、広々とした庭園の方が好みである。今まで見た中では、岡山の後楽園が一番だろうか。

日本庭園―空間の美の歴史 (岩波新書)

辞書(日本の名随筆 別巻74)/柳瀬尚紀編(作品社,1997)
 <日本の名随筆>は、本巻100冊、別巻100冊に及びエッセイ集の大シリーズ(1999年に完結)。各冊ごとにテーマがあり、本巻は一文字、別巻は二文字で表されている。本巻なら「花」、「鳥」、「猫」、「釣」…、別巻は「囲碁」、「相撲」、「珈琲」、「酒場」…といった具合。
 この『辞書』だが、編者は前に紹介した『辞書はジョイスフル』(2008年7月17日)で、辞書マニアぶりを発揮した柳瀬尚紀。まさに適役と言える。
 収録されたエッセイは38篇。著者はテーマからして当然のことながら、作家、学者、翻訳者がメイン。古いところでは幸田露伴や折口信夫から、現代に至るまで、井上ひさし、白川静、陳舜臣、大野晋、柴田武、堀田義衛、本多勝一、養老孟司、金田一春彦、紀田順一郎、澁澤龍彦など、多彩な顔ぶれが揃っている。
 辞書がテーマと言っても、内容はまったく千差万別。辞書とは何かという考察とか、辞書はどうあるべきかという理論とか、こんな辞書が欲しいという願望とか、有名人の辞書にまつわる逸話とか、辞書にまつわる思い出話とか、辞書の歴史とか、辞書についてのトリビアとか...一つのネタからよくこれだけ多種多様な文章ができるものだと感心する。それを見つけ出してくるのもすごいが。
 特に印象に残ったのは、例えば次のような作品。辞書編纂の事業をほとんど詩的とも言える文章で格調高く描いた唐木順三の「『言海』の大槻文彦」。辞書とほとんど関係ない話ながら、漢字の奇字怪字が続出しておもしろい中野美代子の「漢字の神話学」。『広辞苑』改版に秘められたドラマ―というか裏話を暴露する、武藤康史の「『広辞苑』改版の歴史」。全然使われてない言葉が辞書にまぎれこんだ経緯を推理する、紀田淳一郎の「存在しない語彙」。外国人の立場から日本語の辞書を語る、マーク・ピーターセンの「辞書と格闘する」。タイトル以外は全然辞書と関係ない、最後を飾る詩的エッセイ、石原吉郎の「辞書をひるがえす風」。なお、編者自身のエッセイは収録されてないが、巻末のあとがきは独立したエッセイとして読める。
 著者の顔ぶれも豪華だし、辞書好きの心をくすぐるエッセイ集である。やはり辞書はおもしろい。

辞書 (日本の名随筆)

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2009年5月15日 (金)

4月に読んだ本から(その1)

ぽんこつ喜劇/浅暮三文(光文社,2008)
 前に紹介したこの著者の『実験小説 ぬ』(2007年11月30日)は、異様な発想が山盛りの作品集だったが、この本もその延長線上にある。というか、『ぬ』の第一章で多用されていた、「記号または図と文章の組み合わせ」というパターンを徹底してつきつめた作品集である。
 本書は全十二話からなるが、基本的にどの話も、ページの上に何らかの図か図式化されたテキスト、あるいは両方の組み合わせが表示してあり、その下に、関連した文章という形式をきっちりと守っている(第六話「八枚の石」だけは、右と左のページという組み合わせだが)。この形式で物語を作っていくのだから、ある意味すごいといえばすごいが...。
 ページ上部にあるのがどんなものかというと、例えば、第一話「プロローグ」では、アイデアメモ、第四話「十指相関図」では、指をさまざまな形に突き出した手の写真、第五話「星を巡る言葉」では、星座のシンボル(下にかかれた文章は、その星座の運勢占い)、第七話「博士の事件簿」では、死体発見現場の床に書かれる、死体の輪郭をなぞった線、第九話「海へ」では、意味不明のメッセージ、第十二話「エピローグ」では、この本そのものの使用説明、といった具合である。
 ひとつひとつの作品を見れば、おもしろい発想もある。例えば、「星を巡る言葉」など、一見したところ単に星占いが書いてあるだけだが、読んでいくうちに、いつの間にか宇宙戦争の話が浮かび上がってくるし、「こちら相談室」(第八話)は、全体としてのストーリーはないが、人生相談の形式を使った童話や名作のパロディを限られたスペースにつめこんでいる。「海へ」の意味不明のメッセージの連続もおもしろいのだが、これは『ぬ』に収録された「喇叭」と同じパターンである。
 本そのものに仕掛けを散りばめたり、作品の外枠にSF的な設定を持ち込んだり、細工はいろいろ施しているが、結局、『ぬ』を超えてない気がする。というか、どう考えても二番煎じである。
 あまり小細工をせずに、もっと形式自体の目新しさを追求してほしかった。
 とはいえ、単体としておもしろい作品がいくつかあったのは間違いないので、ベスト3をあげるなら、異色のSF(?)「星を巡る言葉」、あまりのくだらないアイデアの連発に脱力必至の「プロローグ」、二番煎じながら不条理小説としてはよくできている「海へ」というところか。

ぽんこつ喜劇

壮心の夢/火坂雅志(文春文庫,2009)
 今年の大河ドラマ「天地人」の原作者として一躍売れっ子になった感のある火坂雅志。実際には20年以上のキャリアを持つ作家で、著書は50冊を超える。初期の作品は伝奇アクションや歴史ファンタジー的なものが多く、『日本幻想作家名鑑』(『幻想文学』別冊,1991)にも収録されているほどである。この時期の作品には『関ヶ原死霊大戦』なんて、タイトルを聞いただけで読んでみたくなるものもある。
 本書の単行本版が出たのは1999年。作家キャリアのちょうど真ん中あたりで、作風も伝奇から普通の歴史小説へと大きく変わりかけた頃である。収録作品は戦国時代から大坂の陣にかけて、織田信長や豊臣秀吉にかかわりを持った人物を主人公とする14篇。
 目次には、収録作のタイトルの他に、それぞれの中心となる人物名も書いてある。収録順に、荒木村重、赤松広通、亀井茲矩、木村吉清、蒲生氏郷、神子田正治、前野長康、木下吉隆、今井宗久、神屋宗湛、石田三成、池田輝政、菅道長、和久宗是。
 この時代の武将としてよく知られている名前は荒木村重、蒲生氏郷、石田三成、池田輝政くらいか。もっとも、蒲生氏郷の物語「花は散るものを」は、実際には氏郷の死後、西洋から来た家臣、ジョバンニ・ロルレスがその死の真相を知ろうとする話で、本人は出てこない。また、前野長康は秀吉の一番古い家臣の一人で、けっこう重要な人物なのだが、知名度は微妙。今井宗久、神屋宗湛はこの時代を代表する政商たちだが、武将ほどは知られてないだろう。他は、全然聞いたこともない名前がいくつかある。
 総じて、どちらかというとマイナーな人物が主である。だが、短篇歴史小説は、マイナーな人物を主人公にする方がむしろおもしろいことが多いので、これはむしろ歓迎すべきことなのである。
 有名無名の差はあれ、主人公たちはいずれも、熱い思いを胸に秘めている。象徴的なのが、収録作の2番目と3番目にあたる「桃源」と「おらんだ櫓」。「桃源」の主人公赤松広通は儒教の教えにのめり込み、地上に理想郷を作ろうとするが、亀井茲矩の讒言で切腹する羽目になる。次の「おらんだ櫓」の主人公は、前の作品で「邪まな男」と呼ばれたその亀井茲矩。彼は彼で、琉球を征服してその王になりたいという壮大な野心があり、その目的のためには手段を選ばず立身出世を目指す。方向の違いはあれ、夢を追う(そして挫折する)点は共通しているのだ。
 志を発揮できずに終わった男たちもいる。「幻の軍師」の神子田正治は、プライドだけは高いがついに実力を発揮できずに終わり、「抜擢」の木村吉清は、能力を超えた地位について無惨に失敗し、「冥府の花」の木下吉隆は、理不尽な運命に振り回されて無念の死を遂げる。あるいは、「天神の裔」の菅道長、「老将」の和久宗是のように、人生の最後に意地を貫く道を選んだ男たちもいる。
 その形はさまざまだが、本書のタイトルになっている「壮心の夢」という言葉に象徴されるような、乱世に生きる男たちの思いがどの作品にも描かれている。上の「桃源」と「おらんだ櫓」の例にも見えるように、前の作品で脇役で出てきた人物が次の作品の主役、というパターンもいくつかあって、配列も凝っている。そういう点も含めて、よくできた短篇集である。

壮心の夢 (文春文庫)

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2009年5月13日 (水)

制服概論

制服概論/酒井順子(文春文庫,2009)
 単行本は1999年朝日新聞社から『ど制服』のタイトルで刊行。2001年に新潮社から最初の文庫化。そして今年、文春から再度文庫版と、よく出版社の変わる本である。
 まあそれはともかく、内容は徹頭徹尾、制服礼賛のエッセイ集。何しろ、本書の冒頭からして、「私は制服が好きです。」「制服を目にすると必ず、ある種の精神の高揚を覚えるのです。」と来る。
 制服好きの著者は、高校が制服のない服装自由のところだったことを悔しがる。そして女子校生らしい格好をしたいがため、同じ制服好きの友達と他校の制服を買って街を歩いていたとか。そんなことを書いた後で一応、制服のどこがそんなにいいか、ということを理論づけようとしているのだが、要は理屈も何もなく、ただ制服が好きなだけなんだ、ということはよくわかる。
 制服好きというと、男の特性みたいに思っていたのだが、女性でこんな制服マニアがいたとは。
 そんな著者がとりあげる制服は、まず「期間限定の制服」―小中学校の制服。「働く制服」―OL、サラリーマン(要はスーツ)、スチュワーデス、看護婦、料理人、レースクイーン、等々の制服。続いては、これこそ制服の中の制服、「戦う制服」―つまりは軍服。ここで著者のボルテージも最高に上がる。この後、「スポーツと制服」(ユニフォーム)、「儀式と制服」(袈裟とか)、と続くが、もうつけ足しみたいなもの。
 この本には各制服についての(礼賛とツッコミの混じった)エッセイのほかに、「制服観光」と題して、制服の名所への訪問ルポがところどころに入っている。訪問先は、山脇学園、宝塚音楽学校、寅壱(作業着の製造会社)、そして防衛大学校と海上・陸上自衛隊の複数箇所。自衛隊関係のみ、何カ所も訪問しているところからも、著者の軍服への思い入れがよくわかる。まあ、著者も本文中で言ってるように、軍服はあらゆる制服の起源みたいなものだから、「制服界の横綱」、「制服界の首領」と呼ばれ、マニアの崇敬を集めるのも無理のないところか。
 男の制服好きというと、とかく邪念が見え隠れしておおっぴらにできない雰囲気があったりするが、この本の場合、女性の視点で書かれているからだろうか、日本人にとっての制服というものを、わりと冷静に考察することができる。というか、面倒なことを考えずに、ただ単に著者の饒舌な語りを楽しめばいいだけなんだが。

制服概論 (文春文庫)

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2009年5月10日 (日)

物語カタルーニャの歴史

物語カタルーニャの歴史    知られざる地中海帝国の興亡/田澤耕(中公新書,2000)
  これまでに何冊が紹介してきた中公新書の『物語○○の歴史』シリーズの1冊。このシリーズの他の本と違っているのは、「国」の単位ではなく、現在ではスペインの一地方にすぎないカタルーニャの歴史を扱っていること。ちなみに、このシリーズで『物語スペインの歴史』という本は別に出ている(こちらの著者は岩根圀和)。
 よく知られているように、スペインというのは、現在のスペイン国土の西側3分の2にあたるカスティーリャ王国と、地中海に面した東側3分の1のアラゴン王国との合同により成立した国だが、メインはカスティーリャであって、「スペイン語」というのも実は「カスティーリャ語」である。
 だからスペインの歴史というのは、その実「カスティーリャの歴史」になりがちなので、それに対抗するアラゴンの側の歴史に当たるのが、本書ということになるのだろう。日本でも数少ない(少なくともカスティーリャ語やカスティーリャ史の専門家よりはずっと少ないと思う)カタルーニャの専門家が書いた歴史の本である。
 厳密にいうと、カタルーニャというのは、旧アラゴン王国のさらに西側半分ほどの地域である。スペイン王国が実はカスティーリャとアラゴンからなっているように、アラゴン王国も実はアラゴンとカタルーニャからなっているわけなのだが、ややこしいからその説明は省く。とにかく、本書の内容のメインは、狭義のカタルーニャの歴史ではなく、アラゴン王国の歴史になっている。アラゴンの王たちの名前は、当然というか全部カタルーニャ語で表記してある。
 スペインの歴史というと、ペドロとかフアンとかハイメとかフェルナンドとかフェリーペといった名前がたびたび出てくるが、カタルーニャ語では、それぞれ、ペラ、ジュアン、ジャウマ、フェラン、フェリプとなる。歴史にある程度詳しい読者の方がかえって、見慣れない名前の連続にとまどうかもしれない。この名前の表記ひとつとっても、スペイン(=カスティーリャ)の歴史とは違うのだという本書の主張が見てとれる。
 アラゴン王国は決して弱体な国だったわけではない。本書の副題にもあるように、13世紀から15世紀頃にかけては、アラゴン本土の他に、サルデーニャ島、シチリア島、イタリア半島南部、アルバニア周辺のアドリア海東岸、ギリシア中部まで、地中海の西から東までを支配する「地中海帝国」を築いていたこともあるのだ。最盛期の頃のカタルーニャの歴史というのはけっこう波瀾万丈で、本書のハイライトと言っていい。特に、その軍事的主力となった無敵の傭兵集団、「アルモガバルス」のエピソードなどは想像力をかきたてられる。マイナーな国の歴史というのはなぜかおもしろい。
 本書の記述は、実質的にアラゴン王国の終わり―15世紀末のカスティーリャとアラゴン両王国の合同までで終わる。スペイン王国の一部となってからの近現代の歴史は、近代の経済的繁栄も、20世紀のスペイン内戦の悲惨も、最後の20ページほどであっさりと片づけられている。文章も、アラゴン王国の歴史を語る部分では、「物語」の書名にふさわしいドラマチックな表現が多かったのに対し、この近現代の部分はいかにも普通の歴史解説書風になっている。明らかな思い入れの差を感じる。
 だけど、一般的に「カタルーニャの歴史」でイメージするのは、オーウェルの『カタロニア賛歌』の影響もあるだろうが、そっちの近現代史の方ではないかという気がする。そういう意味での「カタルーニャの歴史」は、本書にはほとんどない。
 まあ、タイトルはどうであれ、歴史としてのおもしろさから言えば、内容が「アラゴン王国の歴史」であることに文句はないのだが。

物語カタルーニャの歴史

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2009年5月 7日 (木)

J・G・バラード追悼

 先月、J・G・バラード死去の報が流れた。
 かつて一時代を画したSF作家たちが毎年のように死んでいくので、バラードの訃報にも、ついに来るべきものが来たかとの思いがする。だが、最近亡くなった作家の中では、飛び抜けて思い入れの深い名前であることは間違いない。
 特に思い出が深いのは、創元推理文庫から発行されていた一連の作品群である。1970年前後に、9冊が矢継ぎ早に出版された。刊行ペースは以下のとおり。
 1.『沈んだ世界』1968.2.16
 2.『結晶世界』1969.1.10
 3.『時の声』1969.5.2
 4.『時間都市』1969.5.30
 5.『永遠へのパスポート』1970.7.24
 6.『燃える世界』1970.8.21
 7.『狂風世界』1970.9.11
 8.『時間の墓標』1970.10.30
 9.『溺れた巨人』1971.1.15

 1969年5月には2冊出たり、1970年には4ヶ月連続で出たり、すごいペースである。表紙がそっけない、というか手抜きなのもこの頃の創元文庫の特徴で、上の1と2と7、3と4と5、8と9は、同じイラストの色違い。今なら考えられない。どの本も、その後再刊された時に、より洗練された表紙に変わっているが、元の表紙もそれはそれで、なかなか味があった。
 とにかく、この9冊を読んで(リアルタイムで読んでいたわけではないが、他に邦訳は出てない頃だったのだ)、私のバラードに対するイメージは固定されてしまった。そのイメージというのは、「終末を描く作家」というのがひとつ。もうひとつは、「短篇の名手」。
 そう、私の見るところ、バラードはSF界でもたぐいまれな、短篇SFの作り手なのだ。バラードに匹敵するのは、日本の筒井康隆くらいではないかと思っている。
 少々遅ればせではあるが、そんなバラードの追悼記念として、なつかしの9冊の中から短篇集を取り上げてみる。

時の声/J・G・バラード;吉田誠一訳(創元推理文庫,1969)
 ベスト作品はやはり表題作。人間から睡眠を取り去る手術、生物の強制的進化の実験、終末へのカウントダウンを告げる宇宙からの通信、という3題噺みたいな―それ自体で作品がひとつ作れそうなテーマの贅沢な組み合わせだが―題材。それを抑制の効いた語り口で哲学的な作品に仕上げている。バラードの短篇の典型であり、後の「内宇宙」への志向の萌芽も見てとることができる。
 ところで、この「時の声」のアイデアの一部をなす「人間から睡眠を取り去る手術」というテーマだけで書かれた短篇も本書には収録されている。「マンホール69」がそれ。もちろんストーリーは全然違っていて、こちらはむしろオーソドックスなSF。
「重荷を負いすぎた男」は、認識力を意識的に消し去る能力を身につけた男の話。もちろん、その能力を使いすぎて最後は悲惨なことになるのだが、これはSFというより心理的ホラー小説かもしれない。
 「恐怖地帯」も、今読んだら、一種のドッペルゲンガーもののホラー小説である。
 かと思うと、本格SFもある。「音響清掃」は、余分な音をゴミとして片づける未来社会に展開する、騒音と音楽をめぐるドラマだし、「待ち受ける場所」は、短篇でありながら壮大な宇宙史のヴィジョンを見せ、「深淵」は、全ての海が干上がった地球で最後に生き残った魚と、滅び行く世界に残ることを選んだ人々を描く。
 バラエティに富んだ短篇集だが、バラードが「時の声」でかいま見せた、当時としては斬新な作風を本格的に繰り広げるのは、もっと後のことになる。

時の声 (創元SF文庫)
(これは再刊版)

時間の墓標/J・G・バラード;伊藤哲訳(創元推理文庫,1970)
 原題はTerminal Beach。つまり、原書は「ニューウェーヴ」の記念碑的作品、「終末の浜辺」を表題作にしていた。邦訳版も、再刊された時は原書に合わせて、『終末の浜辺』とタイトルを変えている。
 この本のハイライトは、やはり新版の表題作、「終末の浜辺」だろう。後のコンデンスト・ノヴェルの原型とも言うべき、象徴的なタイトルを持つ断章で構成された作品だが、今読むと、別にそう難解というほどではなく、けっこう普通である。だが、手法そのものはもはや新しさを感じさせないとしても、核実験場で繰り広げられる「核による終末」のイメージの鮮やかなモザイクは、色あせていない。
 他の作品は、オーソドックスな短篇の形式をとってはいるが、内容は『時の声』に比べると、象徴的、観念的な作品、あるいは人間の心理を正面から扱った作品が多い。死刑囚と看守とのチェスを通じてカフカ的不条理世界を描く「ゲームの終わり」。自分が住む世界のミニチュアを手にした男の物語、「ゴダード氏最後の世界」。太古の海のイメージが悪夢のように襲ってくる一種の心理的ホラー「甦る海」。精神の交換がもたらす混乱を日常的なドラマにからめた「ある日の午後、突然に」。
 もちろん、数は減ったが普通のSFも収録はされている。「識域下の人間像」はサブリミナル広告が蔓延する未来社会が舞台の社会派SF。邦訳版の最初のタイトルになった「時間の墓標」は、要は異星の墓荒らしの話。「ヴィーナスの狩人」は、言わばバラード版「未知との遭遇」。
 また、「マイナス 1」は、精神病院で失踪した患者をめぐるブラック・ユーモア小説で、バラードもこんなドタバタ作品が書けるのだと再認識させてくれる。それにしても、バラードは精神病院を舞台にした小説がうまい。

終着の浜辺 (創元SF文庫)
(これも再刊・改題版)

 『時の声』と『時間の墓標』で、それぞれの収録作のオリジナルの発表年代を見てみると、『時の声』が1957年から1961年まで、『時間の墓標』が、「ゴダード氏最後の世界」だけが1960年で、他は1963年から1964年にかけて。このわずかな間に、バラードは「内宇宙」への志向を一気に促進させていったようだ。だが、読む者を静に引き込んでいく独特のタッチや、巧妙な構成は変わらない。優れた抽象絵画が実はオーソドックスなデッサンの熟練の上に成り立っているように、前衛的に見えるバラードの作品も、小説技術の卓越した技巧をベースとしているのだ。
 名手バラードの死を惜しみたい。

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2009年5月 4日 (月)

不可能犯罪捜査課

不可能犯罪捜査課(カー短編全集1)/ディクスン・カー;宇野利泰訳(創元推理文庫,1970)
 ロンドン警視庁で「奇怪な事件を専門に処理するために設置された」D3課のマーチ大佐を探偵役とした連作6編と、それ以外の独立短編4編を収録。
 原題は"The Department of Queer Complaint"で、もちろんこのD3課のことを指しているのだが、これを直訳せずに「不可能犯罪捜査課」と訳したのは見事である。ただし、「不可能犯罪」という言葉自体は作品中に一度も出てこない。
 マーチ大佐は体重238ポンドの巨漢だが、見かけからは想像できない鋭い頭脳の持ち主で、ほとんどの場合、現場を一通り見ただけで、一件不可能な事件の真相を言い当てる。ただし、種明かしは「なんじゃそりゃ」と言いたくなる、拍子抜けするようなものが多い。
 このマーチ大佐が挑む奇怪な犯罪は次のとおり。
 「新透明人間」では、タイトルのとおり、目に見えない犯人による殺人事件、しかも犠牲者も見つからず、事件そのものが幻としか思えない。
 「空中の足跡」は、雪の中の殺人現場に残された、あるはずのないところにつけられた足跡と、あるはずのところに存在しない足跡の謎。
 「ホット・マネー」は、強盗が隠したはずだが、どうしても見つからない金のありか。正直、この作品の謎解きが一番しょうもなかった。
 「楽屋の死」は、楽屋で起きた女優殺人事件の犯人のアリバイ破り。どうでもいいが、事件自体は普通の殺人で、全然「不可能犯罪」じゃないぞ。
 「銀色のカーテン」は、犯人の姿も凶器も見えないのに、目撃者の目の前で、いつの間にかナイフで刺し殺されていた男の事件。タイトルがややネタバレ気味。
連作最後の「暁の出来事」は、これまた凶器も犯人も見えない状態で起きた殺人事件。
結局、トリックとして一番よくできているのは「空中の足跡」か。
 シリーズ外の4編についても、ざっと書いておく。
 「もう一人の絞刑吏」は、死刑執行をめぐる法の隙間をついた"完全犯罪"の顛末を描く。
 「二つの死」は、成功寸前で破綻した完全犯罪の話だが、怪奇小説風味が混じっている。
 「目に見えぬ凶器」は、イギリスのとある館を舞台に、17世紀に起きた奇妙な殺人事件を館の主人が語る。ゴシックロマン的な雰囲気はよく出ているが、凶器の正体にはあまり意外性がない。
 放送禁止用語をタイトルにした「めくら頭巾」は、これまたイギリスの古い館で起きた惨劇が題材だが、ミステリではなく完全な怪奇小説。
 結局、一番気に入ったのは、この怪奇風味あふれる「めくら頭巾」なのだった。次がミステリとはいえ謎解きタイプではない「もう一人の絞刑吏」か。謎解きをメインとするミステリは、やはり私の趣味に合わないのかもしれない。

不可能犯罪捜査課 (創元推理文庫―カー短編全集 (118‐1))

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