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2009年6月28日 (日)

「反」読書法

「反」読書法/山内昌之(講談社現代新書,1997)
 著者は近代イスラム史で有名な歴史学者。だけどこの本には、そういった専門分野に関する本はほとんど出てこない。
 そもそもタイトルの「反」はどういうつもりでつけているのか? 『「反」読書法』なら、「いかに本を読まないか」という意味になるのではないか、との疑問も湧く。
 それについて、著者はこんな風に説明している。 

それでは、かりにも読書法と銘うっているのに、この本の題名になぜ「反」をつけるのでしょうか。それは、読書とは基本的にエンターテインメントであり、その喜びをこわしかねない「読書法」や「読書術」というものを私は信じないからです。あれこれに大家や権威がこれこれの本を読むべきだとか、学生時分はこの本を読まなくてはならない、といった啓蒙主義じみた読書法ほど、あてにならないものはありません。(p.13)

 読書はエンターテインメント。こんな当たり前のことをいうために、あえて読書法の前に「反」をつけるいう発想は、そこが学者というものなのかもしれないが、私には理解しがたい。
 エンターテインメントとしての読書こそが、本当の読書ではないのか。著者のいう、「啓蒙主義じみた読書法」こそが、邪道であり、読書の精神に反するものであるように思えるのだが。それにしても、そんな偉そうに読書指導をしているような本は読んだことがないぞ。
 それに、こんなことを言いながら、第三章「本選びのヒント」や、第四章「学生時代に何を読むか」には、章題からして啓蒙主義の影がちらついているような気がする。取り上げられている本も、エンターテインメントとしての読書と言うわりには、固い本が目立つ。マクギネスの『ウィトゲンシュタイン評伝』とか、ブローデルの大著『地中海』とか、レヴィ=ストロースの名著『悲しき熱帯』とか。まあ、中には宮部みゆきの『蒲生亭事件』とか、宮城谷昌光の『孟嘗君』とかいった小説もあるが、歴史関係の本がやはり多い。
 とはいえ、歴史学者にとって、たとえ専門分野でなくても、歴史の本は読んでおもしろいものに間違いないので、著者がエンターテインメントとしてこうした本を読んでいるのは確かなのだろう。わざわざ「反」をつける発想はわからないが、エンターテインメントとしての読書、という基本姿勢は、文章の中から間違いなく読み取れるのだ。ただ、大学の先生、という立場があちこちに顔を出しているだけで。
 列挙されるタイトルを見て、どこがエンターテインメントなのか、と憤慨する人も出てくるかもしれない。それについては、読んだ人間が少しでも面白いと思えば、それがエンターテインメントとしての読書なのですよ、と言うしかない。著者は明らかにそういう意味で使っているし、私もそう思う。特定のジャンルの本にしか面白さを感じない、というのは、単にそのジャンルのファンであって、読書好きとは別ものだろう。
 その点この著者の場合は、どんなジャンルであれ、本が好きでたまらない、という気持ちはたっぷりとあって、それは心地よく伝わってくる。多少固めの本でも楽しめる人にとっては、本のおもしろさを改めて実感できる1冊だろう。ここに紹介されている本を本当に読むかどうかは別にして。

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2009年6月25日 (木)

時の扉をあけて

時の扉をあけて/ピート・ハウトマン;白石朗訳(創元SF文庫,2000)
 50年の時を超える「時の扉」をめぐる、タイムトラベル小説。ひとことで言うとそうなのだが、実はあまりSFらしさはない。翻訳は一般向けだが、原作はティーンエイジャー向けのジュヴナイルだということで、読んだ印象もSFより青春小説に近い。
 しかし、暗い青春である。
 主人公ジャックは、13歳の時、祖父スコーロの死に出会い、その時にこの祖父の持っていた屋敷で「時の扉」を見つける。が、その時のジャックはすぐに現代に戻ってきて、本格的に過去にいくのはその数年後。その原因というのが、アル中の父による母の撲殺という現実から逃げるためなのだ。く、暗い…。
 で、行った先は太平洋戦争直前の1941年という、これまた暗い時代。戦争が始まり、兵士としてガダルカナルへ行ったジャックは、戦場の中で友人だと思っていたスカッドに殺されかかり、さらに日本軍の攻撃で瀕死の重傷を負って、ついでに頭もおかしくなってしまう。どこまでも暗い展開である。
 このスカッドや恋人のアンディが、実は後の時代で主人公と関わりのある人物だったのが明らかになるというのは、この手の話にはお決まりのパターン。その真相もまた、救いのないものである。どこまでも暗いのだ。
 結局、著者の書きたいことはタイムトラベルではなく、主人公の擬似的な死と再生であったようだ。だから、上にも書いたが、読んだ印象はとてもSFとは言えない。
 物語の鍵となる「時の扉」そのものについても、ほとんど何の説明もないし。終わりの方に登場する謎の男が作ったらしいのだが、結局詳しいことは不明のままで、科学的な説明は出てこないのだ。
 小説としての出来は悪くない。だけど、「タイムトラベルSF」を期待してはいけない。SFファン以外にとっては設定があまりにSF的だし、SFファンにとっては、話があまりにSF的でない。読む人を選ぶ小説ではないだろうか。

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2009年6月22日 (月)

清貧の食卓

清貧の食卓/山本容朗編(中公文庫,1998)
 文学者、文化人の書いた食べもの物エッセイのアンソロジー。著者は、古いところでは谷崎潤一郎、荒畑寒村から、基本的に「ちょっと前の世代の人」まで。一番若いところで東海林さだおだから、後は推して知るべし。今では半分以上の著者すでに故人だったりする。食べものエッセイというとすぐに名前が浮かぶ池波正太郎や吉田健一はなぜか入ってない。
 21編のエッセイと一つの対談が収録されていて、I「名前はどうでも、とにかく旨ければ……」と、II「折々なつかしく思うものを」の二部構成。が、よく見ると、別にテーマ順に分けているのではないらしい。
 第1部が宇野千代から始まって、荒畑寒村、池田満寿夫、色川武大、魚谷常吉、大河内正敏、神吉拓郎、北大路魯山人、杉森久英、東海林さだお、まで。第2部が、谷崎潤一郎に始まり、田辺聖子、田中小実昌、壇一雄、常盤新平、向田邦子、山口瞳、山本周五郎、山本嘉次郎、山本容朗、吉行淳之介、最後に吉行淳之介と壇一雄の対談。―ごらんのとおり。だいたい五十音順に並んでいるだけなのだ。
 それはともかく、タイトルに「清貧」とつけているだけあって、取り上げられている食べものは、おむすび、臓物料理、大根、お茶漬け、うどん、コロッケ、ハンバーガー、海苔巻きなど、安いものばかり。
 だけどそれは、編者がそういうテーマのエッセイを選んだのであって、著者たちがみんな清貧の精神を持っているわけではないだろう。たとえば北大路魯山人。よく知られているように、海原雄山のモデルと言われる人物である。収録されているのは、「お茶漬けの味」などという庶民的なタイトルのエッセイだが、その中でこんなことを書いている。 

美味い料理は長年続けての習慣がつかなければ、美味いと分るものではない。それが分るようになるためには、相当の費用もかかる。しかし、だからと言って、費用をかけたから食物の美味さが誰にも分るとはかぎらない。(p.103)

 いかにも魯山人らしい。これほど、「清貧の食卓」というイメージから遠い人物はいないだろう。贅沢の極みかつエリート思想である。もう好きにしてくれといいたい。
 あと、田中小実昌の「小イワシの唐揚げ」も、マドリッドで地元のワインを飲みながら、地元のエビや小イワシを食べる話で、値段が高いものではないかもしれないが、優雅すぎて、これを清貧というのは嫌みである。
 その他は、一昔前の「おふくろの味」的料理が多いのが目につく。金持ちが若い頃の素朴な味を懐かしんでいる、という構図か。
 そんな中、東海林さだおのルポ「ショージ君の一日入門 ラーメン学校の巻」などを読むと、その文章のゆるさに心和む。
 異色なのは荒畑寒村の「監獄料理」。著者は戦前、社会主義者として何回も検挙されていて、監獄や刑務所の中で食べた料理の思い出を語っている。これこそ、ある意味で清貧料理の極致だろう。語り口に暗さが微塵もないのがいい。
 まあ「清貧」の看板には疑問あり、各作品の好き嫌いもいろいろある。が、さすがに有名どころが並んでいるだけあって、どれも文章は達者だし、それぞれの持ち味が出ていることは間違いない。食べ物エッセイのファンなら、一種のサンプル集として手元に置いておいてもいいだろう。

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2009年6月18日 (木)

信長の親衛隊

信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材/谷口克広(中公新書,1998)
 当代きっての織田信長研究家、というか信長マニアによる、ややマニアックな歴史読み物。
 羽柴秀吉、明智光秀、柴田勝家といった信長の武将たちは戦国歴史ドラマの常連で、あまりに有名だが、小姓、馬廻、吏僚といった側近たちは、あまり知られてない。例外として、後に武将に出世した一部(前田利家、佐々成政、堀秀政など)、行政官として活躍した人(村井貞勝など)、小姓として例外的に有名な森蘭丸(本当は森"乱"成利というらしい)などがいるが、長谷川宗仁、木村高重、岩室長門守、明院良政など、よほどの歴史マニアしか知らないような名前が多いのだ。まあ、現代風に言えば、秘書、ボディガード、事務官といった役割なので、歴史の表舞台に出てこないのは当然ではあるが。
 そういった裏方は、信長だけでなく、戦国武将の誰にもいただろう。だが、織田信長はそういう実務家たちの登用や使い方が特にうまかったらしい。著者は史料を丁寧に当たりながら、信長の組織術の妙を解き明かしている。
 さすがに信長マニアの著作だけあって、情報量は膨大。華やかな武将たちの影に隠れた多彩な人材たちに光を当て、織田信長政権の知られざる一面を紹介してくれる。
 しかし、確かに多様な人材がいることはよくわかるし、歴史書や小説などを読む時などに参考になるが、正直なところ、読んでいてそんなおもしろいとは思えなかった。題材が地味なせいもあるが、あまりに事実の羅列になりすぎていて、資料としては評価できるが、読み物としてはもうひとつなのだ。
 実は、この本に名を連ねる側近たちは、ほとんどが本能寺の変で殺されてしまう。その悲劇的な最後に向けて盛り上げていくような工夫があれば、もうちょっとおもしろかったかもしれない。専門書じゃなくて新書なのだから、ノンフィクションといえどもある程度の演出は必要なのでは―、なんてことを思った。
 この本が発行されて7年後に、姉妹編とも言える『信長軍の司令官』が出ているが、それはまた別の機会に。

信長の親衛隊―戦国覇者の多彩な人材 (中公新書)

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2009年6月15日 (月)

5月に読んだ本から

 5月に読んだ本から、わりと新しめのを2冊。

ウェブはバカと暇人のもの 現場からのネット敗北宣言/中川淳一郎(光文社新書,2009)
 この刺激的なタイトルを目にして、人が示す反応には大別して2種類あると思う。
「そんなはずあるかよ!」か、「やっぱりそうか…」のどちらか、である。
 かつて、日本のネット時代の夜明けを告げた書、村井純の『インターネット』(岩波新書,1995)で、インターネットは国境を超えた「新しい地球の社会の創造」をもたらす革命的なメディア、大げさに言えば、人類の革新をもたらすものとして紹介されていた。
 『インターネット』も、いずれ紹介したい本だが、それはまた別の機会として―。14年後の今、ネット空間は、創造性にあふれた自由な人々の地球規模の共同体ではなく、バカと暇人に占拠されているという。
 まあ、世にあふれるブログや掲示板や、ニュースサイトのコメント欄やらを見ていると、そう言われても仕方がないような気がする。私は、どっちかというと、「やっぱりそうか…」と思ってしまう派なのだった。
 だが本書の内容は、ネットユーザーのバカぶりの暴露―というわけではない。そういう部分も少しはあるが、大半はネットビジネス論である。著者はニュースサイトの編集者で、まさにネットビジネスの最前線で働いている。その立場から見た、ネットビジネス界に蔓延する勘違い、効果的なネット上のマーケティング、炎上を防ぐノウハウ、などを豊富な実例をまじえながら語っている。ビジネス本の一種と見てもいい。
 とはいえ、ネットの世界で働く人間の本音を綴った辛口のエッセイとして読むことも、当然できる。だけど、現場で「バカと暇人」の相手をしすぎたせいか、ネットの建設的な側面をあまりにも無視しているような気もするのだ。第5章のタイトルは「ネットはあなたの人生をなにも変えない」という、あきらめ感漂うものだが、そこまでおとしめなくてもいいのではないか。
 そういう言い方をすれば、「テレビはあなたの人生をなにも変えない」とか、「携帯電話はあなたの人生をなにも変えない」とか言うことだってできる。―というか、「○○はあなたの人生をなにも変えない」の○○のところにどんな言葉を入れても、もっともらしく聞こえる。
 「ネットに過度な幻想を持つのはもうやめよう」と著者は言うが、ネットを過小評価するのも考えものである。14年前、ネットに人類の未来を見た『インターネット』が振り子の一 方の端だとすれば、もう一つの端がこの本で、本当のネットの姿は、多分その間にある。

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

怪談文芸ハンドブック/東雅夫(メディアファクトリー・幽ブックス, 2009)
 「ホラー」でも「怪奇小説」でもない、「怪談」の振興を提唱する東雅夫による、「怪談の手引き」。
 序文によれば、「執筆や蒐集、読書など、日々怪談とつきあう上で必要となる基礎知識」を盛り込んだものだという。
 二部構成になっていて、第一部が「怪談をめぐる七つのQ&A」。怪談の定義、怪談の魅力、ホラーと怪談の違い、等々を解説している。まさに入門篇。
 以前、『終わらない悪夢』を紹介した時に(2009年3月22日)、「ホラーと怪奇小説はどこが違うのか」ということを考えてみた。超自然的な恐怖を扱うのが怪奇小説、というのがその時の結論。このQ&Aでも、「ホラー」と、「怪談」(「怪奇小説」ではなくて)の違いという、似たようなテーマを論じているが、やはり同じような結論になっている。「ホラー」は恐怖を語る小説全般で、サイコホラーも含む。一方、何らかの超自然的な恐怖を語るのが「怪談」。典型的なのが幽霊話。
 では「怪談」と「怪奇小説」の違いは?
 今まで明確な違いを考えたことはなかったが、この本を読んでわかった。「実話を含むかどうか」なのだ。「怪奇小説」はあくまでフィクション。一方怪談については、「実話怪談」という大きなサブジャンルがある。
 ところで、この「七つのQ&A」の七番目が「怪談の蒐集執筆のコツは?」。序文で「執筆や蒐集、読書」、帯にも「愉しく読む、書く、集める」と、本書の三本柱のように書かれている「蒐集と執筆」は、実はこの13ページくらいにしか書いてない。しかも、怪談情報収集についてはともかく、執筆については、ごく一般的な小説作法についてさらっと書いているだけで、どこが「怪談執筆のコツ」なのか、よくわからない。
 というか、そもそも、この本のメインの部分は、全体の4分の3を占める第二部「怪談の歴史を知る」なので、「七つのQ&A」は、イントロダクションみたいなものなのである。古代から現代まで、古今東西の怪談文芸の歴史を解説するこの第二部は、非常によくまとまっている。実のところ、第一部は省略して、第二部だけを「世界怪談文芸史」として本にした方がよかったのじゃないか。
 だから、この本を読む時は、「蒐集」とか「執筆」とかは忘れた方がいい。これは、怪談ハンドブックに名を借りた、「怪談の歴史」である。内容的には「怪奇小説の歴史」とほぼ等しいのだ。

怪談文芸ハンドブック (幽BOOKS)

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2009年6月13日 (土)

ドグマ・マ=グロ

ドグマ・マ=グロ/梶尾真治(ソノラマノベルス,1993)
 今は亡き朝日ソノラマから出たパロディ風味ホラー長編。その後、2003年に新潮文庫から再刊されている。
 題名からして夢野久作の『ドグラ・マグラ』のあからさまなパロディである。が、中身は『ドグラ・マグラ』とはほぼ無関係で、新米看護婦が体験する、怪しげな病院の一夜のできごとを描いたSFホラー。「怪しげな病院」が舞台であるところだけは似ているか。
 それにしても、「一夜のできごと」と呼ぶには、あまりにも多くの出来事が起きる。人を食う正体不明の怪物、人間の姿をした実験体、ツングース爆発の謎、大日本帝国復活を目論む秘密機関、マッドサイエンティスト、右翼の大物、45年間病院の壁の裏に潜み続けたアメリカ兵、ぼけた婆さんの一団、さらには多元宇宙までかかわってくるという、ネタの洪水状態。そして、登場人物の大半が死んでしまう、スプラッタ・シーンの連続。想像を絶する出来事の果てに、ヒロインがたどりついた世界も、あんまり。
 ここまで来ると、ふざけてるとしか思えない―が、読み出したらやめられない。が、梶尾真治の文章は、どんな惨劇を書いてもどこかコミカルなところがあって、ホラーなりきれておらず、ただのドタバタ劇になってしまっているような印象はある。そこが持ち味、と言えばそれまでだが。

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2009年6月10日 (水)

並列バイオ

並列バイオ/秋口ぎぐる(富士見ファンタジア文庫,2000)
 何年も前に読んだのだが、不思議と印象に残っている本。
 タイトルは何だか意味不明だし、著者の名前も変である。本名、「川上亮」でも著者があるそうだ。でも、『並列バイオ』が川上亮著だったら、あまりに名前が普通すぎてインパクトに欠ける。この名前にこのタイトル、だから印象に残るのだ。どっちにしても、この作者の本はこれしか読んでない。
 肝心の内容だが、バイオ技術が異常発達した未来の地球で、<学会員>ブレイロックが変異種の少女ヒオリに一目惚れし、<巨人機関>をめぐる巨大な陰謀と戦う―というものである。もちろんこれではわけがわからないことと思うが、まあ要するにその手の話。
 遺伝子操作で生まれた奇妙な生物やミュータントにあふれた世界設定は、どう見ても「ナウシカ」の世界と似ているし、ただ一目惚れした女のためだけに、善悪も後先も考えず突っ走る主人公は「未来少年コナン」または「カリオストロ」のルパンのようだし、やたらと乗り物や建物から飛び降りたり飛び乗ったり、時には飛び回ったりするキャラクターたちは「ラピュタ」を見ているようだ。
 要するに宮崎駿的テイストに満ちている。宮崎アニメの疾走感を、ある程度再現していて、その点では、同じく宮崎駿の影響が見てとれるフィリップ・リーヴの『移動都市』より上かもしれない。
 が、「=」や「/」などの記号が多発し、ところどころでフォントが巨大化する独特の文章は、動きを描くには一定の効果を上げているが、情景描写には著しく不向き。何より読みづらい。そのせいで、妙に印象に残る結果にはなっているのだが。
 タイトルも作者名も文章も、ユニークではあるが、あまり一般受けする話とは思えない。そのせいか、結局今に至るまで続編は出てない。

 ところで、ウィキペディアで「秋口ぎぐる」のページを見ると、この作品の続編のタイトルがずらっと並んでいる。どれも未出版だが。『並列バイオ外伝 第二脱出速度蛙』、『弾丸特急』、『分子メール』、『暴走学級』と、どんな話なのかさっぱりわからない。というか、この記事のライターは、なんで未出版の作品名がこんなにわかるんだ? もしかして本人もしくは周辺の人間が書いてる? 

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2009年6月 8日 (月)

戦国大学生

天軍戦国史 天軍織田に加勢す/羅門祐人(ワニ・ノベルズ,1996)
 歴史シミュレーション小説のパターンの一つとして、自衛隊が戦国時代にタイムスリップする、というのはもはや定番と化している。この定番を作ったのが半村良の『戦国自衛隊』であることはいうまでもない。
 最新鋭装備を備えた自衛隊が戦国時代へ行けば、無敵であるのは当然だが(少なくとも、弾薬・燃料がある間は)、タイムスリップしたのが自衛隊ではなく、大学だったらどうなるか―という仮定でシミュレーションをやったのがこの小説。
 椎名高志の4コママンガで、予備校が戦国時代にタイムスリップするが、あっという間に全滅してしまう―というのがあったが、まあ普通に考えたら、そんなものだろう。だが、この作品の大学生たちは、時と地の利を得て、しぶとく生き抜いて行く。「戦国自衛隊」じゃなくて、「戦国大学生」である。
 舞台となるのは名古屋市内の大学「大和学園」。宇宙から飛来したミニブラックホールの直撃を受けた学園は、半径300メートルの空間ごと、戦国時代の尾張の国に飛ばされてしまう。たまたまその空間内に、いかにも都合のいいことに、ガソリンスタンド、ディスカウントショップ、図書館などが含まれていたことが、彼らの生き残りに大きな役割を果たすことになる。
 未来から来た学園にいち早く接触したのが、尾張統一前の織田信長。未知のテクノロジーに目をつけた信長と、軍事的庇護が欲しいと学園との利害が一致し、両者はすぐさま同盟を結ぶ。「天軍」とは、天から降ってわいたような異形の集団に、信長がつけた呼び名である。
 ―というような、タイムスリップした学園と織田信長側とのファースト・コンタクトと、同盟に至るまでの動きを、著者は6、7ページくらいであっさりと片づけてしまう。このへんを丁寧に書いていたら、それだけで1冊分の話になるだろう。
 実際の物語は、大和学園のタイムスリップから一年後、大学生集団のリーダー、風間一郎が柴田勝家らとともに織田信長に面会するところから始まる。その時の信長は、「天軍」からもらったTシャツにジーンズ、スニーカーという格好で現れるのだ。上に書いたような、タイムスリップとその後の経緯は、この衝撃的(?)な冒頭のシーンの後で、回想風に説明されるのだ。
 時間ものSFとしては、現代人と過去の人間とのファースト・コンタクトこそ、もっとも力を入れたいシーンに違いない。だが、著者が書きたいのは、現代の非軍事テクノロジーが、戦国時代でどれだけ軍事的に利用できるか、さらには、戦国時代に放り込まれた現代文明が、どのようにすれば生き残りが可能になるか―というところにあるのだ。それは、第2巻、第3巻でさらに鮮明になる。
 第1巻は、「天軍」の力を借りた織田信長の尾張統一、美濃侵攻、そして桶狭間で今川義元を討ち取るまで。

天軍戦国史2 激動!風林火山/羅門祐人(ワニ・ノベルズ,1997)
 第1巻の最後で、大和学園の教授が敵国に出奔してしまう。知識のかたまりみたいな人物が流出してしまったわけで、この事件はその後の展開に大きな影響を与えるようなことを匂わせていたのだが、実は、教授はほとんど話にからんでこない。
 そのかわり、話は別の方向に発展する。信長は近江の六角氏が教授を「拉致」したと言いがかりをつけて、討伐に名を借りて近江に軍勢を出すのだ。
 一方、「天軍」のリーダー風間は、近江などどうてもよくて、ひたすら越後を手に入れたい。言うまでもなく、新潟に算出する石油が目当てである。この巻から、信長と風間の間の亀裂が徐々に明らかになっていく。
 風間は近江討伐には加わらず、尾張、美濃の留守を守ることになるのだが、そこへ信長の主力軍が出払った隙をつき、武田信玄が侵攻してくる。信玄の大軍と「天軍」との戦いが、この巻のメインストーリー。
 少数の残留部隊を率いて武田家の猛攻を引き受ける羽目になった風間は苦闘する。天軍戦車(四輪駆動車改造)、天軍騎馬隊(オートバイ)、空中戦艦(飛行船)が奮戦するも、次第に追い込まれ、絶体絶命―、というところで、結局は信長の機略に救われるのだが―。風間の実力に対する信長の不信は強まり(大学生に期待しすぎだとも思うが)、「これが、その後の悲劇を生む原因になるとは、まだ誰も知らない」という、いかにも思わせぶりな文章でこの巻は終わる。これが、第3巻への重大な布石になる―かと思えば、ならないのである。

 この巻、「天軍」に配属された前田利家が、準主役級の活躍をする。クライマックス・シーンでは、空中戦艦から武田信玄を狙撃しようとするのだが、その時の指示の言葉が、完全に「天軍語」に、つまり現代語化しているのがおもしろい。

「狙撃ポイントは貴様にまかせる。絶対に討ち漏らすな。何発射ってもいいが、たぶん数回しかチャンスはない」

 ちなみに、この指示を受けている狙撃手は、竹中半兵衛。

天軍戦国史3 織田包囲殲滅戦/羅門祐人(ワニ・ノベルズ,1997)
 次第に深まる織田信長と「天軍」リーダー風間一郎との溝。織田の外様大名的な立場で独自の行動をとるようになった「天軍」は、信濃から越後へ進出する。春日山城攻略戦が、この巻のクライマックス。
 ここで活躍するのが、「天軍」の開発した新兵器、潜水艦「轟天」。すごいネーミングだが、実際に現代の大学生がこういうシチュエーションに置かれたら、つけそうな名前ではある。それはともかく、潜水艦といっても、所詮戦国時代の技術で作られているので、性能はそれなりのものでしかない。「潜る」だけしか能力のない潜水艦を、戦術上どんな使い方をするかが、戦いのポイントになる。
 それはともかく、この巻でますます鮮明になるのは、作品全体のテーマ。1巻のところでも書いたが、「戦国時代で、現代の技術をいかに生かし、いかに維持するか」―である。「天軍」は、この時代で入手できる材料と技術で、発電機、電球、雷管、飛行船、潜水艦、等々を作る。技術を継承するために技術者を養成する。主人公たちは、知識と技術こそが自分たちの最大の武器であることを知っており、それを絶やさないための手を打とうとするのだ。
 L・スプレイグ・ディ・キャンプの『闇よ落ちるなかれ』という名作SFがある。20世紀から6世紀のローマにタイムスリップした歴史学者が、知識だけを頼りに技術革新を起こし、中世暗黒時代の到来を防ごうとする話だ。
 『天軍戦国史』の風間一郎には、単に文明の維持ではない別の野心があるようだが、やろうとしていることは『闇よ落ちるなかれ』と似ている。日本の歴史シミュレーション小説では珍しいパターンである。
 さらに続編があるとおもしろかったと思うのだが、この作品、これから、という3巻目で、第一部完、打ち切りになっている。3巻のあとがきでは、著者は第二部の構想を考えていたようではあるが。織田信長と「天軍」との破局や、信長の非業の死を暗示する伏線めいた表現も出てきていたのだが、それらは宙に浮いたままになってしまった。
 このユニークな架空歴史小説の続きは、もう読めないのだろうか。まあ、あまり一般受けする話じゃないのはわかるが...。

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2009年6月 5日 (金)

隠し部屋を査察して

隠し部屋を査察して/エリック・マコーマック;増田まもる訳(創元推理文庫,2006)
 スコットランド生まれ、カナダ在住の作家、エリック・マコーマックの短篇集。同姓同名のカナダの俳優がいるが、もちろん別人である。
 20の短篇を収録。一つ一つは短いが、簡単に読み飛ばせないような「濃い」作品が揃っている。
 最初が表題作「隠し部屋を査察して」。ある意味、この本全体を象徴するような作品である。舞台はどこだかわからない国。地の果ての入植地にある種の罪人を収容する施設があり、「隠し部屋」と呼ばれる地下牢に、それぞれ一人ずつが収容されている。語り手は「隠し部屋」の査察官なのだが、査察と言っても、ただ単に部屋を回って窓から囚人をのぞくだけ。語り手である査察官の担当する囚人は6人。その6人がどんな「罪」を犯したのかを、査察官は順番に説明する―要するにそれだけの話なのだが。
 6人の罪状は、各人各様。柴田元幸によるの解説では「想像力の罪」と書いてあるが―。中には新式のギロチンで動物や人間の首を片っ端から斬り落とした、正真正銘の罪人もいる。かと思えば、奇怪な現象を起こしたというだけで投獄された者もいる。共通しているのは、「普通でない」、あるいは、現実を歪める力を手にしている―この作品の政府の言い方を借りれば、「堕落している」―というところ。
 世にも奇怪で残酷な「堕落」のありさまを次々と綴っていく作者こそが、実は一番「想像力の罪」を犯しているのではないか。そんな気もしてくる。この短篇集に収められた作品の一つ一つが、「隠し部屋」であって、読者はそこに隠された様々な「堕落」のありさまを「査察」しているのではないか―と。

 表題作以外で印象に残った作品を挙げると―。
 突如カナダに出現した正体不明の「無」の空間が、地球の自転と同じ速度で地表に溝を刻んでいく「刈り跡」。イレネウス・フラッドという怪人物と、彼の作った「庭園列車」を巡る、奇想天外なエロティシズムと不条理な冒険の物語「庭園列車」二部作。おぞましくも神聖な死のゲームの物語、「祭り」。「隠し部屋」の住人たちがまとまって暮らしているような異様な町での一日を描く、「町の長い一日」。かみあわないインタビューを通じて語られる、ある作家のポートレート「ともあれこの世の片隅で」。

 それにしても、この短篇集、どういうジャンルに属しているのだろう。創元推理文庫から出ているが、間違いなく、ミステリではない(「海外文学セレクション」のシリーズだし)。怪奇小説でもない。広い意味での幻想小説ではあるかもしれない。やたらと人体を破壊したり切り刻んだりする話が出てくるが、「ホラー」や「スプラッター」と呼ぶには描写がドライすぎて生々しさを感じさない。「奇想小説」という、どこか陽気でポップな呼び方をしてしまうにはためらいを感じるような、暗くてグロテスクな発想に満ちている。では、単なる「文学」なのか―そう呼ぶのもためらいを感じる。
 要するに、よくわからない。どうでもいいと言えばいいのだが、従来のジャンルに収まらないこういう小説が、最近日本でも外国でも増えてきたような気がする。とにかく「変な話」が好きな人には向いているかもしれないが、好き嫌いはわかれるだろう。

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2009年6月 2日 (火)

林屋辰三郎 『南北朝』

南北朝/林屋辰三郎(朝日文庫,1991)
 日本史で一番おもしろい時代はいつ頃かというのは、人によって見方が違うだろうが、人気投票をすれば、まず戦国時代、それに幕末といったあたりが上位に来るのではないか。しかし、鎌倉末から南北朝時代、いわゆる『太平記』の時代も、戦国や幕末に劣らず、いや、それを上回るほどおもしろい時代ではないか、と私はひそかに思っている。
 日本史学の大家、林屋辰三郎の書いたこの本は、200ページ余りの薄い本だが、中身は濃い。もうかなり前になるが、この本を読んだことが、私が「南北朝はおもしろい」と確信するようになったきっかけの一つになっている。(それより前に、NHK大河ドラマ『太平記』が大きなきっかけになっているが。)
 南北朝を語るには、まず鎌倉時代の末期から話を始めるのが順序であり、この本も当然ながら「序章 内乱の前夜」を最初に置く。以下、六章にわたって鎌倉幕府の崩壊から建武の新政を経て南北朝の統一までを語るのだが、うまいのは、各章の見出しに、それぞれの時期を象徴する人物の名を入れて、さらにわかりやすくサブタイトルを入れているところ。
 例えば、「一章 結城宗広 ―東国武士の挙兵―」。さらに章の中が七つの節に分かれていて、「白河結城」、「天皇御謀反」といった具合。まず人名で興味を引く。結城宗広はあまり有名な人物ではないので、たいがいの人は、「誰だこいつは?」と思うだろう。サブタイトルでポイントを掴ませ、各節のタイトルで記述の流れを伝える。目次を見るだけで、太平記の物語を見ているような気分になる。
 二章以下も同じような具合で、タイトルの人物は、楠木正成、足利尊氏、後村上天皇、佐々木道誉、足利義満と続く。最後は終章ではなく「付章 内乱の余波」。
 本文は複雑な南北朝の政治的・社会的動きを簡潔に語るが、ところどころに史料や古文書の引用をはさみ、さらに自分の考えも述べ、かと思うと時には歴史学者らしからぬ、物語的叙述も見せる。
 楠木正成の章には、「彼が湊川合戦におもむく心中は、金剛山籠城のときとはまったく異なった、きわめて悲壮なものがあった」と、内面にまで踏み込んだ文章がある。これはその直前に引用された楠木正成最後の上奏文の内容を受けての記述だが、「硬い」歴史の本なら、本当はどうだったかわからない歴史上の人物の心情をこんなに断定的に書かないだろう。かと思えば、史料に基づいた、いかにも歴史学者らしい考察の部分もあったりする。歴史を「論じる」、「物語る」、「説明する」―三つの要素をミックスしている、そのバランスが絶妙である。
 南北朝時代のおもしろさを詰めこんだ好著。この時代の入門書として、ベストにあげたい1冊。

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