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2009年11月24日 (火)

日本語はおもしろい

日本語はおもしろい/柴田武(岩波新書,1995)
 著者は日本語学、特に方言研究の大家。『新明解国語辞典』など、多くの辞書の編纂にも携わった。1918年生まれだから、この本は78歳の時の著書ということになる(2007年没)。前回に続いて、その道の大家による一般読者向け新書。
 「はしがき」によれば、日頃思いついたことを書きとめたカードから15枚を選んで、各章のテーマにしたという。本人も書いているように、「この十五章も相互にはほとんど無関係」。
 ところで、最初の章、「自分のことばに返る」を読んでみると、各章の間が無関係どころか、同じ章の中でも、話題があちこちに飛んで相互の関係がほとんど見えない。「母語」とは何か、という言語の基本的な話題から始まって、「芋をムス」と「芋をフカス」の違いの疑問の考察、かと思えば「熟考」と「熟思」の違いがわからないという微妙な違いについての話題、次に発音に話が飛んで、鼻にかかったガ行の発音の地理的分布、さらには、「ら抜きことば」など「言葉のゆれ」の判断について――、と話が飛びまくる。要するに、言葉の意味や発音、言葉遣いの微妙な違いについては、自分の生まれ育った土地の言葉が判断に影響を及ぼす、ということを言いたいらしいのだが。
 もちろんこんなとりとめもない内容ばかりではなく、ほとんどの章はテーマが首尾一貫している。次の章、「無視できない話者語源」。話者語源、または民間語源というのは、要するに言語の専門知識をもたない素人が考えついた語源の説明。もちろん学問的には間違いなのだが、著者はこの話者語源自体をひとつの言語学的な現象として観察対象にしているのだ。
 以下、興味を引いた章をいくつかあげてみると(章に数字はふられてない)、「長くない外来語の長音」(外国語に長音符「ー」をつかるかつけないかの判断はどのように決まるのか)、「学術用語の課題は日本語の課題」(学術用語の混乱について)、「オノマトペの宮沢賢治(擬音語・擬態語の類型学)、それに、「高利と小売りは違うぞなもし」。
 「高利と小売りは違うぞなもし」は、タイトルからでは想像もつかないが、ワープロが日本語に与える影響について考察したもの。この文章の元になったカードがいつ頃書かれたものかはわからないが、この本の出版された1995年は、日本語ワープロが普及し始めて10年以上たっており、すでに日本語文章入力の主力はワープロ専用機からパソコンに移ろうとしていた時代である。そんな時代に、ワープロが日本語に与える影響について、「しばらく観察しなくては何も言えない」というのは、いささか遅すぎる気もする。
 ただ、ここで作者が、「かなり自信を持って言えることが二つある」と予言していること、「書く字が下手になる」と、「手紙はともかく、論文のようなものは、手で書くのがおっくうになり、書けなくなる」とは、見事に当たっている。が、この本が出た当時でも、すでにそうなっていた人は多いのだから、予言と言えるかどうか怪しいのである。なお、二つ目の予言の「手紙はともかく」の部分は、ある意味はずれている。文字によるメッセージのやりとりはみんなメールでやるようになり、おっくうも何も、手紙を書く人間なんてほとんどいなくなっているし。
 それはともかく、要は老大家が研究生活の中で思いついた発想をランダムに取り上げてみたエッセイ集なので、ところどころ時代に合わないところはあるにしても、気楽に読むにはいい。さすがに著作歴が長いだけあって文章はこなれていて、学問的な内容なのにこれでいいのかと思うくらい平易である。方言、外来語、専門用語、索引法、意味の構造、オノマトペ、文法、隠語、発音、言語変化、フィールド・ワークと、多種多様な側面が取り上げられていて、ちょっと日本語雑学集のような趣もある。タイトルは『日本語はおもしろい』だが、ここにあるのは、日本語をサンプルとした、言葉そのものが持つおもしろさである。

日本語はおもしろい (岩波新書)

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