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2009年12月24日 (木)

女ことばはどこへ消えたか?

女ことばはどこへ消えたか?/小林千草(光文社新書,2007
 ここでいう「女ことば」というのは、今ではほとんどフィクションの中にしか生き残ってない、語尾に「~わ」とか「~よ」とかをつけたりするあのしゃべり方。一部の小説(特に翻訳に多い)やマンガ(例えば『美味しんぼ』とか)には、こういう言葉をしゃべる女性が今でも登場するが、現実にこんな話方をする女性はまず見かけない。
 前に紹介した金水敏の『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』(2008年7月13日)では、こういうしゃべり方を、「お嬢様」であることを示す「役割語」と位置づけていた。現実には使われない、記号としての言葉だということだ。
 ところでこの本は、古きよき女性の言葉へのノスタルジーを持ち続ける女性研究者(1947年生まれ)による、「役割語」とはまったく違うアプローチからの「女ことば」論である。その態度は至って真摯。著者は真剣に「女ことば」の衰退、あるいは女性がしゃべる言葉の「男性化」を憂えている。
 とはいえ、ベースは日本語研究なので、「近頃の若い娘の言葉使いはなってない」なんて、オヤジめいた小言を並べているわけではもちろんない。まずは文学作品を主な資料として、日本の女性語の成り立ちを探っていく。
 最初に研究対象になるのは、今から100年前、近代の「女ことば」が成立した時期の夏目漱石の作品。特に『三四郎』。
 『三四郎』というのは、要するに田舎から状況してきた大学生が、東京で知り合った変な女たちにふりまわされる話だが、彼女たちは夏目漱石の目から見て、新時代の女性たちであり、その話す言葉は最先端の流行を示すものだった。例えば著者は、登場人物の口にする「よくってよ、知らないわ」という言い方について、いくつもの用例を引用するが、それは「当時の女学生のきわめつきの流行語だった」という。で、こういう言い方というのは、元々は下町の娘が使うような、どちらかというと下品な言葉と見なされていたのだが、次第に山の手の女学生が使うようになって、徐々に上流階級の間に広まっていったのだとか。漱石はその過渡期にあって、まさに変わりゆく若い女性の言葉づかいをリアルに描いていたのだ。当時から見れば結構軽薄に見えたのかもしれない。
 で、こんな登場人物の言葉の分析だけでなく、実は作者は、引用した場面でそのセリフを登場人物がどんな心理で口にしたか、なんてことまで書いている。夏目漱石が微妙な女心を、少女マンガ並の繊細さで書いていたことにちょっと驚くが、それはともかく、明らかに言語の研究とは関係ないところまで立ち入っている。本書の3分の1はこんな具合で、『三四郎』の解説みたいなものである。著者は実際は「女ことば」論ではなく、女性の言葉を通じた『三四郎』論が書きたかったのではないか、とうがった見方をしたくなってくる。
 長い第一章の後は、時代をさらに百年遡って、江戸時代。式亭三馬の『浮世風呂』に見る女ことば。語尾に「~だよ」とか「~でね」が多用され、漱石の時代よりむしろ現代に近いような気もする。もちろん、ボキャブラリーが全然今とは違うのだが。
 第三章はさらに室町時代まで遡って女房ことばのルーツをさぐる。で、第四章でやっと現代に戻る。著者が勤務する女子短大でとったアンケートなどを資料に、「現代女子学生の言語実態と言語感覚」を分析するのだが、そこから浮かびあがってくるのは、だいたい予想どおりの言語実態と、一方で意外に保守的な言語感覚である。
 ただ、学生が先生に対して提出するアンケートなのだから、そこにはある程度「空気を読んだ」回答が多いことは予想できる。大学全体の雰囲気もあるだろう。見えてくるのは、現在の「女ことば」の実像というよりは、著者の「女ことば」――というか、理想の「女らしい言葉づかい」に対する強い思い入れなのだった。
 で、結局何が印象に残ったかというと、やはり夏目漱石である。タイトルとはだいぶずれているが...。

女ことばはどこへ消えたか? (光文社新書)

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