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2010年7月20日 (火)

名前と人間

名前と人間/田中克彦(岩波新書,1996)
 十数年前に読んだ本。固有名詞、特に人名がテーマ。今ではこういうテーマを扱った本も、雑学本から研究書までいろいろ出ているが、この当時は、固有名詞だけを語る本というのは珍しかった。
 著者は言語の専門家だが、理論的な言語学よりは、言語と社会や国家との関係についての著作が印象に強い。ずいぶん昔に読んだ『ことばと国家』(この本と同じく岩波新書)はおもしろかった。で、この本も、もちろん言語学的な話も入ってはいるが、もっぱら人と固有名詞の関わりを中心に述べている。
 「まえがき」に、著者の固有名詞に対する複雑な思いがよく出ている。いきなり、「私たちは朝起きてから夜寝るまで、いっときの休みもなく固有名詞の大海に首までつかって、ほとんどおぼれ死にそうなくらいである」と始まる。本当は「私たちは」というより、「私は」と言いたいのだろう。
 著者は数学や哲学など、固有名詞に依存しない学問にさわやかさを感じているとのことだ。その反対に、「歴史とは人の名前でできている」と自ら言う歴史学に対しては、はかなり反感を持っている。固有名詞だらけの歴史の専門書に対し、「私は少年の頃から、こうした種類の、固有名詞を連ねた学問をひどく軽蔑してきた」とまで言っている。著者は、「固有名詞憎悪の感情にかられて」この本を書いたのである。
 しかし実際の人間の言語生活では、固有名詞は極めて重要な要素である。「知識と特権的な教養のかたまりのような固有名詞を私は憎悪しながらも、しかし人間はそれを避けて通わけにはいかないことも知っている」と最後は諦めたかのようなことを良いながら、著者は本文を始めるのだ。
 しかし、どうして固有名詞をそこまで「特権的」と敵視しなければいけないのか、今ひとつ理解できない。「こうした日常生活から切りはなされた知識を身につけるには、労働から解放され、ばく大な時間をそれに注がなければならず、そのためには特権的な生活を享受できる条件をもたねばならない」などと昔の革命家みたいなことを言っているが、大学の先生がそんなに「特権的な生活」なのだろうか。それに、著者が固有名詞を必要としない「清潔な学問」と言っている数学や哲学のような抽象的学問だって、十分に日常生活から切り離され、労働から解放された人間しかそれに時間を注げないと思うのだが,,,。
 本文では、さすがに著者の語り口もおおむね冷静で、そんなに固有名詞の悪口が並べてあるわけではない。第1部「言語学と名前学」では、言語学が固有名詞というやっかいなものをもてあまして、名前学(英語でオノマスティックス、ロシア語でオノマスチカ――著者はロシア語形を使っている)という別の学問に押し込めたいきさつが書いてある。
 続く第2部「名前学から見た固有名詞」は、本格的固有名詞論。ここからメインテーマである人名の話が出てくる。名前のパターン、世界のあちこちで行われてきた名前の改変(創氏改名)の実例など。
 第3部「固有名詞の語源」は、第2部を受けて人名の起源の話から始まり、途中からなぜか「民間語源」(フォルクスエティモロギー)に話題が移り、最後は漢字と人名について。このへんになると、「固有名詞に関するエッセイ」を並べたという感じだ。
 第4部「名づけの諸相」も、似たようなものだが、ここで「人名と国家権力」という重いテーマが出てくる。言語と国家の関係は、著者が何度も書いてきたテーマでもある。最後のページ近くで、著者は大国(特に著者は当時のソ連と、中国を例に挙げている)の中で埋没しかけている少数民族の名前(「権力が支配し、無視し、つぶしにかかった小さな名前」)への愛着を表明し、「このようなわけで、私の固有名詞憎悪は、別の面での固有名詞への偏愛のあらわれである」と言うのだ。
 ここへ来て、著者が本当に憎悪していたのは、固有名詞そのものではなく、「特権」や「権力」であったことが明らかになる。固有名詞を語る時、人は思想と無縁ではいられないということも、この本を読むとわかるのである。

名前と人間 (岩波新書)

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