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2012年8月27日 (月)

濁点の謎

てんてん 日本語究極の謎に迫る/山口謡司(角川選書,2012)
 タイトルの「てんてん」とは、「゛」すなわち濁点のこと。
 序文の最後での著者は宣言によれば、「「てんてん」の由来と、日本語における濁音の歴史の真相をここに究明したいと思う」という主旨のもとに書かれた本である。
 本書の内容は12章に分かれていて、日本語の発音と表記の歴史が時代を追って述べられている。
 前半はほとんど日本語の発音と表記についての歴史。かなに元々濁点をつける慣習がなかったのは、周知のとおり。濁音を表す記号は、平安時代に作られた辞書『類聚名義抄』に初めて使われたという。
 だが、日本語で濁音が使われていなかったわけではなく、戦国時代に編纂されたローマ字表記の日本語辞書には、濁音混じりの言葉が数多く収録されている。
 にもかかわらず、一般の文章では濁点が使われない時代が長く続く。濁点が普通に文章中に出てくるようになるのは、江戸時代からである。さらに明治以来の表記の変化を経て、現在に至るまで、濁点は独特の機能を担い続け、新しい表現さえ(「あ゛」とか)生み出している。
 ――と、ごくおおまかに言うとこんなことが書いてあるわけだが…。
 濁音や濁点に関する話題が常に中心というわけではなく、万葉仮名、漢字の受容、菅原道真、日本文化、さらにはサンスクリット語学に至るまで、話題はけっこうあちこちに飛ぶ。いろいろ盛り込みすぎているような気もする。
 そして結局、大きな疑問が残る。平安時代、濁点なしの文章が定着したのは、「優艶さ」や「浄化」を求める貴族社会の価値観が影響していると、著者は言う。日本文化は「濁」を遠ざけ、「清」を好む。「日本語において、「濁音」とは、「穢さ」や「下品さ」の語幹を持つ」と。
 だが、ちょっと待って欲しいと思うのだ。そもそも「清・濁」という区別は日本語固有のもので、例えば英語などでは、「t←→d」や「s←→z」という対立は「無気音・有気音」の区別になる。そこには音自体に対する価値判断は何も含まれてない。
 なぜ日本人だけが、発音の違いに対して「無気・有気」でなく「清・濁」という価値判断混じりの区別をしているのか。外国語なら無気音とされる音が「清」で、有気音が「濁」と認識されているのはどうしてなのか。その根本的な理由を説明してほしかった。そこを追究せずして、「真相を究明」とまで言えるのか…。
 また、こんなところも気にかかる。第七章「言葉遊びの文化」の最後に出てくる、著者の基本的な考え方を示す文章。

 日本語には、平安時代まで濁音で始まる言葉がなかった。そして、言葉の途中で現れる連濁も、幽霊のように時代や方言によって現れたり現れなかったりして一定のものではない。濁音がこうしたものだったからこそ、泡沫のように言葉の遊びが生まれてくる。そして、そうした言葉に、特殊な文字を使ったとすれば、言葉を固定させてしまって日本語は生き長らえることができなかったのである。(p.141)

 前半は本書の趣旨をそのまま語ったようなものだからいいとして、結論部分は…。「言葉を固定」したら、なぜ生き長らえることができないのか。元々、文字とは「言葉を固定」するためのものではないのか。
 和歌の掛詞などは、濁点がないからこそ成り立つというのはわかるのだが、それは日常の言葉ではない。もし濁音に対して別の文字を作っていたとして、それが具体的にどういう影響をもたらしたと、著者は考えているのだろう。日本人は今頃中国語をしゃべるようになっていたとでもいうのだろうか。そういう主張ならそれでいいのだが、言語学的に説明して欲しいと思うのだ。
 目のつけどころは面白いし、日本語の発音や表記の歴史としては、興味深い話も多く、資料的価値はある。だが、脇道にそれた話が多いのと、「究極の謎」と言うわりに、肝腎な部分(だと自分が思うところ)の説明がなかったところに少々不満が残ったのだった。

Tenten

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