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2014年10月12日 (日)

9月に読んだ本から

ティムール帝国/川口琢司(講談社選書メチエ,2014)
 タイトルは『ティムール帝国』だが、内容のほとんどは、帝国の建設者ティムール一代の事績に関するもの。テーマは帝国ではなく、ティムールその人である。
 ティムールといえば、14世紀の中央アジアに突如として現れ、モンゴル帝国が衰微した後群雄割拠状態だった中央アジアと中東に大帝国を築いた英傑。その征服範囲の広さはチンギス・ハンにも匹敵するが、そのわりに日本ではその生涯があまり知られていない。
 そもそも、ティムールに関する日本語の本があまり出てないのである。一般向けの本としては、本書がティムールについて書かれた日本で初めての本らしい。学術書なら出ているかというと、それも単行本としてはごく少なく、その数少ない内の1冊が、本書の著者が書いたものだったりする。
 とにかく、ティムールについて日本語で読めるという意味では貴重な本なのである。
 内容は次のような構成。

 序文にあたる「サマルカンド・ブルーの謎」では、中央アジアでのティムールの存在の大きさと、それに反して日本でのあまりの無関心について述べる。
 第一章「稀代の英雄の登場」から第三章まではティムール一代記。この章ではティムールの出身と、当時のユーラシア情勢について解説。
 第二章「創業の時代」では、ティムールの台頭から政権樹立までの道を語る。波瀾万丈の歴史だが、政権の支配構造についても考察するという学術的な側面もある。
 第三章「拡大の時代」は、その生涯、ほとんど毎年戦争をやっていたティムールの、東西南北への遠征の歴史。イラン、イラク、シリアの征服、ロシア、インドと、よく飽きもせずこれだけ戦争ができるものである。
 第四章「帝国揺籃の地マー・ワラー・アンナフル」は、ティムール帝国地誌というべき内容。サマルカンドを中心としたティムール帝国の中心地、「マー・ワラー・アンナフル」について。だいたい今のウズベキスタン、タジキスタンにあたる。
 第五章「帝都と首都圏」も、歴史地理的な内容。都市よりも郊外の園地に住むことを好んだというティムールの遊牧民らしい一面が見て取れる。
 第六章「ティムールの死をめぐって」。この章と次の第七章は、ティムールの後継者たちの話。この章はティムールの死と、その後の後継者争いについて。
 第七章「もう一人の後継者」は、ティムールの後継を目指した第4代君主ウルグ・ベグの生涯。さらにティムール家の墓や帝国の歴史書についての考察も。
 第八章「伝説のなかのティムール」は、後世から見たティムール像。というか、ティムールについて書かれた歴史書の歴史。
 終章は「ティムール帝国のその後」と題して、ティムール帝国の滅亡までをごく簡単に述べている。帝国はティムールの死後約100年で滅亡する。確かにあまり長くはないが、よくも悪くもティムール一代の帝国というイメージがあるティムール帝国にしては、意外と長いというべきか。

 蛇足だが、本書を読んでいるうち、「ティムールは中央アジアの織田信長ではないか」という感想を持ってしまった。
 妙に共通点が多いのだ。

・元は地方の小豪族の出身で、大した家柄ではない。
・最初は高貴な血筋を傀儡として担ぎ上げ、用済みになると捨てた。ティムールの場合はチャガタイ家のハン、織田信長の場合は足利義昭。
・性格は苛烈、残虐行為も辞さない。
・周囲が敵だらけだが(所謂「包囲網」というやつ)、それを撃破して勢力を伸ばす。本書にも「ティムール包囲網」という言葉が出てくる。
・志半ばにして死亡。
・後継者に恵まれなかった。

 もちろん、ティムールが征服した土地の広さは、織田信長の領土の何十倍もあり、スケールから言うと比較にならないのだが。

Timur

さすらいの仏教語 暮らしに息づく88話/玄侑宗久(中公新書,2014)
 現役の禅宗の僧侶で、芥川賞作家でもある著者が、仏教に起源を持つ日常語を取り上げて解説する。元は『中央公論』の連載コラムをまとめたもの。
 単なる語源の説明ではなく、本来の意味と、現在使われている意味とのずれや変化を追うことを主眼としている。長い年月の間に意味がずれていくことを、著者は「さすらう」と表現している。「はじめに」でこう述べているように。

 言葉が広まり、そして生き延びるということは、世間の荒波に揉まれながら変化したり、分化したり、場合によっては翻訳などによって別な意味や思想と合流することもある。なんといっても生き物だから、起源から遙かに「さすらい」ながら逞しく生きていくのである。

 本書はそんな「さすらいの仏教語」88語を、1語あたり2ページで解説。さすらったあげく意味が違ってしまった仏教語と、その本来の意味は、例えば次のようなもの。

「退屈」僧侶が修行のきびしさに心が折れてしまうこと。「退いて屈する」わけである。
「工夫」禅宗の僧侶が公案に取り組むこと。
「分別」世間に惑わされてあれこれと小賢しい判断をする、修行の上からは間違った行い。仏教的には「分別を捨て去る」ことが正しい。
「利益」読みは「りやく」、神仏の助けのこと。
「愚痴」サンスクリット語「モーハ」(莫迦)の訳語で、バカと同じ意味。つまり漢字の意味のとおり。
「挨拶」禅問答のこと。
「愛嬌」本来は「愛敬」で、仏や菩薩の穏やかで慈悲深い様子。

 こんな風にまるきり意味が変わってしまった言葉の他にも、意外な言葉が数々収録されている。
 いかにも仏教語らしいが本来の意味が薄れてしまった言葉――「観念」「娑婆」「説教」「彼岸」「微塵」「奈落」「般若」「念仏」など。あるいは、仏教起源の言葉とは意識されてない言葉――「どっこいしょ」「うろうろ」「ないしょ」「砂糖」「爪弾き」「ご馳走」「玄関」「瓦」など。
 さすがに僧侶だけあって仏教知識は豊富、そしてさすがに作家だけあって、文章はきわめて読みやすく、抹香臭さがない。そしてさりげなくユーモアがちりばめられている。しかし「魔羅」とか「女郎」とか「ご開帳」とかは、大衆受けを狙いすぎじゃないかという気もするが。
 とにかく、語源雑学の本としても読めるし、さりげなく仏教の基礎知識も散りばめてあって、一挙両得とも言える。ただ、仏教の知識を得るには、あまりに断片的な情報なので、物足りないのではないだろうか。やはりどっちかというと「言葉の本」として、気楽に読むべきものだろう。

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