世界のなかの日本
世界のなかの日本 十六世紀まで遡って見る/司馬遼太郎、ドナルド・キーン(中央公論社,1992)
司馬遼太郎とドナルド・キーンという、今は亡き二人の大家の対談。この本が出た時にはまだ生きていた。
テーマは16世紀以降の日本と世界、日本から見た世界、世界から見た日本について。この場合の「世界」とは、主に西欧世界のこと。
本書は後に中公文庫で文庫化されているが、とっくに絶版。
内容は7章に分かれている。
1「オランダからの刺激」
現在のオランダでは忘れられている日本とのつながり。だが江戸時代の日本にとって、オランダの存在は大きかった――というような話。鎖国の功罪も話題になっている。
2「日本人の近世観」
江戸時代の悪いイメージは明治政府が作ったもの。その明治の基本イデオロギーは朱子学をベースに作られたとのこと。朱子学というのは、司馬によれば、「非常にむなしい神学論に満ちたもの」なのだそうだ。司馬遼太郎は江戸時代に比べて明治を高く評価していたように思うのだが、この章はなんだか様子が違う。
3「明治の憂鬱を生んだもの」
明治の知識人たちが西洋文化に対して示したさまざまな態度――拒否、反抗、受容について語る。名前が挙がるのは、夏目漱石、大沼沈山、二葉亭四迷、中村敬宇など。
4「大衆の時代」
前半は江戸時代の美術、後半は江戸時代の大ベストセラー「日本外史」について。
5「日本語と文章について」
前半は、明治以後の文章日本語の成熟について。後半は「冥途の飛脚」など古典文学の話。
6「日本人と「絶対」の観念」
宗教の話。日本人には「絶対」がわからない、という司馬の話から始まる。こういう大づかみな話をするのはだいたい司馬の方である。神道は、「中身はあっけらかんとしたほどに空っぽです」と、やはりこれも司馬の言葉。
7「世界の会員へ」
ここでやっと、「世界の中の日本」という、タイトルに即したテーマが出てくる。「会員」というのは何のことなのか。日本は「江戸時代はもとより、明治以後の世界の一員だったことはない。つまり、特別会員もしくは準会員もしくは会員見習いであったとしても、ちゃんとした会員であったことはない」と司馬は言う。だからそろそろ正式の会員にならないと――という意味。
しかし、「ちゃんとした会員」とは何のことなのか。司馬にしてはずいぶん乱暴な意見に思える。
対談なので、いかにもまとまりがない印象はある。「世界の中の日本」というタイトルのわりに、半分くらいの章は西洋とほとんど関係がなかったりするし。とはいえ、ひとつひとつの発言をとると、いかにもこの二人らしい、興味深い知識や意見が含まれてはいるのだが。
まえがきはキーン、あとがきは司馬が書いている。キーンは主に日本の「近世嫌い」について語っているのだが、司馬はほとんどキーンのことばかり。「精神の温度が高いのか、たえず知的な泡立ちがある」など、特有の表現を使ってベタ誉めしている。実はこのあとがきが、一番司馬らしい文章だった。