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2020年4月28日 (火)

物語ウェールズ抗戦史

物語ウェールズ抗戦史 ケルトの民とアーサー王伝説/桜井俊彰(集英社新書,2017)
 タイトルだけ見ると、中公新書の一連の『物語○○の歴史』の1冊みたいに見えるが、これは中公ではなく集英社新書。
 この著者の本は本ブログでもすでに何冊か紹介しているが、アングロ・サクソン時代のイングランドを扱った本と、ウェールズを扱った本とがある。本書はもちろん後者の系列に属するウェールズ史本。
 ローマ時代からテューダー朝成立までのブリトン人とウェールズの歴史。その「負けてばかり」の歴史を、ウェールズの自立や名誉のために闘った人々を中心に語った歴史読みものである。
 とにかく著者の「ウェールズ愛」が尋常ではない。歴史書らしからぬ感情的な書きぶりがあちこちに散見される。「とにかく称えてあげたい気がしてなりません」とか、「感無量ですね」とか、「なんと憎いばかりのヘンリー・テューダーの演出でしょう」とか、歴史本とは思えないような、感情まるだしの表現が散見される。
 ウェールズが好きすぎるだろう、という感じである。そこがこの本の魅力でもあるが。

 内容は、短いプロローグ、エピローグにはさまれた4章構成。

 プロローグ「「よそ者」と呼ばれた人たち」では、まず日本人になじみの薄い「ウェールズ」とは何かを説明。
 第一章「ブリトン人から、ウェールズ人へ」は、ローマ時代からアングロ・サクソン時代のウェールズ史。――というか、「ウェールズ人」と呼ばれるようになる前のブリトン人の歴史から始まる。
 登場するのは、紀元前1世紀、ローマ帝国に対して反乱を起こしたブリトン人の女王ボウディカ。アーサー王の原型となった人物と伝説の拡大。7世紀、イングランドの一部を一時的に制服したグウィネズ王カドワロン。11世紀、全ウェールズを初めて統一したグリフィズ・アプ・サウェリン。
 第二章「ノルマン人西へ、ウェールズへ」は、12世紀~13世紀の歴史。
 初めてウェールズの大公(Prince)を名乗ったグウィネズ王大サウェリン。
 ウェールズ教会の独立を目指したジェラルド・オブ・ウェールズの闘争。この人は、去年本ブログで紹介した『イングランド王国と闘った男』(2019年6月16日のエントリー)は、この人が主人公。
 大サウェリンの孫の「プリンス・オブ・ウェールズ」サウェリンとエドワード1世との闘い。。
 第三章「独立を懸けた最後の戦い」は、15世紀、ウェールズ最後の大反乱を起こし、一時は「プリンス・オブ・ウェールズ」を名乗ったオワイン・グリンドールの生涯。この章は一章まるごと、この人の事績のみ。
 第四章「赤竜の旗のもとに」は、ウェールズの「大逆転」を語る、本書のクライマックス。
 イングランド王家の一使用人だったウェールズ人オワイン・テューダーは、元王妃と恋仲になり、「逆玉の輿」の結婚をする。その孫で、ウェールズの血を引きながらイングランドの王位継承権を持つことになった運命の子、ヘンリー・テューダーが本章の主人公。
 ウェールズに生まれ育ち、逆境の中を生き抜いてきたヘンリーは、ボズワースの戦いで悪王リチャード3世を倒し、イングランド王ヘンリー7世として即位する。「ウェールズ人」が、ついにイングランドの王になったわけである。
 これが著者の言う「大逆転」。
 エピローグ「ウェールズよ、UKよ、何処へ」は、ただの付け足し。

 それにしても、ウェールズの歴史はドラマが多い。著者が入れ込むのもわかる気がする。

Waleskousenshi

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2020年4月24日 (金)

小説の解剖学

小説の解剖学/中条省平(ちくま文庫,2002)
 著者は作家ではなく文学研究者。だから読む前は、これは小説の文章や構成を詳細に分析した評論の類なのだと思っていた。
 しかし実は全然違っていて――というか、そういう側面も確かにありはするが、それは主題ではなく――小説家志望者に向けた創作講座なのだった。
 実は単行本(1995)のタイトルは、『小説を書く!』。1992年から94年にかけて開講していた「創作学校創作科」の講義の一部をまとめたものなのだった。そんなことを全然知らずに、評論だと思って買っていたのである。
 本書の元となった創作講座の対象は、純文学の創作をめざす人たち。だから、講義内容も、純文学をいかに書くかというテーマに特化している。
 とはいえ、講義の題材として純文学しか出てこないかというとそんなことはなくて、ミステリはさかんに取り上げられている。ただし、ミステリを書くための見本としてではなく、小説のテクニックのための教材として。「われわれの書く普通の小説にいくらでも応用が可能なんです」「ミステリーほど小説のテクニックを学びうる形式はない」と著者は言っている。
 さらに、こういうくだりもあって、著者や受講者たちの立場を端的に語っている。「われわれの小説は謎解きなしでも自立する面白いミステリーであるべきなんです」と――。
 受講者たちのめざすのはあくまで、「普通の小説」という前提なのである。
 それにしても、「普通の小説」とはなんなのだろう。

 あとがきによれば、著者は小説を書いたことはないし、これから書くつもりもないのだそうだ。
 そういう人が小説の書き方を講義するというのは、考えてみればなかなかいい方法なのかもしれない。自分で書いてないからこそ、客観的に、どんな作家の手法も解説できるし、何より、「偉そうに講義しているが、そういう自分が書いた小説はそんなにたいしたものなのか」などと思われる心配はないのだから。
 ともあれ、趣旨を間違えて買ってしまったとはいえ、小説を読む上でも、参考になることは多かった。

Shousetsunokaibougaku

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2020年4月20日 (月)

ドイツ 町から町へ

ドイツ 町から町へ/池内紀(中公新書,2002)
 去年亡くなった池内紀の紀行エッセイ。この人の本業はドイツ文学なのだが、専門の枠にとらわれない多彩なエッセイが魅力的だった。本ブログでも以前に『今夜もひとり居酒屋』なんて本を紹介したことがある(2014年3月8日のエントリー)。80近い歳だったとはいえ、死去が惜しまれる。

 本書は、著者がドイツのさまざまな町を歩き回った体験から生まれたもの。特に小さな町が好きだったようだ。
 まえがきにも、「人間的尺度に応じた大きさ、あるいは小ささがいいのであって、それをこえると快適さを失うだけでなく、都市が人間を困惑させ、疲れさせ、ときには威嚇してくる」と書いてある。
 だから本書に登場する町の大半は、小さくて昔のままの姿をとどめた町。あるいは文人となじみの深い町や、独自の文化を持った町も好みのようだ。「市庁舎前の広場に立つと、美しいオーケストラを聞いているかのようだ」と絶賛されるクヴェーリンブルク。「地上の天国」とまで言われるエルヴァンゲン。トーマス・マンが生まれたリューベック。ソルブ人の町バウツェン。バウハウスゆかりの町デッサウ。チェーホフ終焉の地バーデンワイラー。――等々。
 さすがに無視できないような大都市も出てくる。ベルリン、ハンブルク、ケルン、フランクフルト、ミュンヘンといったところ。しかし、州都クラスの都市で登場しないところがけっこうあるのだ。
 州都で言えば、キール、シュヴェリーン、ハノーファー、デュッセルドルフ、エアフルト、マインツ、ザールブリュッケン、シュトゥットガルト。他にドルトムント、エッセン、デュースブルクといった人口の多い都市も出てこない。
 人口が多くても、ライプツィヒ、ドレスデン、ニュルンベルク、アウクスブルク、アーヘンといった、文化、歴史的に特色のある都市は出てくるのだ。
 しかしやはり著者の好みは、小さくても個性のある町にあることは間違いない。そういう町のことを書く時、文章がいかにも楽しそうなのだ。ただ、なぜかロマンチック街道で有名なローテンブルクやディンケルスビュールは出てこない。観光地化されたところはいやなのだろうか。
 内容は一応、北、中部、南ドイツの三地域に分けて書いてあるが、それぞれの中は順不同で並んでいるのが、いかにもそぞろ歩きをしているようでいい。

 事実上著者の遺作みたいなものになった『消えた国 追われた人々』も読みごたえのある紀行エッセイで、これもそのうち本ブログで取り上げたい。

 

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2020年4月16日 (木)

言論統制

言論統制 情報官・鈴木庫三と教育の国防国家/佐藤卓己(中公新書,2004)
 出版界に対する横暴な弾圧者として悪評の高かった鈴木庫三という陸軍軍人がいた。日中戦争の時期に言論担当の士官として頭角をあらわし、太平洋戦争前半まで「情報官」として出版界の統制に当たっていた。
 本書は、実質的にその鈴木庫三の詳細な評伝。戦時中の言論統制の実態を語る本みたいなタイトルだが、サブタイトルが本質なのである。

 内容は、序章、終章とあわせて7章構成。
 序章「『風にそよぐ葦』の神話」は、戦後に描かれた鈴木庫三のイメージの典型例として、石川達三の小説『風にそよぐ葦』に登場する、鈴木をモデルとする軍人「佐々木少佐」を取り上げ、そこに疑問を呈する。「はたして実在の鈴木庫三は本当に「知的ならざる軍人」だったのだろうか」と。
 本編は、鈴木庫三の評伝そのもの。記述の大半は、鈴木が残した詳細な日記によっている。この日記の発見が本書を生みだしたらしい。
 第1章「立志・苦学・軍隊」は、鈴木の生い立ちと、軍人としての初期の経歴。
 第2章「「教育将校」の誕生」では、鈴木の大学生活について述べる。鈴木庫三は軍人としての勤務の傍ら、大学に通っていたのだ。日大夜間部を卒業、その後軍から派遣されて東京帝大の学生となる。「陸軍派遣学生」という制度があったのだ。知らなかった。帝大では哲学、倫理学、教育学などを学ぶ。
 第3章「昭和維新の足音」。若手将校による昭和維新運動、満洲事変、一〇月事件、五一五事件など、世の中の動きが不穏になっていく中、鈴木は帝大に通い続け、教育学の専門家となる。インテリ将校の誕生である。
 第4章「「情報部員」の思想戦記」。1938年、鈴木は陸軍省の情報部に勤務することになり、いよいよ言論統制の現場に出る。出版界や文芸界に対する思想統制の他、自身が精力的に論文執筆や講演を行い、「思想戦」に本領を発揮する。
 第5章「「紙の戦争」と「趣味の戦争」」。1940年、鈴木は情報部「情報官」に就任。幹部の職名らしいが、組織の中でどういう位置づけなのかよくわからない。組織図が欲しかった。
 この章では「情報官」として言論統制の現場の最高責任者となった鈴木の活動を詳しく追う。総力戦体制の中で鈴木の思想はますます全体主義に傾いていく。「鈴木の「戦争=福祉国家」は、ほとんどソヴィエト体制である」と、鈴木びいきの著者も語っているほど。
 終章「望みなきにあらず」は、太平洋戦争後半、情報官から満洲に転出してからと、戦後1964年に死ぬまでの鈴木の経歴を簡単に追う。

 要するに著者が本書を通じて言いたいことは、「鈴木庫三はそんなに悪人ではなかった」、「もののわかっているインテリだった」ということらしい。
 しかし鈴木を擁護したいあまり、その全体主義的思想のやばいところに目をつぶっているように見えるのはどうなのだろう。まあドキュメンタリーとして読みごたえはあるのだが。
 第3章で書かれていた、「平時の軍隊は教育機関である」という見方は新鮮だった。だからこそ、鈴木庫三は大学で教育学を専攻していたのだ。

 

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2020年4月12日 (日)

傳記文學 初雁

傳記文學 初雁/森銑三(講談社学術文庫,1989)
 この著者の本については、本ブログでずいぶん前に『新編 物いう小箱』という奇談集を紹介したことがある(2010年2月5日のエントリー)。
 その時に、著者について「学界に属さず独自の研究を続けた歴史学者、書誌学者で、人物伝を中心に数多くの著作を残した」と書いた。本書はその「人物伝」にあたる著作で、著者のもっとも得意とする分野である。

 元本は戦時中の昭和17年に出版された同題の本。それに『傳記走馬燈』(昭和31年)、昭和の終わり頃に正月の配り本として作成されたという「新島ものがたり」を合わせたもの。元の『傳記文學 初雁』がどこからどこまでなのかはよくわからない。また、「初雁」というタイトルの由来も実のところよくわからない。
 昭和16年に書かれた『傳記文學 初雁』の序文が最初に掲載されていて、それによると「近頃は、古人を忍ぶ展覧会や講演会などへ出かけても、若い人達はとんと見かけない。それがあまりに寂し過ぎる」という思いから生まれた本らしい。まるで最近の話を聞いているようだが、戦前にすでにそういう状況があったようだ。
 内容は、一人の人物の生涯をすべて書いた伝記というよりは、エピソードを集めたものに近い。1編1編がかなり短いのだ。2月に本ブログで紹介した『大江戸曲者列伝』のような感じ。――というか、あの本が森銑三の系譜を引くものなのだろう。
 読んで面白いと感じたのは、『大江戸曲者列伝』よりも本書の方だった。すべて旧仮名遣いだが、読んでいるとそんなことは意識から消えてしまい、古さを感じない。
 最初の方は、人気のある題材で読者を掴もうという意図か、「堀部安兵衛」、「泉岳寺」、「細川邸」と、忠臣蔵ネタが3編。
 その後は、まったくバラバラな題材が並ぶ。勝小吉や平賀源内、渡辺崋山など有名人も登場するが、それはごく一部。一般には知られていない学者や僧侶、無名の侍などのエピソードが多い。
 中には、無名の書店主(「書賈与兵衛」)、川路聖謨の部下の利発な幼女(「お栄といふ幼児)、長崎の女性陶工(「長崎の亀女」)など、歴史の表に出てこないような人々にもスポットが当てられている。
 しかし、なんと言っても多いのは、学者・文人の世界に取材したもの。全26編中、14編が学者の話。それも知らない名前ばかり。ブログ主がこの世界に詳しくないというのもあるが。知ってる名前は平賀源内、渡辺崋山、松崎慊堂、南方熊楠(この人だけ例外的に明治以後)くらいだった。この内の松崎慊堂は、上の『大江戸曲者列伝』で初めて知った名前である。
 ブログ主は歴史にはずっと興味があって、それなりに本も読んで来たつもりだったが、江戸時代の学者や文人たちについては、ほとんど知らないことだらけだった。この世界、果てしなく奥が深く、エピソードの宝庫らしい。ブログ主にとって森銑三というのは、この未知の世界への案内人として強く印象づけられる名前になってきた。今さらながらだが。

Hatsukari

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2020年4月 8日 (水)

春宵十話

春宵十話/岡潔(光文社文庫,2006)
 異色の天才数学者岡潔(1901~1978)のエッセイ集。
 単行本が1963年刊、1969年に角川文庫で最初の文庫化。
 この文庫が出たのが2006年(光文社のサイトには「待望の復刊」と書かれている)で、手持ちの2015年刊は15刷。時代を超えて読まれているロングセラーである。
 テーマは当然ながら数学のことが多いのだが、具体的な数学上の定理や数式について書かれた部分はまったくと言っていいほどない。「数学とは何か」という哲学的問題を語っているのがほとんど。
 それ以外には、科学や教育、哲学、宗教、日本文化などについて。200ページちょっとの薄い本だが、全編にわたって名言と言える表現が散りばめられている。実は全部口述筆記らしいが、しゃべる内容が名文になっているのだから名文家と言っていい。言わば寺田寅彦の伝統を継ぐ科学者エッセイスト。

 内容は、数学と教育について10回にわたる講話形式で語った「春宵十話」が最初の50ページ。自伝的内容も含まれている。
 その後は、短いエッセイが22編。
 全体として、科学者でありながら「理性よりも情緒」という原則を貫いている。大学生のときに「ぼくは計算も論理もない数学をしたいと思っている」と宣言したのだそうだ。そんな著者が頼りにするのは、情緒というか、直感みたいなものらしい。あるいは、著者の言い方によれば「真智」か。
 この人の数学というのは、ほとんど宗教みたいなものだったようだ。はしがきには数学のことを「自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つであって」なんて書いてるから、あるいは芸術か。とにかくこの人の場合はそれで通用したのだから、数学というものはわからない。
 岡潔の文章を通じて見る数学の世界というのは、神秘そのものに見えるのである。あるいは、本当に神秘的なのは、この人自信の頭の中かもしれない。

Shunshoujuuwa

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2020年4月 4日 (土)

千霊一霊物語

千霊一霊物語/アレクサンドル・デュマ;前山悠訳(光文社古典新訳文庫,2019)
 あの大デュマが書いた怪談小説。タイトルは「千夜一夜物語」をもじったものだが、複数の語り手が交互に自分の体験した怪異を語るという形式なので、むしろ日本の「百物語」に近いと言える。

 1831年、デュマはフォントネ=オ=ローズという町で首切り殺人事件に遭遇し、裁判の証人となる。
 事件は、ジャックマンという男がよくわからない理由で妻の首を斬り落として殺したというものだが、ジャックマンは切った後の妻の首が噛みついて来たと供述する。
証人として立ち会ったのは、デュマの他、この町の市長ルドリュ、医師のロベール、文人のアリエット、司祭のムール。デュマは市長の家に招かれ、そこで調書に署名することになる。
 市長の家には、先ほどの証人たちの他、ルノワール士爵と謎の女性が招かれていて、彼らは署名の後で食事をふるまわれ、食後に歓談をする。そこで怪談話が始まるのだった。
 最初は、正体主のルドリュ自信が語る。切り取られた首が生きていたという犯人の言葉に関連して、自身が若い頃に体験した話。フランス革命の頃、ソランジュという偽名を名乗っていた女性との恋と、彼女の悲劇的な死、そしてその首から呼びかけられた体験。
 続いて、ロベール医師が話すのだが、それは彼自身の体験ではなく、イギリス人の医師から聞いた話。――で、その医師が判事から聞いた怪異体験の話。判事は自分が処刑した悪党のかけた呪いに取り憑かれ、死んでしまうのだった。もう首がどうのこうのというテーマとは関係なく、ただの怪談になっている。
 次はルノワールの話。フランス革命の時、サン=ドニの王墓でアンリ4世の亡骸を侮辱した男のたどった悲惨な運命。フランス革命の時期でも、アンリ4世だけは特別だったらしい。
 その次はムール司祭が自分の体験を語る。ラルティファイユという悪党を自ら改心させた体験と、その後の彼の刑死。非常に説経くさいが、司祭がしゃべっているんだから仕方ないか。
 そしてアリエットの話。スイスの温泉で若妻が療養中、フランスにいた夫が病死する。夫の埋葬に間に合わなかった未亡人は、夫が自分の死後に身につけておいて欲しいと願った髪の毛を手に入れるため、墓を掘り起こす。彼女にはなぜか夫が埋められている場所がわかったのだった。
 最後は、謎の女性ヘドウィグの話。これが一番長く、かつドラマチック。
 ヘドウィグはポーランド人。一族がロシアに対する独立闘争に蜂起し、敗れたため、彼女はモルダヴィアに亡命することになる。その旅の途中で彼女が体験した、吸血鬼の恐怖と悲恋の物語。

 一同の中でデュマだけが何も話をせず、聞いているだけ。ヘドウィグの話が終わったところで、あっさりと作品も終わる。
 ひとつひとつのエピソードは、さすがにデュマだけあって読ませるのだが、全体としては、なんだか中途半端に始まり、終わった印象が残る。

Senreiichireimonogatari

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