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2020年10月30日 (金)

殿、ご乱心でござる

殿、ご乱心でござる/中山良昭(洋泉社・歴史新書,2016)
 江戸時代、さまざまな理由から藩の存続を危機に追いやり、大名の地位を追われた「乱臣の殿様」たちの行状をまとめた本。
 取り上げた事例はけっこう多いが、なにしろ殿様一人あたり2ページから、長くても6ページ、大半は4ページ。おまけに字が大きい。ページ数も200ページ足らずだし、正直言って読みごたえは薄い。早く読めるのだけが取り柄。

 第1章「刃傷事件――人を殺めた殿様」。いきなりとんでもない殿様たちが集まっている。トップは赤穂藩の浅野長矩で、これはやはりそうかと言う気がする。
 他に内藤忠勝、水野忠恒など、全7人。さすがに殺人ともなると切腹という処分が多いが、水野忠恒みたいに、発狂扱いで蟄居謹慎という処分もある(藩は改易だが)。
 第2章「狂乱殿様――発狂してしまった殿様」は、松平忠之、松平光通、稲葉紀通など8人。「乱心」の本来の意味に一番近い人たちである。
 陽明学にのめりこんだり、残虐行為に走ったり、鬱病になったり。中には伊丹勝守みたいに、江戸城の厠で自殺したということしかわからない謎の死をとげた人もいる。実のところ、本当に狂ったのではなく、都合により発狂したことにされた人もいたのではないかと思われる。他の章にもそういう事例は多数ある。
 第3章「セクハラ大名――女性問題でしくじった大名」。江戸時代にセクハラなんて概念はあり得ないので、このタイトルはちょっとどうかと思う。それはともかく、吉原の大夫に入れあげたり、酒食にふけったり、要するに女性関係で不行跡があったということである。伊達綱宗、前田茂勝など5人。
 第4章「幽閉藩主――投獄された殿様」。これは要するに、家臣とのトラブルで失脚した殿様たち。水野忠辰、溝口政親など7人。この人たちは本当に乱心したのではなく、そういうことにされたのだろう。
 第5章「幕政批判――幕府に反逆した殿様」。幕府に反逆というか、むしろ立場は逆で、時の将軍にとって都合が悪いから消された、みたいなケースが目立つ。松平忠輝や徳川忠直など、その典型。他に堀田正信、坂崎直盛など、全7人。最後の坂崎などは本当の乱心だが、その他は前の章と同じように、名目上発狂として処理された場合が多い。
 第6章「御家騒動――家臣と喧嘩した殿様」。これも家臣とのトラブル。大名が偏狭で独善的だったりするケースが多いが、単に性格に問題があるだけで、乱心というのはどうなのだろう。トラブルの果てに正気と思えない行動をする事例もあるようだが(加藤明成みたいに)。黒田忠之、伊達秀宗、宗義成、徳川光圀など9人。
 あの水戸黄門こと徳川光圀も入っているのである。よほど気に入らなかったのか、家臣を斬ったのだが、御三家の威光のおかげか御家騒動にまではならなかった。しかし徳川光圀も、かなりヤバい人だったのは確かなようである。

 こうしてみると、たまに有名な人も出てくるものの、ほとんどは親藩や譜代の中小大名の事例。大藩はあまり出てこないが、その中で前田家と伊達家だけが妙に多い。不思議なような、やはりそうなのかという気もするような…。

Tonogoranshin

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2020年10月26日 (月)

黙読の山

黙読の山/荒川洋治(みすず書房,2007)
 このブログに登場するのは2回目の、詩人荒川洋治。
 前回取り上げたのは『本を読む前に』という書評・読書エッセイ集(2008年11月27日のエントリー)。
 本書も、本と文学を主なテーマに書かれたエッセイを集めている点では似たような本。ただ本書の場合、1編あたり2~3ページのごく短いエッセイが多いので、収録されている数は58編と多い。発表媒体は新聞・雑誌などさまざま。
 書名は同題のエッセイから。「山」という字を普段は黙読しているので、話す時に山の名を呼ぶ時、読みが「やま」なのか「さん」なのか迷う、という何でもない話。ただ、著者がこれまで黙読してきた膨大な本の山、という意味もこめられているのだろう。
 この人の本に関する文章は、平易な文章でありながら――というか、だからこそ、言及されている本を読みたい気にさせる効果に富んだ名品が多い。
 時にはわずか2、3行の文章で、その本に対する関心と興味をかきたてる。
 特に、巻末近くに掲載されている「おもかげ」というエッセイ。著者の個人展覧会に出品した、自分の蔵書の中の思い出の本を列挙しているが、それにつけられたコメントがいい。例えば――。

□草野心平『わが青春の記』(オリオン社・一九六五)。詩と青春の記録。詩を生きることは、つらい。でも楽しそうだ。そう感じた。
□保田與十郎『日本の橋』(講談社学術文庫・一九九〇)。美しい措辞と妖しい思想が奏でる「日本」の名作。学生のとき、講談社の著作集で読む。
□村上一郎『日本のロゴス』(南北社・一九六三)。激越な評論が心をとらえた時期。わけても愚直に「かなしみ」を生きる村上一郎の文字は印象を残した。

 一見なにげないようでいて、簡明で的確な言葉の選び方。
 他にも気になる本がぞろぞろ出てきてきりがないのである。本の選び方というより、言葉の選び方がうまいのだろう。本に輝きを持たせる言葉の力である。
 本に関するブログを書いてる身としては、こんな風に本を表現できる言葉が持てれば、と切実に思う。

Mokudokunoyama

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2020年10月22日 (木)

魅せられた旅人

魅せられた旅人/ニコライ・レスコーフ;木村彰一訳(岩波文庫,1960)
 19世紀のロシア小説。原著は1873年に刊行されている。
 実のところ、こんな作品があるなんて全然しらなかった。60年も前に出版された本なのに。いや、だからこそか。古本でたまたま見つけて買ったのである。

 巡礼の一行に加わってきた、曰くありげな修道僧の身の上話という形で、一人の男の波瀾万丈の半生が語られる。
 男の名はイヴァン・セヴェリヤーヌイチ・フリャーギン。姓を呼ばれることは滅多になく、「ゴロヴァン(頭でっかち)」の通称で呼ばれることが多い。元は農奴の出身だが、その運命の変転は実に予測不能というか、どこに転がっていくかわからない。
 主なところだけでも、伯爵の召使い、韃靼人の捕虜(この捕虜生活中に身につけた馬の知識が、後で大いに役に立つ)、公爵に仕える馬鑑定人、兵隊、そして最初の方で予言されたとおり、修道僧になる。
 しかしこのイヴァン氏、これだけいろいろな経験をしながら、女性関係についてはあまり語るほどのことがなかったらしい。終盤になるまで、女性はほとんど話の中に出てこないのだ。
 ただ、韃靼人(今で言うタタール人か)のところに10年間捕らわれていた間に、現地の女性と結婚して子供もできていたということがさらっと語られている。しかし韃靼人の妻子は、イヴァンが脱走する時にみんな置き去りにしてきたのだった。
 その他にも、身分が変わるたびに、過去をさっぱり投げ捨ててきている。この人物、妙に人にも物にも執着がないのである。
 話も終わりに近くなって、やっと女性がらみのエピソードが出てくる。後半の大部分を占める公爵家のエピソードで、公爵の愛人だったジプシー女グルーシュカと危うい仲になりかけるのだ。しかし結局、公爵に捨てられて殺して欲しいと懇願する彼女を、崖から突き落としてしまう。イヴァンは彼女を殺したと思っているが、本当に死んだのかどうかは、最後までわからない。

 とにかく話がどう展開するかわからない。現代の小説のような約束ごとは通用しない世界なのである。正直言って、ストーリーが行き当たりばったりという気もしないではない。だが結局のところ、妙に面白いのだ。ロシア小説の隠れた佳作ではないだろうか。

 

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2020年10月17日 (土)

光瀬龍の怪作ふたたび

魔道士リーリリの冒険/光瀬龍(光風社出版,1993)
 以前に本ブログで光瀬龍の『異本西遊記』という変な小説を紹介したことがあるが(2009年3月6日のエントリー)、本書はそれに輪をかけた怪作である。
 そもそもブログ主は、光瀬龍にこんな作品があったこと自体知らなかった。近所の図書館でたまたま見つけて、なんとなく借りて読んでみたのである。正直言って、別に知らないままでいてもかまわなかった気がする。

 主人公リーリリは、見た目は「大人にはまだだいぶ間が有りそう」な少女。だが、実はかなり長い間生きているらしく、真の年齢は不詳、出自不明。驚異の身体能力を備え、得体の知れない術を使い、古今東西の知識に通じ、バラバラになってもペシャンコになっても復活する、魔道士というより妖怪じみた超能力者である。
 そのリーリリが、相棒の白い犬ポンポン(これまた自在に変身する超能力生物)とともに、時空を超えて活躍する連作短編集。全7話。

 第1話「さすらいのリーリリ」は、いつどことも知れない異世界が舞台。怪現象により無人化したセリス盆地に向かう旅人黎莉莉[リーリリ]とポンポン。怪異の原因を作ったたキノコ人間たちと戦うことになるが、退治方法がとんでもない。
 第2話「ニューヨーク裁判物語」では、舞台は一転して20世紀のニューヨーク。リーリリはなぜか弁護士事務所をやっている。そこへやってきたのがガーゴイルそっくりの見習悪魔ヒドロゾア、セント・バルキリー教会のガーゴイルを肖像権侵害で訴えたいという。
 第3話「雨ぞ降る」は、また異世界の話。いつ果てるともしれない雨が降り続くサッサミメア王国。その都にやってきたリーリリは、怪しげなレインコートの謎を追って王宮に入り込み、国を乗っ取っていた宇宙から来たナメクジと戦うことになる。ナメクジ嫌いの人には耐えられない話。
 第4話「Lidyの夜」は、珍しくベッドシーンから始まる。また20世紀のアメリカの話だが、第2話よりは少し後の時代らしい。リーリリはいつのまにかサンフランシスコで「何でも承ります」屋をやっている。今度の相手は上院議員の愛人ウオルベリン・ピーチ、実は古代から生きている不死の魔物。
 第5話「悪魔は夜来る」。またしてもアメリカが舞台で、年月日がはっきり書かれている。1989年12月3日、ニューヨーク市ロングアイランドで開催中の世界SF大会で惨劇が起きる。自動販売機からバラバラになった人体の手や足や首がころげ出てきたのだった。警察もお手上げで、リーリリに調査が依頼される。
 ちなみに、1989年のワールドコン(世界SF大会)は、実際にはその年の8月から9月にかけてボストンで開催されているので、この作品とはまったく関係ない。
 第6話「大江戸喪神記」。今度は元禄時代の江戸が舞台。リーリリは長屋に住んでいて「おりり」と名乗っている。唐物商西海屋が輸入した西洋の「仏像」、実はサタンとガブリエルの像。この二つの像がもたらす怪現象にリーリリたちが挑む。著者はやはりこういう時代ものが好きなのか、このエピソードは心なしか文章が生き生きしているような気がする。
 第7話「ベイレオキンクスの陰謀と逆襲」。最終話は、またしてもどこかわからない世界。一面の廃墟と化したカコープス王国にやってきたリーリリとポンポン。没落したかつての王から依頼され、王国滅亡の謎を探ることになる。最後にリーリリは、彼女とそっくりの「恐怖王」と対決することになる。
 このエピソードでリーリリの正体らしきものがやっと明かされるのだが、全体としてやっぱりわけがわからない。しかしこのメチャクチャな世界にも、一抹の詩情というか、光瀬龍らしさが漂っているのである。

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2020年10月13日 (火)

日本に古代はあったのか

日本に古代はあったのか/井上章一(角川選書,2008)
 タイトルはもちろん反語で、日本には古代はなかった――という著者の大胆な持論を全編にわたって展開している。

 3世紀から5世紀頃にかけて、ユーラシア大陸の東西で同時並行的に、古代帝国の崩壊と、蛮族国家の誕生という現象が起きた。西では、ローマ帝国の崩壊とゲルマン諸民族の国家誕生。東では、漢帝国の崩壊と塞外民族の侵入、そして五胡十六国。それはまた、ヨー路一派と東アジア世界の「中世」の開始でもあった。
 日本(倭国)は、そんな時代に生まれた「蛮族国家」のひとつだった。だから日本は国家が成立した当初から中世なのであって、「日本の古代」あるいは「古代日本国家」などというものはないのだ――というのが著者の説。
 乱暴な説かもしれないが、それなりに説得力があるような気がする。しかも記述の根底には著者の「関東史観」への反発が太い底流をなしていて、西日本の人間にとっては、さらに惹かれるものがある。
 それにしても、本書を読んでいて思うのは、日本の歴史学会で、「時代区分論」がいかに大きなテーマだったかということ。今から思えば、「古代」がいつまでで、「中世」がいつからいつまでかというのは、単に呼び名の問題に過ぎないような気がするが、それは大問題だったのだ。
 そこには、根強いマルクス主義の影響力があった。マルクス主義史学で「古代」、「中止絵」、「近代」の区分というのは本質的な問題なのだ。そして、さすがに今はそれほどのことはないのだろうが、戦後からしばらくの間、日本の歴史学界はガチガチのマルクス主義史観に支配されていたらしい。
 日本は戦国時代まで奴隷制度が続いていて、実質的に古代だった――なんて説は、今聞くとなんの妄想だろうと思うのだが、そんなことがマジメに論じられていたという。
 本書は著者独特の持論とともに、日本の歴史学界の裏面を見せてくれる本にもなっている。

 なお、内容は以下のとおり。

一、宮崎市定にさそわれて/二、内藤湖南から脈々と/三、ソビエトの日本史とマルクス主義/四、弥生は神殿はあったのか/五、キリスト教と、仏教と/六、応仁の乱/七、鎌倉爺体はほんとうに鎌倉の時代だったのか/八、江戸から明治の頼朝像/九、ゲルマニアになぞらえて/十、平泉澄と石母田正/十一、東と西の歴史学/十二、京都からの中世史/十三、ライシャワーの封建制/十四、司馬遼太郎よ、お前もか/十五、梅棹忠夫のユーラシア

 

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2020年10月 9日 (金)

文豪宮本武蔵

文豪宮本武蔵/田中啓文(実業之日本社文庫,2020)
 巌流島で佐々木小次郎を倒した宮本武蔵は、その後、病弱な小次郎の妹、夏に同情し、彼女の生活を援助していた。とはいえ、浪人の身で自分の生活も苦しい武蔵。士官を求めて江戸に出て、柳生宗矩に勝負を挑むが、返り討ちにあい、殺されそうになる。
 死んだかと思ってふと気がつくと、なぜか明治時代にタイムスリップしていた武蔵。いきなり通りがかりの女にぶつかる。女は夏にそっくりで、やはり名前も夏子と名乗る。実は女流小説家で、ペンネームは樋口一葉――。
 さらに武蔵は通りがかりにたちの悪い学生たちにからまれている男を助ける。その男の名は正岡子規。子規の家に招かれると、そこには夏目金之助という男が来ていた。よくまあ、文学史に名の残る人たちにうまく巡り会うものである。
 子規と金之助(漱石)に対して、武蔵は過去から来たなどと本当のことを言うわけにもいかず、小説家を目指して東京に出てきたとでまかせを口にする。
 その後、人力車夫として働くことになった武蔵。樋口一葉から借りた『たけくらべ』を読んでめちゃくちゃ感動する。「俺もこういうものを書いてみたい」という衝動が武蔵の中にわきあがる。武蔵は自分が言ったとおり、小説家への道を歩み始めるのだ。
 ――というところで約半分。
 その後いろいろあって、武蔵は『蒸気力車夫』という小説を書く。そして刊行されるや大いに売れるのだった。
 さらに第二作、『時を駆ける武士』を出した直後、かねてから因縁のあった悪徳代議士大山とその用心棒桑本との争いで武蔵は背中を刺されてしまう。もう死ぬのか、と思ったら、なぜか江戸時代に帰っていた。もう理屈も何もない。そういうものなのである。
 江戸時代で武蔵を待っていたのは、若死にした樋口一葉の霊の力で元気になった夏だった。なんともご都合主義だが、もともと設定がぶっ飛んでいるのだから、あまり気にならない。自分の時代に戻った武蔵は、その後ほぼ史実と同じ人生を送る。最後に武蔵が生涯の最後を飾る『五輪書』を書くところで終わり。しかしここに著者お得意のダジャレが仕込まれていたのである。それまで、珍しくダジャレが出てこないと思ったら、最後の最後でかましてくれたのだった。
 まあ、最後のダジャレを別にすれば、(田中啓文にしては)わりと普通のタイムスリップ小説と言える。江戸時代から来た人間がいきなり小説を書けるのかという疑問は、この際考えてはいけないのである。

Bungoumiyamotomusashi

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2020年10月 5日 (月)

フォッサマグナ

フォッサマグナ 日本列島を分断する巨大地溝の正体/藤岡換太郎(講談社ブルーバックス,2018)
 その昔学校の地理の時間に出てきた「フォッサマグナ」。
 よく聞く言葉である。しかし恥ずかしながら、ブログ主は本書を読むまでその正体をはっきり知らなかった。――というか、名前だけ知っていて正体を知らなかったことに今更ながら気づいた。
 もしかして、その時にはちゃんと聞いていたのに忘れてしまっただけかもしれない。

 以下、そんなことは常識だと思っている人には何の意味もないだろうが――。
 フォッサマグナと「糸魚川静岡構造線」はよく混同されるという。西日本と東日本を分けるあの線である。
 実のところ、自分もそうだった。混同というか、違いがよくわからない。フォッサマグナそのものが何なのか、よくわかってないのだから、違いがわかるわけないのだが。
 糸魚川静岡構造線は、フォッサマグナの西の端なのだという。東の端はというと、よくわかってない。房総半島のあたりまで含まれているらしい。
 それだけの幅を持ったフォッサマグナの実体は、地下6千メートル以上に達する巨大な裂け目。地上からは見えないが、東西の地質が1~3億年前であるのに対し、その部分だけ2千万年くらい前のもので、新しくできたものだという。
 つまり2千万年前にできた深い裂け目に土が積もってできたのが、今のフォッサマグナ地帯なのだ。巨大な溝といっても、地上に現われた地形ではなく、その実体は地下深くにある。
 そして、フォッサマグナのような地形があるのは、世界中で日本だけだという。これも初耳。
 なぜ日本にだけそんな地形ができたのか。実はまだ定説はないらしい。本書後半で著者は、日本列島形成史と深くかかわるその成因を推理する。著者に言わせれば、「鵺を退治するような」ものらしいが。
 とにかく謎に満ちたフォッサマグナ。実のところ、かなり専門的で読みづらい部分もあるが、知らなかったことばかりである。

Fossamagna

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2020年10月 1日 (木)

クローヴィス物語

クローヴィス物語/サキ;和爾桃子訳(白水Uブックス 海外小説永遠の本棚,2015)
 クローヴィスという名前から、歴史好きが連想するのはフランク王国メロヴィング朝初代王クローヴィス1世だろうが、本書はそれとは全然関係ない。まあ、サキの書いた本だから歴史小説だと思う人もいないだろう。普通の短篇集である。
 ところで、本書の解説によると、サキの短篇集でオリジナルそのままが翻訳されたことは今までなかったのだそうだ。確かに、今まで読んだり見たりしたのは、『サキ短篇集』とか『サキ傑作集』とか『ベスト・オブ・サキ』とかいうのばかりだった。
 本書は日本で初めて、原著"The Chronicles of Clovis" (1911)をそのまま翻訳した短篇集。28編を収録。タイトルのとおり、クローヴィス・サングレールという若者が共通して出てくる。
 クローヴィスはいかにもサキらしいキャラクターである。機知に富んでいるが、皮肉屋で嘘つきでいたずら好きで意地が悪い。
 そんなクローヴィスが主人公として騒動を引き起こす話と、ただの脇役としてちょっと出てくるだけの話がある。また、クローヴィスがまったく出てこないシリーズ外の話も3分の1ほど入っている。
 収録作品の中では、しゃべる猫の話「トバモリー」がやはり抜群の面白さ。これは以前にアンソロジー『猫文学大全』に収録されているのを紹介したことがある(2017年2月28日のエントリー)。しかしこの作品には、クローヴィスは脇役でちょっと出てくるだけ。
 クローヴィスが主役の作品としては、ひとつ選ぶなら「不静養」か。
 列車でクローヴィスの近くに座っていたいたハドルという男が「過度の平穏無事」に悩んでいて、生活に刺激をもたらす「不静養」の療法を勧められる。それをたまたま耳にしたクローヴィス。二日後、ハドルのところに主教秘書を名乗る若い男が訪問する。秘書が言うには、主教の発案で、この家を借りて近隣一帯のユダヤ人を皆殺しにするとのこと。自宅が「二十世紀の汚点」の場になるのを防ごうと右往左往するハドル。もちろんクローヴィスにかつがれているのである。
 しかしこの作品、20世紀初め頃だから書けたので、1930年代以降はシャレにならないのでとても発表できないだろう。まさか後年になって、ユダヤ人皆殺しを本当に実行しようとする人物が出現するとは、サキも予想もしてなかったに違いない。(サキは第一次世界大戦で戦死している。)
 クローヴィスものは、基本的にはウッドハウス風のユーモア小説にたっぷりと毒をきかせたような作風なのだが、シリーズ以外ではまた違った作風を見ることができる。「ハーマン短期王」などはブラックユーモアたっぷりの諷刺作品なのだが、ユーモア要素のまったくない作品もある。ホラー系ファンタジーと言える「丘の上の音楽」や、サスペンスに満ちた「運命の猟犬」などが印象的。

Clovis

 

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