魅せられた旅人
魅せられた旅人/ニコライ・レスコーフ;木村彰一訳(岩波文庫,1960)
19世紀のロシア小説。原著は1873年に刊行されている。
実のところ、こんな作品があるなんて全然しらなかった。60年も前に出版された本なのに。いや、だからこそか。古本でたまたま見つけて買ったのである。
巡礼の一行に加わってきた、曰くありげな修道僧の身の上話という形で、一人の男の波瀾万丈の半生が語られる。
男の名はイヴァン・セヴェリヤーヌイチ・フリャーギン。姓を呼ばれることは滅多になく、「ゴロヴァン(頭でっかち)」の通称で呼ばれることが多い。元は農奴の出身だが、その運命の変転は実に予測不能というか、どこに転がっていくかわからない。
主なところだけでも、伯爵の召使い、韃靼人の捕虜(この捕虜生活中に身につけた馬の知識が、後で大いに役に立つ)、公爵に仕える馬鑑定人、兵隊、そして最初の方で予言されたとおり、修道僧になる。
しかしこのイヴァン氏、これだけいろいろな経験をしながら、女性関係についてはあまり語るほどのことがなかったらしい。終盤になるまで、女性はほとんど話の中に出てこないのだ。
ただ、韃靼人(今で言うタタール人か)のところに10年間捕らわれていた間に、現地の女性と結婚して子供もできていたということがさらっと語られている。しかし韃靼人の妻子は、イヴァンが脱走する時にみんな置き去りにしてきたのだった。
その他にも、身分が変わるたびに、過去をさっぱり投げ捨ててきている。この人物、妙に人にも物にも執着がないのである。
話も終わりに近くなって、やっと女性がらみのエピソードが出てくる。後半の大部分を占める公爵家のエピソードで、公爵の愛人だったジプシー女グルーシュカと危うい仲になりかけるのだ。しかし結局、公爵に捨てられて殺して欲しいと懇願する彼女を、崖から突き落としてしまう。イヴァンは彼女を殺したと思っているが、本当に死んだのかどうかは、最後までわからない。
とにかく話がどう展開するかわからない。現代の小説のような約束ごとは通用しない世界なのである。正直言って、ストーリーが行き当たりばったりという気もしないではない。だが結局のところ、妙に面白いのだ。ロシア小説の隠れた佳作ではないだろうか。
| 固定リンク
« 光瀬龍の怪作ふたたび | トップページ | 黙読の山 »
コメント