エッセイ

2009年12月18日 (金)

妻と罰

 妻と罰/土屋賢二(文芸春秋,2007)
 土屋賢二の本は、だいぶ前に森博嗣との共著『人間は考えるFになる』を取り上げているが(2007年11月7日)、単独著者が登場 するのはこれが初めてになる。
 本書は著者14冊目のユーモア・エッセイ集で、『週刊文春』連載コラム「ツチヤの口車」をまとめたもの。まあ、この著者の場合、どこに連載しようが、中身は大して変わりがない。タイトルに大して意味はないのも、これまでの著書と同様。もちろんドストエフスキーとも何の関係もない。ただ、「妻」がたびたび登場し、著者にさまざまな「罰」を与えるという点では、内容に合っていると言えなくもない。
 土屋賢二の一連のユーモアエッセイの特徴は、ワンパターンが一種の芸の域にまで達していることである。
 「まえがき」で、この本のできばえについての言い訳と、なのになぜ買うべきかという強引な理屈をこねているのも、いつもと同じ。
 内容は「まえがき」に書いてあるように、ほとんどが日常茶飯事。しかも大学教授の日常なのでその世界はごく狭い。大学、ジャズピアノ、家庭、テーマはほとんどこれだけ。よくネタが続く――というか、同じネタを使い続けることが芸風なのだ。
 「妻に頭があがらない話」、「世の女の無理解を嘆く話」、「学生に馬鹿にされる話」、その他自虐ネタ全般など、おなじみの話題ばかりなのだが、それでもなんとなく読んでしまう。
 ただ、今回、これまでにはあまりなかったパターンとして目についたものもある。何者かに対する鬱憤をぶちまける話。まあ、それもツチヤ流に、「どうせ自分が全部悪いんです」みたいなニュアンスに仕立てて笑いをとろうとしているが。
 パソコンサポートの受付のサービスのひどさを訴える「パソコンのサービス係の身になってみたら」とその続編、スパムメールや詐欺メールについてのぼやき「ありがたすぎる」、改札でいらいらしたエピソード「紳士がいらだつとき」など。どれも、どうでもいいような話だが、土屋教授の不愉快がおどけた文章から透けて見える。
 また、「外食は危険でありうる」も気になる話だった。「店の人と一度でも口を聞いてしまうと、それ以後、毎回話をしなくてはならなくなる」と、「なじみの客」になってしまうのを避けようとするくだり。この感覚、わかる気がする。書きようによっては、皮肉っぽくも、感傷的にもなり得るこんなテーマを、著者はやはり自虐まじりのギャグに仕立ててしまう。
 初期の頃のパワーは感じなくなったが、芸風は健在である。

 あと、以前のエッセイによく登場していた土屋教授の「助手」(エッセイにこんな表現も変だが、実にいい演技をしていた)が、最近出てこないけど、どうしたのだろう。

妻と罰

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2009年12月 9日 (水)

詩人、草木虫魚を語る

艸木虫魚/薄田泣菫(岩波文庫,1998)
 ほぼ一年前に、「詩人、本を語る」と題して、『本を読む前に』(荒川洋治)を取り上げたが(2008年11月27日)、今回はその本とは何の関係もない。ただ、詩人の書いたエッセイ、という点が共通しているだけである。というか、こういうものは、やはり「エッセイ」ではなく「随筆」と呼びたい。
 明治・大正期の詩人として名高い薄田泣菫は、随筆の名手でもあった。というか、後半生はもっぱら随筆ばかり書いていたらしい。随筆の代表作とされる『茶話』は、大正5年から8年(1916~1919)にかけて複数の新聞に書いたコラムで、4年間に660篇あまりを書いたというからすごい(解説による)。随筆のプロである。
 この本の原本は1929年刊。タイトルのとおり、植物や動物について書いた短い文章が中心。同時代や歴史上の人物にまつわるエピソードや、社会の片隅の出来事を取り上げた小コラムみたいなものも、少し混じっている。上の『茶話』と重複しているものもあるそうだ。全体として、植物や動物に対する目は温かく繊細で、人間に対しては皮肉とペダンティズムに満ちているような気がする。それはまた、随筆の王道でもあるが。詩や文学のことは意外なほど出てこないが、故人を偲んで書いた「徳富健次郎氏」や「芥川龍之介氏のこと」などは、文学者らしい面が出ている。
 動植物に関する随筆が中心といっても、タイトルをよく見てみると、「柚子」、「とうがらし」、「蜜柑」、「松茸」、「桜鯛」、「蟹」、「海老」、「苺」など、実は半分くらいは食べ物の話なのだった。「食味通」なんてタイトルのもあるし。「食べ物エッセイ」の走りなのか。
 薄田泣菫の詩といえば、「ああ、大和にしあらましかば」とか、「かなたへ、君といざかへらまし」とか、やたら詠嘆的な印象があるのだが、随筆の方はわりと淡々としているというか、普通である。あまりに叙情的な随筆というのは、読めたものではない。
 もっとも、食べ物に関したことを語る時、薄田泣菫は時々やたらと生々しい、というかなまめかしい文章を書くことがある「馬には馬の毛皮の汗ばんだ臭みがあり、女には女の肌の白粉くさい匂いがあるように、秋の松山にはまた松山みずからの体臭がある」(「松茸」)とか、「肥り肉の女が、よく汗ばんだ襟首を押しはだける癖があるように、大根は身体中の肉がはちきれるほど肥えて来ると、息苦しそうに土のなかに爪立をして、むっちりした肩のあたりを一、二寸ばかり畦土の上へもち上げて来る」(「蔬菜の味」)とか。もしかしたら食べ物に異様な執着を持っていたのかもしれない、とも思わせる。
 こういうところを除けば、だいたいにおいて文章は平易で、ところどころで詩人らしい巧みなさ言葉の使い方を見せる。とはいえ、やはり戦前の文章であり、現代の文章とはリズムがやや違うのだが。
 つまるところ、上品な面もあれば俗っぽい面もあり、日常的かと思えば浮世離れしたところもあり、一筋縄ではいかない本なのだ。『艸木虫魚』というタイトルから連想されるような、自然を語った優雅な随筆集でないことは確かである。

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2009年11月18日 (水)

我もまた渚を枕

我もまた渚を枕 東京近郊ひとり旅/川本三郎(ちくま文庫,2009)
 パソコンの前で読むべき本。この本を読むには、ネット地図が欠かせない。
 グーグルマップでもYAHOO!マップでもマップファンでもなんでもいいので、とにかくネット地図を画面に表示する。そして、著者が歩き回っているあたりを拡大表示して、その足跡を辿っていく。臨場感が違ってくる。

 タイトルは島崎藤村の詩「椰子の実」より。「名も知らぬ 遠き島より」で始まるあの有名な歌の、歌詞としては2番目の後半にあたる「われもまた 渚を枕/ひとり身の 浮寝の旅ぞ」からとっている。
 しかし、著者はこの歌から連想されるような、長い旅をしているわけではない。東京の隣、千葉、埼玉、神奈川各県のあちこちに一泊で出かけているだけである。
 実際に訪れている町は、千葉県では船橋、我孫子、市川、銚子、千葉市。埼玉県では、大宮、岩槻。神奈川県では、横浜市の鶴見、本牧、寿町など、それに小田原、川崎、横須賀、藤沢・鵠沼、厚木・秦野、三崎。こうしてみると神奈川、それも横浜周辺が多い。よほど横浜が好きなのか。
 元は雑誌『東京人』に連載されたエッセイで、この本に先立って、東京都内を歩き回って連載したものを2冊にまとめている。「東京の町を歩き尽くした感があるので」、今回は東京近郊を歩き回ることにしたのだそうだ。実際に歩いたのは、本文にははっきりと書いてないが、2003年から2004年にかけての頃らしい。
 著者の町歩きはほぼパターンが決まっている。まず観光地には寄らない。上に見るように、訪問先もあまり観光地らしいところは少ない。なるべく昔ながらの町並みをさがしてぶらぶらと歩き、昔風の食堂や居酒屋で食事をし、夕食は必ず酒。そしてあまり高級じゃない宿に泊まる。どんなに近いところでも、必ず一泊する。要するにレトロでスローな町歩きである。ちなみに、同行者はおらず、必ず一人旅。ここも肝心。
 しかしただ町を歩くだけでは芸がない。著者はもちろん町歩きや食事や酒も楽しんでいるのだが、そこはさすがに文芸評論家というか、なんでもないような町に、文学や映画とのつながりという絶妙な付加価値をつける。
 例えば、船橋では太宰治や永井荷風の昔歩いた道をたどり、鶴見では映画「どですかでん」や「陽のあたる坂道」のロケ地をたずね、我孫子では白樺派「文士村」跡や志賀直哉邸跡に立ち寄り、銚子ではかつてこの地を訪れた夏目漱石や島崎藤村、ノーマン・メイラー(!)などについて語る。古い作家ばかりではなくて、千葉市の花見川を訪れた時は、稲見一良の「花見川の要塞」にも言及している。
 かといって、「文学散歩」と呼べるほどに目的が明確なわけでもない。町並み、食べ物、酒、ときどき名所、それ に文学と映画。これらがほどよく入り混じり、のんびりとした雰囲気が全体を包んでいる。
 それにしても、同じ町歩きでも、知識を持っているのといないのとでは、こんなに見える景色が違ってくるのかと、しみじみと思い知らされる。

我もまた渚を枕 (ちくま文庫)

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2009年11月 3日 (火)

「ニッポン社会」入門

「ニッポン社会」入門 英国人記者の抱腹レポート/コリン・ジョイス;谷岡健彦訳(NHK出版・生活人新書,2006)
 著者はオックスフォード大学を出たイギリス人。本来ならエリートコースを進めるはずが、何を思ったか1992年に来日して神戸で日本語を学び、その後ずっと日本に住みつく(この本の執筆後、アメリカに転勤した)。職業は「デイリー・テレグラフ」の特派員。
 この本は、そんな著者が、同じイギリス人に語りかける形式で日本を紹介した本。しかし原書が先に出ているわけではなく、本書はあくまで日本オリジナルの出版(翻訳だから当然原文はあるわけだが)。つまり、外国人から見た日本を外国人に向かって紹介する文章を日本人に読ませる目的で書いた、という実にややこしい形式なのである。
 だが、同国人に向かって語りかける口調が、いかにも外国人の本音を聞かされているような気分にさせる効果を生み出しているのは間違いない。これはこれで、うまいやり方である。
 内容については、「日本について語る」という以外に一貫したテーマはない。全部で17章に分かれていて、一応、「壱」の「【基礎編】 プールに日本社会を見た」と第「拾七」の「【おさらい】 ぼくの架空の後任者への手紙」だけは、最初と最後という位置づけはあるようだが、それこそ新聞のコラム、あるいはブログみたいなもので、興味のあるところからランダムに読んでも、拾い読みしても、なんら問題ないだろう。
 個人的におもしろかったのは、「日本語、恐るるに足らず」と断言する「弐 【日本語の難易度】」。1990年代の日本の地ビールとサッカーの発展を(主として自分の趣味の観点から)、「失われなかった十年」として賞賛する「八 【ビールとサッカー】」。長い日本暮らしで、だんだんと日本流に染まっていく自分を語る「九 【行動様式】 日本人になりそうだ」、来日する同国人に、日本についてのいろいろな(たちの悪い)嘘知識を教えてからかう「拾 【ジョーク】 イギリス人をからかおう」。それに、架空の後任者に日本生活での注意の数々を先輩として伝える、最後の「拾七」。この中には「歌舞伎は歌舞伎町でやってない」、「結婚式には招待されないようにしよう。馬鹿みたいに高い金を支払わされるわりに面白くない」などという忠告がある。
 まあ、結局のところ、日本とイギリスのカルチャーギャップをネタにした軽い読み物なわけだが、あえてもったいぶって言うと、日本人にとって、本書から見えてくるのは「イギリスが見た日本」というよりイギリス人の思考パターンそのものである。日本を知るための本としては、本書は原文のままイギリス人に読ませるべきだろう。そのためかどうかわからないが、本書の原文は、日本語版より3年遅れて、How to Japan―A Tokyo Correspondent’s Takeのタイトルで、2009年8月に出版された。発売元はやはりNHK出版。

「ニッポン社会」入門―英国人記者の抱腹レポート (生活人新書)

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2009年10月 3日 (土)

たいした問題じゃないが

たいした問題じゃないが イギリス・コラム傑作選/行方昭夫編訳(岩波文庫,2009)
 20世紀初頭、イギリスの新聞、雑誌に発表されたコラムを集めたアンソロジー。
「二十世紀の最初の四半世紀は、このラムの伝統に立つエッセイの黄金期であった」と、編者は解説で述べている。ラムというのは、本書に収録されたコラムが書かれた頃からさらに百年前、18世紀末から19世紀前半に活躍したチャールズ・ラムのことであるのは言うまでもない。ラムの古典的傑作とされるエッセイ集は、日本でも『エリア随筆』(岩波文庫)、『エリアのエッセイ』(平凡社)として親しまれているが、読んだことはない。
 それはともかく、編者によれば、そのラム以来の伝統で、イギリスは欧米諸国の中でも文学としてのエッセイの地位が高いのだそうだ。本書はそんな「エッセイ大国」イギリスの黄金時代を代表する名人たち4人の作品が集められている。
ところで、タイトルには「コラム」とあるのに、解説では「エッセイ」と書いたり、用語の使い方が一定してないが、この二つの呼び名がどう違うのか、編者ははっきりとは書いてない。ただ、解説の終わりあたりに、副題に「エッセイ」でなくて「コラム」を用いたのは、「内容からも長さからも、今風の感覚ではコラムですね」と、編集者が言ったからだという。
 まあ、なんとなくだが、エッセイというとやや長めで、まとまった内容のあるもの、コラムは短くて気楽に読めるもの、という感覚で使い分けているのだろう。ただ、『ボブ・グリーン街角の詩』(2008年8月15日)にはかなり長いものもあったが、あの本に収録されているのはやはり「コラム」と呼ぶ方がしっくりくる。むしろ、「文学的」なのがエッセイで、「ジャーナリズム的」なのがコラム、なのかもしれない。
 収録作家は、A・G・ガードナー、E・V・ルーカス、ロバート・リンド、A・A・ミルン。「くまのプーさん」の著者として有名なミルン以外は、今では全然聞かない名前である。当時はずいぶんと有名だったらしいが。
 解説によると、この著者たちのエッセイは、日本では戦前から英語の教材としてもてはやされたそうだ。が、逆に言うと英語教育の場でしか取り上げられなかったので、教材として出版された対訳本以外、日本ではほとんど紹介されてない。聞かないのも無理はないか。ミルンにしても、エッセイストとしてはほとんど知られてないだろう。この本は本邦初の企画と言っていい。
 さっきから、内容のことを全然書いてないが、内容については説明しても仕方がないからである。というか、時事や日常雑事が題材で、とりたてて書くほどの内容などないものの方が多い。まさにタイトルのとおり、「たいした問題じゃない」のだ。だいたい、新聞や雑誌のコラムというのは、毒にも薬にもならないものなのである。
 だからつまらないかというと、そんなことはないので、いかにもイギリス人らしいユーモアと毒気が適度に混じった語り口は、職人芸の域に達していて、古さを感じさせない。読み物としては十分に楽しめる。百年近く前に書かれたとは思えないエッセイ(いや、コラムか)集である。

たいした問題じゃないが―イギリス・コラム傑作選 (岩波文庫)

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2009年9月22日 (火)

ぼくがカンガルーに出会ったころ

ぼくがカンガルーに出会ったころ/浅倉久志(国書刊行会,2006)
 浅倉久志といえば言うまでもなく、伊藤典夫と並び称されるSFの名翻訳者だが、翻訳書、アンソロジーの多さに比べて、意外なことに、独自の著作は今のところこれが唯一。そういえば、伊藤典夫にもいまだに独自の著作はない。
 翻訳者には、自分でも著書をどんどん出すタイプと、滅多に出さないタイプがいることは確かで、自著の多い代表は柴田元幸だろう。SFの翻訳者では、野田昌弘や矢野徹みたいに自分でも小説を書く人もいたが、どちらかというと自著を出さず翻訳に専念していた人が多かったようだ。もっとも、最近では大森望みたいに書評集を何冊も出す人も出てきている。
 それはともかく、長いこと翻訳をやっていると、雑誌への寄稿や翻訳書、アンソロジーの解説などで、自然と自分で書いた文章がたまってくる。あとがきで、自ら「自前の文章は苦手」と言っている著者だが、そうした文章を集めてみると結構な分量になって、この本ができたわけである。タイトルは、高橋源一郎のエッセイ集『ぼくがしまうま語をしゃべった頃』を連想させるが、どういう関係があるのかよくわからない。
 内容は、翻訳とSFについてのエッセイ、海外SFやアンソロジーの解説、SFマガジンに連載していた海外SF紹介コラム「SFスキャナー」、その他の短文に大別されている。
 最初のパートには、この本全体のタイトルにもなっている「ぼくがカンガルーに出会ったころ」が含まれている。カンガルーというのは、著者が大学生の頃であったアメリカのペーパーバック、ポケット・ブックスの表紙や背表紙に描かれているキャラクターである著者はこのカンガルーマークの本で英文小説の面白さに目ざめ、翻訳への道をめざすことになったのだ。もっとも、ポケット・ブックスにはSFはほとんどなくて、もっぱらミステリばかりだったらしい。短い文章ではあるが、自らを語ることの少ないこの著者の、貴重な自伝的エッセイ。
 分量的に本書の半分くらいを占めているのが、解説。特に著者が特に好みで、自分で訳している量も多いフィリップ・K・ディックとカート・ヴォネガットの本の解説が、その中のさらに半分くらい。量的には本書のメインと言うべきパートだが、実のところ、本体から切り離された解説だけ、というのはそんなに面白いものではない。
 このパートを読んでいて気づくのは、きわめて引用が多いこと。どうも、解説を書く場合、肝心なところになると、自分の文章ではなく引用に語らせる傾向があるようだ。全体の半分近くが引用、なんてのもある。逆に言うと、引用の達人か。
 ところで、実のところ、本書で一番値打ちがあるのは、自伝的エッセイでも解説集でもない、と思っている。何かというと、「SFスキャナー」である。私がこのコラムの愛読者だったということを除いても、日本の海外SF受容史を語る貴重な資料である。何しろ、解説なら古本でその本を見つければ読むことができるが、「SFスキャナー」は、古いSFマガジンを持っていなければ読めないのだ。
 ただし、著者が執筆した「SFスキャナー」は11回あるのだが、「のちに翻訳された本を紹介した回は省く方針」だそうで、本書には5回分しか収録されてない。残念である。
 ちなみに、全11回というのは以下のとおり。

1971年1月号「ジョン・スラデックの長編二つ」(本書収録)
1971年4月号「ディック、タッカー、コンプトン」(未収録、ディックの『ユービック』、タッカーの『静かな太陽の年』、コンプトンの未訳長編Chronoculesを紹介)
1971年7月号「止まらなくなった宇宙船の話」(本書収録)
1971年10月号「永遠の宮殿にたどりついてはみたけれど」(本書収録)
1972年1月号「1970年度ヒューゴー賞受賞作」(未収録)
1972年5月号「バスからの眺め」(本書収録)
1972年8月号「マイクル・クライトンの『ターミナル・マン』」(未収録)
1972年12月号「『危険なヴィジョン』その後」(本書収録)
1973年4月号「ファーマーの"リバー・ワールド"」(未収録)
1973年8月号「新作・新刊・新雑誌」(未収録、シルヴァーバーグの未訳長編The Book of Skulls、スターリング・ラニアーの未訳短篇集などを紹介)
1974年6月号「ジェイムズ・H・シュミッツの『悪鬼の種族』」(未収録)

 確かに翻訳されている作品が多いが、1973年8月の分など、未訳なのに収録されてないじゃないか!
 特例で収録されている「止まらなくなった宇宙船の話」を読んでもわかるが、自分の気に入った作品を紹介する浅倉久志の文章は独特の味わいがあって、たとえ翻訳された作品であっても、面白さが減るわけではない。下手すると、実際に翻訳されたのを読んでみると、浅倉久志の紹介文の方が面白かった、なんてこともある。ここはやはり、全部収録してほしかったところである。

ぼくがカンガルーに出会ったころ

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2009年9月18日 (金)

朝茶と一冊

朝茶と一冊/出久根達郎(文春文庫,2000)
 古本屋主人にして直木賞作家、出久根達郎のエッセイ集。単行本は1996年。
 前に紹介したこの著者の『本の気つけ薬』(2009年4月3日)は、明確に本をテーマにしたエッセイ、論説、書評を集めたものだったが、今回の本は、単に「エッセイ集」としか呼びようがないものである。
 ただ、古本の話は多い。
 古本についてのエッセイというと、北原尚彦の『奇天烈!古本漂流記』(2007年3月22日のエントリー)みたいに自分が出会った奇本、珍本の数々を紹介するものや、岡崎武志の諸作みたいに、古本屋巡りの魅力を熱く語るものが思い浮かぶ。が、この本はそういうマニア系の本とは少々違う。
 では、読む側、あるいは買う側と、売る側との違いなのかというと、そうでもない。
 もちろん、古本屋を営む上で経験した数々の出来事が、この本に収録されたエッセイの多くのネタ元になっているのは間違いない。
 だが、そうしたエッセイは古本や古本屋そのものを語るのが目的ではない。そのへんが、『本の気つけ薬』や、古本マニアたちの著書との違いなのである。古本や古本屋にまつわることは、話を引き出す触媒にすぎないのだ。
 では、何を語るのかというと、はっきりいって、決まってない。明解な主旨がある場合もあれば、ない場合もある。普通のエッセイというのはそういうものなのだ。
 例えば最初の1編、「その手は桑名」の冒頭。自分にとっての「しあわせ」とは何かを、ゆったりとした調子で語っている。朝、気持ちよく目ざめて、一杯の朝茶があればいい。それと、茶うけとして、一冊の本。「私にとって、しあわせとは、一杯の朝茶と、一冊の面白い本、このセットの確保である」
 本書のタイトルはもちろん、この部分から来ている。
 実はこの部分はマクラで(と呼ぶにしては全体の4割くらいあるが)、その後、「さて、けさ、私の手元にある一冊は、『騙す人ダマされる人』という本である」と、本の紹介が始まる。しかしそれだけで終わるのではなく、ダマされる話つながりで、著者の奥さんが古本屋の店番をしていてちょっとした詐欺に遭ったエピソードを語る。ここでやっと、「その手は桑名」というこのエッセイのタイトルに結びつくわけである。
 で、このエッセイ、おもしろいことはおもしろいのだが、結局何を言いたいのかよくわからない。本の話が真ん中に入っているが、本の紹介が主目的とは思えない。タイトルはだまされること(またはだまされないこと)に関係があるが、その話は最後の方にちょっと出てくるだけ。最初の「私のしあわせ」の話はどこへ行ってしまったのだろう,,,。
 他のエッセイもこんな感じで、様々な本、時には映画などを取り上げながら、話題はあちこちに飛び、テーマはあるともないとも判別がつかない。まさに「随筆」というべきか。
 実はこれは日本の伝統にきわめて忠実な、オーソドックスなエッセイの書き方ではないだろうか。まあ、難しいことは何も考えず、古本屋のオヤジさんが語るよもやま話に耳を傾けるようなつもりで、楽しめばいいのだろう。

 蛇足ながら、気に入った文章。

 面白がる、この精神である。近頃の本はあまり面白くない、とこぼす人が多いが、そういう人は面白がろうとしない。面白がる気がなければ、本なんて面白くないものなのである。(「面白がる」) 

 もうひとつ。

 著者は面白がって本を書くべきで、そうでないと面白い本ができるはずがない。(同)

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2009年9月15日 (火)

夜中の乾杯

夜中の乾杯/丸谷才一(文春文庫,1990)
 丸谷才一の本については、これまで日本語論やミステリについてのアンソロジーを紹介してきたが、今回のは普通のエッセイ。単行本は1987年発行。
 この「普通のエッセイ」がいいのだ。普通と言っても、丸谷才一の普通。序文によれば、「夜中の乾杯のまへ数時間のあひだ、友達にしやべるやうな話のかずかずである」のだそうだ。いかにも気軽に書いているようで(実際にそうかもしれないのだが)、普通の人が普通に書けるものではない。
 
 本書の内容だが、特定の人物を取り上げ、その人物に関する蘊蓄や話題をメインにしたエッセイが多い。
 歴史上の人物なら、貝原益軒、田崎草雲(幕末の画家)、ケインズ、ココ・シャネル。有名人だけでなく、海賊ミッソンとか、アメリカの禁酒運動のリーダーだったキャリー・ネイションとか、言語学者松下大三郎とか、あまり有名でない人物も出てくる。この人物の選定が、いかにも通好みである。
 現代人なら、和田誠、城達也、吉行淳之介、山本夏彦など、著者が直接交友のある人物。
 あるいは、「ヒゲ」とか、「帽子」とか、「駅弁」とか、「戒名」とか、特定の話題に関するエッセイでも、だいたい歴史上の人物が出てきたり、著作が引用されたりする。「ヒゲ」ならチャップリンにサルバドール・ダリ。「帽子」については、歴史学者の坂本太郎(「日本人はなぜ帽子をかぶらなくなったか」について書いた文章があるそうだ)。「駅弁」ではなぜか中国の大作家周作人。「戒名」では足利尊氏に近藤勇、といった具合。
 総じて、ペダンティックだが、嫌みさがない。ごく自然に知識がわき出してくる感じで、こういうエッセイが書ける人はあまりいないだろう。もちろん、全文が著者の文章の特徴である旧かなづかいで書かれているのだが、そんなことは全然気にならない。

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2009年8月14日 (金)

不実な美女か貞淑な醜女か

不実な美女か貞淑な醜女[ブス]か/米原万里(新潮文庫,1998
 死後もまだ新しい本が出続けている米原万里。その人気のほどがうかがえる。
 この本が、その人気を生み出したエッセイの第1作。
 第2作以降、著者のエッセイは幅を広げ、テーマが文化や言語全般にまで多様化していくのだが、この本はほぼ通訳の世界だけに限られている。その分、通訳の世界の奥深いところまで立ち入った話が含まれていて、「ロシア語通訳」という希少な職業がもっと直接的な形で生かされた作品と言えるのではないだろうか。
 タイトルは、もちろん翻訳の二つの極端な例を言い表している。「忠実ではないが美しい翻訳」と、「忠実だが聞き心地のよくない翻訳」。もちろん「貞淑な美女」が一番いいのだが、現実にはそうもいかず、忠実に訳していては、それこそ身に危険が及ぶ場面だってあったりする。通訳者は圧倒的多数の場合において、この二つのどちらかを選んでいるのだという。これは通訳の世界に限らず、社会のいろんな場面で起こっている現象でもあるのだろうが。
 なんといってもこの本でおもしろいのは、通訳の現場のヤバい実例の数々。こんなことまでバラしていいのだろうか、という場面が次々と紹介される。この暴露話の部分を拾い読みするだけでも、値打ちがある。
 一方では、内容がやや専門的にすぎて軽さに欠ける部分があり、大衆向けエッセイと教養書の中間のような印象も受ける。後から出たエッセイ集に比べれば――の話だが。テーマが絞り込まれていることもあり、内容の豊富さでは、米原万里のベスト本かもしれない。

不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か (新潮文庫)

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2009年8月11日 (火)

7月に読んだ本から

 7月に読んだ本から、今回は新書ばかり3冊。もちろん新書以外の本、小説なども読んでいるのだが、それはまた別の機会に。

世界奇食大全/杉岡幸徳(文春新書,2009)
 なんだか小泉武夫の書きそうなタイトルだが、著者は食文化や食品の専門家ではなく、エッセイスト。日本の珍祭、奇祭に関する著書などがある。
 著者のウェブサイト(http://www.sugikoto.com/)によると、「世界中の変わった食べ物を、僕が実際に食べ、その味と文化を追及した、究極で至高のグルメ本。」とのこと。後半はともかく、前半は事実のようだ。
 第1章がプロローグにあたる「奇食への招待」。
 第2章「伝統の奇食」は全体の約半分にあたる分量で、前半で日本各地の、後半で外国の伝統的食文化に見られる奇食珍食を取り上げている。小泉武夫の本にもよく取り上げられている石川県の「フグの卵巣の糠漬け」に始まり、日本では岐阜県の「漬物ステーキ」、福島県の「サンショウウオ」、長野県の「おたぐり」や「ザザムシ」など、外国では中国の「ヘビ」、ヨーロッパの「ウサギ」、オーストラリアの「カンガルー」、世界各地の「土」や「カエル」など。
 第3章「奇食界のニューウェーブ」は、主に日本で、比較的最近生まれた奇食、というか変な料理を取り上げている。愛媛県の「みかんご飯」、たくあんをサンドにした滋賀県の「サラダパン」、名古屋の某喫茶店の名物「甘口イチゴスパ」など。なぜかスウェーデンの「シュールストレミング」も、伝統食ではなくこちらに入っている。
 第4章「めずらしい飲み物」、第5章「不思議なデザート」は、タイトルどおり、ドリンク編とお菓子編。「イカスミジュース」や「ふなずしパイ」はともかく、世界一甘いお菓子として紹介されているトルコの「バクラヴァ」など、どこが奇食なのかよくわからない。確かに日本では手に入れにくいが。
 最後の第6章「幻の珍グルメ」では、「紙」、「毒キノコ」、「トラ」、「ラクダのこぶ」などを紹介。確かにこれは奇食かも。鳥の発酵食品「キビヤック」はさすがに自分では食べてない。
 こうして見ると、わりと普通の食材で、ただ著者の目から見て奇食・珍食に見えるというだけのものが多いような気もする。ただ、自分で全部食べたというだけあって、どこでどうやって食べたのか書いてある。店の名前までは書いてないことが多いが、ある程度場所や店の種類が特定できれば、ネットで調べればわかるだろう。一種のガイドブック的役割も果たしているのだ。
 これだけ多種多様な食べ物のほとんどが、日本のどこかで食べられる、あるいは手に入るというのは、考えてみるとすごいことだ。

世界奇食大全 (文春新書)

 

振仮名の歴史/今野真(集英社新書,2009
 著者は清泉女子大学の教授で、日本語学専攻。今回取り上げた3冊の著者の中で唯一、本職の学者である。
 「振り仮名」(著者の表記では、「振仮名」だが、かな変換すると送りがなつきしか出てこないので、これでいく)という、普通誰も注目しないようなものに焦点を当てた、ユニークな日本語史。
 最初に第一章で、現代日本語での多種多様、むしろ無秩序と言ってもいいくらいの振り仮名の諸形態を紹介。振り仮名は最初「読み」を示していたが、次第に「表現」にも使われるようになった、と著者は言う。実のところ、この部分だけ読んだら、後はおまけみたいなものである。
 第二章以降、平安時代に始まった振り仮名が、江戸時代に出版文化とともに発展し、明治に入って新聞や政府の布告にも使われるようになり、社会に欠かせないものになるまでを、豊富な実例と図版を使って解説している。最後には著者の専門らしい夏目漱石の振り仮名使用についても解説。
 作者が振り仮名について並々ならぬ愛着を持っていることは見てとれるのだが、そのわりに、「おわりに」のところで、振り仮名の未来について「それにつじて声高になにかをいうつもりはない」と非常に抑制的なことを言っているのは、学者としての自制が働いているのか。こういうところでは、「声高になにかを」言ってもらった方が、読む側としてはおもしろいのだが。
 一見、着眼点はいいのだが、著者が主観を押さえすぎてるせいで、おもしろみが今ひとつ出てこないのだった。図版の中には、おもしろいサンプルもあるのだが。
 なお、タイトルは表紙も背表紙も奥付も振り仮名つきだが、本文には振り仮名はほとんど使われてない。

振仮名の歴史 (集英社新書)

名言の正体 大人のやり直し偉人伝/山口智司(学研新書,2009)
 著者は、『トンデモ偉人伝』など偉人や名言に関する本を何冊か書いているライター。 「偉人研究」(http://izinken.com/)というサイトも主宰している。。
 このサイトの「トンデモ偉人典」というコーナーには、世界史上の偉人たちの知られざるエピソードが列挙してある。著者は普通の伝記的事実より、常識に当てはまらない変わったエピソードに興味があるらしい。
 本書は、常識的な視点とは違った角度から「名言」をとりあげ、名言やそれを発した人物に関する意外な事実を明らかにしようというもので、上のサイトの内容と通じるものがある。「トンデモ」と冠するほどではないが、着眼点はおもしろい。
 第1章「誤解された名言」では、本人の意図と違った意味で捉えられている名言の数々を取り上げる。
 最初に出てくるのは、エジソンの「天才とは、99%の努力と1%のひらめきである」という名言。これは一般には努力の重要さを伝える言葉をされているが、著者によれば、エジソンが本当に伝えたかったのは、逆に「ひらめきを大事にすること」だったという。1%のひらめきがないと、いくら努力しても無駄だということなのだ。ところで、田中芳樹の『七都市物語』の中で、ユーリー・クルガンが、この名言についてこんなことを言っている。「エジソンの真意はこうだ――いくら努力したって霊感のないやつはだめだ、と」。小説の中では、この言葉は、「多くの人の許容しうるところではな」かったと書かれていたが、実は正鵠を射ていたらしい。
 こんな具合で第1章では他にも、テレシコワの「私はカモメ」というのは、実は人工衛星のコードネームに過ぎなかったとか、「酒は百薬の長」というのは、古代中国の簒奪者王莽が、酒の専売を正当化するために言った宣伝文句だとか、名言に冠する幻想を切りまくる。
 第2章「カットされた名言」で取り上げられるのは、実は肝心な部分が省略されて一部だけが一人歩きしている言葉。たとえば、ブルワー=リットン(日本では幻想小説作家として知られる)の名言、「ペンは剣よりも強し」は、戯曲の中の台詞で、その前に「真に偉大な人間の統治下では」という言葉がある。ちなみに劇中でこの台詞を言っているのはリシュリュー枢機卿で、「真に偉大な人間」というのは、自分のことを言っているのである。それはともかく、「ペンは剣よりも強し」というのは政治がうまく言っていることが前提ということで、さらに裏読みをすれば「権力者が言論を握っている時は」ともとれる。どっちにしても、ずいぶん印象が変わってくる。
 第3章「誇張・捏造された名言」は、「本当はそんなことは言ってない」という例の数々。リンドバーグの「翼よ、あれがパリの灯だ!」とか、ナポレオンの「余の辞書に不可能の文字はない」とか、板垣退助の「板垣死すとも自由は死せず」などが取り上げられている。この章が読み物としては一番おもしろい。
 第4章は「「おまえが言うな!」と言いたい名言、「そこまでやらなくても」と言いたい名言」。名言そのものより、もっぱらそれを言った偉人の事績と、それが名言といかに食い違っているか(あるいは、そのまますぎるか)を語っている。
 全体としては、ややまとまりに欠ける印象があるものの、ひとつひとつの記事はおもしろいし、着眼点も悪くない。今回とりあげた3冊の中では、これがベスト。

名言の正体―大人のやり直し偉人伝 (学研新書)

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