エッセイ

2021年2月27日 (土)

古くさいぞ私は

古くさいぞ私は/坪内祐三(晶文社,2000)
 昨年死去した坪内祐三の「ヴァラエティ・ブック」。
 ヴァラエティというだけあって、雑多な内容(ただし、本の話題が多い)。ページによって字の組み方もバラバラ。
 あとがきによると、植草甚一みたいな本を作りたかったのだという。なお、タイトルは荒川洋治の詩集『あたらしいぞ私は』のもじり。
 内容は7章に分かれていて、それぞれの章の扉には「古」「く」「さ」「い」「ぞ」「私」「は」と、章のタイトル(?)が大きく書かれている。
 あちこちの雑誌に掲載したエッセイ、コラムを集めたものだが、同じ雑誌に載ったものが同じ章に固まっているとは限らない。要するにまとまりがない。そこが「ヴァラエティ・ブック」らしいところなのだろう。

1「古」は、神保町についてのエッセイ3編。
2「く」は、読書についてのエッセイと対談14編。
3「さ」。前半は、明治の文学についてのエッセイ6編。後半は「スタンレー鈴木のニッポン文学知ったかぶり」と題する一連のエッセイ6編。スタンレー鈴木は日本文学を研究する日系2世という設定だが、もちろん坪内祐三が書いたもの。私小説を「ニッポン・ミニマリズム文学」と見なしている。
4「い」は、大正から昭和にかけての文学・作家とその周辺についての10編。
5「ぞ」。またも本についての5編のエッセイ。2と違うところは、こちらの方がより私的な色合いが強いことだろうか。
 この章の後に「金子一平のTVウオッチング」というテレビ・芸能を語るエッセイが掲載されているが、これは明らかに5章とは独立したコーナーだと思われる。金子一平というのも著者のペンネームなのだろうが、こんなに芸能関係に詳しかったとは。ただの浮世離れした文学愛好者ではなかったらしい。
6「私」。タイトル(?)にふさわしく、身辺雑記みたいなものを集めている。若い頃に人力車を引いた思いでとか、講義を担当している女子短大での学生の生態とか、「アルジャーノン」論とか。
7「は」は、ローカルネタ。著者の暮らす世田谷区、中央線沿線の古本屋のことなど。
そして最後のエッセイ「植草甚一の日記を読むと、古本屋に出かけることになる」は、もろに植草甚一風。つまり、とりとめがなく、かつ知的。本書そのものを象徴しているようなエッセイである。

Furukusaizowatashiwa

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2021年2月19日 (金)

青春の文語体

青春の文語体/安野光雅編著(筑摩書房,2003)
 昨年12月に亡くなった安野光雅の本。主体は著者の本業である絵ではなく、あくまで文章。文語体への思い入れが過剰なほどに詰まっている。
 文語体=古くさいというイメージがあるが、著者にとって、文語体とは青春の覇気と熱情をこそ表現するための文体なのである。「文学は年齢ではないが、思うに文語文は、その文章の気負うところ、志の高さ、訴える気概などにおいて、青春の文学なのである」と、序文でその思いを語っている。
 内容は、著者のお気に入りの文語体の文章を引用し、それに関する自分の思いを述べるというもの。全体の半分くらいは引用だから、「編著」となっている。
 章題はついてないが、内容は全7章。

「はじめに」は、「わたしは、鴎外訳の「即興詩人」に傾倒している」という文章から始まる。この「即興詩人」は、この後たびたび引用されることになる。
 第1章は島崎藤村の文語詩「初恋」から始まる。そして「藤村詩集」序文、「小諸なる古城のほとり」、「千曲川旅情のうた」と藤村の詩が続く。さらに、「春の小川」、「われは海の子」などの小学唱歌。このへんが、著者の文語体験の原点ということらしい。
 第2章も詩が中心。北原白秋「邪宗門秘曲」、「啄木詩集」、萩原朔太郎「純情小曲集」に収録された詩を取り上げている。「即興詩人」の引用も出てくる。
 第3章は、一転して江戸時代の文章が並ぶ。
 新井白石の「西洋紀聞」、久米邦武の「米欧回覧実記」、鈴木牧之の「北越雪譜」、杉田玄白の「蘭学事始」、橘南谿の「東西遊記」。いずれも歴史に残る名著。
 最後にひとつだけ江戸時代ではなく明治時代の文章として、鴎外訳「即興詩人」より「蜃気楼」のくだり。
 この章は長い。全体の3分の1近く、80ページ以上ある。しかし、江戸時代に「文語体」という概念があったのだろうか。
 第4章は10数ページしかない。藤村操の「巌頭の感」と、高山樗牛の「滝口入道」、「敦盛と忠度(青葉の笛)」という唱歌。
 第5章は明治文学から。中江兆民「一年有半・続一年有半」、樋口一葉「たけくらべ」、樋口一葉「通俗書簡文」。そしてまたも「即興詩人」より「絶交の書」。
 一葉の文章は本書の中で一番文語らしい文語かもしれない。中江兆民は「である」調がまじっていて、純粋な文語体とはちょっと違う気がする。
 第6章は戦争文学と文語。
 最初は司馬遼太郎『坂の上の雲』から、「敵艦見ユ」の電文のくだり。本文も長々と引用されているが、これはもちろん文語体ではない。「水師営の会見」の歌、「広瀬中佐」の歌、永井荷風「断腸亭日乗」、吉田満「戦艦大和ノ最期」と続く。
 この「戦艦大和ノ最期」は、「わたしの知り得た最後の文語文である」とのこと。ただ、山本夏彦は『完本 文語文』の中で、「戦艦大和ノ最期」は、「生活がないから真の文語ではない」と言っている。
 第7章は短い。またまた「即興詩人」から、「わが最初の境界」と、与謝蕪村の「北寿老仙をいたむ」。
「あとがき」は、「さらば、お灯明もいらない、花もいらない、この本を、読んでくださるだけで、「老仙」、思い残すことはない」と締めくくられている。実際には亡くなるまでまた17年もあったのだが、まるで遺書のような趣である。

 とにかく、文語体への著者の思いが、痛いほどに伝わってくる本である。
 しかしその後、著者はあれほど思い入れのあった鴎外訳「即興詩人」を口語訳して出版している(2010年刊)。本書を読んだ後では、言ってはなんだが、「それはありなのか?」と思ってしまう。

Seishunnobungotai

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2021年1月10日 (日)

蔵書一代

蔵書一代 なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか/紀田順一郎(松籟社,2017)
 本書は、「永訣の朝」と題した序章から始まる。書き出しからして、痛切な悲哀感に満ちている。

 いよいよその日がきた。――半生を通じて集めた全蔵書に、永の分かれを告げる当日である。

 妻と二人、マンションに引っ越すことになった著者は、3万冊を超える蔵書を手放すことにしたのである。新居に持って行くのはわずか600冊。今までの蔵書に比べると無に等しい。
 この時(2017年)、著者は82歳。年をとって大量の蔵書を抱えておくことには限界がある。紀田順一郎も年には勝てなかった。それにしても、この序章のトーンはあまりに悲痛である。
 続く第1章からは、比較的冷静に、日本の個人蔵書の歴史を、読書・出版事情の変化に即して、また自身の体験をまじえて語っていく。それは日本の「読書文化」、「蔵書文化」の興亡の歴史でもある。

 第Ⅰ章「文化的変容と個人蔵書の受難」は、個人史が半分。それは増殖する蔵書との苦闘の歴史でもある。だが、岡山に設けた書庫・書斎で、著者は束の間の安息の日々を得る。その岡山の書庫も、やがて諸事情から手放さざるを得なくなるのだが。
 第Ⅱ章「日本人の蔵書志向」は、日本の個人蔵書の歴史。図書館の歴史と蔵書とのかかわり、出版・古書界の変遷についても述べる。いわば著者のもっとも得意とする分野。「蔵書」と「コレクション」の違いについて述べたあたりはさすがの卓見と見た。
 第Ⅲ章「蔵書を守った人々」。江戸川乱歩の蔵書が立教大学に譲渡された経緯を述べるのが主な内容。個人蔵書を完全な形で残すことが難しい日本では、実に幸運なケースである。その稀な例を語ることで、逆に蔵書を次代に残すことの困難さを強調している。
 第Ⅳ章「蔵書維持の困難性」では、再び著者の体験をまじえながら、蔵書の活用・保存方法とその困難さを語る。著者が挙げる蔵書活用法は、例えば「一箱古本市」、「集合書棚(シェア・ライブラリー)」、自宅開放図書館、寄贈など。
 いずれにしても状況は厳しいが、著者は最後に「日はまた昇る」という言葉を掲げて希望を保とうとする。しかしやはり現実はきびしいのである。
 本書の最後は、小説風のこんな文章で締めくくられている。

 私は地下鉄神保町駅の階段を、手すりにすがりながら一段一段おりた。この階段をおりるのも今日が最後と思ったとき、足下から何かがはじけた。

 本とともに人生を歩んできた人にとっては(ブログ主も一応そのはしくれではあると思う)、身につまされる内容の本である。

Zoushoichidai

 

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2020年12月20日 (日)

道半ば

道半ば/陳舜臣(集英社,2003)
 陳舜臣の自伝的エッセイ。「陳舜臣中国ライブラリー」の月報連載が元になっている。
 この本が出た時、著者はすでに80歳近かったのだが、それでもタイトルは『道半ば』。(実際に著者が亡くなったのは、この本が出てから12年後。)
 内容は、自分の半生を23章(章番号はなし)に分けて記述している。

 台湾出身の華僑商人の子として神戸に生まれてから、大阪外国語学校を受験するまでが、最初の6章(「幼い日々」~「舞い落ちる旗」)。
 大阪外国語学校時代を語るのが7章から11章まで。(「太平洋戦争まで」~「炎上前後」)。ちょうど中国での戦争が激化し、ついには太平洋戦争が始まる激動の時代と重なる。言い換えれば、著者が大阪外語学校で過ごしたのは、戦時中の日々だったわけだ。
 その頃、外語学校の一学年下に入学してきたのが福田定一(司馬遼太郎)。学生時代は交友はあまりなかったらしいが、「あの男は話術の天才ではないか」と言われるほど話がうまかったという。
 戦時中ではあったが、著者は戦争に行かずにすむ。著者は外語学校を卒業後も「西南アジア語研究所」(著者はペルシア語専攻)の研究助手として学校に残ったのだが、国立学校の職員は徴兵されなかったのだ。司馬遼太郎とは違って学徒出陣で戦争に行かずにすんだのは、台湾人だから、というのもあったかもしれないが。
 戦争が終わると外語学校の研究所は閉鎖され、著者は仕事がなくなる。何より、日本国籍を失ってしまい、外国人になる。著者は弟と二人、いったん台湾の父の本家に帰ることにする。永住ではなく、日本が落ち着くまでちょっと滞在するつもりだった。
 著者が台湾に帰郷したのが1946年。国籍が変わったのだから当然ではあるが、この時期大量の台湾人たちが日本から台湾へ戻って行った。その中に李登輝もいたことが語られている。著者の友人何既明と一緒の引揚船で帰って来たそうで、とんでもない読書家だったそうだ。
 父親の故郷である台北県の新荘という田舎町で、著者は思いがけずも学校の英語教師をすることになり、3年間勤めることになる。そのへんのできごとを語るのが、12章から17章まで(「戦い終わる」~「過ぎ行く牧歌時代」)。動乱の中で著者が小説への志を抱き始めるくだりもある。
 事態が風雲急を告げ、悲劇の様相を帯びてくるのが、最後のパートにあたる18章から21章まで(「二月二十八日事件」~「さらば台湾」)。台湾最大の悲劇2.28事件が起き、台湾は外省人(台湾語で「阿山」[アスア])による恐怖政治の下に置かれる。知り合いが拘束されたり殺されたりする中、自由思想の持ち主だった著者は自分も身の危険を感じ、1949年に神戸に帰って来る。神戸もやはり「帰って」来るところ。台湾も日本も、著者にとっては故郷なのである。
 最後の2章、「乱歩賞まで」と、「後日譚」は蛇足みたいなもの。しかし年月の長さという点では、台湾から日本に戻ってからの方がずっと長いわけで、本書は自伝といっても、ほぼ若い頃に限られている。「道半ば」というのは、本書の内容が若い頃の話で終わっているという意味だったのか。
 それにしても、本書は自伝にもかかわらず、著者の歴史エッセイを読むのと同じような感覚で読める。日本と台湾にまたがる歴史ドキュメンタリーのような味わいを持っている。自伝ではあっても、歴史的視点を常に保ち続けているあたりは、さすがに陳舜臣なのである。

Michinakaba

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2020年12月 5日 (土)

考えの整頓

考えの整頓/佐藤雅彦(暮らしの手帖社,2011)
『暮らしの手帖』に連載された27編のエッセイを収録。連載時のタイトルは「考えの整とん」。(なぜ「とん」がひらがなだったのかはよくわからない。)
 著者は大学教授で、巻末の著者紹介を見ると、「独自の考え方や方法で、映像、アニメーション、脳科学と表現の研究など、分野を超えた活動を行っている」のだそうだ。「ピタゴラスイッチ」を企画した人でもある。これでは専門が何なのか、よくわからない。なんだかユニークそうな人だということはわかるが…。
 そして実は、本書に書いている内容も、何がテーマなのかよくわからない。わからないことだらけである。
 まえがきには、「日常という混沌の渦の中に見え隠れしている不可解さ、特に"新種の不可解さ"を取り出し、書くという事で整頓してみようと思いました」と書いてある。テーマは「不可解」ということなのか。ならば、よくわからないのも当たり前か。
 とはいえ、書いてあることそのものは、別にわかりにくいというわけではない。

 最初の「「たくらみ」の共有」に書いてあるのはこんなこと。
 著者がたまたまテレビで見た大河ドラマの再放送(山内一豊が主人公とあるから「功名が辻」だろう)に見入ってしまった。その原因は、ドラマの中である「謀[はかりごと]」にひきつけられ、自分も一味に加えられたかのように感じたからだった。
 そこから著者は、中学校の時、教師も含めたクラス全体で、父兄参観日にある「企み」を実行したことを思い出す。そして「たくらみの共有」から、日本に乏しくなってしまった一体感が取り戻せないかと考えるのだった。
 ――というような、実になんと言うこともない、日常のちょっとしたことから生まれた、ちょっとした思いつき、ただし、普通の人ならあまり考えない、あるいは気づかないような内容について、1編あたり8ページくらいの短い文章で書いてある。
 わりと面白かったのは、こんなところ――。ただ三角形が並んでいるだけの図から自然と話を作ってしまう「物語を発言する力」。未来の自分へのプレゼントを発見する「広辞苑第三版 2157頁」。やはり簡単な図から人の思い込みと想像力の力を説く「ものは勝手に無くならない」。読者をある条件でどんどん限定していき、条件からはずれた人はこれ以上読まないように指示する「ふるいの実験」(どうせ読者は全部読むわけだが)。別役実ばりに嘘か本当かわからない「耳は口ほどにものを言い」。「差」の価値について考える「「差」という情報」、など。
 逆に何が面白いのかよくわからないものもあった。著者の独特の考え方と波長が合うかどうかがポイントなのだろう。ブログ主の場合、そこが微妙にずれていて、波長が合ったり合わなかったりしたわけだ。

Kangaenoseiton

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2020年11月27日 (金)

想い出のホテル

想い出のホテル(ドゥマゴからの贈り物)/井上俊子編(Bunkamura,1997)
 ドゥマゴ文学賞事務局が編集するエッセイのアンソロジー、<ドゥマゴからの贈り物>の3冊目。(これ以前に『想い出のカフェ』というアンソロジーが2冊出ている。)
 内容は4ページの短いエッセイが50編。
 執筆者は、中村真一郎、鈴木清順、吉本隆明、日野啓三、筒井康隆、赤瀬川原平、海野弘、池内紀、山下洋輔、辺見庸、山内昌之、宮迫千鶴、鷲田清一、四方田犬彦、沼野充義、森まゆみ、小谷真理、佐藤亜紀、有吉玉青など。
 文学者に限らず、学者、音楽家、映画監督など、各界の有名人たちというか、文化人を集めたという印象。
 ドゥマゴ文学賞というのは、選考委員が一人だけで毎年交代するというユニークな方式をとっているのだが、その選考委員も少しだけ入っている。しかしそれもごく一部に過ぎないので、結局どういう基準で選んだのかよくわからない。
 とにかくこういう面々だから、予想どおりというか、外国のホテルの思い出話が圧倒的に多いのである。
 最初の中村真一郎「三婆の宿」がフランス、次の荒松雄「ローマからジュネーヴへ」はタイトルどおりイタリアとスイス、鈴木清順の「窓」がイタリア――という具合。
特にイタリアとイギリスが多いような気がする。
 日本のホテルについて書いているのは、吉本隆明、日野啓三、鼓直、赤瀬川原平、鷲田清一、三宅晶子、池田裕行の7人だけ。
 そしてまた、ボロいホテルの話がやたらと多い。まあ、豪華ホテルに泊まった話より、みすぼらしいホテル、あるいは隠れ家風ホテルに泊まった話の方が面白いから、当たり前かもしれないが。
 そんな中で、パリの高級ホテルに泊まり、「日本から来た文豪」として振る舞った話を披露している筒井康隆「オテル・リッツ」などは、むしろ異端と言えるだろう。普通に書いたら嫌みたらしい自慢話になりそうなネタを堂々としているところが筒井らしい。
 他に変わったところでは、映画評論家山田宏一の「ホテルと映画」。自分が泊まったところではなく、「グランド・ホテル形式」の原型となった映画『グランド・ホテル』のことを書いている。
 五十人五十様の「ホテル観」のバラエティが興味をそそる。

Omoidenohotel

 

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2020年11月15日 (日)

遊民の系譜

遊民の系譜 ユーラシアの漂泊者たち/杉山二郎(河出文庫,2009)
 1988年青土社刊の文庫化。
 あの青土社から出ているのだし、読む前はもっと学術的もしくは文学的な本かと思っていたが、実はなんともユニークなテーマと語り口の読み物だった。
 章番号はないが、全体が19の章に分かれていて、数章ずつでひとつのテーマを追っていく形になっている。

 まず最初のテーマは「遊行」。飛鳥時代の遊行僧道昭にまつわる伝承の話から始まり、行基の遊行集団、寺社の祭礼に姿を現す漂白の芸人たち――。そんな古代日本の遊行の徒たちについての文献引用や考察。
 次は「方術」。話は中国へ飛んで、西域から来た幻人や僧たちの不思議な術の話が次々と展開する。例えば、4-5世紀の高僧として有名な仏図澄も、ここでは超能力者として登場するのだ。「よく神呪を誦し鬼神を使役した。麻油に胭脂を混ぜて掌に塗ると千里外の事象が掌に映って、さながら対面しているかのようだ」と。また、道士と密教僧の術比べなんて話もある。
 次の「飛鉢」は、「信貴山縁起絵巻」に代表される、鉢を飛ばす秘法がテーマ。この不思議な術の伝承を内外に追い、その正体を追う。
 そして、本書最大のテーマと言うべき「ジプシー」。中東のジプシーに始まり、日本のジプシー「傀儡子」、朝鮮のジプシー「揚水尺」について、その起源や歴史を考察する。中国や日本の傀儡戯の技の数々も紹介している。
 続いては「民間芸能」。日本の今様、田歌、神歌、中国の雑劇など、これはわりと普通の民俗的テーマ。
 最後にテーマは再び「ジプシー」に戻り、イスラム世界からヨーロッパにかけてのジプシーの歴史を語っている。

 全体として、世界の各地に存在していた、托鉢、奇術、芸能などを生業とする漂泊の人々の姿を伝承や文献の中に追った本ということになる。
 ただ、少々まとまりがない気はする。それと、肝心な部分で自分自身の文章ではなく、先人の著作の引用で替えている傾向がある。それだけ多くの文献を踏まえているということなのだろうが。
 とはいえ、思ったより柔らかめの文章で(ところどころワル乗りしている)、興味をかき立てられるところが多い、つまりはブログ主好みの本だった。

Yuuminnokeifu

 

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2020年10月26日 (月)

黙読の山

黙読の山/荒川洋治(みすず書房,2007)
 このブログに登場するのは2回目の、詩人荒川洋治。
 前回取り上げたのは『本を読む前に』という書評・読書エッセイ集(2008年11月27日のエントリー)。
 本書も、本と文学を主なテーマに書かれたエッセイを集めている点では似たような本。ただ本書の場合、1編あたり2~3ページのごく短いエッセイが多いので、収録されている数は58編と多い。発表媒体は新聞・雑誌などさまざま。
 書名は同題のエッセイから。「山」という字を普段は黙読しているので、話す時に山の名を呼ぶ時、読みが「やま」なのか「さん」なのか迷う、という何でもない話。ただ、著者がこれまで黙読してきた膨大な本の山、という意味もこめられているのだろう。
 この人の本に関する文章は、平易な文章でありながら――というか、だからこそ、言及されている本を読みたい気にさせる効果に富んだ名品が多い。
 時にはわずか2、3行の文章で、その本に対する関心と興味をかきたてる。
 特に、巻末近くに掲載されている「おもかげ」というエッセイ。著者の個人展覧会に出品した、自分の蔵書の中の思い出の本を列挙しているが、それにつけられたコメントがいい。例えば――。

□草野心平『わが青春の記』(オリオン社・一九六五)。詩と青春の記録。詩を生きることは、つらい。でも楽しそうだ。そう感じた。
□保田與十郎『日本の橋』(講談社学術文庫・一九九〇)。美しい措辞と妖しい思想が奏でる「日本」の名作。学生のとき、講談社の著作集で読む。
□村上一郎『日本のロゴス』(南北社・一九六三)。激越な評論が心をとらえた時期。わけても愚直に「かなしみ」を生きる村上一郎の文字は印象を残した。

 一見なにげないようでいて、簡明で的確な言葉の選び方。
 他にも気になる本がぞろぞろ出てきてきりがないのである。本の選び方というより、言葉の選び方がうまいのだろう。本に輝きを持たせる言葉の力である。
 本に関するブログを書いてる身としては、こんな風に本を表現できる言葉が持てれば、と切実に思う。

Mokudokunoyama

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2020年9月23日 (水)

みんな酒場で大きくなった

みんな酒場で大きくなった 居酒屋対談集/太田和彦(京阪神エルマガジン社,2013)
 居酒屋評論家、というか酒飲みライター太田和彦が4人のゲストを迎えて、居酒屋で飲みながらの対談――が一応メインの本。
 だが、それ以外のコンテンツが山盛り。写真にもカラー・白黒でたっぷりページをとり、マンガまで載っている。雑誌みたいな構成の本である。
 表紙をめくると、まず<スペシャルグラビア>と銘打つカラー写真ページ。著者の書斎、酒器コレクション、創作ノート。
 続いて尾瀬あきらのマンガ「オオタのぶらり失恋酒」。この二人は知り合い、というか飲み仲間だったのか。
 それから本書のメインコンテンツ、対談「今夜はこの人と…」。ただし前半「その一」、「その二」まで。
「その一」は角野卓造と下北沢「両花」で、「その二」は川上弘美と下高井戸「酒魚 まきたや」で。
 その後、紙の色が変わって(凝ってる)、「オオタの酒話[へや]」というコーナー。内容はやはりゲストとの対談が中心なので、メインコンテンツとあまり変わらないが。
 ゲスト1、大沢在昌、「居酒屋案内人と飲みに行く」。場所は新宿の「とど…」。
 コラム「酒人を偲ぶ」は、本書中唯一のエッセイ。孤高の切り絵作家、成田一徹について。その後に、成田一徹本人との対談「夜の銀座。酒飲みのユートピア」。場所はどこなのか書いてない。
 そこからまた対談「今夜はこの人と…」に戻る。
「その三」は東海林さだお、場所は荻窪「有いち」。
「その四」は椎名誠で、場所は新宿の「池林房」。この時は椎名誠の主義とのことで、ビールだけで何も食べてない。もったいない。太田和彦が「あやしい探検隊」のドレイだったという前歴も、この対談で初めて知った。(改めて『わしらはあやしい探検隊』を見て、太田の名前があることを確認。)
 最後はまたカラーページ、「太田和彦、全仕事を語る!」。文字通り、太田和彦のすべての著作を、本人の言葉とカラー写真で紹介。
 さらに奥付の後に付録として、かつて著者が出していた手書きミニコミ「季刊居酒屋研究」を8号分(8ページ)収録。
 というようなバラエティに富んだ、なかなか贅沢な本だった。ただし著者を知らない人には何の値打ちもないだろう。
(なお、本書は河出文庫で再刊されているが、そちらは見てないので、カラーページとかどの程度再現されているかはわからない。)

Minnasakabadeookikunatta

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2020年9月16日 (水)

意地悪は死なず

意地悪は死なず/山本夏彦、山本七平(中公文庫,1991)
 単行本は1984年。この文庫版にしても30年近く前に出たもので、著者二人ともとっくに故人だが、時代を超えた面白さがある。
 内容は、いかにも偏屈そうな二人のオヤジの対談である。
 二人とも山本なので、対談の発言者の表記は「夏彦」「七平」になっている。
 しかしこの両山本、世間に逆らい、時代に抗し、頑固でひねくれているところは似ているようだが、実はかなりキャラクターが違うことがわかる。
 山本夏彦は、世の中の常識と言われるものにあえて反抗して異を唱えているように見える。だが、山本七平の方は超然としていて、本当に世の中のことに興味がないようだ。竹下景子と松坂慶子の区別がつかないと自慢している。
 なんだか山本七平の方が老隠者のように見えるが、実はこちらの方が年下。単行本が出た時には63歳だから高齢者の域にも入ってないのに、恐ろしく風格があるから不思議である。
 そしてこの対談、「対談」と言いながら、どちらかが一方的にしゃべっていることが多い。大部分は山本夏彦の方がひたすら好き放題に放言していて、山本七平はうなずいているだけ。しかしテーマによっては――歴史とか聖書とか文学とか――今度は山本七平がしゃべり出す。
 どっちにしても、当意即妙の言葉のやりとりとか、意見のぶつかり合いといった、対談の妙味みたいなものは、本書にはあまりない。二人が交互に言いたい放題言っているだけである。しゃべっている内容は、面白くないわけではないのだが。
 もとは雑誌『正論』(いかにも山本夏彦好みらしい)に連載されたもので、全8回。テーマは下のとおり。

「流行がすべてである」/「「三日三月三年」という」/「何よりも正義を愛す」/「テレビ人間と活字人間」/「意地悪は死なず」/「助平を論じてエロスに及ぶ」/「投票すれども選挙はせず」/「君見ずや管鮑貧時の交り」

Ijiwaruwashinazu

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