食べ物の本

2020年11月 7日 (土)

日本まんじゅう紀行

日本まんじゅう紀行/弟子吉治郎(青弓社,2017)
 著者は本業は放送業界の人。Wikiを見ると、ラジオ・テレビ番組ディレクター、作曲家、音楽プロデューサー、著作家、メディアコーディネーター、実業家(放送プロダクションを経営している)と、やたらと肩書きが多い。
 この本は一見そんな本業とは無関係のようだが、実は著者の実家はまんじゅう屋。「まんじゅう屋の空気を吸って育った」という。今でも無類のまんじゅう好きなのである。
 著者のいう「まんじゅう」は非常に範囲が広い。「和菓子」は高級、庶民的な和風のお菓子は「まんじゅう」という、やたらとおおざっぱな区分をしている。ぼた餅も最中もまんじゅうに分類する。
 だいたい、広義のあんこを使っている、高級でないお菓子は全部「まんじゅう」になるようである。だから本書に出てくるお菓子の範囲も非常に広い。餅やようかんはもちろんのこと。表紙にもどら焼きや串団子の写真が出ている。
 さらに、この範疇にすら入らないお菓子も出てくる。例えば「夏蜜柑の丸漬」なんてのも出てくるが、どこが「まんじゅう」なのかわからない。
 とにかく、そんなバラエティに富んだお菓子を、ひとつあたり3~4ページで、写真と文章により紹介。全8章。

 これだけなら、よくあるパターンだが、実は文章が独特。ところどころ、やたらと詩的な表現が出てくる。例えばこんな具合。

 このよもぎ求肥には、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ『月光』の揺らめきがあります。これを食べながら阿弥陀経の極楽国土を見ることができます。歌舞伎『勧進帳』で花道の弁慶を見送る富樫の心中にも似ています。(p.15 「両月堂のよもぎ求肥」)

 東京のなかで私がいちばん好きな町が神楽坂。ここには、言霊や音の女神や命の滴や消されてもなお漂う香りと匂いがあるような気がします。(p.27 「神楽坂のマンヂウカフェ」)

 本書をよくある「おいしいものガイド」と区別しているのは、この個性あふれる表現に満ちた文章なのである。結局どんな味なのかは、よくわからないのだが。
 実はブログ主は著者のいう「まんじゅう」――あんこの入ったお菓子がけっこう好きなので、こういう本にはつい興味を引かれてしまうのだった。

Nihonmanjuukikou

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2020年9月23日 (水)

みんな酒場で大きくなった

みんな酒場で大きくなった 居酒屋対談集/太田和彦(京阪神エルマガジン社,2013)
 居酒屋評論家、というか酒飲みライター太田和彦が4人のゲストを迎えて、居酒屋で飲みながらの対談――が一応メインの本。
 だが、それ以外のコンテンツが山盛り。写真にもカラー・白黒でたっぷりページをとり、マンガまで載っている。雑誌みたいな構成の本である。
 表紙をめくると、まず<スペシャルグラビア>と銘打つカラー写真ページ。著者の書斎、酒器コレクション、創作ノート。
 続いて尾瀬あきらのマンガ「オオタのぶらり失恋酒」。この二人は知り合い、というか飲み仲間だったのか。
 それから本書のメインコンテンツ、対談「今夜はこの人と…」。ただし前半「その一」、「その二」まで。
「その一」は角野卓造と下北沢「両花」で、「その二」は川上弘美と下高井戸「酒魚 まきたや」で。
 その後、紙の色が変わって(凝ってる)、「オオタの酒話[へや]」というコーナー。内容はやはりゲストとの対談が中心なので、メインコンテンツとあまり変わらないが。
 ゲスト1、大沢在昌、「居酒屋案内人と飲みに行く」。場所は新宿の「とど…」。
 コラム「酒人を偲ぶ」は、本書中唯一のエッセイ。孤高の切り絵作家、成田一徹について。その後に、成田一徹本人との対談「夜の銀座。酒飲みのユートピア」。場所はどこなのか書いてない。
 そこからまた対談「今夜はこの人と…」に戻る。
「その三」は東海林さだお、場所は荻窪「有いち」。
「その四」は椎名誠で、場所は新宿の「池林房」。この時は椎名誠の主義とのことで、ビールだけで何も食べてない。もったいない。太田和彦が「あやしい探検隊」のドレイだったという前歴も、この対談で初めて知った。(改めて『わしらはあやしい探検隊』を見て、太田の名前があることを確認。)
 最後はまたカラーページ、「太田和彦、全仕事を語る!」。文字通り、太田和彦のすべての著作を、本人の言葉とカラー写真で紹介。
 さらに奥付の後に付録として、かつて著者が出していた手書きミニコミ「季刊居酒屋研究」を8号分(8ページ)収録。
 というようなバラエティに富んだ、なかなか贅沢な本だった。ただし著者を知らない人には何の値打ちもないだろう。
(なお、本書は河出文庫で再刊されているが、そちらは見てないので、カラーページとかどの程度再現されているかはわからない。)

Minnasakabadeookikunatta

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2020年6月11日 (木)

ファッションフード

ファッションフード、あります。/畑中三応子(ちくま文庫,2018)
 日本の食文化の歴史について書かれた本は数多い。
 当然ながら、食文化は時と共に変わってゆく。しかしその変化を、本書のように、次から次へと移り変わる「流行」として捉えた視点は、あまりなかったのではないだろうか。 本書は、「食べ物の流行」という視点から日本の食文化――というか、日本文化そのものを捉えたユニークな文化史。
 著者によれば、日本の食は今や「情報消費」と化しているのだという。そこへ至るまで、どんな変化を遂げてきたのか――。

 まずプロローグに当たる「ファッションフード前史」では、江戸時代から1970年頃までを簡略にまとめている。1970年代からが、本文で取り扱う時代になる。
 第1部「加速するファッションフード―1970年代」
 原点は大阪万博。著者が「ファッションフード成立元年」と位置づける1970年以来、ハンバーガー、フライドチキン、ドーナツ、アイスクリームの四大ファストフードチェーンが登場する。大ヒット商品としては、カップヌードル、チーズケーキなど。「紅茶キノコ」というあだ花まで登場する。
 第2部 拡大するファッションフード―1980年代
 バブル経済が始まり、一億総グルメ化へ。「美味しんぼ」の連載が始まったのもこの時代。一方でB級グルメ、エスニック料理も流行する。
 第3部 自己増殖するファッションフード―1990年代
 この時代、命名が生んだ大流行の数々が目立つ。「イタめし」、「スイーツ」、「カフェ」。ティラミス、ナタデココ、モツ鍋などがはやっては廃れていく。一方で、ラーメン、蕎麦、さらには油や塩や米までブランド化する。
 第4部 拡散するファッションフード―2000年代
 食品のほとんどが「多国籍工業製品」に変貌する中、食のリスクが可視化する。一方で「健康にいい食べ物」への信仰が強まり、テレビの健康娯楽番組が消費量を大きく動かす。
 つまるところ、食べ物の情報化が加速し、「居酒屋やファミリーレストランのおすすめメニューも、コンビニ弁当や袋パンの新商品も、何らかの情報をつけ加えずにはいられない」時代になって、今に至っている。上にも書いたように、食が「情報消費」となっているのが現代なのである。食の情報があふれ過ぎている、とも言える。
 ――というような本書の見解には納得するところが多い。ただ、この本自体、内容を詰め込み過ぎたせいか、情報がやや飽和状態になっている気がする。

Fashionfood

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2020年1月19日 (日)

下町呑んだくれグルメ道

下町呑んだくれグルメ道/畠山健二(河出文庫,2016)
『お笑い裏グルメ帳』(2000)の改題・文庫化。
 酒とB級グルメと無茶と色欲のエッセイ。本ブログで前に紹介した久住昌之の『ひとり飲み飯肴かな』(2016年8月16日のエントリー)と似たところもある。ただ、こちらの本の方が下ネタ率が高く、著者が暴走しまくっている。これに比べると久住昌之はまだ最低ラインを守っていると言える。

 内容は、短いエッセイをタイトルの五十音順で並べている。「朝定食」、「アジの骨揚げせんべい」、「石焼き芋」、「うなぎ」…といった具合。
 タイトルになっているのは基本的に食べ物の名前だが、たまに「下町のオープンカフェ」、「浪花の立ち食い」なんてのものある。なお、「下町のオープンカフェ」とは、場外馬券売り場の周辺でおっさんたちが勝手に酒を飲んでいる席のこと。
 それにしても、どこまで本当かわからないが、この人(と周りの悪友たち)のやることは、たちが悪いというか非常識というか悪ガキがそのまま大人になったというか…あきれるようなことばかり。
 例えば、「お子さまランチ」では平均年齢四十四歳の男四人がデパートのレストランでお子さまランチを頼んで醜態をさらす。「サンマ」では、イギリス帰りの女に道端でサンマを焼いて見せるが、最後は女のスカートに火がついてひだるまに(いくら何でも嘘だろう)。「塩辛」では、渋い男を気取って居酒屋で塩辛だけ注文してさんざんカッコをつけたあげく、主人から「塩辛だけは商売にならねんだよ」と追い出される。「駄菓子」では、駄菓子を買って子供に返った男四人(「お子さまランチの時と同じメンバーだろう)、公園で銀玉鉄砲を撃ち合って通報される。「めざし」では、一人で「中村主水ごっこ」をやるのだが、あまりのみじめな食事に自分で嫌気がさす。「夜回りの日本酒」では、夜回りの一行が酒を振る舞われながら歩くうちに泥酔し、わけがわからないことになる。
 まあこんな調子で、「呑んだくれ」には間違いないが、どこか「グルメ道」なのやら。3本に1本くらいは、どうにかまともに食を語ったものもあるのだが、半分以上は、どこまで本当なのかわからない失敗談。
 裏表紙の「くだらなくも懐かしい、抱腹絶倒のグルメ妄想談」というのはおおむねそのとおりなのだった。「抱腹絶倒」というより、「言語道断」とか「傍若無人」とかの方がふさわしい気もするが。

Shitamachinondakure

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2019年5月31日 (金)

酒肴酒

酒肴酒/吉田健一(光文社文庫,2006)
 酒と食べ物と旅のエッセイ集。内容は、Ⅰ「舌鼓ところどころ」と、Ⅱ「酒肴酒」からなる。
 元々は1974年に『酒肴酒』(1974)と『続・酒肴酒』の2冊として刊行された内容を再構成したものだそうで、中身は2冊分。しかし単純にくっつけて2部構成にしたというわけでもなさそうで、第1部と第2部ではちょっとテーマが違っている。

 第1部「舌鼓ところどころ」は、旅と食べ物が主要なテーマ。
 最初の「食べものあれこれ」と題したエッセイは、「日本・支那・西洋」の三本立てで、和食、中華、洋食について語っているが、戦後間もない頃に書かれたらしく、ほとんどは戦前に食べた美食の思い出。「復興の兆候も確かに見えて来ている。(中略)ここに一つ困ったことがあるのは、戦後十年間に余りまずいものばかり食べさせられたせいか、うまいものを食べることがうまいものを食べることではなくて、一種の趣味になりかけていることである」というあたりに、著者の「うまいもの」についての基本姿勢が見える。要するにうまければいいので、ごちゃごちゃと理屈をこねるなということらしい。
 次の「舌鼓ところどころ」は、雑誌の企画で日本各地のうまいものを食べ歩いた記録。行き先は、酒田、新潟、大阪、広島、長崎、金沢、神戸。ここにも、「食べ物というのは、うまい味がまだ口の中から消えないうちにまたそのうまい味をその上に重ね、そういう味が口の中でしていることに充分に納得がいくまでこれをやって、初めて食べたという感じがするのである」と、味覚についての考え方が著者独特の表現で登場する。
 ところで著者は、取材のために食べるというこの企画が、実はいやでたまらなかったらしく、他のエッセイにその時の愚痴が何度も出てくる。
 その後は、単発の旅と食のエッセイ。金沢が何度も出てくるが、よほど気に入ってるらしい。他にロンドンの味も。
 第2部「酒肴酒」は、タイトルどおり、主に酒の話。
 とにかく信じられないくらいよく飲んでいる。「酒宴」というエッセイの中に「理想は、朝から飲み始めて翌朝まで飲み続けることなのだ、というのが常識で、自分の生活の営みを含めた世界の動きはその間どうなるかと心配するものがあるならば、世界の動きだの生活の営みはその間止まっていればいいのである」という文章があるが、すごい「常識」もあったものである。
 終わりの方に載っている「饗宴」は、脳内美食の宴を詳細に描いたとんでもない妄想エッセイ。読み物としては、この第2部の方が面白い。
 全体を通じて、独特の「吉田節」が満載。第2部には沖縄で食べたカレーの味について、「どんより曇った空の下に豚の子のように太った鯉が蝦を漁って更に肉をつけている沼の滑らかな水面が鈍光を湛えている風情である」なんて表現が出てくるが、まずこの人にしか書けないのではないか。正直言ってここまで来ると何だかよくわからないのだが、それもまた文章の味。

Sakesakanasake

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2019年5月23日 (木)

昭和なつかし食の人物誌

昭和なつかし食の人物誌/磯辺勝(平凡社新書,2016)
 平成も終わって、昭和はますます遠くなったが、本書は「食」から見た昭和の有名人たちの人物像。
 八つの分野、30人の人々を取り上げている。昭和を中心に活躍した著名人で、物故者という条件。なぜか女性が3人しかいない。
 中には、美食に興味のない人、そもそも食べることにほとんど思い入れがない人もいたりするので、うまい料理の話が次々と出てくるわけではない。実のところ、「食」の部分は思ったより少ないのだ。
 内容は以下のようなもの――。

「一、時代もの歴史もの」は、時代小説、歴史小説作家。藤沢周平、司馬遼太郎、川口松太郎、吉川英治の4人。藤沢周平の食通は有名だが、吉川英治は美食に反対していたという。
「二、スターの周辺」。高倉健、小津安二郎、美空ひばり、淀川長治の4人。食に関してきわめてストイックな高倉健など、美食に縁のない人ばかり。ただ、小津安二郎は食べたものを詳細に記録したいたというから、食べることそのものには興味があったらしい。
「三、東京エッセイ」。本業を別に持ちながらエッセイで有名になった3人、池部良、吉田健一、高橋義孝。3人とも、エッセイに食べ物の話がよく出てくる。ただし、食への態度は三人三様。
「四、笑いの源泉」は、マンガ家。やなせたかし、手塚治虫、横山隆一、田河水泡。この章も美食と関係のない話。やなせたかしはアンパンマンの話が中心。手塚治虫は忙しすぎて食事もゆっくりできない。横山隆一も田河水泡も食べることについては実に素朴というか質素な話題。
「五、旅と日常」は、小説家。松本清張、有吉佐和子、神吉拓郎、杉浦明平の4人。松本清張や有吉佐和子の作品の中に出てくる食、神吉拓郎のエッセイ『たべもの芳名録』、杉浦明平の自ら耕作する食べ物――と、食との関わりはさまざま。しかし「旅」はあまり関係ないような…。
「六、画家の視界」は、岡本太郎、小絲源太郎、竹久夢二の3人、。小絲源太郎という画家はよく知らなかったが、実家は料理屋だったとか。食というテーマとうまくつながっている点では、この小絲源太郎編が一番かもしれない。
「七、都会の休息」は、言うならば都会が似合う文化人のグループと言えるだろうか。植草甚一、須賀敦子、澁澤龍彦、平野威馬雄の4人。植草甚一のコーヒー、須賀敦子のチーズ、澁澤龍彦の酒と美食と煙草など、その人ならではのエピソードを紹介している。平野威馬雄は平野レミの父親だが、食の話はちょっとしか出てこない。
「八、話術あり俳味あり」は、芸の世界。林屋三平、安藤鶴夫(劇評家)、中村汀女(俳人)、江國滋の4人。この章は著者の個人的思い出の話が多い。特に最後の江國滋編では、本人との交流の思い出がほとんど。呼び方も、他の人のように呼び捨てではなく「江國さん」である。

 食と関係する話題がほとんどない人がけっこういる。人選にあたって食の話とか関係なしに、ただ単に著者の好みで選んでいるようだ。結局、食エッセイにはなってない気がする。人物エッセイとしてはよくできていると思うが…。

 

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2019年1月23日 (水)

私の酒

私の酒 『酒』と作家たちⅡ/浦西和彦編(中公文庫,2016)
 かつて『酒』という雑誌があったのだそうだ。刊行されていたのは1950年から1996年まで、編集者は佐々木久子。巻末の編者による解説には、その発行の経緯が簡略ながら書いてあって、「事務所もなく、電話もなく、文房具も机もないところから、佐々木久子は『酒』発行に孤軍奮闘するのである」というあたりからも、1冊の物語になりそうな雑誌だったことが想像できる。ブログ主は残念ながら一度も見たことがない。佐々木久子という人は、この雑誌と広島カープに人生を捧げたような人だったらしい。
 しかしこの本は、そんなことを知らなくても気楽に読める。『酒』に寄稿された文学者、作家、評論家、出版関係者などの短いエッセイを集めたもの。サブタイトルからもわかるように、『『酒』と作家たち』という本が先に出ていて、本書は第二弾。1冊目の方は読んでない。
 内容は、昭和30年から平成6年まで、約40年にわたる掲載分から抜粋したものを、発表年順に並べている。全49編。
 最初は吉田健一の『酒の飲み方について』。次が紀伊國屋書店創業者田辺茂一の「ぼくの酒」。
 以下、作家だけ並べてみても、里見弴、江戸川乱歩、大岡昇平、幸田文、阿川弘之、石原慎太郎、遠藤周作、北杜夫、星新一、野坂昭如、池波正太郎、小松左京、色川武大、立原正秋、川上宗薫、戸川幸夫、吉村昭、五味康祐、半村良、豊田穣、瀬戸内寂聴、野間宏、なかにし礼、小池真理子…と、有名人がずらりと並んでいる。ただ、テーマのせいか、圧倒的に男性が多いのだが。
 酒についてのエッセイと言っても、実にさまざま。若い頃の酒、今の酒、自分が飲む酒、他人が飲む酒、家で飲む酒、居酒屋の酒、旅の酒、酒を通じた交友、静かに飲む酒、暴れる酒。中には大宅壮一みたいに酒を飲まないのに酒のことを書いている人もいるし、石原慎太郎みたいに「酒は飲むべし乱れるべし」なんて乱暴なことをいう人もいる。
 中でも印象的だったのは――。
 川上徹太郎が郷里岩国に東京から酒友を迎える話「三日間 ―周東酒日記―」(公園化される前の岩国城の様子がわかる)。阿川弘之がまだ若かった頃の谷川俊太郎に一杯食わせる「俊太郎だまし」。小松左京が若い頃(未成年の時から)酒を飲んでは走っていたという妙な思い出話「飲んだら走る」。半村良の酒と女についての赤裸々な回想「酒も女も大キライ」。文芸評論家磯田光一が「文壇酒徒番附」について語る「ある勤務評定」。ドイツ文学者中野孝次による国際的酒談義「酒呑みの独り言」――といったところ。
 あと、中野孝次の「いずれにしろ酒というものは慌ただしくのむものではなく、ゆっくりと酒を味わってるうちに酔いの深まってゆくのがいい。若い時はただのむだけで味も何もわからなかったが、齢とともに酒にうるさくなったのは、酒を離れられぬ友と覚悟したからだろう」という言葉は、ありがちではあるが味わい深い。

 この『酒』という雑誌、バックナンバーを見てみたいのだが、所蔵している図書館も少ないらしい。どこへ行けば読めるのだろう…。それより1冊目を読んでみるのが先か。2冊目でこれなら、1冊目はどんな顔ぶれなのだろう。

Watashinosake

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2018年6月21日 (木)

ヌードルの文化史

ヌードルの文化史/クリストフ・ナイハード;シドラ房子訳(柏書房,2011)
 世界に広がった食文化「ヌードル」の過去と現在をレポートする本。
 著者はドイツ系のスイス人で、日本在住とのこと。妻は中国人、娘の「海音[みお]」は日本で生まれ育ったから日本人みたいなもの――という、国際的家族。
 そして本書の視野も、実に国際的というか。

 同じ麺料理の歴史でも、先日紹介した(2018年2月24日のエントリー)『進化する麺食文化』とは、ずいぶん違う。あちらはさまざまな資料を元に歴史を述べるだけだったが、本書は著者が実際に世界各地に行って料理を食べ、その料理や食材に関わる人々に取材した体験談が中心になっている。記述の臨場感がまるで違うのだ。

 内容は、序章・終章を合わせて全6章。
 序章「ヌードル四千年の歴史」は、飛行機の中で出てくるカップ麺の話に始まり、麺の歴史と文化をたどって世界を駆け足で巡る。本書のエッセンスが凝縮されているが、話題を詰め込みすぎな気も、。
 第I章「ヌードル文化九つの舞台」は、九つの地域の九つの物語。イタリアのパスタ、西安の麺職人、ドゥシャンベのラグマン、ソウルのネンミョン、モスクワのペリメニ、シュヴァーベンのマウルタッシュ、ベトナムのフォー、スイスの缶詰パスタと幼少期の味コンフォート・フード、東京の年越し蕎麦。さまざまな麺を楽しむ生きた人々の姿が、ノンフィクション風に描かれている。
 第II章「麺と小麦」は、一転して学術的なタッチで、ヨーロッパを中心とした小麦と麺の歴史を述べている。この本の中では、いわゆる「食文化史」のイメージに一番近い章。
 第III章「ヨーロッパのヌードル」は、近代以降の麺の歴史がテーマだが、トピックを絞り込んで物語風、あるいは現地ルポ風に述べているのが、本書らしい特徴。取り上げられているのは例えば、著者の故郷スイスのソウルフード、ボスキアーヴォのスパゲッティとか、ドイツに発祥した「ヌードル」という言葉の起源とか、世界最大のパスタメーカー、パルマのパリラ社の歴史とか。
 第IV章「アジアのヌードル」も、やはりトピックやエピソードの積み重ね。日本の蕎麦とうどんから始まり、シルクロードと麺の伝播、「麺王国」山西の麺、北京の餃子と包子――そして最後はまた日本に戻り、ラーメンとインスタントラーメンの話題でしめくくる。
 終章「ヌードルを超えた食文化」は、広州の点心が登場。

 とにかく、出てくるヌードル料理の数々がうまそうである。著者のその家族が、実際に食べているシーンが何度も出てくる。資料としては、『進化する麺食文化』みたいな本の方が体系的だし有用かもしれないが、読み物としては、断然こっちの方がいい。巻末にヌードル料理索引がついているのもありがたい。

Noodlenobunkashi

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2018年2月24日 (土)

進化する麺食文化

進化する麺食文化 ラーメンのルーツを探る/奥村彪生;安藤百福監修(フーディアム・コミュニケーション,1998)
 東アジアを中心とした麺類の歴史を解説する本。要するにラーメンのルーツがテーマなので、西洋のパスタなどはほとんど出てこない。最近になって『麺の歴史』のタイトルで文庫化されたが(角川ソフィア文庫,2017年)、本書のカラー図版などは一部しか収録されてない(文章は多少改訂されているようである)。
 なお、本書の表紙などには、チキンラーメンの発明者安藤百福の名がデカデカと出ているが、本文は食文化研究家奥村彪生の執筆。安藤百福はあとがきを書いている他、各章の冒頭に、著者と安藤百福との対談が2ページ入っている。

 内容は全7章。
 第一章「「麺」とはなにか」は、紀元前の中国での麺のルーツ、「麺片」、「麺条」の登場から述べる。余談だが、著者は歴史にはあまり詳しくないらしく、「中国では『三国志』に登場する項羽と劉邦のライバルが対決し」などという文章が出てくる。確かに『三国志』にもこの二人の名前くらいはどこかに出てくるかもしれないが、普通は『史記』だろう。
 第二章「麺の源流をたどる―「水溲餅」から「水引餅」へ」から、本格的な食文化としての麺の伝播と進化の歴史。中国でうどんのルーツみたいな麺が誕生し、それが奈良時代から日本に伝わってくる。ここから日本の麺の歴史が始まるかというとそうでもなく、まだしばらくは中国と日本の話が平行して述べられる。
 第三章「麺類の確立―碱水が出現」。まだ中国の話が中心。は宋代になって多用な麺料理が登場し、その中の「索麺」と「経帯麺」が拉麺のルーツだという。
 第四章「日本における麺食文化の開花」。室町時代に日本にさまざまな中国料理が伝わってくる。その中から日本独自の麺――うどん、そうめん、切り麦、きしめんなどが登場。それぞれの誕生のエピソードは興味深いが、なかなかメインテーマであるラーメンの話が出てこない。
 第五章「拉麺はラーメンの原点」では、また中国の話。明の時代になって中国では鶏でだしをとったスープや、手で延ばす「拉麺」が生まれる。その系譜を引いて今も中国に伝わるさまざまな「拉麺」を紹介。なお、日本で初めてラーメンを食べたのは徳川光圀とも言われるが、それは今のラーメンとは違うものだろうとのこと。
 第六章「明治期以降に完成された日本の「ラーメン」」。ここでやっと本格的な日本の中華風麺料理誕生の話になる。明治以降になって日本に本格的な中国料理が進出し、「支那そば」や「ラウメン」と呼ばれる麺料理も登場。だが、「ラーメン」という言葉を最初に使ったのは、大正時代、札幌の「竹家食堂」だった。昭和初年頃、「ラーメン」はまだ札幌地区のローカルな言葉だったという。
 第七章「世界に飛躍する食文化「ラーメン」」。戦後、サッポロラーメンの人気で「ラーメン」の語は日本に広まっていく。だが「ラーメン」という言葉を今のように広めたのは「チキンラーメン」だった、とのこと。
「このインスタントラーメンのコマーシャルの影響でラーメンという札幌のローカル言葉が全国的に広まり、周知、認知され、それまで中華そばや支那そばを売っていた屋台や専門店もラーメンと切り換えました」(p.182)
 この「ラーメンの語を定着させたのはチキンラーメン」説が、本書を読んで一番印象的だったところ(実はその後ネットを探してみたところ、同様のことがあちこちに書いてあるのがわかった…)。
 それにしても、肝心の「ラーメン」のきちんとした定義が、いまだにないというのがちょっと意外だった。

Shinkasurumenshokubunka

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2017年11月24日 (金)

ちゃぶニチュード!

ちゃぶニチュード! 日本全国マズイ店列伝/野瀬泰申(幻冬舎文庫,2008)
 著者が体験した、ひどい店、まずい飯についての怒りのこもった食エッセイ。元は「ぐるなび通信Web版」に連載されていたもの。
 本書のテーマ「ちゃぶニチュード」とは、もちろん著者の造語で、「ちゃぶ台をひっくり返したくなる怒りのエネルギー」だということ。次の5段階に分かれている。

 ちゃぶニチュード1:二度とくるものかと思う
 ちゃぶニチュード2:あの店はひどいぞ、と知人に言いふらしたくなる
 ちゃぶニチュード3:新聞の投書欄に「ひどい店がある」と投書したくなる
 ちゃぶニチュード4:悔しくて眠れなくなる
 ちゃぶニチュード5:店に向かって「ばかばかばか」と言いたくなる

 内容を見ると、どれも程度にあまり大差ないような気もするが…。
 ところで、まずい食べ物に関するエッセイとしては、小泉武夫の『不味い!』(2015年9月5日の本ブログで紹介)を思い出す。あの本はとにかく味の話がメインだったが、本書の場合は、食べ物の味そのものだけではなく、それを出す店の雰囲気や店員の態度、料理に対する姿勢も含めて、怒りの矛先を向けている。
 つまりは「料理」よりも「店」が対象。その点は伝説の裏グルメレポート『恨ミシュラン』に似ている。もっとも、実名を出しまくっていた『恨ミシュラン』に比べて、本書はそこまでの根性はなく、実名がわからないように所在地もあいまいにするなと、気をつかっている。
 逆に言えば、店をわからないようにしているからには、遠慮なく言いたいことを言ってるわけで、「その1」から「その35」まで、とても現実とは思えないすさまじい店が登場。味がなかったり、塩からすぎたり、まがいものだったり、手抜きがひどすぎたり、調理のやり方が根本から間違っていたり…。しかも中には有名チェーン店とか、行列ができる人気店もあるというからあきれる。
 ただ、食べ物がまずくても、状況から見て同情すべき点があれば「ちゃぶニチュード」のレベルが下がったり、不問に付されたり、諸般の事情から対象外とされることもある。逆に料理は普通でも、店の態度が悪かったら「ちゃぶニチュード」がつくことも。実は意外とうまかった「逆ちゃぶ」が2店だけ。
 本書の効用として、食事の味に多少不満があっても、「まだましだ」と思えるようになる。

 読んでるうちに少し気になったのは、最初の方は、たまたま入った店のひどさを告発するようなエッセイだったのに、回数が進むにつれて、ネタとしてわざわざひどい店を探して入るようになっていくこと。
 むしろうまかったりしたらネタにならないと心配するようになるのだ。「私は不安になった。/これだけ行列ができているということは、ひょっとしてうまいのではないだろうか」とか。
 結局その店は、期待どおりろくでもない料理を出す店だったのだが、食事に行く姿勢として、これはどうなのかと思う。わざわざまずいものを求めて行くというのは、何か違うのではないかという気がする。とは言うものの、結果としては、そうして書かれたものを面白く読んでるわけだが。

Chabunitude

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