歴史小説

2009年5月15日 (金)

4月に読んだ本から(その1)

ぽんこつ喜劇/浅暮三文(光文社,2008)
 前に紹介したこの著者の『実験小説 ぬ』(2007年11月30日)は、異様な発想が山盛りの作品集だったが、この本もその延長線上にある。というか、『ぬ』の第一章で多用されていた、「記号または図と文章の組み合わせ」というパターンを徹底してつきつめた作品集である。
 本書は全十二話からなるが、基本的にどの話も、ページの上に何らかの図か図式化されたテキスト、あるいは両方の組み合わせが表示してあり、その下に、関連した文章という形式をきっちりと守っている(第六話「八枚の石」だけは、右と左のページという組み合わせだが)。この形式で物語を作っていくのだから、ある意味すごいといえばすごいが...。
 ページ上部にあるのがどんなものかというと、例えば、第一話「プロローグ」では、アイデアメモ、第四話「十指相関図」では、指をさまざまな形に突き出した手の写真、第五話「星を巡る言葉」では、星座のシンボル(下にかかれた文章は、その星座の運勢占い)、第七話「博士の事件簿」では、死体発見現場の床に書かれる、死体の輪郭をなぞった線、第九話「海へ」では、意味不明のメッセージ、第十二話「エピローグ」では、この本そのものの使用説明、といった具合である。
 ひとつひとつの作品を見れば、おもしろい発想もある。例えば、「星を巡る言葉」など、一見したところ単に星占いが書いてあるだけだが、読んでいくうちに、いつの間にか宇宙戦争の話が浮かび上がってくるし、「こちら相談室」(第八話)は、全体としてのストーリーはないが、人生相談の形式を使った童話や名作のパロディを限られたスペースにつめこんでいる。「海へ」の意味不明のメッセージの連続もおもしろいのだが、これは『ぬ』に収録された「喇叭」と同じパターンである。
 本そのものに仕掛けを散りばめたり、作品の外枠にSF的な設定を持ち込んだり、細工はいろいろ施しているが、結局、『ぬ』を超えてない気がする。というか、どう考えても二番煎じである。
 あまり小細工をせずに、もっと形式自体の目新しさを追求してほしかった。
 とはいえ、単体としておもしろい作品がいくつかあったのは間違いないので、ベスト3をあげるなら、異色のSF(?)「星を巡る言葉」、あまりのくだらないアイデアの連発に脱力必至の「プロローグ」、二番煎じながら不条理小説としてはよくできている「海へ」というところか。

ぽんこつ喜劇

壮心の夢/火坂雅志(文春文庫,2009)
 今年の大河ドラマ「天地人」の原作者として一躍売れっ子になった感のある火坂雅志。実際には20年以上のキャリアを持つ作家で、著書は50冊を超える。初期の作品は伝奇アクションや歴史ファンタジー的なものが多く、『日本幻想作家名鑑』(『幻想文学』別冊,1991)にも収録されているほどである。この時期の作品には『関ヶ原死霊大戦』なんて、タイトルを聞いただけで読んでみたくなるものもある。
 本書の単行本版が出たのは1999年。作家キャリアのちょうど真ん中あたりで、作風も伝奇から普通の歴史小説へと大きく変わりかけた頃である。収録作品は戦国時代から大坂の陣にかけて、織田信長や豊臣秀吉にかかわりを持った人物を主人公とする14篇。
 目次には、収録作のタイトルの他に、それぞれの中心となる人物名も書いてある。収録順に、荒木村重、赤松広通、亀井茲矩、木村吉清、蒲生氏郷、神子田正治、前野長康、木下吉隆、今井宗久、神屋宗湛、石田三成、池田輝政、菅道長、和久宗是。
 この時代の武将としてよく知られている名前は荒木村重、蒲生氏郷、石田三成、池田輝政くらいか。もっとも、蒲生氏郷の物語「花は散るものを」は、実際には氏郷の死後、西洋から来た家臣、ジョバンニ・ロルレスがその死の真相を知ろうとする話で、本人は出てこない。また、前野長康は秀吉の一番古い家臣の一人で、けっこう重要な人物なのだが、知名度は微妙。今井宗久、神屋宗湛はこの時代を代表する政商たちだが、武将ほどは知られてないだろう。他は、全然聞いたこともない名前がいくつかある。
 総じて、どちらかというとマイナーな人物が主である。だが、短篇歴史小説は、マイナーな人物を主人公にする方がむしろおもしろいことが多いので、これはむしろ歓迎すべきことなのである。
 有名無名の差はあれ、主人公たちはいずれも、熱い思いを胸に秘めている。象徴的なのが、収録作の2番目と3番目にあたる「桃源」と「おらんだ櫓」。「桃源」の主人公赤松広通は儒教の教えにのめり込み、地上に理想郷を作ろうとするが、亀井茲矩の讒言で切腹する羽目になる。次の「おらんだ櫓」の主人公は、前の作品で「邪まな男」と呼ばれたその亀井茲矩。彼は彼で、琉球を征服してその王になりたいという壮大な野心があり、その目的のためには手段を選ばず立身出世を目指す。方向の違いはあれ、夢を追う(そして挫折する)点は共通しているのだ。
 志を発揮できずに終わった男たちもいる。「幻の軍師」の神子田正治は、プライドだけは高いがついに実力を発揮できずに終わり、「抜擢」の木村吉清は、能力を超えた地位について無惨に失敗し、「冥府の花」の木下吉隆は、理不尽な運命に振り回されて無念の死を遂げる。あるいは、「天神の裔」の菅道長、「老将」の和久宗是のように、人生の最後に意地を貫く道を選んだ男たちもいる。
 その形はさまざまだが、本書のタイトルになっている「壮心の夢」という言葉に象徴されるような、乱世に生きる男たちの思いがどの作品にも描かれている。上の「桃源」と「おらんだ櫓」の例にも見えるように、前の作品で脇役で出てきた人物が次の作品の主役、というパターンもいくつかあって、配列も凝っている。そういう点も含めて、よくできた短篇集である。

壮心の夢 (文春文庫)

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2009年4月27日 (月)

中国美人伝

中国美人伝/陳舜臣(中公文庫,2007)
 「中国四大美人」というのがあるそうだ。楊貴妃・王昭君・虞美人・西施がそうであるとか、虞美人のかわりに貂嬋を入れるとか、説がいろいろあるようなのだが、楊貴妃と西施は固定のメンバーらしい。
 ところで、中国史上に登場する美人を主人公にしたこの連作短篇集、西施と王昭君は出てくるが、楊貴妃も虞美人も貂嬋も出てこない。そもそも貂嬋は史書には登場しない人物で、歴史上の人物を扱うこの連作に登場させるには、ふさわしくないのだろう。(もっとも、同じ陳舜臣の作品でも、フィクション性の強い『秘本三国志』には貂嬋が登場する。)なお、楊貴妃がなぜ入ってないかは、著者があとがきで弁明している。
 収録作品は年代順に並んでいて、主役の女性の名前がそのままタイトルになっている。まず最初は、春秋時代、呉国滅亡の原因となった傾国の美女で、呉王夫差の妃、「西施」。前漢の時代、富豪の家に生まれながら、貧しい文人だった司馬相如に嫁いで苦労をともにした「卓文君」。同じく前漢、貢ぎ物として匈奴の呼韓邪単于に嫁がされた「王昭君」。西晋恵帝の皇后で、八王の乱や異民族の侵入に運命を翻弄された「皇后羊献容」。唐代の女性詩人「薛濤」。明の皇太子、後の成化帝の保護者兼妃(皇后ではない)として、宮廷に君臨した「萬貴妃」。清朝第三代皇帝、順治帝に愛されながら夭折した貴妃「董妃」。
 西施や王昭君のような有名どころから、萬貴妃や董妃のようなよほどの歴史ファンでも知ってるかどうか疑わしい人物まで入っているが、ほとんどが皇妃または王妃である。違うのは卓文君と薛濤だけ。両方とも文学関係の女性だ。中国史にちゃんと事績が残っている女性は、基本的に帝王の周囲か文学関係くらいしかいないので(民間伝承などではいろいろあるが)、こういう構成になるのも当然なのかもしれない。
 政治の動きや数奇な運命に翻弄されながら、どの主人公たちも、悲劇の主人公などという形容が似合わないくらいに、けっこうしたたかに生きている。ただ、「美人伝」とは言いながら、美貌のゆえに運命が変わったのは西施や王昭君くらいで、萬貴妃や董妃に至っては、美人だったかどうかさえ書いてない。「美人」がテーマではなく、あくまで歴史上の女性を描くのがテーマなのである。物語の歴史的背景や周囲の人物たちの動きもしっかり書き込まれていて(というか、作品によってはそれがメインになってたりして)、いかにも陳舜臣らしい歴史短篇集となっている。

 実は陳舜臣には、「中国史上の女性」をテーマにした本が他にもある。本書と同じ中公文庫から出ている『妖のある話』がそれで、ただしこちらは小説ではなくエッセイ集。出版されたのは1984年で、本書の単行本より20年近く前になる。西施、卓文君、王昭君、薛濤、萬貴妃などはこの本にも登場する。すでにネタとしては持っていたわけだ。実在の女性ばかりではなく、木蘭についても書かれていたりして、この本もなかなかおもしろいのだが、それはまた別の機会に。

中国美人伝 (中公文庫)

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2009年2月22日 (日)

山田風太郎の八犬伝

 本ブログ初登場、山田風太郎。山田風太郎といえば、忍法帖シリーズだが、ここではあえてそれ以外の作品から取り上げる。
 自分で言うのも変だが、このブログで取り上げる本は、どちらかといえばマイナーな、他の人があまり感想など書かないような本が多い傾向がある。それほど意図しているわけではなく、なんとなくそうなってしまってるだけだが。

八犬伝(上・下)/山田風太郎(朝日文庫, 1986)
 単行本は1983年。元は朝日新聞の連載小説で、そのせいか忍法帖シリーズほどの破天荒さはなく、山田風太郎の小説にしては穏健。
 だが、構想は凝っていて、戯作者・滝沢馬琴の生きる江戸時代の市井の世界を描く「実の世界」と、馬琴の創造する八犬伝の物語世界を描く「虚の世界」という入れ子構造からなる、メタフィクション的構造になっている。
 実は、その上にさらに、作者・山田風太郎が解説や感想を書く「作者の世界」というレベルがあって、ますますややこしくなっている。
 1990年代初めに、筒井康隆が同じ朝日新聞に『朝のガスパール』を連載し、読者まで巻き込んだメタフィクション性が話題になったが、本作は新聞連載メタフィクションの走りと言えるかもしれない。
 が、別に読む上ではそんなことを考える必要はなくて、実質的にメインになっているのは、『八犬伝』という前代未聞の大長編を書こうとする滝沢馬琴の苦闘の物語である。だから、「ところどころ『八犬伝』のダイジェストが出てくる、滝沢馬琴を主人公にした歴史小説」と考えてそう間違いではない。
 とはいえ、この作品で語られる『八犬伝』前半のストーリーダイジェスト版は、まとめ方の巧みさもあって、なかなかにおもしろい。これだけ読みやすい『八犬伝』は他にないのではないか。本筋である作者馬琴の言動、その偏屈ぶりも、『八犬伝』の物語に輪をかけるくらいおもしろいのだが。
 上巻では『八犬伝』物語も、馬琴の執筆も順調に進む。が、下巻に至って、滝沢馬琴の人生は次第に破綻していく。それでも、もはや人生そのものとなった、文字通りのライフワーク『八犬伝』だけは執念で書き続けるのだが、その八犬伝の物語世界も、年老いた馬琴の脳の衰えに従って破綻していくのだった―というのが作者の解釈。
 ただ、その証拠として、里見家のものになっているはずの館山が他の領主のものになっている矛盾をあげるのだが、八犬伝関係のウェブサイトなどを見たところ、物語後半に出てくるのは上総館山で、物語の最初に出てくる安房館山とは別だという。そういえば、本文中にも「上総の館山」と書いてある。細かいことではあるが、山田風太郎ほどの人にして、綻びを見せることもあるのか。この作品を書いた時山田風太郎は60代半ば。どこかで馬琴と自分とを重ねていたのかもしれない。
 それはともかく、八犬伝の物語そのものが、後半は作者も根をあげるほど冗長きわまりないのは事実らしい。ダイジェスト版も途中でいやになったのか、中途半端である。よほど読みにくかったのだろう。
 ともあれ、本書は「馬琴とその時代」を描く小説であるとともに、八犬伝入門でもあり、二つの物語が同時に読めてお得な作品であることには間違いない。

 なお、山田風太郎には『忍法八犬伝』という作品もあるが、本作とは全然関係ない(らしい―読んだことないので)。

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2008年12月28日 (日)

傭兵ピエール

 今年最後の書き込み。といっても、去年と同じく、いつもと何も変わらない。

傭兵ピエール(上・下)/佐藤賢一(集英社文庫,1999)
 小説家としての佐藤賢一の出世作。
 百年戦争末期のフランスを舞台にした、「大河小説」風歴史小説。
 さすがにフランス中世史の専門家だけあって、当時の風俗や社会情勢、傭兵の生態などは実に詳しくかつリアルに描かれている。
 ものすごくおおざっぱに言ってしまえば、フランス王の側に立つ傭兵隊長ピエールと、ジャンヌ・ダルクとの愛と冒険の物語なのだが、ストーリー展開は読者の予想を裏切り続ける。一貫性がないと思われるほどに。
 ピエールは途中で王軍を抜けて南フランスの田舎町アランヴィルへ行き、守備隊長に収まってしまうし、一時はヒロインになるかと思われたピエールの恋人は途中で死んでしまうし。何がメインのストーリーかよくわからなくなった状態で上巻は終わった。
 上巻のラスト近くの、アランヴィル防衛戦のエピソードは迫力がある。この小説を通じて、最大の戦争シーンだろう。
 下巻に至って、話は歴史小説の枠を超えて意外な方向に突き進む。ジャンヌ・ダルクが主人公の恋人として出てくる以上、悲劇にしかなりようがない、と思っていたが、まさかああなってああなるとは。
 もっと史実に忠実な正統派歴史小説かと思っていただけに、この展開にはちょっと驚いた。話の根本で大胆な歴史改変を行っていても、細かい歴史考証はさすがに専門家だけあってしっかりしている。
 が、ストーリーは少々ご都合主義。主人公ピエールが行き当たりばったりに行動しても、どこかから助けが現れて結局すべてがうまくいってしまう。そんな都合のいい話があるかよ、と言いたくなる場面もたびたび。
 また、主人公のピエールとあと2、3人を除いてはキャラが立ってなくて誰が誰だか覚えられないのも問題。全体として、丁寧に書かれてはいるが、小説の作りとしてはまだ未完成な部分を感じる。
 しかしまあ、これだけの歴史知識を盛り込んでいて、充分におもしろいのだから、これ以上を求めるのは欲張りすぎかもしれない。
 最後は余韻を残すほろ苦い終わり方で、けっこう好きなパターンである。
 物語の結末、「ピエール兄き、あんたは歴史に抹殺された男なんだ」と舎弟のジャンに憐れまれるピエールは、戦 士としては死んだも同然。エンタテインメントとしては消化不良気味の終わり方かもしれないが、文芸作品としてはよくできている。
 「冒険小説」なのか「歴史文学」なのか、最後までどっちなのかよくわからなかった小説でもあった。

傭兵ピエール〈上〉 (集英社文庫)

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2008年12月21日 (日)

北方三国志

三国志 一の巻~十三の巻/北方謙三(ハルキ文庫,2001-2002)
 ハードボイルド作家、北方謙三の『三国志』(単行本は1996~1998年)は、ある意味、三国志もの小説の革命だった。まったく新しい解釈による人物像――例えば、キレる劉備、思慮深い張飛、人間的な呂布など――、正史三国志と「三国志演義」のどちらにも偏らず、おもしろい材料を取捨選択してまとめあげた独特の物語世界、架空の人物の活躍、そして全体を貫く「滅びの美学」。
 まさに三国志世界のハードボイルドタッチによる再話である。
 その語り口の特徴は、「後の○○である」とか、「史書によれば~」とかいう記述は一切出てこないあたりにも出ている。登場人物が知っているはずのないことは、何一つ書かれてない。完全に同時代の視点から書かれた三国志なのだ。
 細かく歴史的に見れば、どうかというところはあるかもしれないが(例えば人物名の呼び方など)、そんな細かいことは気にさせないだけの力がある。
 三国志マンガの世界における『蒼天航路』にも匹敵する、画期的な作品ではないだろうか。

 ところで、各巻のサブタイトルには、「○○の星」という見慣れない漢字二文字が入っているのだが、これは実は中国の伝統的星座名。高松塚古墳の天井にも描かれていた、二十八宿とかそういうやつ。だから、「星」なのである。

 以下、各巻の中味とサブタイトルをざっと見ていく。

一の巻 天狼の星
 第1巻は、関羽と張飛が劉備と出会うシーンから始まり、孫堅が死ぬシーンで終わる。その間に劉備、曹操、孫堅それぞれの黄巾軍との戦い、董卓との戦いが描かれる。この3人と同じくらいの比重を持って書かれているのが呂布。呂布の内面まで描写している作品は珍しい。第1巻から盛りだくさん、というかこれだけの内容をよく300ページ余りにつめこんでいるものだ。
 「天狼」は井宿の星座の一つ、いうまでもなく、おおいぬ座α、シリウスにあたる。中国の星座は星一つだけというケースもある。

二の巻 参旗の星
 呂布が董卓を殺す。本作には貂蝉は出てこない。呂布の謀反の動機は、早い話がヨメさんをバカにされためである。この小説の呂布はめちゃくちゃ愛妻家なのだ。この巻はその呂布中心に動く。曹操が青州兵を手に入れたり、劉備が徐州を取ったり取られたり、孫策が旗揚げしたり、三国の創始者たちが助走を始める。
 「参旗」は畢宿の星座の一つ、オリオン座の一部にあたる。

三の巻 玄戈の星
 呂布は曹操と戦い続け、ついに敗死する。この作品の呂布は、三国志ものマンガによく出てくるような化け物じみた怪人ではなく、無類に強いが、情も理性もある普通の人間だった。一方では、孫策と周瑜の二喬嫁取り(というか、略奪婚)の顛末も語られる。このエピソードがあるのもも本作品だけ。
 「玄戈」は紫微垣の星座の一つ、うしかい座λにあたる。

四の巻 列肆の星
 曹操は官渡で袁紹の大軍と対峙。劉備は曹操から離反するが、あっさりと敗走。曹操に降伏した関羽は、顔良を斬ってその足で劉備の元に帰って行く。見送る曹操。実にあっさりしている。これがこの作品の持ち味だろう。「演義」と違って、関羽は文醜まで斬ったりしない(正史では関羽が斬ったのは顔良だけ)。
 「列肆」は天市垣の星座のひとつ、へびつかい座・へび座の一部にあたる。

五の巻 八魁の星
 官渡の戦いに決着をつけた曹操だが、袁家残党との戦いが続く。荊州に逃れた劉備は徐庶と出会い、別れる。別れ際に徐庶が諸葛亮の名をあげるのが、最後のページ。引っ張るなあ。
 「八魁」は室宿の星座の一つ、くじら座の一部にあたる。

六の巻 陣車の星
 劉備が三顧の礼で諸葛亮を迎える。そのアレンジの仕方も、この作品では独特。後半は、いよいよ曹操の荊州攻めが始まり、劉備が敗走。物語は赤壁の戦いへと向かう。
 本作品後半の最重要人物の一人、馬超もこの巻で登場。
 「陣車」は宿の星座の一つ、おおかみ座、てんびん座、みずへび座の境目にまたがっている。

七の巻 諸王の星
 赤壁の戦いとその前後。この小説での周瑜は「演義」と違って孔明に敵対心は抱いておらず、相互理解が見られる。その点はむしろ「レッド・クリフ」に近い。赤壁の戦いそのものは、えらくあっさりと、数ページで片づけられている。風向きが変わったことを知った途端、曹操は負けを悟り、退却を決意するのだ。
 風向きが変わるかどうかが勝敗の鍵だった。戦いの前夜の周瑜を描く文章がすべてを語っている。こんな短い文章で、どんな大作映画のスペクタクルシーンにも匹敵するくらい盛り上がるのだからすごい。

 勝てる。周瑜は思った。
 風さえ吹けば、勝てる。

 「諸王」は畢宿の星座の一つ。おうし座の一部にあたる。

八の巻 水府の星
 赤壁の戦いの後、三国(正確にはまだ三国ではなく、漢王朝内の有力軍閥だが)はそれぞれ新たな作戦を始める。周瑜が益州を目指す途上で死亡、曹操は関中に侵攻し、荊州を得た劉備は益州に攻め込む。
 「水府」は井宿の星座の一つ、オリオン座の一部にあたる。

九の巻 軍市の星
 怒濤の展開の巻。馬超と劉備の出会い。劉備の益州制圧、曹操と劉備の漢中争奪戦、劉備の漢中王即位、関羽の魏領侵攻と、呉の裏切りによる荊州喪失、そして関羽の死。
 馬超は、どんどんニヒルな一匹狼化していく。

 「どうでもいい。人と人の争いなどな。この国は乱れるだけ乱れて、滅びてしまえばいいのだ。」

 関羽の壮絶な最期は、この北方三国志の、というかあらゆる三国志小説を通じての、屈指の名場面の一つだろう。
 「軍市」は井宿の星座の一つ、おおいぬ座の一部にあたる。

十の巻 帝座の星
 天下統一を目指して走り続けてきた曹操が巻の半ばで死ぬ。この小説の曹操は、死ぬ間際まで理屈が多い。劉備が皇帝に即位し、蜀は対呉戦の開戦準備を進めるも、出陣直前、張飛が暗殺される。それでも張飛の弟子陳礼を先鋒に、蜀軍は呉が占領する荊州へ侵攻を開始する。滅びの美学がますます冴える一巻。
 「帝座」は天市垣の星座の一つ、ヘルクレス座α(ラスアルゲチ)にあたる。

十一の巻 鬼宿の星
 荊州深く攻め入った蜀軍だが、張飛軍の指揮を引き継いだ若い陳礼が陸遜の罠にはまって壊滅的敗北。張飛が生きていれば蜀は勝っていた、というのがこの小説の見方。歴史のとおり、この敗北に打ちのめされた劉備は、本巻の終わり近くでついに死亡。
 この小説の劉備は本当に英雄だった。
 一方、馬超は呉との戦いをよそに、ひっそりと劉備軍から去る。「演義」でもいつのまにか出てこなくなるのだが、この小説では、死んだことにしてわざと姿を消すのだ。その後の馬超の物語は、完全に本作のオリジナル。メインストーリーの裏で、地下水流のように続いていく。
 「鬼宿」はその名のとおり二十八宿の一つ鬼宿の筆頭の星座(各「宿」にはそれぞれの宿と同じ名称の星座がある)、かに座の一部にあたる。

十ニの巻 霹靂の星
 諸葛孔明は完璧な作戦を立てながら、必ずどこかで綻びが出て失敗する。不運ぶりがますますひどくなってくる、というか、本人に問題があるのか。
 この巻でも、長安を奇襲し、魏帝曹叡の首を狙うという乾坤一擲の作戦が、街亭で馬謖がドジを踏んで失敗する。従来の諸葛孔明のイメージからは考えられないような、大胆でダイナミックな用兵をする孔明もすごいが、そのすごさを察知して失禁してしまう司馬懿も、ある意味すごい。
 「霹靂」は、普通は雷のことだがここではもちろん星座名で、壁宿に属する。うお座の一部にあたる。

十三の巻 極北の星
 ついに最終巻。乱世の英雄たちも前の巻まででほとんど死んでしまい、諸葛亮と司馬懿が蜀と魏をほとんど一人で背負って対決する。三国志もの小説の定番どおり、諸葛亮が五丈原で死ぬところで物語は終わるが、その後に少しだけ挿入される最後のエピソードが、深い余韻を残す。この小説での馬超は、このために出てきたのだと思わせる。
 サブタイトルの星座名は、この巻だけ少しオリジナルの名称から変えられている。中国星座としての名前は「北極」。中国の星座大系で最上位に位置づけられる紫微垣(北極星を中心としたエリア)の、さらに最上位の星座。こぐま座からきりん座の一部にあたる。なお、その名前とはうらはらに、北極星は含んでない。
 最後の巻が最上位の星座で終わるというのも、意味ありげである。まさに三国志小説の極北をめざした作品だった。

文庫版 三国志完結セット 全13巻+読本

 

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2008年12月 9日 (火)

忍城戦記

のぼうの城/和田竜(小学館,2007)
 1590年、豊臣秀吉は北条氏を攻める。秀吉率いる大軍が小田原城を包囲する一方で、配下の軍は関東各地の北条方の城を次々と落としていく。そんな中、成田氏の居城、忍城だけは、石田三成による水攻めや度重なる猛攻に耐えて最後まで陥落せず、北条氏降伏の後になって開城した。城兵たちは関東武者の最後の意地を示し、一方で、大軍を擁して忍城を攻めながら攻略に失敗した石田三成は、後々まで戦下手というレッテルを貼られることになってしまう。
 忍城攻防戦のあらましはこのようなものだが、知っている人はごくわずかだっただろう――この本が出るまでは。
 主人公はまったく無名の武将、舞台となるのは地元以外にはほとんど知られてない関東の田舎城の、歴史ファン以外にはほとんど知られてないマイナーな戦い。おまけに作者は無名の新人。
 これほど売れない要素を備えた本も珍しいかもしれない。にもかかわらず、歴史小説としては異例なほどに売れまくっている。
 「売れている本」には普段は滅多に手を出さないのだが、この本については、その理由を知りたくもあって、読んでみた。

 人気の原因のひとつは主人公だと、よく言われている。主人公、成田長親は徳の人物である。本人は何の能力もないが、まわりの人間が助けてやらなければいけない気持ちにかきたてられ、勝手に手を貸すのだ。「でくのぼう」を略して「のぼう」と呼ばれる茫洋とした好人物。三国志演義の劉備みたいな人物である。
 だけど、長親のどこにそれだけの人間的魅力があるのか、実は読んでもよくわからない。客観的に見れば、無能なくせに人一倍頑固な、空気を読めないわがままなオヤジなのだ。これだけの人物だから周りが助けたくなる、と納得するのではなく、周りがこれだけ助けたくなるのだから、それだけの人物に違いない、と思うしかない。
 まわりを固めるのは、それなりに有能で個性的な武将たちである。常識人の参謀役、正木丹波守。自称天才の知将、坂巻靱負。猛将タイプの巨漢、柴崎和泉守。そして、城主の娘で男まさりの甲斐姫。
 実はこの甲斐姫、伝承によると自ら槍を振るい城から討って出て、寄せ手を撃退したという武勇伝を持つ女戦士である。鎧に身を固め、颯爽と馬を駆る美少女――およそ小説家なら、必ず書きたくなるようなシーンだろう。しかし、作者は甲斐姫の出撃シーンをばっさりとカットしてしまっている。甲斐姫を活躍させると主役を食ってしまう。長親の影が薄くなるのを防ぐためなのだろう。
 同じように、戦いそのものも、石田三成自慢の水攻めだけに焦点を絞って、他の要素を省略している。実際には、その後も忍城攻めはしばらく続くのだが、この小説では水攻めが失敗に終わってすぐ、戦いも終わったかのように書いている。また、忍城攻めに先立つ館林城攻めも、実際には何日か包囲戦が続いたのに、包囲された途端にみっともなく降伏したことにされている。
 ストーリーのためには史実を思い切り無視してしまうこの大胆さ。極端にデフォルメされたキャラクター(長親は人徳以外はまったく無能だし、三成は調子に乗りすぎ)。既存の歴史小説家にはなかなか真似のできないところだろう。『レッド・クリフ』にも匹敵するようなアレンジぶりである。
 歴史小説本来のおもしろさとは違うが、娯楽物語の原点みたいなものは感じる。ただ、話も文章もとんでもなく荒削りだが。ところどころ変な文章もあるし。
 細かいことにはこだわらず、エンタテインメントに徹したところが、今どきの読者には受けたのかもしれない。

水の城 いまだ落城せず/風野真知雄(祥伝社文庫,2008)
 2000年に刊行された作品の新装版。大売れした『のぼうの城』と同じく、忍城攻防戦を題材としている。明らかな便乗出版。
 風野真知雄は50冊以上の著書がある時代小説のベテラン作家。新人の和田竜とはえらい違いである。
 この小説もベテランらしく、忍城を巡るドラマを手堅くまとめている。攻める側の主役は石田三成。守る側の主役は成田長親。これは『のぼうの城』と同じ。だが、両方ともそれなりに常識的なキャラクターになっている。石田三成はあくまでまじめ。『のぼうの城』みたいに舞い上がってない。成田長親も、一見昼行灯みたいだが、実は非凡な戦略の才を秘めている(ヤン・ウェンリーみたいだな)。
 他の登場人物も、当然ながら共通するところが多い。石田三成とともに忍城を攻める大谷吉継、長束正家。忍城の参謀役、正木丹波。ただ、『のぼうの城』の重要キャラクターである柴崎和泉守については、柴田和泉守というよく似た名前の人物が出てくるのだが、こっちの和泉守は、戦いが始まる前に城から逃げてしまう。坂巻靱負に至っては、それらしき名前がまったく出てこない。
 大きく扱いが違っているのは甲斐姫。この作品の甲斐姫は、伝承が語るとおり自ら出陣して奮戦する。戦いのシーンでは、完全に主役なのだ。表紙にも甲斐姫が描かれているように。で、その分、成田長親は影が薄くなっている。甲斐姫を活躍させなかった和田竜の判断は正しかったのかもしれない。
 さらに大きな違いは、この作品での忍城攻防戦は水攻めだけでは終わらないことだ。長親があらかじめ堰に細工をしていたおかげで、水攻めは失敗するのだが、攻城軍にはその後も続々と援軍がやってくる。浅野長政、木村常陸介(『太閤暗殺』の主人公の一人だな)、本多忠勝、そして真田昌幸。若き真田幸村が城に迫り、甲斐姫と対峙するシーンもある。水攻めが終わってからの見せ場もたっぷりあるのだ。
 その分、どこがクライマックスなのかよくわからなくなってしまった感はある。物語の中心にしても、後半は成田長親よりも甲斐姫の方が目立ってしまっているし、サービスが多すぎて焦点がぼけてしまった印象なのである。
 さすがにベテラン作家だけあって、『のぼうの城』と比べると文章はしっかりしているし、語り口もうまい。だが、今の時代に読者をひきつけるのは、『のぼうの城』のような、素人くさいが軽快な娯楽性に満ちた作品なのだろうな、と思う。

水の城―いまだ落城せず (祥伝社文庫)

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2008年9月18日 (木)

首の信長

首の信長/小林恭二(集英社,2000)
 小林恭二の作家歴は華やかである。デビューが海燕新人文学賞。芥川賞候補にもなり、1998年には三島由紀夫賞受賞。小説を、いわゆる「文学」とエンタテインメントに2分することには、大して意味がないと思うが、もしそういう分け方をするなら、この経歴は、間違いなく「文学」の人のそれだろう。が、実は小林恭二の小説は、リアリズムとは対極、史上最長の小説を巡る国際的ドタバタ劇「小説伝」とか、国家レベルの巨大テーマパークの興亡を描いた架空未来史『ゼウスガーデン衰亡史』など、SFかと思うようなとんでもない話だったりする。
 この本は、小林恭二のスラプスティック歴史小説集。やはり、メジャーな文学賞を受賞するような作家のイメージとはほど遠い。
 例えば、芸者の目から幕末の志士や新撰組たちのとんでもない狂態を描く「筑波嶺日記」、空海と最澄を徹底的にこけにした「聖者伝」、平家の怨霊や動物霊やらがぞろぞろ出てきて巌流島の決闘にからむ「怨霊巌流島」。
 そして、何といっても、表題作「首の信長」。歴史を支配する「アカシックレコード」の破損により、織田信長が本来なら(つまり我々の知る歴史なら)持っているはずだった史上まれな「強運」をなくしてしまい、やることなすことことごとく失敗してすぐに殺されるようになってしまう。その信長の命を救い、歴史の改変を止めようとする管理官(タイムパトロールみたいなもの)と、殺されまくる信長との怒濤のイタチごっこがエスカレートしていく。やはり、これが一番の傑作。
 他には、忍者集団の奇妙な終焉を語る「忍者の恋」、ゲッベルスの子孫が源氏一族の悪逆非道を褒め称える「新源氏物語」、とんでもない話だがこの中ではまともな方の「24人の稗田の阿礼」、江戸城大奥を追い出された女房たちが妖怪と化する様が鬼気迫る「妖異記」。
 作者の経歴からちゃんとした「歴史文学」を期待したら(一度でも小林恭二を読んだことのある人はそんな期待をしないだろうが)、大ハズレになる。まあ、固いことを言わずに単なる歴史ギャグ小説集として読めば、やたらと面白いのだが。全編を通じて、時代考証無視の完全現代語のセリフが、なんだか気持ちよかったりする。

首の信長

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2008年9月 2日 (火)

周公旦

周公旦/酒見賢一(文春文庫,2003)
 太公望と並ぶ周建国の功労者、武王の弟、姫旦こと「周公旦」を主人公にした、ファンタジー風味の歴史小説。『封神演義』のイメージのせいか、殷周革命時代を扱った物語は、どうしてもファンタジー色を帯びて見えてしまう。もっとも、酒見賢一はよく知られているように第一回ファンタジーノベル大賞でデビューした人なので、ファンタジーになっても不思議ではない。
 とはいえ、この小説には、露骨な超自然的要素はあまりない。主人公周公旦がちょっと不思議な能力を持っている、という程度で、ファンタジーというには地味。むしろ、スピリチュアルな要素の入った歴史小説、と言うべきかもしれない。
 それでも、周公旦のキャラクター設定はなかなかおもしろい。周公旦は孔子もあがめていた「礼」の達人だが、この小説において彼の操る「礼」は一種の魔術であり、さらには地下に潜む神や先祖との交感まで行うという異能ぶり。
 殷周革命の物語には欠かせないキャラクターである太公望(呂尚)は、この作品でも重要登場人物だが、『封神演義』をはじめ、太公望を魔術師として描く物語はある。だが、周公旦を魔術師(というか、霊能力者か)に仕立てあげた小説は、この作品の他には思いつかない。(『封神演義』においてすら、周公旦は普通の人間なのだ。)
 だいたい、周公旦というのは、孔子がやたらとあがめていたという以外、一般にはよく知られてない人物だろう(かく言う私も、よく知らなかった)。周建国時代の功臣としても、完全に太公望の影に隠れてしまっている。そんなマイナーな人物を主人公に仕立て、しかも、魔術を操る異能の人物として活躍させたのは、酒見賢一ならではの技。だいたいこの人は、歴史をひねくりまわして誰も思いつかないような方向の発想を生み出すのがうまい。
 だが、上にも書いたように、周公旦の霊的能力以外は、かなり現実的な歴史小説で、実際のところ、宮城谷昌光とどこが違うのかわからないという気はする。よくできた作品には違いないし、逆に言えば、宮城谷昌光作品が好きな人なら、この小説も多分気に入るのではないか、とも言える。

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2008年8月28日 (木)

中世フランス探偵譚

カルチェ・ラタン/佐藤賢一(集英社文庫,2003)
 1530年代のパリを舞台にした、歴史/宗教/ミステリの要素を併せ持つ小説。連続殺人事件の謎を追って、夜警隊長ドニ・クルパンと、天才学者マギステル・ミシェルが学問(といってもこの時代はほとんど神学とイコール)の街、カルチエ・ラタンを駆ける。
 最初のうちは、語り手であるドニ・クルパンのあまりのヘタレぶりに、こんなのでまともなストーリーになるのか、これは中世のパリを舞台にしたドジ男のお笑い話でなないのか、と思ったが、最後はそれなりに成長ぶりを見せて、感動的な結末を迎える。
 ロヨラ、ザビエル、カルヴァン、フランソワ1世といった歴史上の人物がぞろぞろと出てくる趣向も歴史好きの血を騒がせる。が、そういった歴史上の大物たちも主人公もみんな食ってしまう圧倒的な存在感を見せつけているのが、本作の探偵役であるマギステル・ミシェルである。
 最初のうち、この博学多才にして放蕩の限りを尽くす超人的な人物のことを、年代的にもだいたい合致していることから、かのミシェル・ド・ノートルダムことノストラダムスの若き日の姿ではないかと疑っていた。だが、実はその正体は、フランスの大貴族ドゥ・ラ・フルト家の一族、ミシェル・ドゥ・ラ・フルトであることが、話の半ばで明かされる。傭兵ピエールの一族かよ!
 調べてみるとノストラダムスはこの時期はパリにいなかったらしい。まあ、勝手に想像していただけなのだが、ちょっと残念。ただ、そんな想像すら引き起こしてしまうほど、この小説で描かれるマギステル・ミシェルというのは、人間離れした知識と推理力の持ち主にして、謎めいた人物なのだ。
 この、トリックスター的人物の印象的なキャラクター造形と並んで、この作品の魅力を支える柱が、中世パリに関する著者の該博な知識である。
 娼婦たちの暮らす裏町から神学用語が飛び交う大学まで、当時のパリのほとんどあらゆる側面を微細に描き出す作者の歴史知識は圧倒的。特にクライマックスの神学議論のシーンなど、神学に関する情報量の豊富さは、日本の小説としては空前ではないだろうか。(絶後になるかどうかは、佐藤賢一次第という気がする。)

カルチェ・ラタン (集英社文庫)

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2008年8月26日 (火)

本能寺六夜物語

本能寺六夜物語/岡田秀文(双葉文庫,2003)
 同じ著者の『太閤暗殺』(2008年5月9日のエントリー)は、豊臣秀吉暗殺計画を巡る歴史ミステリだった。この本もまたミステリタッチの歴史小説と言えるが、『太閤暗殺』に比べればミステリ風味は薄い。
 『太閤暗殺』は秀吉の「これから起こる死」を巡る物語だったが(結局物語中では死なないが)、この『本能寺六夜物語』は、信長の「すでに起きてしまった死」を巡る物語である。
 本能寺の変に何らかの形でかかわった6人の男女が、30数年後にとある寺に集められ、一本の蝋燭の下で一夜に一人ずつ、六夜にわたってそれぞれの体験を語る、という構成で、当然ながら6章からなる。
 「最後の姿」は信長の茶坊主だった僧、「ふたつの道」は本能寺の変のとばっちりで殺された穴山信君に仕えていた乞食、「酒屋」は信長の馬廻とかかわりを持った京都の酒屋、「黒衣の鬼」は京都所司代・村井貞勝の配下だった男、「近くで見ていた女」は安土城で働いていた尼僧、「本能寺の夜」は、明智光秀の家臣だった侍によって語られる。
 一貫したストーリーやトリックがあるわけではない。基本的にはそれぞれの話の独立性が強く、別々の短篇として読める。本能寺の現場に居合わせた当事者たちの語る物語、「最後の姿」と「本能寺の夜」は相互のつながりが強いのだが、これはむしろ例外。「黒衣の鬼」に至っては、本能寺の変と直接は関係がないのだ。なぜこの章の語り手である男が呼ばれたのか、理解に苦しむ。
 それはともかく、独立した短篇として見た場合一番よくできていたのが「酒屋」で、山本周五郎的な人情話になっている。「近くで見ていた女」は、森蘭丸に片想いするあまり、自分の指を切って調理し、蘭丸の食事に混ぜるというとんでもない女の話で、インパクトという点ではこれが一番。
 最後の「本能寺の夜」は、話そのものとしてはたいしたことがない、というか、独立した物語にすらなってない。が、この章は「本能寺の真相」という本全体の核心に触れる内容で、そこで明かされる真相は、明智光秀の謀反の真相としては今まで聞いたことのない意外なもの。まあ小説だからどんな出まかせでもいいのだが、とんでもない説ではあるものの、それなりに理屈のとおった説ではある。
 だけど話としては、「真説・本能寺」を語るだけ終わってしまう。結局、6人の語り手は何のために集められて、何のために話をしていたのか、意味がよくわからないまま、盛り上がらない結末を迎えるのだった。「本能寺の真相」というのは、小説技術上の細かい話とかどうでもよくなるくらい、作家にとって魅力のあるテーマなのかもしれない。

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2008年5月 9日 (金)

太閤暗殺

太閤暗殺/岡田秀文(光文社時代小説文庫,2004)
 著者はこの作品で日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞している(2002年)。だから、分類すれば歴史ミステリということになるのだろう。
 時は豊臣秀吉の世継秀頼が生まれ、豊臣秀次が失脚する前夜。このままではもはや秀頼の破滅は避けられないと悟った秀次の側近NO1、木村常陸介が秀吉の暗殺を図る。暗殺者に選ばれたのは石川五右衛門。それを防ごうとするが石田三成と前田玄以が、知力の限りを尽くした攻防を繰り広げる、というのがメインストーリー。
 歴史上の出来事を背景に、歴史上の人物を動かしながら、奇想天外なホラ話(誉め言葉です)が展開する。そこがこの話の魅力。
 その暗殺計画のすべてが、実はある人物の陰謀であった、というのが最後のオチなのだが、これはやや無理を感じた。
 しかし暗殺計画実行に至るまでの話だけで十分におもしろく、読み出したらやめられない。
 この物語の中で、木村常陸介には「お次丸」という幼い隠し子がいて、これが前田玄以に託され、秀頼の側近として育てられる、というエピソードが最後に出てくる。作品中のどこにもはっきりとは書かれてないが、この子供は明らかに、大阪の陣で活躍した木村重成である。木村重成の出自は諸説あるが、一説には木村重茲(常陸介)の子と言われているのだ。作者は明らかにそう読ませることを意図している。そういう隠し味的な楽しみもある。
 ミステリとしてより、一風変わった歴史小説として評価したい。

太閤暗殺 (光文社文庫)

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2008年3月23日 (日)

陳舜臣 長い長い旅の話

 このブログには今回初登場の陳舜臣。
 なぜ今まで取り上げなかったのか、われながら不思議である。単純に読んだ冊数では、多分一番多い作家なのだ。(もっとも「上・下」とか「全○巻」というのを1冊1冊カウントしての話ではあるが。)
 陳舜臣は、よく知られているように江戸川乱歩賞で作家デビューしている。当然ミステリ作品の数は多い。だけど、私にとって陳舜臣の小説といえば、なんといっても中国を舞台にした歴史小説である。
 まず、『秘本三国志』ではまってしまった。こんな独特の視点で書かれた三国志ものを読んだことがなかったのだ。この作品は今でも陳舜臣の歴史小説のマイベストである。いずれ取り上げたい。
 他に陳舜臣の歴史小説といえば、大作『小説十八史略』や、鄭成功を主人公にした『旋風に告げよ』、モンゴル時代を扱った『耶律楚材』、『チンギスハーンの一族』、それに独擅場とも言える中国近代史もの、『太平天国』、『阿片戦争』、『江は流れず』あたりが代表的なところだろう。
 が、今回取り上げるのは、どちらかというとマイナーな作品であり、かつまたいろいろな点でユニークな作品である。

桃源郷(上・下)/陳舜臣(集英社,2001)
 陳舜臣の歴史説の主人公は旅をすることが多いが、この作品の移動距離はこれまでの最長記録ではないだろうか。
 時代は12世紀前半、新興王朝「金」が「北宋」と「遼」を滅ぼし、中国の北半分を占領しようとしていた頃。「水滸伝」の時代のちょっと後。
 主人公は「桃源郷」を探す「探界使」の一族の若者、陶羽。もちろん架空の人物。
 彼が遼の皇族、耶律大石に呼ばれ、西方探索の密命を帯びて燕京(今の北京)を旅立つところから話は始まる。実は耶律大石も陶羽もマニ教徒という設定。古代ペルシャでの宗教成立以来、迫害を受け続けてきたマニ教徒の楽園「桃源郷」をいかにして実現するかというのが、この物語のテーマなのだ。
 燕京を出発した陶羽は、中国南部から船出し、インドを経てペルシャに上陸。行く先々で謎めいたマニ教の同士たちに出会う。歴史上の人物も何人か出てくるが、どれもこれも隠れマニ教徒だったりする。たとえば、「暗殺者教団」イスマイル派の長老、「山の老人」ハサン・サッバーフ、ペルシャの大学者にして詩人ウマル・ハイヤーム。このへんの設定は、普通の陳舜臣の歴史小説にはない大胆さである。
 さらにマニ教徒の安住の地を求め、カイロ、アレクサンドリア、そして地中海を渡ってスペインのコルドバまで、延々と旅は続く。
 このコルドバが一応旅の到達点。この地で紙製造業を始めた一部の同志を残し、陶羽やその仲間たちは東に引き返す。というか、この先は大西洋だから、当時としてはこれ以上先へ進みようがないので、引き返すしかないのだ。だから上巻が「西遷編」、下巻が「東帰編」というサブタイトルがついている。わかりやすい。
 ペルシャまで引き返した陶羽は、、ホルムズから船出して中国に戻り、海南島に上陸。ここからまっすぐ燕京に引き返すかと思えば、まだまだコースを変えて旅は続く。中国南部を行ったり来たりした後、中央アジアへ、そして最後に敦煌まで来て、やっと物語は終わるのだ。
 長い旅の果てに、マニ教徒たちの「桃源郷」は見つかったのか...。陳舜臣の歴史小説には珍しくちょっと甘いところのある、しかし味わい深い結末が待っている。
 メインストーリーで陶羽の旅と平行して、耶律大石の物語も語られる。というか、最初にこの小説の設定を読んだ時、耶律大石を主人公にした「西遼」の建国物語かと思っていた。耶律大石といえば、滅亡した遼王朝の残党を率いて中国を脱出、中央アジアを征服して王朝を再興した英雄。十分に歴史小説の題材になる人物だからだ。その耶律大石を脇役にしか使わないとは、実に贅沢な作品である。(帰路、陶羽が中央アジアに寄るのは、もちろん耶律大石がそこにいるからだ。)
 そればかりではない。耶律大石の協力者としてさらに意外な人物が登場する。梁山泊の宋江。もちろん宋江もマニ教徒である。とにかく主要な人物はみんなマニ教徒なのだ。この物語の宋江、陶羽への使者としてダマスカスまでやってくる。あの宋江がシリアに…、考えてみるとすごい場面だ。
 秘密結社めいたマニ教団といい、「桃源郷」というテー マといい、話の要所要所で出てくる幻術といい、史実を離れて奔放に動き回る登場人物たちといい、陳舜臣にしてはファンタジーの色がきわめて濃い小説。ほとんど歴史ファンタジーといってもいいく らいである。

(これは文庫版)
桃源郷〈上〉 (集英社文庫)

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2008年3月 8日 (土)

異色中国短篇傑作大全

異色中国短篇傑作大全/宮城谷昌光ほか(講談社文庫,2001)
 タイトルのとおり、中国史を題材にした歴史小説11編を集めたアンソロジー(タイトルは他につけようがなかったのか?)。うち8編は、『季刊歴史ピープル』に発表されたもの。他は『週刊小説』、『小説新潮』、『小説現代』掲載。『週刊小説』と『小説新潮』だけが講談社以外から発行されているが、それが宮城谷昌光と田中芳樹の作品。なんか昔の日本の映画によくあった、「特別出演」という言葉を思い出してしまう。
 それはともかく、収録作を見ていく。
 最初の作品は「指」(宮城谷昌光)。孔子が生きていた時代の衛の国の貴族、「女を喜ばせる指の持ち主」疾が主人公。疾に降りかかる権力闘争がらみの女難がメインの話で、ベッドシーンが多いのだがこの著者が書くと全然いやらしさがない。孔子が脇役でちょっとだけ登場する。
 「曹操と曹丕」(安西篤子)は、陰険なイメージが強くて評判の悪い曹丕が主人公。曹丕の少年時代から皇帝即位後までを30ページ足らずで語っている。駆け足感は否めないが、このまとめ方はすごい。安西篤子は直木賞を受賞した大ベテランで、日本の鎌倉時代や戦国時代ものが多いが、1964年に直木賞をとった「張少子の話」も中国史ものだった。
 「潔癖」(井上祐美子)は、以前紹介した(2007年4月29日のエントリー)『公主帰還』に収録されていた作品で、北宋末の有名な文人でかつ変人の米フツが主人公の話。
 「方士徐福」(新宮正春)。不死の仙薬を求めると称して海を渡った徐福はいろいろな作品に登場するが、秦の始皇帝をうまいことだましたペテン師の親玉みたいなイメージで語られることが多い。この作品では徐福の正体と渡海の理由に新しいアイデアを持ち込んでいる。始皇帝をだますことに変わりはないのだが。
 「茶王一代記」(田中芳樹)。五代十国時代の「十国」の一つ「楚」の建国者、馬殷の物語。朱全忠、李克用、楊行密、王建、高季興など、五代十国の建国者たちの名が次々と出てくる「歴史絵巻」的な展開が、いかにも田中芳樹らしい。さすがに読みやすさは抜群。
 「九原の涙」(東郷隆)。この作品だけが20世紀が舞台。胡弓弾きの身の上話という形で語る、戦前の上海の裏社会の物語。これは確かに異色だ。
 「汗血馬を見た男」(伴野朗)は、かの有名な西域の冒険者、張騫の一代記。といっても、40ページ足らずの作品なので、ダイジェスト版みたいになっているのは仕方がない。ダイジェストでも、正統派歴史小説である。
 「西施と東施」(中村隆資)。作者は文学界新人賞受賞、芥川賞候補にもなった人で、どちらかといえば純文学系のはずなのだが、収録作の中で一番文体がくだけている。というか、女性の一人称、「そのとき、東施ちゃんは怒ってた。」というような感じでほぼ全編が進行する。これも異色か。ちなみに、「東施」というのはこの作品の主人公で、「西施の顰みにならった」醜女の名前。感動的という点ならこの作品がベスト。
 「范増と樊噲」(藤水名子)は、単純な項羽、老獪な劉邦という実にわかりやすい構図で語られる「鴻門の会」の物語。主人公は范増に頼まれて剣舞を演じ、劉邦の命を狙った項荘で、大きすぎる役割を押しつけられて苦しむ純朴な若者、という役どころ。人物描写がちょっと型どおりなのが気になるが、歴史の一シーンだけをクローズアップしているので、非常にまとまりはいい。
 「屈原鎮魂」(真樹操)。屈原賛歌、それ以外の何ものでもない。「みんなあなたを覚えていますよ、屈大夫。あなたは政治に負け、歴史に勝った。」 この一文がすべてを語っている。
 「蛙吹泉」(森福都)は、唐代、則天武后の没後間もない頃の長安を舞台にしたミステリで、トリックも謎解きもけっこう本格的。
 こうして見ると、「異色」というにしてはかなり本格派歴史小説が多いが、いろんな作風の作家が入り交じっているのは確か。でも「大全」は誇大ではないかという気がするが。
 時代的には、春秋時代が3作、秦・漢が3作で、以下、三国時代、唐代、五代、北宋が各1作、そしてかなり飛んで20世紀が1作と、かなり古代の比重が高く、11作のうち7作が西暦300年以前の話。配分がちょっとアンバランスな気もする。その分、作風のバラエティでカバーしているとも言えるが。

異色中国短篇傑作大全 (講談社文庫)

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2007年12月15日 (土)

沈黙の王

沈黙の王/宮城谷昌光(文春文庫,1995)
 古代中国、伝説の夏王朝時代から春秋時代(紀元前6世紀半ば)までを舞台にした中編5編。 だいたい年代順に並んでいるが、夏王朝を舞台にした「地中の火」だけはなぜか最初ではなく二番目。これは表題作「沈黙の王」を最初に持ってきたためだろう。
 「沈黙の王」は、文字を初めて作ったと言われる伝説上の商(殷)の王「武丁」の物語だが、文字を作る話というのは、最後の1ページで片づけられている。メインストーリーは、言葉に障害があるため国を追放された王子「子昭」(後の武丁)の、神話的な遍歴。
 古代も夏や商の時代まで遡ると、もう歴史と神話伝説との区別がつかなくなる。この話も、自然と、ファンタジーだか歴史小説だかわからないものになっている。実のところ話も哲学的で、やや難解。
 「地中の火」は、商よりもさらに古い、まだ実在も証明されてない(中国ではあったことにされているが)夏時代が舞台。が、なぜかこっちの方が普通の歴史小説に近い味わいがある。当然ながら史料などないも同然なので、ほとんどは作者の創作なのだが。
 夏王朝を一時簒奪した異民族の王「后ゲイ(1)」と、その臣下で、「后ゲイ」の国を簒奪した(つまり簒奪者からさらに簒奪した)「寒ソク(2)」の物語。宮城谷昌光の小説というのは、だいたい非現実的なまでに高潔な人物が主人公であることが多いが、この作品は、珍しく主人公も周囲の人物も、生臭い野心家である。その分、登場人物がきわめて人間くさく描かれている。神話伝説の時代であるにもかかわらず歴史小説的な雰囲気が出ているのはそのへんが原因だろう。
 「妖異記」と「豊穣の門」は、西周が滅びた混乱の時代に、国を中原に移動するという奇策で民を救った「鄭」の名君「友」(鄭の初代、桓公)と二代目「掘突」(武公)親子の物語。狂言回し役の史官「伯陽」や策謀家の「カク(3)」(国の名前です)公一族、周王を籠絡して国を滅ぼした妖姫「褒ジ(4)」など、脇役も魅力的で、ドラマ的盛り上がりもたっぷりとあり、歴史小説としてはこの2編が飛び抜けておもしろい。
 最後の「鳳凰の冠」は、春秋時代、晋の悼公から平公の時代にかけての重臣「羊舌キツ(5)」(字は「叔向」)を主人公に、晋の貴族群像を描いたもの。叔向はいかにも宮城谷らしい、高潔な賢者だが、歴史的に見ればはなばなしい活躍をした人ではなく、当然ながら話も地味。タイトルにもなっている「鳳凰の冠」は、話の最初と最後に象徴的に出てくるだけだが、妙に印象に残る。わずかしか登場しないものにそれだけの存在感を与える語り口のうまさに感心する。
 春秋時代以前という、宮城谷昌光のもっとも得意とする舞台に、それぞれにパターンの違う作品を集めた、この著者のエッセンス集とも言うべき本。

※古代中国ものは、表示できない漢字が多いのが困りもの。上でカタカナで代替した字(1)~(5)は、本当は次のような字。
Kanj071215_4    

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2007年11月16日 (金)

その名はドルゴン

海東青 摂政王ドルゴン/井上祐美子(中公文庫,2005)
 ドルゴンという名前を初めて知ったのは、高校生の時だったと思う。世界史の教科書だか参考書だかに載っていたのだ。その時の印象は、「なんてカッコいい名前なんだ!」というものだった(笑)。中国史に関係する人物の名前の中で、ドルゴン、という東洋離れした響きだけは、飛び抜けて異彩を放っていた。(よく考えてみたら怪獣の名前っぽくもあるけど...。)
 それ以来気になっている人物である。これはそのドルゴンを主人公にした、今のところ多分日本で唯一の小説。

 蛇足かもしれないが、一応ドルゴンの経歴について書いておく。清朝初代皇帝ヌルハチの子で、二代皇帝ホンタイジの弟。清の皇族なので、姓は「アイシンギョロ」。漢字で書くと愛新覚羅多爾袞。幼年で即位した三代皇帝フリン(順治帝)の摂政となり、清の中国本土征服に功績があった。皇帝ではなかったが、後世に清朝から皇帝に準じる扱いをされている。

 というわけで、この本のサブタイトルにも「摂政王」とあるように、摂政のイメージが強い人なのだが、年表を見るとホンタイジの下で働いていた期間の方が17年と長い。摂政をやっていたのは7年間だけだ。
 ドルゴンの生涯を描くこの本も、ホンタイジ時代が全体の3分の2を占めている。この作品のホンタイジは初代ヌルハチも凌ぐような傑物で、存在感はドルゴンを上回るかもしれない。
 皇帝になる資質を持ちながらも、「必要がなければ、野心や野望を抱くことができない人間らしい」と自ら言うドルゴンは、ホンタイジやフリンを支えて新興国、清の拡大のために尽くすのである。
 この作品のドルゴンは、かつて名前から感じたイメージのとおりに、というかそれを遙かに上回って、果敢で高潔で颯爽としていて、おまけに最後まで若々しい。いくら小説でも、理想化しすぎのような気もするが、調べてみると38歳で死んでいる。
 小説として見た場合、主人公があまりに失敗や挫折をしないのは物足りない気もするが、史実がそうなのだから仕方がないところだろう。失敗を味わう前に若死にしてしまった人なのだ。

 ちなみに、清に滅ぼされた明の側の代表的な英雄、鄭成功(この本でも最後の方にちらっと名前が出てくる)は、ドルゴンより12年遅く生まれ、12年遅く死んでいる。死んだのは同じく38歳の時。今回初めて気づいた、妙な符合である。

海東青―摂政王ドルゴン (中公文庫)

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2007年9月13日 (木)

播磨灘物語

播磨灘物語 1~4/司馬遼太郎(講談社文庫,1978)

 黒田如水は、NHK大河ドラマの主人公になってもおかしくない人物である。
 前田利家や山内一豊などよりはずっと有能だし、歴史上に果たした役割も大きい。一年間投獄されても節を曲げないほど忠義に篤いかと思えば、関ヶ原合戦の時はひそかに天下をうかがう野心を見せるなど、一筋縄ではいかない複雑な人物でもある。おまけに死ぬまで信仰を守り続けたキリシタン(黒田如水の葬式はキリスト教式で行われたそうだ)。
 活動地域も、兵庫県から始まって、近畿一帯、山陽、関東、九州と幅広い。条件は揃っている。
 もし大河ドラマになるとすれば、原作は知名度から言っても、この『播磨灘物語』が一番有力だろう。
 しかし、この作品、なかなかドラマ化しにくいのではないかというのが、正直な感想。大河ドラマにならないのは、そのへんも理由なのかもしれない。

 さて、この小説、黒田官兵衛孝高の前半生を描いているのだが、官兵衛が生まれるのは1巻目の80ページを過ぎてからで、それまでは近江北部の黒田村から出た黒田一族が、備前福岡、播磨姫路へと流浪する苦難の歴史が語られる。しかしこの小説の記述では、福岡ではろくなことがなかったはずなのに、後に九州に領地を得た黒田家がなぜ自分の城に福岡の名をつけたのか、そのへんがよくわからない。
 まあ、それはどうでもいいので、80ページを超えてやっと登場した官兵衛は、成人した直後に京都へ上ってキリスト教に触れ、あっという間に入信してしまう。さくさくと読めてしまうので、読んでる間はあまり気にならないのだが、黒田官兵衛という類い希な人間がどのように形成されてきたのか、今ひとつよくわからないのである。
 黒田一族がどのようにして播磨姫路城の主になったのかはあれほど綿密に書き込んでいるのに、このへんが奇妙なのだが、考えてみれば歴史上の人物の性格形成なんて、詳しいことがわかるはずがないのだから、そこは書かないのが歴史的正確さというものなのだろうか。
 「官兵衛における京都は、青春そのものであったといっていい。」(p.143)。
 ということで、田舎侍に過ぎなかった官兵衛が、突如として出現した織田信長という異形の勢力と接触し、天下に目を開いていくところまでが1巻目。

 2巻目では、信長の名を受けて、羽柴秀吉が播磨に進出してくる。
 黒田官兵衛が家老として使える御着城主小寺藤兵衛は、どうしようもない小人物で、家臣も愚物揃い。他の播磨の豪族たちもアホな田舎者ばかり。対して織田家の家臣は秀吉を筆頭に優秀な人間ばかり。
 1巻に登場した織田陣営の高山右近や荒木村重も、いかにも有能そうな人物に描かれていたが、そのコントラストがますます露骨になってくる。そんな中で、黒田官兵衛は主人を含む播磨の豪族たちを織田陣営に引き込むべく奔走するのだが、とにかく、この地方にはアホしかいないという印象なのである(黒田家はよそ者なので生粋の播磨人ではない)。兵庫県西部の人間が読んだら不愉快になるのではないか。
 それはともかく、実のところこの小説、なぜタイトルが『播磨灘物語』なのか今ひとつ不明なのだが、播磨の支配を巡る羽柴秀吉と土着の豪族たちとの葛藤に終始するこの巻だけは、その名に少しだけ合っているかもしれない。とはいえ舞台は三木城など山の中ばかりで、海はほとんど出てこない。
 ただ、明石・高砂間の別府というところに毛利軍の小部隊が上陸してくるのを、官兵衛が撃退するエピソードが数ページだけ語られる。
 「かれらは夜中に播磨灘を押しきって、夜明けに上陸しようとしているのである。」(p.254)。
 全編中、「播磨灘」がはっきりと出てくるのはここだけかもしれない。

 3巻目は、いよいよ黒田官兵衛の生涯最大の事件が起きる。織田信長に反旗を翻した伊丹城の荒木村重を説得に行き、そのまま幽閉される一件を描く巻。ある意味、日本史上一番有名な幽閉事件、というか拉致監禁事件である。
 28ページで牢に放り込まれ、141ページで解放されるまで、300ページの本の半分近く、狭い牢の中で死にかけている官兵衛の悲惨な描写が続く。後半は荒木一族の虐殺に、三木城別所一族の全滅と、とにかくむごたらしいエピソードばかり。例によって乾いた語り口で、実際にはそれほどのむごたらしさは感じないとはいえ、司馬遼太郎の長編で、これだけ暗い話の続く作品も珍しいのではないか。ある意味この長編のクライマックスともいうべきこの巻の話が陰惨すぎるのが、大河ドラマになりにくいと感じた点である。

 4巻は、高松城水攻め、本能寺の変、中国大返し、山崎の戦いとよく知られたエピソードが続く。が、物語は実質「山崎の戦い」で終わってしまうのだ。黒田官兵衛の軍師としての役割はここで終わった、というのが司馬遼太郎の解釈らしい。
 それ以後はつけ足しのようなもので、武将としての黒田如水の最後にして最大の見せ場ともいうべき、関ヶ原の戦いの折りの九州席巻は、わずか3ページでかたづけられてしまう。
 まあ、このへんまで詳しく書いていたら、全10巻くらいになってしまうだろう。要するに作者が書きたかったのは「黒田如水」ではなく、あくまで、「黒田官兵衛」だった、ということである。
 それはそれで十分面白いのだが、なんとなく消化不良のような気がすることは確か。武将、大名としての「黒田孝高」や「黒田如水」の物語をもっと読みたかった気がする。これではひどい目にあっただけで終わりではないか。
 この途中で放り出すような終わり方も、大河ドラマになりにくいと感じた点の一つ。ドラマとしてのアレンジで、それ以後の活躍も描く、という方法もあるだろうが、それでは、『播磨灘物語』ではない、別のものになってしまう。

 それにしても、改めて見ると、文庫本4冊がきれいに「起承転結」の構成になっている。元々は3巻本として出版されたので(1975年)、文庫本4冊でこういう形になったのはたまたまなのだろうが、構成がそれだけ巧みだったとも言える。まあ、なんのかんのと言っても、4冊まとめ読みしてるんだから、歴史小説としてのレベルの高さは、やはり大したものなのである。

播磨灘物語〈1〉 (講談社文庫)

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2007年7月26日 (木)

天邑の燎煙

天邑の燎煙/狩野あざみ(幻冬社文庫,1994)
 殷の紂王を主人公にした歴史小説。
 言うまでもなく、紂王といえば中国史上でも一、二を争う暴君として名高く、『封神演義』を始め多くの物語で悪の帝王の役を演じている。そんな紂王を、この小説はまったく違った視点から描いている。
 まず、主人公はこの作品中では「紂王」とは呼ばれず、一貫して本名である「受」の名で呼ばれる。これだけでもかなり印象が違う。一人の人間という感じになってしまうのである。
 その印象のとおり、この小説の「受」は暴君でも悪人でもなく、どちらかというと普通の君主である。「酒池肉林」や「炮烙の刑」といった乱行や暴虐の数々も、まったく出てこない。紂王と並んで悪名高い后の妲己も、自我の確立した、芯の強い近代的女性として描かれている。
 それに対して、通常は「正義」の側として描かれる周の文王と武王は、陰険な陰謀家というイメージが強く、こっちの方が悪人ではないかと思えてくる。
 もう一人の主人公格である太公望呂尚は、さすがに殷周革命最大のスターだけあって、そんなに悪くは書かれてはいないが、天才的軍師の面影はまったくない。
 羌族の出身で、殷によって犠牲に捧げられそうになったところをあやうく逃れ(このへんは諸星大二郎の「太公望伝」と同じ)、周に身を投じて同族を迫害する殷を滅ぼそうとする、復讐に燃える軍人。それがこの小説の中の呂尚である。仙人風でもなければ老人でもなく、普通のレベルの知将、それも若い。
 つまるところ、紂王も文王も武王も太公望も、一般的なイメージとはかけはなれた姿で描かれている。「一般的なイメージ」というのは人間離れしているということだから、その逆で、みんないたって普通の人間になっているわけである。
 要は殷周革命に関する定説をすべてくつがえして小説にしたのが、この作品。
 小説としては決してまずい出来ではないと思う。しかし、暴君でない紂王というのは、運命の前になすすべもなく滅亡していく斜陽国の君主でしかなく、つまりは大して魅力のない人物になりさがっている。名前のとおり、「受」動的なのだ、運命に対して。
 だから受が殺される最後のシーンも、何のカタルシスもなく、来るべきものが来たという印象しか受けない。歴史の定説にまっこうから挑戦しようという着眼点はいいのだが、結果的に歴史小説としての魅力をそいでしまっている。歴史小説において、既存のイメージを完全に打ち破って、なおかつ盛り上がるストーリーを作るのは、かくも難しい。(その難しいことに挑戦して成功した作家に、例えば陳舜臣や北方謙三がいるが、そのへんはまた次の機会に。)

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2007年7月15日 (日)

妃・殺・蝗

妃・殺・蝗 中国三色綺譚/井上祐美子,塚本青史,森福都(講談社文庫,2002)
 ちょっと変わったタイトルは、「ひ・さつ・こう」と読むらしい。
 井上祐美子の「妃紅」(フェイホン)、塚本青史の「殺青」、森福都の「黄飛蝗」の三つの中国歴史もの中編を収録したアンソロジー。
 サブタイトルのとおり、赤、青、黄色と三つの色がモチーフになっているが(信号だな)、それ以外は共通性はない。
 「妃紅」は台湾鄭氏政権の降服を清朝側の将軍の目から描いたストレートな戦史もの、「殺青」は若き日の司馬遷が宮廷の陰謀を前にしてうろたえ悩みつつも「史記」を書き始めるまでを描く歴史裏話、「黄飛蝗」は唐代、「治蝗将軍」の蝗との戦いを描くちょっとファンタジーめいた架空譚。というわけで時代も場所もテーマもバラバラ。
 渡辺精一の解説では、三作品はすべてつながっており、「飛蝗」と「妃紅」はともに「ひこう」で円環をなしているというが、それはうがちすぎのような気がする。
 それはともかく、三作の中では、井上祐美子の「妃紅」の読みやすさが群を抜いている。ちょっとテレビの歴史ドラマみたいな軽さも感じるが、鄭氏政権時代末期の台湾という、ほとんど小説で取り上げられたことのない舞台を取り上げた着目点は、ストーリーテリングのうまさとともに評価すべきだろう。
 「殺青」は、司馬遷の私生活、武帝の封禅、宮廷の権力争いとストーリーの要素が多すぎて何がメインかはっきりせず、その上登場人物が多すぎて話がよくわからない。『光武帝』でも思ったが、どうもこの人の書く小説とは波長が合わないような気がする。
 「黄飛蝗」は登場人物がみんな自分勝手なやつらばかりで、もう蝗退治などどうでもいいからお前ら全員いっぺん死ねという気にさせられる。井上についで読みやすいことは読みやすいのだが。
 個々の作品には見るべきところもあるのだが、どうもこのバラバラな3作品をまとめる意図がはっきりしないアンソロジーだった。

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2007年7月 2日 (月)

光武帝

光武帝(上・中・下)/塚本青史(講談社文庫,2006)

 3冊合計で1500ページを超える大作歴史小説。
 漢の光武帝、劉秀を主人公にした小説は少ない。少なくとも私は、日本の小説としてはこの作品以外には存在を知らない。
 小説だけでなく、ノンフィクションもないのではないか。後漢王朝の末期(つまり『三国志演義』の前半の時期)については、山ほど本が出ているのに、その王朝の創始者の劉秀は、本にならなかった人なのだ。
 劉秀は地方の豪族の一員から身を起こして、「新」王朝に対する反乱に立ち上がり、群雄割拠の中を戦い抜いて、ほとんどゼロから新しい王朝を築いた(名目はともかく、前漢と後漢の間に直接の連続性はない)。
 劉秀は中国史上でも一、二を争うかもしれない名君である。劉邦や朱元璋のように功臣を粛清することも、李世民みたいに兄弟を謀殺することもしなかった。性格温厚、公明正大、品行方正。悪いところをさがそうとしても見つけるのが難しい。
 なかなか小説にならなかったのは、そんなところが原因かもしれない。

 しかし、そんな劉秀の生涯の小説化ということで期待して読み始めたものの、予想していたような話ではなかった。
 物語は王莽が漢王朝を簒奪して「新」を建ててか4年後から始まる。この時点で、劉秀は漢王朝の傍系である「南陽劉氏」の、そのまた傍流に属する目立たない青年で、まだ反乱などとは縁遠い生活をしている。上巻では、劉秀は都常安(長安を王莽が改名した)へ学問に行ったり、また故郷に帰ってきたり、あちこちをうろうろしているだけである。
 何もしない劉秀に代わって、上巻で派手な動きを起こすのは、劉秀の物語と平行して語られる、海曲県の呂母や力子都を中心とする反乱集団、後に「赤眉」と呼ばれる一党である。劉秀の物語と呂母たちの物語はほぼ同じ分量で平行して語られ、上巻では最後まで接点を持たない。つまり、劉秀の物語は、全体の半分にすぎないのである。
 それだけならまだいい。問題は話がぐだぐだとこみいりすぎていることである。
 ほとんどすべての出来事に裏があり、登場人物の多くは言ってることと裏でやってることが違っており、話は錯綜をきわめてまっすぐに進まない。どいつもこいつも、小細工ばっかりしやがって、と思ってしまう。
 上巻500ページを終わって、劉秀はまだ反乱に立ち上がってすらいない。

 中巻で、やっと劉秀が動き出す。といっても、最初は劉秀は仲間にかつぎあげられてやっと新帝国との戦いに立ち上がるわけで、積極的に動いているわけではない。
 中巻の前半は、上巻に続いて「赤眉」集団の方が劉秀よりも動きが目出つ。「赤眉」の物語の中心になるのが、悪少年あがりの指導者力子都と、少女戦士遅昭平。こっちが主人公のようである。
 中巻半ばで、劉秀の同族劉玄が皇帝に即位。ここにきてやっと歴史上の出来事が動き出すという感じ。
 全体の話のちょうど半分あたりで、劉玄政権の将軍として軍を率いることになった劉秀だが、このへんから人が変わったように積極的というか好戦的になり、新帝国との戦いに次々と勝利を収める。
 しかし戦闘がどれもあっさりと描かれすぎていて、実感に乏しい。劉秀の最大の戦いの一つであるはずの「昆陽の戦い」(昆陽を包囲した新の50万の大軍を、わずか3千で打ち破る)も、10ページ足らずで片づけられている。最大のライバルとなるはずの「新」王朝の名将、荘尤は姿を現すことなくセリフの中だけで語られ、ついに登場した時にはすでに敗戦のショックからか廃人になっている。これでは盛り上がりようがないではないか。

 下巻に至って、劉玄政権から離脱した劉秀とその軍団による、天下統一の物語が語られる。そのほんの一部が。
 新から後漢の初期にかけて、中国にはいくつもの独立勢力が割拠し、天下を争っていた。最初の内は、劉秀もその一人にすぎなかったわけである。光武帝の物語を書くからには、その群雄との争いを書くものだと思っていたが、この小説は最後までそうならなかった。
 下巻では結局、群雄の一人、王郎との戦いを描くだけなのだ。最後に付け足しのように、劉玄の敗亡と、劉秀の皇帝即位の話が出るが、本当の天下統一の話はこれからのはず。公孫述、隗囂、秦豊、延岑、劉永、李憲、田戎といった群雄たちは、名前が出てくるだけだった。この群雄たちにスポットを当てたら、もっと波瀾万丈の物語になったかもしれないのだが。
 最後は、劉秀の物語とずっと平行して進んできた、力子都と遅昭平の物語にけりをつけたところで、話は終わってしまう。やはりこの小説の主人公は、劉秀ではなくこの二人だったのか、と思わせるような終わり方だ。
 史料に出てこない部分を想像でふくらませて、ここまで長大な物語を作ったという創作力は認めるべきかもしれない。しかしこれは、私が読みたかったような劉秀の物語ではなかった。

 あと気になったのは、劉秀の兄を「劉演」と表記していること。劉秀の兄の名は「演」ではなく、「いとへん」の[糸寅]のはずだが。

光武帝(上)

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2007年6月13日 (水)

香乱記

香乱記 1~4/宮城谷昌光(新潮文庫,2006)

 春秋時代を舞台とすることが多かったこの作者にしては、比較的後の時代を扱った長編。もっとも、この作品が最初に発表された時点(2004年)での話で、最近は三国志ものなども手がけ、扱う時代は次第に新しくなってきているようである。

 それはともかくこの作品。秦から漢にかけての動乱の時代に、「斉国」を興し(厳密には復活)、短い期間ながら楚にも漢にも属しない独立の国を保った田氏の「三兄弟」(一人は従兄弟だが)の物語で、その中でも最後に王になった田横が主人公。
 物語の冒頭、「三兄弟」が賊に襲われていた許負という人物を救うが、この男が人相見の達人で、三人を見て、「三人とも王になる」と予言する。さらに田横に対しては、「七つの星を見つけなければ事は成就しない。七星を捜しあてなさい」と謎めいた言葉を伝える。このパターン、まるきりファンタジーである。
 第1巻で語られるのはもっぱら田横が悪徳役人の陰謀と戦う個人的な冒険であり、具体的なアクションの描写が多い。この点も今までの宮城谷昌光の小説とは少し趣が違うようだ。
 しかしそこはやはり歴史小説であり、ラスト近くでは始皇帝が死んで秦末の動乱が始まる。通常は悪名高い奸臣とされる李斯が、まともな人物として描かれているのが意外だった。

 第2巻前半は陳勝、呉広の乱と秦の混乱がメインストーリー。前の巻で労役のため咸陽に赴いた田横が謀殺されかかり、とあるところに元に身をひそめているのだが、その田横の目の前に次々と重要人物が現れ、歴史が展開していく。話としてちょっとできすぎの感もある。田横がかくまってもらった人物が次々と殺されるあたり、こいつは疫病神ではないかという疑いもわく。
 それはともかく、後半ではいよいよ「三兄弟」の一人目田タン(*)がついに決起、「斉」を復興し、王に即位する。咸陽を脱出した田横も新生斉国に加わり、将軍として東奔西走(文字通り)することになるの。展開が速い上に、複雑なストーリーだが、記述が整理されている上、それぞれの人物が短い文章で的確に描写されていて、読んでる間は気にならない。

 第3巻に入って、話はさらに目まぐるしく動く。というよりこのへんの歴史がめまぐるしいのか。斉を復興した王・田タンは秦の猛攻を受ける魏(これも復興した国)の都、臨済を救援に向かうが、秦の名将章邯に敗れてあえなく戦死。巻が始まって40ページで早くも王が死んでしまう。
 ここから斉の王が次々と立ち始める。田タンの後を次いたその子、田市。本家王族の生き残り、田仮。項羽に擁立された田都。もう一人の旧王族、田安。王たちも、その周囲の重臣や将軍たちも、田横をはじめ田栄、田光、田間、田角、などみんな田氏。斉の地で数多くの田氏たちが争っているのと平行して、秦の滅亡も語られる。これだけの内容を250ページで語ってしまうのは、名人芸というべきだろう。

 第4巻では、前巻で乱立した斉の王たちが次々と滅びていく。項羽に擁立された斉王田都と済北王田安は田栄、田横らに敗れ去り、膠東王に左遷された田市は一族を裏切る振る舞いを見せて田栄に殺される。新しい斉王には田栄が立つが、すぐに項羽に敗れて戦死。
 4巻が始まってから100ページで4人の斉王が滅びてしまうという、疾風怒濤の展開。この展開の早さは陳舜臣にも匹敵するかも(『秘本三国志』では、劉備が夷陵の戦いに出陣してから、諸葛亮の「泣いて馬謖を斬る」の場面までを、100ページちょっとで片づけている)。
 田栄の後は子の田広が即位し、楚と漢の争いの間で斉は束の間の安定を得るが、やがて漢の韓信が攻め込んできて田広は敗死、斉の大部分は漢に制圧される。この最終的局面(残り70ページくらい)に至って、主人公田横はついに田一族最後の斉王となるのだが、この時すでに事態は絶望的になっている。

 「まだ漢軍に下ってないのは済北の半分と膠東の一部だけであり、その国土をもって王として立つのは、揺れる舟のなかで片足で立つようなものである。」(p.238)

 事実この後の物語は、わずかな兵力しかもたない田横が圧倒的漢軍にな追いつめられてゆくだけの展開であり、読んでいてつらいものがある。しかしそういう絶望的な状況の中で真義を貫いた田横の姿こそを、著者は描きたかったのだろう。
 かなり理想化されすぎてる感がないでもない田横に比べて、いわば引き立て役の項羽や劉邦などはかなりひどい書かれようである。項羽は戦に強いだけの凶暴なバカ、劉邦は陰険悪辣な梟雄。韓信に至っては、「悪寒さえおぼえさせる」いじけた性格で、例の股くぐりも「そういう男にすぎない」(p.63)と、ボロクソに書かれている。
 結局主要登場人物はほとんど死んでしまうのだが、最後に生き残ったわずかな人々が、希望の地をめざして旅立つラストが、悲劇の中に一抹のさわやかな後味を残す。
 主人公が美化されすぎているのと(宮城谷作品はだいたいそうだが)、ストーリー展開が少々慌ただしいという点は若干気になるが、今まで読んだ宮城谷作品の中ではベストかもしれない。

*タンTan


香乱記〈1〉

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2007年5月31日 (木)

空海の風景

空海の風景 (上・下)/司馬遼太郎(中公文庫,1978)
 司馬遼太郎の小説の中でも、かなり特異な作品である。
 もちろん、あの弘法大師空海の生涯を扱った作品だが、単なる歴史小説ではない。力点がおかれているのは、「   歴史」ではなく、「宗教」である。
 空海の事績ではなく、その思想と信仰こそがこの小説のメインテーマであり、言い換えれば、この小説が描いているのは、「宗教」。だから、仏教思想の内容に踏み込んだ記述が多く、ページ数のかなりの部分を占めている。「思想としての仏教」をこれだけ正面から扱った小説は、他にないのではないか。
 本質は「歴史小説」というよりむしろ、「宗教小説」または「思想小説」に近い作品と言える。

 そして、その語り口もまた、特異である。

「空海はきいていたにちがいない。」
「奈良ではどれほどすごしたであろう。おそらく早々に発ち、山城の長岡にむかったはずである。」
「おそらく愛情をこめた高笑いをあげたかと思われる。」
「このあたりの消息からみても、空海はあるいは妙な男であったかもしれない。」
「車をおりてさっさと歩きだしたのは、空海ひとりぐらいのものではなかったか。」
「と、空海がいったにちがいない。」

 こんな調子で、「であろう」とか、「かもしれない」とか、「と思われる」とかいう言い回しがやたらと多い。
 歴史小説とは本来歴史を題材にしたフィクションなのだから、その人物が何を考え、何をしたかというのを断定してかまわないのだし、断定してこそ、「歴史読み物」ではなく、「小説」であると言える。
 もちろん、小説らしく断定調の文章も多い。だが、肝心な部分で、司馬遼太郎は完全な「小説」になってしまうのを回避しているように思えるのだ。おまけに、作者自身が顔を出して取材体験を語る回数も、他の作品に比べて非常に多い。
 文章からして、小説らしくないのだ。

 この作品の前半、中国に渡って密教の奥義を継承する空海は、ほとんど超人といっていい。上に書いたような語り口とあいまって、小説というより、宗教史の一部のような印象が強い。
 後半部分、空海の朝廷との関わりと、最澄の天台宗との対立が中心となっている。朝廷工作や権力闘争といったかなり生々しい活動を通じて、空海の人間的というか、あくの強い一面が見えてくる。
 だが、それでも小説の登場人物として空海が動いているという感じはしない。どこまでも、司馬遼太郎の「空海論」を読んでいる印象である。

 結局、最後までなんだか小説を読んでいる気にならなかった作品だった。
 面白くないわけではない。仏教思想という難解な題材を、ここまで読みやすく書くのは常人の業ではない。でも、「これは小説なんだろうか?」という印象は最後まで残った。
 空海という人は、作者にとって、小説の登場人物として駒のように動かすには大きすぎる存在だったのかもしれない。

空海の風景〈上〉

空海の風景〈下〉
 

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2007年5月17日 (木)

黒龍潭異聞

黒龍潭異聞/田中芳樹(実業之日本社・ジョイ・ノベルズ,2002)
 田中芳樹がSF・ファンタジー作家だったのはもう昔の話(こんなことを書くこと自体、オールドファンの証拠)。今では中国歴史が完全にメーングラウンドになっている。その「本領」を発揮した短篇集。
 同程度の長さの11編の短編を収録しており、各編の配列は年代順。内容的には、歴史小説系統の作品と、伝奇系統の作品が混じっている。

 「宛城の少女」は西晋、十六国動乱時代の幕開けのころの話で、反乱軍から城を救った13歳の少女が主人公。歴史小説に対してこんな表現はおかしいが、まるで小説の世界。しかし史書にちゃんと載っているそうだ。もともと小説じみた話なのに、田中流脚色で人物の言動がみやみとドラマチックなため、史実なのにリアリティがない。

 「徽音殿の井戸」は劉宋の簒奪者劉劭、「蕭家の兄弟」は梁の僭称者蕭紀を描いた作品で、ともに短い間帝位につきながら後世からその事実を認めてもらってない野心家の興亡を描く。彼らと戦い、滅ぼした「正統」皇帝(宋の孝武帝、梁の元帝)が、この二人よりはちょっとましというだけで、ともに全然たいした人物ではないのが皮肉。中国南北朝時代というのは、この手の「小人物同士の争い」というのが多いような気がする。

 「匹夫の勇」は南北朝から隋にかけてのエピソードで、梁に生まれ陳、隋に仕えた猛将蕭摩訶が主人公。しかし戦場での勇猛さだけがとりえ(それもしばしば負ける)主人公にはまったく魅力がなく、なぜこの人物を取り上げたのか不明。敵方の楊素の方がはるかにキャラもたっているし、魅力的な人物なのだ。実は楊素を書きたくて、その引き立て役としてこの主人公を持ってきただけにも思える。
 楊素がらみで紹介される「破鏡の故事」(戦乱で離ればなれになった夫婦が、割れた鏡を手がかりに再会する)は、エピソード的には、ここが一番おもしろいのだが、ちと脚色しすぎ。

 「猫鬼」、「寒泉亭の殺人」、「黒道兇日の女」、「騎豹女侠」、「風梢将軍」、「阿羅壬の鏡」の各編は随から宋を舞台にした伝奇風小説。ただし、細かく見ると趣向は違っていて、「猫鬼」、「風梢将軍」、「阿羅壬の鏡」は怪異が現れる本当の伝奇、「寒泉亭の殺人」はミステリである。「黒道兇日の女」と「騎豹女侠」は、聶隠という侠女を共通の主人公にしたシリーズ。この女が不正な役人を次々に殺していくという、中国版「仕置人」みたいな話。民間伝承が元ネタらしい。

 最後の「黒竜潭異聞」は時代が飛んで明が舞台。冒険小説風のタイトルとは裏腹に、明を衰亡に導く宦官を生み出した「黒竜潭」の呪いにまつわる話で、読んでいて暗くなってくる。これが表題作でもあり、いいタイトルではあると思うのだが、最後に読むには後味の悪い話である。
 話の配列を新→古に逆転して、「黒竜潭」で始まり、後味さわやかな「宛城の少女」で終わった方がよかったと思うのは、軟弱な読者の感想かもしれないが。

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2007年5月10日 (木)

三国志外伝

 そろそろ「4月に読んだ本」を書こうと思っていたところ、風邪を引いてしまい、更新が滞ってしまった。まだ完全復活とまではいかないが、あまりに間が空くのも避けたいので、とりあえず前に読んだ本からピックアップ。

三国志外伝/三好徹(光文社,2003)

 『小説宝石』に1999年から2002年にかけて連載された連作短編集。正史をベースに、三国志の「脇役」たちにスポットを当てている。全16編、つまり16人の人物についての作品を収録。
 著者は1997年に大河長編『興亡三国志』を出しているので、その時の調査の副産物なのだろう。長編で書ききれなかった人物たちのエピソード集ということで、だから『外伝』か。
 ドラマ的な演出を極力控えたストイックなタッチで、『』三国演義の化け物じみたキャラクターたちと違って、登場人物がいずれも(あの董卓や呂布でさえ)等身大の人間として描かれているあたり、陳舜臣の歴史小説と似かよった味わいがある。
 「脇役」とはいえ、ラインナップを見る限りけっこう重要な人物が多い。

 甄皇后 「美貌の皇妃」 魏
 孔融 「孔子の末喬」 後漢
 臧子源 「烈士の運命」 後漢
 許靖 「虚誉の人」 蜀
 虞翻 「謀士、南海に果つ」 呉
 荀イク 「最後の朝臣」 魏
 夏侯月姫 「張飛の妻」 蜀
 諸葛瑾 「諸葛一族」 呉
 賈ク 「謀士の哀しみ」 魏
 楊脩 「乱世の掟」 魏
 孟達 「劉備の刺客」 蜀
 張温 「悲運の使者」 呉
 ホウ徳 「恩讐二代」 魏
 馬謖 「街亭の敗戦」 蜀
 諸葛恪 「志、立たずとも」 呉
 曹植 「洛神の賦」 魏

 このうち、荀イク、諸葛瑾、賈ク、馬謖、ホウ徳、曹植は有名だし、孔融、虞翻、楊脩、孟達、諸葛恪も三国志にちょっと詳しい人なら誰でも知っている名前だろう。ほとんど知られてないのは、臧子源(この人は全然知らなかった)、夏侯月姫(張飛の妻)、張温くらいか。
 ただ、確かに主役となることはない人物ばかりではある。この「通好み」のセレクト自体が本書の大きな魅力の一つだろう。
 印象に残った話はまず「虚誉の人」。劉備が蜀を征服後、旧政権から取り立てられて重臣となった許靖と、その従兄弟で人物鑑定で有名な許劭(曹操を「乱世の奸雄」と評した)を描く。二人とも当時の名士として評判が高かったが、とにかく仲が悪かったらしい。この話に出てくる許劭は知ったかぶりの若僧、許靖も自意識ばかり高くて役に立たない虚名だけの人物。結局二人とも実は大した人物じゃなかった、というのが皮肉。
 次は、孫策が早死にしたばかりに、孫権に冷や飯を食わされる羽目になった虞翻の悲劇を描く「謀士、南海に果つ」。そして、関羽を間接的に死に追いやった裏切り者というイメージの強い孟達を、同情的な立場から書いた珍しい作品「劉備の刺客」がベスト3か。
 それにしても、この虞翻や孟達をはじめ、志を得ずに挫折した主人公が実に多い。
 ここに収録された作品には、「演義」系三国志物語の持つような高揚感はないかもしれない。だが、正統派歴史小説の持ち味はたっぷりと詰まっている。「三国志」もの短編集としては、今まで読んだ中でも最高ランク。

三国志外伝

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2007年5月 5日 (土)

海の史劇

 日露戦争ものの小説と言えば、司馬遼太郎の『坂の上の雲』があまりに有名。しかし他にも名作は数々あって、この小説もその一つ。

海の史劇(前・後編)/吉村昭(新潮社,1972)
 『坂の上の雲』の新聞連載が終わったのが1972年だから、この小説はちょうど同時期に出版されたことになる。司馬遼太郎とはまた別の視点から見た、日本海海戦の歴史。
 『坂の上の雲』は、日露戦争に日本はなぜ勝てたのかを解明する論文のようなもので、その上に時々過剰なまでの文飾を付け加えたものだったが、この『海の史劇』は、説明も評論もなく、ただ出来事を淡々と物語っていく。この抑制された語り口がこの作品の魅力となっている。

 前半はバルチック艦隊の大航海をもっぱらロシア側から描く。司馬遼太郎が『坂の上の雲』で描くロジェストヴェンスキー提督は、傲慢で無能な半狂人という感じだったが、この小説ではかなりまともに見える。語り口がきわめて客観的なためだろう。
 後半に入ってロシア、日本双方の側から日本海海戦とその後の物語が語られていくのだが、実はこの作品で一番印象的だったのは、クライマックスの海戦ではなく、バルチック艦隊がシンガポール沖を通過していくシーン。
 司馬遼太郎がわずか数行で片づけたこのできごとを、吉村昭は8ページかけて描く。まさに威風堂々という言葉そのままに、シンガポール沖を通り過ぎていく大艦隊。桟橋に詰めかけてそのスペクタクルを見物するシンガポールの住民たち。
 無敵としか見えない艦隊の偉容に、歓声を上げるロシア居留民、うちひしがれる在留日本人たち。大げさな修飾語など何も使ってないのに、この場面はこの上なくドラマチックで、来るべき海戦に向けて雰囲気をいやが上にも盛り上げる。

 日本海海戦が終わった後の出来事を詳しく描いているのも、『坂の上の雲』との違い。ポーツマス条約や、日本各地のロシア人捕虜の話を経て、最後は敗残のロジェストヴェンスキーがロシアに帰り、提督の長い「航海」が出発点に戻ったところで終わる。
 この話は要するに、ロジェストヴェンスキーが艦隊とともに出発し、一人で帰って来る話なのだと、最後で気づいた。いや、ロジェストヴェンスキーというより、これは「バルチック艦隊」そのものを主人公とする話なのかもしれない。
  『坂の上の雲』には総合的な歴史小説としての値打ちがあって、単純に比較できるものではないのだが、「日本海海戦」についてのみ言えば、完成度も読みやすさも、こっちの方が上のような気がする。

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2007年4月29日 (日)

公主帰還

公主帰還/井上祐美子(講談社文庫,2002)
 今や中国歴史小説を書く女流作家の代表みたいになってしまった井上祐美子の短編集。
 この人の作品はあまり長すぎないのがいい。この短編集の収録作は7編で、すべて宋代、つまり北宋または南宋が舞台。よほど宋に入れ込んでいるのか、他の人があまり書かないから書くのか。
 そして、あまり馴染みのない時代を扱いながら、不思議なほどにとっつきやすい。

 最初の「潔癖」は、書家として有名な米フツ(※注)の、病的なまでの「きれい好き」をめぐるエピソードで、話そのものはどうということない小品。前菜みたいなものか。
 次の標題作「公主帰還」は、北宋の滅亡と南宋の成立という激動期を扱った、いかにも歴史小説らしい話。金によって北方に連れ去られたはずの北宋の公主がひそかに脱出して来たと称して臨安に出現するが、果たして本物か偽物か、という謎が話を引っ張っていく。標題作にふさわしい作品。最後の文章が効いている。
 次の「僭称」も、北宋の滅亡を巡る話で、金に擁立されてわずか1月だけ皇帝を称した張邦昌が主人公。こういう短命政権の話はやはりおもしろい。よくぞこれだけの短いページにまとめたものである。
 「芙蓉怨」は北宋成立期の話で、後蜀(宋に滅ぼされた地方王朝)の皇帝の未亡人を巡って、太祖・太宗兄弟の微妙な関係を浮かび上がらせている。これも短い中によくまとめているが、冒頭に未亡人が殺される場面をいきなり持ってくる書き方が少々あざとい。
 「贋作」は、南宋の初期、秦檜の名を使って大がかりな詐欺を働いた、李信という無名の男が主人公。最後に秦檜が李信を幕僚として取り立てるという皮肉なオチがいい。この作品と次の「白夫人」は架空の人物が主人公になっている。
 その「白夫人」、「白蛇伝」で有名なエピソードを、まったく違った視点から語っている。視点の転換によって、悪玉と善玉を正反対にしてしまうという手法で、タニス・リーの『血のごとく赤く』のように、童話を題材にした小説などでは時々こういうのがある。が、中国歴史小説でそれをやるとは予期していなかっただけに、意表をつかれた。その手並みも鮮やかで、この作品集の中のベストだろう。
 最後の「涅[すみ]」は、北宋の名将、狄青の台頭から晩年までを簡潔にまとめている。宮城谷昌光なら1000ページくらい書きそうな話を、わずか20ページ余り。壮大な話を短くまとめるというのは、やはりこの人の得意技か。
 中国歴史小説というと、どうしても大長編を書く人ばかりになりがちなので、こういう短篇を得意とする作家は貴重。

※注 フツ= Futu

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