前々回のエントリーで、司馬遼太郎の『空海の風景』を取り上げたが、今回の本はそれと関係がある。
というのも、積ん読になってたこの本を読む気になったのは、『空海の風景』を読んで、当時の仏教についてもうちょっと知りたくなったからなのだ。しかし、正直言って、素人には少々内容がハードだった。
最澄と空海 日本仏教思想の誕生/立川武蔵(講談社選書メチエ,1998)
この本、タイトルだけ見ると、「最澄と空海・その生涯と時代」みたいな内容かと思ってしまうのだが、実際はこの二人についての伝記的な記述はごく一部、270ページの本の40ページくらいである。残りは何かというと、ほとんどが、最澄の天台宗と空海の真言宗、二つの仏教流派についての、理論的解説なのだった。(前史として、インド仏教史と中国仏教史について書かれた部分が50ページほど。)
ところで、世界の主な宗教で、仏教ほど膨大な教典を持っているものはないだろう。その数、およそ3000と言われている。しかも仏教には、キリスト教の聖書、イスラム教のコーランにあたるような根本的教典がなく、各宗派ごとに基本的な教典が違っている。
それだけならまだいい。問題は、その教典に何が書いてあるかということだ。
聖書もコーランも、書いてあること自体はごく平易で、誰にでもわかるような内容だ。しかし仏教の経典に書いてあることを、理解してる人がどれだけいるだろうか。というより、理解できるのだろうか。たとえ普通の日本語に翻訳されていたとしても。
この本のメインの部分、天台宗と真言宗の理論の部分を読んで、そんな感想を抱いた。
「五時八教」、「三諦」、「四諦」、「十如是」、「十界」、「一念三千」と、やたらと数のつく用語が多く、複雑な理論に満ちた天台宗の教義、インドの哲学・宗教の影響を受け、神秘主義的要素の濃厚な真言宗の教義、どちらも(少なくとも私には)、想像を絶する難解なものに思えて仕方がないのだった。「選書」という、どちらかといえば、一般大衆向きのシリーズの1冊のはずなのに、である。
例えば、天台宗の根本的概念(であるらしい)「空」・「仮」・「中」の「三諦」。
「空」とは、「あらゆるものに恒久不変の実態が存在しないこと」、「仮」とは、「それらのものが実在しないのではあるが、仮の存在のすがたを見せていること」、「中」とは、「ものはすべて『空』の側面と『仮』の側面をあわせもっていること」だそうだ。その上で、次のような説明が出てきたりする。
(…)天台の世界観の核心は、「空」「仮」「中」という三つのあり方(諦)をいかに融合させるかにある。
三諦それぞれが他の諦を含み、「仮のまま空、空のまま仮、仮のまま中」であるようなあり方とは、一定の方向を有し、一定の時間の幅を有する行為・プロセスではなく、むしろ瞬間としてとらえられる。(p.118)
宗教か? これって、宗教なのか?
何か恐ろしく観念的な哲学的議論を聞かされているような気がしてならないのだが。
神秘主義的修行を中心とする真言宗の方は、まだかなり「宗教」のイメージに近いのだが、それでも、密教の成立の基盤が「インド型唯名論」にあるというような説明のあたり、宗教というより「哲学思想」に近い要素を感じる。
こういう、凡人の理解がとても及ばないような体系を作り出した最澄と空海は、やはり宗教・思想上の巨人だったのだろう。
と同時に、普通の人間がこんな難解な理屈についていけるわけがなく、「南無阿弥陀仏」とか「南無妙法蓮華経」とか唱えてさえいれば救われます、と説いた浄土宗や法華宗の系統の流派が、大衆に広まっていったのも当然だと思うわけである。
仏教の理論体系なるものがどんなものか、その一端をのぞきたいという人は、読んでみるといいかもしれない。頭が痛くなっても責任は持てないが。