思想・哲学

2008年5月26日 (月)

神さまと神社

神さまと神社 日本人なら知っておきたい八百万の世界/井上宏(祥伝社新書,2006)
 日本の神さまと神社についての本。
 しかし、「神道」の本ではない。
 著者は宗教の研究家ではなくノンフィクションライターであり、理論的な話はむしろ意識して抜いているように見える。この本で扱っているのは宗教ではなく、日本の神さま事情、神社事情なのだ。
 とすれば、テーマとしてはやはり、タイトルどおり、「神さまと神社」としか言いようがない。

 第1章「日本人と神さま」は、個人的体験を含めた神々と神社と日本人についての序論。
 第2章「暮らしのなかの日本の神々」は神社で行われる祭礼や日常的な信仰や儀礼の説明(七福神も含める)。
 第3章「八百万の神々の系譜」は歴史編で、記紀神話とギリシア神話との比較、神道史というかなり性質の違うものが同居している。
 第4章「伊勢神宮と皇室とお伊勢参り」は、本書のハイライトだろう。題名のとおり伊勢神宮について一章を割いている。作者は伊勢の皇學館大学の出身だそうで、伊勢神宮には特別な思い入れがあるようだ。「あとがき」によれば、愛憎入り交じった複雑な思いのようだが。
 第5章「知っておきたい神々と神社」は、神社と神宮の違い、神社の格付け、社殿や鳥居の類型、神官の資格、拝礼の方法などといったミニ知識集。本書の中で一番役に立つ部分だろうが、なんとなく付け足しの感がある。
 最後の第6章「日本を代表する神社とその神々」も、各地の主要神社の紹介で、これまた付録的存在。

 結局、伊勢神宮のところで言いたいことは尽きたということか。
 それならいっそのこと伊勢神宮だけで1冊書いた方がよかったのではないかという気もする。
 というわけで、ガイドブックとしてはよくできているが、なんとなく消化不良な印象も残る本なのだった。

神さまと神社―日本人なら知っておきたい八百万の世界 (祥伝社新書 (035))

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2008年2月28日 (木)

老荘を読む

老荘を読む/蜂屋邦夫(講談社現代新書,1987)
 老子に荘子。なんとなく「無為自然」とか、「浮世離れ」とか、「隠者」とかいう言葉が浮かんでくる。つきつめれば、「仙人」の思想という感じか。
 老子は後に「大上老君」として神格化され、『西遊記』や『封神演義』にも登場する。実際のところ、その存在すら確かではない伝説の人物である。
 荘子は実在自体が疑問視されているわけではなく、戦国時代の宋の人と言われるが、その生涯にはやはり謎が多い。
 どちらもつかみどころのない、言ってみればちょっとあやしげな人物であるが、そのあやしさがかえって、その思想にはふさわしい。
   この本では第1章と第2章が老子・荘子の紹介と概説、第3章と第4章が老子、荘子のそれぞれの思想の紹介という構成になっていて、全編にわたって引用が豊富に散りばめられている。だが、要所要所が紹介されているだけで、老荘思想の全貌が解説してあるというわけではない。老荘を「読む」というより、「ちょっとのぞく」程度である。
 だいたい、著者があとがきで「『荘子』のほうは内篇を中心として一部分を読んだにすぎない。」と書いているので、全貌が解説できるわけがないのである。全部読まずに解説本を書くのもなかなかすごいと思うが。
 ただ、もともと老荘思想というのは、老子が「知る者は言わず、言う者は知らず」と言ってるように、言葉では本質が説明できないものらしい。下手に理解しようとして深みにはまると、浮世に戻ってこれなくなるかもしれないので、この本みたいに、エッセンスのつまみぐいをしていた方がいいのだろう。
 実際、この本に引用される部分だけでも、ある程度のことは―例えば、老子が意外と処世術や政治論みたいな現世的なことを語っており(「能く士たる者は武ならず、善く戦う者は怒ならず、善く敵に勝つ者は与(あらそわ)ず、善く人を用いる者はこれが下となる。」みたいに「孫子」かと思うようなことも言っている)、荘子の方が抽象的であることとか―わかってくる。少なくとも、その一端を知るというか、知ったかぶりくらいはできるわけである。
 老荘という難解な対象を扱っているわりに、文章が非常に読みやすい。気楽に、老荘思想に入門、とまではいかなくても、門前に立った気分くらいにはなれる。

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2007年6月27日 (水)

思想なんかいらない生活

思想なんかいらない生活/勢古浩爾(ちくま新書,2004)
 痛烈な「インテリ」批判の書。
 思想なんかなくていい、わけのわからん文章を無理によむ必要はない、と思想を売りにしているインテリたちを相手に罵倒のかぎりを尽くす。
 年末の新聞などに載ってる、「書評者が選ぶ今年のベスト」みたいなアンケート、あるいは知識人が選ぶ「必読書」のたぐいを、「誰のために選んでいるのか」と批判するあたりは、もう目がウロコが落ちまくり、そんなものをちょっとでも気にしてた自分が恥ずかしくなるほどだ。まあ、気にするだけで読んだためしはないのだが。
 特に印象的だったのは、「カントもマルクスもフロイトも読んでいないで、何ができるというのか」という柄谷行人の言葉を、「トンチンカンぶりがきわまっている。もちろん、なんでもできるさ。大学の文学部の教師や文芸評論家でも目指さないかぎりは。世間知らずが」と切って捨てるあたり。豪快である。
 一方で、そういった思想書を目の敵にし、金のことしか頭にない「ふつう」のオヤジの俗物ぶりもきっちりと批判している。著者が善とするのは、一昔前の日本にあふれていた「庶民」であるらしい。本を読まなければそれでいいというわけでもないのだ。当たり前だが。

 で、なかなか痛快な本なのだが、問題もある。
 普通の人生に思想なんかいらないし、読みたくもない本を無理に読まなくていい、というのは、そのとおりだろう。
 しかしそういう著者の書いていることだって、立派な「思想」だというのが大いなる矛盾である。
 結局、この本もインテリが書いた「思想本」なのだ。そして、本当に思想など必要としていない、普通に生活している人たちは、こういう本には見向きもしない。
 結局のところ、これは、職業インテリではないが「思想」は気になる、という中途半端な人が読む本なのだ。この本を読んでしまった私も、もちろん中途半端な一人。

思想なんかいらない生活

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2007年6月 3日 (日)

最澄と空海

 前々回のエントリーで、司馬遼太郎の『空海の風景』を取り上げたが、今回の本はそれと関係がある。
 というのも、積ん読になってたこの本を読む気になったのは、『空海の風景』を読んで、当時の仏教についてもうちょっと知りたくなったからなのだ。しかし、正直言って、素人には少々内容がハードだった。

最澄と空海 日本仏教思想の誕生/立川武蔵(講談社選書メチエ,1998)

 この本、タイトルだけ見ると、「最澄と空海・その生涯と時代」みたいな内容かと思ってしまうのだが、実際はこの二人についての伝記的な記述はごく一部、270ページの本の40ページくらいである。残りは何かというと、ほとんどが、最澄の天台宗と空海の真言宗、二つの仏教流派についての、理論的解説なのだった。(前史として、インド仏教史と中国仏教史について書かれた部分が50ページほど。)

 ところで、世界の主な宗教で、仏教ほど膨大な教典を持っているものはないだろう。その数、およそ3000と言われている。しかも仏教には、キリスト教の聖書、イスラム教のコーランにあたるような根本的教典がなく、各宗派ごとに基本的な教典が違っている。
 それだけならまだいい。問題は、その教典に何が書いてあるかということだ。
 聖書もコーランも、書いてあること自体はごく平易で、誰にでもわかるような内容だ。しかし仏教の経典に書いてあることを、理解してる人がどれだけいるだろうか。というより、理解できるのだろうか。たとえ普通の日本語に翻訳されていたとしても。
 この本のメインの部分、天台宗と真言宗の理論の部分を読んで、そんな感想を抱いた。

 「五時八教」、「三諦」、「四諦」、「十如是」、「十界」、「一念三千」と、やたらと数のつく用語が多く、複雑な理論に満ちた天台宗の教義、インドの哲学・宗教の影響を受け、神秘主義的要素の濃厚な真言宗の教義、どちらも(少なくとも私には)、想像を絶する難解なものに思えて仕方がないのだった。「選書」という、どちらかといえば、一般大衆向きのシリーズの1冊のはずなのに、である。

 例えば、天台宗の根本的概念(であるらしい)「空」・「仮」・「中」の「三諦」。
 「空」とは、「あらゆるものに恒久不変の実態が存在しないこと」、「仮」とは、「それらのものが実在しないのではあるが、仮の存在のすがたを見せていること」、「中」とは、「ものはすべて『空』の側面と『仮』の側面をあわせもっていること」だそうだ。その上で、次のような説明が出てきたりする。

 (…)天台の世界観の核心は、「空」「仮」「中」という三つのあり方(諦)をいかに融合させるかにある。
 三諦それぞれが他の諦を含み、「仮のまま空、空のまま仮、仮のまま中」であるようなあり方とは、一定の方向を有し、一定の時間の幅を有する行為・プロセスではなく、むしろ瞬間としてとらえられる。(p.118)

 宗教か? これって、宗教なのか?
 何か恐ろしく観念的な哲学的議論を聞かされているような気がしてならないのだが。
 神秘主義的修行を中心とする真言宗の方は、まだかなり「宗教」のイメージに近いのだが、それでも、密教の成立の基盤が「インド型唯名論」にあるというような説明のあたり、宗教というより「哲学思想」に近い要素を感じる。

 こういう、凡人の理解がとても及ばないような体系を作り出した最澄と空海は、やはり宗教・思想上の巨人だったのだろう。
 と同時に、普通の人間がこんな難解な理屈についていけるわけがなく、「南無阿弥陀仏」とか「南無妙法蓮華経」とか唱えてさえいれば救われます、と説いた浄土宗や法華宗の系統の流派が、大衆に広まっていったのも当然だと思うわけである。

 仏教の理論体系なるものがどんなものか、その一端をのぞきたいという人は、読んでみるといいかもしれない。頭が痛くなっても責任は持てないが。

最澄と空海―日本仏教思想の誕生

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