思想・哲学

2020年2月20日 (木)

思想家たちの100の名言

思想家たちの100の名言/ロランス・ドヴィレール;久保田剛史訳(白水社・文庫クセジュ,2019)
 古代から20世紀までの代表的な哲学者、思想家の100の言葉を取り上げ、その背後にある思想を解説する。一人一言ではないので、人数としては75人。
 だいたい年代順に並んでいて、最初は古代ギリシア、ヘラクレイトスの言葉「ひとは同じ川に二度入ることはできない」。以下、ソクラテス、プラトン、ディお下寝すなど古代ギリシアの哲学者たちが続き、次に聖書に出てくる使徒のパウロやマタイ、古代ローマのキケロやセネカ、マルクス・アウレリウスなどが登場。
 その後、5世紀のボエティウスから10世紀のアヴィセンナまでいきなり4世紀くらい飛ぶ。その次が11世紀のアンセルムス、そして12世紀のトマス・アクィナス。アヴィセンナ(イブン・シーナー)はイスラム圏の人だから、ヨーロッパに限れば5世紀くらい空白がある。中世ヨーロッパが思想的にいかに不毛だったかわかる。
 ここまでがだいたい全体の3分の1。その後はもうルネサンスだが、エラスムスやマキャヴェリが出てくるくらいですぐ終わって、40番目でデカルト登場。ここからが本番という感じで、パスカル、スピノザ、ライプニッツと、近代以降の西洋哲学のビッグネームがずらりと並ぶ。
 そして90番代に入ると、アーレント、ノージック、ドゥルーズ、レヴィナス、リクール、デリダなどの20世紀後半を代表する哲学者の名前が登場。最後の4人、カヴェル、ホネット、ブルーメンベルク、スローターダイクはブログ主の知らない名前だった。
 ――というような内容で、名言を通じて、西洋哲学の主要な流れがほぼわかる仕組みになっている。
 もちろん、フランス人が書いたものだから、内容は「西洋思想」オンリー。西洋思想に影響を与えたイスラム世界の学者は数人出てくるが、中国、インドなどはまったく視野に入ってないのは、まあ、予想どおりではある。

 ただ、気になるところとしては、名言が時として有名すぎて、今さら取り上げなくても――と感じてしまうところだろうか。デカルト「われ思う、ゆえにわれあり」とか、パスカル「人間は「考える葦」である」とか、ニーチェ「神は死んだ」とか。もうちょっとひねって、知られざる名言を発掘してもよかったのではないか。
 なお、もっとも多くの名言が引用されているのはデカルトの4。次点はパスカル、スピノザ、カント、ヘーゲルの各3。この5人が、著者の見る西洋哲学のビッグ5ということか。
 この5人が16も枠を使ったせいで、出てこなくなった有名な思想家もけっこういると思われる。日本的感覚からすれば、「百人一首」じゃないけど、「百人一名言」でよかったような気もする。

 当然ながら、印象に残る言葉もけっこうあって、挙げ出すときりがないのだが、例としてひとつ引用してみる。

「真と偽は、好きや嫌いを言いあらわすこと以上に、確実性をもっているわけではない」(アントワーヌ・アルノー)

 

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2019年9月19日 (木)

道教の神々

道教の神々/窪徳忠(平河出版社,1986)
 日本ではほとんど知られていない、道教信仰について紹介する本。なんといっても本書の特徴は豊富な図版。カラー図版もたっぷり。後に講談社学術文庫で再刊されているが、こういう本は判型の大きいハードカバーで読んだ方がいいのではないだろうか。
 内容は二部構成。第1部が道教という宗教についての解説。第2部が後ろの3分の2を占めていて、道教で信仰されている主な神々の紹介になっている。

 壱「道教とは何か」は、さらに2章に別れている。
 壱「道教の現状」は、中国本土、台湾、東南アジア各地での道教信仰についてのレポートみたいなもの。道観などの施設や、道士の養成、道教研究の現状など。
 弐「道教の内容と宗派」は歴史編。道教の発生と展開、主な宗派について。道教が老子や荘子の道家から生まれたという考えは間違いで、道家とは関係ない自然宗教だというのが著者の見解。老子も神として拝んではいるが、あくまで多数の神の一人でしかないのだ(かなり上位の神ではあるが)。
 また、道教発展に貢献してきた主な宗教家の名も出てくる。張魯、于吉など、「三国志」ファンにはなじみのある名前も出てくる。

 弐「道教の神々」も、やはり2章に別れている。
 壱「生活と神々」は、道教信仰の形態と儀式について。道教では神々にそれぞれの誕生日が設定されていて、その日を祝うのだそうだ。その誕生日一覧表もある。
 弐「神々の素性」が、本書のメインコンテンツ。道教で崇拝される主要な神々の解説、全25項目。
 最初は最高神とされる「元始天尊」。そして「天始天王」、「玉皇上帝」――と続いて最後は「広沢尊王」、「法主公」、「祖師たち」。一応上級の神から下級へと並んでいるらしいが、どういう順番かよくわからない。老子や関羽などの実在の人物たち、土俗信仰の神、さらには仏教の神々なども混じっていて、なんだか混沌としているように見えるのだが、道教信者たちにとっては、それなりの秩序があるのだろうか。
 巻末には礼拝所の配置図や、台湾で信仰されている主な神々をリストアップした「神明一覧表」がついている。この一覧表を見ると、本文で紹介されている多数の神々も、ほんの一部にすぎないことがわかる。恐るべし。

Doukyounokamigami

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2018年10月18日 (木)

ミネルヴァのふくろうは世紀末を飛ぶ

ミネルヴァのふくろうは世紀末を飛ぶ テクノロジーと哲学の現在/黒崎政男(弘文堂,1991)
 世紀末というにはまだ少々間がある1991年に発行された哲学の本。テクノロジーの時代の哲学はどうあるべきか――がテーマだという。
 対話形式の導入部を設けるなど、一般読者にもなじみやすいように工夫はしているようだが、やはり哲学書。ところどころ難解。
 それもそのはずで、オリジナル論文は『現代思想』、季刊『哲学』、岩波講座『転換期における人間』といったいかにもな思想誌や思想書。ほかに『数学セミナー』、『人工知能学会誌』みたいな理系雑誌に載ったものもあるが、もっとわからない世界である。しかし不思議と読みにくいという印象はない。
 内容は以下のようなもの。

 1章は「哲学における最近の終焉的な語調1」。西洋哲学の流れの中の「機械賛成派」と「機械反対派」について論じている。西洋哲学にはこの二つの潮流が常にあったのだが、20世紀末、技術の爆発で思想は死んでしまったのだそうだ。
 2章「オリジナルとコピー」は、シミュレーション論。シミュレーションの四つの類型という区分が面白い。何かというと、アデランス型(模倣)、コロッケ型(ものまね)、アメックス型(代替品)、クローン型(複製)なのだそうだ。これは一般人にも比較的わかりやすい、SFエッセイみたいなものだった。
 3章「他者としての機械」から、難解度が増してくる。この章のメインである「ドレイファスの場合」は、自然言語処理を中心とした人工知能論。
 4章は「脳の解明とニューロ・コンピュータ」。哲学というより理系の話に近づいてくる。前半は、脳研究の最前線について。後半は人工知能研究の中から出てきた問題、「コネクショニズム」について。
 5章「エキスパート・システムとフレーム問題」。相変わらず理系の話。前半は、AIの限界とフレーム問題について。後半は、エキスパートシステムはいかにして可能になるかという問題。
 正直言って、この3章から5章までは、何だかよくわからないところが多かった。
 6章「自然性の変貌」は、哲学らしい話に戻る。前半は「自然」についての短いエッセイ。何かを「自然である」と述べることは、内なる保守性の表明なのだそうだ。後半は、尊厳死の問題について、カイザーリンクという人の論説を中心に考察。
 7章「哲学における最近の終焉的な語調2」は、「モード」がテーマ。「モード」という語はもともと「あり方」という意味だったが、歴史の中で、ファッションと哲学用語とに分化した。フランス語では、ファッションのモードは女性名詞(la mode)、哲学用語は男性名詞(le mode)。そして現在では、常に新しさを求める「モード現象」が、思想も含めたあらゆる分野に広がっている。――と、世紀末の有様に少々疲れた口調で本書は締めくくられる。
 まあ、最近も著者の本は出版されていて、ふくろうは21世紀になってもまだ飛んでいるようであるが。

 実を言うと本書を読んだ最大の理由は、単にタイトルに興味を引かれたからなのだが、内容は上にも書いたように、哲学やテクノロジーの素人には少々手強かった印象がある。だが、四半世紀以上前に書かれたにもかかわらず、内容が古びている感じがしないのは、テクノロジーの思想的な側面を掘り下げているからだろう。瀬名秀明のロボットSFにもつながるものを感じた。

Minervanofukurou

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2018年8月28日 (火)

そして文明は歩む

そして文明は歩む/森本哲郎(新潮社,1980)
 文明批評の第一人者として知られていた著者の、渾身の文明論。
 世界の主な文明を、「数」をキーワードに、いくつかの類型に分けるという、実にユニークな考え方がベースになっている。
 内容は以下のとおりの構成。

 序章 ガラタ橋の残照
 第1章 神の選択
 第2章 「多」の世界の敗北
 第3章 「多」と「ゼロ」の接触
 第4章 「ゼロ」とは何か
 第5章 「二」の文明の土俵
 第6章 「二」が創る宇宙美
 第7章 科学を生んだ「一」の原理
 第8章 時間を作った「一」の創造者
 第9章 「一」にして「三」なる文明
 第10章 「ふたつの魂」が創造したドラマ
 第11章 自然にかくれる「万」の文明
 第12章 女性原理の文明
 第13章 日本、象徴の文明
 終章 神の顔、人の顔

 まず、多神教をベースとするギリシャ・ローマは、「多の文明」。これはまあ、そういうものかと思う。
 同じ多神教でも、思想の根本に「無」を持つインド文明は、「ゼロの文明」。インドが「ゼロ」を発明したからではない、と著者は言うのだが、ちょっと苦しいような気もする。
 陰陽二元論を基本原理とする中華文明は、「二の文明」。中華文明は、三とか五とか七とか、奇数も重視しているように思うのだが。五行説とかどうなるのだろう。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を生んだ一神教の文明は、「一の文明」。この文明が、科学や時間の概念を生み出した。
 さらに、キリスト教は、三位一体の思想により、「一にして三の文明」となった、と著者はいう。ちょっとこじつけめいた気もする。
 そして最後に来るのが、すべてを受け入れ、調和させる「万(よろず)の文明」――日本。結局、日本文明への賛歌で終わるのだった。

 他に例を見ない著者独自の文明論であり、力作であることは間違いない。しかし、すべて感覚ばかりで語っていて、論理的根拠が何もないような気がする。まあ、それこそが日本の「万の文明」の特徴らしいが。

Soshitebunmeihaayumu

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2017年8月31日 (木)

自分を知るための哲学入門

自分を知るための哲学入門/竹田青嗣(ちくま学芸文庫,1993)
 哲学は「知る」ものではない、「する」ものだと主張する、実践的哲学入門。「哲学入門」を名乗る本は山ほどあるが、その手の本にありがちな堅苦しさや取っつきにくさが比較的少ないのが本書の特徴。

 第1章「哲学“平らげ”研究会」は、読書会から始まった、著者の哲学への開眼について述べる。
 第2章「わたしの哲学入門」は、著者の哲学遍歴を語る自伝的エッセイ。哲学の専門家でもない著者が、苦悩の中から哲学とは何かをつかみ取った体験を語る。その中で、哲学の知識を得ても仕方がない、哲学とは自ら「する」ものだと主張する。
 これが哲学入門を語る他の本にない部分で、ある意味本書の最大の特徴と言っていい。とはいえ、内容はやはり具体的な哲学思想に関わっている。特にフッサールへの傾倒について語っていて、フッサール哲学の解説にもなっている。
 そして、この章で「哲学の知識を得ても仕方がない」と言っておきながら、第3章以降では、西洋哲学史の主要な流れを説明しているのである。著者自身の体験に即してではあるが。
 第3章「ギリシャ哲学の思考」は、哲学の原点、ギリシャ哲学について。同時に哲学の原論でもある。プラトンやアリストテレスばかりでなく、ゼノン、パルメニデス、デモクリトスなど、ソフィストと呼ばれる哲学者たちにも詳しい。著者はアリストテレスよりもプラトンのイデア論の方を支持しているらしい。
 第4章「近代哲学の道」は、デカルト、スピノザ、カントの思想について。この章あたりになると、読んでる間はわかったような気になるが、やはりよく理解できてないのである。
 第5章「近代哲学の新しい展開」では、著者の傾倒する現象学、それにキルケゴール、ニーチェ、ハイデガーなどが登場。これも読んでる間は…。
 終章「現代社会と哲学」。現代思想は二つの大きな不可能を含んでいるのだそうだ。認識の不可能と、主体の不可能。どうも、やはりよく理解できてない気がする…。
 ただ、終わり近くの、「思想はある意味ですべてフィクションだが、それが人間の生の意欲を奪うようなものであるとき、思想の意味はなくなる」(p.231)という著者の言葉には、「生きるための哲学」という根本的立場を見る気がする。

Jibunwoshirutamenotetsugaku

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2017年8月27日 (日)

知に働けば蔵が建つ

知に働けば蔵が建つ/内田樹(文春文庫,2008)
 教養、労働、武道、国家、格差、等々…、内田樹の主要な論点、主張がほぼ揃っていて、入門編として役立ちそうな本。なぜ「蔵が建つ」のかは、読んでもよくわからないが。2005年発行の単行本の文庫化。

 内容は5部構成。
 第1部は「弱者が負け続ける「リスク社会」」。大衆社会論、共同体論、資本主義論、そして教育論。「オーバーアチーブの原理」は著者の持論として他の本でも読んだが、納得できるようでもあり、しかしすべての人がそうではないだろうという気もしたり。
 第2部「記号の罠」は、主として現代文化に関する短い文章が集まっている。テーマは、ネット、消費社会、そして宮崎駿など。
 第3部「武術的思考」は、武道の立場からの人生論、みたいなもの。そしてここにもやはり教育論が入っている。印象的な言葉が多いのは、これが一番の得意分野だからか。例えばこんなところ。

 人間の知的活動とは暗黙知から明示知へ「何か」が変化することに他ならない。(「あれって、これのこと?」p.159)

 なぜなら、武人に求められるもっとも重要な資質の一つは「危機を察知し、事前に回避する能力」だからである。(「愛する力」p.163)

 第4部「問いの立て方を変える」は、主に政治・外交に関する文章。君が代や靖国参拝を扱った「国益と君が代」や「 靖国問題」は、いかにも右派の反発を買いそうだ。
 第5部「交換の作法」は、若者論、世代論などの社会全般に関する評論的なもの。そしてもちろん、根底にはやはり教育論がある。世代論である「四十代の構文」は、1956年から65年生まれの世代を、何者にもコミットしようとしない「デタッチメント」世代として論じる。実はブログ主がまさにこの世代。他人の責任ばかり追及しようとする無責任さが世代の特徴らしい。そうだったのか。思い当たる節が全然ないわけでもないが。

Chinihatarakeba

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2017年7月18日 (火)

歴史という牢獄

歴史という牢獄 ものたちの空間へ/彌永信美(青土社,1988)
 タイトルから見て、歴史についての本かと思っていたのだが、読んでみると違っていた。確かに歴史はテーマのひとつではあるが、いわゆる歴史学とはまったく違う分野の本。
 著者は仏教を専門とする美術・宗教学者とのこと。しかし文章から受ける印象は、もろに「現代思想」。例えば「序」のこんな一節が、本書の性格を表現しているような。

 アメーバーのように意味と関係を分泌し、世界を呑み込み、自己に同化していく、そのような主体はもうたくさんだ。
 たとえ「ぼく」はいなくてもいい。石と、木と、星々と、そしてたぶん他人[ひと]たちが、一切の関係なしに、ばらばらに虚空に散らばった、そんな冷たくて固い、鉱物的な風景。――その方がずっといい……。(p.11)

 要するに世界に「意味」を押しつける「歴史」を拒否する、それが本書の基本姿勢らしい。歴史の本じゃないどころか、あからさまな「反・歴史」の本なのだった。
 内容は3部構成で8編の論文を収録。初出は書き下ろし1編を除いて、『現代思想』と『ユリイカ』という、いかにもな雑誌。上の序文からは、どんなことが書かれているのか見当がつかなかったが、こんな感じだった…。

第1部は「「近代」というドラマ」。東洋・日本関係の3編。
「問題としてのオリエンタリズム」は、著者のメインテーマであるオリエンタリズム(と、その対極としてのオクシデンタリズム)批判。
「「貧しき者」は幸せか」は、政治論みたいなもの。全体主義を生みだす歴史的土壌の分析と批判。
「日本の「思想」とキリシタン」は、キリシタンを中心とした日本の宗教史、そして「思想」そのものへの批判。神道思想は本来仏教に基づいたもので、さらに独自の宗教としての神道は近世まで存在しなかったという指摘が印象的。
第2部は「歴史の<内>と<外>」。キリスト教やヨーロッパ史関係の、異端の歴史を語る3編。
「「歴史」の発明」は、キリスト教の歴史観とグノーシス主義の歴史観について。
「終末の見える沙漠」は、キリスト教と沙漠について。
「<外>の怪物・<内>の怪物」は、ヨーロッパの自然観と怪物について。
第3部「意味の果てる道」は、「歴史」とは関係ない2編。
「パイヨと八不中道とばななうお-日常性の向う側」は、仏教思想と存在論がテーマ。
「イカロスたちの孤独-『百年の孤独』とできごとの<無>意味」は、ブリューゲルの「イカロスの墜落」と、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』を通じて、日常と超日常を論じている。

 というわけで、実のところ、「反・歴史」というテーマが全体として読み取れたかというと、よくわからない。歴史も時代も、取り上げられる対象も、あまりに散らばりすぎている気がする。ブログ主が現代思想に疎いせいで、部分的にしか理解できてないのかもしれないが。結局、ブログ主の頭に入ったのは、上の引用にあったように「一切の関係なしに、ばらばらに虚空に散らばった」断片だけだったようだ。

Rekishitoiurougoku

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2017年5月17日 (水)

歴史の暮方

 今回は、前回に続いて古い本。そして、前回みたいに、ある時代の精神を象徴しているような本でもある。

歴史の暮方/林達夫(中公文庫,1976)
 戦前戦後にかけて活躍した歴史家・思想家によるエッセイ・評論集。歴史の本というわけではない。
 中央公論新社の本書<中公クラシックス>版の解説ページによると、著者は「稀有の自由な精神を堅持しつつ飽くことなく知的冒険を求めてきたアンシクロペディスト」とのこと。
 収録された作品のオリジナル発表年は1931年から1946年まで。つまり満州事変から終戦直後まで、日本の「戦時」とほぼ重なっている。
 その戦争に染め上げられた時代の風潮に、表だってではないにしろ、飽くなき批判精神で静かに抵抗し続けた人だったということが、本書を読むとわかる。

 内容は全5部構成。
 Iは、「新スコラ時代」、「開店休業の必要」、「現代社会の表情」、「ベルグソン的苦行」など、戦争一色に染められた学界や社会へ苦々しい視線を向ける時事批評を集める。タイトルになっている「歴史の暮方」もここに収録。短い作品だが、苦悩と憤慨があふれ出てくるような文章。
 IIは「ユートピア――プラトンの場合」の1編だけ。プラトンの『国家篇』を論じたもの。
 IIIは、「植物園」、「鶏を飼う」など、身辺雑記的なエッセイ。その中にも社会批判はたっぷりと入っている。「植物園」の中の、「日本人が日本人に向かって日本人の優秀性を説いている風景は、よく観ると、何か不健全な、奇怪な、異様な心理風景である」(p.126)というのは、現代のことを言っているかのようだ。
 IVは、哲学関連本を中心とした書評集。『ベルツの日記』、『現代哲学辞典』など。
  Vは、本格的哲学論「ベルグソン・哲学・伝統」と、「反語的精神――跋に代えて」の2編を収録。
 一つ目の「ベルグソン・哲学・伝統」は実はアルベール・ティボーデが書いた評論のフランス語からの翻訳で、きわめて読みにくい。「けれども哲学者が、彼に存在することを許容するこの拒絶の上に強調をおくそのところで…」(p.203)みたいな文章が延々と続く。これほどの人が、なぜ翻訳になるとこんな変な文章を書くのだろう。
 最後の「反語的精神」には、著者の学生時代、先生から「君の作文は実に正直な文章で面白い、しかし国民としては少しどうかと思う」と言われたエピソードが誇らしげに書いてある(p.226)。反語的精神というより、反骨的精神の塊みたいな人だったことがわかる。

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2017年5月13日 (土)

民と神の住まい

民と神の住まい/川添登(講談社学術文庫,1979)
 講談社学術文庫初期の刊行で、絶版になって久しい。今ではamazonで簡単に入手できるが。最初は1960年にカッパブックスから出ていて、その時は「大いなる古代日本」というサブタイトルがついていた。
 著者は建築評論家だが、本書は建築というより、日本の信仰の起源を探る、民俗学に近い内容。とはいえ、いかにも建築の専門家らしく、神社建築を手がかりに考察を進めていく。
 全9章構成。
 第一章「古代は現存する」は、伊勢神宮と出雲大社にある二つの「心の御柱」の話から始まる。この二つは同じ名で呼ばれているが、まったく別のもの。そこから話は、天皇制、伊勢信仰、国家神道へ。
 以下、伊勢と出雲を中心に、古代日本の信仰の成立を巡る話が数章にわたって続いていく。
 主な主題は、第二章「秘められた柱」では、伊勢と出雲の「心の御柱」の正体について。第三章「母なる大地」は縄文時代の住居とオオクニヌシ神話。第四章「殺された王」は、伊勢外宮の祭神の謎と地母神。第五章「建設の夜明け」は、建築の英雄神であるオオクニヌシと弥生時代の建物。第六章「大いなる出雲」では、古代出雲大社と出雲族について――といった具合。
 そして、第七章「さすらいの女神」ではヒミコ、アマテラス、トヨウケの正体について考察。第八章「つくられた神話」は、著者の問題意識の本丸と言うべき伊勢神宮の成立と古代天皇制の話に踏みこむ。
 最後の第九章「不死鳥のはばたき」は、著者の宗教観、日本文化観が明らかになる章。例えばこんな部分に象徴されている――。

「日本人は、原始のアミニズムをひきつぎ、森羅万象すべてのものに神を見る。あらゆるものに神が存在するということは、どこにも神がいないということ、実は同じである」(p.221)。

「日本の停滞した生活、弥生時代からほとんど変わることのなかった社会に、消費物資として流れ込んできたのが、電気ガマその他の電気製品である
」(p.232)。

「生きつづけるのは天皇制ではない。民衆こそ、フェニックスだったのである」(p.235)。

 今読むと、あまりに単純な、左翼がかった進歩史観に見える。原著が刊行された1960年頃というのは、まだそういう思想が大きな力を持っていたとはいえ、弥生時代から停滞していたというのはいくら何でも言い過ぎだろう。
 ただ、なかなか最近の歴史書には感じないようなある種の熱がこもっているのは事実。そういう時代の産物なのである。

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2015年8月20日 (木)

インドの神話

インドの神話/P・マッソン・ウルセル、ルイーズ・モラン;美田稔訳(みすず書房,1959)
 50年以上前に出版された、薄いハードカバー本。こういう本でもアマゾンマーケットプレイスでいくらでも手に入る(しかも安い)のだから、便利な時代である。
 それはともかく、本書の元本は『世界の神話』という大著だそうで、その中からインド部分だけを訳出したもの。
 内容は「バラモン教の神話」が半分以上を占める。その中がさらに「武士階級の神話」「司祭者階級の神話」「民間の神話――魔神」など、カースト(?)別に分かれている。
 登場する神々は、「武士階級の神話」がインドラ、ミトラ、ヴァルナなど。「司祭者階級の神話」が、アグニ、ソーマ、サヴィトリ、スーリヤなど。「民間の神話」では、アスラ、ラークシャサ、ナーガなどの悪神が登場するが、本書で多少とも面白いのはこの部分かもしれない。
 第2部は「バラモン教以外の宗教の神話」でジャイナ教と仏教の神話が解説されている。仏教の釈迦伝やジャータカなどを「神話」とするのは、仏教文化の中に生きる人間には違和感がある(「説話」ならわかるが)。しかし、ヨーロッパ人から見たら似たようなものなのだろう。数々の如来、菩薩なども「大勢の仏陀」と題する項で紹介されている。
 そうか、西洋から見たら、観音も地蔵も大日も全部「仏陀」なのか――ということがわかったりする。
 最後は「ヒンズー教の神話」で、ヴィシュヌ、シヴァが中心。しかし、バラモン教との違いがよくわからない。両方とも「バラモン教の神話」にも出てくるし。要するに、バラモン教が時代を経て民間信仰化したのが、ヒンズー教だということらしいが。

 ということで、概略だけの記述だが、インドの神話の全貌がほぼわかる。インド神話に関する本は、今でこそイラスト入りのビジュアル入門書が何種類も出ているが、この当時は、日本語で手軽に読める本は非常に珍しかった。ただ、値打ちはそれだけで、実は読んでも面白くもなんともないのだった。

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