アクション、冒険小説

2021年2月23日 (火)

ビッグデータ・コネクト

ビッグデータ・コネクト/藤井太洋(文春文庫,2015)
 ハイテクサスペンス小説。官民共同の巨大システム開発の裏にひそむ陰謀を、刑事と犯罪者のコンビが追う。
 本作は、『SFが読みたい2016』の日本部門11位に入っているが、SF感はほとんどない。おおむね現在のテクノロジーで可能なことしか出てこない。それだけに、誰か本当にこんなことをやろうとしている人たちがいそうで怖いのだが。
「こんなこと」とはどんなことかというと――。

 舞台は関西地方。自治体首長(元検察)と警察幹部が、滋賀県の山中に建設された巨大複合施設「コンポジタ」の住民サービスシステムを悪用して、全国規模の個人監視システムを作ろうとする。彼らの頭だけでそんなことが考えられるわけはなくて、裏にいるのはコンサルタントと称する守矢という男。実は情報犯罪の大物で、そのバックにはさらに大きな力が…。
 ――というような裏事情は、話が進むに連れて徐々にわかってくる。
 最初は、「コンポジタ」のシステム開発の中心人物だった月岡という男が誘拐される事件がきっかけ。「コンポジタ」計画を中止しろという脅迫状と、切り取られた月岡の指が送られてくる。
 さらに事件の関係者として(実は無理矢理関係者にしたてられた)、武岱という男がからんでくる。数年前にコンピュータウイルス事件の容疑者として逮捕されながら、その後不起訴になった男。
 京都府警サイバー犯罪対策課の警部万田は、捜査協力者となった武岱とコンビを組んで、事件を追うことになる――というのがメインのストーリー。
 クライマックスは、「コンポジタ」の情報システムが、武岱の仕掛けによってその恐るべき本性をさらけ出すところ。この場面の劇的効果はなかなかのもの。
 しかし、そこまでの話――特に前半は、錯綜した状況の中でもつれた糸を少しずつ解きほぐすような展開で、少々じれったくなる面もある。登場人物が多い上に、背景の組織が込み入り過ぎていてなかなか頭に入ってこない。バラバラに見えていた要素がつながってくる中盤からは、どんどん話が加速していくのだが。
 そして、複雑にからみあった物語の中から浮き上がってくるのは、情報産業現場の恐ろしい労働実態。そんな現場で「壊れて」しまった二人の男、月岡と武岱が、「コンポジタ」を阻止し、日本にディストピア社会が出現する危機をぎりぎりのところで防いだのだった。
 監視社会のディストピアと情報産業現場の地獄――ITの二つの負の側面を見せつける。面白いんだけど、読んだ後でなんとも暗澹とさせる小説だった。

Bigdataconnect

 

 

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2015年9月30日 (水)

ラインの虜囚

ラインの虜囚/田中芳樹(講談社ノベルズ,2012)
 講談社のジュヴナイル・レーベル<ミステリーランド>から2005年に発行された作品。だから元はヤングアダルト作品ということになるのだが、中身はいつもどおりの田中芳樹の、歴史冒険小説である。
 1830年、7月革命の余韻が残って騒然としているパリに、カナダから一人の少女がやってくる。その少女、コリンヌが父の名誉のために、祖父から押し付けられた無理難題をこなすべく、ライン河畔の謎の城へ旅立つというのがメインストーリー。
 祖父の無理難題というのは、ナポレオンが実は生きていて、その城に幽閉されているという噂があるので、その真相を確かめてこいというもの。
 コリンヌは田中芳樹作品のヒロインなので、もちろんプライド高く勝気で無謀。祖父の無茶な要求をあっさりと引き受ける。
 そんな彼女と行動をともにするのが、都合よくも下町で次々と出会った3人の男。アレクサンドル・デュマ、あの『三銃士』の作者大デュマ。英米仏の三国を敵にまわした稀代の海賊ジャン・ラフィット。そして謎の剣士モントラシェ、その正体はナポレオンの下で勇将として知られたジェラール准将。
 デュマとラフィットは実在の人物だが、勇将ジェラールはコナン・ドイルの生み出した架空の人物。エチエンヌ・ジェラールという同名の軍人が当時のフランスにいたが、この当時は元帥となって政府に入っているので、別人である。しかし、原典が他にあるという点では、著者の創作した人物ではない。
 要するに、史実とフィクションの枠を超えて、最強の文学者と無法者と軍人が、ヒロインを助けるために集まったということになる。
 さらにコリンヌその人も、その後カナダの「地下鉄道」で活躍した実在の人物みたいなことが最後に書いてあるが、これは確認できず。まあ、実在でも架空でもどっちでもいいが。
 もちろん、コリンヌと3人の道連れたちをつけ狙う悪党たちがいるのは、当然のお約束。コリンヌたちは悪党たちの度重なる襲撃をかわしながら、謎の城へ向かう。
 実は肝心の「ラインの虜囚」の謎が、大したことなくて少々拍子抜けするのだが…。しかし、それも含めて、予定調和どおりに話が展開し、安心感があるのが田中芳樹のいいところでもある。こういう後味のいい小説は、最近はなかなかお目にかかれない。

Rheinnoryoshu

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2015年7月 9日 (木)

戦国自衛隊1549

戦国自衛隊1549/福井晴敏(角川文庫,2009)
 2005年に公開された映画『戦国自衛隊1549』の原作。原作といっても小説が先にあったわけではなく、福井晴敏が映画用に作った物語を自ら小説化したもの。
 秘密実験の影響で1547年へタイムスリップした自衛隊部隊の隊長、的場一佐は、織田信長と入れ替わり、近代技術を使って日本を征服しようとする。それから2年、的場の計画は着々と進んでいた。
 1549年というのは、織田信長が斎藤道三と会見した年。当時、本物の織田信長は15歳だった。的場一佐は当然中年男(映画で的場を演じていた鹿賀丈史は当時50代)。いくらなんでも年齢が違いすぎるだろうと思うが。
 とにかく、的場が戦国時代でメチャクチャやってるおかげで、現代にも異変が起きてくる。このままでは現代に通じる世界線が消滅し、現代世界そのものが破滅するのだった。どういう原理かわからないが。
 そんな事情で、歴史の改変と世界の破滅を防ぐため、もう一つの自衛隊部隊が1549年に送り込まれ、的場の暴走を止めることになる。戦国時代で二つの部隊が対決するというのが、メインストーリー。
 主人公は後から派遣された部隊の隊長、ヤメ自衛官の鹿島。的場が鹿島の元上官、という因縁はパターンどおり。
 それにしても、もはや半村良のオリジナル『戦国自衛隊』とは、「自衛隊が戦国時代に行く」という基本設定以外は何の関係もない。
 女性がほとんど登場しなかったオリジナルと違って、防衛庁(オリジナルが発行された頃はまだ「庁」だった)技術研究本部の神崎怜が派遣部隊に加わっている。怜と的場に因縁があるというのもお約束。
 ところで、本来しつこいくらいに細かい書き込みが持ち味の福井晴敏だが、この作品は元々映画の原作として作られたものなので、ずいぶん駆け足で話が進む。著者自身も「いわゆる"小説"とは違った書き方になっている」と、序文で断っているくらいだ。
 だが、これでも世間のライト風味の小説に比べるとずいぶん書き込んでいる。著者の考える「小説」とは違うかもしれないが、立派な小説である。
 とはいえ、映画あっての作品という印象はぬぐえないし、この作品はあくまで映画が主、ということは著者もわかっていたようだ。正直、何も考えずに見ることのできる映画の方が面白さでは勝っていると思った。

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2014年2月17日 (月)

シップブレイカー

シップブレイカー/パオロ・バチガルピ;田中一江訳(ハヤカワ文庫SF,2012)
『ねじまき少女』でSF界に彗星のごとく登場した新進作家バチガルピ、その名前が恐ろしく発音しにくいことでも十分なインパクトがあった。
 本書はそのバチガルピが2010年に発表した長編で、現代世界の負の側面をそのまま未来に投影したような、環境も人心も荒れ果てた近未来世界を舞台にした冒険SF。
 温暖化で海面が上昇して海岸の都市は水没し、化石燃料や金属資源は枯渇、荒廃が世界を覆い、人類の大部分は前世紀の生活に逆戻りして貧困にあえいでいる。そんな中で一部の富裕層が資源と富を独占し、豪華な帆船で海を渡っている。
 主人公ネイラーは、荒れ果てたアメリカの沿岸、ブライト・サンズ・ビーチという名前だけは立派な地方で、「シップブレイカー」の下っ端作業員をやっている少年。岸に打ち上げられた巨大船に潜り込んで貴重なスクラップを回収する仕事は過酷で命の危険を伴い、そのうえ家に帰ればヤク中のヤクザな父親リチャード・ロペスが待ちかまえているという、救いのない生活を送っている。
 ところが、ブライト・サンズ・ビーチを襲った巨大ハリケーンで、ネイラーの運命は一変する。
 このハリケーンのせいで、ネイラーは二人の人間の命を助けることになる。一人は彼の凶暴な父親。飲んだくれて寝ていて家ごと嵐に吹き飛ばされるところを、仲間のピマたちの手を借りて救出する。誰が見ても死んだ方がましな男だが、ただ一人の肉親だという理由で助けるのだ。その後ずっと、ネイラーはそのことを後悔し続ける。
 もう一人は、ネイラーとピマが嵐の翌日、海岸で難破した豪華帆船の中で見つけた、ただ一人の生き残りの少女。ネイラーが生きている世界では、こういう時は殺して財産を奪うのが常識で、ピマもそう主張するのだが、彼は娘を助けることを選択する。
 その少女は、世界的大富豪パテル家の令嬢ニタだった。この名前はインド風で、本文中にも肌が褐色であると描写されていることから、インド系の美少女を想像しながら読むといいだろう。
 それはともかく、ニタの語るところでは、彼女はお家騒動に巻き込まれて追手から逃げている途中だったらしい。そこへやってくるのが、手下を引き連れたロペス。船のお宝を手に入れた上、ニタを追手に引き渡して報酬を得ようとする。
 ここまでが全体の約半分。後半は、悪魔のような父親の手を逃れたネイラーとニタの命がけの逃避行、そして敵の手に落ちてしまったニタを助けようとするネイラーの戦いの物語になる。
 この後半部分で、ネイラーは自分が助けた二人の命のどちらかを選択しなければならなくなる。父親に服従してニタを見殺しにするか。ニタを助けるために父を殺すか――。
 まあ、極悪非道なロペスと、少々生意気ではあるが美少女のニタのどちらを選ぶか、話は見えているのだが。

 ストーリーはいかにも少年マンガ的で、SFというよりは冒険小説の印象が強い。SF的に斬新なアイデアがそんなにあるわけでもない。それもそのはずで、元はジュヴナイルとして発表された作品らしい。「ボーイ・ミーツ・ガール」の要素もあるが、基本的には、少年が父親を乗り越え、独り立ちする物語である。
 しかし、「父親を助ける」→「父親を殺す」への変化が成長を示すのだとすれば、いささか救われない話ではある。全編に熱気あふれる雰囲気が満ちていて、暑苦しい高揚感を生み出しており、やりきれなさの忍び込む余地をなくしてはいるのだが。

Ship

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2011年11月12日 (土)

エデンの炎

エデンの炎(上・下)/ダン・シモンズ;嶋田洋一訳(角川文庫,1998)
 ハワイを舞台にしたファンタジー・アクション小説。裏表紙の解説には「モダンホラーの巨匠によるファンタジック大作」なんて書いてあるけど、どう見てもモダンホラーではない。ちょっとホラー風味は入っているが、どっちかというと「インディ・ジョーンズ」とか、その系統。
 ハワイ島(マウナロアやキラウエア火山があるハワイ諸島で最大の島)の南西海岸に建てられた超高級リゾート、マウナペレでは、宿泊客や従業員が次々と姿を消す異常事態が起きていた。おかげで客は激減し、オーナーのバイロン・トランポは異変を隠蔽して日本人の投資家ヒロシ・サトーにこのお荷物リゾートを売りつけようとしていた。
 新たに3人の客が消えた直後にもかかわらず、不穏な空気が漂うリゾートに、トランポはサトーを招いて商談を始める。もちろん、3人の行方不明は隠蔽、何食わぬ顔で商談を始めるトランポ。この呪われたリゾートを一刻も早く売り払わないと破産してしまうのだから、必死である。だが、正体不明の異変はますますエスカレートし、従業員が次々と失踪、得体の知れない怪物が出没、おまけに火山活動が活発化して溶岩がリゾートに迫り始める。それでもトランポはあくまで何ごともないふりをして、ゴルフにディナーにと日本人たちを接待するのだった…。
 この強欲で好色な下司野郎のバイロン・トランポの「リゾート売りつけ大作戦」がメインストーリーの一つ。トランポの強烈なキャラクターも手伝って、怪奇で凄惨な事件が続発しているのにコメディに見えてしまう場面が多い。
 ここにさらに二つのストーリーがからむ。二つ目のストーリーの主人公は、物好きにもマウナペレにやってきた大学の歴史教師エレノア・ペリー。――と、リゾートに向かう途中で偶然出会った豪快なおばさん、コーディ・スタンフ。彼女たちはマウナペレを襲う脅威の正体を知り、それに立ち向かうことになる。手がかりは、エレノアの親戚にあたる女性旅行家ロレーナ・スチュアートが残した手記にあった――。エレノアのパートは基本的にきわめてシリアスである。
 そして、本編の中に手記の引用としてはさみ込まれる形で同時進行していくのが、第三のストーリーであるロレーナ・スチュワートの物語。ロレーナは1866年にハワイ島を訪れ、そこで百数十年後にマウナペレ・リゾートを襲ったのと同じような怪事件に遭遇したのだった。彼女と行動をともにして、事態収拾のため奇想天外な冒険に挑むことになるのが、サム・クレメンズと名乗るちょっと変わった新聞記者――後に「マーク・トウェイン」のペンネームで世界的に有名な作家となる人物である。マーク・トウェインがハワイを訪れたことがあるのは事実。ロレーナは架空の人物だが、同時代の女性旅行家として知られるイザベラ・バードがモデルのような気がする(イザベラ・バードもハワイを旅行している。トウェインとは別の年だが)。このロレーナのパートは、それ自体完全に独立した物語として読める。古典的な香り漂う冒険物語で、バラバラにされているのがもったいないくらいだ。

 ところで19世紀と現代のハワイで起きている異変とは何かというと、裏表紙にも書いてあるから言ってしまうと、ハワイ古来の邪悪な神々が復活し、島を汚す者たちを滅ぼそうとしているのである。19世紀の場合はキリスト教宣教師たちを、現代は大規模リゾートを――。邪神たちを鎮めるには、女神ペレの力を借りるしかない。だがペレの力を解放するには、途轍もなく危険なあることを行わねばならないのだった。
 19世紀には、ロレーナとクレメンズがその試練に立ち向かった。現代、再び二人の男女が同じ方法で邪神に立ち向かう、というのがクライマックス。――なのだが、まさかそう来るとは思わなかった、というのが正直な感想。この手の物語のパターンに沿っているようでいて、時々意表をつく展開を見せる、油断のならない作品である。
 とにかくジェットコースター的展開というか、死体が転がり、怪物が襲いかかり、火山が爆発し、溶岩が流れ、幽霊がうごめく――、そんな場面の連続だが、その合間に、幻想的なまでに美しく迫力に満ちたハワイの大自然が描かれる。また、リゾートでの食事場面(結構多い)で出てくる凝った料理の数々も、この上なく美味そうである。
 これだけおどろおどろしい邪神や幽霊が跳梁する物語でありながら、それでも、ハワイ島はこの上なく魅力的な場所に描かれているのだ。血なまぐさいホラー風味のアクション小説でありながら、観光案内にもなるという、実にサービス精神あふれる作品なのである。

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2011年2月28日 (月)

ソー・ザップ!

ソー・ザップ!/稲見一良(角川文庫,1993)
 男同士の命をかけたゲームを描くハードボイルド冒険小説。
 戦闘の一技一芸に秀でた男たちが集まる「戦士のクラブ」、パブ・パピヨン。その中でも特に一目おかれる凄腕の4人の男がいた。
 ベアキル、元プロレスラー、鋼鉄の肉体の持ち主。ハヤこと早瀬青児、手裏剣と小太刀の達人。金久木剛三、別名カマクビ、元警官で狙撃の名手。ブルこと細井俊、超一流のハンター。
 この4人の前に、レッドと名乗る見知らぬ男が現れ、命を賭けた勝負を提案する。とある山岳地帯の入り口からゴールの小屋まで、4人が辿り着けば勝ち。レッドはその途中のどこかで、彼らに戦いを挑む。
 「命を賭けて戦い、得るものはない。危機を一つ克服したという満足と、己れに勝ったという自負だけだ」とレッドは言うが、ゴールの小屋には「ささやかな賞金」として現金三千万を置いてある。
 挑戦するレッドは、世界的に知られるサバイバルの専門家らしい。大胆にも4人の名手たちに対して、「銃には銃で、刃物には刃物で、素手には素手で」と宣言する。
 4人の男たちは金のためではなく、プライドをかけて挑戦を受ける(ただし、金久木は「人を撃てる」という理由から)。
 こうして、大自然の中、男たちの意地と誇りと命を賭けた真剣勝負のサバイバル・ゲームが始まる。たいした理由もないのに、そんなに簡単に命のやりとりをしていいのかという気もするが、そこはみんな常人じゃないのだから、常人にはうかがいしれない衝動とか動機とかがあるのだろうと、なんとなく納得させられる――というか、「疑惑の停止状態」におかれてしまう。
 登場人物は、ちょっとだけ出てくる脇役を除けば、実質5人だけ。女性は出てこないというストイックさ。その中で真の主人公はブル。極端に言ってしまうと、登場人物の中で彼だけがまともな人間に見える。とはいえ、勝負の中で怖じ気づいたり、他の者を陥れたりしようとする男はいない。その点では、みんなアウトローなりに筋を通している。
 登場人物は最小限、意外な伏線もどんでん返しもない。実にシンプルなストーリーなのだが、だからこそ、余計なことに文字を費やす必要がなく、男たちの死闘のディテールは、リアルかつ詳細に描き込まれている。特に銃とハンティングに関する蘊蓄は特筆もの。稲見一良の独擅場である。
 タイトルの「ソー・ザップ」というのは、命中の音。作品中でブルが説明している。「大口径ライフルの弾丸が空気を裂いて飛んでいって、猛獣の固い体に突き刺さる音の表現だ」そうだ。
 ぶっちゃけて言えば殺し合いの話なのだが、登場する男たちが命知らずばかりで、その上舞台は人里離れた山奥、一般人を巻き込むこともなく、スポーツのような味わいがある。ラストはけっこう感動的で、殺し合い小説なのにこんなに爽快でいいのだろうかと思ってしまう。

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2009年8月20日 (木)

セント・メリーのリボン

セント・メリーのリボン/稲見一良(新潮文庫,1996)
 稲見一良の作家活動は5年にすぎない。癌で余命いくばくもないことを知りながら、文字どおり命を削るような作家活動だった。
 本書は短篇5編を収録。1993年に発行された単行本の文庫化。(このブログはあくまで「自分が読んだ本」について書くものなので、絶版になった新潮文庫版なのだが、2006年に光文社文庫から再刊されている。)
 ところで稲見一良と言えば、通常はハードボイルド作家と思われているが、収録作はそう呼んでひとくくりにできるようなものではない。
 ヤクザに追われる逃亡者を助ける謎の老人が登場する「焚火」、収録作中で一番長い、猟犬の探し屋という奇妙な職業の男を主人公にした表題作「セント・メリーのリボン」は、確かにハードボイルドと言っていい。謎の老人も猟犬専門の探偵も、やたらと強く、かつカッコいい。弱きを助け強きをくじく、タフな男の見本である。なお、「セント・メリーのリボン」は、『猟犬探偵』として1冊にまとめられているシリーズの第一作にあたる。(『猟犬探偵』には、この作品自体は含まれてない。)
 かと思えば、トーチカの廃墟が現代と終戦時とを結ぶ「花見川の要塞」は、一種のSFもしくはファンタジーである。現代と過去との交錯の具合が見事で、タイムスリップものとしてよくできている。
 また、「終着駅」では、東京駅を舞台に、いまでは消滅してしまった職業「赤帽」が、一世一代の大仕事をしでかす。一種の犯罪を描いているのだが、こんなさわやかな犯罪小説は滅多にない。この作品が書かれたのは、東京駅の赤帽が廃止される数年前、ぎりぎり間に合ったわけだ。
 で、なぜか収録作中で一番気にいってしまったのが、「麦畑のミッション」。第二次大戦中のB17パイロットを主人公にした、戦争小説。この作品だけが、舞台が日本ではなく、登場人物も日本人ではなく、時代も現代ではない。ドイツを空襲に行った爆撃機が、損傷を受けながらも帰ってくる、それだけの話だが、長さのわりに読み応えはたっぷりとある。わずかな文章の中に、10人を超える登場人物たちの個性を鮮やかに描き出す筆力も光る。
 全体として、心優しい男たちのためのファンタジーとでも言えばいいのだろうか。文章のタッチはあくまでハードボイルド、しかし話はどれも心に沁みるいい話ばかりで、しかも軟弱ではなく、一本太い芯がとおっている。

セント・メリーのリボン (光文社文庫)
(これは光文社文庫版)

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2008年10月30日 (木)

バルト海の復讐

バルト海の復讐/田中芳樹(光文社・カッパ・ノベルズ,2004)
 この小説、タイトルからして『アドリア海の復讐』を意識していることは明らかである。では、ジュール・ヴェルヌへのオマージュ作品なのかというと、その点は少々疑問がある。
 まず、前回(2008年10月28日)のエントリーでも書いたように、『アドリア海の復讐』というのは、翻訳の題名であって、ヴェルヌがつけた原題とは全然違う。
 次に内容。これがまた、『アドリア海の復讐』とは似ても似つかない。そもそも『アドリア海の復讐』は、ヴェルヌが『モンテ・クリスト伯』へのオマージュをこめて書いた小説で、ストーリーの根幹にも似た要素がある。例えば、罠にはめられ投獄され、脱出するものの行方不明となる主人公。年月を経てから名を変え身分を隠し、大富豪になって再び現れる主人公。子の世代を巻き込んで繰り広げられる愛憎劇...。
 『バルト海の復讐』にはそんなものはない。1492年、ハンザ同盟都市リューベックの若き船長エリックは部下に裏切られ、凍てつくバルト海に放り込まれる。死の間際で、ホゲ婆さんと名乗る謎の老婆に助けられたエリックは、自分が陥れられた陰謀の真相と裁きを求めてリューベックに戻る。しかし陰謀の張本人たちは彼を再び陥れ、エリックは身を守るために戦うことになる――ざっとこんな内容の歴史冒険小説である。
 エリックは復讐に立ち上がったのではない。自分を裏切った部下たちに、最初は法の裁きを下すことを考えていた。だが、そのために動いた結果、新たな罠に陥ることになってしまい、追い詰められて仕方なく相手と戦い、結果として復讐を果たすことになるのだ。なお、この物語の開始から結末までに経過する時間は2ヶ月足らずに過ぎない。
 十数年をかけて復讐を果たすサンドルフ伯爵やエドモン・ダンテスとは、執念のレベルにかなり差がある。
 それに、エリックは田中芳樹の作品の主人公としては珍しいが、あまり頭がよくないし、人を見る目もない(作品中ではっきりそう指摘されている)。武術の達人でもないし、金持ちでもない。生命力と運の強さ、それにホゲ婆さんや謎の騎士ギュンター・フォン・ノルト(『七都市物語』にギュンター・ノルトという登場人物が出てくるが、先祖か?)といった強力な援護者の助けを借りて、なんとか危地を乗り切っていくのだ。
 ナイーブで力も金もない主人公が間一髪で危機をくぐり抜けながら目的を果たす、というのは冒険小説の黄金パターンの一つではある。しかし、主人公の圧倒的な意志と知略と財力がものをいう『モンテ・クリスト伯』や『アドリア海の復讐』とは、全然違うパターンの話であることは確かである。
 結局、ヴェルヌへのオマージュでないとすれば、この小説は何なのか。もしかしたら、『アドリア海の復讐』というタイトルへのオマージュ、つまりは『○○海の復讐』というタイトルの小説が書きたかっただけなのかもしれない。本家の「アドリア海」は使えないし、「瀬戸内海」や「オホーツク海」ではトラベルミステリーみたいだし、「エーゲ海」は誰かが書い ていそうだし、言葉の響きもよく、話を作りやすそうなのが「バルト海」だったのかもしれない。

バルト海の復讐 (カッパノベルス)

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2008年10月28日 (火)

アドリア海の復讐

アドリア海の復讐 (上・下)/ジュール・ヴェルヌ;金子博訳(集英社文庫,1993)
 1867年、オーストリア帝国の一部だったイタリアのトリエステから物語は始まる。言うまでもなく、当時のオーストリアはハンガリー、チェコ、スロヴァキア、クロアチア、ポーランドやイタリアの一部などを支配する大国である。ハンガリーの独立運動家、マーチャーシュ・サンドルフ伯爵は二人の同志とともにトリエステの街にひそみ、蜂起計画を準備していた。ところが、オーストリア帝国各地の同志に蜂起を呼びかける暗号文書が、偶然のいたずらで二人組の悪党の手に落ちてしまう。
 二人組はサンドルフ伯爵と取引のある銀行家と共謀して、独立運動家たちを罠にはめ、オーストリア官憲に売り飛ばしてしまう。捕らえられた3人はイストリア半島の中心にある町パジンに連行され、そこの城に収監されるが、不屈の精神の持ち主サンドルフ伯爵は、夜陰にまぎれて城から脱出する。だが、苦難はまだまだ続く。同志の一人は城から脱出に失敗、もう一人も、たどりついた港町で裏切りに合って再び捕らえられる。そして、追い詰められたサンドルフ伯爵は、死を覚悟して海に身を投じる。
 サンドルフ伯爵はそのまま行方不明となって死亡認定、二人の同志は反逆罪で処刑されて、この独立蜂起未遂事件が終結するところまでが第一部。上巻の半分をちょと過ぎたところ。
 で、この第1部だけでもずいぶん見せ場の多い話なのだが、実は導入部にすぎない。第2部はそれから15年後、やはりオーストリア領の港町ラグサ、今のクロアチア領ドゥブロヴニクに、正体不明の大富豪アンテキルト博士が優美な船に乗って姿を現すところから始まる。まあ、話の展開から見て、この博士の正体はバレバレなわけだが、とにかくここからが、この小説の本題である、冒険と復讐の物語になるわけである。アドリア海から地中海を股にかけて、追跡と逃亡、陰謀と策略、謎の新兵器(ここがヴェルヌ!)、暴風に大爆発、宿命の恋(ヴェルヌ作品には珍しい)、海賊との戦い――と、波乱万丈の物語が展開する。
 ヴェルヌと言えば、普通連想するのは(特にSFファンにとっては)『海底二万里』、『月世界旅行』、『地底旅行』、『八十日間世界一周』、『二週間の休暇(十五少年漂流記)』といったところではないだろうか。『アドリア海の復讐』は、知名度から言えばマイナーな作品である。正直、それがここまで面白いとは思わなかった。今まで読んだヴェルヌの小説で一番おもしろいんじゃないか。

 まあ、この小説について言いたいことは以上で充分なのだが、おまけに、トリビアなネタをいくつか。
 この物語の舞台は冒頭のトリエステから目まぐるしく移り変わる。パジン、ラグサ(ドゥブロヴニク)、コッタロ(現・モンテネグロ領コトル)、マルタ、カタニア(シチリア島)、セウタ(モロッコ海岸にあるスペイン領)、ジブラルタル、モナコ、チュニス、テトゥアン(モロッコの町)、トリポリ、そして主人公が築いた町がある架空の島、アンテキルト島(リビアの沖合にあるらしい)。特に下巻は地中海を端から端まで行ったり来たりしている感じだ。だから翻訳タイトルは『地中海の復讐』の方が内容に合っているのかもしれないが、やはり『アドリア海の復讐』がタイトルとしてはいい。ちなみに原題は単に主人公の名前、"Mathias Sandorf"である。
 それはともかく、上の地名の中で、架空の島はともかく、一番知られてないのは、現クロアチア領のパジンだろう。イストリア半島のほぼ中央にあるこの町には、小説に出てくる絶壁の上の城や、川が流れる大洞窟が実際にある。他に有名になる要素があまりないこの小さな田舎町にとって、「ジュール・ヴェルヌの小説の舞台になった」というのは、またとないセールスポイントらしい。町には「ジュール・ヴェルヌ通り」なんてのまである。Webに載っている観光ガイドには、必ずと言っていいほど、この小説のことが書いてある。「ジュール・ヴェルヌの町」なんて紹介してあるページまであった。ヴェルヌの1作品の、しかも第1部だけに出てくるのにすぎないのに、あつかましいのではないか。

 この小説の始まりは1867年。皮肉なことに、この年「オーストリア帝国」は連邦国家「オーストリア・ハンガリー帝国」に改編される。ハンガリーはオーストリアと君主を共有し(皇帝がハンガリー王を兼ねる)、外交・軍事・通貨はオーストリアと共有するが、それ以外では独自の政府・議会を持ち、内政が自由にできるようになったのだ。しかもややこしいことに、ハンガリー王国は多民族国家で、領内には多数のクロアチア人、スロヴァキア人、ルーマニア人などが住んでいた。ハンガリー人はオーストリアのドイツ人から見たら相変わらず格下扱いだが、王国内の諸民族に対しては支配民族になったのだ。
 この状況の変化のせいか、アンテキルト博士は悪党二人組と銀行家への復讐には執念を燃やすが、事件の発端だったハンガリー独立の話は、第2部以降ではどこかに行ってしまっている。その件は誰も口に出さないのである。

 『アドリア海の復讐』は申し分なくおもしろい小説である。訳文も読みやすい。ただ、登場人物の名前については、ひとこと言いたくなる。この小説の主人公は、上にも書いたようにマーチャーシュ・サンドルフ。原作ではMathias Sandorf。普通に読めば「マティアス」となるところを、ハンガリー風に「マーチャーシュ」に変えているわけである。もっとも、本来のハンガリー語の綴りは"Matyas"だが。それはまだいい。彼と一緒に捕らえられる二人の同志の名は、ラディシュラシュ・ザトマール(Ladislas Zathmar)と、エチェーヌ・バートリ(Etienne Bathory)。
 「ラディシュラシュ」というのは、原綴を無理矢理ハンガリー語風に読んでいるだけで、そんな名前はハンガリーにはない。ハンガリーの名前にするなら、ラースロー(Laszlo)とするべきだし、そこまでしないなら、そのまま「ラディスラス」でいいと思うのだが。もう一人のエチェーヌ・バートリは、姓はハンガリーの名家のものだが、名前は完全にフランス語である。エチェーヌはハンガリー語だとイシュトヴァーン(Istvan)、さらにハンガリー風に名前を姓・名の順にすればバートリ・イシュトヴァーンになる。実はハンガリーの歴史上に同姓同名の人物が何人もいる(そのうちの一人はポーランド王になった)。だがまあ、この小説の場合、エチェーヌ・バートリのままでいいと思うし、他の二人も、中途半端にハンガリー風の名前にしようとせずに、そのまま読んでいた方がましだった。なお、英訳だとエチェーヌ・バートリは英語化して"Stephen Bathory"になっている。

 この小説はSFの始祖ヴェルヌの作品だが、通常はSFではなく、冒険小説に分類されている。ではまったくSF性がないかというと、そうでもない。上の方にちらっと書いた、第2部以降で活躍する「謎の秘密兵器」である。その正体は、全鋼鉄製で、見た目は潜水艦そっくりの快速船、「エレクトリック1号」と「エレクトリック2号」。その名のとおり、動力は電気(ヴェルヌは本当に電気が好きだね)、速力は時速50キロを楽に超す。1882年の時点でこのスペックは明らかにオーバーテクノロジーである。他にも、アンテキルト博士が操る超能力としか思えない催眠術とか、彼がリビア沖の架空の島に築いたユートピア的都市とか、ちょっと(本当に、ちょっと、ではあるが)SF的な要素はある。だからこの小説を広い意味でSFと読んでも間違いではないだろう、とSF好きとしては思うのである。

 蛇足の蛇足ながら、メビウスの表紙イラストがいい。中身と全然関係ないけど。

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2008年6月23日 (月)

回転翼の天使

回転翼の天使/小川一水(ハルキ文庫,2000)
 今では野尻抱介と並び、日本を代表するハードSF作家としての地位を確立した感のある小川一水だが、これはそれ以前の、駆け出しの頃の作品。
 SF的要素はほとんどなく、弱小ヘリコプター会社を舞台にした、「新人OL奮闘物語」のバリエーションである。ライトノベルとソフトな冒険小説の中間的作品。
 通常のライトノベルのパターンだったら、ヒロインが自分でヘリコプターを操縦する話になるだろうが、この小説ではそんな非現実的な設定にはなってない。パイロットはパイロット、経営者は経営者、そしてフライトアテンダント志望だったヒロインの夏川伊吹は、あくまでアシスタントであり、その役割の中で、それぞれが限界を超えた活躍をしている。伊吹が入社直後の出動でいきなり倒壊寸前のビルからヘリコプターに飛び移ったり、「限界の超え方」は少々ライトノベル的ではあるが。それでも、リアルさからの極端な飛躍は決してしない。
 伊吹の就職した弱小航空会社が大手航空会社からさんざんな妨害を受け、伊吹自身も、その大手会社に就職したライバルから個人的ないやがらせを受けるという、会社と個人と二重のレベルでのいじめに耐える話が前半。
 「大企業の小企業いじめ」という鬱陶しい展開で進んできた物語が、後半に入ると一転、物語の舞台である塗羽市が大規模な地盤沈下に襲われ、パニック小説の様相を見せる。ここで当然、弱小ヘリコプター会社が獅子奮迅の活躍を見せるわけである。とはいえ、あくまで災害出動。「ブルーサンダー」や「エアーウルフ」みたいな話にはならない。どこまでも地味なのである。そこがこの話の長所の一つなのだ。
 冒頭に伏線があるとはいえ、話の持っていきかたがやや強引(人間関係の整理も含めて)な気はする。
 しかし、丁寧な取材や調査に基づいた情報の盛り込み方といい、自ら引いたリアルさの一線を超えない律儀さといい、この分野の小説としては十分なレベルに達しているのではないか。何といっても、作者25才の時の出版である。
 ただ、小川一水をSFから読み始めた人間にとっては、SFでないところだけが物足りないが。

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