アクション、冒険小説

2009年8月20日 (木)

セント・メリーのリボン

セント・メリーのリボン/稲見一良(新潮文庫,1996)
 稲見一良の作家活動は5年にすぎない。癌で余命いくばくもないことを知りながら、文字どおり命を削るような作家活動だった。
 本書は短篇5編を収録。1993年に発行された単行本の文庫化。(このブログはあくまで「自分が読んだ本」について書くものなので、絶版になった新潮文庫版なのだが、2006年に光文社文庫から再刊されている。)
 ところで稲見一良と言えば、通常はハードボイルド作家と思われているが、収録作はそう呼んでひとくくりにできるようなものではない。
 ヤクザに追われる逃亡者を助ける謎の老人が登場する「焚火」、収録作中で一番長い、猟犬の探し屋という奇妙な職業の男を主人公にした表題作「セント・メリーのリボン」は、確かにハードボイルドと言っていい。謎の老人も猟犬専門の探偵も、やたらと強く、かつカッコいい。弱きを助け強きをくじく、タフな男の見本である。なお、「セント・メリーのリボン」は、『猟犬探偵』として1冊にまとめられているシリーズの第一作にあたる。(『猟犬探偵』には、この作品自体は含まれてない。)
 かと思えば、トーチカの廃墟が現代と終戦時とを結ぶ「花見川の要塞」は、一種のSFもしくはファンタジーである。現代と過去との交錯の具合が見事で、タイムスリップものとしてよくできている。
 また、「終着駅」では、東京駅を舞台に、いまでは消滅してしまった職業「赤帽」が、一世一代の大仕事をしでかす。一種の犯罪を描いているのだが、こんなさわやかな犯罪小説は滅多にない。この作品が書かれたのは、東京駅の赤帽が廃止される数年前、ぎりぎり間に合ったわけだ。
 で、なぜか収録作中で一番気にいってしまったのが、「麦畑のミッション」。第二次大戦中のB17パイロットを主人公にした、戦争小説。この作品だけが、舞台が日本ではなく、登場人物も日本人ではなく、時代も現代ではない。ドイツを空襲に行った爆撃機が、損傷を受けながらも帰ってくる、それだけの話だが、長さのわりに読み応えはたっぷりとある。わずかな文章の中に、10人を超える登場人物たちの個性を鮮やかに描き出す筆力も光る。
 全体として、心優しい男たちのためのファンタジーとでも言えばいいのだろうか。文章のタッチはあくまでハードボイルド、しかし話はどれも心に沁みるいい話ばかりで、しかも軟弱ではなく、一本太い芯がとおっている。

セント・メリーのリボン (光文社文庫)
(これは光文社文庫版)

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2008年10月30日 (木)

バルト海の復讐

バルト海の復讐/田中芳樹(光文社・カッパ・ノベルズ,2004)
 この小説、タイトルからして『アドリア海の復讐』を意識していることは明らかである。では、ジュール・ヴェルヌへのオマージュ作品なのかというと、その点は少々疑問がある。
 まず、前回(2008年10月28日)のエントリーでも書いたように、『アドリア海の復讐』というのは、翻訳の題名であって、ヴェルヌがつけた原題とは全然違う。
 次に内容。これがまた、『アドリア海の復讐』とは似ても似つかない。そもそも『アドリア海の復讐』は、ヴェルヌが『モンテ・クリスト伯』へのオマージュをこめて書いた小説で、ストーリーの根幹にも似た要素がある。例えば、罠にはめられ投獄され、脱出するものの行方不明となる主人公。年月を経てから名を変え身分を隠し、大富豪になって再び現れる主人公。子の世代を巻き込んで繰り広げられる愛憎劇...。
 『バルト海の復讐』にはそんなものはない。1492年、ハンザ同盟都市リューベックの若き船長エリックは部下に裏切られ、凍てつくバルト海に放り込まれる。死の間際で、ホゲ婆さんと名乗る謎の老婆に助けられたエリックは、自分が陥れられた陰謀の真相と裁きを求めてリューベックに戻る。しかし陰謀の張本人たちは彼を再び陥れ、エリックは身を守るために戦うことになる――ざっとこんな内容の歴史冒険小説である。
 エリックは復讐に立ち上がったのではない。自分を裏切った部下たちに、最初は法の裁きを下すことを考えていた。だが、そのために動いた結果、新たな罠に陥ることになってしまい、追い詰められて仕方なく相手と戦い、結果として復讐を果たすことになるのだ。なお、この物語の開始から結末までに経過する時間は2ヶ月足らずに過ぎない。
 十数年をかけて復讐を果たすサンドルフ伯爵やエドモン・ダンテスとは、執念のレベルにかなり差がある。
 それに、エリックは田中芳樹の作品の主人公としては珍しいが、あまり頭がよくないし、人を見る目もない(作品中ではっきりそう指摘されている)。武術の達人でもないし、金持ちでもない。生命力と運の強さ、それにホゲ婆さんや謎の騎士ギュンター・フォン・ノルト(『七都市物語』にギュンター・ノルトという登場人物が出てくるが、先祖か?)といった強力な援護者の助けを借りて、なんとか危地を乗り切っていくのだ。
 ナイーブで力も金もない主人公が間一髪で危機をくぐり抜けながら目的を果たす、というのは冒険小説の黄金パターンの一つではある。しかし、主人公の圧倒的な意志と知略と財力がものをいう『モンテ・クリスト伯』や『アドリア海の復讐』とは、全然違うパターンの話であることは確かである。
 結局、ヴェルヌへのオマージュでないとすれば、この小説は何なのか。もしかしたら、『アドリア海の復讐』というタイトルへのオマージュ、つまりは『○○海の復讐』というタイトルの小説が書きたかっただけなのかもしれない。本家の「アドリア海」は使えないし、「瀬戸内海」や「オホーツク海」ではトラベルミステリーみたいだし、「エーゲ海」は誰かが書い ていそうだし、言葉の響きもよく、話を作りやすそうなのが「バルト海」だったのかもしれない。

バルト海の復讐 (カッパノベルス)

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2008年10月28日 (火)

アドリア海の復讐

アドリア海の復讐 (上・下)/ジュール・ヴェルヌ;金子博訳(集英社文庫,1993)
 1867年、オーストリア帝国の一部だったイタリアのトリエステから物語は始まる。言うまでもなく、当時のオーストリアはハンガリー、チェコ、スロヴァキア、クロアチア、ポーランドやイタリアの一部などを支配する大国である。ハンガリーの独立運動家、マーチャーシュ・サンドルフ伯爵は二人の同志とともにトリエステの街にひそみ、蜂起計画を準備していた。ところが、オーストリア帝国各地の同志に蜂起を呼びかける暗号文書が、偶然のいたずらで二人組の悪党の手に落ちてしまう。
 二人組はサンドルフ伯爵と取引のある銀行家と共謀して、独立運動家たちを罠にはめ、オーストリア官憲に売り飛ばしてしまう。捕らえられた3人はイストリア半島の中心にある町パジンに連行され、そこの城に収監されるが、不屈の精神の持ち主サンドルフ伯爵は、夜陰にまぎれて城から脱出する。だが、苦難はまだまだ続く。同志の一人は城から脱出に失敗、もう一人も、たどりついた港町で裏切りに合って再び捕らえられる。そして、追い詰められたサンドルフ伯爵は、死を覚悟して海に身を投じる。
 サンドルフ伯爵はそのまま行方不明となって死亡認定、二人の同志は反逆罪で処刑されて、この独立蜂起未遂事件が終結するところまでが第一部。上巻の半分をちょと過ぎたところ。
 で、この第1部だけでもずいぶん見せ場の多い話なのだが、実は導入部にすぎない。第2部はそれから15年後、やはりオーストリア領の港町ラグサ、今のクロアチア領ドゥブロヴニクに、正体不明の大富豪アンテキルト博士が優美な船に乗って姿を現すところから始まる。まあ、話の展開から見て、この博士の正体はバレバレなわけだが、とにかくここからが、この小説の本題である、冒険と復讐の物語になるわけである。アドリア海から地中海を股にかけて、追跡と逃亡、陰謀と策略、謎の新兵器(ここがヴェルヌ!)、暴風に大爆発、宿命の恋(ヴェルヌ作品には珍しい)、海賊との戦い――と、波乱万丈の物語が展開する。
 ヴェルヌと言えば、普通連想するのは(特にSFファンにとっては)『海底二万里』、『月世界旅行』、『地底旅行』、『八十日間世界一周』、『二週間の休暇(十五少年漂流記)』といったところではないだろうか。『アドリア海の復讐』は、知名度から言えばマイナーな作品である。正直、それがここまで面白いとは思わなかった。今まで読んだヴェルヌの小説で一番おもしろいんじゃないか。

 まあ、この小説について言いたいことは以上で充分なのだが、おまけに、トリビアなネタをいくつか。
 この物語の舞台は冒頭のトリエステから目まぐるしく移り変わる。パジン、ラグサ(ドゥブロヴニク)、コッタロ(現・モンテネグロ領コトル)、マルタ、カタニア(シチリア島)、セウタ(モロッコ海岸にあるスペイン領)、ジブラルタル、モナコ、チュニス、テトゥアン(モロッコの町)、トリポリ、そして主人公が築いた町がある架空の島、アンテキルト島(リビアの沖合にあるらしい)。特に下巻は地中海を端から端まで行ったり来たりしている感じだ。だから翻訳タイトルは『地中海の復讐』の方が内容に合っているのかもしれないが、やはり『アドリア海の復讐』がタイトルとしてはいい。ちなみに原題は単に主人公の名前、"Mathias Sandorf"である。
 それはともかく、上の地名の中で、架空の島はともかく、一番知られてないのは、現クロアチア領のパジンだろう。イストリア半島のほぼ中央にあるこの町には、小説に出てくる絶壁の上の城や、川が流れる大洞窟が実際にある。他に有名になる要素があまりないこの小さな田舎町にとって、「ジュール・ヴェルヌの小説の舞台になった」というのは、またとないセールスポイントらしい。町には「ジュール・ヴェルヌ通り」なんてのまである。Webに載っている観光ガイドには、必ずと言っていいほど、この小説のことが書いてある。「ジュール・ヴェルヌの町」なんて紹介してあるページまであった。ヴェルヌの1作品の、しかも第1部だけに出てくるのにすぎないのに、あつかましいのではないか。

 この小説の始まりは1867年。皮肉なことに、この年「オーストリア帝国」は連邦国家「オーストリア・ハンガリー帝国」に改編される。ハンガリーはオーストリアと君主を共有し(皇帝がハンガリー王を兼ねる)、外交・軍事・通貨はオーストリアと共有するが、それ以外では独自の政府・議会を持ち、内政が自由にできるようになったのだ。しかもややこしいことに、ハンガリー王国は多民族国家で、領内には多数のクロアチア人、スロヴァキア人、ルーマニア人などが住んでいた。ハンガリー人はオーストリアのドイツ人から見たら相変わらず格下扱いだが、王国内の諸民族に対しては支配民族になったのだ。
 この状況の変化のせいか、アンテキルト博士は悪党二人組と銀行家への復讐には執念を燃やすが、事件の発端だったハンガリー独立の話は、第2部以降ではどこかに行ってしまっている。その件は誰も口に出さないのである。

 『アドリア海の復讐』は申し分なくおもしろい小説である。訳文も読みやすい。ただ、登場人物の名前については、ひとこと言いたくなる。この小説の主人公は、上にも書いたようにマーチャーシュ・サンドルフ。原作ではMathias Sandorf。普通に読めば「マティアス」となるところを、ハンガリー風に「マーチャーシュ」に変えているわけである。もっとも、本来のハンガリー語の綴りは"Matyas"だが。それはまだいい。彼と一緒に捕らえられる二人の同志の名は、ラディシュラシュ・ザトマール(Ladislas Zathmar)と、エチェーヌ・バートリ(Etienne Bathory)。
 「ラディシュラシュ」というのは、原綴を無理矢理ハンガリー語風に読んでいるだけで、そんな名前はハンガリーにはない。ハンガリーの名前にするなら、ラースロー(Laszlo)とするべきだし、そこまでしないなら、そのまま「ラディスラス」でいいと思うのだが。もう一人のエチェーヌ・バートリは、姓はハンガリーの名家のものだが、名前は完全にフランス語である。エチェーヌはハンガリー語だとイシュトヴァーン(Istvan)、さらにハンガリー風に名前を姓・名の順にすればイシュトヴァーン・バートリになる。実はハンガリーの歴史上に同姓同名の人物が何人もいる(そのうちの一人はポーランド王になった)。だがまあ、この小説の場合、エチェーヌ・バートリのままでいいと思うし、他の二人も、中途半端にハンガリー風の名前にしようとせずに、そのまま読んでいた方がましだった。なお、英訳だとエチェーヌ・バートリは英語化して"Stephen Bathory"になっている。

 この小説はSFの始祖ヴェルヌの作品だが、通常はSFではなく、冒険小説に分類されている。ではまったくSF性がないかというと、そうでもない。上の方にちらっと書いた、第2部以降で活躍する「謎の秘密兵器」である。その正体は、全鋼鉄製で、見た目は潜水艦そっくりの快速船、「エレクトリック1号」と「エレクトリック2号」。その名のとおり、動力は電気(ヴェルヌは本当に電気が好きだね)、速力は時速50キロを楽に超す。1882年の時点でこのスペックは明らかにオーバーテクノロジーである。他にも、アンテキルト博士が操る超能力としか思えない催眠術とか、彼がリビア沖の架空の島に築いたユートピア的都市とか、ちょっと(本当に、ちょっと、ではあるが)SF的な要素はある。だからこの小説を広い意味でSFと読んでも間違いではないだろう、とSF好きとしては思うのである。

 蛇足の蛇足ながら、メビウスの表紙イラストがいい。中身と全然関係ないけど。

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2008年6月23日 (月)

回転翼の天使

回転翼の天使/小川一水(ハルキ文庫,2000)
 今では野尻抱介と並び、日本を代表するハードSF作家としての地位を確立した感のある小川一水だが、これはそれ以前の、駆け出しの頃の作品。
 SF的要素はほとんどなく、弱小ヘリコプター会社を舞台にした、「新人OL奮闘物語」のバリエーションである。ライトノベルとソフトな冒険小説の中間的作品。
 通常のライトノベルのパターンだったら、ヒロインが自分でヘリコプターを操縦する話になるだろうが、この小説ではそんな非現実的な設定にはなってない。パイロットはパイロット、経営者は経営者、そしてフライトアテンダント志望だったヒロインの夏川伊吹は、あくまでアシスタントであり、その役割の中で、それぞれが限界を超えた活躍をしている。伊吹が入社直後の出動でいきなり倒壊寸前のビルからヘリコプターに飛び移ったり、「限界の超え方」は少々ライトノベル的ではあるが。それでも、リアルさからの極端な飛躍は決してしない。
 伊吹の就職した弱小航空会社が大手航空会社からさんざんな妨害を受け、伊吹自身も、その大手会社に就職したライバルから個人的ないやがらせを受けるという、会社と個人と二重のレベルでのいじめに耐える話が前半。
 「大企業の小企業いじめ」という鬱陶しい展開で進んできた物語が、後半に入ると一転、物語の舞台である塗羽市が大規模な地盤沈下に襲われ、パニック小説の様相を見せる。ここで当然、弱小ヘリコプター会社が獅子奮迅の活躍を見せるわけである。とはいえ、あくまで災害出動。「ブルーサンダー」や「エアーウルフ」みたいな話にはならない。どこまでも地味なのである。そこがこの話の長所の一つなのだ。
 冒頭に伏線があるとはいえ、話の持っていきかたがやや強引(人間関係の整理も含めて)な気はする。
 しかし、丁寧な取材や調査に基づいた情報の盛り込み方といい、自ら引いたリアルさの一線を超えない律儀さといい、この分野の小説としては十分なレベルに達しているのではないか。何といっても、作者25才の時の出版である。
 ただ、小川一水をSFから読み始めた人間にとっては、SFでないところだけが物足りないが。

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2007年10月15日 (月)

ヴェルヌの『南十字星』

南十字星/ジュール・ヴェルヌ(中公文庫,1973)
 邦訳されたジュール・ヴェルヌの長編の中で、『南十字星』は一番マイナーな作品のひとつだろう。
 翻訳は1973年に中公文庫から出ただけで、それも絶版になって久しい。数々あるヴェルヌの選集(ジュヴナイル版も含めて)にも全然収録されてないし、そんな本が出てること自体、知らない人も多いのではないだろうか。

 『南十字星』は南アフリカを舞台とした冒険小説である。原作の刊行は1884年。
 南アフリカのダイヤ鉱山主ワトキンズの下で働くフランス人化学者シプリアンが主人公。ヴェルヌの小説には珍しくヒロインがいる。ワトキンズの娘アリスである。
 シプリアンがワトキンズに対し、アリスとの結婚を申し込むところから話は始まる。アリスはシプリアンと相思相愛、化学を教えられ、「化学の本の酸素の章は三度も読み返しました」と口走るような化学オタクに洗脳されていたのである。
 が、誰もが予想できるように、シプリアンはワトキンズから「金もないフランス人のところに大事な娘をやれるかボケ、とっとと失せろ」(まあ、原文はもっと丁寧な言い方ですが)と追い返される。鉱山から追放されなかっただけ、まだましというものだろう。
 けんもほろろに結婚を断られたシプリアンだが、ヴェルヌの小説の主人公だけあって、あきらめが悪い上に発想が異常。一発逆転を狙って、人工ダイヤモンドの技術開発に取り組む。そしてとうとう史上最大級の巨大ダイヤの製造に成功してしまう。
 それを知った途端、ワトキンズはその技術を独り占めするため、娘をやろうと言い出す。困ったオヤジである。ここまでが約半分。
 「南十字星」というのは、このダイヤモンドにつけられた名前である(命名したのはアリス)。
 ところがこの「南十字星」、お披露目の席で行方不明になってしまい、姿をくらました使用人が怪しいと、南アフリカの未開の荒野を横断しての大追跡が始まる。追っ手はシプリアンの他、アリスとの結婚を狙う男3人。ワトキンズが「ダイヤを取り戻した者をアリスを結婚させる」と宣言したもので、全員が必死になる。まったく困ったオヤジである。
 それはともかく、本書後半の大部分を占めるこの追跡行が、一難去ってまた一難、危機の連続で、いかにもヴェルヌらしい冒険譚になっている。逆に言うと、ヴェルヌらしいのはこの部分くらい。
 結果をバラしてしまうと、シプリアン以外の3人は、熱病にやられたり象に叩きつぶされたりして悲惨な死をとげてしまい、生き残ったシプリアンも、追っていた男は見つけ出すものの、結局ダイヤは見つけられず、虚しく引き揚げてくる。
 残りページもわずかとなったここから、物語は急展開を見せる。「南十字星」にまつわる意外な真相と、とんでもないところからの再発見、ワトキンズのオヤジを見舞う悲劇...。
 ある意味、ドンデン返しの連続なのだが、実を言うとここまで来て、「今までの話は何だったのだ」と言いたくなってしまった。隠された事実が明らかになって、盛り上がるのならいいのだが、逆にヘナヘナとなるような展開なのである。

 結論を言ってしまうと、この小説、ヴェルヌにしてはあまり出来がいいと思えない。マイナー作品にとどまり続けているのは、そこらへんに理由があるのではないだろうか。
 ただ、この作品に優れた点があるとすれば、タイトルだろう。『南十字星』、ジュール・ヴェルヌ著。タイトルと著者名だけ聞くと、どれだけ面白い冒険小説なのかと、とめどなく想像力が刺激される。タイトルだけはすばらしい。実際読んでみると、大したことない話なので、よけいに評価が辛くなってしまうのである。
 あと、挿絵は表紙イラストも含め、原著のものをそのまま収録していて、原作が発行された時代の雰囲気を伝えてくれる。そんなわけで、話の中身は物足りなくても、「本」としては気に入っている。

Minamijuji_2

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2007年9月 5日 (水)

熱砂の三人

熱砂の三人/ウィルバー・スミス(文春文庫,1994)
 エチオピア戦争を舞台にした冒険小説。あるいは戦争小説。
 厳密にいうとエチオピア戦争というのは二つあって、この小説の舞台になっているのは、ファシスト・イタリアがエチオピアに侵攻した1935年から36年にかけての第二次エチオピア戦争。
 内藤陳がエッセイでベタ誉めしていたのと、エチオピア戦争という舞台設定が珍しいので読む気になった。(もっとも、内藤陳はたいていの作品はベタ誉めする、というか、そういう作品しか取り上げないのだが。)
 原題名は「Cry Wolf」で、翻訳題名とは全然違うのだが、『熱砂の三人』というのは、作品の雰囲気にはよく合っている。「三人」というのは、アメリカ人の技師ジェイク・バートンとイギリス人の元軍人ギャレス・スウェールズ、それにアメリカの美人ジャーナリスト、ヴィッキー・カンバーウェル。
 この三人がダルエスサラームで仕入れたボロ装甲車を、武器禁輸されているエチオピアにひそかに持ち込もうとする。ところがちょうどそこにイタリア軍の攻撃が始まって商売どころではなくなり、否応なく戦いにまきこまれていく、というのがメインストーリー。
 戦闘、陰謀、逃避行、過酷な自然、強大な敵(イタリア軍のこと)、それに(当然ながら)恋のさやあて――、冒険小説の要素をこれでもかとばかり揃えており、しかも長すぎず短すぎない。なかなかの佳品である。原著は1979年の作品だが、今でも版を変えて出版されており、海外でもかなり評価は高いらしい。
 話の方だが、三人だけの小さな義勇軍は奮戦するものの、歴史どおり、最後にはイタリア軍に対抗できず、エチオピアから脱出していくことになる。そりゃ、ボロ装甲車1台ではどうしようもないだろう。
 最後に女性記者をアメリカ人に譲り、死ぬとわかっていながら一人残って、脱出する飛行機を見送るギャレス・スウェールズが、かっこよすぎ。
 それにしても、この話に出てくるイタリア軍は強い。強すぎる。苦もなく敵を蹴散らしていく(相手はエチオピア軍だが)。こんなに強いイタリア軍が出てくる小説は、他にないのではないか。
 というわけで、「強いイタリア軍」を見たい人には特におすすめ。

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2007年6月 5日 (火)

クーンツの『ミッドナイト』

ミッドナイト/ディーン・R・クーンツ(文春文庫,1991)
 よくも悪くも、クーンツの小説の典型。
 メインのストーリーは単純である。
 世界征服をたくらむ悪のマッド・サイエンティスト、トマス・シャダックが改造人間を量産し、まずはカリフォルニアの小都市ムーンライト・コーヴを手に入れようとする。その邪悪な計画に対して、FBIの秘密捜査官が少数の仲間たちとともに敢然と立ち向かう。主人公たちは改造人間軍団から世界を救えるのか!?
 要するにそういう話。スーパーヒーローが出てこないことを除けば、ほとんど仮面ライダーの世界である。
 はっきりいって、話そのものは非常にばかばかしいというか、ライトノベルならともかく(アメリカにライトノベルなんてないか)、一般向け小説で、よくこんなアホな話を書くものだと感心してしまう。
 しかし、そこはクーンツ。人生に絶望したFBI捜査官サム・ブッカー、怪物に姉を殺されたドキュメンタリー映画作家テッサ・ジェーン・ロックランド、けなげで勇敢なオタク少女クリシー・フォスター、正義の覗き魔ハリー・タルボットといった、数少ない「善玉」たちが、敵だらけになった町の中で、次第に集まって来る話の運び方は実に巧み。もう見え透いたテクニックだと思いながら、一気に読んでしまう、というか読まされてしまう。
 だが、やはりクーンツらしく、ラストはお約束どおり。「これで終わりかよ!」と怒りたくなるらないだけましか。おまけに蛇足までついている。
 で、読み終わって、「またしょうもないものを読んでしまった……」と思う。
 実のところ、私はクーンツの小説をそんなに数多く読んでいるわけではないのだが、今まで読んだのは、だいたいどれもこんなパターンだった。
 この本も、いかにもディーン・R・クーンツらしい小説である。

 なんかけなしてばかりいるようだが、今まで読んだクーンツの小説がどれもそうだったように、出だしから中盤にかけての盛り上げ方は、本当にすごい。ラストがいくらしょぼくても、惰性で読み切ってしまうのである。

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