建築

2020年2月16日 (日)

名作文学に見る「家」

名作文学に見る「家」 謎とロマン編/小幡陽次郎、横島誠司(朝日文庫,1997)
 一見すると、文学作品における家や家族のあり方を論じた文芸評論みたいなタイトルだが、中身は全然違う。
 内外の小説の名作を取り上げ、そこに登場する家を、作中の描写から図面に起こすという趣向の本。マンガやアニメに出てくる家の想像間取り図というやつがあるが、あれの小説版のようなものである。
 各作品について、まず短いコラム形式で内容とそこに出てくる家について説明、さらに家を描写する文章を引用、引用文に挟まれて、メインとなる図面と「作図のポイント」が掲載されている。図は基本的に平面図だが、場合によっては立面図や透視図のこともある。
 文章は広告ディレクターの小幡陽次郎、作図は建築家の横島誠司が担当。

 内容は3部構成。
 第1部は「謎の「家」」。
 宮澤賢治「注文の多い料理店」の山猫軒、スティーヴンソン「ジーキル博士とハイド氏」からジーキル博士の家兼ハイド氏の家、江戸川乱歩「怪人二十面相」から二十面相の隠れ家など。全13作。この他にもポーの「モルグ街の殺人事件」、ドイル「まだらの紐」など西洋からはミステリの古典がいくつか入っている。一方日本の方はミステリは少なく、安部公房「砂の女」、村上春樹「羊をめぐる冒険」といった作品から一風変わった家が作図されている。
 第2部「海外文学に見る世界の「家」」。
 タイトルのとおり、すべて海外作品、全8作。オールコット「若草物語」のマーチ家の家、バルザック「谷間の百合」からモルソフ夫人の城館、バック「大地」から土の家、ブロンテ「嵐が丘」からヒースクリフの屋敷、O・ヘンリ「天窓のある部屋」からミス・リースンの住むアパート、 モーパッサン「女の一生」のジャンヌの家、スピリ「ハイジ」からアルムじいさんの山小屋、デフォー「ロビンソン漂流記」からロビンソン・クルーソーの手作りの家。
 ハイジの家はアニメでなじみのある人も多いだろうが、本書で図面化されているのも、似たような作りである。あまりに単純なのでアレンジのしようがないのだろう。同じくアニメ化された「若草物語」のマーチ家は、かなり作りが違うようである。
 第3部「名作文学を彩る「店」「集合住宅」など」。
 こちらは全部日本作品。山本周五郎「さぶ」からさぶと栄二の店、岡本かの子「家霊」からどじょう店「いのち」、川端康成「古都」の佐田千重子の家など。全10作。最後は山口瞳「江分利満氏の優雅な生活」の社宅。 作図はよくできているが、なんというか、普通の家ばかりで見取り図としての面白さには欠ける。ちょっと面白いのは森瑶子「渚のホテルにて」に出てくるホテル「鮫鰭亭」くらいか。しかしこの第3部は、「謎」でも「ロマン」でもないような気がする。

 なんにしても、なかなか面白い趣向の本。欲を言えば、もっと奇抜な建物が多ければよかったが。本書には姉妹編として「愛と家族編」も出ていて、そちらの方も興味を引かれるが、未読(というか、未入手)。

Meisakubungakunimiruie

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2018年10月 2日 (火)

都市計画の世界史

都市計画の世界史/日端康雄(講談社現代新書,2008)
 タイトルのとおり、「都市計画」の視点から語る、世界の都市の歴史。著者の大学での講義メモが元になっているそうだが、まさに講義内容をそのまま文章化したような感じ。

 内容は、古代から現代までを、7章に分けて記述。
 第1章「城壁の都市」は、古代から近代までの城壁都市を概説したもの。年代も幅広いが、地域的にも中国からヨーロッパにまでわたっている。ちょっと詰め込みすぎでは。
 第2章「都市施設と都市住居」は、古代ローマとイスラーム圏の都市住居が中心。この章もけっこう駆け足。
 第3章「格子割の都市」。いかにも「都市計画」の歴史らしく、古今東西の「格子割」都市プランについて述べる章。平城京、平安京も出てくる。
 第4章「バロックの都市」。ここから急に記述が詳しくなる。著者の専門領域は近代以降らしい。ただ、文章はかえって読みにくくなる。バロック都市はヴェルサイユやカールスルーエなどの宮殿都市に始まるが、ワシントンDC、ニューデリー、新京などの近代都市にもバロックのデザインが生きているとのこと。東京の日比谷官庁街にもバロック都市計画があったらしい。財源不足で実現しなかったが。
 第5章「社会改良主義の都市」は、前に紹介した『集合住宅 二〇世紀のユートピア』(2016年12月27日のエントリー)とテーマが重なる。19世紀以来の「理想都市」計画の流れを解説。
 第6章「近代都市計画制度の都市」は、都市の拡大に伴う公衆衛生や住環境の悪化問題に対応する、都市計画制度の歴史。ここが多分本書のメインになる章なのだろうが、非常に専門的。この本、著者の専門に近づけば近づくほど、専門用語が頻出し、しかも説明が少なくて読みづらくなる傾向がある。
 第7章「メトロポリスとメガロポリス」は、現代の都市計画について。都市圏の拡大により、非常に大きな範囲での都市計画が生まれてくる。東京にも、関東全体を範囲とする「多核多心構造」という壮大な構想があるらしい。どうやって実現するのか、具体策がわからないが…。

 素人にはなかなか知る機会のない都市計画の歴史を1冊にまとめている点は値打ちがある。図版が多いのもありがたい。ただ、いくら講義が元になっているとはいえ、ブログ主にとって文章としての面白さに欠けているのが、今ひとつなのだった。

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2016年12月27日 (火)

11月に読んだ本から

世界の名作を読む 海外文学講義/工藤庸子ほか(角川ソフィア文庫,2016)
 放送大学のラジオ科目「世界の名作を読む」の印刷教材を編集し直したもの。要するに大学の講義テキストの再編集版。
 近代以後の世界文学の名作を取り上げ、さまざまな視点からの「読み方」を講義する。名作といっても、長編もあれば短編もあり、非常に有名な作品もあれば、一般にはあまり知られていない作品もある。
 全16章、というか16講。メインの講師である工藤庸子がそのうち10講を担当していて、池内紀、柴田元幸、沼野充義の3人がゲスト講師的に2講ずつ、それぞれ専門とする分野を受け持っている。
 最初の1から4までは工藤庸子の担当で、1講目は近代小説の元祖、セルバンテス『ドン・キホーテ』。2は物語の原型に立ち戻って「昔話――シャルル・ペローとグリム兄弟」。同じ話のペロー版とグリム版を比較する。
 3はダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』で、物語の背後に植民地主義の影を読み取る(ポスト・コロニアル批評)。4は、本書で取り上げる作品の中で唯一の「恋愛小説」と著者が言う、シャーロット・ブロンテ『ジェイン・エア』。永遠の「婚活小説」でもあるのだそうだ。
 続く2講はロシア文学が専門の沼野充義の担当で、5がドストエフスキー『罪と罰』、6はチェーホフの「ワーニカ」など3つの短編。大長編と短編という対照的な作品を選んでいる。主に登場人物の精神に注目して内容を分析、両方ともに現代に通じるところがあるそうだ。
 7と8は再び工藤庸子に戻り、フローベール『ボヴァリー夫人』、同じくフローベールの短編「純な心」を取り上げる。フランス文学は工藤庸子の専門である。この2講では主として小説技法に注目しており、フランス語の文法や単語の選び方にまで言及するなど、さすがに専門家と思わせる。本書の中で一番学術的な雰囲気の部分かもしれない。
 9と10は柴田元幸の担当で、対象はアメリカ文学。9はハーマン・メルヴィル、『白鯨』ではなく、短編「書写人バートルビー」を取り上げている。バートルビーという特異なキャラクターの分析を通じて、この作品を「都市小説」と位置づける。10は、マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』。最大の魅力は語り口だそうだ。
 11はまた工藤庸子でフランス作品、ジュール・ヴェルヌ『八十日間世界一周』で、その「語りの技法」を解明していく。現在のエンタテインメントでは普通になっているさまざまな語りのテクニックをヴェルヌが駆使していたことがわかる。
 12と13は池内紀の担当でもちろんドイツ文学。両方ともカフカの短編。「変身」、そして「断食芸人」。新鮮な視点と意外な解釈を提示してくれるが、半分くらいが作品の引用である。
 最後の3講は工藤庸子担当。14「 女性と文学――ヴァージニア・ウルフとコレット」は作品論というより作家論、むしろフェミニズム批評と言った方がいいか。15はあのマルセル・プルースト『失われた時を求めて』。本書に出てくる作品の中で最長。この大長編から、記憶、小説の書き方、世相風俗、病と身体、死、愛などさまざまなトピックを抽出する。結局全体像はよくわからない。
 最後に出てくるのはイタロ・カルヴィーノ。しかし取り上げているのは、代表作とされる幻想的な長編ではなく、リアリズム的な3編の短編で、戦争体験や小説技法にからめた読解を展開している。

 各講の末尾には「読書案内」があり、取り上げられた作品の原本や関連書籍が紹介されている。しかし本書は読書案内ではないし、名作のあらすじ解説でもない。多様な「読み」を通じて読書体験を豊かにする可能性を示してくれる本なのである。少々細部にこだわりすぎと感じる人もいるかもしれないが。

Sekainomeisaku

集合住宅 二〇世紀のユートピア/松葉一清(ちくま新書,2016)
 建築の本だが、著者は建築学者というより建築評論家で、専門はポスト・モダニスムとのこと。本書も、普通のアパートやマンション建築の歴史を書いた本ではない。
 20世紀前半、労働者のための住みやすく、安価で美しい集合住宅、「労働者のユートピア」を建設しようという動きがヨーロッパを中心に起きていた。著者自らがその建築の実例を各地に訪ねながら、労働者ユートピアという思想の軌跡を辿る、建築史と社会思想史をミックスしたような本。
 内容は一応6章構成。

 第1章「軍艦島-ユートピア/ディストピア」はあの「軍艦島」探訪記。専門家による調査なので、崩れかけた建物の内部までかなり詳細に調査しているのだが、すさまじい荒廃ぶりが紹介される。後の章で取り上げられる同時代のヨーロッパの住宅がまだ現役なのに比べて、その落差はあまりに大きい。
 第2章「ノイエ・フランクフルト-銀行都市のもうひとつの顔」では、フランクフルトの郊外に1920年代から30年代にかけて建てられた集合住宅「ジードルンク」の実例を訪ねる。緑地の中に低層の集合住宅がゆったりと配置された「ジードルンク」は、「恐らく、二一世紀日本の低家賃の集合住宅で、これだけの性能の台所が組み込まれているところは皆無に近いだろう」と書かれているくらい、環境も設備も先進的なのだった。
 第3章「赤いウィーン-政治とユートピア」。舞台は変わってウィーン。やはり20年代から30年代にかけて建てられた労働者向け集合住宅は、数ブロックを専有する城壁のような巨大建造物。その代表的な建物は「カール・マルクス・ホフ」と名づけられている。日本ではハプスブルク家の都というイメージしかないところだが、これもウィーンの顔なのだ。
 第4章「アムステルダム-表現至上の建築家たちの思い」では、1910年代から20年代に建てられたアムステルダム郊外の集合住宅群が登場。建築家たちが独創性を競ったような個性的な集合住宅の数々が紹介される。機能性はあるが画一性が目立ったドイツやオーストリアの集合住宅とは対照的。
 第5章「「お値打ち住宅協会」のパリ」。ヨーロッパの最後はパリ。19世紀後半にまで遡るパリの集合住宅の数々を訪問。中でも「シテ・ナポレオン」(1853年)は、本書で取り上げたような「労働者のユートピア」を目指す集合住宅の最初の例だという。1930年代にはウィーンの「カール・マルクス・ホフ」そっくりの集合住宅も建てられている。集合住宅史の縮図のような建築群が残っているのだった。
 第6章「東京-帝都復興、ユートピアとスラム・クリアランス」。1920年代から30年代、ヨーロッパの動向を受けて日本でも「民衆住宅」の建築を目指す動きが起きた。その代表が「同潤会」住宅。建築としては当時の最先端だったが、日本の環境と当時の建築技術の限界で、長持ちさせることができなかった。同潤会のアパートは先年老朽化によりすべて取り壊されてしまった。軍艦島もそうだが、日本の集合住宅の最大の弱点が耐久性なのだった。
 エピローグ「語り継がれる集合住宅」。エピローグと言いながら、やたら長い。ほとんどの章より長い。実質第7章みたいなもの。本編では出てこなかったイギリスやアメリカの事例、そして博物館になったパリの巨大集合住宅、世界遺産になったベルリンの「ジードルンク」などを紹介しながら、今も生き続ける「労働者のユートピア」を語る。

 写真が豊富に掲載されているが、新書という制限上、どれも小さくて白黒なのが残念。こういう内容なら、カラー写真入りハードカバーでも読んでみたい。

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2016年2月27日 (土)

中華中毒

中華中毒 中国的空間の解剖学/村松伸(ちくま学芸文庫,2003)
 サブタイトルにあるとおり、「中国的空間」を時間と空間を超えて探求する本。
 探究の範囲は、空間的スケールでいうと、都市、宮殿、庭園、建物、室内と、マクロからミクロまで。時間的スパンでいうと、千年前の宋代から現代まで。さらにその探索は中国だけではなく、日本、韓国、ベトナム、沖縄と、東アジア全域に及ぶ。
 著者の専門は建築だが、美学に思想に歴史と、その視野もまた学問の領域を超えて広がっている。
 では、肝心の「中国的空間」とは何かというと、それがなかなか簡単には説明しづらい。というか、それがちょっとやそっとでは把握しきれないからこそ、この本1冊を費やしているわけである。

 内容は4部構成で、それぞれテーマも傾向も違う文章群から成り立っている。

 第I部「「香港ゴシック」と「加速都市」」は、このタイトルと同じ長めのエッセイ1編だけからなる。
 内容は、香港の簡単に言うと建築史みたいなもので、あのアンバランスなまでに細長い高層住宅群や、今はなき九龍城がどのようにしてできていったのかを語るのが本筋になっている。だが、そこに映画やゲームの話がからみ、「ブレードランナー」みたいな写真の数々も組み合わさって、独特の印象を生み出している。タイトルのとおり、文章のそのものがゴシックで、そして加速感がある。
 第II部「空間の儒教・風水・道教・共産主義」は、「中国的空間」の4つの異なる側面をテーマにした7編のエッセイからなる。
 まず、「儒教的空間」については、宮殿建築を扱った「紫禁城的洛可可世界」と「秩序の空間」の2編。「風水的空間」については、「私説・桃花源記」。「道教的空間」について、「盆景の宇宙」、「太湖石のフェティシズム」、「天才の玩具箱」の3編。「空間の共産主義」について、「天安門にゴジラが出現する日」。最後のは完全にパロディになっている。
 第III部は「中華中毒」。中国周辺の地域が、いかにして「中国的空間」に中毒していったかを現地ルポする4編。
「紫禁城マニア-フエ-」は、ベトナムの古都フエにある「紫禁城もどき」の宮殿について。「「文明」への門-ソウル」は、もうひとつの「紫禁城もどき」であるソウルの景福宮と二つの門――迎恩門と独立門について。「東夷のシノワズリ-江戸・琉球」は、日本の「中華趣味」と、琉球の和華折衷空間について。そして「胡虜たちの饗宴-熱河」は、清朝の皇帝たちが北京北方の熱河に築いた、中華と西洋と遊牧文化が入り混じる「避暑山荘」について。
 第VI部「朝顔一輪咲かせたい」は、清朝文人のガーデニング趣味について語る同タイトルのエッセイ1編。
 そして最後に付録みたいについている「混沌への飛翔」なる文章は、近未来の中国を舞台にしたSFだった。まったく、何が出てくるかわからない本である。

 というわけで、本書全体がなんだかカオスな印象なのだが、それこそが「中国的空間」の捉えどころのなさを語っているのかもしれない。

Chukachudoku

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2015年10月17日 (土)

建築探偵神出鬼没

建築探偵神出鬼没/藤森照信;増田彰久・写真(朝日文庫,1997)
 藤森照信と言えば、宙に浮かぶ茶室とか変な建築の設計で知られている人だが、建築家として売り出す以前にその名を有名にしたのが、<建築探偵>シリーズ。
 東京の街並み古い建築を探す『建築探偵の冒険・東京篇』が最初なのだが、本書はその人気を受けて(?)『週刊朝日』に連載された記事をまとめたもの。朝日文庫からは他に『建築探偵東奔西走』、『建築探偵雨天決行』、『建築探偵奇想天外』が出ていて、本書は3冊目にあたる。
 もっとも、その前に『建築探偵奇想天外』以外の3冊は同じタイトルで単行本で出版されていて、本書はその文庫版かというと単純にそういうわけではなく、単行本版の『建築探偵雨天決行』と『建築探偵奇想天外』の内容を再編集したものだそうだ。単行本2冊の中身をシャッフルして、同じタイトルだが違う内容の文庫2冊を作ったということだ。ややこしい。
 まあ別にこの本だけを読むのなら、そんなことは気にする必要はないのだが。

 内容は29の短い章に分かれている。連載29回分なのだろう。
 タイトルに「神出鬼没」と入っているだけあって、本書の中で著者は実にフットワーク軽く、あちこちに飛び回って古い洋風建築を訪ねている。どちらかというと、建築史の主流をちょっとはずれた、ユニークな建物が好みのようである。
 最初は長崎に大浦天主堂を訪ねたかと思うと、次の回ではそのルーツを求めて上海に飛び、2回にわたる探索の後、大浦天主堂の建築学上のルーツである聖ヨセフ教会を発見する。
 かと思うと、次の回では長崎に戻って、異端の建築家の作品で唯一国内に残る「旧香港上海銀行長崎支店」を紹介。解体計画を聞きつけて保存を訴える。だいたい、この本で紹介されているのは明治から昭和戦前の古い建物ばかりなので、その多くが解体の危機にさらされているのである。実際に今では取り壊されてしまっている建物もいくつかある。短い文章の中にも、現存しているうちに紹介しておきたいという切実な思いが感じられる。(旧香港上海銀行長崎支店は、その後重要文化財に指定されて無事残っている。)
 それはともかく、長崎の後はまたしても上海に飛んで「上海のキング」サッスーンの邸宅を紹介(実際には、取材としては1回行っただけなのだろうが)し、続いて、そのサッスーンがよく滞在したという軽井沢の万平ホテルを取り上げる。さらにその次はいきなり北京に飛んで、あの義和団事変の舞台にもなった旧日本公使館が現存していることを発見。
 ――といった具合に実に目まぐるしく舞台が移り変わる。それでいて、1回あたりの記事は、ほとんどが写真を除くと2ページから3ページくらいと、ごく短いにもかかわらず、単なる建築紹介にとどまることなく、一連のストーリーが浮かび上がってくるあたり、読みものとしてよくできている。
 この後どんな建築が出てくるかというと、印象的だったものだけあげてみると、京都の四条大橋の横に立っている目立つ洋館「東華菜館」とか、「日本派手建築界最後之華」と題されて特別増ページで紹介される「目黒雅叙園」とか。ベトナムに残るフランス植民地風建築とか、横浜の大倉山に立つプレ・ギリシャ風建築「旧大倉精神文化研究所」(名前からしてなんか怪しげである)とか、最後の方はなぜか「日本の美しい女子大学探訪」になったりする。
 ちなみに、全29回を場所別にまとめると次のとおり。
 東京(8回)、上海(3回)、京都(3回)、長崎(2回)、神戸(2回)、北京(2回)、軽井沢、善通寺、小樽、網走、ベトナム、金沢、横浜、猪苗代、岩国。外国が6回、北海道、九州、四国にも足を伸ばしている。神出鬼没の名にふさわしいと言うべきだろう。
 本書は見た目は普通のサイズの文庫だが、紙が厚いので200ページ足らず。その半分くらいは写真なので、文章だけだとすぐに読める。しかし内容は充実している。古本で文庫を買ってしまったが、こういう本はやはり判型の大きい本で読みたい。

Kentikutantei

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2012年9月27日 (木)

天下無双の建築学入門

天下無双の建築学入門/藤森照信(ちくま新書,2001)
 「建築探偵」として知られ、「高過庵」や「空飛ぶ泥舟」などの奇想天外な建築(というか、オブジェと呼びたい気も)を設計した藤森照信が、建築学を語る。
 正確には、語っているのは「建築学」ではなく、「建築」そのもの、特に「家」についてだが。普通の建築学的な、専門分野の話題はほとんど出てこない。いや、内容的には専門的なものを含んでいるのだが、それを誰でもわかる形に噛み砕いて語っている。
 本書は筑摩書房の雑誌『頓知』(1995年に創刊されたが1年足らずで休刊)と、大成建設の社内誌『たいせい』の連載をまとめたものだそうで、第I部「目からウロコ!? 古代の建築述」に13編、第II部「アッと驚く!! 住宅建築の技」26編、計39編の短いエッセイを収録している。
 第I部は石斧による材木の伐採から始まって、樹上住宅、神社建築、校倉造り、茅葺き屋根など、古代からの建築技術について、その実体を追っている。
 ギリシア神殿の石柱は木の柱を真似たものだとか、正倉院の校倉造りに温度湿度の調整機能があるというのはウソだとか、それこそタイトルどおり目からウロコの話が次々と出てくる。
 中には単に著者の好みを書いている部分もあるが。著者はとにかく竹材とか加工材のツルピカした質感が嫌いで、「書いてるうちにイカリがこみ上げてきた」と書くほどなのだ。そんな趣味や主観まる出しの部分もまた、本書の持ち味になっている。
 第II部では、日本の住宅を構成する要素をひとつひとつ取り出して考察。建材、戸、床、畳、廊下、天井、証明、窓、台所、階段、縁の下――等々。土足、暖房、冷房、風水、家相、なんてテーマも出てくる。
 タイトルどおりに「アッと驚く」かどうかはともかく、目新しい知識や考えたこともなかったような見解が随所に散りばめられている。
 例えば――、
「おそらく人類史のいつの時点でか、調理と食事とを一緒にすることが野蛮視されるようになったのだ。/それを一体どうして戦後民主主義国の国策住宅供給組織たる住宅公団が率先してやることになったのか」(「ダイニング・キッチンの知られざる過去」p.153)とか、「日本人の体と心のなかには、水平に動くのはいいが垂直は不自然というヘンな感覚が澄んだ水のように溜まっているように思われてならない」(「水平か垂直か、それが問題だ」p.160)とか、「建築は懐かしさの最大の器なのである」(「人は何故建物を求めるのか?」p.232)とか。
「おそらく世界の古今の住宅で、現在の日本の住まいほど散らかってる例はないのではないか」(「室内光景は人生の大事」p.211)という鋭い指摘もある。これはまあ、多くの人が薄々思っていることではあるが…。
 とにかくどこを読んでも何か発見があるというのは、教養新書としてのレベルの高さを示すものだろう。
 「入門」と銘打つわりにあまり体系的ではないが、その分どこからでも気軽に読める。短いエッセイのひとつひとつに、建築とか住宅とかいったものに対する根本的な問題の問いかけがある。本書を読んでも、「建築学」に詳しくはならないだろうが、「家」について、あまり世間では知られてないような知識の数々を身につけるとともに、より深く考えるようになるのだ。
 それにしても、社内誌でひそかにこんな面白いものを連載していたとは、大成建設…。

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2011年12月23日 (金)

ロウソクと蛍光灯

ロウソクと蛍光灯 照明の発達からさぐる快適性/乾正雄(祥伝社新書,2006)
 身近に当たり前にあるものについて、普通の人はあまり深く考えたりしない。
 例えば、本書のテーマである照明。蛍光灯やLED電球を買う時にその値段や耐用年数について考えることはあっても、そもそも照明とは人類にとってどういう意味を持つもので、歴史的にどのような発展を遂げてきたのか、そんなことに興味を抱く人間はあまりいないだろう。
 そんな、人がなかなか考えないようなテーマについて書かれたのが本書。著者は環境工学の専門家。
 「まえがき」で著者自身も、「本書は、私の知るかぎり、照明をテーマとして取り上げた日本で最初の新書である」と書いている。照明に照明を当てた数少ない本なのだ。
 内容は5章に分かれている。
 第1章は近代照明の前史で、太古から産業革命以前までの、ヨーロッパと日本を中心とした照明の歴史。
 近代以前の照明は暖房と一体化していた。すなわち、囲炉裏や暖炉の「火」そのもの。暖房と分離した照明専用の火は、ロウソクや油を使った照明として発達したが、どちらかというと贅沢品だった。
 第2章では産業革命とともに起きた「照明の革命」が語られる。
 産業革命が起きたのは「寒くて暗い国」、イギリスなどの北ヨーロッパ。暖房と照明とが未分化な文化の中で、オイルランプからガス灯、アーク灯、電球、蛍光灯と、近代の照明は他の分野と比べるとゆっくりと進歩した。生産技術や交通機関のように飛躍的な効率化やスピードアップを目指して進歩してきたのではない。徐々に明るく、安定した光を実現してきた。
 例えば、欧米の家庭では蛍光灯の普及は遅かった。蛍光灯は明るかったが、電球に比べると色の再現性に劣るために敬遠されたのだ。また、照明器具のデザインも重視された。照明が、単に「より明るく」ではなく「より快適に」を求めて発達してきたことがうかがえる。
 著者の言葉によれば、「さいわい、照明の革命はおだやかに進んだ」のだ。
 照明は明るければそれでいいというものではない、という著者の基本的な主張がこのへんで見てとれる。
 著者によると、その点、日本は欧米に比べると照明の外見や雰囲気にあまりこだわらず、明るさだけを追求する(著者の観点によれば、あまりよくない)傾向があるという。
 第3章「照明採光技法の発達」と第4章「近代以降のビル様式の流れと照明の変遷」は、個別の照明器具ではなく、建物全体の採光や照明の技術、様式の発展について述べている。著者の専門である建築や環境工学の領域に属する内容。やや専門的だが、本書のキーワードとも言える「快適性」の概念がより詳しく解説されている。
 第5章は、本書の結論として、「照明の後戻り」について述べる。著者の重視する生活の「快適性」(より正確には、「快適性」の三つのレベルの中の「カンファト(心地よさ)」)は、技術の発展やデザインの革新ではもたらされない。むしろ適度な暗さを伴うスローライフの照明に、著者は真の「カンファト」を見いだす。
 で、少しでもいいから、生活の中の照明の「後戻り」を、蛍光灯ばかりでなく電球も復活させよう――というのが、明るさばかりを重視する日本人に向けての著者の提言。
 工学専門家による照明技術の発達史かと思っていると、最後はスローライフへの誘い、という展開は少々意外だった。でも帯を見返すと、「スローライフの要は「照明」にあり!(中略)明るさ至上主義の日本を見直す画期的考察!」と、最初から書いてあったのだった。
 著者の提言を取り入れるかどうかはとにかく、照明というものを、今までより少しは考えるきっかけになるのは確か。

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2011年8月31日 (水)

このタワーがすごい!

このタワーがすごい! 東京スカイツリーから「太陽の塔」まで/鈴木重美(中公新書ラクレ,2011)
 世の中にはタワー(塔)が好きな人が一定数いる。本書の著者などその典型で、自ら「タワー評論家」を名乗るほどである。
 そもそもタワーとは何か。「実は、われわれタワーマニアの間でも常に熱い議論が交わされ、オタク度が爆発するデリケートなカテゴリーこそ、このタワーの定義なのである」と著者がいうとおり、その定義はマニアの数だけあるらしい。高さ、形状、建築目的、展望台があるかどうか、登れるかどうか、etc。
 例えば、一般的に、高層ビルは例え展望台があったとしても、タワーには含めないらしい。寺院の五重塔なども、「タワー」というにはどうかという人が多いだろう。中には、「階段で上がるものはタワーではない」という定義をする人までいる。
 本書の著者のユニークなところは、とにかく「塔みたいな形をした建造物」は、全部タワーだとしている点だろう。 

登れなくてもかまわない。ビルだろうが、塔だろうが、鐘楼だろうが、過剰なエネルギーによって、私を惑わせる存在がタワーなのである。(p.23)

 要するに著者にとってタワーとは、何より鑑賞の対象なのだ。
 東寺や法隆寺など、京都・奈良の古寺の五重塔ももちろん含まれるし、横浜ランドマークタワーみたいなビルもタワー。織田信長の安土城天主まで、失われた「異形の塔」として登場する。
 中でも、鑑賞用の塔の極致というべき「太陽の塔」などは、「塔史に燦然と輝く塔が戦後の大阪に現れる」と絶賛されている。著者にとって理想の塔の一つなのだということが、読んでいて伝わってくる。しかし、「登れないものはタワーではない」というタワーマニアにとっては、「太陽の塔」はタワーの範疇に入らないだろう。
 一方で、そんな著者が本書で取り上げるタワーの中には、定義にうるさいマニアでなくても、「これがタワー?」と疑問符が浮かぶものがいくつもある。
 横浜駅前の「風の塔」(送風口)、日本最古の印刷物が納められていた「百万塔」(高さ21センチのミニチュア塔)、沖縄の「ひめゆりの塔」(石碑)、大阪の「舞洲清掃工場焼却塔」(ゴミ焼却場の煙突?)、駒沢給水塔(給水塔)…。さらには、光の束で作られた仮想の塔「イマジン・ピース・タワー」まで、著者の「塔マニア」ぶりは際限なくその対象を広げていく。
 なお、給水塔については、「給水塔マニア」という別ジャンルがちゃんとあるとのこと。当然ながら、五重塔、三重塔などの「仏塔マニア」もいる。
 その全てを含めて、この「塔の形をしていればなんでもいい」という恐るべき無節操さこそが、本書を面白くしている。高さ21センチの百万塔も、623メートルの東京スカイツリーも、本書の中では等しく「塔」なのだ。「このタワーがすごい!」というより、「このタワーマニアぶりがすごい!」というべき本である。

このタワーがすごい! - スカイツリーから「太陽の塔」まで (中公新書ラクレ)

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2011年8月27日 (土)

10宅論

10宅論 10種類の日本人が住む10種類の住宅/研吾(ちくま文庫,1990)
 「住まいは人を表す」と言うが、本書に出てくる住宅は、文字どおり、そこに住む人間の象徴である。住宅の類型がそこに住む人間の生き方や価値観を示している有様を、あるいは、人が自分に合わせて住宅を造る有様を解明した建築エッセイ。
 ――というのは建前で、実際はこれが建築論のパロディであることは、すぐにわかる。だいいち、序章からして、「分類ゲームの基礎」と題している。日本の住宅を10の類型に無理やり分類して、家と人との関係性を無理やりこじつけるという「ゲーム」なのである。
 文庫版あとがきで、著者は「時間がたってみて、自分でもはじめて気づいた事だけれども、この本は一種のでっちあげであり、いわばフィクションであり、日本の住宅事情とか、住宅をめぐる現実とは一切関係がない」などと書いているが、読者が最初の数ページでわかることに、今さら気づいたなんて、1ミリも信じられない。初めから何もかも意図していたに決まっているのだ。
 要は、本書がたびたび引き合いに出している、これも80年代に話題になった『金魂巻』と同じようなものと考えればいいのである。というわけで、これはそういう本なのだという前提で、その「ゲーム」といういか「でっちあげ」というか「フィクション」を楽しむために読んだ。

 著者が挙げる10種類の住宅、というか10種類の人々というのは、次のとおり。
1.「ワンルームマンション派」:ビジネスホテルみたいな狭いワンルームマンションに住む(主に)若者。
2.「清里ペンション派」:本書が出版された頃に一世を風靡した清里のペンションみたいな、メルヘンチックな家に住む家族。
3.「カフェバー派」:これも本書が出版された頃に全盛期だったカフェバーの内装みたいな部屋に住む都会派の人々。
4.「ハビタ派」:HABITATの輸入家具に代表される合理的なデザインの内装を好む人々。
5.「アーキテクト派」:建築家がデザインした家に住む人々。「渡辺篤史の建もの探訪」に出てくる家とか、ほとんどこれになる。
6.「住宅展示場派」:住宅展示場で選んだ家に住む人々。
7.「建売住宅派」:文字どおり。
8.「クラブ派」:高級クラブみたいな内装の家に住む成金。
9.「料亭派」:料亭みたいな造りの和風住宅に住む、多少上品な成金。
10.「歴史的家屋派」:家を買ったり建てたりしない人々。先祖から受け継いだ屋敷に住む、本当の上流階級。日本ではその存在はほとんど幻に近い。

 最初に本書の単行本が出版されたのは1986年で、記述の中にもバブル経済時代の香りが漂っている。「清里ペンション」とか、「カフェバー」とか、今聞くと「そういう時代もあったねえ」と思うしかないようものもあるし。また、4に出てくるハビタ(HABITAT)は、当時流行っていたイギリスの家具メーカーだが、先日倒産したとのニュースが流れていた。諸行無常である。もし今書かれたとしたら、「注文住宅派」とか、「輸入住宅派」とか、「町屋派」とか出てきたかもしれない。
 そういうわけで、今では古くなってしまった要素が多分にあるにしても、この本のコンセプトは斬新だし、何より楽しめる。各「派」ごとに、いかにも学術的な文章による分析と、代表的な間取り図と、プロフィール表と「表徴の仕組み」表がついている。当時流行した現代思想やニューアカデミズムのパロディにもなっているような気がする。80年代の日本文化の一面を伝える本としても貴重である。

 本書を参考に、知人の家を適当な「派」に分類して、その仮想プロフィールを作ったりしてみるのも楽しいかもしれない(表には出さない方がよさそうだが)。

10宅論―10種類の日本人が住む10種類の住宅 (ちくま文庫)

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2011年7月 3日 (日)

美しい都市・醜い都市

美しい都市・醜い都市 現代景観論/五十嵐太郎(中公新書ラクレ,2006)
 東京・日本橋の上を通っている首都高を撤去し、かつての景観を取り戻そうという議論がある。2006年に当時の小泉首相が言い出したことだ。(すっかり忘れていたが、5年前はまだ小泉純一郎が首相だったのだ。)
 膨大な予算のかかるこの構想が実現する見込みはともかく、日本橋の上を完全に塞いでいる首都高が「景観を損ねている」という点については、その頃から多くの人が同意していたようだ。
 本書の表紙をめくると、いきなり、その「日本橋の上を走る首都高」の写真が出てくる。空を奪われた川の光景は、見るからに圧迫感と閉塞感を与え、「撤去論者」たちの主張の正しさを裏づけているようにも見える…。

 「日本橋撤去構想」が打ち出されたまさにその年に、本書は出版されている。「日本橋の景観」に関する論争が、出版の契機の一つとなっていたことは簡単に推測できる。
 12章からなる本文は、元は建築や評論の雑誌にバラバラに掲載された論説。掲載誌は、2008年に終刊になった建築誌『10+1』が一番多くて5編。他は『新建築』、『論座』、『図書新聞』、『造景』、『都市問題』など、いかにもな雑誌ばかりだが、なぜかスタジオジブリの広報誌『熱風』に掲載された論説もある。だから1編ごとの独立性が強く、一見バラバラにも見えるが、全体を通して見ると著者の考えが見えてくる。
 その中でも、日本橋問題を正面から論じたのが、第3章『日本橋上の首都高速移設を疑う』(元は『論座』に掲載)。タイトルからわかるように、著者は首都高の移設を疑問視している。というか、日本橋の上の首都高が「景観を損ねている」という考え方そのものに疑問を呈している。
 日本橋の景観を復活させるといっても、それはいつの時点の日本橋なのか。そもそも、高速道路は美しくないのか。「日本橋から江戸橋にかけての首都高速の複雑な分岐と曲線は、魅力的な造形でさえある」と、著者は言う。現代的な都市景観が醜く、古い時代の姿を残した都市景観が美しい、という固定観念をはっきり否定し、首都高や東京タワーなど高度技術の産物を「テクノスケープ」として評価する立場に立っているのだ。口絵の写真は「この景観のどこが悪いのか」という著者の主張であったらしい。
 あるいは、景観の美しさを求める志向そのものにも、著者は疑問を投げかける。例えば第2章では、その当時の国をあげての「美しい景観づくり」の取り組みを、皮肉たっぷりに批判している。
 また、第11章で著者が語っているのは、「景観論者にとってのユートピア」を訪問した紀行。「無秩序な広告やどぎつい看板がない。騒音がない。電信柱がない。高架の首都高速がない。(中略)不良がいない。浮浪者がいない。汚い店がない。風俗を乱すものがない」。都市の表面的な「景観」と「秩序」だけを追い求め、その果てに極端なまでに浄化され、コントロールされた世界が実現している。その都市の名は、平壌である。見苦しいものをすべて廃するという思想がどこに行き着くかを、グロテスクに見せつけている。
 他にも、東京の色彩論、押井守の描く未来都市論、ディズニーランド論など、著者の展開する景観論は変幻自在、次の章ではどんな議論が展開されるのか、予測ができない。(上に書いたように、初出誌がバラバラ、というのもあるだろうが)。それでいて、根底には一貫した主張がある。「都市の美醜を判断する観点は一つではない」。
 著者によれば、「美術史や建築史の素養があれば、美と醜の関係がそれほど単純なものではないことは周知の事実である」そうだが、素人が本書を読めば、都市の美醜というものに関するものの見方を、根底から考え直さざるを得なくなるだろう。

 ところで、随所にサブカルチャー的な視点が混じっていて、未来都市が好きそうな本書の文章は、どこかで読んだような気がすると思ったら、『ぼくらが夢見た未来都市』(2010年10月11日のエントリー)の著者の一人だった。

美しい都市・醜い都市―現代景観論 (中公新書ラクレ)

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