奇想

2020年6月23日 (火)

刻丫卵(こくあらん)

刻丫卵/東海洋士(講談社ノベルス,2001)
 聞いたことのない謎の作家による謎の小説。
 いや、実は作者は別に謎でもなんでもなく、本編の主人公、祝座[のりくら]岳雄と同じく放送作家だったとのこと。著者と交友のあった竹本健治による解説に、そのプロフィールについて書いてある。
 さらにネットでいろいろと情報を探してみると、著者はこの本が出た翌年、2002年に死んだこと、新井素子がデビューしたのと同じ『奇想天外』新人賞に応募していたこと(二次予選まで通過していた)、死後に『東海洋士追悼集 やさしい吸血鬼』が出ていて、新井素子や竹本健治などが寄稿していること――などがわかった。
 東海洋士というのは本名で、享年47歳だったとのこと。小説は結局、これ一冊だったようだ。

 それはとにかく、この小説。なんだかわけがわからない。ミステリなのか、幻想小説なのか、一種のSFなのか。
 主人公祝座は、旧友の六囲[むめぐり]立蔵から久しぶりに連絡を受ける。正体されて六囲の家に行ってみると、見せられたのは卵型の物体。表面には時計のような仕掛けがいくつも取り付けられていて、一種の機械らしい。収められていた箱には「刻丫卵」[こくあらん]の文字。そして島原の乱にゆかりの山田右衛門作という人名も。
 六囲が「刻卵」と呼ぶこの機械は彼の家に伝わるものだという。ただ、ひとつ足りない部品が人手にわたっていて、それを取り戻して来てほしいと六囲は頼むのだった。
 祝座は詐欺同然の手段で足りない部品――十字型の時計が六囲のところに戻るように仕組む。そして完全形となった刻卵は時を刻み始めるが、ただそれだけで何も起こらない。だが、六囲が席をはずした時、祝座は刻卵が異様な変形を遂げるのを見る。
 現実か夢かわからないこの場面は、本編中唯一の幻想的場面なのだが、すさまじい迫力に満ちている。結局、それが何だったのか、最後までわからないのだが。
 その異常体験の後、祝座と六囲は刻卵を巡っていさかいを始め、二人は喧嘩別れする。
 その後まもなく、祝座は六囲の妻から、彼が急死したことを知らされる。刻卵は呪いの物体だったのか――。結局何もわからないまま話は終わる。
 実際の物語は、半分くらいが祝座と六囲の会話から成り立っていて、しかも二人の視点がめまぐるしく移り変わる。小説としては禁じ手をあえてやっていて、違和感が半端ない。この作品の奇妙な印象は、これも一因。
 そして以上のようなメインストーリーの合間に、漢数字の章がはさまれていて、「刻丫卵」の由来にまつわる島原の乱での出来事が語られる。それが本当にあったことなのかどうかは不明のまま。さらに、刻卵の部品を取り戻すために祝座が演じた芝居も、同じく漢数字の章で語られているのだ。どういうことなのか。読んでいる者は混乱するばかり。
 解説で竹本健治が種明かしというか、彼自身の解釈を述べている。漢数字の章は祝座が書いた文章。そして他のアラビア数字の章は、刻卵が語っているのだと。
 なんにしても、読者を幻惑に導く怪作である。この人にはもっと作品を書いてもらいたかった気もする。

Kokuaran

 

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2019年11月 5日 (火)

バーナム博物館

バーナム博物館/スティーヴン・ミルハウザー;柴田元幸訳(白水Uブックス,2002)
 本ブログで2回目の登場、ミルハウザーの短編集。前回は『イン・ザ・ペニー・アーケード』を取り上げたが(2016年1月24日のエントリー)、どちらかというと本書の方がより奇想色が強い気がする。

 収録作は10編。
「シンバッド第八の航海」は、おなじみシンドバットの冒険物語がモチーフだが、複雑な仕掛けが施されている。自らの冒険を語るシンドバット、その物語を語るシェヘラザード、さらにその物語を含む「千夜一夜物語」の翻訳の歴史…。何重にも積み重ねられた物語の迷宮が錯綜する。
「ロバート・ヘレンディーンの発明」は、自らの想像力だけを使って、隅から隅までリアルな、一人の女性を創造する青年の話。これは「発明」なのか、それとも「妄想」か。
「アリスは、落ちながら」。ウサギを追って穴に落ちたアリスが、無限に続く縦穴を、ゆっくりと、いつまでも落ち続ける。落ち続けながら、アリスのとりとめもない考えごともいつまでも続く。
「青いカーテンの向こうで」は、映画館の地下に迷い込んだ少年が、映画の「出演者」たちの集う部屋に入ってしまうという映画ファンタジー。
「探偵ゲーム」も、物語が重層化されている。探偵ゲームに興じるジェイコブ、マリアン、デイヴィッドの3人のきょうだいと、ジェイコブのガールフレンド、スーザンという四人の内面の語りからなる現実のレベルの話と、ゲーム世界の中で進行するミス・スカーレット、ピーコック夫人、グリーン氏、マスタード大佐といった登場人物たちの世界の話が平行する。ゲームの登場人物たちは、ゲームの進行と関係なく勝手に動いているように描かれている。
「セピア色の絵葉書」。孤独な男が古本屋で買った一枚の絵葉書。そこに写っている男と女の姿に、男はさまざまな想像(妄想)を巡らせるという、比較的リアルな話。
「バーナム博物館」は、収録作中で最も奇想に満ちた作品。本物と偽物、実在物と非実在物、すべてのものが展示されているバーナム博物館。その建物には果てがなく、無数の人々が内部に住みついている。それ自体ひとつの世界であるような博物館の案内記。
「クラシック・コミックス #1」は、1冊のコミック・ブックを表紙から最後のコマまで、詳細に描写した作品。コミックが語っているのは、夜の街をさまよう一人の青年の物語。解説によればT・S・エリオットの詩が元になっているというが、元の作品を知らないので読んでもよくわからない。
「雨」は掌編。雨に打たれながら家路をたどる男の話。雨はどんどんひどくなり、家に着く前に男は溶けて流れてなくなってしまう。
「幻影師、アイゼンハイム」。最後は比較的長い中編で、19世紀末から20世紀初めにかけて、ウィーンで名を馳せた大奇術師アイゼンハイムの一代記。彼が最後に辿りついた究極の奇術は、あまりにも途方もないものだったため、アイゼンハイムは世間を騒がせた罪で警察に逮捕されそうになる。その前に彼の選んだ運命は――。ここに描かれているのは、明らかに奇術ではなく、本物の魔術。世界幻想文学大賞短編賞を受賞している。

 マイベストは、やはり「幻影師、アイゼンハイム」か。「バーナム博物館」も捨てがたい。

 

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2019年10月16日 (水)

カブキの日

カブキの日/小林恭二(新潮文庫,2002)
 単行本は1998年刊。世紀末に生まれた奇想天外な歌舞伎小説。というか、歌舞伎ファンタジー。あるいは、「反・歌舞伎」小説。
 舞台は、歌舞伎が隆盛を極めるもう一つの日本。つまり平行世界の物語。
 両親といっしょに歌舞伎の聖地世界座へやってきた少女蕪は、案内の若衆から1枚のメモをひそかに渡される。そこには「準備はいいか?」とだけ書かれていた。そこから、無限に続くように見える世界座の中を巡る蕪の冒険が始まる。
 一方で、歌舞伎界を二分する俳優たちの抗争がある。一方は坂東京右衛門を旗頭とする若手俳優たちの反主流・改革派。もう一方は、歌舞伎界の女帝とも言われる女形水木あやめたちの名門主流派。
 その年、もっとも重要な顔見世興行のトリの役が、坂東京右衛門たち反主流派に割り当てられていた。改革派を陥れるための罠ではないかと疑いながら、京右衛門はこの大役に挑む。
 一方水木あやめは、「京右衛門さんは明日から男の腐ったのになって生きてゆくの」と不穏なことをうそぶく。果たして、歌舞伎界の至宝、顔見世興行に欠かせない名刀名古屋丸が、開演の直前に京右衛門の楽屋から不可解な状況で紛失してしまうのだった。
 そんな陰謀渦巻く世界座の中で蕪の果たす役割は何なのか。若衆月彦に導かれ、男装した蕪は世界座の中を進んで行く。死んだはずの祖父、河井世之介と会うために――。
 だが世界座の奇妙な空間はどこまでも続き、世之介はなかなか出てこない。蕪と月彦の前には次々と奇妙な人物やら妖怪やらが現れ、不可解な出来事が起こり、試練につぐ試練をくぐらなければならない。そんな中で蕪は次第にカブキ踊りの才能を開花させていく。
 クライマックスは、修羅場と化した京右衛門の舞台。京右衛門一派と水木あやめ一派、それぞれの贔屓の観客たちの間で大乱闘が始まる。そこへ伝説の名優坂田山左衛門と月彦と蕪が現れる。そして伝説が始まる――。
 というような話で、最後はカブキを超えてなんだかわからない世界に行ってしまった。
 この小説の最大の読みどころは、クライマックスの舞台よりもむしろ、無限の迷路と化した世界座内部のわけのわからなさにあるような気がする。それは、この作品の後間もなくデビューする、森見登美彦の迷宮世界を予言していたようでもある。

Kabukinohi

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2019年4月 2日 (火)

奇商クラブ

奇商クラブ/G・K・チェスタトン;福田恆存(創元推理文庫,1977)
 チェスタトンの小説は、前に一度、光文社古典新訳文庫から出た『木曜日だった男』を紹介している(2009年12月2日のエントリー)。本書は新訳ではなく、40年以上前に出た旧訳で、原作そのものは第二次世界大戦前に書かれたものだが、古さは感じさせない。それにしても、訳者が大物なのに驚き。
 前の『木曜日だった男』もそうだったが、本書もミステリと呼ぶにはあまりに奇妙な小説である。内容は連作「奇商クラブ」と二つの中編からなる。
 まず「奇商クラブ」。6編からなる連作短編で、本書の約半分を占める。1905年発表の作品。
 法廷で発狂したとしか思えない言動を見せて辞職した元裁判官のバジル・グラントが主人公。語り手はその友人スウィンバーン(この当時同名の詩人がいたが、関係があるのかどうかわからない)。もう一人、バジルの弟で自称探偵のルパートが、バジルの引き立て役として登場する。
 きちがいじみているが最後は真相にたどりつくバジルと、常識家で論理的だがいつも失敗するルパートという組み合わせなのだ。
 全体のタイトルになっている「奇商クラブ」というのは、まったく新しい生業の方法を考え出した者だけが会員になれる秘密クラブで、その会員資格に該当するような変な商売が各編に登場する。
 だが、このクラブそのものは、最初と最後のエピソードにちょっと登場するだけ。物語の大半は、語り手とバジル・グラントが奇妙な事件や事態や人物に遭遇し、その真相が「変な商売」に関係することが最後にわかるというパターン。
 どの話も超自然的要素はないのだが、とても現実に起きるとは思えないようなことばかりで、奇人の奇行を奇人が推理して、しかもきわめて論理的に真相を解明するという、いかにもチェスタトンらしい話。
 他の二つの中編は1922年発行の作品集に収録されていたもの。内容には特につながりはない。
「背信の塔」は、ある修道院の周辺で起きる殺人事件と宝石盗難事件を描いた中編。主人公は、物語の冒頭で森の中を後ろ向きに歩くという奇行をいきなり見せる青年なのだが、印象的な登場のわりにはあまり活躍しない。結末はチェスタトン作品によくある長々とした説明でなく、実に簡潔で印象的な終わり方。
「驕りの樹」は、ある海岸の村が舞台。海沿いの崖に生えている異国から来た樹木の忌まわしい伝説の物語。村の領主とも言うべき郷士がある夜その樹のところまで行って失踪する。やがて死体らしきものが見つかるのだが、これは樹の呪いなのか、殺人なのか。誰が犯人で誰が探偵なのかはっきりしないまま錯綜した物語が展開する。最後は一見ハッピーエンド風の結末ながら、どこか苦い雰囲気が漂っている。

 

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2018年5月 1日 (火)

ポドロ島

ポドロ島/L・P・ハートリイ;今本渉訳(KAWADE MYSTERY,2008)
 この短編集を、どういうジャンルに入れたらいいものか。ホラー? 幻想小説? 奇想小説? ミステリ? どれもぴったりしないし、そのどれでもあるような気もする。
 つまりは、ハートリイという作家は独自の世界を創っているということだろう。どのジャンルに入れようとしても何かはみ出してしまう、つかみどころのない雰囲気は、ジョン・コリアやコッパードと共通するものを感じる。
 ともあれ、そんな変な話が本書には12編収録されている。

「ポドロ島」:不穏な気配の漂うポドロ島を訪れる男女。島で見かけた猫を殺そうとしたアンジェラは、島にひそむ「何か」に殺される。何がいて、何があったのか、最後までわからない。
「動く棺桶」:棺桶の収集家マントは、世にも貴重な、自分で動く棺桶を手に入れる。人間を二つ折りにして内部に取り込み、穴を掘って自分を埋葬する棺桶。結末は予想されたとおりだが、なんとも人を食った終わり方。
「足から先に」:幽霊の出る屋敷の話。誰かに招き入れられないと中に入れない女の幽霊。客の一人がその幽霊を入れてしまい、主人は病に倒れる。
「持ち主の交代」:よくわからない話。自分の家の新しい持ち主を夢想するアーネスト。夢想は狂気に変わり、アーネストは謎の失踪を遂げる――らしい。
「思いつき」:散歩の途中で教会に立ち寄るグリーンストリーム。病的なまでの罪の意識に苦しめられ、最後は死に至る。
「島」:またも島の話。サンタンデル夫人に執着する「私」が訪れた名もない島。そこで繰り広げられる、嫉妬に狂った夫の狂気のドラマ。
「夜の怪」:夜警に話しかける謎の男。会話の中で次第に夜警は死に誘われる。男の正体は最後までわからないが、「察するに、この男、どうやら彼方に棲むものだろう」という最後の文章は余計な気が。
「毒壜」:収録作品中一番長い。蝶の蒐集を趣味とするジミー・リントールは、知人のヴァーデューの城に招かれる。そこで待っていたのは、ヴァーデュー家の財産を巡る暗闘と、ひそかな犯罪計画。ジミーにとってヴァーデュー城そのものが毒壜のようなものだった。
「合図」:5ページの短い作品。夜、幼い妹の部屋から聞こえる、壁を叩く音。妹は死にかけているのか。最後までわからないまま。
「W・S」:作家ウォルター・ストリーターを脅かす、「W・S」からの手紙。差し出しの場所は次第に彼の家に近づいてきていた。そして、やって来た人物の正体が、一気に物語を非現実の領域に持って行く。
「パンパス草の茂み」;トマスは庭に生えているパンパス草の茂みが気に入らなかった。誰かがひそんでいるような気がするのだった。自分がその茂みにひそんで家の方を見た時、トマスは精神に異常をきたし、パンパス草の中で焼け死ぬ――というような話らしい。
「愛し合う部屋」:ヴェネチアのベンボ家のパーティーは社交界の一大行事。蚊が大発生したその夏、イギリス人の夫婦と娘が出席したそのパーティー会場には、豪華な蚊帳で作ったテント小屋が並んでいた。小屋のひとつひとつには名前がつけられていて、そのひとつが「愛し合う部屋」。絶対何か不吉なことが起きるとしか思えない――そして、結局そのとおりの結末が待っている。

 全体として、何かに取り憑かれたような登場人物たちの会話が印象的。とにかく、出てくる人間がみんな、どこかおかしい。
 ベストはやはり「ポドロ島」だろうか。何も知らなければむしろのどかにさえ思える「ポドロ」という固有名詞が、読み終えた後では禍々しい響きを帯びて聞こえるようになる。

Podoro

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2017年9月23日 (土)

ザナドゥーへの道

ザナドゥーへの道/中野美代子(青土社,2009)
 タイトルの「ザナドゥー」は、本来は元帝国の夏の都「上都」のことで、それがヨーロッパ風に変形されたもの。Xanaduという綴りは、詩人コールリッジがおそらく誤記したものが、そのまま定着してしまったものと著者は推定している。
 とにかく、コールリッジの詩の影響もあって、「ザナドゥー」という言葉には、「手のとどかないあこがれの地」のようなイメージがつきまとうことになった。本書の場合には、さらに「西から見た東の場所」という意味が付加されていて、つまり「ヨーロッパから見たアジアの幻像」といったところか。
 ところで発行元の青土社のサイトに掲載されたオンライン出版目録では、本書は「歴史・ドキュメント」のジャンルに入っている。各編に数字がふってあったり、列伝風に人物名がそのままタイトルになっていたりするあたりは、確かにノンフィクション風。しかし読んで見ると、中身は史実をベースにした小説(それもかなり奇抜な)としか思えない。
 西洋から見た東――主に中国方面だが、たまに南洋の方にずれたりする――「どこか遠い東の方」に関わる人々を主人公とする、12の奇妙な物語が、本書には収められている。

 1「亡国の大使 ミカエル・ボイム」は、17世紀、明朝亡命政権の使節として、教皇に援助を請うためにローマまで往復したポーランド生まれのイエズス会士の話。
 2「碑文のなかの旅人 景教僧アロペン」は、「大秦景教流行中国碑」に名前の出てくる、唐代に長安にいたらしいネストリウス派キリスト教の僧が主人公。この人物については名前以外何もわかってないので、話はもちろんまったくの創作。唐への旅の途中で玄奘と出会ったりする。
 3「敦煌蔵経洞 ポール・ペリオ」。フランスを代表する東洋学者ペリオ登場。この物語は、彼が敦煌千仏洞の古文書調査をしていた時の出来事。
 4「南海の兄弟島 ギュスターヴ・ヴィオー」では、舞台が変わってヴェトナム。フランスがヴェトナムを支配していた時代、ヴェトナム南部のコンドル島に赴任した軍医の話。しかし話の半分以上は、コンドル島とその近くの「兄弟島」の名称を巡る、何百年もの混乱した歴史についてだった。
 5「探索島の樹 ピーター・ディロン船長」。18世紀の探検家ラペルーズが姿を消した数十年後、その最後の場所を探し求めた船乗り。彼が最後に発見したその島「探索[ルシェルシュ]島」は、現在のソロモン諸島のヴァニコロ島。しかし真の主人公はラペルーズじゃないだろうか。
 6「異教徒たちの帝国 ギョーム・ド・ルブルク」。語り手の「わたし」が突然出てきて、「先輩」との間で、13世紀にローマ教皇の使節としてモンゴル帝国に赴いたルブルクが、いつまでモンゴルにいて、いつヨーロッパに帰ったかを議論する。その合間にはルブルクその人の物語が、幻想めいた雰囲気で語られる。
 7「月の上からペキンを見れば   ミラ・チョ・チョ・ラスモ」では、ついに架空の人物がタイトルに。この変な名前は、デフォーの『コンソリダトール』という作品に出てくる、月で生まれて「シナ帝国の副提督」になったというとんでもない設定の人物。内容はほとんど、この『コンソリダトール』の紹介みたいなもの。
 8「肘掛け椅子の風景画家 トマス・アローム」。アロームは、19世紀、イギリスで『チャイナ・イラストレイテッド』という大冊の銅版画集を出版して大ヒットした画家。しかし彼自身はその国を一度も訪れたことはなく、その絵は、半世紀前に清朝に派遣された使節団の随行画家アレグザンダーの絵などを参考に、想像力と演出力を駆使して作り上げたものだった。
 9「ザイトン双子塔 ポルデノーネのオドリコ」。14世紀にモンゴルに派遣されたイタリア生まれの修道士オドリコは、ザイトン(泉州)で、なんと三蔵法師と孫悟空の一行に出会う(幻覚の中でだが)。
 10「二都物語 プレスター・ジョン」。プレスター・ジョンは、東方でイスラム教徒と戦う(と想像された)キリスト教王。しかしこの話の主人公はプレスター・ジョンその人ではなく、そのモデルともされるカラキタイ初代の王、耶律大石。耶律大石がセルジューク朝の君主サンジャルに勝利した戦いの前後を描く、わりと正統派の歴史小説。
 11「エトナ熔岩流 石工のジューリオ」。12世紀、シチリア島生まれのジューリオはエトナ山の噴火により家族と家を失い、イタリア半島南部に渡って石工になる。そのジューリオが様々な運命の変転を経て、ついにはモンゴルの都カラコルムに行くことになるまでの物語。これも普通の歴史小説。
 12「シカゴ自然史博物館 ベルトルト・ラウファー 」。最後は一転してドキュメント風というか、伝記。今では全然名を知られてないが、とんでもない知識量と語学力を持ち、膨大な著作を残したドイツ生まれ、アメリカで活躍した学者ラウファー。その研究分野は動物・植物・鉱物・歴史・民族学と多方面にわたる。遅れて来た20世紀の博物学者といったところだろうか。人物としては、この人が一番興味深かった。

Xanadu

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2017年9月12日 (火)

夜の夢見の川

夜の夢見の川 12の奇妙な物語/中村融編;鴻巣友季子ほか訳(創元推理文庫,2017)
 2年前に本ブログで紹介した『街角の書店』(2015年9月26日のエントリー)に続く、「奇妙な味」のアンソロジー。『街角の書店』が「18の奇妙な物語」だったのに対し、こちらは12と数が減っていて、その分長めの話が多くなっている。
 作者は、表紙にも名前が出ているスタージョンをはじめ、ウィルヘルム、ファーマー、ブライアントSF系の作家が多いのは前と同じ。そして、明確にSFといえる作品がほとんどないことも、また同じ。それを言うと、ファンタジーとかミステリとかホラーとか、はっきりしたジャンルに入りきらない作品ばかりなのだが。

 最初のクリストファー・ファウラー「麻酔」で、読者はいきなり悪夢に放り込まれる。特に歯医者嫌いの人にとっては「もうやめてくれ」と叫びたくなるひどい話。歯が痛い人は読まない方がいい。
 ハーヴィー・ジェイコブズ「バラと手袋」。この人とケイト・ウィルヘルムは、『街角の書店』に続いて再登場。前の本に掲載された「おもちゃ」と同じく、少年時代の思い出の品が何でも見つかる場所がテーマ。ただしこの作品の場合、その場所は巨大な倉庫で、それを作り上げたのは異常なコレクターなのだった。
 キット・リード「お待ち」は、奇妙で歪んだ因習にどっぷりと支配された田舎町に、ドライブ中の母と娘が迷い込み、脱出できなくなる話。なんだか、舞台を日本に変えても成立しそうな土俗的香りのする話。
 フィリス・アイゼンシュタイン「終わりの始まり」。この作者は異世界ファンタジーの作家だという印象があったので、ちょっと意外なことに、現代を舞台にした人情系ホラーだった。主人公の女性のもとに、死んだはずの母から電話がかかってくる。夫も兄も友人たちも、みんな母は生きているという。人手に渡ったはずの実家を訪ねてみると、そこには母がいた――。母がなぜ「出現」したのか、最後になって真相がわかる。他の収録作と比べると、実にわかりやすくて後味もいい。
 エドワード・ブライアント「ハイウェイ漂泊」。またわかりにくい話。ハイウェーに乗り捨てられた車がある。なぜ車がそこに止まっていて、乗っている人間はどこへ消えたのか、誰にもわからない。閉鎖的な地方都市での大学勤めに疲弊した主人公は、最後のシーンでやはり車を止める。ここではないどこかへ出て行くために。ちょっとニュー・ウェーヴSF的な話。
 ケイト・ウィルヘルム「銀の猟犬」。『街角の書店』に収録されたこの作家の「遭遇」はさっぱりわからない話だったが、それよりはまだわかりやすい。平凡な主婦の前に突然現れ、家にいついてしまう二匹の銀色の猟犬。吠えるでもなくただそこにいるだけなのに、主婦は次第に心理的に追い詰められていく。
 シオドア・スタージョン「心臓」は、収録作中一番短い話。女が愛した男は心臓を病んでいた。女はその心臓をひたすら憎み、呪う。
 フィリップ・ホセ・ファーマー「アケロンの大騒動」は、開拓時代の西部を舞台にした、ちょっとユーモアの混じった話。お話としての面白さでは、多分、収録作中で一番。アリゾナの田舎町アケロンにやって来た謎の科学者は、死者を生き返らせる装置を住民の前で実演する。そこから町で起きる騒ぎ。最後にあかされる真相が、人間の心理というか、人間関係の闇を実にうまくついている。
 ロバート・エイクマン「剣」は、セクシャル・ファンタジーの極地。さびれた遊園地の見世物小屋で、観客たちから体に剣を突き刺されるというショーを見せていた娘。若者は金と引き替えにその娘を宿に呼ぶが、待っていたのは悪夢のような体験だった。
 G・K・チェスタトン「怒りの歩道──悪夢」は、短いがスパイスのきいた話。酷使された街路が、40年その上を歩きながら感謝の心もない男に対し反乱を起こす。
 ヒラリー・ベイリー「イズリントンの犬」は、口がきけるようになった犬が、平穏な(うわべだけは)家庭に波乱を起こす話。今年2月に紹介した『猫文学大全』(2017年2月28日のエントリー)収録のサキ作「トバモリー」と同じく、ペットがしゃべるとろくなことにならないのだった。しかし「トバモリー」に登場する生意気で辛辣な猫と違って、この話のしゃべる犬は純朴で哀切。作風の違いというより、猫と犬の違いか。
 最後はダーク・ファンタジーの名手カール・エドワード・ワグナーの「夜の夢見の川」。事故を起こした囚人護送車から脱出した女は、港町の謎めいた屋敷にかくまわれる。屋敷に住んでいるのは女主人とメイドだけ。やがて、彼女たちには暗い秘密があるらしいことがわかってくる。これもまた悪夢めいた雰囲気に満ちた作品で、最後にはどこまでが現実でどこまでが主人公の妄想なのかわからなくなる。本書を締めくくるにふさわしい作品。

 全体的に、『街角の書店』よりも完成度は高いかもしれないが、重苦しくて陰鬱で、読んでいていやな気分になる作品が多いような気がする。そこがいいのだという読者もいるのだろうが。
 個人的ベスト作品は、「アケロンの大騒動」、次点は「終わりの始まり」。

Yorunoyomeminokawa

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2016年5月23日 (月)

ナツメグの味

ナツメグの味/ジョン・コリア;垂野創一郎ほか訳(KAWADE MYSTERY,2007)
 いわゆる奇想作家の一人として知られるジョン・コリアの短編集。既刊の『ジョン・コリア奇談集』と重なってる作品が多いが、すべて新訳になっている。
 ジョン・コリアが活躍していたのは1930年代から1960年頃までで、けっこう古い作家なのだが、作風は古さを感じさせないので、現代作家のような気がしていた。
 本書に収録されているのは、その作家活動の全期間にわたる作品、17編。
 必ずしも年代順に並んでいるわけではなく、全体を通して、作品の傾向が徐々に変わっていくのが見てとれるような構成になっている。
 最初の方は、人間の狂気や欲望や妄執から生まれる物語。
 殺人の嫌疑をかけられたおとなしそうな男が、最後に狂気の影を垣間見せる「ナツメグの味 」やマネキン人形に恋した男の運命を描く「特別配達」などは、狂気の物語と言えるだろう。
 歯医者に突然若者がやってきて、歯を全部抜いてくださいと頼むシーンから始まる「異説アメリカの悲劇」や、フランスの田舎にもたらされた1枚の小切手が騒動を生む「魔女の金」は、欲望の物語。どれもブラック・ジョーク的な味わいがある。
 その次あたりから、超自然的な存在が出てきたり、現実ではあり得ないシュールな展開が待っていたりする作品が並ぶようになる。
 謎の卵から生まれた、「鸚鵡だか何だかわからない」鳥が、夫婦に破滅をもたらす「猛禽」。少年だけが存在を信じる謎の存在の話「だから、ビールジーなんていないんだ」。このへんは典型的ホラー小説のパターン。
 日記形式の作品「宵待草」は、世間からはじき出された若者が夜の百貨店に住み着く決意をすると、そこには先住民たちが大量にいたという話で、ホラーとブラック・コメディをミックスしたような作品。
 次の「夜だ!青春だ! パリだ! 見ろ、月も出てる! 」も、世間に嫌気がさした若者が主人公だが、こちらはトランクの中に住み着く。
 ストーカーの話かと思ったらゴースト・ストーリーだったりする「遅すぎた来訪」、アイルランドの片田舎に魔女とおぼしき美少女が出現する「葦毛の馬の美女」もホラーもしくはファンタジー系の作品。
 そしてこのへんからまた作風が変わってきて、本物の悪魔や魔法がごく当たり前のように登場する、超自然系コメディともいうべき作品が続くようになる。
「壜詰めパーティ」は、別にパーティの話ではなく、壜の中の魔神を呼び出して欲望をかなえてもらうという、よくある話をひねったもの。
 綱を天上にかけるインドの魔術をイギリス人が会得する「頼みの綱」は、肝心の魔術の説明が何ひとつなしに、とんでもない物語が進行していく。
「悪魔に憑かれたアンジェラ」では、若い娘が突然悪霊にとりつかれ、下品な詩を次々を口にし始める。とりついているのは実は悪魔ではなく詩人だった。
 自殺した男が悪魔に案内されて地獄に向かう「地獄行き途中下車」。途中でごまかして引き返してしまうのだが、悪魔とのかけあいがおかしい――というか、それが話のすべて。
 これも地獄ものの「魔王とジョージとロージー」では、普通の青年がなぜか魔王から女性専用の地獄の管理人に任命される。そこへ間違って連れてこられた美少女ロージーが騒動を起こすという、シュールなコメディ。自分が連れてこられたのが「地獄」だと知ったロージーの反応がいい。

 「あらよかった!」彼女は大声で言った。「てっきりブエノスアイレスかと思っていたわ」

「ひめやかに甲虫は歩む」も、これまでのコメディ・タッチとちょっと作風が違うが、これまた悪魔もの。理想の映画作りのため悪魔と契約しようとした若者だが、今一歩で――という話。
 最後の収録作「船から落ちた男」は、ずいぶん前にアンロソジー『千の脚を持つ男』で紹介した(2007年12月11日のエントリー)。大海蛇の存在を信じて世界を航海する富豪の船に、すべてを笑いものにする無神経な男が乗船してきたところから起きる悲喜劇。あのアンソロジーで読んだ時はけっこうマジメな話のような気がしていたが、本書の中ではジョークの総仕上げのような印象になってしまった。

 作品そのもののバラエティもあるが、訳者によって雰囲気にずいぶん差があるような気もする。本書で特に印象に残ったのは、語り口のおかしさで読ませる作品だったので、その傾向の「壜詰めパーティ」、「悪魔に憑かれたアンジェラ」、「魔王とジョージとロージー」を私的ベスト3としたい。なんだか、魔神とか悪魔とかが出てくる話ばかりになったが。

Nutmeg

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2016年2月10日 (水)

大尉のいのしし狩り

大尉のいのしし狩り/デイヴィッド・イーリイ;深町眞理子ほか訳(晶文社ミステリ,2005)
 本ブログで紹介するイーリイの短編集としては2冊目。以前に『タイムアウト』を紹介したことがある(2010年4月14日のエントリー)。あの本にはSFが何作か含まれていたが、本書にはSFなし。そのかわりと言うのもなんだが、ホラー小説と呼べる作品がけっこう入っている。
 そして、『タイムアウト』の時に各作品に共通するキーワードとしてあげた「不条理」と「偏執狂」は、本書でも健在である。というか、ますますその度合いが増して、どの作品にも、異常な行動に出る人々、あるいは異常な心理に陥る人々が登場する。

 たとえば、表題作「大尉のいのしし狩り」では、第二次世界大戦終結直後のヨーロッパで、厳格な新任大尉に反発するテネシーの山男たちの異常な言動を描いている。大尉への反発は、男たちの報復の「狩り」に発展するのだが、その果てには皮肉な結末が待っている。
 味覚への妄執を描いたのが「グルメ・ハント」。究極の美味を求め続けた、あまりにも敏感な味覚を持った男が最後に陥ったのは、死に至る袋小路。なにごとも度がすぎると恐ろしいことになる。
 自分の意志への固執が悲惨な運命を招くのが、「草を憎んだ男」。何ごとも思い通りにしないと気がすまない暴君タイプの男ハーマンがローマで買った家には、立派な藤が絡み付いていて、妻のお気に入りとなった。ハーマンはその藤に激しい憎悪を抱き、根絶やしにしようとするが――というホラー作品。
 一見なにげない日常から、静かに狂っていく人々の物語もある。話としてはこっちの方が怖い。「別荘の灯」は、留守にしていたはずの別荘に、いつのまにか灯りがついていて、それが何度も繰り返されるうちに、夫婦の精神が追い詰められていく話。また、「いつもお家に」では、架空の会話を再生して、家に人がいるように見せる防犯装置が、夫の留守を守る妻の精神を次第に浸食していく。
 また、閉塞状況に陥った主人公が異常をきたす話もある。「歩を数える」では、半身がマヒしてしまった男が現実と夢の区別がつかなくなっていく(読者にもわからなくなる)。「緑色の男」は、全身を緑に塗って誰にもみつからないように公園に潜み続けるという軍事がらみの実験に参加した男が、じわじわと狂っていく。
 狂気も悪意も存在しないけど怖い作品が、最後の「昔に帰れ」。田舎の古い農家に住み始めた7人の若い男女。彼らは現代文明を捨て、1890年代の暮らしを再現する。やがてそれが評判になり、家には観光客が次々と訪れるようになるのだが、若者たちの暮らしは、思いもよらない方向に歪められていき、やがて破局を迎える――という話。

 他には、仲間たちの冗談に脅えて自滅する画家の話「スターリングの仲間たち」。呪いの絵をだまし取った男に降りかかる運命を描く典型的ホラー「裁きの庭」。非合法臓器移植を扱った「ぐずぐずしてはいられない」。かつての戦場にリゾートを開発しようとするドイツ人が過去に復讐される「忌避すべき場所」。島に潜んでいた日本兵発見のニュースをヒントにした、ちょっとユーモア風味の作品「最後の生き残り」。正体不明の走る若者が何度も身の回りに出現、ホラーかと思ったら最後はしみじみとした結末になる「走る男」。何にでも登るスペシャリストが、世界一のセコイアに挑戦する「登る男」
 奇想には違いないが、実際にあり得るような話も多く、正直、『タイムアウト』ほどのインパクトはない。だが、「いやな話」はこっちの方が多いような。
 マイベスト作品は、「昔に帰れ」。

Boarhunt_2

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2015年12月20日 (日)

似非エルサレム記

似非エルサレム記/浅暮三文(集英社,2003)
 エルサレム(正確には、エルサレムの下の土)が、突然意志を持ち、動き出す。ただそれだけの思いつきを小説にした、ちょっと無茶な作品。
 この小説の舞台は普通の現代世界なので、当事者のイスラエルをはじめ、各国は当然大騒ぎになる。物語は各国のドタバタぶりと、苦闘の行軍を続けるエルサレムの意識、そして住民が脱出したエルサレムに唯一残った動物である犬のブラッキーの行動を交互に描く。
 イスラエル政府のあの手この手の妨害作戦を乗り越え、何者かの声に導かれて南下したエルサレムは、最後に紅海に臨むエイラートの港から海に入り、分解して海底に沈む。地下に閉じ込められていたブラッキーは奇跡的に脱出。しかしこの犬、何を食って生きていたのだろう。

 それにしても変な小説で、物語中、固有名詞が出てくるのはエルサレムにベツレヘム、そして世界各国といった地名と、犬のブラッキーだけ。人間は誰ひとり名前で呼ばれない。
 主役はあくまでエルサレム、そして犬なのだった。よくこんな小説を書くものだ、そして出版するものだと思う。読む方も読む方だが。
 とにかく発想がユニークなのは確かだが、宗教が重要な意味を持つこの話で、ちょっと首をかしげたくなるようなセリフが出てくる。エルサレムが動き出すという前代未聞の事態に、こんな感想を述べる人物がいるのだ。「つまり三人いる神様の誰が一番困るかってことか?」と。
 作中の人物のセリフだが、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の神が別々だと思っているのだ。当然の話だが、一神教の神は宇宙で唯一の神だから、同じ神でないと論理的に矛盾する。神が複数いるという概念自体が、一神教の思想に反している。
 この人物はアメリカ人という設定だが、本当のキリスト教徒ならこんなことを考えるはずがない。一神教をちゃんとわかっていれば、登場人物にこんなセリフを吐かせないと思う。まあ、こんな変な小説に、そんな議論を持ち込んでも仕方がないのかもしれないが。

 そういうことはおいとくとしても、実のところこの小説、奇想天外な設定は認めるが、話としては今ひとつという印象だった。この作者の本は当ブログで今まで短篇集を2冊紹介したことがあって、『実験小説 ぬ』(2007年11月30日のエントリー)も、『ぽんこつ喜劇』(2009年5月15日のエントリー)も、次々と繰り出される常識はずれの手法にあきれつつも感心したものだった。それに比べると、物足りないのは否定できない。この人は長編にはあまり向いてないのかもしれない。
 というか、最近あまり本を見かけない。あの変な短篇集の路線は、また出して欲しいのだが。

Esejerusalem

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