サイエンス

2020年10月 5日 (月)

フォッサマグナ

フォッサマグナ 日本列島を分断する巨大地溝の正体/藤岡換太郎(講談社ブルーバックス,2018)
 その昔学校の地理の時間に出てきた「フォッサマグナ」。
 よく聞く言葉である。しかし恥ずかしながら、ブログ主は本書を読むまでその正体をはっきり知らなかった。――というか、名前だけ知っていて正体を知らなかったことに今更ながら気づいた。
 もしかして、その時にはちゃんと聞いていたのに忘れてしまっただけかもしれない。

 以下、そんなことは常識だと思っている人には何の意味もないだろうが――。
 フォッサマグナと「糸魚川静岡構造線」はよく混同されるという。西日本と東日本を分けるあの線である。
 実のところ、自分もそうだった。混同というか、違いがよくわからない。フォッサマグナそのものが何なのか、よくわかってないのだから、違いがわかるわけないのだが。
 糸魚川静岡構造線は、フォッサマグナの西の端なのだという。東の端はというと、よくわかってない。房総半島のあたりまで含まれているらしい。
 それだけの幅を持ったフォッサマグナの実体は、地下6千メートル以上に達する巨大な裂け目。地上からは見えないが、東西の地質が1~3億年前であるのに対し、その部分だけ2千万年くらい前のもので、新しくできたものだという。
 つまり2千万年前にできた深い裂け目に土が積もってできたのが、今のフォッサマグナ地帯なのだ。巨大な溝といっても、地上に現われた地形ではなく、その実体は地下深くにある。
 そして、フォッサマグナのような地形があるのは、世界中で日本だけだという。これも初耳。
 なぜ日本にだけそんな地形ができたのか。実はまだ定説はないらしい。本書後半で著者は、日本列島形成史と深くかかわるその成因を推理する。著者に言わせれば、「鵺を退治するような」ものらしいが。
 とにかく謎に満ちたフォッサマグナ。実のところ、かなり専門的で読みづらい部分もあるが、知らなかったことばかりである。

Fossamagna

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2020年4月 8日 (水)

春宵十話

春宵十話/岡潔(光文社文庫,2006)
 異色の天才数学者岡潔(1901~1978)のエッセイ集。
 単行本が1963年刊、1969年に角川文庫で最初の文庫化。
 この文庫が出たのが2006年(光文社のサイトには「待望の復刊」と書かれている)で、手持ちの2015年刊は15刷。時代を超えて読まれているロングセラーである。
 テーマは当然ながら数学のことが多いのだが、具体的な数学上の定理や数式について書かれた部分はまったくと言っていいほどない。「数学とは何か」という哲学的問題を語っているのがほとんど。
 それ以外には、科学や教育、哲学、宗教、日本文化などについて。200ページちょっとの薄い本だが、全編にわたって名言と言える表現が散りばめられている。実は全部口述筆記らしいが、しゃべる内容が名文になっているのだから名文家と言っていい。言わば寺田寅彦の伝統を継ぐ科学者エッセイスト。

 内容は、数学と教育について10回にわたる講話形式で語った「春宵十話」が最初の50ページ。自伝的内容も含まれている。
 その後は、短いエッセイが22編。
 全体として、科学者でありながら「理性よりも情緒」という原則を貫いている。大学生のときに「ぼくは計算も論理もない数学をしたいと思っている」と宣言したのだそうだ。そんな著者が頼りにするのは、情緒というか、直感みたいなものらしい。あるいは、著者の言い方によれば「真智」か。
 この人の数学というのは、ほとんど宗教みたいなものだったようだ。はしがきには数学のことを「自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つであって」なんて書いてるから、あるいは芸術か。とにかくこの人の場合はそれで通用したのだから、数学というものはわからない。
 岡潔の文章を通じて見る数学の世界というのは、神秘そのものに見えるのである。あるいは、本当に神秘的なのは、この人自信の頭の中かもしれない。

Shunshoujuuwa

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2020年3月31日 (火)

ネコはどうしてわがままか

ネコはどうしてわがままか/日高敏隆(新潮文庫,2008)
 単行本は2001年刊。ネコについての本ではなく、生き物全般に関する、気軽に読めるエッセイ集。
 もちろん、ネコも(少しだけだが)出てくる。ネコに限らず、生き物と言っても、身近な動物ばかり(哺乳類、鳥類、昆虫が大半)で、遠い大陸や外洋にいるような生き物はあまり出てこない。
 どこにでもいるような生き物たちが、「どのように苦労しながら毎日を生きているのか」を、平易な語り口で説き明かしている。なんともいえない親しみやすさが一番の特色だろう。

 内容は2部構成。
 第1部「四季の『いきもの博物誌』」は雑誌『ゆたか』に連載されたエッセイを、春夏秋冬の4章に分けてまとめたもの。なぜか春と夏が多く、秋と冬は少ない。
 第一章「春の「いきもの博物誌」」は、「蜂とゼンマイの春」など12編。登場するのは蜂のほか、ウグイス、ギフチョウ、ドジョウ、イモリ、オタマジャクシ、ミズスマシ、アメンボ、モグラ、カラス、イサザ、クジャク。水辺の生き物が多いような気がする。
 第二章「夏の「いきもの博物誌」」、「カエルの合唱はのどかなものか」など11編。カエル、ヘビ、カタツムリ、アブラムシ、トンボ/ヤゴ、セミ、ボウフラ、松食い虫、タガメ、ムカデ/ヤスデ、ヤモリ。
 動物好き、虫好きで知られる著者が、「ムカデだけはだめである」と白状している。この人にも苦手な生き物があったのだ。
 第三章「秋の「いきもの博物誌」」、「意外に獰猛なテントウムシ」など6編。この章が一番少ない。テントウムシ、コウモリ、スズメ、ムササビ、イヌ、ミノウスバ。イヌ以外は飛ぶやつばかり。
 第四章「冬の「いきもの博物誌」」、「タヌキの交通事故」など7編。タヌキ、イタチ、カマキリ、蛾、オオカミ、ツル、ネコ。
 本書のタイトルになっている「ネコはどうしてわがままか」はこの章。なぜ冬に入っているのかはわからない。それはともかく、ネコは人間と疑似親子関係を結んでいるのだそうだ(というか、ネコが勝手にそう思っている)。もちろん人間が親でネコが子供。わがままなのはそのせいだというのが著者の説。

 第2部「「いきもの」もしょせんは人間じゃないの!?」は『ヴァンテーヌ』に連載した「ちょっとエソロジー」をまとめたもの。エソロジーは動物行動学のこと。
 動物たちの人間のような行動を取り上げていて、「すねる」、「きどる」、「確かめる」など11編。
 中では「落ちこむ」が面白い。飼い猫がジャンプに失敗して落ち込むところなど、情景が見えるようである。エッセイとしてはこの第2部の方がよくできている気がする。

 解説は山下洋輔。本の内容と関係なく、自分の猫のことばかり書いている。しかもやたらと長い。

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2019年10月28日 (月)

波紋と螺旋とフィボナッチ

波紋と螺旋とフィボナッチ/近藤滋(角川ソフィア文庫,2019)
 一見複雑に見える自然界の現象を、数学で説明する科学エッセイ。キーワードは「数理モデル」。とにかく何でも数理モデルで説明してしまうのである。
 内容は全10章。第1章と第2章のタイトルは「ウルトラQ」のパロディになっていて、なかなか遊び心を感じさせるが、残念ながら第3章からは普通のタイトルになる。しかし本文にはなかなかオタクな人柄のにじみ出る科学エッセイなのだった。

 第1章「育てよカメ、でもどうやって!?」は、動物の体の成長の秘密から始まる。単純な「相似成長」では、同じ形を維持できない。ではどうやって体の形を保ったまま成長しているのか――というところで、数理モデルなのである。
 第2章「白亜紀からの挑戦状」は、主にアンモナイトの「異常巻き」が発生する原理。一見奇怪な複雑きわまりない巻き方を、単純な数理モデルで説明する。
 第3章「シマウマよ、汝はなにゆえにシマシマなのだ?」からは、話は変わって縞模様がテーマ。実はこれが著者の専門。次の第4章は、前章の続きで「解決編」。二つの色素細胞の相互作用がシマ模様を生みだすという原理を説明。そしてその原理は、チューリングの波紋の原理と同じなのだそうだ。
 第5章「吾輩はキリンである 模様はひび割れている」。寺田寅彦をまきこんだ「キリンの斑論争」。キリンの模様は「ひび割れ」なのか。動物の模様の話はここまで。
 第6章「反応拡散的合コン必勝法」。人間の指紋形成のメカニズム。この説明によると、指紋もチューリング波の一種なのである。
 第7章「アメーバはらせん階段を上ってナメクジに進化する?」では、粘菌がアメーバ状からナメクジみたいな形状になる原理を、「螺旋」の力で説明する。
 第8章「すべての植物をフィボナッチの呪いから救い出す」では、話は植物の世界へ。花の花弁の数がフィボナッチ数列になっている理由や、植物の葉の角度が、「黄金角」になっている理由を説明。
 で、最後の2章「生命科学でインディ・ジョーンズしよう!(宝の地図編)」及び同「お宝への旅編」は、著者の回想記みたいなもの。実はこれがけっこう面白い。
 25年前、動物の形態形成を研究していた著者がたまたま見つけた「宝の地図」は、「チューリング波」だった。「波が体を作る」という信じがたい理論に著者は魅了される。そして著者は魚の縞模様がチューリング波によって形成されることを証明しようと、熱帯魚で実験するのだった。
 しかしそれは著者のボスである教授から与えられていた本来の研究テーマとは関係ない研究だった。著者は教授にどう言い訳するのか?――というような話。本書には「H教授」としか書かれてないこの教授が、ネットで調べてみると実は最近ノーベル賞を受賞した人だったりする。

 各偶数章(10章を除く)と次の章の間に、「COLUMN」と題する、本文と関係のあるようなないようなエッセイが挿入されていて、これがまた、本文よりも面白いところがあったりする。特に「COLUMN 3 研究論文や申請書におけるジンクピリチオン効果について」は、思わずニヤニヤしてしまう。

Hamontorasento

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2018年9月17日 (月)

さあ今から未来についてはなそう

さあ今から未来についてはなそう SF作家瀬名秀明が説く!/瀬名秀明(技術評論社,2012)
 瀬名秀明が2009年から2012年にかけて、シンポジウムや講座などで7回にわたって行った講演を再編集したもの。もとが口述筆記なので、文章はきわめて平易。ただし、講演録によくある「ですます調」ではない。
 内容は序章「未来を考えるとはどういうことか」、第1章「エネルギーをかっぱらって来い!」、第2章「ロボットと人間の違いってなに?」、第3章「空から地球文明とSFを眺めて」からなる。
 それぞれの文章のテーマとは、未来、エネルギー、生命、ロボット、それに感染症など。全体を通じて、科学とSFが大きなテーマになっている。
 この本が出版された前年から、著者は日本SF作家クラブの会長に就任していて、本書も同クラブ50周年に合わせて企画した本だという。日本SF作家クラブのことは、本文でも何度も言及されている。しかし瀬名秀明には、SF界から見ると、どこか本流でないイメージがある。著者自身が、「はじめに」で語っているとおり。

ぼくはSFファンからはSF作家と呼ばれず、SFファン以外の人からSF作家と呼ばれる、おそらく世界で唯一の人間だ。(p.6)

 瀬名秀明は社会問題や未来論、科学論に関する意識がきわめて高く、その点では小松左京の後継者と言ってもいいくらいだと思う。それなのに、なぜSFファンからは、純粋なSF作家だと思われないのか。
 この本を読んで、なんとなくわかった気がする。
 本書には印象的な文章がいくつもあって、例えば以下のような文章もそのひとつ。

ぼくら小説家は、基本的に何を書いてもいい。何を書いてもいいのだが、でもその背後にはちゃんとした資料があり、その信頼性を支えてくれる人たちがいる。図書館の人とか、その論文を書いた研究者の人たち、あるいは編集者、そして読者の皆さん……そういう人たちがいて、彼らのバックアップによって、ぼくたちは自由な小説を書くことができる。その人たちとの信頼関係が非常に大切で、そうしたバックアップがあるからこそ、ぼくたちは小説をおもしろくするために、最後まで絶対にあきらめずに飛べるわけだ。(「第3章」p.170)

 ここに見て取れるのは、瀬名秀明の本質的なマジメさ。多分、今の日本で、瀬名秀明くらい真面目に科学のことを考えて小説を書いている作家はいないだろう。
 思えば小松左京の作品には、どんな壮大・深遠なテーマを扱っていても、どこかで「どうせバカ話やねん」と開き直っている部分を感じた。遊び心と言ってもいい。瀬名秀明からそういう遊び心を感じることはない。早い話が、マジメすぎるのだ。
 しかしそういう作家も世の中には必要なので、SFファンからの評価を気にすることなく、マジメにわが道を歩んでほしい。ちなみにブログ主もSFファンのはしくれであるが、瀬名秀明は立派なSF作家だと思っている。

Mirainitsuitehanasou

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2018年6月 5日 (火)

地球脱出

 今回紹介するのは、恐らくほとんどの人が存在を知らないと思われるかなり珍品に近い本。たいがいの本は古本で見つかるあのAmazonにすら出てこない(現時点での話)。古書のサイトではさすがにヒットするところもあるが、それもごく少数。

地球脱出 第2の地球を求めて!?/エドワード・S・ギルフィラン,Jr;金沢文庫編集部訳(金沢文庫,1976)
 テーマは、今でも最先端の話題、人類の宇宙への移住。原題は"Migration to the Stars"で、1975年に刊行されている。SF以外で、このテーマについて真剣に論じた本としてはかなり早い時期のものではないだろうか。
 内容は、まず第1章「地球は居住不能になるか」、第2章「地球に起こる大惨事」で、地球に起きる可能性がある核戦争、環境汚染などの災厄を挙げ、人類の滅亡を避けるため、地球外への移住の必要性を説く。
 第3章「軌道上に生活する」は、宇宙ステーション(実際はスペースコロニー)の製造や、その中での生活について考察。
 第4章「恒星間宇宙船の飛行」、第5章「星への着陸」では、他の恒星系への移住について、宇宙船の詳細や星への着陸、移住地の建設などについて述べる。
 ここまでは、具体的な数字を多用した、非常に科学的な内容に見える。
 しかし後半に入って第6章「大宇宙の謎」から、なんだかおかしくなってくるのだった。人類は宇宙から移住してきたとか、聖書イザヤ書には太古の宇宙船への言及があるとか、トンデモ味が急に増してくる。
 その後も、第9章「進化の過程」とか第10章「人間の実態」といった章題からもうかがえるように、人間の存在する意味について論じたり、科学よりも哲学に近い内容が多い。正直言って、内容がどんどん変になっていくという印象はぬぐえない。
 本文を前半だけにしておけばよかったのに。
 巻末にはかなり長い「付録」がついているが、これが非常に科学的かつ具体的で、「宇宙ステーションの設計」とか「星間移民宇宙船の設計」とか、必要な物資や費用までを見積もった技術的解説になっている。当時の科学の範囲でできるだけ正確な予想をしようとしているらしい。しかし、40年以上前のテクノロジーに基づくデータでは…。
 著者については、巻末にちょっとだけ説明があるが、「米国陸軍およびスペース・プログラムの技術顧問として、宇宙において、人間が生存するために障害となる各種の問題を研究してきた人である」とのこと。やっぱりなんだか怪しげである。
 おまけに、訳が正直言ってよくない。263ページに出てくる「ハーマン・オバース」というのは、「ヘルマン・オーベルト」だろう。宇宙関係の本なのに、こんな名前も知らない人が訳しているとはあきれてしまう。
 ところで金沢文庫といえば横浜の有名な史跡だが、この本を出しているのは、東京神田にある(あった?)そういう出版社。この会社も、なんだか怪しげな本ばかり出していたようだ。

 わりとまともなことを書いている部分もあるのに、全体としてはなんだか怪しく、そして完全に忘れられている――という、残念な本。

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2017年11月28日 (火)

疑似科学入門

疑似科学入門/池内了(岩波新書,2008)
 本書は単純に言えば、インチキ科学、エセ科学にだまされないための本なのだが、主題の「疑似科学」をかなり広く捉えているのが特徴で、ある意味、「科学を疑う本」にもなっている。
 内容は、疑似科学を「第一種」から「第三種」に分け、それぞれの特性を解説する。全4章構成。
 第1章「科学の時代の非合理主義―第一種疑似科学」では、一番わかりやすい疑似科学、「第一種疑似科学」を解説。占い、超能力、疑似宗教などの類がそれで、そもそも科学の偽装すらしていないものも多い。その特徴と、なぜ信じてしまうのかを心理学的に解説。
 第2章「科学の悪用・誤用―第二種疑似科学」では、一見科学とまぎらわしい「第二種疑似科学」について解説。どういうもんかというと、「科学の活用・援用・乱用・剽窃・誤用・悪用・盗用に関するもの」(p.47)とのこと。要するに一見科学的な用語や数字でトンデモな内容を粉飾しているもの。「水からの伝言」とか、健康に効く「磁気」とか、「波動」とか。あるいは、統計でだます数字のマジックもこの類。
 第3章「疑似科学はなぜはびこるか」では、これまで説明してきた第一種、第二種科学がなぜ世間にはびこるか、その背景を、科学への失望、自己流科学、科学と非合理主義などの視点から考察。
 第4章「科学が不得手とする問題―第三種疑似科学」。「第三種疑似科学」は、複雑系のため答えが容易に見つからない問題を言う。二酸化炭素と地球温暖化問題、遺伝子組み換え作物問題など。これが本当に「疑似科学」と言えるのかはかなり微妙。実際、ネット書評などを見てみると、疑似科学に対抗する立場の懐疑論者たちからも、この章の内容についてはむしろ批判的な論調が目立つ。
 終章「疑似科学の処方箋」では、いくら批判しても、疑似科学は廃れないと、悲観的な見通しを述べる。だからこそ、「正しく疑う心」が重要と、わりと常識的な結論になっている。

 ところで、2008年に出たこの本では、原発の安全神話も批判している。そして、実際に原発に大事故が起きたら、当事者たちは「想定外」と言うのだろうと書いている。ブログ主が本書を読んだのは2015年になってからなのだが、その「予言」が本当に当たってしまっていることが、実のところ一番印象に残った。

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2017年10月27日 (金)

古生物たちのふしぎな世界

カラー図解 古生物たちのふしぎな世界 繁栄と絶滅の古生代3億年史/土屋健;田中源吾協力(講談社ブルーバックス,2017)
 サブタイトルに「古生代3億年史」とあるとおり、古生代限定の古生物たちの歴史。だから、扱う範囲は恐竜が出現する直前までで終わっている。
 内容は、古生代の最初から最後までを大きく4つに分け、それぞれの時期の支配的生物がどのように変わっていったかを中心に記述したもの。いわば「覇者たちの歴史」。
 古生物ものには欠かせないカラー図版が満載。

 プロローグで、先カンブリア紀末期のエディアカラ生物群について少し触れた後、本文へ。
 第1章「勃興」は、カンブリア紀を扱う。この時期の覇者はもちろんアノマロカリス。いわゆる「カンブリア爆発」については、この時期に急に生物が多様化したのではなく、それ以前から徐々に進化していき、体構造も完成していたものが、カンブリア紀に入ってから「化石に残るようになった」という見解をとっている。
 第2章「節足動物と軟体動物の支配」は、オルドビス紀とシルル紀。この時期、アノマロカリス類も生き残っていたが、最大の動物は海サソリ。続いて巨大な頭足類が覇者となる。シルル紀になるとかなり現在の魚類に近い形の魚が登場するが、脊椎動物はまだ弱者。
 第3章「革命」はデボン紀。ここへ来て「魚たちの時代」が到来。ついに脊椎動物が海中の覇者になる。魚たちの中でもっとも栄えていたのは、鎧で頭部を覆った板皮類。陸上には節足動物が一足先に進出していたが、脊椎動物でも、両生類が出現する。脊椎動物の上陸という一大イベントが、この章のタイトル「革命」なのだった。
 第4章「祖先たちの王国」は石炭紀とペルム紀。石炭紀の大森林は巨大トンボや巨大ムカデなど、節足動物の天下だった。この頃、すでにゴキブリの先祖も出現しているが、挿図を見ると今のやつとそっくりだった。ゴキブリ恐るべし。
 ペルム紀になると、単弓類が古生代最後の地上の覇者になる。単弓類といえば、以前紹介した『哺乳類型爬虫類』(2015年7月30日のエントリー)の主役たちである。「哺乳類型爬虫類」という呼称がすでに使われてないことは、その時のブログにもちらっと書いた。本書によると、その後研究が進んで、単弓類は爬虫類どころか両生類とも系統的には無関係だということになっているらしい。
 ともあれ、その単弓類も古生代末の大量絶滅で衰退。中生代に入り、単弓類の生き残りである獣弓類から哺乳類が出現することが、短いプロローグで語られる。

 最新の古生物研究の成果を(古生代限定だが)盛り込みながら、恐竜がまったく出てこなくても、古生物の世界はこれほど魅力的なのだということを伝えてくれる本である。むしろ、恐竜よりも古生代の変な生物たちの方がずっと面白いのでは、という気もする。

Koseibutsutachi

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2017年4月 1日 (土)

気象庁物語

気象庁物語 天気予報から地震・津波・火山まで/古川武彦(中公新書,2015)
 200ページ足らずの薄い本だが、中身はけっこう詰まっている。
 気象庁という役所の歴史というより、近代日本の気象観測の歴史を、全9章で語る内容。

 第1章「東京気象台の創設」は、明治8年、お雇い外国人の建議により気象観測業務が始まってから、明治28年、富士山頂での気象観測が始まるまで。もっぱら個人の努力に頼っていた、黎明期の気象観測について述べる。
 第2章「日露戦争と室戸台風」は、明治後期から昭和の初めにかけて。「天気晴朗ナレドモ波高シ」で有名になった日露戦争と気象観測の関係。昭和9年の室戸台風の大被害と、それを受けての全国気象協議会の開催など。当時は各県でバラバラに気象観測をやっていたらしい。
 第3章「太平洋戦争」は、戦時中の気象観測の話。日中戦争勃発後、中央気象台は軍部の指揮下に置かれる。太平洋戦争開戦直前から、天気図も天気予報も公開禁止に。
 第4章「海は荒れて」。戦後、海洋観測が再会されると、戦時中海軍の補給船にされていた観測船「凌風丸」が再び観測業務につく。観測船の話を中心にした、戦前から戦後にかけての海洋気象観測の多難な歴史。
 第5章「コンピュータ時代の到来」。ここからが後半。ラジオゾンデ、スーパーコンピュータ、気象レーダー、アメダスなど、気象観測のハイテク化、情報化の歴史。情報量は多いが、技術的な話ばかりになってくる。
 第6章「地震・津波・火山」は、地震、津波、火山噴火の観測と予知について。
 第7章「気象衛星「ひまわり」の打ち上げ」は、気象観測に革命をもたらした、気象衛星打ち上げ計画の歴史。最初の「ひまわり」はアメリカのロケットで打ち上げられていた(1977年)。
 第8章「今日の気象サービス」は、民間による気象予報への参入の話。現在では気象庁自体は天気予報はしていなくて、データを提供しているだけ、予報は民間の気象予報士の仕事になっている。
 第9章「地球温暖化、異常気象」。現在の気象庁の重要任務のひとつになっている、地球温暖化と異常気象への対応。

 ――というような、一般向けの本としてはあまり他に例を見ない内容。知られてないことが多いだけに、興味深いところはある。
 ただ、著者が長年気象庁で公務員をやっていたせいか、文章が官庁文書めいていて、実に無味乾燥。タイトルにある「物語」とはかけ離れた印象がある。

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2016年6月24日 (金)

5月に読んだ本から

先月読んだ本から、学者によるエッセイを2冊。

科学を生きる 湯川秀樹エッセイ集/湯川秀樹;池内了編(河出文庫,2015)
 湯川秀樹のエッセイを、京都大学での教え子にあたる池内了が編集したもの。長短28編の文章を4章に分けて収録している。一番古い文章は戦前の昭和15年、一番新しいのは、昭和54年の朝永振一郎の追悼文。しかし発表年は書いてあるが、出典がほとんど書いてないのはちょっと残念。

 第1章「物質とシンボル-物理学と科学の物差し」は、主に専門分野に関するエッセイ。といっても、物理学のややこしい話は出てこないので安心して読める。
 実はこの章に収録されている文章のほとんどは、物理学そのものに関するものというより、親交のあった物理学者たちの思い出話なのだが(上の追悼文もここに含まれている)、その中で冒頭の「思考とイメージ」は、著者の思考法がわかって興味深い。
 特に、「ほんとうに納得がゆくというのは、単につじつまがあっているのとは違って、全体のイメージが細部も含めて一瞬にして明らかになるという段階がどこかにあるのではないでしょうか」(p.18)というあたり、論理を超えた直感的理解みたいなものを重視していたらしいことが伺える。湯川秀樹にとって、ものごとを納得する時に美意識や好悪感といったものは無視できない要素だったようで、このノーベル賞学者の中では科学と芸術が非常に近いものだったのかもしれない。
 第2章「人生の道のり-思い出すことども」は、主として若い頃の回想や、生まれ育った京都についての随想。ただ、この章の約半分を占めているのは「科学者の創造性」という講演録、内容的には第1章の方がふさわしいような気がする。ここでも「直感」の重要性を強調しているのが印象的。
 第3章「文学と科学の交叉-詩の世界に遊ぶ」は、章題から想像するほど文学について書いてあるわけではない。科学や想像力についてのエッセイから回想記まで、種々雑多な文章が集められている。「詩と科学」という短いエッセイがあったり、著者の短歌が含まれるエッセイが何編か入っているのが「詩の世界」ということか。
 第4章「科学と人間-科学から人間を想う」は、長いエッセイ「科学文明の中の人間」が中心になっている。一見とりとめのないエッセイのようだが、最後の方になって、「天使の姿から悪魔の姿へと豹変する」科学への危機感がにじみ出てくるし、著者の理想「世界連邦論」も表明される。最後の1編「二つの道を一つに」もそうだが、晩年の著者は、科学が人類を滅亡させるかもしれないという危惧――要するに核兵器への危機意識が強かったようだ。

 率直な言い回しで読みやすいが、正直、エッセイとしては科学者の余技でしかないという印象。例えば、同じ科学者でも寺田寅彦のエッセイと比べるとかなり差がある。一種の時代の証言と考えた方がいいのかもしれない。

鬼平とキケロと司馬遷と 歴史と文学の間/山内昌之(中公文庫,2016)
 イスラム史を専門とする著者が、専門以外の歴史周辺の本について、その魅力を語る。以前に本ブログで取り上げたこの著者の『「反」読書法』(2009年6月28日のエントリー)と同じような趣旨で、こちらは個別の本についてより詳しく書いてある、という程度の違い。
 序章「歴史の楽しみ-司馬遷からマスペロへ」は主として読書遍歴。特に思い出深い本として『読史余論』と『史記』を挙げる。歴史学者となってからも、専門外の読書に楽しみを求めてきたのは、『「反」読書法』にも書いてあったとおり。単なる楽しみのためだけでもなく、「私にとっては、専門の書物や史料に関係のない読書は、趣味でもあるが、精神や思考回路のバランスを回復するためにも欠かせない作業だったのだ」(p.14)とのこと。
 第1章「江戸のロマン-鬼平と河内山のピカレスク」は、江戸を舞台にした時代小説について。この章以下の各章は、それぞれがさらに3つのパートに分かれている。本章は、「鬼平犯科帳」と鬼平の実像、天保六歌撰の世界、そして宇江佐真理の『春風ぞ吹く』。
 第2章「政治リアリズム-ローマ・徳川日本・イスラーム」は、主に歴史や政治に関する古典的著作をめぐって3題。古代ローマの思想家キケロ、徳川綱吉時代を語る史書、そして荻生徂徠とアイザイア・バーリンの政治思想と、かなり専門的。『「反」読書法』でもそうだったが、この人の場合、趣味の読書といっても学術的なことが多いのである。
 第3章「「歴史とは何か」-イブン・ハルドゥーンと内藤湖南」は、さらにかなり専門に近づく。ジョン・H・アーノルド『歴史』、イブン・ハルドゥーン『歴史序説』(これは完全に著者の専門分野)、内藤湖南『支那史学史』という、歴史学についての三つの著作を取り上げている。。
 第4章「幕末騒動始末記-新選組のぐるり」は、また趣味の世界というか、江戸時代に戻って、新撰組3題。パート1は特定の本に関するものではなく、芹沢鴨、伊東甲子太郎の人物を論じたもの。次が新撰組の活躍舞台となった京都について、松本章男『京都 春夏秋冬』を紹介。そして時代小説、中村彰彦『いつの日か還る』。この章だけパート4まであって、やはり歴史小説、杉本章子『間諜 洋妾おむら』。これも幕末ものだが、新撰組とは関係ない。
 第5章「明治という時代-夏目漱石と乃木将軍」では、パート1は漱石と乃木将軍について、パート2は乃木将軍の漢詩についてと、乃木関係が続く。パート3はちょっとテーマが変わり、司馬遼太郎と沈寿官について。
 終章「新しい教養へ-江戸情緒と泰西趣味を超えて」では、改めて古典と教養の重要性を説く。
 というわけで、『「反」読書法』と同じく、趣味の読書というわりには、一般人から見るとちょっと固い本が多い。しかも、やはりどこか啓蒙的な雰囲気がある。しかし、こういう昔ながらの読書人の雰囲気を感じさせるエッセイは、今では滅多に見られないのも確か。

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