SF&ファンタジーに関する本

2021年1月14日 (木)

『指輪物語』を創った男

トールキン 『指輪物語』を創った男/マイケル・コーレン;井辻朱美訳(原書房,2001)
 早いもので、映画『ロード・オブ・ザ・リング』が公開されてからもう20年になる。ブログ主のような年寄りには、ついこの間のように思えるのだが…。
 本書は、その映画公開の年に出た本で、明らかな便乗出版。原著も同じ年に出版されているので、そもそも最初から便乗出版なのである。
 それをまたなんで今頃(読んだのは去年)になって読んだのかというと、若き日のJ・R・R・トールキンを主人公にした映画『トールキン』を去年見たのが理由のひとつ。(もうひとつの理由は、近所の図書館にあったから。)
 実のところ、その映画の原作かとも思っていたのだが、実際は全然違っていた。
 映画の方は、トールキンの少年時代から青年時代、第一次世界大戦の戦場での悪夢のような体験を経て、『ホビットの冒険』を書き始めるところで終わっている。つまり映画はトールキンの生涯のごく一部だけを切り取っているのに対し、本書はトールキンの全生涯を語る正統派の伝記である。主要作品についても多くのページを割いている。
 ただし、文字は大きいし、ルビは多いし、見かけは中高生向けの本のように見える。訳者はファンタジー翻訳の第一人者井辻朱美だから、訳文はしっかりしている。

 内容は、いかにもオーソドックスにトールキンの出生から始まる。映画で描かれたようなグラマースクールでの友人関係や第一次世界大戦での体験はごくあっさりと片づけられ、メインになるのは大学教授としての生活と交友、そして『ホビット』と『指輪物語』について。
 中でも、第5章「『指輪物語』」は、12年をかけた『指輪物語』の完成と出版、そして空前の成功について語っていて、やはりこの章が本書のハイライトなのだろう。
 逆に言うと、作品が伝記のハイライトになるくらい。トールキンの人生には劇的なところはほとんどないのである。「まことに教授らしい教授」としてオックスフォード大学に勤め、家庭ではよき夫であり父であった――穏やかで恵まれた人生だったとしか言いようがない。
 だがそんなトールキンにも老いは忍び寄ってきて、最愛の妻エディスが先に死んでしまう。エディスの墓碑には「エディス・メアリ・トールキン、1889-1971、ルシエン」と刻まれた。
 そしてエディスに遅れること2年、トールキンも死去。エディスの下に彼の名と「ベレン」の名が追加で刻まれる。
 ルシエンもベレンも『シルマリルの物語』に出てくる恋人たちの名。「壮大な神話の愛が、トールキンと妻のエディスによって血肉化されたわけである」と、本書は語っている。
 ドラマ風の劇的なできごとには欠ける生涯だったかもしれないが、トールキンの人生を語るこの本は、最後をささやかだが感動的なエピソードで締めくくっていた。

Tolkien

 

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2018年4月 8日 (日)

SF奇書コレクション

SF奇書コレクション/北原尚彦(東京創元社,2013)
 以前に紹介した『SF奇書天外』(2008年2月23日のエントリー)の続編。
 ほとんどの人が存在すら知らないようなSFの珍本、怪作の数々を掘り出して来ては、その本を入手するまでの苦労談とともに内容を紹介する――という趣旨は同じ。戦後の本に限定していた前著に対し、本書は出版年代に縛りは設けていない。とはいえ、多少戦前の本が増えているくらいで、全体としてのテイストは非常に似ている。
 ただ、前著が『SFマガジン』の連載がベースだったのに対し、本書はハヤカワのライバル東京創元社のウェブマガジンに連載したもの。ページ数の制約がないので、長さにばらつきがある。
 内容は第1回から第30回まで。「世に知られていない埋もれたSF作品を発掘する」という情熱のもとに、カンと人脈を駆使して集めた奇書の数々が紹介される。
 しかし、内容が変な本というより、存在自体が珍しいという本が中心なので、正直言って、読んで面白そうな本はあまりないのだった。実際、著者自身も、あまり面白くないと思っているらしい本がけっこうある。富塚清『三代の科学』(第22回)なんて、はっきりと面白くないと言っているし。高垣眸『燃える地球』(第28回)もメチャクチャな話。著者はそこが気に入っているらしいが。
 結局のところ、全体としては本の内容紹介より、それを探索する著者の苦労話の方が面白いのだった。まあ、本当に面白い作品なら埋もれているはずがないよというところか。
 そんな中で興味を引かれたのは、山本弘のエロ同人小説<チャリス・イン・ハザード>シリーズ(第27回)。内容の変態ぶりについてはここではあまり触れないでおく。とにかく、同人誌でも「文庫版」なら「私家版」として、著者のコレクションの対象になるらしい。「私家版で、文庫サイズで、山本弘著。わたしとしてはストライクど真ん中だ」なんて書いている。
 他にも単行本サイズの同人誌『錬金術師の夢』が第19回に登場している。SF同人出版の世界は百鬼夜行、この世界にまで手を伸ばしたらとんでもないことになりそうだが、大丈夫だろうか。だが読者としては、もっととんでもない同人出版の本を発掘してきて、どんどん紹介して欲しい気がする。

Sfkishocollection

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2017年12月10日 (日)

読書会

読書会/山田正紀、恩田陸(徳間文庫,2010)
『SF JAPAN』に連載された、山田正紀と恩田陸、それに司会やゲスト、編集者を加えた4、5人による読書談義。
 帯には、「テーマは名作エンタメ小説!」なんて書いてあるが、掲載されたのがSF雑誌なので、課題図書も当然ながらSFとファンタジーばかり。しかし完全にSFファン向きの内容というわけでもない。
 SFぽいものも書くけどSF作家ではない恩田陸、SF作家としてデビューしたけど最近はSFをあまり読まない山田正紀という、SFとのつかず離れずの二人が、いい距離感を生みだしているようだ。
 収録されている「読書会」は全11回。

 第1回は半村良『石の血脈』『岬一郎の抵抗』。司会は日下三蔵。半村良は山田正紀に弟子になってもらいたがっていた、なんて話も出てくる。
 第2回、アイザック・アシモフ『鋼鉄都市』『はだかの太陽』。司会は後にレギュラーになる牧眞司。山田正紀はアシモフが嫌いだったという話から入る。結局、この2冊はバカミスだという話に。
 第3回、「時間を超える小説を求めて」。恩田陸の『ねじの回転』の刊行を記念(?)して、時間SFや歴史改変ものの話に。この回は司会なし。なので特定の作品がテーマにはならず、話があちこちに飛びまくる。早い話がぐだぐだ。
 第4回、アーシュラ・K・ル・グィン『ゲド戦記』。司会は三村美衣。ファンタジーにあまり感心のない山田正紀は質問してばかりいるが、第4巻『帰還』の老いたゲドは、身につまされて泣けたそうである。この頃から山田正紀の自虐的発言が目立つようになる。
 第5回、沼正三『家畜人ヤプー』。司会はまた牧眞司で、これ以降は第10回を除いてずっと司会を務めることになる。この回は課題が日本SF史上どころか小説史上に名が轟く問題作だけに、本書の中で一番盛り上がっていて、あぶない話題が飛び交う。みんな楽しそうである。
 第6回、小松左京『果しなき流れの果に』。今回はみんなマジメに作品を論じ、小松左京を論じている。この対談の時、小松左京はまだ生きていたが、死後だったらまた違う内容になったただろう。ただ、小松左京がすでに体力の限界にあることはわかっていたらしく、牧眞司は「もう小松さんをサイボーグ化するしかないかなあ」などと言っている。
 第7回、山田正紀『神狩り』。この回はゲストとして笠井潔が乱入。『神狩り2』が完成目前ということで、山田正紀自身の作品が取り上げられる。『神狩り』の裏話から、『神狩り2』の内容ばらしまで。壮大な近刊PRみたいにも見える。
 第8回、スティーヴン・キング『呪われた町』『ファイアスターター』。恩田陸のキング好き、というか『ファイアスターター』好きがよくわかる。山田正紀の自虐ぶりも板についてきて、「ぼくはもう歳で、実は二十五年まえにすでに才能が尽きている」などと言っている。
 第9回、萩尾望都『バルバラ異界』。初めてマンガが課題図書に。恩田陸、山田正紀のマンガ体験から話が始まり、課題図書よりもむしろ出席者それぞれのマンガや萩尾望都に対する思いを語っている部分が多い。
 第10回というか、特別編、「『原点』との邂逅」。萩尾望都と恩田陸の特別対談。対談というより、憧れの作家にファンがインタビューしているようなもの。
 第11回、恩田陸『常野物語』。ゲストとして再び笠井潔が参加。山田、笠井、牧の3人が、恩田陸に<常野物語>の創作裏話をあれこれ聞くみたいな内容。山田正紀が編集部から「山田さん、もう自虐ネタでウケを狙うの、禁止です」と注意されている。
 最後が「『読書会』刊行記念特別企画 打ち上げ大放談SPECIAL」。山田正紀と恩田陸に加えて、司会として参加した牧眞司、三村美衣、日下三蔵、そして編集部から二人が参加。ただの雑談で、あまりにまとまりがないためか、すぐに終わってしまう。面白そうなので、もうちょと長くしてほしかったところ。

Dokushokai

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2016年7月31日 (日)

乱視読者のSF講義

乱視読者のSF講義/若島正(国書刊行会,2011)
 英米文学エッセイ・評論集<乱視読者シリーズ>の第6弾。
 1冊目の『乱視読者の冒険』から4冊目『乱視読者の新冒険』までは一般の英米文学がテーマ(といっても、変な小説が大半だが)。5冊目の『殺しの時間 乱視読者のミステリ散歩』が、ミステリだけを扱ったもの。
 本ブログでは、過去にこのシリーズを2回取り上げたことがある。『乱視読者の帰還』(2011年10月18日のエントリー)と、『殺しの時間』(2014年2月4日のエントリー)で、今回が3回目になる。
 著者はこれまでのシリーズで、SF関係の文章を意識して抜いてきたという。いつかSFだけで一冊をまとめるつもりだったからなのだ。そういうわけで、満を持して(?)刊行されたのが本書。
 内容は3部構成。
 第1部が「乱視読者のSF短篇講義」。著者が実際に大学で行ってきた講義をベースにした紙上講義として、『SFマガジン』に12回にわたって不定期連載された記事をまとめたもの。
 内容はだいたい年代別に並んでいて、第1回がH・G・ウェルズの「ザ・スター」。最終回がスタニスワフ・レムの「GOLEM XIV」。
 他にワインボウム、ラヴクラフト、ブラッドベリ、ハインライン、スタージョン、ベスター、ディレイニー、ル・グイン、ディッシュ、ディックの作品が取り上げられている。ワインボウム以外はよく知られた作家ばかりだが、題材となっている作品は、必ずしも、その作家の短篇作品として真っ先に思いつくようなタイトルというわけではない。
 例えばブラッドベリの作品は、『火星年代記』の一部「イラ」、ディレイニーは「コロナ」、ディックは「にせもの」が取り上げられている。
 なぜその作品が選ばれたかは、内容を読めば納得できる。いかにも大学の講義らしい、「文学の方法論」による精密な読みと解釈が、それぞれの作品の意味と重要性を新たな視点から見せてくれる。すでに読んだことのある作品は読み返したくなり、まだ読んだことのない作品は読んでみたくなる(かもしれない)。
 第2部は、「乱視読者のSF夜ばなし」。雑誌掲載記事や文庫の解説16編を集めたもの。これまでの<乱視読者>シリーズのイメージに近い。取り上げられているのは、H・G・ウェルズをはじめ、オールディス、ウォマック、スラデック、プリースト、ベイリー、ワトスン、ラファティ、ヴォネガット、レムなど、いかにも一癖ありそうなというか、SFの中でも個性派の作家ばかり。
 第3部は、「ジーン・ウルフなんてこわくない」。著者がSF作家の中でもっとも偏愛しているらしいジーン・ウルフの作品について述べた解説や対談。
 ナボコフとウルフに似たところがある、というのはひいきの引き倒しみたいな気もするが、それだけ、ウルフの作品が奥深いということだろう。
 その実例を示しているのが、本書の最後を飾る「乱視読者の出張講義」。「SFセミナー」での講義を元にしたもので、2ページ足らずの超短編「ガブリエル卿」を題材に、20ページ以上にわたって精緻な分析を繰り広げる。「精読」とはこういうことか――。

 本書はいろいろな記事を集めたものだったが、できれば最初から1冊として企画されたSF評論も読んでみたいものである。SFを見る目がかなり変わってくるような気がする。

Ranshidokushanosfkougi

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2016年6月 4日 (土)

日本SF・幼年期の終わり

日本SF・幼年期の終わり 「世界SF全集」月報より/早川書房編集部編(早川書房,2007)
 オールドSFファンにとっては懐かしの<世界SF全集>(1968~1971年刊行)。本書は、その月報に掲載されていたエッセイを集めている。月報には毎回数編のエッセイが掲載されていて、全部で105編、本書に収録されているのは、そのうちから選び出された34編。他に何があったのか気になるところだが、それについての情報はない。
 ブログ主は遠い昔、この全集のほとんどを読んでいたが、月報など読んだ覚えがないのだった。全部図書館で借りて読んでたからだろう。月報にどんなことが書いてあったのか(その一部だが)、今回初めてわかった。
 本書の実質編者は石川喬司のようで、あとがきを書いている。そのあとがきの中で、かつて自分が昭和44年版『文芸年鑑』の「推理・SF界展望」に「日本のSFはようやく<幼年期の終わり>にさしかかったところなんだ」ことに触れていて、それが本書のタイトルの由来にもなっているのだが、この全集はまさしくそんな時期に刊行されていた。半世紀近く前の、時代の証言集である。
 各エッセイの執筆者は、当時のSF作家たち(といってもわずかなもの)と、SFにかかわり、関心が多少ともある作家、マンガ家、評論家、翻訳家など。
 内容ごとに四つのパートに分かれている。
 1 Essays by Japanese Authorsは、日本のSF作家たちによるエッセイ。執筆者は星新一、筒井康隆、眉村卓、光瀬龍、平井和正、半村良、矢野徹、石川喬司の8人。筒井康隆の文章がいかにも若々しいのが印象的。小松左京が出てこないのはなぜなんだろう。
 2 Essays on Authorは、日本のSF作家たちについて、周辺の人々が書いたエッセイを収録。真鍋博が星新一について、手塚治虫が小松左京について、藤本義一が眉村卓について、といった具合。執筆者はこの3人の他、尾崎秀樹、石森章太郎、都筑道夫、三木卓、浅倉久志。
 3 Essays on Science Fictionは、SFそのものについてのエッセイ。執筆者は、福島正実、佐野洋、生島治郎、水野良太郎、小鷹信光、松本零士、石原藤夫、松谷健二、谷川俊太郎、団精二(荒俣宏)。谷川俊太郎のSFに関する文章など、今となっては貴重だろう。
 4 Essays on World Science Fictionは、世界のSFについて。執筆はほとんどが翻訳家で、野田昌宏、伊藤典夫、榊原晃三、三輪秀彦、金森誠也、吉上昭三、飯田規和、深見弾。原書収集の方法論など、時代を感じさせる。何しろ当時はネットどころかファックスもまだ個人用には普及してなくて、郵便だけが頼りだった

 それにしても、執筆した面々を見てみると、すでに故人となってる人のいかにも多いことに改めて気づかされる(本書が刊行された時はまだ健在でその後亡くなった人も含めて)。というか、今も生きてる人は半分もいない。
 この頃が幼年期の終わりだとすれば、今の日本SFはどんな時期なのだろう。もはやそんなことを気にする人もほとんどいないのではないだろうか。幼年期とか青年期とか言う以前に、世代が変わってしまっている気がする。

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2015年12月25日 (金)

IFの世界

IFの世界/石川喬司(講談社文庫,1983)
 日本で出版されたSFの入門書というと、1965年に発行された福島正実編『SF入門』あたりがそのさきがけということになるだろう。その後、1970年代に「スター・ウォーズ」のおかげでSFがちょっとしたブームになって、サンリオから『SF百科事典』邦訳版が発行されたり、学研が『SFファンタジア』全6巻を発行したりした。
 そして80年代に入ると、ちょっと体系的なSF入門というか概説書として、『SFキイ・パーソン&キイ・ブック』(石原藤夫+金子隆一)や、『SFとは何か』(笠井潔編著)などが発行されるわけである。ほぼ同時期に出たこの2冊は、「サイエンス派」対「文学派」の争いみたいな構図になっていてなかなか面白いのだが、それはさておき、同じ頃出た、一般人向けに書かれたSFの入門書が本書。
 福島正実のSF入門に回帰したような印象もある、どこか懐かしい印象のある1冊である。

 本書は、元は毎日新聞の<日曜くらぶ>に1977年から78年にかけて連載された記事をまとめたもの。
 この文庫版の発行は80年代に入ってからだが、元々は70年代の狂い咲き的SFブームの中で書かれたものなのだ。あとがきによればこの連載の狙いは「近頃あちこちで話題にのぼりはじめた「SF」なるものの正体は何か。その楽しさ、面白さを、できるだけ多くの読者に知ってもらいたい」ということだったそうで、当時の雰囲気がよくわかる。
 そのため、当然ながら、まったくSFを知らない人にもわかるような、非常に初歩的なSF入門となっている。
 内容は全50章。
 1から30までは、個別のテーマというか、モチーフを題材にしたエッセイ。1「甲子園のおとぎ話」は、永遠に終わらない野球の話(阪神ファンには少々むかつく)を手がかりに、「IFの世界」へ読者を誘うという趣向。以下、2「アポロとかぐや姫」は、月、3「食用書籍はいかが」は、バイオテクノロジー、4「あなたとそっくり」はクローン、といった具合。
 それぞれのテーマに即して、アイデアや関連する作品を紹介し、最後にはちょっと読者に考えるネタを提供する、というのが基本パターン。主要なテーマはだいたい出てくるが、体系性はない。
 31から42までは、全12講の「SF教室」。定義、歴史、開祖、主題、ベム、近未来、遠未来、時間、終末、機会、次元、内宇宙。43からはまた各論に戻るが、「SF雑談」風になっている。43「大宇宙ひとまたぎ」は、宇宙SFに登場する各種宇宙航法の紹介、44「スペース・オペラ」は、文字どおり、「スター・ウォーズ」を枕にスペオペの主要作品紹介、といった具合で、SF的発想というより、SF作品の紹介がメインになっている感がある。最後は50「SF映画・漫画小史」。この文字数で語るには少々無理がある。
 巻末に索引がついているのはありがたい。全体として、少し初歩的すぎる面はあるが、良質なSF入門書となっている。さすがに石川喬司というか、派手さはないが、堅実な仕事である。ただ、SF的発想があまりに当たり前のものとなってしまった今の時代、入門書としての価値はもうほとんどないだろうが…。

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2013年11月 4日 (月)

SF川柳傑作選

SF川柳傑作選/SFアドベンチャー編集部編(徳間書店,1987)
 先日(2013年10月19日)星新一の『つぎはぎプラネット』紹介した時、珍しく川柳が収録されていることを書いた。その川柳の出典となった本。
 元は『SFアドベンチャー』に掲載された、SF作家などによる川柳座談会。タイトルには「傑作選」とあるが、トークの合間に川柳を詠む座談内容をそのまま収録しているだけで、多数の川柳から選び抜いたとか、そんなわけでは全然ない。
 1980年から1986年にかけて掲載されたもので、全7回。そのうち5回は実質的な新年号である2月号に掲載。正月企画だったわけだ。

 各回ごとに出席者が違っていて、顔ぶれと主な内容は次のとおり。

1 古典篇(星新一、小松左京、筒井康隆、豊田有恒)1980年2月号:記念すべき第1回。席上でお題が次々に出されるが、干支の「猿」はともかく、タイムマシン、ブラックホール、サイボーグ、ロボット等々と、まだまともにSFしている。小松左京の自作ネタ「果てしなき 流れの果てに 一休み」とか、筒井康隆の「テレバシー 集めてはやし 最上川」とか、わけのわからない句が大量に登場。
2 ダジャレ篇(横田順彌、鏡明、中村誠一、高信太郎、森下一仁)1983年2月号:2年の間をおいて復活。大物作家が姿を消し、かわりになぜかジャズミュージシャンの中村誠一が参加している。「ダジャレ篇」というほどダジャレ句ばかりというわけではない。
3 ハード篇(星新一、小松左京、豊田有恒、横田順彌)1984年2月号:この回のみ、「SF川柳」ではなく「SF都々逸」と銘打たれている。しかしみんな都々逸を作り慣れてないので(そりゃそうだ)、なかなか作品が出てこず、雑談ばかりしている。苦し紛れに出てくる都々逸も、「シュヴァルツシルトの限界越えて 汽車の窓から さようなら」(小松左京)とか。これはまだましな方。どこがハードなんだか。
4 パロディ篇(星新一、小松左京、豊田有恒、かんべむさし、横田順彌)1984年6月号:星、小松、豊田の3人はこれで4回目。さすがにネタが切れてきたらしく、あまり句を詠まずに雑談ばかりしている。小松左京は堂々と「もっとバカ話をしようか、普通の」なんて言ってるし。その中でひとり快調なのが初登場のかんべむさし。「赤茶けた星にわれひとり」なんて山頭火風の句まで出してくる。
5 浪花篇(小松左京、かんべむさし、堀晃)1985年2月号:これも雑談が大部分。堀晃が出ているせいか、クローン、クオーク、ニュートリノなど、ハードがネタが多い。あまり面白い句はないが。この回の方が「ハード篇」のタイトルにふさわしい。
6 辺境篇(中村誠一、長谷邦夫、久住昌之)1985年6月号:SF作家が全然登場せず、第2回にも登場したジャズミュージシャンの中村誠一と、マンガ家二人。知識で話題をリードする役がいないため、言葉のイメージだけで川柳を作る会になってしまっている。
7 噺家篇(かんべむさし、堀晃、桂歌之助、桂吉朝、桂雀松、桂米平)1986年2月号:SF作家2人と桂米朝一門の若手(当時)落語家4人という、よくわからない組み合わせ。誰がこんな企画を考えたのだろう。しかしさすがに言葉を芸にするだけあって、落語家の川柳はそれなりに様になっている。半分くらいはSFと何の関係もない句だが。

 はっきりいって、川柳そのものにはあまり記憶に残るほどのものはない。無理やり川柳をひねり出す間にいろいろと雑談をしているのだが、その雑談の方が面白いのだ。当然ながら、出席する顔ぶれにより面白さにもかなり差がある。
 やはり面白いのは、当時まだ健在だった小松左京、星新一のビッグ2が登場する回。この二人が登場しない回は、どうも物足りない感がする。小松左京の博覧強記、星新一の突飛な発想は他を寄せつけない。作品ではあれだけとんでもない発想を見せる筒井康隆は、この本の中ではおとなしく、あまり目立たないのが意外。
 それにしても、登場メンバーの豪華さもさることながら、他に類を見ない変な本であることは確かである。今思えば、SF雑誌でありながらSFファンの感覚とは微妙にずれていた『SFアドベンチャー』らしい企画だったと言える。

Sfsenryu

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2013年2月16日 (土)

1月に読んだ本から

SF挿絵画家の時代/大橋博之(本の雑誌社,2012)
 SFのイラストを手がけた挿絵画家71人の小伝を集めた、多分このテーマについては日本で初めての本。
『SFマガジン』の連載に加筆修正を加えて単行本化したもので、「単行本化にあたり、連載掲載順では並べず、ある法則によって並べ替えた」と序文にある。「ある法則」というと何か特別みたいだが、中身を見れば一目瞭然で、生年月日順に並んでいる。ごく普通である。
 一番古い人が、古賀亜十夫(1905-2003)。次が山川惣治(1908-1992)、続いて金子三蔵(1909-1990)という具合。最後は小阪淳(1966-)。
『SFマガジン』、ハヤカワSFシリーズ、創元推理文庫(現・創元SF文庫)、ハヤカワSF文庫(現・ハヤカワ文庫SF)などの表紙や挿絵を初期の頃から手がけた、古くからのSFファンには懐かしい画家たちから始まり、一世を風靡した巨匠、今も第一線で活躍するイラストレーターなどが次々と登場する。
 武部本一郎、小松崎茂、石原豪人、依光隆、真鍋博、生賴範義、司修、長岡秀星、加藤直之――と、SFのイラストを語る上で欠かすことのできない名前はもちろん、名前は覚えてなくても、引用された図版を見れば、「あの絵を描いた人か」と、思い当たる画家がほとんど。逆に最近登場した人は少ないのだが…。
 また、SF系文庫の表紙を語る上で欠かせない漫画家についても、松本零士の項でまとめて触れられているだけで、ほぼカットされている。そこまで手を伸ばすときりがないからだろう。
 本書を読んで改めて思ったのは、子供の頃からあれほど慣れ親しんだ挿絵画家たちについて、その人がどういう経歴で、画家としてどういうポジションにあるのか、要するに本人がどういう人なのかほとんど何も知らなかったということだ。単に本の表紙を描いているイラストレータだと思っていた人たちの中に、展覧会にも出品している本職の画家がいかに多かったかということがわかるし、なぜか武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)出身者が多い、なんてことにも気がついたりする。中には、性別を間違って思い込んでいたことがわかった人もいた。
 不満もないではない。紙面と経費の都合だろうが、肝心のイラストが、カラー版は口絵に8ページほどまとめられているだけで、基本的にモノクロの小さなものしか掲載されてないこと。タイトルからしてもっと図版が多いかと思っていたが(連載は読んでなかったのだ)、本書を最初に手にとった時は、本文があまりに文字ばかりなのでとまどった。
 また、本文そのものが、それぞれの挿絵画家の出生から学歴、経歴、家族構成に至るまで細かく記述しているのはいいのだが、画風についての言及が少ない。どういう絵を描く人なのかは、図版を見てくれと言わんばかりだ。しかしその図版が小さくて大まかなイメージしかわからない。
 まあ、文章で画風を説明するというのは、かなりの文章力と労力を必要とするし、スペースの都合でそこまで詳しくは書けないのもわかるが――。そのため、事実の羅列の部分があまりに多く、本書全体が硬い印象になってしまっている。そこに一片の柔らかみを与えているのが、各項の冒頭の、著者の個人的な思いや体験を綴った部分なのだが、著者は単行本化に当たってこの部分を削ろうと考えていたらしい(止めてくれる編集者がいてくれてよかった)。もうちょっと読みものとしての面白さも考慮してほしかった気がする。
 とはいえこれはやはりすごい本である。
 決して万人向けではなく、というかかなり読む人を選ぶ本なのだが、その選ばれた人には貴重な情報の数々を、懐かしい感覚とともに与えてくれる。

 本書で紹介された挿絵画家の中で、個人的に思い入れの深いベスト3。
1.岩淵慶造 『SFマガジン』の表紙の数々が忘れられない。一般受けする作風ではないが、構図とデッサン力が最高で、独特のタッチと色使いも素晴らしい。
2.新井苑子 ほのぼのしたタッチのイラストは、当時のSF界で(今もか?)、類を見ないものだった。印象深いのは、ハヤカワSFシリーズ版『小鬼の居留地』の表紙。
3.林巳沙夫 フォトコラージュを使った独特の作風に、SFそのものを感じた。創元文庫版『銀河帝国の興亡』のイラストが特にお気に入り。

Sfsashie

地形からみた歴史 古代景観を復原する/日下雅義(講談社学術文庫,2012)
 以前に紹介した『地図から読む歴史』(2012年8月20日のエントリー)とタイトルがまぎらわしいが、実は似ているようで方向性が違う。『地図から読む歴史』には、「聖武天皇の都作り」「平安京計画と四神の配置」「織田信長の城地選定構想を読む」など、誰が何のために何をしたか――を考察する内容が多い。いかにも歴史の本流である。
 これに対し、本書は、以下のような全七章からなる。

 第一章「景観の復原と遺跡」
 第二章「大地は変わる」
 第三章「『記紀』『万葉集』に自然の景をよむ」
 第四章「生活の場を復原する」
 第五章「生産の場を復原する」
 第六章「消費の場を復原する」
 第七章「景観の形成と古代」

 章題にも示されているが、主体は人ではなく、人が手を加えた地形と、その景観。それをさまざまな手がかりから「復原」するのが本書のテーマである。
 ところで、本書では「復元」ではなく「復原」という字を一貫して使っている。「土器や家屋のような単独のものを、元どおりに戻すのではなくて、過去のさまざまな時代の合成景観(原景観)を再構成するという自分の研究内容には、「元」より「原」のほうがふさわしいと考えるからである」だそうだ。このへんにも、著者が人でも物でもなく、景観(地形)を最重視していることが伺える。
 だからその研究手法も、自然科学的要素が多い。土壌サンプルから古代の地形変化を読み取り、分析する。土地の断面図も頻繁に出てくる。文中にはハンドオーガー、プルームサンプラー、シュートバーといった聞き慣れない専門用語が頻出する。図版を見ていると、歴史の本なのか、地質学の本なのかよくわからない。言わば、半分理系の歴史関連本。
 もっとも、そういう自然科学的な研究法だけでなく、文献による研究も取り入れている。特に第三章では、主に万葉集の歌から、当時の地形を推定している。
「玉敷ける清き渚を潮満てば飽かずわれ行く還るさに見む」なんて歌から、古代の船着き場の地形や景観を推定・再現したりするのだ。わずかな手がかりから、かつての景観を推理するプロセスには、ミステリめいた部分があると言えなくもない(無理か?)。もちろんそこには、地質学的な知識や研究手法も動員した考察があるわけだが。

 専門用語が多い上に、調査報告みたいな文章ばかりが続いていて、決して読みやすい本ではない。万葉集を引用しながらどうしてこんなに情緒のかけらもないのだろうと感心するほど。
 だが、内容は上にも見たように、一般読者には目新しいものだし、情報量も充実している。日本の古代が主な対象だが、作者は外国にも目を配っていて、トルコ、ギリシャ、エジプトなどの話題も出てくる。
 とりわけ関西に住む者としては、後半の主要テーマである大阪近辺の古代地形――それも人の手が加わってできた水路、池、港などに関する考察は興味深い。大阪平野に古代に作られたが現在は消えてしまっている「針魚大溝」や「依網池」、「狭山池」、古代の港である「住吉津」、「難波津」。そのかつての位置の推定や、往時の姿の復原などは、普通の歴史の本ではなかなか得られない知識だ。多少とっきにくくても、こういう世界を専門家だけに占有させておくのはもったいない。

Kodaikeikan

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2011年3月23日 (水)

2月に読んだ本から

 ずいぶん間が空いてしまったが、これはもっぱら個人的事情によるもので、別に東北・関東大震災の影響ではない。今後も当分は更新ペースが落ちるかもしれないが、ぼちぼちとやっていくつもり。
 というわけで、ずいぶん遅くなったが、今回は先月読んだ本から2冊。珍しくも、両方とも翻訳で、かつSFがらみ。

SF文学/ジャック・ボドゥ;新島進訳(白水社・文庫クセジュ,2011)
 1971年、この<文庫クセジュ>から『SF小説』という本が出ている。著者はジャン・ガッテニョ、訳者は小林茂、原題は本書と同じ"La Science-fiction"。ガッテニョの原著の発行は翻訳と同じ1971年(その年のうちに訳書が出たのだ)、今回のは2003年。原著は32年ぶり、翻訳は40年ぶりの、「クセジュのSF」である。
 しかし、いくら年月が経っても、この手の本の基本構成は変わらないらしい。あるいは、本書が基本にあくまで律儀というか。
 全体構成は以下のとおり。
 まず序章で、SFの定義。第一章「ジャンルの起源」では、SFの歴史。第二章「SFの地理学」は、アメリカ、イギリス、フランス、その他の国々(と言ってもヨーロッパだけ)のSF事情を紹介。第三章「SFの主要テーマ」は、「宇宙」、「時間」、「機械」などのテーマとその主要作品を解説。
 「定義」、「歴史」、「テーマ」はSF入門書では基本中の基本。これであと、「用語集」と「作家名鑑」があれば完璧である。ただ、タイトルに「文学」とあるとおり、本書が扱っているのは文字のSFだけ。著者自身が冒頭で書いているとおり、映像やマンガ、ゲームなどにはまったく触れられていない。何しろ本文が147ページしかないので、それは仕方がない。むしろこの薄い本に、小説だけとはいえよくぞこれだけの内容を詰めこんだものと感心する。
 ガッテニョの『SF小説』の翻訳には、正直言って、SF読みからすれば「何これ?」と言いたくなるような箇所もあった(ような気がする)。
 本書は、その点ではかなり改善されていて、SF用語の訳にもおかしな点はないし、邦訳がある作品は丁寧に調べて正確なタイトルをつけることに努めている。フランス語に訳されたタイトルから原題名を推定し、それから邦題を探すのだから、これは結構手間のかかる作業なのだ。
 ただ、SF史上有名な作品、あるいはイーガン、ウィリス、シモンズ、ソウヤー、バクスター、マコーリイといった比較的最近の作家の作品には目が行き届いているが、ところどころ、「古くてマイナーな作品」の邦題チェックが洩れている。
 例えば、1960年にハヤカワSFシリーズから出たJ・T・マッキントッシュの『300:1』が、本書では未訳扱いで『チャンスは三百分の一』(p108)。何冊ものアンソロジーに収録されているハインラインの短篇「歪んだ家」も、「不格好な家」という未訳作品にされている(p121)。
 あと、これは原文が変なのだと思うが、明らかに変な記述もあった。「ニュー・ウェーブ」運動に参加したアメリカのSF作家の名前に、スピンラッド、ディレイニーなどに並んでなぜかトマス・ピンチョンが入っている(p44)。あるいは、「アーサー・C・クラーク『宇宙のランデヴー』に登場する(中略)全長三〇メートルの宇宙船」という一節(p90)。全長30メートルって、国際宇宙ステーションよりも小さい、そんなのは「ラーマ」じゃない!と叫びたくなる。(ちなみに、ラーマの正しい全長は50キロメートル。)
 まあ、小さい間違いはどこにでもあるもので、全体としては――帯の惹句にあるように「今日望みうる最良のSF入門書」(巽孝之)とまではいかなくても――、SFの基礎知識と全体像をコンパクトにまとめた、よくできたガイドブックであることは間違いない。著者のSF観はかなり保守的だが、それだけに、本来の「SF」とは何であったかということが、この本を読むとすっきりわかる。
 ちょっと値段が高い(170ページくらいの新書版の本なのに、1050円)のは、文庫クセジュだから仕方がないか。

SF文学 (文庫クセジュ)

51番目の州/ピーター・プレストン;鈴木恵訳(創元推理文庫,2009)
 舞台は、ブレア政権から30年後――ということなので、2030年代半ばのイギリス。通貨統合もとっくに終わり、EUの中でますます存在感が薄れていくばかり。
 主人公ルパート・ウォーナーは保守党の下院議員で、院内総務。院内総務というのは内閣と議会との間の調整役みたいな役職で、閣僚ポストの一つだが、あまり実権のある地位ではないらしい。ウォーナーも単なる首相の操り人形と見られていてた。要するにあまりぱっとしない政治家で、どうでもいいような男だった。それが、父親の死をきっかけに院内総務を辞任、一般議員になった途端に、首相の意向に逆らい、EUとのさらなる統合を進める国民投票案に反対する。
 ウォーナーたちの活動の結果、国民投票は予想を裏切ってEUとの統合案を拒否する結果になる。首相は政権を投げ出し、EUを脱退したイギリスは、途端に経済も外交も行き詰まってしまう。そんな中で首相に担ぎ出されたウォーナーに、アメリカ大統領の側近がある提案をする…。
 というわけで、タイトルからもわかるとおり、イギリスはアメリカ合衆国に編入されてしまうのである。正確に言うと、イングランド、スコットランド、ウェールズ、アルスター(北アイルランド)、アイルランドがそれぞれ別々の州になるので、アメリカに五つの新しい州ができることになる。51番目がイングランドで、スコットランド以下が52番から55番なのだろう。
 実際にどんな具合にこの統合が実現されたのか、もっとも読者の興味を引くところだと思うが、実は、そこのところを著者は書いてない。この小説は二部構成になっていて、「第一段階」が、ウォーナーがイギリス首相になり、アメリカとの統合に踏み切るまで。「第二段階」は、イングランドその他が「アメリカ合衆国東地区」になって二年後から始まり、ウォーナーはイングランド州代表の上院議員になっている。まあ、イギリスという国家が消滅し、アメリカに編入される過程を詳しく書けば、それだけで本1冊分になってしまうのだろうが、実は著者が本当に書きたかったのはそこではない、というのが真相のような気がする。
 「第一段階」で、院内総務→一般議員→首相とその地位がストーリーの進展に連れて変わっていったウォーナーだが、「第二段階」でも、上院議員を皮切りに、運命のいたずらで次々と新しい地位を手に入れて行くことになる。この小説は、「不器用な大男」で、決して政治家として優秀ではないルパート・ウォーナーの出世物語とも言える。
 ルパート・ウォーナーと並んで本作のもう一人の主役と言えるのが、その妻のジェニファ、「特殊法人の女帝」。芸術、福祉、放送など様々な分野の委員を務める活動家で、小説の冒頭では「テレビに出る回数はルパートよりはるかに多く、討論番組の常連」と言われている。とにかく派手な奥さんなのだが、同時に浮気がやめられないという病気を持っている。小説内でも次々と相手を変える。特に「第二段階」で、この困ったおばさんが重要な役割を果たすことになる。
 その他にも、元イギリス首相マイケルソン、ウォーナーが抜擢した若手女性議員ガーリー、イギリスの併合を決定したアメリカ大統領アンジェリ、その後継者のテイト、野心家の若手記者ジュリー、ちょっとだけ出てくるイギリス国王など、個性的な登場人物は多い。
 それにしても、この話は一体何なのだろう。
 形式的に見れば近未来SFということになるのだろうが、社会の様子は現在と変わらないし、未来的なテクノロジーも全然出てこない。古き良きイギリスの凋落を嘆く話でもなければ、イギリスがアメリカに編入されたらどうなるかというシミュレーションでもない。
 物語は最初から最後まで、政治家たちの世界で展開する。政治と関係しない人物は登場しない。金とスキャンダルと陰謀と欲望にまみれた政治家たちの世界を辛辣に描く、皮肉に満ちた政治小説なのである。

51番目の州 (創元推理文庫)

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2011年1月31日 (月)

空想文学千一夜

想文学千一夜 いつか魔法がとけるまで/荒俣宏(工作舎,1995)
 とにかく分厚い。698ページ。ファンタジーに関するエッセイとレビューだけでこれだけの分量の本というのは、日本で出版された本の中では他に知らない。
 内容は雑誌記事、文庫の解説、『世界幻想文学大系』の月報など、さまざまな場所で発表された幻想文学論、作品論、作家論といったもの。ほとんどが1970年代に書かれたもので、80年代(著者が『帝都物語』で売れまくった頃)の文章が少々。そして90年代の文章はごくわずか。その理由は最後に収められた一文を読むとわかるのだが、それはさておき――。
 1970年代といえば、幻想文学の分野での出版が相次いだ時代だった。国書刊行会の<世界幻想文学大系>に、創土社の<ブックス・メタモルファス>、新人物往来社の<怪奇幻想の文学>、雑誌『幻想と怪奇』、そして牧神社に薔薇十字社…。
 今思えば、1970年代は日本の幻想文学出版の黄金時代だった。現在では考えられないような、重厚かつ晦渋な作品が続々と出版されていたのだ。
 本書に収録された文章の数々は、そんな1970年代の、「幻想文学黄金時代」の輝きを宿している。、幻想文学総論、ヒロイック・ファンタジー、ダンセイニ、ケルティック・ルネサンス、ク・リトル・リトル神話、ゴシック・ロマン、ステープルドン、ウェルズ、アンデルセン、ホジスン、ライバー、稲垣足穂、沼正三、澁澤龍彦…。熱気のこもった文章が、幻想文学の数々――当時翻訳が出てなかった作品も多い――を語り尽くす。伝統的な幻想文学への著者の偏愛の一方で、モダンホラー嫌い、特にスティーブン・キングが嫌いらしいことも見てとれる。
 70年代ならではでの、幻想文学と「反体制」との、今から見たら無理やりとも見える関連づけもある。あるいは、誰を対象としているのかわからないような、あまりにマニアックな語りかけもある。例えば――「前述したフラマリオンの奇著を、一九二三年に改造社から高瀬毅訳で出た珍しい邦訳本を通じて、もしも読んでおられるあなたなら」(「ゲットーからチャイナタウンへ 『見えない都市』の隠喩」より)とか――。そんなやつが著者以外にいるか! いるとしても、日本中で10人くらいじゃないか、とつっこみたくなる。
 それらすべてを含めて、ここにあるのは、1970年代を中心とする幻想文学の歴史の証言なのだ。だが、本書に収録された700ページ近い文章が、著者にとって過去の遺物にすぎないことが、最後の文章「何年たっても変化しない幻想文学ファイナル・ベスト」に明言されている。

 幻想文学は飽きあきするほど読んだ。したがって全体像もぼんやりぐらいなら把握できたと思っているし、今ではぬかみそ女房のごとくすこしわずらわしい存在になってもいる。(中略)つまり、こちらとしてはすでに幻想文学の慈善事業家であろうとする気がなくなったから、このジャンルが滅びても悲しみはしない。すべてが止まった。だから、好きな本を一〇作選ぶといったような作業の内容は、今後何年経っても変化しないだろう。すべてが止まった。このリストは、愚生自身のファイナルである。(p.678)

 ――ということである。この本に盛り込まれた読書量は気が遠くなるくらい恐るべきものだ。1970年代から80年代のある時期にかけて、幻想文学とその周辺の本をを著者くらい読んだ人間は日本にいないのではないだろうか。
 だから、読むべき本はすべて読み尽くして、後は「卒業」するしかなくなったのかもしれない。「いつか魔法がとけるまで」という本書のサブタイトルは象徴的である。著者にとって、幻想文学という魔法はすでにとけた後なのだ。

 そんな著者の「ファイナル・ベスト10」は以下のとおり。

①エドガー・ポオ 「ユリイカ」 ②ウォルター・デ・ラ・メア 「謎」 ③ホフマン 「砂男」 ④マチューリン 「放浪者メルモス」 ⑤ヴォルテール 「カンディード」 ⑥ダンセイニ 「時と神々」 ⑦ヴィアン 「日々の泡」 ⑧ボルヘス 「異端審問」 ⑨澁澤龍彦 「夢の宇宙誌」 ⑩山東京伝 「桜姫全伝曙草紙」

 小説じゃない作品や、どこが幻想文学?と首をひねりたくなる作品も入っていて、このベスト10がすでに、幻想文学と決別した後の産物のような気もするが。10番目の山東京伝は、著者の「幻想文学熱中時代を終わらせた猥雑な一篇」なのだそうだ。
 本書は荒俣宏のファンタジー評論の集大成にして、「決別の書」である。1970年代の貴重な証言の数々を収め、圧倒的なボリュームを誇り、資料的価値も抜群である。――にもかかわらず、読み終えた後に一抹の寂しさを感じざるを得ない。

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