スポーツ

2020年8月14日 (金)

プロ野球・二軍の謎

プロ野球・二軍の謎/田口壮(幻冬舎新書,2017)
 現役のプロ野球二軍監督(当時)による、「二軍への招待」みたいな本。
 この本が出た時、著者はオリックスの二軍監督就任二年目。長年プロ野球選手、引退後は解説者として仕事をしてきて、組織の中で仕事するのはこれが初めての経験だったとのこと。新しい発見に満ちた世界に生きている充実感が伝わってくる。(なお、著者は今は一軍のコーチをやっている。)
 文章は特に表現力に優れているということもないが、要所を押さえて言いたいことを伝えている。強調したいところはゴシック体。ビジネス書に近い印象。つまりは、ビジネス書並みに普通に読める文章だということでもある。

 内容は5章構成。
 第1章「プロ野球の二軍は何をしているのか?」は、プロ野球二軍についての基礎的情報。一軍と二軍との違い、年間スケジュールや一日のスケジュール、降格・昇格事情などを、実際のエピソードをまじえて説明。
 第2章「日本の二軍とアメリカのマイナー」は、アメリカでの経験が長い著者ならではの章。厳しい格差社会であるアメリカ・マイナーリーグの世界、マイナーとメジャーとの関係、マイナー生活の生々しい実情などを語っている。
 第3章「二軍の試合が100倍面白くなる!?観戦ガイド」は、観戦のための二軍各チームと試合のガイド。ウェスタンリーグ各チームの特徴、一軍の試合との違いなど。
 第4章「新人監督のマンスリー・ダイアリー」は、日経新聞ウェブ版の連載コラムをまとめたもの。2016年1月から12月まで、現場から生まれた野球論、チーム論、選手談義、体験談の数々。この章が一番長い。
 第5章「二軍監督という仕事」。二軍監督就任の経緯や一年目の反省などを語る、一応まとめの章。現場に身を置く者の生の声ではあるが、ちょっとまとまりがない気もする。
 ――というような内容で、二軍の話はなかなか表に出てこないだけに、現場での体験談は値打ちがあるだろう。ただし、タイトルにある「謎」なんてものは何もない。

 

 

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2019年7月14日 (日)

虎バカ本の世界

虎バカ本の世界 阪神タイガースを「読む」/新保信長(ワニブックスPLUS新書,2017)
 タイガースファンによる57冊のタイガース本を集めた、熱いレビュー集。書評のあちこちに著者のタイガース愛がみなぎっていて、この本自体が立派な「虎バカ本」と言える。
 内容は、虎バカ本を6種のカテゴリーに分類して、それぞれに1章をあてている。

 第1章「純粋虎バカ本」は、有名無名の人々の、「虎への想いがあふれまくる」本。いきなり歌集や詩集から始まるのが意表をついている。『歌集 阪神タイガース 虎にしびれて』(小杉なんぎん)など10冊。
 著名なスポーツライターが書いた河出文庫の『タイガースへの鎮魂歌』(玉木正之)みたいなわりとメジャーな本もあれば、チャンネルゼロから出た『ええかげんにせいっ! タイガース』(レオナルドいも)みたいな、同人誌みたいな本もある。90年代暗黒時代の本が多いのは、逆境の時こそ虎バカ魂が燃えあがるということか。
 第2章「便乗虎バカ本」は、タイガースがたまに強くなった時期に作られた便乗本。1985年や2002年、2003年に出た本が多い。即席感に満ちた『獣王無敵!嗚呼タイガース』など9冊。便乗本でも即席でも、著者にとってはタイガース愛さえあればいいらしい。
 第3章「うんちく虎バカ本」は、タイガースに関する知識、情報、評論などの本9冊。辞書スタイルの『甲子゛園[こうじえん]』(由倉利広)、1年365日のタイガースに関する出来事を集めた『今日も明日も阪神タイガース!』(近藤道郎)みたいなオタク本があるかと思えば、京都や関西について次々と話題の本を出している井上章一が書いた『阪神タイガースの正体』みたいな、ちょっと学術的な本もある。
 第4章「有名人虎バカ本」は、とにかく有名人のタイガースファンが書いた本10冊。『マンボウ阪神狂時代』(北杜夫)に始まり、月亭八方、道場洋三、江國滋、ダンカン、松村邦洋など、いかにもな顔ぶれが並ぶ。読まなくてもだいたいの内容は想像できるような気が…。
 第5章「内幕虎バカ本」は、タイガース関係者や記者、スポーツライターが書いた、タイガースの裏面に踏みこんだ本9冊。負の面を暴露しているところがあっても、「根底にはやはり愛がある」のだそうだ。バースと親交のあった評論家が書いた『この一年 バースが言いたかったこと』(平尾圭吾)など。
 変わったところでは、甲子園の舞台裏を捉えた写真集『もうひとつの阪神タイガース』(妹尾豊孝)なんて本もある。
 第6章「フィクション虎バカ本」。最後の章は小説とマンガ10冊。この中で、『新本格猛虎会の冒険』は読んでいて、前に本ブログでも紹介したことがあるが(2007年3月24日のエントリー)、他はタイトルすら知らなかった本が多い。『ヒーローインタビュー』(坂井希久子)は、この本で知って、その後読んでしまった本。実のところ、この章が一番、読んでみたくなる本が多かった。

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2018年1月 3日 (水)

4522敗の記憶

4522敗の記憶 ホエールズ&ベイスターズ涙の球団史/村瀬秀信(双葉社,2013)
 今は横浜DeNAベイスターズと名乗っている球団の、創設時からの敗北まみれの歴史を語るスポーツ・ノンフィクション。ベイスターズの暗黒時代ただ中の2013年に発行された。
 4522敗というのは、セントラル・リーグが発足してから、この本が発行される前年2012年までの、このチームの敗戦数。この時点で、12球団最多だったそうだ。
 本書は、1998年の優勝という一瞬の栄光を冒頭に持ってきて、その後の急激な凋落、そして球団創設以来の苦闘の歴史を、関係者へのインタビューを中心に語る。
 とにかく、インタビューの量と質が圧倒的。現役選手、OB選手、歴代の監督やコーチ、球団社長など。総計34人にインタビューしたという。
 この著者は以前に本ブログで紹介した『気がつけばチェーン店ばかりでメシを食べている』(2015年7月13日のエントリー)、『それでも気がつけばチェーン店ばかりでメシを食べている』(2017年10月23日のエントリー)の著者。しかし本書は、この2冊のおちゃらけたB級グルメエッセイとはまったくタッチが違う。
 球団の凋落と再生への道というテーマに真っ向から挑むその姿勢は真剣そのもの。文章の端々に、著者の球団愛と情熱がほとばしっている。弱体化したチームに立ち直ってもらいたいと、痛切に思っているのがわかる。実に正統派のノンフィクションなのである。同じ著者の本とは思えないくらいだが、実はこっちのスポーツノンフィクションの方が著者の本来の専門らしい。
 最後に著者は、この本が出た当時球団を買収したばかりだったDeNAに改革の望みを託しているが、2年続けてAクラス入りという成果があったことはよく知られるとおり。今年はどうなるかわからないが。
 ブログ主はベイスターズのファンでも何でもないのだが、それでも本書には引き込まれるものがあった。
 それにしても、同じような暗黒時代を経験した球団でも、弱ければ弱いなりに楽しんでしまう阪神タイガースとはえらい違いである。

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2014年9月25日 (木)

8月に読んだ本から(その2)

 8月に読んだ本から、その2としてノンフィクション2冊。

永遠の一球 甲子園優勝投手のその後/松永多佳倫、田沢健一郎(河出文庫,2014)
 6人の甲子園優勝投手、プラス1人の準優勝投手を取り上げたスポーツ・ドキュメンタリー。単行本は2011年刊。
 本書で取り上げられた7人は全員がその後プロ野球選手になったが、有名になった選手もいれば、ほとんど活躍できず、無名のままプロを去った選手もいる。共通しているのは、甲子園優勝が彼らの人生を大きく変えたということ。
 そんな七つの人生を、インタビューと現地取材を中心に描き出す、実に正統派のドキュメンタリーである。
 各章の構成と、登場する投手は次のとおり。なお、本書でいう「甲子園優勝」は、夏の選手権大会での優勝で、春の選抜は含んでいない。

・第一章「流転」――愛甲猛:横浜高校で1980年優勝。ロッテ→中日。不良のイメージだったが、今はマジメなサラリーマン。
・第二章「酷使」――土屋正勝:銚子商業で1974年優勝。中日→ロッテ。地元銚子では今も有名人。
・第三章「飢餓」――吉岡雄二:帝京高校で1989年優勝。巨人→近鉄→楽天。本書の取材時はメキシコ・リーグにいた(現在は現役引退)。
・第四章「逆転」――畠山準:池田高校で1982年優勝。南海→ダイエー→大洋→横浜。その後横浜球団の職員に。
・第五章「解放」――正田樹:桐生第一高校で1999年優勝。日本ハム→阪神。その後台湾リーグ、独立リーグなどを転々とする。実は本書で書かれている以降も、ヤクルトに復帰し勝利投手となるなど、波乱の選手生活を送っている。
・第六章「鎮魂」――石田文樹:取手二高で1984年優勝。大洋→横浜。全盛期のPLを破った唯一の投手。だがプロでは一勝しただけで退団、若くして病死。本書は優勝投手本人へのインタビューが大きなウェートを占めているのだが、本章だけは当然ながら、周囲の人々へのインタビューが中心。
・特別賞「破壊」――大野倫:沖縄水産高で1991年準優勝。巨人→ダイエー。引退後、大学職員、少年野球指導者など。この大野倫だけは「優勝投手」ではないので、特別章になっている。

 執筆は、二人の著者が章ごとに分担していて、第一、三、五章は田沢健一郎、第二、四、六章と特別章は松永多佳倫が担当。
 ところで特別章を設けてまで準優勝投手のことが書いてあるのはなぜかという気もする。実は松永多佳倫は、大野倫のことを知りたくて沖縄に移住したというほど、高校野球の投手酷使問題の象徴となったこの投手への思い入れが強いのだそうだ。優勝投手でなくても、どうしても大野のことだけは書きたかったのだろう。
 それにしても、「流転」、「酷使」、「飢餓」等々、各章のタイトルにこんな暗いイメージの言葉を使わなくてもよかったのではないかと思うが。これでは、暗い話の嫌いな人は、目次を見るだけで買うのをやめてしまうのではないか。
 実際に読んでみると、そんなに暗いわけではないのだが。ただ、甲子園がピッチャーに過酷な負担を強いる場であるという問題意識は、二人の著者に共通して感じられる。本書に登場する7人の大半が、腕や肩を酷使し過ぎて投手生命を奪われている。愛甲も吉岡も畠山も、打者に転向して活躍したのだ。この中で、プロで10勝以上できたのは正田だけである(25勝)。
 本書には出てこないが、夏の甲子園で優勝して、その後プロでも投手として十分に活躍したというと、古い時代を除けば、桑田、松坂くらいだろうか。
 栄光であるとともに過酷な試練でもある(近年は過酷さを軽減する動きはあるが)甲子園、その意味を改めて考えさせられる。

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大衆めし激動の戦後史 「いいモノ」食ってりゃ幸せか?/遠藤哲夫(ちくま新書,2013)
 以前に紹介した『汁かけめし快食學』(2007年8月27日のエントリー)、『大衆食堂パラダイス』(2012年5月11日のエントリー)の著者が、ラディカルに日本の食を語る。テーマは「日本料理」でも「和食」でもない、大衆の食としての「生活料理」。一種の「反グルメ論」にもなっている。
 個別の料理や店の話はほとんど出てこないので、普通の「食べ物エッセイ」を期待するとあてがはずれるだろう。

 内容は全7章構成。著者自身がまえがきで、「三つの話」から成り立っていると書いている。
 第1章「激動の七〇年代初頭、愛しの魚肉ソーセージは」:1970年ごろから40年間、「日本の食と料理は、ほんとうに激動の時代だった」。その激動の時代に、著者自身の激動の半生を重ねる導入部。
 第2章「クックレスの激動」:クックレス、つまりレトルト食品や冷凍食品がもたらした食の変化と、外食の増加。
 第3章「米とパン、ワインとチーズの激動」:日本の食の「洋風化」と、米・パン論争批判。この章までが、著者自身が関わってきた、日本の食生活「激動」の歴史。
 第4章「激動のなか「日本料理」はどうだったのか」:生活から遠い日本料理の象徴としての「甘鯛のかぶら蒸し」を象徴的に取り上げ、生活から離れ形式化した「日本料理」へのきびしい批判を展開。確かに、家庭ではまず作らない料理だ。
 第5章「さらに日本料理、食文化本とグルメと生活」:章のタイトルから「激動」が消えた。前章の続きとしての日本料理論から、広く食文化論へ。この章のしめくくり、「ありふれたものを美味しく食べる」は、本書全体の結論のようでもある。この4章と5章が二つ目の話。
 第6章「生活料理と「野菜炒め」考」:三つ目の話として、本書の主要テーマでもある「生活料理」。「生活料理」の代表として野菜炒めを例に出す。「どうも野菜炒めを考えるほど、野菜炒めは現代日本が雑多性を深めつつ生きている姿そのものという気がしてくる」(p.162)。野菜炒めが日本そのものにまで昇格している。
 第7章「激動する世界と生活料理の位置」:最終章で「激動」が復活。食の豊かさと食料自給率について考える。本書全体のまとめというより、「四つ目の話」みたいな気もする。

 ところで著者の書き方は、『汁かけめし快食學』みたいにB級グルメを熱っぽく語るにはいいが、議論にはあまり向いてないような気がする。基本的に「論」ではない、エッセイなのだ。著者自身がまえがきで「本書は、大まかに、あまり関係なさそうな、だけどそうでもない三つの話から成り立っている」と書いているくらいだし…。
 ただ、とりあえず著者が「日本料理」に批判的で、「生活料理」に価値をおいていることはわかる。世界無形文化遺産に登録され、やたらと持ち上げられる「和食」に疑問を投げかける点は、独自の視点として評価したい。
 やはり、随所に顔を出す豪快な語り口が、著者の持ち味だろう。決めセリフの「気取るな! 力強くめしを食え!」が何度も出てくる。何よりも雄弁に著者の主張を語っている。

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2012年3月22日 (木)

2月に読んだ本から

2月に読んだ本から、趣味に走った新書を2冊。

プロ野球 強すぎるチーム 弱すぎるチーム/小野俊哉(PHP新書, 2011)
 強いチームはどこが強いのか、弱いチームはなぜ弱いのか、徹底的に数字で分析する。
 第一部「強すぎるチーム」が全体のページ数の約8割を占めていて、実質的には強いチームの分析本と言っていい。
 その第一部は、9章に分かれていて、特に第一章「藤本巨人」が長い。戦前・戦中期、藤本定義が巨人の監督をしていた1936年から1942年にかけての話で、これだけ古いと知らない人が多いから、それだけ説明が必要になるのだろうか。それにしても、この時期の巨人の勝率は.715という、現在では信じられないような強さ。今だったら、勝率5割代後半で優勝できる。
 以下、時代を追って、「水原巨人と三原西鉄」(1950年代)、「V9巨人」(1960、70年代)、「鶴岡南海」(23年にわたる長期政権)、「広島の初優勝」(1975年)、「上田阪急」(1970、80年代)、「森西武」(1986、84年代)、「野村ヤクルト」(1990年代)、「21世紀の優勝チーム」と続く。
 著者の考える強いチームというのは、数値分析にも現れているように、守りに強い安定したチームのようで、1985年の阪神みたいな、突発的に強くなった狂い咲きみたいなチームは取り上げられていない。
 もっとも、1985年の阪神については、その後の長期低迷の原因になった反面教師として、第二部で言及されている。
 その第二部「弱すぎるチーム」は、4章構成。こっちは時代順ではない。
 ここに取り上げられた不名誉なチームは、21世紀の「横浜ベイスターズ」、1954年から56年まで存在した短命チーム「高橋(トンボ)ユニオンズ」、1961年に103敗した近鉄、そして1987年から2001年までの阪神。
 膨大な数字、そしてグラフは説得力がある。
 例えば、阪神タイガース。1985年から2003年までの阪神の得点と失点の変遷を現したグラフを見ると、1985年に優勝した翌年から得点力がガタ落ちし、2003年に再び優勝するまで回復してなかったことがわかる。その間、常に失点が得点が上回っていたので、これでは勝てるわけがない。上にも書いたように、この阪神の暗黒時代を招いたのは、1985年の優勝だったというのが、著者の説。要するに、勢いだけで優勝してしまったので、大ざっぱな野球しかできなくなったことが、阪神をダメにしたというのだ。
 ただ、長期低迷期の中で、1992年に一年だけ強かったことがあるが、この年も得点力が上がったわけではない。この年だけ急激に失点が減っていて、得点を下回っていたのだ。(仲田や猪俣などの投手陣がこの年に限って異常に成績がよかった。)
 ――というようなことが、グラフを見れば一目でわかる。
 また、各所に出てくるのが、得点別、失点別の勝敗数。その分析の結果出てくるのが、最後から2番目のページに載っている「敗戦になる可能性が高い3得点以下の試合で、いかに負けないかを競うスポーツが、プロ野球なのです」という言葉。この論理が本書全体を通じて貫かれている。
 それはまあ確かにそうなのだろうが、最低限の得点で堅実に守り勝つ、というのは、森西武や、最近では落合中日が目指していたスタイルだ。そんなチームばかりになって面白いだろうか、という気もする。
 とはいえ、強いチームにはそういう傾向がある、というのは事実だろう。何より、膨大なデータの分析は説得力があるし、野球が統計のスポーツだということを実感させてくれる。
 そんなデータを頭に入れておきながら、ペナントレースを眺めるのも面白いかもしれない。

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マンガの遺伝子/斎藤宣彦(講談社現代新書, 2011)
 プロローグ「マンガ――つながりとしての」は、こんな意表をつく文章で始まる。

 『人間失格』の主人公は、マンガ家である。

 本当か?と思って原作を確認してみると、確かにそのとおりなのだった。ここで著者は、『人間失格』の主人公像から始まって、この太宰治の代表作のマンガ版について、さらにその精神を受け継ぐ『さよなら絶望先生』などについて語る。これがいわば、マンガにおける『人間失格』の「遺伝子」というわけか。
 こんな具合に、マンガにおいてあるテーマや表現方法が、どのように作者や時代を超えて伝えられているか、あるいは共有されているか、を考察することが本書のテーマ。著者の表現を借りれば「モノサシ」を当てる、もしくは補助線を引くわけである。
 内容は、テーマごとに全9章。
 第一章は、野球マンガの起源と、少年週刊誌の誕生と発展について。第二章は前章の続きみたいなもので、野球マンガ、特に「魔球」の進化史。
 第三章はギャグマンガ論。ギャグマンガの世界を「萌え←→実話・爆笑」、「コンサバティブ←→アバンギャルド」の二つの軸上にマッピングした図が載っている。この図については、納得のいかない部分も多いが、それは仕方がない(誰からも異論のないマッピングなど不可能だろう)。
 第四章は表現論。マンガの画面での車などの疾走の表現と、感情を表現する「浮遊物」の表現について。この二つがなぜ一緒に論じられるのか、よくわからない。
 第五章も表現論で、少女マンガと青年マンガと「青女」マンガ、それぞれに特有の表現(「背景の花」とか)と描線の考察。
 第六章は、少年マンガのヒーロー像、特に著者が「エクストリームマンガ」と呼ぶ過激なマンガの系譜。
 第七章は、現在にまで続く料理マンガの表現史に、野球マンガの「魔球」の伝統をからめて論じる。正直言って、ここまでのところは、ところどころ面白い視点や見解はあるものの、それほどの独創性は感じなかった。
 魔球については、夏目房之介の『消えた魔球』という、この分野では古典的な著作がある。ギャグマンガ、少女マンガ、少年マンガなどのジャンル論、描線や画面構成、ストーリーなどについても、すでに各種のマンガ評論で語られている。
 本書のユニークさを感じたのは、第八章の「サンプリングマンガ」と最後の第九章の「マンガ家マンガ」だった。
 「サンプリングマンガ」は、引用や模倣、コラージュ表現を特徴とするマンガ。「マンガ家マンガ」は、文字どおりマンガ家の世界を描くマンガ(『バクマン。』とか、『俺はまだ本気出してないだけ』とか)である。いわば、マンガの上に成り立つマンガ。ここへきて、プロローグの『人間失格』とつながるわけである。
 とはいえ、どうも全体として脈絡がないという感は否めない。本格的評論というより、エッセイ集として読んだ方がいいのかもしれない。

 ところで、本文中で言及されたマンガの図版が豊富に引用されているが、その発表年が記載されてないのは解せない。マンガの歴史が重要なテーマであるこのような本で、年代を表記することは非常に重要なことだと思うのだが。例えば第一章で野球マンガの先駆として紹介されている「バット君」は、何年の作品なのか、どこにも書いてない。図版の出典は巻末に載っているが、ほとんどがコミック版で、中には復刊もあったりして、雑誌での初出はわからないのだ。このへんはもうちょっと気を使ってほしかった。

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2009年2月19日 (木)

大リーグと都市の物語

大リーグと都市の物語/宇佐見陽(平凡社新書,2001)
 タイトルだけだと、内容がなんだかわかりにくいが、要するに大リーグの略史がメイン。ただし、球団の成績やプレイヤーの話はほとんど出てこない。「野球」の話を期待すると当てがはずれるだろう。
 何が書いてあるかというと、球団の移転や拡張、誘致合戦、チームとファンや地域との結びつき、マイナーリーグと地域社会、球場の名称と建築様式の変遷、といった大リーグ周辺の話題に焦点を当てている。特に、最後の「球場進化論」みたいな話はオタクっぽくてけっこうおもしろい。
 つまりは、スポーツとしての「野球」に関する本ではなく、社会現象としての「大リーグ」という仕組みについての本。スポーツ史ではなく、歴史といっても、社会史なのである。
 ところで、当たり前だが大リーグチームは通常は大都市にフランチャイズを置いている。日本のプロ野球と同じように。だが日本と違ってアメリカでは、メジャーの下に200を超えるマイナーリーグがある。基本的に3A→2A→A→ルーキーとランクが下がるにつれ、所在地も小さな町になっていく。チームのランクと所在都市のランクが連動しているのである。逆にいうと、その町に本拠を置くチームのランクが高ければ、町のランクも高く見られるということだ。
 中部の町カンザスシティ(カンザス州ではなくミズーリ州にある)は人口50万弱、大都市というほどではないのだが、大リーグチーム、ロイヤルズの本拠地がある。ロイヤルズと、NFLのチーム、チーフス(本書ではなぜか「シェフス」と書かれている)があることが、カンザスシティの「格」を高くしているわけで、本書の98ページには、「この二つのチームがなければ、われわれの街はウィチタとなんら変わらない」という地元の政治家の言葉が引用されている。ウィチタはカンザス州にあるカンザスシティのライバル都市、だそうだが、田舎の街という印象が強い。大リーグチームがなかったら、カンザスシティもただの田舎町にすぎない、ということだろう。
 一方で、けっこう規模が大きい都市なのに大リーグのチームがない、という都市もある。オハイオ州コロンバス、ルイジアナ州ニューオーリンズ、インディアナ州インディアナポリス、テキサス州サンアントニオ、などだが、こういった都市がどのように見られているのか、また市民が大リーグをどう見ているのか、興味がわくところである。残念ながら新書のページ制限のためか、本書にはそこまでは書いてない。インディアナポリスが大リーグチーム誘致に失敗した、ということはちらっと書いているが。
 また、同一都市圏にチームが複数あるのは、大都市の証明(ニューヨーク、シカゴ、ロサンジェルスなど)との記述もある。都市の格や威信と野球チームとのつながりは、日本よりはるかに強いようだ。日本では、たとえば所沢や西宮にプロ野球チームがあるからと言って、そんなんい都市自体の格が上がると見られているようには思えない。日本のチーム名に都市名があまり入らない、ということも大きいかもしれないが。
 こんなふうに、スポーツファンよりはむしろ地理ファンの好奇心や想像力を刺激する、ユニークな視点の本である。

大リーグと都市の物語 (平凡社新書)

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2008年2月29日 (金)

読むスポーツ

 老荘の次はスポーツを読む。

スポーツを「読む」/重松清(集英社新書,2004)
 スポーツ・ノンフィクション、ではなく、スポーツ読み物に関するノンフィクション。というより、むしろ作家別書評集、というべきか。一人のライターにつき、代表作一つを取り上げ、主としてその叙述スタイルを論評する。対象となるスポーツそのものではなく、あくまで「それをいかに書いているか」について語る本なのだ。
 山際淳司(『江夏の21球』)、玉木正之(『不思議の国の野球』)といった、私でも名前を知っているようなスポーツ・ライター、村上春樹(『Sydney!』)、三島由紀夫(ボクシングなどの観戦記)、夢枕獏(『群狼の旗』)など、小説家たちの書いたスポーツ・ノンフィクション(もっとも、開高健の『オーパ!』をスポーツ読み物と呼ぶのはかなり無理な気がするが)、大橋巨泉(『競馬解体新書』)、阿久悠(『甲子園の詩』)、といった異色のライターの異色の著作、梶原一騎や水島新司のマンガ(『巨人の星』と『大甲子園』)、ホイチョイ・プロ(『極楽スキー』)に至るまで、小説以外のほとんどあらゆる著作が対象になっている。
 その中でもっとも正統派の著作、というか本書の核になるのが、現在一線で活躍している専門のスポーツ・ライターたち。―なのだが、なにしろスポーツには疎いもので、金子達仁(『28年目のハーフタイム』)、小松成美(『中田英寿 鼓動』)、佐山一郎(『闘技場の人』)、増島みどり(『6月の軌跡』)など、紹介される名前と著作のほとんどがぴんとこないのが悲しいところ。(このエントリーを書くために中身を見直してみて、『星新一』で一躍SF界でも有名になった最相葉月が載っていたのに気づいたが。)
 そんな具合だから、ここに紹介された著作のほとんどは読んだことがない。だが、著者の熱っぽい文章は、著者を知らなくても、本を見たことがなくても、書かれているスポーツになじみが薄くても、読むだけで十分に楽しめる。スポーツ・ライティングのおもしろさを熱く語るこの本は、それ自体がスポーツ・ライティングの秀作だろう。

スポーツを「読む」―記憶に残るノンフィクション文章読本 (集英社新書)

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2008年1月16日 (水)

金星といってもヴィナスじゃなくて

金星/もりたなるお(文春文庫,1990)
 タイトルは「きんせい」ではなくて、「きんぼし」。
 相撲の世界を描いた短編集。スポーツ小説は数多いが、相撲を題材にした小説というのは、どっちかというと少数派だろう。私も相撲小説を読むのは初めてだったし、この著者の本これが最初だった。もりたなるおは1926年生まれのベテラン作家で、推理小説の著作が多いらしい。
 この本に収められた7編だが、「スポーツとしての相撲」よりは「相撲の世界」に生きる人々の哀歓を描いた人情話の側面が強く、いかにもベテラン作家らしい味わいのある、しかも推理作家らしい意外な結末も見せる達者な作品が集まっている。
 もっとも、「哀歓」とはいっても「歓」より「哀」の方がはるかに多く、さわやかさに欠けるのが難点。
 特に最後の作品「相撲の骨」は、実在の巨漢力士出羽ヶ嶽をモデルに、その悲惨な晩年を描いたもので、あまりに暗い話のため気が滅入ってくる。最後から3番目の「相撲梅ガ香部屋」にもこの出羽ヶ嶽にまつわるエピソードが出てきて、いわば後日談のようになっている。こちらは弱小部屋の親方が主役の、わりといい話なので、これを最後に持ってきた方がいいように思うのだが。
 他には、相撲だけが生き甲斐の元記者を主人公にした「摺り足」、部屋にただ一人の関取となった力士が、やめたいのにやめられない苦境であがく「十両十三枚目」も、いい話だった。

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2007年10月22日 (月)

少女たちのプロ野球

 女の子が野球をする話には、なぜか惹かれるものがある。
 このテーマ、マンガでは、『野球狂の詩』を始めとして、『無敵のビーナス』、『剛球少女』など、いくつか作品があるし、アニメでは『プリンセス・ナイン』なんてのもあった。
 でも、『野球狂の詩』以外は高校野球の話で、女性がプロ野球の世界に入る話というのは、なぜか少ない。翻訳ものでは『赤毛のサウスポー』や『彼女はスーパールーキー』なんてのがあるが、元々日本では「女子野球もの」の小説は少なく、プロ野球ものとなるとさらに少ない。
 今回は、そんな希少種である「女の子がプロ野球をやる小説」を2冊。

勝利投手/梅田香子(河出文庫,1989)
 女性投手でサウスポーという黄金パターンである。
 出だしは、甲子園で完全試合をなしとげた優勝投手は、実は替え玉で出場していた女子だった、という変化球。
 その投手、国政克美が星野仙一に見込まれてドラフトで電撃指名され、中日ドラゴンズに入団。ここから後の展開はひたすら直球勝負。プロ野球史上初めての女性投手、国政克美の成長を描く、汗と血と涙と恋の野球小説。恥ずかしいキャッチフレーズみたいだが、本当にこのとおりの内容なのだから仕方がない。
 単行本は1986年、執筆はさらに2年前だとか。
 小説の中で、星野監督率いるドラゴンズが、巨人との激しい争いの末、最終試合で優勝するペナントレースの展開は、明らかに現実の1982年のシーズンがベース。この年も中日は巨人と最後まで競り合い、最終試合で優勝を決めるのだ。ただし、実際のこの年の監督は星野ではない。
 星野が初めてドラゴンズの監督になるのは1985年のシーズンから。星野監督の初優勝は1988年。ただし、小説とは違って、1982年も1988年も、ドラゴンズは日本シリーズでは負けている。
 ほとんどの球団が実在の名称で出てくるが、ただひとつ架空の球団が、この小説でのドラゴンズの日本シリーズの相手、主人公の父親国政道朗が監督として率いる三星クラウンズ。
 この球団、本拠地が所沢。「三星」という親会社名は、韓国の球団「三星ライオンズ」からとっているのだろう。つまり、球団名がライオンズだという暗示なのだ。で、「クラウンズ」というのは、ライオンズの以前の親企業、クラウンライターから来ていると見られる。
 第一、秋山とか東尾とか田淵とか、(当時の)実在の選手名まで出てくるのだから、どこからどうみても西武ライオンズである。その監督である国政道朗のモデルは広岡達朗らしい。だからといって、主人公が広岡の娘がモデルというわけではないだろうが(現実の広岡達朗に娘がいるのかどうかは知らない)。

 主人公がなぜか男性顔負けの体力とスタミナを持っている、という点を除けば、物語はわりと現実的に(主人公が1軍に上がるまで2年かかるとか)、地味に進行する。女の子が主人公にしては、あまりに華がないような気もする。
 日頃読んでる小説は、最後に明らかになる意外な真相! とか、驚愕の二重どんでん返し! とかいうのが多いので、ラストにどんな魔球が来るかと待っていたら、最後までど真ん中のストレートだったので、思わず見逃し三振してしまったような気分だった。
 著者はこの小説を出した後、スポーツ・ライターに転身し、今はアメリカに本拠を置いて活動しているとのこと。

ラスト・マジック/村上哲哉(新潮文庫,1990)
 『勝利投手』の次の年に出たこの作品は、第2回日本ファンタジーノベル大賞最終候補作。でも中身は単なる野球小説なので、そもそも作者が何を考えてこの作品で応募したのかは謎である。
 解説を書いている荒俣宏も、なぜこの小説がファンタジーノベル大賞に、と困惑したことを告白している。
「最初にこの小説の草稿を見せられたとき、私は肩すかしをくらわされて机に頭をゴンとぶつけてしまった。」 
 ただ、超現実的要素こそないが、17歳の女の子がプロ球団の監督になるという、かなり現実離れした話なので、ある意味ファンタジーと言ってもいいかもしれない(?)。
 この小説の世界ではパ・リーグが8球団あって、(当時の)実在6球団の他に、「東亜ホワイト・ウィングス」と「高知ツインズ」という架空2球団が加わっている(1965年にリーグ加盟したのだそうだ)。
 これは一種のパラレルワールドということになるが、だからファンタジーノベルに含まれる、というわけではない。それを言ってしまえば、野球小説・マンガのほとんどはファンタジーになってしまう。
 とにかく、その架空球団、パ・リーグのお荷物「東亜ホワイト・ウィングス」のオーナー兼球団社長兼監督(これもかなり非現実的な設定だね)が病死し、遺言でまだ高校生の孫娘、東由貴に、球団の所有権、経営権、監督の地位、すべてを譲渡する。が、なぜか野球を嫌う由貴の父親がこれに強く反対し、次のシーズンで優勝できなければ球団は身売り、という条件つき。
 戦力がない上に深刻な財政難、危機に瀕する球団を受け継いだ東由貴は、野球知識は豊富だが、実技はまるでできない。ボールを投げるとピッチャーマウンドからホームベースまで球が届かない。だが、ひたむきな情熱でバラバラになりかかっていたチームをまとめ、優勝争いに導いていく、というベタベタな話。
 はっきりいって、キャラクターは月並みだし、話はお約束だらけだし、試合のシーンもあまり書き込まれてないし、野球小説としてそんなに優れているとは決して思えないのだが、なぜかこれがおもしろい。上の『勝利投手』よりもはるかに引き込まれる。小説は情報量やテクニックじゃない、ということか。

 この本は、ファンタジーノベル大賞の選外作を中心にした新潮文庫の文庫内シリーズ、「ファンタジーノベル・シリーズ」の1冊。大賞は続いているのに、なぜか1990年から2年間に十数冊出ただけで終わってしまった。小野不由美の『魔性の子』や、恩田陸の『六番目の小夜子』もこの文庫が初出。
 作者の村上哲哉は、少なくともこの名前ではこれ1冊しか小説を出していない。

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2007年6月15日 (金)

海老沢泰久の『監督』

監督/海老沢泰久(文春文庫,1995)
 1979年に刊行された野球小説。プロ野球の世界を題材にした日本の小説としては、もっとも早く書かれたものの一つではないだろうか。読んだのはつい最近だが。
 主人公は、万年最下位球団エンゼルスの監督に抜擢された広岡達朗。小説内で語られる経歴や、徹底した管理野球でチームを立て直すところなどは、ヤクルト・西武を優勝に導いた実在の広岡達朗と同じだが、性格や言動がどの程度モデルと同じなのかはわからない。読んでいる間は、あくまで同姓同名の架空の人物と考えていた。

 その広岡が監督をする万年最下位球団エンゼルスも、ヤクルトが一応モデルなのだろうが、選手名はすべて架空で、エース大滝、外野手高原、ホークスから移籍してきた寺田、主力打者神田、無能なコーチ高柳、助っ人投手ヘミングウェイなど、実在のヤクルトと似たところを探すのが難しいくらい変えてある。(まあ、大滝が松岡で、高原が若松で、寺田が杉浦だろうとか、モデルを推測することもできなくはないのだろうが、そんなことに意味があるとはあまり思えないので、広岡と同じく、架空の登場人物と割り切って読んだ。)
 ただ、その他のチームは、ジャイアンツ、タイガース、ドラゴンズ、ホエールズ、カープと、すべて当時の実在の球団名だし、他の球団の監督や選手も、長島をはじめ、堀内、王、柴田、張本、田淵、掛布、江本など、往年の名選手たちが実名で出てくる。
 この実名の選手たちは、小説内の同名人物というより、その当人としか思えない。例えば、長島についてはこんなセリフがある。
「長島くんは、――神なのだ。誰も傷つけたがらない。長島くんがわるいんじゃないさ。誰もわるくない。長島くんにはそうされるだけの価値があって、みんながそう思っているんだ。」(p.363)
 どう考えても、あのミスター長島である。30年近く前からこうだったのだ。

 あと、このブログのためにぱらぱらと読み返してみて気づいたのだが、どの球団も親会社名で呼ばれることはまったくない。エンゼルスの親会社は「オリンピック建設」という土建会社ということになっていて、だから球団名はたぶん「オリンピック・エンゼルス」なのだろうが、小説中では単に「エンゼルス」としか呼ばれてない。他の球団も、「阪神」とか「中日」とか「大洋」とか呼ばれることはない。また、「ジャイアンツ」は決して「巨人」とは呼ばれない。
 この小説のどこにも、「巨人」という言葉は出てこないのだ。なんだか作者のこだわりを感じる。

 ストーリーそのものは、「弱小球団の新監督が、選手たちと対立しながらもチームを変革し、優勝を争うまでに持っていく」という黄金パターン。細かい采配から選手たちの心理の動きまで、ハードボイルドな文章で精密に描き出しており、野球小説としてはきわめてよくできている。
 しかし実をいうと、文章があまりに翻訳調のせいか、今ひとつのめりこめなかった。
 この小説、誉めている人はベタ誉めしているし、評価も非常に高いのだが、私はこの文章はどうもだめである。「彼の妻は夫を愛していた。あまりにも愛しすぎていた。」とか、日本の小説の文章としてどうよ、という気になってしまう。
 一気に読めるおもしろさは認めるが、要は感性が何となく合わないとしか言いようがない。このパターンの話なら、川上健一の『監督と野郎ども』(これもそのうち取り上げたい)の方が、好みである。

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