8月に読んだ本から、その2としてノンフィクション2冊。
永遠の一球 甲子園優勝投手のその後/松永多佳倫、田沢健一郎(河出文庫,2014)
6人の甲子園優勝投手、プラス1人の準優勝投手を取り上げたスポーツ・ドキュメンタリー。単行本は2011年刊。
本書で取り上げられた7人は全員がその後プロ野球選手になったが、有名になった選手もいれば、ほとんど活躍できず、無名のままプロを去った選手もいる。共通しているのは、甲子園優勝が彼らの人生を大きく変えたということ。
そんな七つの人生を、インタビューと現地取材を中心に描き出す、実に正統派のドキュメンタリーである。
各章の構成と、登場する投手は次のとおり。なお、本書でいう「甲子園優勝」は、夏の選手権大会での優勝で、春の選抜は含んでいない。
・第一章「流転」――愛甲猛:横浜高校で1980年優勝。ロッテ→中日。不良のイメージだったが、今はマジメなサラリーマン。
・第二章「酷使」――土屋正勝:銚子商業で1974年優勝。中日→ロッテ。地元銚子では今も有名人。
・第三章「飢餓」――吉岡雄二:帝京高校で1989年優勝。巨人→近鉄→楽天。本書の取材時はメキシコ・リーグにいた(現在は現役引退)。
・第四章「逆転」――畠山準:池田高校で1982年優勝。南海→ダイエー→大洋→横浜。その後横浜球団の職員に。
・第五章「解放」――正田樹:桐生第一高校で1999年優勝。日本ハム→阪神。その後台湾リーグ、独立リーグなどを転々とする。実は本書で書かれている以降も、ヤクルトに復帰し勝利投手となるなど、波乱の選手生活を送っている。
・第六章「鎮魂」――石田文樹:取手二高で1984年優勝。大洋→横浜。全盛期のPLを破った唯一の投手。だがプロでは一勝しただけで退団、若くして病死。本書は優勝投手本人へのインタビューが大きなウェートを占めているのだが、本章だけは当然ながら、周囲の人々へのインタビューが中心。
・特別賞「破壊」――大野倫:沖縄水産高で1991年準優勝。巨人→ダイエー。引退後、大学職員、少年野球指導者など。この大野倫だけは「優勝投手」ではないので、特別章になっている。
執筆は、二人の著者が章ごとに分担していて、第一、三、五章は田沢健一郎、第二、四、六章と特別章は松永多佳倫が担当。
ところで特別章を設けてまで準優勝投手のことが書いてあるのはなぜかという気もする。実は松永多佳倫は、大野倫のことを知りたくて沖縄に移住したというほど、高校野球の投手酷使問題の象徴となったこの投手への思い入れが強いのだそうだ。優勝投手でなくても、どうしても大野のことだけは書きたかったのだろう。
それにしても、「流転」、「酷使」、「飢餓」等々、各章のタイトルにこんな暗いイメージの言葉を使わなくてもよかったのではないかと思うが。これでは、暗い話の嫌いな人は、目次を見るだけで買うのをやめてしまうのではないか。
実際に読んでみると、そんなに暗いわけではないのだが。ただ、甲子園がピッチャーに過酷な負担を強いる場であるという問題意識は、二人の著者に共通して感じられる。本書に登場する7人の大半が、腕や肩を酷使し過ぎて投手生命を奪われている。愛甲も吉岡も畠山も、打者に転向して活躍したのだ。この中で、プロで10勝以上できたのは正田だけである(25勝)。
本書には出てこないが、夏の甲子園で優勝して、その後プロでも投手として十分に活躍したというと、古い時代を除けば、桑田、松坂くらいだろうか。
栄光であるとともに過酷な試練でもある(近年は過酷さを軽減する動きはあるが)甲子園、その意味を改めて考えさせられる。
大衆めし激動の戦後史 「いいモノ」食ってりゃ幸せか?/遠藤哲夫(ちくま新書,2013)
以前に紹介した『汁かけめし快食學』(2007年8月27日のエントリー)、『大衆食堂パラダイス』(2012年5月11日のエントリー)の著者が、ラディカルに日本の食を語る。テーマは「日本料理」でも「和食」でもない、大衆の食としての「生活料理」。一種の「反グルメ論」にもなっている。
個別の料理や店の話はほとんど出てこないので、普通の「食べ物エッセイ」を期待するとあてがはずれるだろう。
内容は全7章構成。著者自身がまえがきで、「三つの話」から成り立っていると書いている。
第1章「激動の七〇年代初頭、愛しの魚肉ソーセージは」:1970年ごろから40年間、「日本の食と料理は、ほんとうに激動の時代だった」。その激動の時代に、著者自身の激動の半生を重ねる導入部。
第2章「クックレスの激動」:クックレス、つまりレトルト食品や冷凍食品がもたらした食の変化と、外食の増加。
第3章「米とパン、ワインとチーズの激動」:日本の食の「洋風化」と、米・パン論争批判。この章までが、著者自身が関わってきた、日本の食生活「激動」の歴史。
第4章「激動のなか「日本料理」はどうだったのか」:生活から遠い日本料理の象徴としての「甘鯛のかぶら蒸し」を象徴的に取り上げ、生活から離れ形式化した「日本料理」へのきびしい批判を展開。確かに、家庭ではまず作らない料理だ。
第5章「さらに日本料理、食文化本とグルメと生活」:章のタイトルから「激動」が消えた。前章の続きとしての日本料理論から、広く食文化論へ。この章のしめくくり、「ありふれたものを美味しく食べる」は、本書全体の結論のようでもある。この4章と5章が二つ目の話。
第6章「生活料理と「野菜炒め」考」:三つ目の話として、本書の主要テーマでもある「生活料理」。「生活料理」の代表として野菜炒めを例に出す。「どうも野菜炒めを考えるほど、野菜炒めは現代日本が雑多性を深めつつ生きている姿そのものという気がしてくる」(p.162)。野菜炒めが日本そのものにまで昇格している。
第7章「激動する世界と生活料理の位置」:最終章で「激動」が復活。食の豊かさと食料自給率について考える。本書全体のまとめというより、「四つ目の話」みたいな気もする。
ところで著者の書き方は、『汁かけめし快食學』みたいにB級グルメを熱っぽく語るにはいいが、議論にはあまり向いてないような気がする。基本的に「論」ではない、エッセイなのだ。著者自身がまえがきで「本書は、大まかに、あまり関係なさそうな、だけどそうでもない三つの話から成り立っている」と書いているくらいだし…。
ただ、とりあえず著者が「日本料理」に批判的で、「生活料理」に価値をおいていることはわかる。世界無形文化遺産に登録され、やたらと持ち上げられる「和食」に疑問を投げかける点は、独自の視点として評価したい。
やはり、随所に顔を出す豪快な語り口が、著者の持ち味だろう。決めセリフの「気取るな! 力強くめしを食え!」が何度も出てくる。何よりも雄弁に著者の主張を語っている。