パソコン・インターネット

2009年7月 2日 (木)

インターネットの夜明け

インターネット/村井純(岩波新書,1995)

 先月、『ウェブはバカと暇人のもの』を紹介した時(6月15日のエントリー)、この本も「いずれ紹介したい」と書いた。その予告を実行に移す。

 日本のインターネットの夜明けを告げた本である。
 この本が出版された1995年は、まさに日本のインターネット夜明けの年。その前年までは、ウェブなんて見たことのある人はほとんどいなかったし、電子メールだって、使っているのは、ごく一部のパソコン通信をやっている人だけだった。
 それが、1994年頃から、ぼちぼちとインターネット接続サービスを提供する企業が出始める。日本最初のインターネット雑誌、インプレスの『インターネットマガジン』が創刊されたのも1994年(2006年に休刊)。
 だが、本格的に世間の注目を浴び始めたのは、翌1995年。「インターネット」はこの年の新語・流行語大賞トップテンに選ばれ、本書の著者村井純が受賞している。日本のインターネットを、1980年代の草創期から支えてきた著者が受賞者として選ばれたのは、まさに適役と言えるだろう。
 さて、本書の内容だが、大まかにいって三つある。必ずしもパートが別れているわけではなく、本書全体にこの三つが混在しているのだが。「インターネットとは何か」、「インターネットの歴史」、そして、「インターネット思想」である。
 最初の二つは主に技術的な話。で、「インターネット思想」というのは、要するに、インターネットによるコミュニケーションの革新が、国を超えた人々のつながりを生み出し、全地球上的な社会の変革をもたらすという、一種のユートピア思想みたいなものである。例えば、序章にはこんなことが書いてある。

コンピュータによって自由に情報、データを交換できるという基盤ができあがると、世界中の一人ひとりの人間が、どういうコミュニケーションをもって、どういう活動をして、どんな世界をバックにした生活をしているのかということを考えられるようになります。この点からは、今後新しい国際社会をどういうふうに形成していくかということを考えるための基盤としても、期待されているということができるでしょう。(p.6)

 あるいは、巻末に近い第5章。

このようにインターネットは、人間の倫理とか思想といったものにまで、広範な影響を与える可能性が見えはじめているのです。そしてその議論字体が、従来のような権威をもった組織によってではなく、世界中の個人たちが主体となって進められているというのが、インターネットの特徴です。このような流れをよい意味で生かしながら、新しい地球の社会をつくっていく必要があると思います。(p.200)

 なんだか、インターネットが人類の革新をもたらしかねない印象である。インターネットの夜明けどころか新人類の夜明け。まさに「賢人のネットワーク」としてのインターネットの理想像だろう。それが、今や「ウェブはバカと暇人のもの」にまで堕落してしまったわけだ。諸行無常である。
 まあ、そんな理想主義的すぎるところはあるが、具体的な話になると、今読んでも、というか、今読むからこそ、その先見の明に驚かされる部分がある。「インターネット百科事典」のくだりとか、ビジネスへの影響とか、「ネットいじめ」への言及とか。回線使用料などその後劇的に改善された問題もあるし、セキュリティなどますます深刻化する問題もあるが、インターネットの持つ負の面も含めて、ほとんどあらゆる課題に目を向けている。
 私が持っているのはこの本の2刷だが、1刷が11月30日で、2刷が12月5日。わずか5日で増刷している。この当時、いかに注目を集めていたかがわかる。(というか、今でも絶版になってなくて、その意味では現役なわけだが。)
 インターネットがこんなにも熱く、理想をこめて語られる時代もあったのだ。わずか14、5年前の話である。信じられない。

インターネット (岩波新書)

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2009年6月15日 (月)

5月に読んだ本から

 5月に読んだ本から、わりと新しめのを2冊。

ウェブはバカと暇人のもの 現場からのネット敗北宣言/中川淳一郎(光文社新書,2009)
 この刺激的なタイトルを目にして、人が示す反応には大別して2種類あると思う。
「そんなはずあるかよ!」か、「やっぱりそうか…」のどちらか、である。
 かつて、日本のネット時代の夜明けを告げた書、村井純の『インターネット』(岩波新書,1995)で、インターネットは国境を超えた「新しい地球の社会の創造」をもたらす革命的なメディア、大げさに言えば、人類の革新をもたらすものとして紹介されていた。
 『インターネット』も、いずれ紹介したい本だが、それはまた別の機会として―。14年後の今、ネット空間は、創造性にあふれた自由な人々の地球規模の共同体ではなく、バカと暇人に占拠されているという。
 まあ、世にあふれるブログや掲示板や、ニュースサイトのコメント欄やらを見ていると、そう言われても仕方がないような気がする。私は、どっちかというと、「やっぱりそうか…」と思ってしまう派なのだった。
 だが本書の内容は、ネットユーザーのバカぶりの暴露―というわけではない。そういう部分も少しはあるが、大半はネットビジネス論である。著者はニュースサイトの編集者で、まさにネットビジネスの最前線で働いている。その立場から見た、ネットビジネス界に蔓延する勘違い、効果的なネット上のマーケティング、炎上を防ぐノウハウ、などを豊富な実例をまじえながら語っている。ビジネス本の一種と見てもいい。
 とはいえ、ネットの世界で働く人間の本音を綴った辛口のエッセイとして読むことも、当然できる。だけど、現場で「バカと暇人」の相手をしすぎたせいか、ネットの建設的な側面をあまりにも無視しているような気もするのだ。第5章のタイトルは「ネットはあなたの人生をなにも変えない」という、あきらめ感漂うものだが、そこまでおとしめなくてもいいのではないか。
 そういう言い方をすれば、「テレビはあなたの人生をなにも変えない」とか、「携帯電話はあなたの人生をなにも変えない」とか言うことだってできる。―というか、「○○はあなたの人生をなにも変えない」の○○のところにどんな言葉を入れても、もっともらしく聞こえる。
 「ネットに過度な幻想を持つのはもうやめよう」と著者は言うが、ネットを過小評価するのも考えものである。14年前、ネットに人類の未来を見た『インターネット』が振り子の一 方の端だとすれば、もう一つの端がこの本で、本当のネットの姿は、多分その間にある。

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

怪談文芸ハンドブック/東雅夫(メディアファクトリー・幽ブックス, 2009)
 「ホラー」でも「怪奇小説」でもない、「怪談」の振興を提唱する東雅夫による、「怪談の手引き」。
 序文によれば、「執筆や蒐集、読書など、日々怪談とつきあう上で必要となる基礎知識」を盛り込んだものだという。
 二部構成になっていて、第一部が「怪談をめぐる七つのQ&A」。怪談の定義、怪談の魅力、ホラーと怪談の違い、等々を解説している。まさに入門篇。
 以前、『終わらない悪夢』を紹介した時に(2009年3月22日)、「ホラーと怪奇小説はどこが違うのか」ということを考えてみた。超自然的な恐怖を扱うのが怪奇小説、というのがその時の結論。このQ&Aでも、「ホラー」と、「怪談」(「怪奇小説」ではなくて)の違いという、似たようなテーマを論じているが、やはり同じような結論になっている。「ホラー」は恐怖を語る小説全般で、サイコホラーも含む。一方、何らかの超自然的な恐怖を語るのが「怪談」。典型的なのが幽霊話。
 では「怪談」と「怪奇小説」の違いは?
 今まで明確な違いを考えたことはなかったが、この本を読んでわかった。「実話を含むかどうか」なのだ。「怪奇小説」はあくまでフィクション。一方怪談については、「実話怪談」という大きなサブジャンルがある。
 ところで、この「七つのQ&A」の七番目が「怪談の蒐集執筆のコツは?」。序文で「執筆や蒐集、読書」、帯にも「愉しく読む、書く、集める」と、本書の三本柱のように書かれている「蒐集と執筆」は、実はこの13ページくらいにしか書いてない。しかも、怪談情報収集についてはともかく、執筆については、ごく一般的な小説作法についてさらっと書いているだけで、どこが「怪談執筆のコツ」なのか、よくわからない。
 というか、そもそも、この本のメインの部分は、全体の4分の3を占める第二部「怪談の歴史を知る」なので、「七つのQ&A」は、イントロダクションみたいなものなのである。古代から現代まで、古今東西の怪談文芸の歴史を解説するこの第二部は、非常によくまとまっている。実のところ、第一部は省略して、第二部だけを「世界怪談文芸史」として本にした方がよかったのじゃないか。
 だから、この本を読む時は、「蒐集」とか「執筆」とかは忘れた方がいい。これは、怪談ハンドブックに名を借りた、「怪談の歴史」である。内容的には「怪奇小説の歴史」とほぼ等しいのだ。

怪談文芸ハンドブック (幽BOOKS)

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