文化・芸術

2009年7月11日 (土)

高学歴ワーキングプア

高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院/水月昭道(光文社新書,2007)
 一時期話題になった本。NHKでこのテーマの特集番組も放送されていた。
その昔(どれくらい昔だ?)「末は博士か大臣か」と言われた博士も、今やワーキングプアへの道。

"0.02%"。これは、平成16(2004)年9月時点の日本における"自殺者"の割合だ(WHO発表)。
"11.45%"。これは、同じ年に文科省(文部科学省)から発表された、日本の大学院博士課程修了者の"死亡・不詳の者"の割合である。

 冒頭、著者はいきなり、こんな風なショッキングな数字をつきつける。が、よく考えてみると、この比較はおかしい。
 ネットですでに指摘している人がいたと思うが、「自殺者」の割合と「死亡・不詳の者」の割合は全然違う数字じゃないか。11.45%の中で、死亡者がそんなにいるはずがないので、ほとんどは「不詳の者」だろう。中には、あまり人に言いたくない職業についたので、調査が来ても回答しなかった、という人だっているに違いないのだ。
 比較するとしたら、学部卒業生と博士課程修了者とで、「死亡・不詳の者」の割合を比べるべきじゃないのか。

 でもまあ、論理が強引だったり、時々文章が変だったり、暗黒面ばかりクローズアップしていたりする感はあるが、大筋ではそんなに間違ったことは言ってない。
 大学院が増えすぎ、需要もないのに「博士」が大量生産されている。彼らは身分不安定・低収入の非常勤講師になったり、コンビニでバイトしたりしてぎりぎりの生活をしながら、いつか正規教員になれる日を夢みて、なけなしの金と時間を研究につぎこんでいるのだ。
 著者も書いているが、今の日本に「博士」の就職先がそんなにあるわけがない。特に文系の博士なんて、基本的には大学の教員以外になりようがないのだ。著者もその一人であるだけに、ここに描かれる「ノラ博士」たちの窮状は具体的で切実である。
 だけど、だからどうするのか、という話になると、文字どおり先が見えないのである。「学者への道を見切る」というのは当然の選択肢の一つだが、それは問題の根本解決にはならない。社会貢献に生かすという提言も、それで食っていけるかどうかという問題があって、現実的とは思えない。結局、解決の道筋は見えず、定職につけない博士たちの怨念だけが印象に残るのだった。

高学歴ワーキングプア  「フリーター生産工場」としての大学院 (光文社新書)

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2009年3月29日 (日)

<はかる>科学

<はかる>科学 計・測・量・謀……はかるをめぐる12話/阪上孝、後藤武編著(中公新書,2007)
 中部大学の中部高等学術研究所が、「はかる」をテーマにした研究会での講演を元にした論集。新書の通常のイメージからすると、少々堅い内容である。
 だいたい、この「はかる」というテーマが曲者で、サブタイトルに四つの漢字が書かれていることからもわかるように、この言葉が導き出す、おそろしく広い意味とイメージを対象にしている。だから自然科学、社会学、産業、芸術、心理学と、様々な分野の専門家が、実質的にはまったく違うことを論じているのだ。
 12人の著者が、何を「はかる」話をしているかというと―。
 第1部、「はかる尺度、単位」では、まず第1章「はかることの革命」で、社会思想史の専門家で本書の主編者である阪上孝が、フランス革命とメートル法成立の歴史、つまり最初に1メートルを「はかる」話で始める。
 第2章「キログラムの再定義」では、物理と計測技術の専門家、藤井賢一が数式をたっぷり使って、キログラムの定義を巡る最新動向を報告(よく理解できないが、なんでもプランク定数が関わっているらしい)。
 第3章「環境をはかる」では、応用化学の専門家、瀬田重敏がCO2濃度をはじめとする環境指標を「はかる」現場を語る。
 第1部の最後、第3章「アフォーダンスという単位」では、生態心理学を専門とする佐々木正人が知覚を巡る理論を紹介するが、最後で「本章では、生態心理学として、情報の理論、サーフェスのレイアウトについて説明した」と書いてあるのが理解しがたい。タイトルと違うじゃないか。そもそも、何を「はかる」話なのかさっぱりわからない、というか内容そのものがわかりにくい。
 第2部、「国土・都市をはかる」でも、「はかる」対象はさまざま。
 第5章「古代シュメールでどのように土地が測られ、穀物が量られたのか」では、古代メソポタミア史を研究する前川和也が、シュメールの農地の度量衡と大麦の播種量・収穫量を細かく分析。
 第6章「風水で国土をはかる」では、地理学者で韓国地域研究を専門とする渋谷鎮明が、朝鮮半島の古地図「大東輿地図」の表現方法と思想を解説。
 第7章「空からはかる」では、地理情報システムの専門家である渡部展也が、リモートセンシングやGPSの考古学への応用を語る。
 第8章「身体から都市へ」では、建築家後藤武が、ル・コルビュジエの提唱した「モデュロール」という人間の身体寸法を基礎とする単位について説明。
 ここまでは、それでも一応「計測」に関係しているような話が多かったが、第3部、「感性・意味をはかる」は、さらに多様化し、そもそも何かを「はかる」と言っていいのかどうかわからないケースも出てくる。
 第9章「音をはかる」は、科学技術史を専門とする橋本毅彦が、古代の音律学から現代の音響学まで、音の高さ・音色・音の大きさの計測の歴史を語る。
 第10章「"美"をはかる」は、タイトルから連想されるような美術の話ではない。音楽人類学の専門家、藤井知昭が、「音の美」に対する認知と、その文化的背景を解説するというもの。同じ「音」関係でも、技術的な話題の多かった第9章より文章そのものはとっつきやすいが、何をどのように「はかって」いるのか、よくわからない。
 第11章「罪の重さをはかる」では、とうとう文学の領域に足を踏み入れる。サブタイトルは「ダンテの『神曲』地獄篇にみる罪と罰」。西洋史学者の山田慶兒による、要はダンテの地獄の構造と、そこで裁かれている罪と罰との説明。罪を「はかる」といえばそうなのかもしれないが。『<はかる>科学』の「科学」はどこへ行ったのか。
 第12章「メタファーで世界を推しはかる」。言語学者の柳谷啓子が、メタファーで用いられる「はかる」ことに関連した言葉を取り上げる。例えば気分や感情に用いられる「上下」、「大小」を比較する言葉。あるいは、「ゴージャスさの単位」、「気前よさの単位」といった冗談の単位。第1章から見るととんでもなく遠いところに来てしまった感じだが、正直言って私のような言葉好き人間には、この章が一番面白い。
 それにしても、「はかる」という言葉だけを共通点にするにしても、範囲を広げすぎではないだろうか。結局、各章の間に共通性がほとんどなく、何がテーマなのか読めば読むほどわからなくなる。

“はかる”科学―計・測・量・謀…はかるをめぐる12話 (中公新書)

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2009年3月19日 (木)

迷宮と迷路の違い

迷宮学入門/和泉雅人(講談社現代新書,2000)
 「迷宮」と「迷路」とは全く違う。

 「迷宮を支配しているのは、きわめて高度な計算と理性と秩序に他ならない」

 ―と、著者は、恐らく多くの人の思いこみを打ち砕くこんな言葉をいきなり投げかけてくる。かく言う私も本書で初めて知ったのだが。
 ギリシャの各地で「迷宮形象」を描いた遺物が見つかっている。古いものだと紀元前1200年に遡る。その図形は、「振り子状に方向転換する一本道の周回路とひとつの中心を備えた構造」で、これが迷宮の基本構造となっている。この図形と、「迷宮(ラビリンス)」という言葉そのものの起源となったミノス王の迷宮の神話が一体となり、後世にまで伝わる迷宮概念ができあがった。ちなみに「ラビリンス」という言葉の語源は、謎なのだそうだ。
 要は、「迷宮」とは、「迷路」と違って枝道や行き止まりのない一本道。ただし、一見してそうとは見えないほど複雑に曲がりくねっている。さらに、「迷宮」には中心があり、多くの場合、そこには何かがある(または、いる)。言葉だけだとなんだかわけがわからないが、文中に挿入された豊富な図版が雄弁にそんな特徴を物語ってくれる。
 その図版のほとんどが、書物や器物に描かれた「迷宮図」である。迷宮は実在の建物としてではなく、「図」の形で存在してきた。言い換えれば、人々の頭の中にしか存在しなかったのだ。
 著者が言うように、多くの人が「迷宮」と「迷路」を混同してしまっている。が、この二つは全然別のものだし、よく考えてみれば、言葉の持つイメージもずいぶんと違う。小説やドラマのタイトルに使われるのは、断然「迷宮」の方が多い。「迷路」から連想するのはパズルだが、「迷宮」から連想するのはミステリーである。あるいはこうも言える。「迷路」は人を迷わせることそのものが目的だが、「迷宮」は何かを隠すためにある。
 「迷路」とは違う、「迷宮」という言葉の持つ神秘性や観念性を、無意識のうちに人は感じ取っているのだろう。
 もっとも、「迷路」と「迷宮」が歴史上しばしば混同されてきたのも事実らしい。そもそも、神話上のミノス王の迷宮(オリジナル・ラビリンス)も、どう考えても「迷路」である。もし一本道なら、テセウスはアリアドネの糸を必要としなかったはずだからだ。
 ともあれ、ヨーロッパの文化伝統の中で、迷宮は神話的、宗教的、哲学的な意味を持つ、奥深い形象として発展してきた―というのが、著者の説明。著者の専門は「ドイツ表象文化論」なので、この当たりの記述は専門的知見が満載。非常に勉強になる。全体として大学の講義ノート風で、あまりにも「勉強」ぽくなりすぎているのが、気になる人もいるかもしれない。

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2009年1月24日 (土)

鳥居の本

鳥居/稲田智宏(光文社新書,2002)
 以前に『神さまと神社』という本を取り上げたことがあったが(2008年5月26日のエントリー)、今回の本は、神社関係でも鳥居だけに焦点を当てている。私はこういうユニークな題材のワンテーマ本というのは、基本的に好きなので、この本も出た直後に買ってしまった。
 第1章「鳥居と日本」は、鳥居の役割や意味を巡る総論。ここで鳥居に関する著者のスタンスが明らかになる。「鳥居が宗教的構造物だと改めて認識させられたこと、「宗教」というものと鳥居がダイレクトに結びつけられたことに妙な違和感を感じたのだ。」という言葉に如実に表れているのだが、著者の文章からは、鳥居というものを、宗教から離れた純然たる建造物、オブジェの一種として見たい、見て欲しい、という強い欲求が感じ取れる。
 その背景には、戦後日本で、戦前戦中の反動として、鳥居が国家神道や軍国主義に結びつく否定的なイメージで見られることへの反発があるらしい。しかし、今どき、反日感情の強い一部の外国人や極端に左翼的かつ教条主義的思考を持った人たちを除いて、そんな風に思う人がいるのだろうか。考えすぎではないか。ほとんどの日本人にとって、鳥居は単なる神社の入り口を示すオブジェに過ぎないのではないかと思うのだが。
 まあ要するに、著者は鳥居というものを、宗教色の薄い、単なる興味深い構造物と考えたいわけである。つまりは、ただの鳥居マニアなのだ。
 第2章からは辛気くさい議論は姿を消し、そんなマニアの本領が発揮される。鳥居の分類(60種類以上あるのだそうだ)。日本各地の変わった鳥居めぐり(このパートが読んでいて一番おもしろい)。鳥居のルーツ。さながら「鳥居百科事典」というところか。
 ルーツに関しては、さすがに神話との結びつきを無視するわけにはいかず、古事記や日本書紀からの引用が多い。結局、「柱」と「鳥」が神話で重要な役割を果たしているというだけで、鳥居そのものの起源ははっきりわからないのだが。それだったら中途半端な考察はやめておいて、もっと鳥居の雑学に徹した方がよかったのではないかという気もする。

 「あとがき」では、第1章での立場を再確認するかのように、「鳥居は当たり前のようにして立ち、われわれはそれを当たり前のように眺めていればいいのである。殊更に神聖視する必要もなければ、一部の否定的なイメージで取り扱うこともない。」
 だから、上にも書いたように、著者がいちいちそんなことを言わなくても、大多数の人はそうしているのだ。この考えすぎさえなければ、もっとおもしろい本になっていたと思うのだが。

鳥居 (光文社新書)

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2008年3月 5日 (水)

わたしの城下町

わたしの城下町 天守閣からみえる戦後の日本/木下直之(筑摩書房,2007)
 これは城郭研究の本ではない。もちろん歌謡曲に関する本でもない。
 著者は元々美術分野の研究者。この本が扱っているのは「文化現象」としての城、著者自身が東京大学サイトの教員紹介ページで語っているところによれば、「城郭研究の対象としての城ではなく、思わず「お」を付けて呼んでしまう現代人の通念の中に存在している城」なのだ。
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/CR/staff/kinoshita.html

 本書は元々筑摩書房のPR誌『ちくま』に連載されたコラムで、単行本化にあたって大量の「補遺」を追加しているが、メインの部分は連載時のままらしい。
 連載第1回にあたる「序」で、著者は江戸城と、自分の故郷浜松にある浜松城について触れ、最後に「さあ、お城とお城のようなものを巡る旅に出かけることとしよう。」と宣言する。
 ところがその後しばらく、著者は旅に出る気配がなく、皇居(つまり江戸城)から離れない。そのまわりの国立近代美術館、和気清麻呂や楠木正成の銅像などのモニュメント類の話が、第1章から第4章(連載4回分)にわたって続く。これでページ数の4分の1くらいを費やしてしまうのだ。このあたりで、著者が「お城」を、銅像と同じようなモニュメントとして同列に扱っているらしいことがわかってくる。そして、この本のテーマが、普通の意味での「城」ではないことも。
 第5章でやっと東京を離れ、小田原へ行ったかと思うと、そこでの話題の中心は小田原城ではなく、小田原駅前の小便小僧である。第6章でやっと、戦後の小田原城天守閣建築の経緯が語られるが、「補遺」では「熱海城」や「下田城」など周辺の怪しげな城を取り上げている。その上で著者は「ホンモノの城とまがいものとの違いはどこにあるのか」と問いかけるのだ(これはこの本全体が投げかける問いでもある)。
 こんな調子で著者は、各地の「お城」、あるいは「お城もどき」を訪れながら、日本列島を西へと下っていく。話題は中心テーマであるはずの「城」からはずれて、幻の松代大本営とか旧海軍の戦艦とか、絶え間ない脱線を繰り返し、その上「補遺」がまた脱線に輪をかけている。

 本文で取り上げられている主な「お城」は、すでに出てきた江戸城、小田原城のほか、駿府城、掛川城、浜松城、名古屋城、清洲城、墨俣城、彦根城、大阪城、伊賀上野城、伏見城、福岡城、熊本城、首里城など。「補遺」に出てくるのは、上の熱海城や下田城をはじめとして、長岡市郷土資料館(城みたいな建物だが、本当の長岡城とは全然違う場所にある)、洲本城、高松城、中城城(本土風のインチキな「お城」を建てる計画が一時あったそうだ)。
 こうして見ると、古くからの天守を残しているのは彦根城くらいで、他は再建(もしくは再建予定)、または史的根拠のないニセモノの城である。ニセモノたちこそが、この本ではむしろ主役のようにスポットライトを浴びている。

 ところで、城郭用語としては、「天守閣」という言葉は不正確なのだそうだ。正確には「天守」または「天守建築」。しかしこの本ではあえてタイトルから本文まで「天守閣」で通している。歴史上の建築ではなく、日本人のイメージとしての「お城」には、「天守閣」という言葉こそが似合っているからだろう。
 この本を読むと、日本人がいかに天守閣が好きだったかよくわかる。想像と推測に基づく「再建」など当たり前、天守など存在しなかった城に、いや、そもそも城など全然なかったところにさえ、「天守閣」を作ってしまうのだから。城郭に詳しい人が、「天守なんて飾りです! 偉い人たちには(以下略)」と言っても、誰も聞いてくれなかったのだろう。
 城郭ファンには評判の悪いそんなニセの天守閣も、この本を読めばまた違った視点から楽しめるようになる(かもしれない)。
 今まで読んだ城関係の本の中で、もっともユニークな本である。

わたしの城下町―天守閣からみえる戦後の日本

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2007年5月22日 (火)

書と文字は面白い

書と文字は面白い/石川九楊(新潮文庫,1996)
 この年まで、「書」には無縁なまますごしてきた。
 まあ、小学校に「書道」の授業というのはあったが、あれは単に字の書き方を習っているだけで、芸術としての「書」とは何の関係もない。学校で習う程度の「書道」をいくらやったって、「書」作品を見る目が養われるわけではないのだ。当たり前の話だが。
 で、タイトルと目次から、「書」なるものについてある程度わかるかと思って、この本を読んだわけである。自分が全然知らない分野について読むのは、読書の楽しみのひとつであり、ときどき、こういう未知の分野についての本が読みたくなるのだ。

 題名どおり、面白かった。意外なくらいに。
 甲骨文字から始まって、篆書、隷書、草書、楷書といった文字の基本から、文字の諸要素、文具、日常生活で見かける様々な文字(清酒の銘柄の文字、車のナンバープレートの文字、映画のタイトル、神代文字にマンガの文字まで)、中国書史、日本書史、近代書史と、小さなボリュームの中に書と文字に関するあらゆる話題を詰め込んでいる。
 だから、これを読んだら書に関する知識はひととおり身につく――かというと、必ずしもそうではない。いや、読んでる途中はそんな気がするのだが、読み終えてみると、どうもこれは、書についての知識ではなく、著者である石川九楊の考えを読んだだけではないかと思えるのだ。

 だいたい、最初の方の話題、「漢字と仮名」で、いきなり「楷書体の漢字と平仮名は設計思想がまったく異なっていて、両者の併用は美的不協和音を奏でている」(p.12)と、日本語表記の美的価値を根本的に否定するようなことを言う。
 これに限らず、読んでいると、著者のかなり独特の考え方みたいなものが随所に見えてくる。さらに、日本やアジアの文化的伝統に対する、複雑な愛憎も。
 もちろん、書とその伝統への愛着は至るところにあふれている。が、ところどころにかいま見える「憎」というか、反感の部分が、鋭い棘のように突出しているのも感じられるのだ。
 たとえば、
「書という表現の背後に隠れている東洋的美感覚の苦いダルさ」(p.85)
とか、
「このように、自然の景物を身にまとい、自然を口ずさみながら生活している私たち日本人の姿を想像する時、少々うんざりした気分にもさせられる。」(p.216)
とか、あるいはそのすぐ後の
「山川草木の図柄の料紙に書かれた歌をいくつかながめていると、むせかえるような自然との交歓の姿に少々気分が悪くなってくる。/だが、現在の書の表現だって、この自然との交歓の意識とどこかでつながっているのだろう。そこに書という芸術への根強い魅力と、また逆に激しい嫌悪感が頭をもたげてくる理由がある。」(p.217)
という部分とか。

 どうもこの石川九楊という人は、書の世界でもかなり特異な考えの持ち主じゃないかという気がして、調べてみると、やはり書道界からはかなりの反発を受けたことがあるらしい。それだけ存在感も大きいわけだが。
 まあとにかく、その思想はともかく、書の原理と歴史について、基本的なことはだいたい書いてあって、代表的な書作品の画像を載せて解説もしてくれているわけで、読み物として面白い上に、入門書としてよくできた本であることは間違いない。
 しかし、近代「書」の、文字とはとても思えない作品には、それなりに「これはすごい」と感じるものがあるが(抽象画を見た感想と同じだ)、王羲之や顔真卿の書は、どこが優れているのか、相変わらずさっぱりわからないのである。見る目がないのだ。本1冊読んだくらいで見る目が養われるわけがないのである。
 ただ、石川九楊の他の著書は読んでみたい気がしてきた。

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