我もまた渚を枕
我もまた渚を枕 東京近郊ひとり旅/川本三郎(ちくま文庫,2009)
パソコンの前で読むべき本。この本を読むには、ネット地図が欠かせない。
グーグルマップでもYAHOO!マップでもマップファンでもなんでもいいので、とにかくネット地図を画面に表示する。そして、著者が歩き回っているあたりを拡大表示して、その足跡を辿っていく。臨場感が違ってくる。
タイトルは島崎藤村の詩「椰子の実」より。「名も知らぬ 遠き島より」で始まるあの有名な歌の、歌詞としては2番目の後半にあたる「われもまた 渚を枕/ひとり身の 浮寝の旅ぞ」からとっている。
しかし、著者はこの歌から連想されるような、長い旅をしているわけではない。東京の隣、千葉、埼玉、神奈川各県のあちこちに一泊で出かけているだけである。
実際に訪れている町は、千葉県では船橋、我孫子、市川、銚子、千葉市。埼玉県では、大宮、岩槻。神奈川県では、横浜市の鶴見、本牧、寿町など、それに小田原、川崎、横須賀、藤沢・鵠沼、厚木・秦野、三崎。こうしてみると神奈川、それも横浜周辺が多い。よほど横浜が好きなのか。
元は雑誌『東京人』に連載されたエッセイで、この本に先立って、東京都内を歩き回って連載したものを2冊にまとめている。「東京の町を歩き尽くした感があるので」、今回は東京近郊を歩き回ることにしたのだそうだ。実際に歩いたのは、本文にははっきりと書いてないが、2003年から2004年にかけての頃らしい。
著者の町歩きはほぼパターンが決まっている。まず観光地には寄らない。上に見るように、訪問先もあまり観光地らしいところは少ない。なるべく昔ながらの町並みをさがしてぶらぶらと歩き、昔風の食堂や居酒屋で食事をし、夕食は必ず酒。そしてあまり高級じゃない宿に泊まる。どんなに近いところでも、必ず一泊する。要するにレトロでスローな町歩きである。ちなみに、同行者はおらず、必ず一人旅。ここも肝心。
しかしただ町を歩くだけでは芸がない。著者はもちろん町歩きや食事や酒も楽しんでいるのだが、そこはさすがに文芸評論家というか、なんでもないような町に、文学や映画とのつながりという絶妙な付加価値をつける。
例えば、船橋では太宰治や永井荷風の昔歩いた道をたどり、鶴見では映画「どですかでん」や「陽のあたる坂道」のロケ地をたずね、我孫子では白樺派「文士村」跡や志賀直哉邸跡に立ち寄り、銚子ではかつてこの地を訪れた夏目漱石や島崎藤村、ノーマン・メイラー(!)などについて語る。古い作家ばかりではなくて、千葉市の花見川を訪れた時は、稲見一良の「花見川の要塞」にも言及している。
かといって、「文学散歩」と呼べるほどに目的が明確なわけでもない。町並み、食べ物、酒、ときどき名所、それ
に文学と映画。これらがほどよく入り混じり、のんびりとした雰囲気が全体を包んでいる。
それにしても、同じ町歩きでも、知識を持っているのといないのとでは、こんなに見える景色が違ってくるのかと、しみじみと思い知らされる。


