書籍・雑誌

2019年3月 4日 (月)

読んでいない本について堂々と語る方法

読んでいない本について堂々と語る方法/ピエール・バイヤール;大浦康介訳(ちくま学芸文庫,2016)
 読んだことのない本について読んだと見栄をはるための秘訣や、読んでないと見破られないためのハッタリの技法を説いた本かと思ったら、全然違っていた。
 本書の第1章では、「未読の諸段階」として「ぜんぜん読んだことのない本」、「ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本」、「人から聞いたことがある本」、「読んだことはあるが忘れてしまった本」といった諸類型を掲げ、そもそも「本を読んでいる」「読んでいない」とはどういう状態か、という根源的な問題を問いかける。
 要するに本というものは読んでいても読んでなくてもたいした違いはないのだから、堂々とそれについて語ればいいのだというのが著者の主張。
 例えば、本は読んでもどうせ内容を忘れる。覚えていたとしても、正確に覚えている保証はないし、隅から隅まで全部覚えているはずはない。中には、読んだことだけは記憶しているが、中身をまったく覚えていない本もあることだろう。そんな本は「読んだ」と言えるのか。
 つまり本を読む人によって解釈も記憶も違うのだから、「同じ本」を読んでいると言えるのか。結局、人は頭の中のその本についてのイメージについて話をしているだけなのだ――。
 これは著者の説く論拠のひとつ。こんな議論が次々と出てくる。「未読の本でも堂々と語ってかまわない」という主張を、手を変え品を変え、1冊使って説明しているわけである。
 最後の方では、実際に人前で語る時の心がまえも指南してくれている。(「気後れしない」、「自分の考えを押しつける」、「本をでっち上げる」、「自分自身について語る」…)

 一見ふざけているようだが、読んでみれば「未読」をキーワードにした読書論であり、文学論であり、人生論でもあるのだった。
 本書を読めば、少なくとも、読みたくもない本を有名だとか古典だとかいう理由で無理やり読まなくてもいい、という気分にはしてくれる。少なくとも、全部読み通す必要はない。例えば著者の言うには、『失われた時を求めて』なんて、どこを読んでも同じだから、一部分だけ読めばそれで十分なのだそうだ。
 しかしだからといって、「本など全然読まなくていい」と主張しているわけではないので注意すべきだろう。著者の読書量は恐るべきものなのた。実際に大量の本を読んでないと、「読まないで語る」こともできないのである。

Yondeinaihonnitsuite

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2016年11月18日 (金)

この作家この10冊

この作家この10冊/本の雑誌編集部編(本の雑誌社,2015)
『本の雑誌』に連載されている「読み物作家ガイド ○○の十冊」(○○には作家名が入る)を50回分まとめたもの。
 10冊を選ぶからには、それをかなり上回る数の著書がなければならず、従ってまだ新人の作家は入ってこない。また、戦前の文豪も今のところ対象外のようだ。だいたい、20世紀後半から現役の流行作家までが対象になっている模様。
 50人の作家は「綾辻行人の10冊」から「渡辺淳一の10冊」まで、五十音順に並んでいる。ジャンルは様々で、純文学系では五木寛之、大江健三郎、開高健、金井美恵子、高橋源一郎、中上健次、宮本輝、村上春樹など。ミステリ系は多分一番多く、綾辻行人を始め、伊坂幸太郎、大沢在昌、恩田陸、北森鴻、島田荘司、西村京太郎、東野圭吾、松本清張、宮部みゆき、その他多数。SF関連では小松左京、星新一、夢枕獏が入っている。
 一見して気づくのは、時代小説作家が非常に少ないことで、本書では北原亞以子、佐藤雅美くらい。松本清張や宮部みゆきの10冊には時代小説も含まれているが、もちろんそれは著書のごく一部。池波正太郎も藤沢周平も山田風太郎も入ってない。
 それを言えば、あの作家もこの作家も入ってないと気にし始めればきりがないが、実のところこの連載はまだ続いている。最新号、2016年12月号は「司馬遼太郎の10冊」だった。「おお、司馬遼太郎まだ出てきてなかったのか」という感じである。
 要するに、本書がまとまった時点までに掲載された50人がたまたまこの顔ぶれだったというだけで、これは選択の問題ではなく、順番の問題なのである。
 一方、それぞれの作家の作品で、どの10冊が選ばれているかというのは、これこそ選択の問題。
 この連載は各回ごとに違う人が10冊を選び、その解説を書いている。つまり本書の執筆者も50人いる。巻末の紹介を見ると、評論家、書評家、編集者、書店員、単なるファンと思われる人など、さまざま。ちなみに、伊坂幸太郎は自身の10冊を選ばれていて、しかも他の作家の10冊を選択・解説しているという唯一の例になっている(「島田荘司の10冊」を執筆)。
 それはともかく、執筆者によって10冊を選ぶ視点も、解説の書き方もさまざま。必ずしもベスト10というわけではなく、入門者向けに特化したりバランスを考慮したり、それぞれの意図をもって選んでいるようだ。
 対象がよく知っている作家なら、「あれを選んでこっちを捨てるか」などと自分が選択した場合との違いを想像したり、解説から新たな読み方を発見したりして楽しめる。また、よく知らない作家なら、その作家が自分に合いそうかどうかという指標になるのだが、そこに作家自身の作風に加えて、執筆者の個性も大きな影響を持ってくる。場合によっては、読む前に「これは自分には到底合いそうもない」と見切りをつけることもあり得るのだ。ブログ主の場合も、そういう作家が数人いた。
 それにしても、そういった選者による偏りや独断も含めて――というかそれがあるからこそ、これはなかなか魅力的な企画である。本書に登場してない作家はまだまだ大勢いる。いつか連載分がたまったら、2冊目も刊行されるのだろう。読んだことのない作家の未知の10冊より、その2冊目を猛烈に読みたい気がする。

Konosakka

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2014年11月16日 (日)

20世紀 雑誌の黄金時代

20世紀 雑誌の黄金時代/荒俣宏(平凡社,1998)
 19世紀末から20世紀前半に全盛期を迎えた、「カラーイラスト入り雑誌」の歴史。というか、むしろ見本市と言うべきか。「雑誌の黄金時代」というより「雑誌イラストの黄金時代」という方が正確。
 内容は3部構成。
 1「近世雑誌史パノラマヴュー」は、イラスト印刷基礎論みたいな内容で、主に印刷技術の歴史。雑誌を彩るカラーイラストの印刷が、どのように発展してきたかを解説する。実に詳細な説明だが、正直、印刷技術にあまり興味のない読者だと、何もここまで…と思うだろう。
 2「ヨーロッパ雑誌 アールヌーヴォーからアールデコまで」は、19世紀末から20世紀初めの、ヨーロッパのイラスト入り雑誌の歴史。ビアズリーのイラストが飾ったイギリスの『ザ・イエローブック』。ドイツの『ユーゲント』や『デア・オルキデーンガルテン』の世紀末感漂う妖しいイラスト。フランスの『ラ・ヴィ・パリジェンヌ』のエロティシズムあふれる(それでもどこか上品な)ヌード・イラストと、その画家たちの列伝など。
 3「偉大なるアメリカ大衆雑誌」は、雑誌大国アメリカのイラスト入り雑誌の歴史。今も続くファッション誌『ヴォーグ』や、旅行雑誌『エイジア』、芸術誌『シャドウランド』は、時代の最先端を行くハイセンスなイラストの宝庫。その一方では、発禁にされるようなSM趣味丸出しの俗悪なパルプ誌『ダイム・デテクティヴ』や『スパイシー・デテクティヴ』がある。SF雑誌の元祖『アメージング・ストーリーズ』、伝説の怪奇小説誌『ウェアード・テールズ』など、SF・ファンタジー関係の雑誌もたっぷりと出てくる。

 このように、高級誌から大衆誌まで、美術誌からピンナップ誌、B級テイストあふれる小説誌まで、取り上げられた雑誌は実にさまざまだが、共通するのは、中身の文章についてはほとんど触れられず、もっぱらイラストだけに焦点が当てられているということ。
 それだけに、カラーページが全体の半分近くを占めていて、美麗な図版は見応えがある。ただ、惜しむらくは、本文と掲載された図版がずれている。つまり、カラー図版ページに掲載されている雑誌が、前後の本文で説明している雑誌と一致していないことがしばしばあるのだ。まあ、イラストはイラストだけで楽しめということか。
 実のところ、重要なのは内容よりも図版と出典であり、基本的にはただのコレクション自慢じゃないかという気がする。
 しかも、コレクター向けのアドバイスがたびたび出てくる。「安い店では20~30ドルで売っているケースもあるため、今のうちにコレクションしておくことをすすめておきたい」(p.312)とか。読者にまでコレクション仲間にまきこもうとしているのだ。
 しかし普通の人がうかつにその誘いに載ったら経済的に破滅することは間違いない。古書市場で安くても1冊あたり数千円の雑誌を、何百冊という単位で集める話なのだ。
 これだけの雑誌を収集するのに、著者はいくらつぎこんだのだろうか。想像するだけで恐ろしい。その散財のおかげで、こういう美麗な本を楽しむことができるのはありがたいのだが。

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2011年5月18日 (水)

4月に読んだ本から

 ほとんどブログが書けなかった4月だが、本が読めてなかったわけではない。それどころか、いつも以上に読んでいた。その中からとりあえず2冊。1冊はやや古い本だが、今手元にこの2冊しかない...。

魔法使いになる14の方法/ピーター・ヘイニング編;大友香奈子訳(創元推理文庫,2003)
 原本もこの翻訳も、<ハリー・ポッター>の人気にあやかった便乗出版みたいなもの。「少年少女と魔法」がテーマのファンタジー短篇アンソロジー。
 とはいえ、顔ぶれは結構豪華だし、レベルは高い。大半が児童文学の分野の作家だけど。
 収録作とその著者を見てみると――。
「ドゥ・ララ教授と二ペンスの魔法」E・ネズビット。児童文学の先駆者。『若草の祈り』や『砂の妖精』が有名。この作品は、シリーズキャラクターの魔法使い「ドゥ・ララ教授」が、二ペンスの報酬で少女の願いをかなえる話。タイトルそのままである。
「学校奇譚」マンリー・ウェイド・ウェルマン。SF、ファンタジーの世界ではけっこう有名(一部マニアには)。この作品は呪われた学校を巡るホラー。
「悪魔の校長」ジリアン・クロス。児童文学作家。本国イギリスでは有名なシリーズもので、テレビ化もされているとのこと。翻訳も3冊ある。この作品に出てくる悪役は、タイトルと同名のシリーズキャラクターらしいのだが、シリーズの方を知らないと、ただの変なオヤジにしか見えない。
「ワルプルギスの夜」ハンフリー・カーペンター。伝記、児童文学、放送、劇団と、非常に活躍分野の広い人で、トールキンの伝記や『オックスフォード世界児童文学百科』の翻訳が出ている。一方では間抜けな魔術師「ミスター・マジェイカ」を主人公とするジュブナイルのシリーズもので、14冊も出版されている。日本でも20年ほど前に2冊翻訳が出ているが、後が続かなかった様子。この作品にもマジェイカが登場する。タイトルから連想されるようなおどろおどろしい話ではなく、まったくのドタバタ劇。
「暗黒のオリバー」ラッセル・ホーバン。絵本作家として有名。小説としては、ずいぶん前にハヤカワ文庫からファンタジー長編『ボアズ=ヤキンのライオン』が発行されている。この作品は魔法というより、ギリシア神話をからめながら、「心の暗黒」にひきずりこまれそうになった少年を描いたもの。
「さがしものの神様」ジョーン・エイキン。この人も、児童文学の世界では非常に有名な作家。この作品、タイトルからはのんびりした「日常の魔法」ものを想像してしまうが、実はローマ時代の遺物をめぐるホラー風味の話。
「ダブラーズ」ウィリアム・ハーヴィー。代表作は短編怪奇小説「炎天」――というか、この作品以外では知られてない作家。この作品は、とある学校で代々受け継がれてきた生徒たちの謎の集団にまつわる話で、収録作中唯一といっていいほど、超自然的なものがはっきりとは出てこない、にもかかわらず、無気味な雰囲気が漂う。
「飛行術入門」ジャクリーン・ウィルソン。イギリスで数々の賞を受賞した児童文学作家。翻訳も多い。この作品は「飛ぶ魔法」を習得したい少女のコミカルな物語。
「中国からきた卵」ジョン・ウィンダム。『トリフィドの日』や『呪われた村』などで一世を風靡したイギリスSF界の大物。どっちかというと本格SFの作者というイメージが強かったので、このアンソロジーに収録されているのは意外だった。読んでみると、これが純然たるファンタジー、かつ本書で唯一、子供が出てこない。まあ、人間じゃなくて竜の子供は出てくるが。
「お願い」ロアルド・ダール。『あなたに似た人』などの奇想ミステリや、『チョコレート工場の秘密』などの童話であまりに有名。これはホラー。ショートショートだが、子どもの想像力が暴走する恐怖を描く筆力はさすが。
「見えない少年」レイ・ブラッドベリ。この人についてはもう言うまでもないだろう。この作品は、何種類もの短編集やアンソロジーに収録されている名作のひとつ。老いた魔女と「見えない魔法」をかけられた少年の物語。何回も読んでるはずだが、改めて読むと実にほろ苦い。
「わたしはドリー」ウィリアム・F・ノーラン。ノーランは映画化もされた『2300年未来への旅(ローガンの逃亡)』で知られる。というか、実質これ一作だけの人だが、短編はかなり訳されている。正直言ってあまり大した作家とは思えないが、なぜかピーター・ヘイニングのお気に入りらしく、ヘイニング編のアンソロジーには必ずといっていいほど顔を出している。この作品は養父に虐待される少女の復讐を描いた陰惨なサイコ・ホラーで、収録作の中では異色。というか、編者は何を考えてこんな作品を選んだのだろう。
「なにか読むものを」フィリップ・プルマン。<ライラの冒険>で日本でも一躍有名になった。これは読書狂の少女の悲劇的な死と、幽霊になってからのさらに悲劇的な運命を語る、暗いゴースト・ストーリー。後半になるとなんだか、悲惨な話が増えてくる。
「キャロル・オニールの百番目の夢」ダイアナ・ウィン・ジョーンズ。この3月に死去した「ファンタジーの女王」。「夢」を売る天才少女が、スランプ脱出のために自分の夢にもぐりこんで繰り広げる冒険。暗い話が続いた後で、最後をこの華やかなファンタジーが飾るのは救いになる。
 で、実は唯一少年少女が登場しないウィンダムの「中国からきた卵」が一番おもしろかったりする。

出版大崩壊 電子書籍の罠/山田順(文春新書,2011)
 著者はもと光文社の編集者。2010年に退社し、電子出版ビジネスを手がけるようになったが、そこで数々の問題に直面して――早い話が、その新しいビジネスはうまくいかなかった。その挫折経験が、本書全体に大きな影を落としているようだ。
 本書は一口でいうと、電子出版の未来は決して明るくない、という警告の書である。
 著者は、出版社は今後電子出版に乗り出さざるを得ないと考えている。だが、電子出版への移行は、「混乱をもたらすばかりか、既成メディア自身のクビを締めるだけ」であるし、「新しいビジネスモデルは確立されず、出版社も新聞社も自前のコンテンツのデジタル化を進めれば進めるほど、収益は上がらなくなっていく。そうして、その混乱のなかで、既成メディアを支えてきた多くの人間が失業する」という、暗澹たる予測図を、のっけから披露している。
 帯の惹句に「某大手出版社が出版中止した「禁断の書」」と書かれているように、本書は最初、別の出版社から出す予定だったが、電子化を積極的に進めるその出版社の方針に内容が反するため、出版中止になったのだという。
 ということは、この企画を拾い上げた文藝春秋は電子出版に懐疑的ということなのだろうか。時事ネタをよくとりあげる文春新書のカラーに合っていた、ということもあるかもしれない。

 さて内容だが、全11章に分かれていて、第1章から第3章まではいわば序説。「kindle」「ipad」のもたらした衝撃に始まり、そもそも電子書籍とは何かということを、これまでの動きを紹介している。
 第4章から第9章までの本書の中核。自らが長年身をおいていた既成の出版界の内情や、その後の電子出版への挑戦と失敗の経験をまじえつつ、日本の出版市場の特殊性、価格決定のメカニズム、著作権の制約などを論じる。そして、「まえがき」にも書いていたように、「日本では電子出版のビジネスモデルは成立しない」という結論に達するのだ。
 そして第10章、11章では、既存の出版ビジネスモデルが崩壊した後の未来像を展開する。そこで著者が描くのは、荒涼としたウェブの荒野。
 出版社も、印刷業者も、著作者も総倒れ、読者も優良なコンテンツが手に入らなくなる。残るのは、あらゆる価値が崩壊したウェブ上に散らばる、圧倒的多数の低レベルの著作の大群。
 何の救いもない未来図である。某出版社が出版を取りやめにしたくなったのもわかる気がする。が、自分の失敗体験に過剰にとらわれすぎているのではないか。
 「おわりに」で著者は言う。「オンラインで読書をして、本当の感動が得られるかは疑わしい」。
 結局はそこなのか。もう電子本のことなんか忘れよう、ネットワークから解放されて、ゆったりと紙の本を読む――それが理想、とまで著者は言ってるわけではないが...。そんな思いが透けて見える。その気持ちはわからないでもない。だけど、止めようのない電子化への流れの中で、だからどうしろというのか。そのへんがわからないまま、本書は終わってしまう。
 ちなみに著者は1952年生まれ。若い読者から、「電子化についていけなくなったオジサンの愚痴」と思われるだけにならなければいいのだが。

出版大崩壊 (文春新書)

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