趣味

2021年2月 7日 (日)

ニッポンの残念な鉄道

ニッポンの残念な鉄道/野田隆(光文社知恵の森文庫,2020)
 乗り鉄として有名な著者による、ユニークな雑学系鉄道本。
 元は「東洋経済オンライン」というサイトの中の「鉄道最前線」に連載されていた「独断で選ぶ鉄道ベスト10」というウェブ記事。「ベスト10」と題しながら、「残念な駅10」が好評だったので、以後「残念な○○」シリーズが続くことになったという。
 しかし「残念」と言ってもそんなに辛口なわけではなく、むしろ鉄道愛にあふれている。毒のなさが物足りないくらいである。
 内容は3章構成。

 第1章 「ざんねん」だからこそ味がある日本の鉄道「なんでも10」。
 これが本書全体の3分の2を占めるメインコンテンツ。中はさらに四つのテーマに分かれている。
「「ざんねん」の王道“不便”で残念な駅」は、不便な駅を取り上げている。「残念なターミナル駅」10、「残念な新幹線駅」10、延伸すれば便利な駅10、など。
「昔日のにぎわいはいずこへ…“栄光は過去に”で残念な路線」は、さびれた路線。「残念な特急列車」10、復活してほしい列車10、など。
「何かがずれている“ミスマッチ”で残念な駅・路線」は、実態とイメージとのギャップが残念な駅や路線。都心の「閑散とした駅」10、「残念な路線名」10、など。
「無粋だったり地味だったり…で残念な列車・路線」。このへんになってくると、何が残念なのか趣旨がよくわからなくなってくるが、「残念な車両」10、本数が少ない「残念な駅」10、など。

 第2章「奥が深すぎるおもしろ駅名・列車名の雑学」は、ただの雑学を集めた章。「おもしろ駅名」10、「読める? 珍駅名」10、などで、別に残念なわけではない。

 第3章「やっぱりこれだけは乗っておきたい日本の鉄道ベスト10」になると、残念どころか、普通のベスト10である。気になる都会のターミナル駅ベスト10、雄大な山を眺められる車窓ベスト10、など。
 ただ、上野駅や両国駅のように、なぜか「残念な駅」とこのベスト10の両方に名前が入っている駅もある。結局のところ、著者のいう「残念」は、愛着と表裏紙一重のものだったようだ。まあ、最初からだいたいわかっていたことではあるが。

Zannennatetsudou

 

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2020年12月16日 (水)

トリック・とりっぷ

トリック・とりっぷ/松田道弘(講談社,1982)
 このところなぜか古本が続く本ブログである。
 タイトルどおり本書のテーマは「トリック」。ではあるが、どうもつかみどころのない本である。
 中身はミステリのトリックと手品のトリックの話が大半。他に、トリックみたいなパズル、詐欺、ジョークの話などが出てくる。つまりいろいろな意味での「トリック」の話がごちゃ混ぜに入っている。
 著者は奇術研究家で、日本推理作家協会会員でもあるとのこと。推理作家協会所属なのに小説は書いておらず(他にも翻訳家などでそういう人はいるが)、他に『トリックものがたり』、『トリック専科』などの著作がある。どれも内容は本書と似たようなものらしい。
 それにしてもこの人、調べてみると著書がけっこう多かった。かなりの年だが(1936年生まれ)、まだ存命らしい。

 本書の内容は、22編の短いエッセイからなっている。元は『小説現代』の連載コラム。
 最初の「ミステリは二度おいしい」は、ミステリというより物語の発想法について。「さかさ桃太郎」を題材に、物語のトリックを語っている。
 次の「技巧的なあまりに技巧的な」は、ボトルシップの話から始まり、上下逆さにしても読める(というか、逆さにして物語が完結する)アメリカの漫画について解説。
 さらに次の「奇智との遭遇」は、詰め将棋とパズルゲームの話。こんな感じでどうもまとまりがないが、なんらかの形で「トリック」につなげるというのは意識しているようだ。後半になるとミステリや奇術の話が増えてくる。
 読みものとしては正直言って平凡なものだが、話のネタにはなりそうな本である。
 なおイラストは、ブルーバックスの挿絵などでなじみのある、懐かしのイラストレーター永美ハルオ。Wikiで調べてみると、この人も90歳近いがまだ存命のようだ。著者もイラストレーターも長生きである。

Tricktrip

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2020年8月30日 (日)

ぐるぐる博物館

ぐるぐる博物館/三浦しをん(実業之日本社,2017)
 三浦しをんが実は無類の博物館好きだったことがわかる本。
 全国の特色ある博物館を著者と編集者が「ぐるぐる旅した」ルポで、2014年から2015年にかけて『紡』と『月刊ジェイ・ノベル』に連載された記事をまとめたもの。
 登場する博物館は全部で10館。国立科学博物館以外は、明確で個性的なテーマを持った、しかし規模の比較的小さい博物館ばかり。

 第1館「茅野市尖石縄文考古館 私たちはつながっている」は、縄文土器が中心の考古学博物館。
 第2館「国立科学博物館 親玉は静かに熱い!」。言わずと知れた、日本の科学博物館の親玉。著者は主に動物と人類学のコーナーを見学。
 第3館「龍谷ミュージアム 興奮!の仏教世界」は、京都にある仏教をテーマにした博物館。ハイライトはベゼクリク石窟壁画の復元。
 第4館「奇石博物館 おそるべし!石に魅せられた人々の情熱」は、富士宮市にある奇石の宝庫。
 第5館「大牟田市石炭産業科学館 町ぜんぶが三池炭鉱のテーマパーク」は、展示よりも炭坑そのものの見学がメイン。
 第6館「雲仙岳災害記念館 災害に備えつつ穏やかに暮らすということ」。大牟田かr有明海を渡って島原市へ。「大噴火シアター」がメインの体験型施設。
 第7館「石ノ森萬画館 冒険と希望の館で失神するの巻」は、石巻市にあるマンガ博物館で、東日本大震災からの復興で有名になった。だから震災関係の話も多いのだが、何より著者の石ノ森マンガへの思い入れが半端じゃない。
 第8館「風俗資料館 求めよ、さらば与えられん」。東京にある、博物館というよりSM・フェティシズム文献を集めた図書館みたいな施設。
 第9館「めがねミュージアム ハイテク&職人技の総本山」。めがねと言えば当然鯖江市。めがねの自作ができる体験型博物館。
 第10館「ボタンの博物館 美と遊びを追求せずにはいられない」大阪・天王寺区にある企業内博物館(その後東京に移転したとのこと)。最後はいかにも女性好みの博物館で、そして微妙に地味なのだった。ある意味本書を象徴するような博物館。

Guruguruhakubutsukan

 

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2018年7月 7日 (土)

うっかり鉄道

うっかり鉄道/能町みね子(幻冬舎文庫,2018)
 能町みね子と編集の「イノキンさん」(女性)が、日本各地の鉄道を地味に巡る鉄道紀行。元は『女ふたり、ローカル線めぐり旅 うっかり鉄道』のタイトルで2010年に発行されたもの。
 本書の中にも書いてあるが、最初の刊行から8年経っていて、本書に出てくる路線や駅の中にはすでに廃止されたもの、現状が変わってしまっているものもある。これは旅行ガイドや情報を得るための本ではなく、単にエッセイとして読めばいいだけの本なので、その点は別にかまわないのである。

・「鉄道の日に、いちばん好きな駅へ」神奈川/JR鶴見線・国道駅:
うらぶれた鶴見線の、うらぶれた駅を訪ねる。女なのに好みが渋すぎ。(もっとも、著者は元男性だということだが。)
・「富士と工場のテーマパーク」静岡/岳南鉄道:工場の中を通り抜けるローカル私鉄。本書の中で一番鉄道紀行らしい雰囲気が出ている。この路線、工場好きにはたまらないらしい。
・「平成8年8月8日の奇蹟」関東一円/八のつく駅:本書に収録された中では唯一の思い出話で、著者の高校生時代のエピソード。平成8年8月8日8時8分に京葉線八丁堀駅の切符を買いに行く。これが次の章につながっていく。
・「平成22年2月22日の死闘」千葉/JR京葉線:時は流れて平成22年2月22日、著者は京葉線二俣新町で22時22分に切符を買おうとする。だが同じことを考える人間がけっこういて、数秒の差で買い損ねるのだった。単行本が出た時点では、著者は平成33年に「三のつく駅」でリベンジしようと考えていたようだ。だが平成は31年で終わることになった。著者が次に狙うのは?
・「あぶない!江ノ電」神奈川/江ノ島電鉄:のどかな江ノ電の、危ない沿線風景を訪ね歩く。危ないのにのんびりしているという、不思議な雰囲気が味わえる。
・「最南端の最新モノレール・ツアーズ」沖縄/ゆいレール:沖縄でゆいレールに乗る、ただそれだけ。かなり時間が余ったらしい。
・「琺瑯看板フェティシズム」北海道/JR宗谷本線・留萌本線:北海道の琺瑯駅名看板を見に行く。この章だけ、駅名の部分が全部看板型の黒四角で、文字が白抜きになっている。
・「最寄駅から空港まで歩こう」熊本・鹿児島/JR肥薩線:熊本駅から肥薩線に乗り、嘉例川駅で降りて鹿児島空港まで歩く。著者はこの路縁名物のスイッチバックなどより、駅舎や駅弁に興味がある模様。
・「あったか土佐の小さすぎる日本一」高知/土佐電気鉄道:土佐電鉄、通称「土電」で高知駅から伊野まで、さらに反対方向の後免まで乗り通す。日本一短い「清和学園前」と「一条橋」の間で遊んだりもする。

 各章の間に「大好き西武多摩川線」などの1ページコラムもあり。全体としてマニアっぽさは控えめだが、その分「遊び心」があふれているし、鉄道が好きということは伝わってくる。テツ未満、一般人以上の鉄道好き、これくらいがちょうどいいのかもしれない。

Ukkaritetsudou

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2017年8月11日 (金)

稀書自慢 紙の極楽

稀書自慢  紙の極楽/荒俣宏(中央公論社,1991)
 いくら図書の電子化が進んでも、デジタル版では置き換えられない本の世界というものがある。
 その代表的なものが、流麗なイラスト入りの稀覯本。まさに紙の本だからこそ成り立つ、究極の趣味本の世界。
 内容は、主にヨーロッパの、美しいイラストや装飾入りの、芸術品とも言うべき本の数々(そうでないものもあるが)――もちろん著者の個人的コレクション――を、自伝的階層とともに紹介し、その魅力を陶酔気味に語るもの。おおまかに言って、前半が著者の本にのめり込んでいった半生を語る自伝エッセイ。後半でコレクションの中から選び抜いた稀書を紹介・解説する。
 もちろん、全ページにわたって豊富な図版が入り。この本自体なかなか贅沢な造りである(稀書マニアから見たらただの大衆本だろうが)。本書は文庫版も出ているが、こういう本はやはりある程度の大きさがあった方がいい。

 序章「書物愛スケッチ」では、最初に「書物愛なるものは病の一種だと思っている」と告白。読む側としては、そんなことは最初からわかっている。
 第1章「パルプ・マガジンにはじまる」では、中学1年で海外幻想文学に目覚め、中学3年でパルプ・マガジンを集め始めるという早熟なビブリオマニアぶりを語る。
 第2章「趣味はどこから、版元から」は、ロード・ダンセイニにはまった大学時代の話。自家製コピー本まで作っていたという。
 第3章「倉庫に埋もれた夢――貸本屋まんがのこと」は、貸本マンガの思い出の数々。次の第4章「ペーパーバックス修業」は、ペーパーバック収集の話。古いマンガにペーパーバックまで集めていたわけである。とめどのない書物愛というか、マニアぶりというか。
 第5章「ぼくのお師匠さんのこと」は、著者の「師匠」だった平井呈一の思い出。ここまでが自伝パート。次からいよいよ稀覯本の世界に突入。
 といっても、まずは目録の話から始まるのがさすがマニア。第6章「本を入籍しませんか?」と、第7章「書誌に生きた諸氏」は古書目録や書誌の奥深さを語る。海外のよくできた古書店のカタログや書誌類は、それ自体が鑑賞の対象なのだという。まあ、ブログ主もリスト類が好きなので気持ちはわかるが…。
 第8章「四百年前の書物を見る」は西洋稀覯書総論みたいなもので、書物の四つの「黄金時代」について。初期印刷本時代(15-16C)、ドイツ木版本(16-17C)、バロック本、フランス出版物の絶頂期(18-19C)。その中から、まず16世紀ドイツの豪華本について。
 第9章「大声を出し熱弁をふるう本」から、個別の本の紹介。この章は18世紀バロック本について。第10章「少年絵入り百科の驚異」も18世紀。驚異の大著、ベルトゥーフ『少年絵入り百科』について。
 第11章「ロマンチック本は個性で酔わせる」は、ロマンチック時代のフランス本。第12章「熱い本に励まされて」は、ウィリアム・ブレイクの挿絵入りの迫力の実録本、そして19世紀の航海記。
 その次あたりから、稀書コレクションにまつわる雑多な話題のエッセイになる。
 第13章「江戸の写本くらべ」では、ひとまずヨーロッパから離れて日本の自然誌本について。第14章「オークションと「本のお母さん」」は、稀覯書オークションの実態。第15章「解剖台上の美女と天使」は、解剖図譜の衝撃的な世界。そして、終章「ファッショナブルな本たち」は、コスチューム・ブックとファッション・イラストの世界。

 本ブログで前に紹介した『20世紀 雑誌の黄金時代』(2014年11月16日)と同じように、本書は基本的に著者の趣味の副産物で、コレクション自慢。まったく金がいくらあっても足りない趣味だが、『雑誌の黄金時代』の時と同じく、そのおかげで、「こういう美麗な本を楽しむことができるのはありがたい」ともう一度書いておこう。

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2017年6月21日 (水)

怠けの歳時記

怠けの歳時記 知る遊ぶ休む 生活味わい学十二講/笹川巌(実業之日本社,1984)
 ずいぶん前に本ブログで紹介した講談社現代新書『趣味人の日曜日』(2007年12月18日のエントリー)と同じ著者の本。
 本書も、中年・熟年サラリーマン向けのライフスタイル――余暇の楽しみ方を蘊蓄混じりに考えるという、似たような趣旨。ただ、出版は本書の方が先なので、同じような内容をより一般向けに、新書として書き直したのが『趣味人の日曜日』なのだろう。
 新書の方ではカッコつけて「新文人型ライフスタイル」と言っていたものが、本書では「怠け者」と身もフタもない表現になっている。中身は同じようなものである。つまり、怠け者といっても、ただゴロゴロするわけではない。
 著者によると「この本で呼ぶ"怠け者"とは、せわしない時代風潮に押し流されず、自分なりの価値観に従ってゆったりと生きていくタイプの人びとを指している」とのこと。「嫌いなことはすぐサボるが、好きなことには骨身をおしまないのが、怠け者の一つの特徴だ」とも書いている。
 要するに、単にマイペースに生きる人を「怠け者」と呼んでおり、本書はそのためのガイドということ。
 内容は「歳時記」と銘打っているとおり、四季十二ヶ月に章を分けて、それぞれの月ごとに生活を楽しむためのトピックを取り上げている。こんな具合。

 春 正月:初詣/二月:風呂/三月:朝寝
 夏 四月:書斎/五月:花柳小説/六月:祭り
 秋 七月:怪談/八月:昼寝/九月:古書渉猟
 冬 十月:綺譚/十一月:散歩/十二月:酒

 旧暦の季節区分なので感覚的にはずれているが、ほとんどが季節と無関係な内容なので気にすることはない。見事なまでに役に立たないことばかりが並んでいる。書斎の話題は『趣味人の日曜日』にも出てきていた。これこそが「怠け者」に必須のものなのだろう。
 また、『趣味人の日曜日』には読書の勧めとして江戸随筆が出てきていたが、本書では花柳小説。これまた誰が読むのだろうという感じである。
 読書関係では、他に「怪談」と「綺譚」があるが、似たようなものである。「怪談」は古今東西の怪談、怪奇小説についての蘊蓄話。「綺譚」は中国伝奇から筒井康隆、吸血鬼譚、ハイネ、南方熊楠まで出てくる変な話のガイドで、これが一番読書ガイドとしては現実的。とはいえ、徹底した趣味の世界であることに変わりはない。

 要するに、『趣味人の日曜日』と同じく、実用的なガイドではなく、暇人のためのエッセイである。こういう本を読むのも「怠け者」の生き方にふさわしいだろう。

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2016年3月27日 (日)

2月に読んだ本から

美術館の舞台裏 魅せる展覧会を作るには/高橋明也(ちくま新書,2015)
 オルセー美術館でも勤務経験のある現役美術館長(三菱一号館美術館初代館長)が語る、美術館の仕事。
 全6章構成で、美術館の歴史から展覧会の裏事情までを語っている。
 第1章「美術館のルーツを探ってみると…」は、まずは、美術館の起源について。ただ、著者が最初に語るのは、建物としての美術館ではなく、美術品コレクションの歴史。まずコレクションがあり、それから、それを収めるための美術館ができたというわけらしい。
 第2章「美術館の仕事、あれやこれや大変です!」は、日本独自の海外美術品の展覧会の開催システムについて。海外の美術館と違って、日本ではマスコミとの連携が展覧会の常道となっているのだが、その歴史的経緯を説明。戦後の海外美術展来場者数ランキングのベスト3は、すべて新聞社主催となっている。新聞社の他にも、NHK主催なんて展覧会もよく見るが、こういうのは日本だけの特殊な事情だという。
 第3章「はたして展覧会づくりの裏側は?」。ここからが本書のハイライトというべきで、著者自身が企画した美術展の裏側を語る。著者が自ら「未だに奇跡的な実現、成功だった」と語る国立西洋美術館での「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展」(2005)。あるいは、現在勤める三菱一号館美術館での「ヴァロットン展」(2014)。美術展がいかに人間関係や社交力に支えられるものであるかがわかる。
 第4章「美術作品を守るため、細心の注意を払います」は、美術品の輸送費や保険費といった金の問題、あるいは保存や修復についての生々しい話題。どれだけ細心の注意を払っても、事故は起きる時には起きるのだった。
 第5章「美術作品はつねにリスクにさらされている?」は、贋作の問題と盗難の問題。贋作が作品のリスクかどうかはともかく、購入者や保有者にとってもリスク要素であることは間違いないだろう。西洋では真贋判定はきわめて厳密で、巨額の費用もかかる。日本の美術作品には独特の「伝 ○○」という逃げ道があるが、これは西洋の美術関係者には理解されないのだそうだ。
 最後の第6章「どうなる?未来の美術館」は、美術館の未来というより、美術の未来が主な内容。世界の美術マーケットの動向や、ますます広がり、多様化していく「美術品」の範囲について。さらに、日本の美術展には批評性が欠けているという鋭い指摘もある。

 考えてみれば、これまで美術作品やその作家についての本は山ほどあったが、美術展について語る本はごく少なかった。本書を読んだら美術展がより楽しくなる――かどうかはわからないが、華やかな展示品の裏側にどのような地道な苦労があったか、思いをめぐらすことはできるようになるだろう。

Bijutuskannobutaiura

だいたい四国八十八ヵ所/宮田珠己(集英社文庫,2014)
 宮田珠己といえば、以前に紹介した『旅の理不尽』(2012年9月3日のエントリー)みたいな、ゆるい旅行記が持ち味。本書でもなんとなく四国八十八ヵ所歩き遍路の旅を始めるのだが、いい加減なようでいて、その実きっちりと四国を歩いて一周してしまうという遍路紀行になっている。
 歩き遍路というのは何十日もかかるわけで、よほどの時間と意志のある人でない限り、一度に歩き通すことはできない。普通は、何日か歩いて中断し、間をおいてまた前回終えた箇所から始めるというパターンで、何回かにわけて歩くわけである。本書でも、著者は都合9回に分けて四国を訪れており、それぞれが各章になっている。
 1章、つまり1回目は「一番霊山寺から、徳島駅まで」。なんとなく勢いで四国歩き遍路を始めた1回目は五日間。徳島駅を出発して徳島駅に戻ってくる。最後は徳島駅から高速バスで帰途につく。しかしこの時点では、著者は実は全行程を歩き通すかどうか決めてないのだった。
 2章「徳島駅から、土佐一宮駅まで」は、半年をおいての2回目。その間にこの旅を連載することがきまり、いやでも全部歩かなければならなくなった。この段階で「だいたい四国八十八ヵ所」というタイトルもやっと決まる。この「だいたい」というのは「細かいことにとらわれず、大きな気持ちでのびのびと未来に向かって歩いていってほしいという、子どもたちへの切なる願いがこめられているのだ」そうだが、まったく信用できない。子どもがなんの関係があるというのだろう。
 それはとにかく、この第2回では四国遍路きっての難所として有名な、室戸岬へと延々と続く道に挑む。しかし著者はそれほど辛そうではない。後でわかるが、著者にとって苦難の道は、こういうところではないのだった。
 3章「土佐一宮駅から、四万十大橋まで」では、高知県の中部から四万十川河口まで、太平洋岸を歩く。当然、次は四万十川河口から足摺岬の札所を目指すと、誰もが思うところだろうが、次の4章は「宇和島駅から、今治駅まで」。四万十川から足摺岬付近は、海遊びに最適な夏に残しておきたいということで、途中を飛ばして宇和島から歩く。遊びが優先なのである。愛媛県内の山道で標識に惑わされ、奥道後の温泉でジャングル風呂にがっかりする。
 というわけで、5章「土佐昭和から、南レク御荘公園前バス停まで」では、4章で飛ばした部分を歩く――はずだが、最初のうちは全然遍路などせずに、四万十川でカヌーに乗る。遍路に来ているのか、カヌー遊びに来ているのかわからない。最後は悪天候のため、目標の宇和島まで歩きとおせずに中断、バスに乗る。
 6章「尾道から、伊予三島駅まで」は、タイトルのとおり尾道から出発。なぜ尾道かというと、しまなみ海道を自転車で渡りたいという、ただそれだけのため。遍路と何の関係もない。今治まで行ったところで前回のルートとつながり、遍路再開。
 終盤に近くなった7章「伊予三島駅から、高松駅まで」では、遍路の難所について著者が語る。著者にとって、いわゆる"へんろころがし"と呼ばれる地形的な難所は問題ではない。むしろ「おおむね楽しい」のだそうである。よほど山歩きが好きなのだろう。「真の敵」は、市街地、そしてトラックの多い単調な道。そんな普通の道が多いこの区間は、著者にとってかなりの難所だったらしい。
 8章「南レク御荘公園前バス停から、宇和島駅まで/高松駅から、六番安楽寺まで」は、二つの旅からなる。前半は、第5章で途中断念した宇和島までの道の続き。途中に札所はないので、遍路という目的からは、ここを通らなくても全然問題はない。だが、ルートをつなぐという、ただそれだけのために歩く。
 8章後半は高松からの遍路旅の最終パート。しかし、最後の札所で終わりではない。そこから、旅を開始した徳島市まで歩く。そうしないと一周したことにならないからである。やはり遍路が目的ではなく、「歩いて四国を一周する」ということの方が大きな目標であることがわかる。

 それにしても、これだけ信仰の要素が薄い遍路旅というのも珍しい。遍路らしい格好をあまりせず、遍路のシンボルである杖もあまり持ち歩きたがらない。信仰心のなさは本文の中でもたびたび語っている。巡礼としては、実にゆるいのだ。その一方で、とにかく歩いて四国一周のルートをつなぐという頑固さもある。そして歩き旅の辛さやハプニングも楽しむ、旅人としての感覚。それらが混然一帯となった本書は、遍路の記録というより、本質はやはり旅エッセイである。

Daitaisshikoku

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2015年9月21日 (月)

怪狂譚

怪狂譚/蜂巣敦(パロル社,2001)
 この本は、確か古本市で変なタイトルが気になって何となく買ってしまったもの。ノンフィクションらしいことはわかるのだが、目次を見ても、何について書かれた本なのか、今ひとつよくわからないのだった。
 こういう得体の知れない本をふとつかんでしまうのも、古本を買う醍醐味のひとつなのだから、まあいいのだが。
 実際の内容は、様々なサブカル系の雑誌や本に掲載した15編のエッセイを集めたもの。

 第1譚「座敷女のモデル」は、著者の出会った、虚言癖のひどい変な女のエピソード。おの女が、望月峯太郎のマンガ「座敷女」のモデルではないかというのだが、そんなマニアックなマンガを引き合いに出されても…という気分になる。この最初のエッセイから、これはなんだか変な本の雰囲気が漂っている。
 第2譚「名古屋妊婦切り裂き事件」と第3譚「宮崎勤事件-忘れられた五人目の犠牲者」は、全国的なニュースになった猟期殺人事件についての、著者独自の考察。
 このまま猟期路線に行くのかと思ったら、第4譚「実録・新聞ドロボーを捕まえた!」は、昔著者が住んでいたアパートでひんぱんに新聞が盗まれるので、捕まえてみたら同じアパートの女だったという、実にせこい事件。
 第5譚「ドイツの八つ墓村」は、一転して大量殺人事件。1913年にドイツの村で起きた、妄想に駆られた男が30人を殺したという事件の顛末。
 第6譚「邪眼地獄」は、著者の目撃した鉄道人身事故に始まり、なぜか怪談と都市伝説の話になる。
 第7譚「フェティシズムの怪」は、仏舎利の話から、これまた話が超展開してフェティシズムが原因となった事件の数々についての考察になる。このへんから、何について書いている本なのかわからないという困惑がだんだんと強まってくる。
 第8譚「科学処刑は人道的?」は、アメリカでの死刑の方法について。電気椅子、ガス室、致死薬注射について、淡々と紹介している。
 そして、第9譚「人体パーツ映画鑑賞」から、この本全体の路線が大きく変わる。これまでの各章が、曲がりなりにも実際に起きた事件をテーマにしていたのに対し、ここからはフィクションの世界を扱うことになるのだ。この章は、人体の一部を強調したホラー映画について。
 第10譚「パソコン時代のホラーマンガ-伊藤潤二論」は、タイトルのとおり伊藤潤二というホラーマンガ家を論じたもの。コマの一部が引用されているが、見るだけで気色が悪い。
 第11譚「人間機械アニメと自殺論」は、要するに『攻殻機動隊』論。やっと、少しは一般受けしそうな話題が出てきた。
 と、日本を代表するサブカルチャーを扱う路線になったかと思うと、一転して次の第12譚「大兜でグッシャリ-「オトラント城」の謎」は、ゴシック小説の元祖と言われるウォルポールの古典的小説『オトラント城』を紹介したものだったりする。
 第13譚「バンパイア・カルチャーを追え」は、映画、マンガ、小説に登場する吸血鬼のイメージを追う。前章に続いてゴシック小説の話題も出てくるが、中心になっているのは萩尾望都の『ポーの一族』。実に懐かしいというか、この文章が書かれた1999年の時点でも、すでに20年近く前のマンガだったわけだが、よほど思い入れがあったのだろうか。
 第14譚「三大モンスターの逆襲」は、映画に登場する三大モンスター、ドラキュラ、狼男、フランケンシュタインn怪物――要するに「怪物くん」の手下のあれ――について。
 そして最後の第15譚「岡本綺堂と日本の怪談」、これが実は一番長い章。テーマは日本の怪談小説、それも岡本綺堂である。実に渋いというか、玄人好みのテーマ。文章まで他の章とはなんだか雰囲気が違い、本格的文芸評論風になっている。

 こんな風に、最初のうちは、猟奇事件に関するノンフィクションだったのが、後半は一種のメディア論、サブカル論になってしまっている。まあ確かに、本全体のタイトルのように、「怪」や「狂」が共通のキーワードだと言えなくもないが、それにしても、統一感がない。この本全体が怪しげだし、どこかバランスが狂っているような印象もある。
 ただ、その怪しさが、強烈なB級テイストを漂わせて変な面白さを生みだしているのは確かである。

Kaikyoutan

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2015年2月 8日 (日)

ふしぎな国道

ふしぎな国道/佐藤健太郎(講談社現代新書,2014)
 ういぶん前に本ブログで『国道の謎』(松波成行)という本を紹介した(2009年7月20日のエントリー)。
 本書も、それとおおむね同じテーマの本で、日本ではまだ少数派の国道マニアによるもの。『国道の謎』の松波成行は酷道走破の本なども出しているバリバリの国道マニア。それに対して本書の著者は、本来化学や薬物が専門のサイエンスライターで、国道趣味はどちらかというと余技らしく、本書の著者の著者のブログには、松波成行を「国道研究の第一人者」と書いていて、それなりの敬意を払っている様子が見てとれる。だが、本書を見る限り、著者もマニアぶりでは決して劣るものではない。
 『国道の謎』が、著者の選んだ国道ひとつひとつについて詳しく述べていたのに対し、本書は言わば「国道総論」。思いつくテーマをとにかく全部並べてみたという感じである。ビジュアルにも力が入っていて、酷道から珍品標識まで、非常に多くの写真が掲載されている。その写真にかけられた膨大な時間と労力は、想像を超える。まあ、本人にしてみれば好きでうやってるだけなのだろうが。

 内容は全9章。
 序文にあたる「余はいかにして国道マニアとなりしか」で、著者自ら、読者に対して「言っておくが、相当にマニアックである。覚悟はよいだろうか」と警告を発している。
 第1章「国道の名所を行く」は、階段国道、登山道国道、エレベーター国道など、とても国道と思えないような道の数々や、国道上の巨大建造物、複数の国道が集まる場所など、マニアの視点からの「名所」を紹介。
 第2章「酷道趣味」は、それだけを集めた本が何冊も出ているほど有名で、「道路趣味の最大勢力」と著者が呼ぶ「酷道マニア」が愛するとんでもない道の数々について。酷道というと数字が大きい印象があるが、意外にも国道25号がかなりひどい、などということもわかる。
 第3章「国道の歴史」は、わりと普通の国道小史。本書の中では一番マジメな章。
 第4章「国道完走」では、全線完走に向いたおすすめの国道をいくつか紹介している。北海道のオホーツク海岸沿いを走る238号、山形県と栃木県を結ぶ121号、しまなみ海道を通る317号など。あまりマニアックな道はなく、わりと普通。
 第5章「レコードホルダーの国道たち」は、雑学編。国道・県道の最長と最短、国道最高地点、広い国道、狭い国道など、記録づくし。日本最短の県道は長さ7mくらいしかないらしい。
 第6章「国道標識に魅せられて」は、国道マニアが「おにぎり」と呼ぶあの青い標識について。標識の下部に書かれている「ROUTE」の文字に時々スペルミスがあってそれを見つけるのも醍醐味のひとつらしい。標識マニアの世界も奥が深いようだ。本書の帯に隠された秘密についても書いてある。
 第7章「都道府県道の謎」は、総ページ数の関係か13ページしかない短い章だが、都道府県道についての雑学集みたいなもの。
 第8章「旧道を歩く」は、国道指定をはずされた旧道での、国道時代の痕跡さがし。鉄道でいえば廃線マニアの世界。
 第9章「深遠なるマニアの世界」は、その他の「国道の遊び方」さまざま。国道グッズの収集、歌の中の国道さがし。そして最後に、究極のゲームとも言うべき「非国道」が紹介されている。スタートからゴールまで、国道・高速道路を一切通らずにたどり着くのがルール。交差点でまたぎ超えるのは許されるが、県道などと一部でも重複していたらダメなのだそうだ。
 国道趣味をきわめると、「国道を通らない」ゲームに行きつくという話。マニア心にあきれるべきか感心すべきか…。

Fusiginakokudou_2

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2015年1月23日 (金)

12月に読んだ本から

郵便局と蛇 A・E・コッパード短編集/A・E・コッパード;西崎憲編訳(ちくま文庫,2014)
 この著者については以前に『天来の美酒/消えちゃった』(2013年5月18日のエントリー)を紹介している。その時も思ったが、コッパードの作品はやはり、どこか変である。前のエントリーで「小説の常識が通用しない」と書いたが、それはこの短編集にも当てはまる。
 本書はそんな変な小説10編を収録。長くても30ページ前後の、短い作品ばかりである。実は解説が40ページくらいあって、収録作品のどれよりも長い。

・「銀色のサーカス」:虎の着ぐるみをかぶり、サーカスでライオンと対決することになった男。相手のライオンも着ぐるみだった。こういうのがジョークにあったが、それで終わらないのがこの話。実は恋敵だった二人の男は、本気で殺し合いを始める。
「郵便局と蛇」:郵便局に行った男は、山へ行くと蛇が出ると言われる。男が山に登ると、本当に蛇が出る。言ってしまえばそれだけの話だが、この「蛇」は叢でウロチョロしてるやつじゃなく、世界を滅ぼす大蛇なのだ(原題では「serpent」)。
「うすのろサイモン」:エレベーターで天国へ行くサイモンと、その後を追う学者。日常世界と天国とが何の違和感もなく自然につながっている奇妙な世界での、罪と赦しの物語。
・「若く美しい柳」:電信柱と柳の恋物語。とんでもない発想で、しかしけっこうまともなストーリーなのだった。
「辛子の野原」:年老いた三人の女が野原で芝刈りをしている。帰り道、遅れた一人を待ちながら、二人の女はかつての恋人の思い出話を語る。その中で明らかになる過去の真相。
「ポリー・モーガン」:アガサ伯母は死んだ男の遺言を破り、棺に花を手向ける。そのことが、伯母と語り手のポリーの運命を変える。二人は死んだ男の幽霊にとり憑かれる――あるいは、とり憑かれたと思いこむ。
「アラベスク―鼠」:部屋に現れた小さなネズミを捕るため、ネズミ捕りを仕掛ける男。やがて男は一匹の鼠に人生の悲劇を見る。
「王女と太鼓」:いつか世界の頂に登りつめると予言された少年キンセラの旅。巨人から渡された鍵を使って、キンセラはとある王国に幽閉されている王女を助けに行く。王女は太鼓を叩いて国民を困らせていた。寓話の一種だと思うのだが、何を言いたいのかさっぱりわからない。いかにもコッパードらしいが。
「幼子は迷いけり」:貧しい夫婦の大事な一人息子は、病弱で無気力。こういうダメな男が最後には何かをなしとげるというのが、普通のパターンだが、コッパードは違う。最後までダメなままなのだった。
「シオンへの行進」:大天使ガブリエル、あるいは世界の王に会うために旅を続けているミカエル。怪力の修道士と、マリアと呼ばれる女が彼の道連れになる。マリアの幻視に導かれて、一行は奇跡の地に到着するが、それを見ることができるのはマリアだけなのだった。宗教的な高揚と幻滅に満ちた物語。

 こうして見ると、どの作品にも、濃淡の差はあれ宗教色が感じられる。コッパードの宗教的な側面が色濃く出ている短編集と言える。とはいえ、説教や教訓めいたものは感じられず、救いのなさや諦念みたいなものだけが印象に残るのだが。
 そんな中でベスト作品を選ぶなら、シュールさが目立つ表題作「郵便局と蛇」か。次点が「若く美しい柳」。

Yuubinkyokutohebi

ベスト珍書 このヘンな本がすごい!/ハマザキカク(中公新書ラクレ,2014)
 著者は「珍書」コレクターにして、その正体は社会評論社の編集者(自称「ブサカル変集者」)濱崎誉史朗。変な本を企画することに情熱を傾けているようで、あの『世界飛び地大全』もこの人の編集担当だったようだ。
 そんな著者が独特の視点で集めた「珍書」の数々。「珍書」は、作り手が意図しないおかしさを持った本のことだが、「トンデモ本」とは微妙に違う。「トンデモ本」は書いてある内容が変なのだが、「珍書」は、本のコンセプトそのものや、造本が変な本である。いわば、「トンデモ本」は内側に、「珍書」は外側に注目した概念と言える。とはいえ、どちらにも該当しそうな本も当然あるのだが。
 また、「珍書」は井狩春男の『ヘンテコ本が好きなんだ』(2007年12月11日のエントリーで紹介)に出てくる本とほとんどかぶるらしい。そのためか、本書で取り上げる本は、『ヘンテコ本――』が出た後の、2000年以降出版のものに限定されている。
 本書では約100冊の「珍書」が紹介されている。第1章「珍写真集」、第2章「珍図鑑」、第3章「珍デザイン書」など、10のカテゴリーに分類されていて、それぞれに6~15冊程度の珍本を収録。
 小説は入ってない(著者は基本的に小説を読まないそうだ)。また、「いかにもウケ狙いのサブカル書も外した」そうだ。
 わざと変な本を作ろうとしたのではなく、作り手の意図しないところで「珍」になってしまったというのが、著者の求める「珍書」らしい。この辺のスタンスはトンデモ本と似ている。
 取り上げられた本のごく一部を挙げてみると、例えばこんなもの――。

・『DRIP BOMB』:ゲロの写真集。最初からこれである。(第1章「珍写真集」)
・『2009-2011 flowers』:中身は単なる花の写真集らしいが、50部限定、定価30万円という超豪華本。ただ高いというだけで、珍本の仲間入り。(第1章「珍写真集」)
・『ローリング・ストーンズ海賊版事典』:タイトルどおり、ローリング・ストーンズの海賊版だけを集めたガイドブック。(第2章「珍図鑑」)
・『Fが通過します』:幅20ミリ、高さ215ミリの「世界一細長い本」。ただ、「読み物ではなく、本と呼べるかは微妙」だそうである。(第4章「珍造本」)
・『漢字で書く「欧米男子の名前・550例』:自分の名前を漢字でタトゥーにしたい外国人向けの本。それぞれの名前について「Good」と「Bad」の2例があって、アレクサンダーなら、Goodが「有久賛陀」、Badなら「荒駆散堕」と暴走族風になる。こういうのばかり550も載っている。(第6章「珍語学書」)
・『民明書房大全』:タイトルだけ見てピンとくる人もいるだろうが、民明書房というのはマンガ『魁!!男塾』に引用が出てくる珍妙な本の発行元である。この本は、あのマンガに出てくる数々の架空の本を解説したもの。他の珍本が、いかに変に見えてもマジメな意図で出版されたものばかりなのに対し、本書はどう見ても冗談。著者が除外したという「いかにもウケ狙いのサブカル書」に該当するような気がするのだが…。(第7章「珍人文書」)
・『ほんとうに困った症例集』:精神科の困った患者たちの症例を集めた医学書。想像を超える奇妙な患者たちの事例が満載。医者も関係者たちも本当に困っているのだから、こういうのを珍書と面白がるのは不謹慎と言われても仕方ないのだが、本書にはこんな例が他にいくつもある。(第8章「珍医学書」)
・『こじき大百科』:ホームレスの写真とレポート集。人権侵害で訴えられて2度にわたる自主回収となったが、著者は懲りずに同じような本を出し続けているという、(第10章「珍警察本」)

 ところで、この本のすごいところ――というか、著者のすごいところは、こうした「珍本」を探し出すために、年刊8万点に及ぶ新刊本をすべてチェックしているということ。
 それも一般に流通している本だけではなく、普通の書店に並ばないような専門書、地方出版といったものまで、あらゆるルートを駆使してチェックしている。珍本は、普通のルートでは入手できないことも多いのだ。
 また、流通してなかったり高すぎたりして現物が入手できない場合も多いので、そういう時は図書館で内容を確認する。普通の図書館にはないこともこれまた多いので、持っているところから取り寄せたり、国会図書館に出向いたりする。(そして著者が図書館に行くと、かなりの頻度でハプニングが起きるらしい。)
 とにかく新書1冊の背後にこれだけ膨大な手間のかかっている本はないのではないか。本書自体が一種の珍書じゃないかと思う。

Bestchinsho

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