趣味

2009年7月22日 (水)

一日江戸人

一日江戸人/杉浦日向子(新潮文庫,2005)
 2005年7月に46歳の若さで亡くなった杉浦日向子の、イラストつきエッセイ。この文庫本の出版は2005年4月なので、本当に亡くなるちょっと前。もっとも、オリジナル版は1998年に出ている。
 内容は、「江戸人」としての生活入門書、とでも言おうか。江戸の生活について、身なりから生活習慣、料理、娯楽など、各テーマごとに短い文章とイラストで手際よくまとめている。――と書くと、ありきたりの江戸時代解説書みたいだが、実は随所にユニークなテーマが散りばめられている。
 例えば、「大道芸」の項では、思わず脱力するようなしょうもない芸の数々をイラストで紹介し、「義賊列伝」では、江戸を騒がせた「五大小僧」を表にまとめ、「傾く(かぶく)」では、江戸のカブキ者たちの生態を図解する。江戸人が想像した未来社会予想、なんていう日本SF史の資料になりそうなテーマまである。
 元マンガ家だけあって(この本を書いた頃はすでにマンガ家は引退)、イラストと文章がうまく補完しあっていて、どちらの分量が増減してもバランスが崩れるような、絶妙な構成になっている。ただ、文字で書くのが難しそうなことはすぐ絵に描いてしまうのは、マンガ家出身の習性か――と思わせる面もある。それが悪いわけではないが。

 同じ江戸生活ものでも、石川英輔みたいにやたら現代社会批判を繰り広げたりせず、くどさがない分、好感がもてる。ただ、文字どおり「江戸」人のための案内となっていて、同じ江戸時代でも、江戸以外の地方の話は全然出てこない。特に東京の街に江戸の面影をさがす街歩きガイド「江戸見物」など、東京以外に住んでる人間にはいまいちピンと来ない部分もある。逆にいうと、東京以外の住民にとっては、異世界をかいま見るような気もする案内でもある。
 病魔に倒れなければ、著者はまだまだ活躍していたはずである。この才能が失われたのは惜しい。

一日江戸人 (新潮文庫)

 

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2009年7月17日 (金)

6月に読んだ本から

 前月に読んだ本について書くのが、また遅くなった。遅い記録の更新である。せめて「2ヶ月まとめて」なんてことだけはないようにしなければ。
 ともかく、6月に読んだ本から2冊。

きのこ文学大全/飯沢耕太郎(平凡社新書,2008)
 古今東西の、きのこが出てくる文学作品を集めるという、発想が変。とにかく変。
 構成は辞書形式で、短いものは半ページ、長いもので数ページの記事を50音順に並べている。ただ、各項目の見出しのつけ方に決まった規則がないので、辞書みたいに「引く」ためには使えない。
 例えば、「あ行」は、【赤瀬川原平の「赤坂のマツタケ」】、【アッシャー家の菌類】、【吾妻ひでおの「きのこの部屋で」】、【嵐山光三郎の「森の宴会」】、【アリスときのこ】、【安野光雅のなき茸】、【泉鏡花ときのこの化身】、【一茶の天狗茸】...といった具合。
 見てのとおり、作者名+作品名というパターンが多いが、作品に出てくる固有名詞が見出しになっていることもあり、特定の作品をさがすのは非常に困難なのだ。そのかわり、巻末に人名索引ときのこ名索引がついている。
 各記事は、それぞれの作品紹介、キノコが登場するシーンの短い引用や解説からなる。キノコの名前にやたらにこだわっているあたりに著者のキノコマニアぶりが伺える。
 取り上げられている作品は、上の例にも見るとおり、古今東西のあらゆるジャンルの小説、エッセイ、マンガ、俳句と幅広い。とにかく、松尾芭蕉、宮沢賢治、筒井康隆、手塚治虫、吾妻ひでお、萩尾望都、アレクサンドル・デュマ、ゲーテ、レーニン、レイ・ブラッドベリ、ブルース・スターリング、橋本治などが一緒くたに収録されているような「文学大全」など、他にちょっとないだろう。すべては、「キノコ」でつながっているのだ。
 SFファンにおなじみのキノコといえば、『地球の長い午後』に出てくるアミガサタケか、あるいは「マタンゴ」だろうが、両方とももちろん出てくる。アミガサタケは、「オールディス―」のところではなく、「た行」の【「地球の長い午後」のアミガサタケ】という項目名で収録。マタンゴは、【マタンゴの変容】。
 ちなみに【マタンゴの変容】は10ページもあって、本書でも一番長い記事の一つ。映画「マタンゴ」の話はもちろん、その原作となったウィリアム・ホープ・ホジスンの「夜の声」、福島正実によるノベライズ版、マタンゴをテーマにした橋本治のコラム、大槻ケンジの詩まで紹介するという豪華版である。マタンゴに向ける作者の熱い想いがよくわかる。
 キノコの出てくる作品をひたすら追い求める作者の、調査範囲の広さと、キノコへの異常な愛情に感心してしまう1冊。

きのこ文学大全 (平凡社新書)

太陽系最後の日(ザ・ベスト・オブ・アーサー・C・クラーク 1)/アーサー・C・クラーク;浅倉久志ほか訳(ハヤカワ文庫SF,2009)
 日本オリジナル編集のクラーク短篇選集、全3巻の1冊目。1946年から1951年までの初期作品を収録。
 どれも一度は読んだことがあるはずの作品だが、中には邦訳単行本未収録で、数十年ぶりに再読したものもある。
 表題作になっている「太陽系最後の日」は、クラークのSF作家デビュー作であるともに代表的短篇の一つでもある。「ずらりと並ぶ真空管」というあたりに時代を感じさせるが、ストーリーそのものは、60年以上を経ても色あせない。SF的イメージの原点である。イギリス人なのになんでこんなアメリカ的発想のものを書くんだ、という気もするが。
 続く「地中の火」と「歴史のひとこま」は、二つの文明のコンタクト、というよりむしろすれ違いを描く。「地中の火」は物理的環境の違い、「歴史のひとこま」は時代と文明的背景の違いが、悲劇的結末や喜劇的勘違いを生んでいる。両方とも単純なアイデア・ストーリーだが、歴史的視点がクラークらしい。
 中編「コマーレのライオン」は、解説にも書いてあるように、昔SFマガジンに「ライオンの棲む都市」のタイトルで掲載されて、それきり単行本収録されなかった「幻の作品」。そのSFマガジン版を読んだことは覚えているが、内容は体制に逆らう青年が主人公であることと、ライオンが出てくることだけしか記憶になかった。「停滞した理想社会からあえて外に出て行く異端分子」という、『都市と星』タイプの物語で、こういうシチュエーションは基本的に非常に好きなのだが、今回読み返してみると、思ってたほど大した話じゃなかった。
 「かくれんぼ」は、火星の衛星を舞台に繰り広げられる、宇宙巡洋艦と一人の男の対決の物語。こういう話は今でも書く人がいてもおかしくない。
 「破断の限界」は、二人の男が乗った宇宙船が事故にあって酸素が欠乏し、一人しか生き残れないという「冷たい方程式」パターンの話。二人のうちのどちらかが死ぬしかない(しかも、「方程式」とは違って、二人とも条件は平等)という状況下のストーリーは、緊張感があっていいのだが、邦訳タイトルは誤解を招く。このタイトルだと物理的に何かが壊れることを言ってるようにしか思えないが、実際に壊れるのは、二人の男のうち片方の理性なのである。
 「守護天使」は、『幼年期の終わり』第一部の原型。『幼年期の終わり』を知っている読者には、プロローグだけで終わってるようにしか思えないだろう。
 「時の矢」は、クラークには珍しいタイムトラベルものだが、あまり成功しているとは思えない。
 最後に収録された100ページ近い中編「海にいたる道」は、「コマーレのライオン」と同じようなパターンの遠未来もの。停滞しているが物理的には満ち足りた社会から、あえて出て行った若者が伝説の都市を目指す。
 ただ、「コマーレのライオン」の主人公ペイトンの動機づけがいまひとつあいまいだったのに比べ、「海にいたる道」のブラントが古代都市(古代といっても、現在から見るとはるか未来だが)シャスターを探し求める理由は明解である。―彼女にいいところを見せるため。単純だが、よくわからない目的よりはずっとましである。そういう点も含めて、全体的に話に無理なところがあまりなく、出来はこっちの方が遙かにいい。本書収録作中のベストとしたい。

 蛇足。「海にいたる道」のシャスターが、実際にどのへんにあるのか考えてみた。主人公が住んでいるのは、森の中の集落。周囲は平原だが、「六千年前、この地域は世界でももっとも広大、かつ人間にとっては手ごわい砂漠の一つだった」という。世界でもっとも広大な砂漠といえば、サハラ砂漠だろう。そして、村の北方20マイルと離れてないところに海がある。とすれば、これは北アフリカの海岸に近いどこか。決定的なのは、主人公がたどりついた海岸にローマ帝国(文中では「ある強大な帝国」)の道路が残っていることだ。さらに決め手として、「ローマの百人隊長、シャルルマーニュ大帝麾下の十二勇士(アフリカに遠征したという伝説がある)、ロンメルの装甲軍団」がこの地を通って行ったという描写もある。
 これでもう、ここが北アフリカのどこかだというのは確かだ。さらに、「海に向かって突き出している険阻な岬」があるという描写から、海岸線がかなり変化に富んでいることがわかる。北アフリカ沿岸部でそういう地形があるのは、モロッコかチュニジアくらいだが、ロンメルの軍団が通って行ったということから、条件に合うのはチュニジアしかない。結局、シャスターはチュニジアの北海岸のどこかに位置するのではないかと思うのだが。心情的には、カルタゴ遺跡のあたりと思いたい。

太陽系最後の日 (ザ・ベスト・オブ・アーサー・C・クラーク 1) (ハヤカワ文庫SF)

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2009年4月23日 (木)

水族館の通になる

水族館の通になる―年間3千万人を魅了する楽園の謎/中村元(祥伝社新書,2005)
 2005年に創刊した祥伝社新書の、No.10。帯には「創刊第2弾!」と書いてあるので、創刊の翌月に出た中の1冊。
 この本、けっこう売れているらしい。今でもアマゾンはもちろん、主要な本屋には在庫がある。世の中、けっこう水族館好きが多いのだろう。かくいう私もその一人だが...。
 著者は鳥羽水族館や新江ノ島水族館のプロデュースにかかわった、いわば水族館のプロ。そのプロが水族館にまつわる基礎知識からトリビアまでを語る本である。例えば水族館と動物園の違いや、日本の水族館の数といった基本中の基本といった情報もあれば、魚はいつ寝ているのかとか、死んだ魚は食べるのかとかいった素朴な疑問への答えもある。
 まあ要するに、メインは水族館の裏話で、それ以上でもそれ以下でもない。あまり高度の知識や、日本の水族館ガイドといった内容を求めると、期待がはずれる。著者がターゲットにしているのは、マニアではなく、あくまで水族館好きの普通の人、それに子供たちである。つまりは、家族連れで休日に水族館に来てくれそうな人たちだ。
 また、著書は水族館や海に関する本を何冊か出しているようだが、水族館のプロではあっても、文章はあまりプロらしくは見えない。上に書いたような本書の狙いからして当然かもしれないが、おそろしく平易な、水族館の専門家が中学校やカルチャースクールで講義でもしているような雰囲気の文章である。それがいい味を出している。新書の中でも、これだけ何のひっかかりもなく、それこそ水が流れるように読める本というのは珍しいのではないか。
 そして、その平明な文章から、とにかく水族館が好きでたまらないという著者の気持ちはよく伝わってくる。水族館の好きな人間は、その思いを共有できるだけでも楽しい気分になるだろう。好著と呼びたい。

水族館の通になる―年間3千万人を魅了する楽園の謎 (祥伝社新書)

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2008年12月 6日 (土)

鉄道用語の不思議

鉄道用語の不思議/梅原淳(朝日新書,2007)
 誰でも知ってるような言葉から、鉄道関係者(またはマニア)しか使わないような専門用語まで、鉄道に関わる様々な言葉を簡潔に解説したもの。
 第1章「よく見聞きする基本用語」では、「鉄道」、「線路と軌道」、「旅客」、「路線」、「新幹線」、「在来線」、「起点と終点」といった具合。
 「鉄道」というもっとも基本的な言葉そのものをとっても、厳密に定義しようとすれば、普通の鉄道はともかく、モノレールは、新交通システム(レールがない)は、トロリーバスは、鉄道に含まれるのか、含まれるとしたらどのような根拠によるのか、とか様々な論点が生まれてくる。あるいは「旅客」という議論の余地がなさそうな言葉にしても、運賃を支払って乗っているのが旅客だとしたら、無賃乗車している人間は旅客ではないのか、だとすれば旅客を対象とした法律は適用されないのか、とかいう議論が出てくる。
 ひとつひとつの言葉について、法律、規格、統計等々を引用しながら、そういうことを論じる。要するに非常に理屈っぽい本である。
 第2章以下、「組織に関する用語」、「車両に関する用語」、「線路や施設に関する用語」、「マスコミでよく取り上げられる用語」と続く。当然ながら、「専用鉄道」、「専用軌道」、「信号場、信号所」、「系と形」といった、いかにも専門用語風な鉄道用語も登場するが、それよりも、「車両」、「電車」、「駅」、「踏切」といった日常的な用語の説明の方がおもしろい。誰もが意味がわかっていると思っている用語が、実は意外に奥が深く、思いもよらない側面を持っていることがわかったりするからだ。例えば、「駅」と分類される施設の中に、列車が発着しない、旅客も出入りしない、レールすらない場所がある、とか。そういったトリビア的知識も豊富に含まれている。各章の末尾に、取り上げられた用語の簡潔な説明が別枠でまとめてあるのが親切。
 この本を読むと、鉄道に詳しくない人の前でなら、ちょっとだけ知ったかぶりができるかもしれない。ただ、実際はそうでもないのに濃いテツだと思われても何の得にもならないだろうが。
 「読みテツ」にとっては必読書か。

鉄道用語の不思議 (朝日新書 88)

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2008年12月 2日 (火)

大江戸番付づくし

大江戸番付づくし/石川英輔(実業之日本社,2001)
 とにかく江戸時代の人々は、何でもかんでも「番付表」にしたてあげた。これは、江戸の「見立番付」コレクション。要するにランキング集。
 どんな「番付」があるかというと、まずは現代の日本でもおなじみのものから、第一章の料理茶屋、うなぎ屋、酒など飲食関係。江戸時代から、日本人はグルメランキングが大好きだったのだ。
 職人の種類、名刀、儲かる商売。これもまあ、似たようなものがないとは言えない。儲かる商売の筆頭は、大関(この時代の相撲にはまだ横綱という位はなく、大関がトップだった)の米屋(米問屋)と両替屋。続いて関脇の唐物屋と造酒屋となっている。もっとも、番付外に書かれている「勧進元」(主催者)の呉服店と「差添人」(副主催者)の廻船屋は別格扱いだから、本当に儲かっていたのはこっちかもしれない。
 第三章のの山、橋、名所旧跡、温泉、神社仏閣、祭り、物産、これも今でもよくあるランキング。山の番付では、富士山が「勧進元」になっていて別格扱い。ところで富士山の相棒の「差添人」は、何と天保山である。天保山は大阪市内にある、「日本一低い山」。これを富士山と組ませるというのは、すごいギャグのセンスだ。番付そのものは、東の鳥海山、西の阿蘇山が大関になっている。また、主観的な格付けが多い番付の中で、神社仏閣の番付は、それぞれの寺社領の石高で並べてある。要するに寺社を財産で格付けしているわけで、実に客観的なランキングではあるが、生臭い。今の時代に全国の神社仏閣を年間収入の順に格付けなどしたら、抗議がどっと来そうだ。
 時代を感じさせるのが、第二章に出てくる「よい娘悪い娘」(これは明治時代のものだが)、「よい奉公悪い奉公」、「よい女房悪い女房」あたりか。今では作りたくても作れないランキングである。なお、「娘」や「女房」というのは、別に個人をランキングしているのではなく、性格や行動を挙げているのである。「よい娘」の大関は「針仕事の好きな娘」、「悪い娘」の大関は「親へ悪口する娘」となっている。しかしこの二つは両立することもあると思うのだが、その場合はどうなるのだろう。
 他に、ほとんど言葉遊びの「大小くらべ」、「雲泥の差があるもの」なども江戸独特のランキングか。「大」の大関は「大坂米相場」、「小」の大関は「伊勢暦の字」なのだそうだ。客観的な大小を言ってるのではなく、完全に冗談の世界だとわかる。こういうランキングの方が、この時代の人間のセンスがよくわかる。
 世の中のすべてを相撲番付に見立ててパロディ化してしまう江戸時代人の。現代人と代わらない遊びの精神を確かに感じる、楽しい本である。ただ、ところどころで石川英輔の著作につきものの江戸時代礼賛、現代社会批判が目につく。この本のテーマからいって、そんなことを書く必要はないと思うだけに、どうもその部分が鼻についてしまうのが残念だった。

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2007年12月18日 (火)

趣味人の日曜日

趣味人の日曜日/笹川巌(講談社現代新書,1987)
 「三代続いたサラリーマン」と自ら称する著者が、「四代目のサラリーマンたるべく運命づけられている息子に、"家訓"のかわりになる一冊の本を書きのこすべきではないか」と思い立って書いたという本。
 さらに著者は、「それが現代の士太夫・読書人階級であるサラリーマンのライフスタイルやアイデンティティを確立・確認するためのてがかりになれば拾いものだ」なんてことも考えたりする。このあたりですでに、普通のサラリーマンとはかなり違った指向を感じるのだが...。
 上の文章でもわかるように、著者は現代のサラリーマンを、かつての中国の士太夫・読書人、あるいは江戸時代の勤番侍に当たるものだと考えている。「サラリーマンのライフスタイルやアイデンティティ」を理想化すれば、昔のこういった層、言い換えれば、「文人」が一番近いというのだ。だからこの本では「新・文人生活」のノウハウを考えるという。
 そう言われても、実際にサラリーマン生活を送っている人の大半にとっては、全然実感がないだろう。私もそうである。いきなり「文人」とか言われても...。
 実際に著者がおすすめの趣味生活というのは、まず書斎をかまえ、花や金魚鉢を飾り、随筆(それも主に江戸随筆)や怪談・怪奇小説を読もこと。あるいは外に出れば、江戸の面影を求めて町歩きをすること。
 なるほどいかにも「文人」らしい。優雅にして粋である。
 でも著者が自分の趣味について書いているだけのような気がする。とても万人の楽しむことのできる趣味とは思えない。
 というか、趣味生活のすすめというよりは、「おれはこんなに優雅な趣味を持ってるのだぞ」という趣味自慢に思えてしかたがない。
 だいたい、「三代続いたサラリーマン」というが、著者の祖父は大蔵省の局長、父親は財閥系の銀行に勤め、自分自身は放送会社に勤務するかたわら、いくつかの大学で講師を勤めている。三代続けて東大を出ているらしい。
 要するに三代続いたエリートじゃないか。江戸時代の侍に例えれば、少なくとも千石どり以上の旗本クラスで、決して内職で傘貼りをしている貧乏侍ではないのだ。
 まあ、「文人」というのは、結局エリート階級なのだから、当然といえば当然。
 別にそれが悪いというわけではない。ただ、普通のサラリーマンが普通の趣味生活について語っているのではない、そのことだけは強調しておきたい。
 そこさえ押さえておけば、ユニークな着眼点が楽しめる本なのだ。実のところ、ここで書かれているような趣味生活は、私は非常に好きである。

 それにしても、こんな本が出るというのは、社会に余裕があった証拠だろう。すでに過去形で語るしかないが。
 この本が出版されたのは、まだバブル景気のまっただ中。ワーキングプアや非正規雇用が社会問題にならなかった、幸せな時代の著作である。

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2007年7月 9日 (月)

間取り図の世界

「間取り」の世界地図 暮らしの知恵としきたり/服部岑生(青春新書INTELLIGENCE,2006)
 タイトルは「世界地図」となっているが、全体の約3分の2は「日本の「間取り」とその変遷」と題する、間取りから見た日本住宅史になっている。
 第1章でダイニング・キッチンの誕生から現代に至る、戦後日本の住宅の間取りの変遷を紹介。第2章では時代を遡って、江戸時代後期の武士の屋敷から、明治の和洋折衷住宅、有名な同潤会アパートなど、昭和初期までの間取りの歴史を語っている。
 一旦現代までの流れを紹介しておいてから、さらに遡ってその源泉をたどる、読者を掴む構成という点では、うまいやり方である。
 3章では「南向き信仰」、「ドアの内開き・外開き」、「サザエさんの家の間取り」といった小さなトピックスを扱っている。それにしても、「世界」がなかなか出てこない。
 第2部でやっと世界各地の間取りが出てくるのだが、量にして40ページしかない。もう、付け足しみたいなものである。そういう意味では少々看板に偽りあり。字が大きくて中身もやや薄いような気もする。まあ、「間取り図」そのものが好きな人間としては、それなりに楽しめたから別にいいのだが。
 しかしこの手の本を新書で出すというのは、ページ的にもスペース的にも、やはりちょっと無理があるようだ。間取り図をディテールまで楽しむには、もう少し判型を大きくして欲しいところである。

「間取り」の世界地図暮らしの知恵としきたり

 そんなことを思っていたら、世の中には「間取り図」を見ること自体がおもしろいという、似たような趣味の人がいるようで、ちょっと変な間取り図ばかりを集めた本が出ていた。

間取りの手帖 remix/佐藤和 歌子(ちくま文庫,2007)
 文章はほとんどない。ひたすら間取り図だけが各ページに一つずつ載っているだけ。すばらしい。
 それぞれの間取り図に短いコメントがついてる。「ぐるり」とか、「うにょうにょ」とか、「地味な生活」とか、「今も尖ってるよ」とか、「何もできない」とか、「確信犯的収納狂」とか。それ自体では意味をなさない、しかし間取り図に添えられると、そこはかとなくおかしいコメントの数々。
 ここに掲載されているのはすべて実在する賃貸住宅の間取りらしい。シンプルなものから奇怪なまでに複雑なものまで、丸いのやら三角のやらギザギザのやら、中には実在することが信じられないような変な間取りもいくつか。中に入ったらどんな風に見えるのか、想像力をそそられることこの上ない。(ちなみに、間取り図だけで、立体図や写真は一切ない。)
 ミステリで犯行現場の説明に使われるだけが間取り図の使い道ではない。間取り図には無限の想像を生む余地がある。
 解説で南伸坊が書いているように、「間取り図というものは、それを見る人の想像力を刺激してやまない」ものなのだ。

間取りの手帖remix

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2007年5月23日 (水)

空想哲学読本

空想哲学読本 アニメで読み解く【哲学入門】/富増章成(宝島社文庫,2003)
 タイトルは、いかにも『空想科学読本』の路線のオタク系研究本に見えるし、出版社側も明らかに、その線の本だと思われることを期待しているだろうとわかる。
 ところが中身は全然そういうものではなかった。

 「はじめに」で、著者はさまざまなメディアに過去の哲学思想の影響が現れていると断じ、「本書はテレビ・メディアやゲームソフトの作品の中に潜む哲学思想の痕跡を発見しようと試みたものである。」と書いているが、本気にしてはいけない。
 著者はただ単に、アニメやゲームをネタに、あるいは無理にこじつけて、哲学思想を説明しているだけなのだ。その正体は、サブタイトルのとおり、「哲学入門本」なのである。
 冒頭に掲げられている「ひと目でわかる空想哲学史の流れ」という図は、単なる「西洋哲学史の流れ」にすぎない。オタク系題材をだしに使っているだけなのだ。その意味では、逆説的に、実はまともな哲学の本だと言える。
 少なくとも、この本で語られている「哲学」は、本物であって、空想ではない。巻末の参考文献も、半分は普通の哲学の本である。(後の半分はアニメなどのネタ本。)

 内容は、「ウルトラマンでアリストテレスがわかる」、「セーラームーンでキリスト教哲学がわかる」、「エヴァンゲリオンでデカルトがわかる」、「ときめきメモリアルでカントがわかる」、「ポケモンでヘーゲルがわかる」、「ガンダムでニーチェがわかる」といった具合に、西洋哲学の流れがひととおりわかるようになっている。
 最後の「巨人の星で東洋哲学がわかる」だけは、全体の流れから浮いている上に、儒教と仏教を一緒くたにして「東洋哲学」とするなど杜撰な記述が目立って、余計な気がするが。
 どうでもいいことだが、なんとなく、「エヴァンゲリオン」と「ガンダム」には、著者のひときわ強い思い入れが入っているような印象を受けるのは、気のせいか?

 ただ、正体が「哲学本」だからといって、哲学の勉強のためにこの本を読んだりするのは、ちょっと使用法を誤っている。やはり、オタクなネタとマジメな哲学との、無理矢理な結合を笑いながら楽しむ本、と見るべきだろう。
 あと、文章の雰囲気がなんとなく、土屋賢二のエッセイに似ている気がする。まえがきの「本書は題名がまともでないせいか、世間では内容までバカバカしいという誤解が広まっているが、実際は読者の精神に異常をきたす程度の有害性しかもちあわせていない」というあたりは、まるっきり土屋節である。
 哲学をやってると、こういう文章を書くようになるのだろうか? まさかそんなことはないだろうが。

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