歴史

2021年3月23日 (火)

乱世に生きる

乱世に生きる 歴史の群像/中村彰彦(中公文庫,2001)
 この著者の本は、2年ほど前に本ブログで『武士たちの作法』という歴史エッセイをまとめた本を紹介したことがある(2019年3月25日のエントリー)。
 そちらの本は、戦国時代と幕末をテーマにしたエッセイが中心だったが、本書の場合は、平安時代から昭和初期まで、扱う時代は幅広い。「群像」というサブタイトルが示すとおり、大半が歴史上の有名無名の人物をテーマとするエッセイ。『武士たちの作法』を読んだ時は、この著者の本領は人物エッセイにあると思ったが、その印象を裏づける内容だった。

 時代別に4部構成になっている。
 Ⅰ「武将たちの時代へ」は、平安末から戦国時代までの人物を取り上げている。タイトルはすべて人物名で、待賢門院璋子、藤原秀衡、足利尊氏、板垣信方、武田勝頼、毛利元就、長宗我部盛親、直江兼続。
 Ⅱ「江戸を生きる」は、江戸時代初期から中期。「北政所・淀殿」、「徳川家康」、「真田幸村」など、やはり人物エッセイが中心だが、それ以外の、関ヶ原合戦史や尾張藩の忍者集団についての珍しい記録もある。
 Ⅲ「幕末の人と事件」は、人物というより出来事を中心とした文章が多い。。「ドキュメント攘夷決行」、「ドキュメント長州征討」、「薩長同盟と王政復古」、「徳川慶喜」、「新撰組隊士・斎藤一のこと」、「沖田総司は黒猫を見たか」、「幕末受難の家老たち」。
 Ⅳ「明治の気骨・大正の夢」は、明治以降の人物を扱っている。後の方になると政治家や軍人ではない民間人が主役になるのだが、歴史上の有名人物よりも、こっちの方が面白い。知らないからこそだろう。「佐川官兵衛討死の光景」、「明治顕官たちの「那須野ヶ原」開拓物語」、「榎本武揚と福島安正」、「島村速雄」、「秋山真之」、「松江春次」(サイパン島の砂糖王)、「松旭斎天勝」(一世を風靡した女性マジシャン)、「ラグーザお玉」(イタリアで活躍した女性画家)。

 歴史上の人物や出来事についての見解は実にオーソドックスで、伝統的な説を出るものではない。本業の歴史学者ではないのだから、それでいいのだろう。独創性はあまり感じないが、題材の選び方や、限られた文字数で容量よくまとめる腕は職人の業というべきである。

Ranseniikiru

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2021年3月15日 (月)

上杉謙信

上杉謙信/井上鋭夫(講談社学術文庫,2020)
 原著は1966年の出版。今から半世紀以上前に出版された上杉謙信の伝記である。
 解説によると、内容には今の最新の研究成果から見ると古い部分もあるらしい。だが、上杉謙信という人物について、その祖先も含めた出自や事績がよくわかる1冊になっている。実のところ、謙信というのは川中島で武田信玄と戦った以外、何をした人物なのか、今ひとつイメージがわかない気がするのだ。その意味では手頃な「謙信入門」本と言える。
 内容は全10章だが、実はそのうち前半の5章が、上杉謙信登場以前の越後の情勢を語ることに当てられている。
 この時代の越後は関東と深く結びついていた。関東を実質支配するのが(名目上は関東公方がトップ)関東管領上杉家、その下で家宰を務めるのが関東長尾家。そして、越後も守護を上杉家、守護代を長尾家が代々務めていた。関東も越後も、上杉家-長尾家というラインで統治されていたわけである。実際には内輪もめが絶えなかったのだが。
 この越後上杉家を打倒して越後の実質支配者となったのが、上杉謙信の父親である長尾為景。守護上杉房能、関東管領上杉顕定と、主筋に当たる上杉家当主を二人まで敗死させた梟雄。本書はこの下克上の見本みたいな為景の活躍にもかなりのページを割いている。
 上杉謙信本人は、第6章の120ページ、全体の4割くらい過ぎたところで、やっと表舞台に登場する。そこからの本書後半は、謙信の戦いに明け暮れた生涯を語る。
 最初の頃は越後国内の抵抗勢力と戦い、国をまとめてからは、関東方面で北条家と戦い、信濃で武田信玄と戦い、越中・加賀方面で一向一揆や土着勢力と戦う。よくこれだけ戦争ばかりやっていたものである。
 上杉謙信と言えば、戦えば無敵みたいなイメージが一般的にはあるようだが、実のところ武田も北条も、強大すぎる敵だった。「武田信玄といい北条氏康といい、どのひとつをとってみても景虎の手に余る相手であった」と、著者の目はきびしい。
 謙信は確かに戦場では強かったかもしれない。だが戦国大名としての総合力については、著者はあまり高く評価してないようだ。本書から浮かび上がってくる謙信像は、どちらかというとただの戦争マニアに近い。理想化された謙信像を求める人には、本書は不満の残る内容かもしれない。
 ブログ主にとっては、正直言ってむしろ父親の長尾為景の人生の方が、波瀾万丈で面白い気がする。何より、為景には強烈な悪の魅力みたいなものがある。

Uesugikenshin

 

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2021年1月30日 (土)

北朝の天皇

北朝の天皇 「室町幕府に翻弄された皇統」の実像/石原比伊呂(中公新書,2020)
 去年、本ブログで『南朝全史』という本を紹介した(2020年6月27日のエントリー)。で、今度は北朝である。
 考えてみれば、北朝の歴代天皇は正統の天皇と見なされずに代数にも数えられてないし、南朝以上に不遇に取り扱われているとも言える。少なくとも後世の歴史では。
 そのせいか、北朝のみに焦点を当てた本は少ない。専門書はともかく、新書となると、他に見たことがない。
 しかし鎌倉末から室町時代にはれっきとした公式政府の朝廷だったわけで、その歴史はもっとクローズアップされることがあっていい。
 ――と、本書の著者は考えたのかどうか。とにかく、「はじめに」によれば、「中世という時代を泳ぎ切れた」生命力に注目したとのこと。

 ところで、本書のタイトルは「北朝」だが、南北朝時代だけを扱っているわけではない。鎌倉時代後期から室町・戦国時代を扱っている。その点では『南朝全史』と同じようなもの。
 ただ、南朝の場合は南北朝時代が記述のメインだったのに対し、本書で一番興味深いのは、むしろ南北朝が終わってから後。戦国時代に入る前の、室町時代中期・後期の皇室と幕府の関係を述べている第3章から第5章あたり。
 南北朝は室町幕府3代将軍足利義満の時代に終わる。その次の将軍足利義持は「王家」(つまり北朝)の執事みたいな役割を果たしており、天皇を「丸抱え」していた。金銭面も含めて冠婚葬祭全般にわたって面倒を見るのである。これ以降の将軍も同様。
 幕府の方はその見返りとして、弱体な将軍権威を天皇権威で保証されることにより維持していた。そんな将軍と天皇の相互依存みたいな関係が、室町幕府の実態だった。
 著者はこの時期の天皇と将軍の関係を「儀礼的昵懇関係」と呼んでいるが、個人的にも実際に昵懇だった例もあったらしい。足利義政などは、天皇としょっちゅう宴会をしていたという。(そういえば、ゆうきまさみの『新九郎奔る』5巻に、義政と帝の酒宴シーンが一場面だけ出てきていた。)
 権謀術数の見本のようでもあり、妙に人間くさくもある、そんな関係を描き出すことこそが、本書の趣旨なのだろう。タイトルは『室町幕府と天皇』の方がふさわしかったのでは。

 

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2021年1月18日 (月)

攻防から読み解く「土」と「石垣」の城郭

攻防から読み解く「土」と「石垣」の城郭/風来堂編(じっぴコンパクト,2018)
 風来堂という怪しげなグループ名(?)が編者になっていることから、この新書によくある雑学系の本のように見える。確かにそういう要素もあるのだが…。
 基本的に記述は簡略で図版が多い。しかし、その少ない文章のほとんどが、城の歴史や鑑賞ではなく、軍事施設としての城の側面――縄張りと防御のシステム、攻城の方策などに当てられている。
 城と言えば天守を思い浮かべる人が多いだろうが、本書では天守を含めた建物については、防御上の仕掛けの一部として触れられているだけ。
 確かに軍事施設こそ城の本質。本書は簡略ながら、その本質に焦点を絞った本と言える。
 内容は巻頭対談と4章からなる。

 巻頭対談は西股総生と乃至政彦。「日本一の堅城はどこだ?構造と実戦の結果から探る」と題して、落ちた城落ちなかった城の違いは、などを語っているが、ほとんどはただの城談義。
 第一章「「土」と「石垣」の城の基礎知識」。基礎知識といっても、よくある用語解説などではなく、石垣の構造と組み方、用途によって違う城の構造など、かなり専門的な内容を説明している。
 第二章「実戦分析から見えてくる堅い城・脆い城」。ここからは各論で、個別の城についての紹介になる。
 この章では主に城の防御の仕掛けと城攻めの戦略を実戦から分析。登場するのは当然ながら、実際に城攻めの戦闘が行われた城ばかり。長谷堂城や熊本城など、守り抜いた城もあれば、小谷城、高天神城など、落城した城もある。
 第三章「名城もし戦わば…その強さを徹底検証」。実際には攻城戦がなかった城について、もし実際に城攻めがあったらどうなっていたかを考察。安土城、竹田城、杉山城などが登場。
 第四章「セオリーに反するナゾだらけのレア城」は、一番マニアックな章。個性に富む城の独特の防御の仕掛けを解説している。ただ、ページが足りなくなったのか、縄張り図がほとんど載ってないのが残念。
 この章に出てくるのはマイナーな城がほとんど。城には多少興味のあるブログ主でも、知らない城が多い。埴原城、岩倉城、羽黒山城、皆川城、多気山城、都於郡城…。
 こういうのは、雑学本の皮をかぶったマニア本――とでも言えばいいのだろうか。

Tsuchitoishigakinojoukaku

 

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2021年1月 2日 (土)

劉備玄徳の素顔

劉備玄徳の素顔/島崎晋(MdN新書,2020)
 正史『三国志』を主な史料とした、劉備の一代記。
 著者は歴史学者ではなく歴史ライター。独自の史観や新説みたいなものはないが、一般の歴史好き読者に向けて丁寧な解説を心がけているのがわかる。専門性は薄いが、良書ではないだろうか。序章でも言及しているように、明らかに映画『新解釈・三国志』の便乗出版ではあるが。

 内容は、劉備の生涯を、その転機ごとに5章に分けて叙述するオーソドックスな構成。
 序章「演義と正史のギャップ」は、劉備に対する後世の評価と、主な史料について解説していて、本書の中で一番歴史書らしい部分。
 第1章「一族期待の星」は、劉備の出生と教育、義勇軍としての活躍の始まりまでを述べる。劉備の属する涿郡劉氏は地方の名族であり、劉備が貧しい暮らしをしていたというのは、世間向けのポーズではないだろうかとの説は説得力がある。
 第2章「群雄割拠の狭間」。公孫瓚、陶謙、曹操、袁紹と、次々と陣営を変え、曹操に敗れて劉表のもとに逃げ込むまでの劉備の遍歴。負け続けの経歴のようだが、それでも生き残ってきたところに、著者は劉備のしぶとさを評価している。
 第3章「新たな出会い」は、三国志ドラマの一番の見せ場のところ。荊州での諸葛亮との出会い、孫権との同盟と赤壁の戦い。そして荊州(の一部)領有まで。
 しかし、本書での赤壁の戦いについての記述は簡略。だいたい、劉備軍はこの戦いでは脇役でしかなかったのだから仕方ないが。史料によっては、劉備は何もせずに戦いの行方を観望していただけだったとの記述もあるが、著者は、さすがにそれはないだろうと書いている。
 第4章「漢を継ぐ者」は、劉備の益州領有と、皇帝即位まで。劉備が一番上り調子だった時期だが、同時に、だんだんたちが悪くなってくる。益州征服での劉備の策略など、卑怯としか言いようがない。著者も「これでは信義に厚いどころか、腹黒そのものである」と酷評している。
 しかし考えてみれば、劉備は以前から人を裏切り続けてきたのだから、もともと腹黒なのだと言われても仕方ないのである。
 第5章「劉備の聖人君子化」。劉備の夷陵の戦いでの大敗と、その死。夷陵での劉備の拙劣な作戦について、著者は「老化のせい」と推測している。最後に、後世に創られた劉備像(「うさんくさい聖人君子化」)について、簡単に触れている。

 著者が序章で述べているように、曹操についての著作は何冊もあるが、劉備だけにスポットを当てた単独の著作はなかなか見当たらない。思うに、劉備の事績を史料に基づいて掘り下げて行くと、実はかなりあくどい人物だということがいやでもわかってしまうからではないだろうか。本書で明らかになったように。
 だが、本書での劉備像は別に目新しいものではなく、陳舜臣の『秘本三国志』に登場する劉備は、だいたいこんな風な食えない男だった。ブログ主にとって本書は、「劉備というのはやっぱりそういうやつだったか」ということを再確認できた本だった。そしてこういう劉備の人物像がブログ主は嫌いではない。少なくとも、「三国志演義」に出てくるような、偽善めいた建前ばかり口にする優柔不断なキャラクターよりは、好感が持てるのである。

Ryubigentokunosugao

 

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2020年12月25日 (金)

20世紀モノ語り

20世紀モノ語り/紀田順一郎(創元ライブラリ,2000)
 いわゆる「事物起源」の本。
 タイトルには「20世紀」とあるが、実際には明治以来、19世紀後半~20世紀の1960年代までを扱っている。
 なぜそういう内容になっているかは、あとがきを読めばわかるのだが、それによると、本書の来歴は非常に複雑。
 最初は「明治百年」(1968年)の頃、『小説現代』に連載したコラム「明治百年カレンダー」が元になっている。その連載をまとめて単行本になったのが1980年刊『コラムの饗宴』(なぜこういうタイトルになったのか不明)。
 その後連載時のタイトルに近い『近代百年カレンダー』(旺文社文庫、1985)、さらに『近代事物起源事典』(東京堂書店、1992)として再刊。そのつど増補しているという。
 そして今回大幅な増補改訂を行ったというのが本書。最初の連載時も含めれば、実に5回目の刊行、5番目のタイトルということになる。

 内容は、162の項目を五十音順に並べている。一項目2ページ。最初は「アイスクリーム」、最後は「レコード」。
 取り上げられている項目は当然ながら、明治時代に初めて日本に登場した事物が多い。「赤ゲット」、「映画」、「学校」、「銀行」、「自転車」、「タクシー」、「ネクタイ」、「ボーナス」、「ランプ」など。だが、それ以外にも、明治以降に大きな変化を見せたものも取り上げている。「温泉」、「漢字」、「結婚」、「地震」、「下着」、「住宅」、「心中」、「スリ」、「手紙」、「時計」などである。
 また、「図書館」、「文庫本」、「未来記」などは、いかにもこの著者らしい選び方が見える項目だろう。
 記述はあとがきで著者自身も書いているように、「明治時代の起源の部分に厚く、現代に近づくほど薄くする」形。詳しく書けば本1冊になりそうな項目も多いが、全部2ページにまとめているのは力業と言える。
 ただ、「明治百年」が企画の出発点になっているせいか、年代表記が基本的に元号ばかりなので、西暦に慣れた身には、ちょっと時代感覚を把握しづらい。人によっては、むしろその方がわかりやすいのかもしれないが…。

20seikimonogatari

 

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2020年12月20日 (日)

道半ば

道半ば/陳舜臣(集英社,2003)
 陳舜臣の自伝的エッセイ。「陳舜臣中国ライブラリー」の月報連載が元になっている。
 この本が出た時、著者はすでに80歳近かったのだが、それでもタイトルは『道半ば』。(実際に著者が亡くなったのは、この本が出てから12年後。)
 内容は、自分の半生を23章(章番号はなし)に分けて記述している。

 台湾出身の華僑商人の子として神戸に生まれてから、大阪外国語学校を受験するまでが、最初の6章(「幼い日々」~「舞い落ちる旗」)。
 大阪外国語学校時代を語るのが7章から11章まで。(「太平洋戦争まで」~「炎上前後」)。ちょうど中国での戦争が激化し、ついには太平洋戦争が始まる激動の時代と重なる。言い換えれば、著者が大阪外語学校で過ごしたのは、戦時中の日々だったわけだ。
 その頃、外語学校の一学年下に入学してきたのが福田定一(司馬遼太郎)。学生時代は交友はあまりなかったらしいが、「あの男は話術の天才ではないか」と言われるほど話がうまかったという。
 戦時中ではあったが、著者は戦争に行かずにすむ。著者は外語学校を卒業後も「西南アジア語研究所」(著者はペルシア語専攻)の研究助手として学校に残ったのだが、国立学校の職員は徴兵されなかったのだ。司馬遼太郎とは違って学徒出陣で戦争に行かずにすんだのは、台湾人だから、というのもあったかもしれないが。
 戦争が終わると外語学校の研究所は閉鎖され、著者は仕事がなくなる。何より、日本国籍を失ってしまい、外国人になる。著者は弟と二人、いったん台湾の父の本家に帰ることにする。永住ではなく、日本が落ち着くまでちょっと滞在するつもりだった。
 著者が台湾に帰郷したのが1946年。国籍が変わったのだから当然ではあるが、この時期大量の台湾人たちが日本から台湾へ戻って行った。その中に李登輝もいたことが語られている。著者の友人何既明と一緒の引揚船で帰って来たそうで、とんでもない読書家だったそうだ。
 父親の故郷である台北県の新荘という田舎町で、著者は思いがけずも学校の英語教師をすることになり、3年間勤めることになる。そのへんのできごとを語るのが、12章から17章まで(「戦い終わる」~「過ぎ行く牧歌時代」)。動乱の中で著者が小説への志を抱き始めるくだりもある。
 事態が風雲急を告げ、悲劇の様相を帯びてくるのが、最後のパートにあたる18章から21章まで(「二月二十八日事件」~「さらば台湾」)。台湾最大の悲劇2.28事件が起き、台湾は外省人(台湾語で「阿山」[アスア])による恐怖政治の下に置かれる。知り合いが拘束されたり殺されたりする中、自由思想の持ち主だった著者は自分も身の危険を感じ、1949年に神戸に帰って来る。神戸もやはり「帰って」来るところ。台湾も日本も、著者にとっては故郷なのである。
 最後の2章、「乱歩賞まで」と、「後日譚」は蛇足みたいなもの。しかし年月の長さという点では、台湾から日本に戻ってからの方がずっと長いわけで、本書は自伝といっても、ほぼ若い頃に限られている。「道半ば」というのは、本書の内容が若い頃の話で終わっているという意味だったのか。
 それにしても、本書は自伝にもかかわらず、著者の歴史エッセイを読むのと同じような感覚で読める。日本と台湾にまたがる歴史ドキュメンタリーのような味わいを持っている。自伝ではあっても、歴史的視点を常に保ち続けているあたりは、さすがに陳舜臣なのである。

Michinakaba

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2020年12月 1日 (火)

タブーに挑む日本史読本

タブーに挑む日本史読本/別冊宝島編集部編(宝島社文庫,2000)
 別冊宝島38『タブーと常識に挑戦する日本史読本』(1983)の改題・改訂文庫化。
 ちょっと見た目にはトンデモ系の歴史本にも思えるが、中身を読むと非常にまともである。むしろまともすぎて、「タブーに挑む」みたいな異端性はほとんど感じない。執筆者も、笠井潔、山本ひろ子、赤坂憲雄、呉智英といった一流どころ(しかしクセがある)が入っている。
 ただ、扱っている時代がほとんど中世までなので、「日本史読本」というには、範囲があまりに限られている。

第一部「豊穣の縄文時代◆その可能性を読む」
 最初に「縄文――日本列島の"長い至福の時"」と題する笠井潔と小阪修平の対談。
 その後に「【イラスト図解】初心者のためのワンダーランド縄文入門」(草野尚詩、協力・田中基)。実際には図より文章の方が多い。
 縄文式土器の解説で「ヘビは"地下"を、イノシシは"地上"を、ミミズクは"天界"を象徴する」と書いているが、うがちすぎのような気もしないではない。この手の大胆な解釈は本書の至るところに見られるのだが。いずれにしても、縄文時代のどこが「タブー」なのかわからない。
第二部「謎の天皇制◆その秘密を解く」山本ひろ子
 まだ昭和の時代に書かれた天皇論。しかしその頃から天皇論はあったと思うが、タブーと言うほどではないだろう。「天皇」号は高句麗国王への対抗から生まれたとか、三種の神器、鏡・剣・玉は、国家の権力の基盤である権威・武力・財力をそれぞれ象徴しているとか、なかなか興味深い解釈が見られる(上のヘビとかイノシシとかに比べると、こちらはなるほどと思わせる説得力がある)。
 後半は天皇の精神的・宗教的側面についての考察で、こっちの方がこの筆者の専門。
第三部「混沌の中世史◆その闇を照らす」
 複数の筆者が「徳政と一揆」、「お伽」、「交易と市」、「散所」などのテーマごとに執筆。書いているのは赤坂憲雄、大胡太郎、岡本泰子、石井正己、西川照子、後藤繁雄、呉智英、山本ひろ子。
 網野善彦風に言えば「無縁」に関するテーマがほとんど。というか、これって網野史学そのものでは。
第四部「森と水の日本史」深見茂
 照葉樹林、治水、稲作と環境の面から見た日本史。本書の中では珍しく、江戸時代の話が大きな比率を占めている。この筆者は再刊にあたって編集部が連絡をとったが音信不通だったとのこと。どこへ消えたのか、タブーに触れる何かがあったのだろうか…。

Tabooniidomunihonshidokuhon

 

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2020年11月19日 (木)

猫の世界史

猫の世界史/キャサリン・M・ロジャーズ;渡辺智訳(エクスナレッジ,2018)
 原題は、単にCat (2006)。猫そのものの歴史というより、猫に関わる世界の文化を語るのがメイン。特に文学の中の猫に詳しい。
 内容は6章構成。

 1章「ヤマネコからイエネコへ」は、家畜としての猫の歴史を語る序説的な章。先史時代から古代エジプト、中世、18世紀頃まで。西洋が中心だが、中国や日本への猫の伝播にも少し触れている。
 2章「災いをもたらす猫、幸運を呼ぶ猫」では、人間が猫に対して抱く「不思議とも言える感覚」を、実例を挙げて紹介している。16世紀から17世紀、ヨーロッパでは魔女の使い、悪魔の化身として迫害されていた猫の歴史。逆に「長靴をはいた猫」に代表される、幸運をもたらす猫の物語など。日本の招き猫や、猫の恩返しの昔話にも触れている。
 3章「ペットとしての猫」。愛されるペットとしての猫の歴史は、ヨーロッパではそう古くはない。第2章にも書かれていたように、16世紀頃のヨーロッパでは、まだ猫に対する愛情は珍しいものだった。だが17世紀末、貴族の間で猫が広く飼われるようになって以降、猫好きはどんどん広まっていく。ただ、猫好きが度を超して「猫が本来持つ不穏な側面」まで無視されるようになる。
 4章「女性は猫、あるいは猫は女性」は、猫の擬人化、あるいは人の擬猫化がテーマ。特に猫と女性の関わり、猫が女性と同一視される現象について詳しく語っている。
 5章「猫には、猫なりの権利がある」では、19世紀以降、人間と対等の存在として見られるようになった猫を、多くの文学作品や絵画から引用しながら語る。ある意味本書のハイライトとも言える章。登場する作家は歴史に残る文学者からSF作家まで多種多様。日本の作家も出てくる。主な名前だけでも、シャトーブリアン、デュマ、キプリング、ジェローム、ギャリコ、アンジェラ・カーター、夏目漱石、サキ、村上春樹、ドリス・レッシング等々。
 6章「矛盾こそ魅力」は、現在の猫人気について。「タイトルに「猫」とあるだけでどんな本でも売れるくらいだ」とあるから、ブームは日本だけの話ではないらしい。

 全体を通じて、著者の猫好きぶり――それでいて、猫が本来獰猛な肉食獣であることを忘れていない姿勢が伝わってくる。上にも引用した「猫が本来持つ不穏な側面」というのは、なかなか卓抜な表現ではないだろうか。

Cat

 

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2020年11月11日 (水)

「一九〇五年」の彼ら

「一九〇五年」の彼ら 「現代」の発端を生きた十二人の文学者/関川夏央(NHK出版新書,2012)

 日本の国民国家としての頂点は、一九〇五年五月二十七日である。

 そんな文章から、本書は始まる。これは、「日本海海戦」の日。
 著者はこの年を、「まだ明治三十八年でありながら大正・昭和の発端した年、あるいは「現代」のはじまった年として記憶される」と位置づける。
 歴史に名を残す12人の文学者がその年に何をしていたのか。さらに、彼らはその後、どのように生き、死んだのか――。
 1905年と、それぞれの没年。12人の人生と作品を、二つの年に焦点を当てた短い評伝の形で語る。そんな本書の執筆意図を、著者は後記で端的に語っている。「文学・文学者と時代精神の関係について考え、大衆化社会のとば口、すなわち一九〇五年からそれぞれの文人の全盛期を眺め、ついでその晩年を紙の上に記述する本」と。
 そして、そんな本は「もう出ないかも知れない」とも書いている。確かに、こんな構想の本は他に知らない。

 登場する12人は下のとおり。さすがに超有名人ばかりである。順番は生まれた年の順。

「森鷗外――熱血と冷眼を併せ持って生死した人」
「津田梅子――日本語が得意ではなかった武士の娘」
「幸田露伴――その代表作としての「娘」」
「夏目漱石――最後まで「現代」をえがきつづけた不滅の作家」
「島崎藤村――他を犠牲にしても実らせたかった「事業」」
「国木田独歩――グラフ誌を創刊したダンディな敏腕編集者」
「高村光太郎――日本への愛憎に揺れた大きな足の男」
「与謝野晶子――意志的明治女学生の行動と文学」
「永井荷風――世界を股にかけた「自分探し」と陋巷探訪」
「野上弥生子――「森」に育てられた近代女性」
「平塚らいてう(明子)――「哲学的自殺」を望む肥大した自我」
「石川啄木――「天才」をやめて急成長した青年」

 いかにも明治人らしい気骨を持って人生を終えた森鷗外に始まり、どうしようもなくだらしない短い生涯を送った石川啄木まで。最後に登場する石川啄木が一番若いのだが、一番早く死んでいる。
 そして鷗外と啄木の間には、著者の描いた、12人の個性が作るグラデーションがある。それを見ていると、なんだか世代が若くなるにつれて、文学者としての才能はともかく、人格的にはだらしなくなっていってるような気もする。あるいは、思考や行動が、徐々に「現代人」に近づいているというか…。
 著者の意図とは違うのだろうが、そんなところで、「現代の始まり」を感じてしまった。

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