歴史

2021年1月 2日 (土)

劉備玄徳の素顔

劉備玄徳の素顔/島崎晋(MdN新書,2020)
 正史『三国志』を主な史料とした、劉備の一代記。
 著者は歴史学者ではなく歴史ライター。独自の史観や新説みたいなものはないが、一般の歴史好き読者に向けて丁寧な解説を心がけているのがわかる。専門性は薄いが、良書ではないだろうか。序章でも言及しているように、明らかに映画『新解釈・三国志』の便乗出版ではあるが。

 内容は、劉備の生涯を、その転機ごとに5章に分けて叙述するオーソドックスな構成。
 序章「演義と正史のギャップ」は、劉備に対する後世の評価と、主な史料について解説していて、本書の中で一番歴史書らしい部分。
 第1章「一族期待の星」は、劉備の出生と教育、義勇軍としての活躍の始まりまでを述べる。劉備の属する涿郡劉氏は地方の名族であり、劉備が貧しい暮らしをしていたというのは、世間向けのポーズではないだろうかとの説は説得力がある。
 第2章「群雄割拠の狭間」。公孫瓚、陶謙、曹操、袁紹と、次々と陣営を変え、曹操に敗れて劉表のもとに逃げ込むまでの劉備の遍歴。負け続けの経歴のようだが、それでも生き残ってきたところに、著者は劉備のしぶとさを評価している。
 第3章「新たな出会い」は、三国志ドラマの一番の見せ場のところ。荊州での諸葛亮との出会い、孫権との同盟と赤壁の戦い。そして荊州(の一部)領有まで。
 しかし、本書での赤壁の戦いについての記述は簡略。だいたい、劉備軍はこの戦いでは脇役でしかなかったのだから仕方ないが。史料によっては、劉備は何もせずに戦いの行方を観望していただけだったとの記述もあるが、著者は、さすがにそれはないだろうと書いている。
 第4章「漢を継ぐ者」は、劉備の益州領有と、皇帝即位まで。劉備が一番上り調子だった時期だが、同時に、だんだんたちが悪くなってくる。益州征服での劉備の策略など、卑怯としか言いようがない。著者も「これでは信義に厚いどころか、腹黒そのものである」と酷評している。
 しかし考えてみれば、劉備は以前から人を裏切り続けてきたのだから、もともと腹黒なのだと言われても仕方ないのである。
 第5章「劉備の聖人君子化」。劉備の夷陵の戦いでの大敗と、その死。夷陵での劉備の拙劣な作戦について、著者は「老化のせい」と推測している。最後に、後世に創られた劉備像(「うさんくさい聖人君子化」)について、簡単に触れている。

 著者が序章で述べているように、曹操についての著作は何冊もあるが、劉備だけにスポットを当てた単独の著作はなかなか見当たらない。思うに、劉備の事績を史料に基づいて掘り下げて行くと、実はかなりあくどい人物だということがいやでもわかってしまうからではないだろうか。本書で明らかになったように。
 だが、本書での劉備像は別に目新しいものではなく、陳舜臣の『秘本三国志』に登場する劉備は、だいたいこんな風な食えない男だった。ブログ主にとって本書は、「劉備というのはやっぱりそういうやつだったか」ということを再確認できた本だった。そしてこういう劉備の人物像がブログ主は嫌いではない。少なくとも、「三国志演義」に出てくるような、偽善めいた建前ばかり口にする優柔不断なキャラクターよりは、好感が持てるのである。

Ryubigentokunosugao

 

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2020年12月25日 (金)

20世紀モノ語り

20世紀モノ語り/紀田順一郎(創元ライブラリ,2000)
 いわゆる「事物起源」の本。
 タイトルには「20世紀」とあるが、実際には明治以来、19世紀後半~20世紀の1960年代までを扱っている。
 なぜそういう内容になっているかは、あとがきを読めばわかるのだが、それによると、本書の来歴は非常に複雑。
 最初は「明治百年」(1968年)の頃、『小説現代』に連載したコラム「明治百年カレンダー」が元になっている。その連載をまとめて単行本になったのが1980年刊『コラムの饗宴』(なぜこういうタイトルになったのか不明)。
 その後連載時のタイトルに近い『近代百年カレンダー』(旺文社文庫、1985)、さらに『近代事物起源事典』(東京堂書店、1992)として再刊。そのつど増補しているという。
 そして今回大幅な増補改訂を行ったというのが本書。最初の連載時も含めれば、実に5回目の刊行、5番目のタイトルということになる。

 内容は、162の項目を五十音順に並べている。一項目2ページ。最初は「アイスクリーム」、最後は「レコード」。
 取り上げられている項目は当然ながら、明治時代に初めて日本に登場した事物が多い。「赤ゲット」、「映画」、「学校」、「銀行」、「自転車」、「タクシー」、「ネクタイ」、「ボーナス」、「ランプ」など。だが、それ以外にも、明治以降に大きな変化を見せたものも取り上げている。「温泉」、「漢字」、「結婚」、「地震」、「下着」、「住宅」、「心中」、「スリ」、「手紙」、「時計」などである。
 また、「図書館」、「文庫本」、「未来記」などは、いかにもこの著者らしい選び方が見える項目だろう。
 記述はあとがきで著者自身も書いているように、「明治時代の起源の部分に厚く、現代に近づくほど薄くする」形。詳しく書けば本1冊になりそうな項目も多いが、全部2ページにまとめているのは力業と言える。
 ただ、「明治百年」が企画の出発点になっているせいか、年代表記が基本的に元号ばかりなので、西暦に慣れた身には、ちょっと時代感覚を把握しづらい。人によっては、むしろその方がわかりやすいのかもしれないが…。

20seikimonogatari

 

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2020年12月20日 (日)

道半ば

道半ば/陳舜臣(集英社,2003)
 陳舜臣の自伝的エッセイ。「陳舜臣中国ライブラリー」の月報連載が元になっている。
 この本が出た時、著者はすでに80歳近かったのだが、それでもタイトルは『道半ば』。(実際に著者が亡くなったのは、この本が出てから12年後。)
 内容は、自分の半生を23章(章番号はなし)に分けて記述している。

 台湾出身の華僑商人の子として神戸に生まれてから、大阪外国語学校を受験するまでが、最初の6章(「幼い日々」~「舞い落ちる旗」)。
 大阪外国語学校時代を語るのが7章から11章まで。(「太平洋戦争まで」~「炎上前後」)。ちょうど中国での戦争が激化し、ついには太平洋戦争が始まる激動の時代と重なる。言い換えれば、著者が大阪外語学校で過ごしたのは、戦時中の日々だったわけだ。
 その頃、外語学校の一学年下に入学してきたのが福田定一(司馬遼太郎)。学生時代は交友はあまりなかったらしいが、「あの男は話術の天才ではないか」と言われるほど話がうまかったという。
 戦時中ではあったが、著者は戦争に行かずにすむ。著者は外語学校を卒業後も「西南アジア語研究所」(著者はペルシア語専攻)の研究助手として学校に残ったのだが、国立学校の職員は徴兵されなかったのだ。司馬遼太郎とは違って学徒出陣で戦争に行かずにすんだのは、台湾人だから、というのもあったかもしれないが。
 戦争が終わると外語学校の研究所は閉鎖され、著者は仕事がなくなる。何より、日本国籍を失ってしまい、外国人になる。著者は弟と二人、いったん台湾の父の本家に帰ることにする。永住ではなく、日本が落ち着くまでちょっと滞在するつもりだった。
 著者が台湾に帰郷したのが1946年。国籍が変わったのだから当然ではあるが、この時期大量の台湾人たちが日本から台湾へ戻って行った。その中に李登輝もいたことが語られている。著者の友人何既明と一緒の引揚船で帰って来たそうで、とんでもない読書家だったそうだ。
 父親の故郷である台北県の新荘という田舎町で、著者は思いがけずも学校の英語教師をすることになり、3年間勤めることになる。そのへんのできごとを語るのが、12章から17章まで(「戦い終わる」~「過ぎ行く牧歌時代」)。動乱の中で著者が小説への志を抱き始めるくだりもある。
 事態が風雲急を告げ、悲劇の様相を帯びてくるのが、最後のパートにあたる18章から21章まで(「二月二十八日事件」~「さらば台湾」)。台湾最大の悲劇2.28事件が起き、台湾は外省人(台湾語で「阿山」[アスア])による恐怖政治の下に置かれる。知り合いが拘束されたり殺されたりする中、自由思想の持ち主だった著者は自分も身の危険を感じ、1949年に神戸に帰って来る。神戸もやはり「帰って」来るところ。台湾も日本も、著者にとっては故郷なのである。
 最後の2章、「乱歩賞まで」と、「後日譚」は蛇足みたいなもの。しかし年月の長さという点では、台湾から日本に戻ってからの方がずっと長いわけで、本書は自伝といっても、ほぼ若い頃に限られている。「道半ば」というのは、本書の内容が若い頃の話で終わっているという意味だったのか。
 それにしても、本書は自伝にもかかわらず、著者の歴史エッセイを読むのと同じような感覚で読める。日本と台湾にまたがる歴史ドキュメンタリーのような味わいを持っている。自伝ではあっても、歴史的視点を常に保ち続けているあたりは、さすがに陳舜臣なのである。

Michinakaba

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2020年12月 1日 (火)

タブーに挑む日本史読本

タブーに挑む日本史読本/別冊宝島編集部編(宝島社文庫,2000)
 別冊宝島38『タブーと常識に挑戦する日本史読本』(1983)の改題・改訂文庫化。
 ちょっと見た目にはトンデモ系の歴史本にも思えるが、中身を読むと非常にまともである。むしろまともすぎて、「タブーに挑む」みたいな異端性はほとんど感じない。執筆者も、笠井潔、山本ひろ子、赤坂憲雄、呉智英といった一流どころ(しかしクセがある)が入っている。
 ただ、扱っている時代がほとんど中世までなので、「日本史読本」というには、範囲があまりに限られている。

第一部「豊穣の縄文時代◆その可能性を読む」
 最初に「縄文――日本列島の"長い至福の時"」と題する笠井潔と小阪修平の対談。
 その後に「【イラスト図解】初心者のためのワンダーランド縄文入門」(草野尚詩、協力・田中基)。実際には図より文章の方が多い。
 縄文式土器の解説で「ヘビは"地下"を、イノシシは"地上"を、ミミズクは"天界"を象徴する」と書いているが、うがちすぎのような気もしないではない。この手の大胆な解釈は本書の至るところに見られるのだが。いずれにしても、縄文時代のどこが「タブー」なのかわからない。
第二部「謎の天皇制◆その秘密を解く」山本ひろ子
 まだ昭和の時代に書かれた天皇論。しかしその頃から天皇論はあったと思うが、タブーと言うほどではないだろう。「天皇」号は高句麗国王への対抗から生まれたとか、三種の神器、鏡・剣・玉は、国家の権力の基盤である権威・武力・財力をそれぞれ象徴しているとか、なかなか興味深い解釈が見られる(上のヘビとかイノシシとかに比べると、こちらはなるほどと思わせる説得力がある)。
 後半は天皇の精神的・宗教的側面についての考察で、こっちの方がこの筆者の専門。
第三部「混沌の中世史◆その闇を照らす」
 複数の筆者が「徳政と一揆」、「お伽」、「交易と市」、「散所」などのテーマごとに執筆。書いているのは赤坂憲雄、大胡太郎、岡本泰子、石井正己、西川照子、後藤繁雄、呉智英、山本ひろ子。
 網野善彦風に言えば「無縁」に関するテーマがほとんど。というか、これって網野史学そのものでは。
第四部「森と水の日本史」深見茂
 照葉樹林、治水、稲作と環境の面から見た日本史。本書の中では珍しく、江戸時代の話が大きな比率を占めている。この筆者は再刊にあたって編集部が連絡をとったが音信不通だったとのこと。どこへ消えたのか、タブーに触れる何かがあったのだろうか…。

Tabooniidomunihonshidokuhon

 

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2020年11月19日 (木)

猫の世界史

猫の世界史/キャサリン・M・ロジャーズ;渡辺智訳(エクスナレッジ,2018)
 原題は、単にCat (2006)。猫そのものの歴史というより、猫に関わる世界の文化を語るのがメイン。特に文学の中の猫に詳しい。
 内容は6章構成。

 1章「ヤマネコからイエネコへ」は、家畜としての猫の歴史を語る序説的な章。先史時代から古代エジプト、中世、18世紀頃まで。西洋が中心だが、中国や日本への猫の伝播にも少し触れている。
 2章「災いをもたらす猫、幸運を呼ぶ猫」では、人間が猫に対して抱く「不思議とも言える感覚」を、実例を挙げて紹介している。16世紀から17世紀、ヨーロッパでは魔女の使い、悪魔の化身として迫害されていた猫の歴史。逆に「長靴をはいた猫」に代表される、幸運をもたらす猫の物語など。日本の招き猫や、猫の恩返しの昔話にも触れている。
 3章「ペットとしての猫」。愛されるペットとしての猫の歴史は、ヨーロッパではそう古くはない。第2章にも書かれていたように、16世紀頃のヨーロッパでは、まだ猫に対する愛情は珍しいものだった。だが17世紀末、貴族の間で猫が広く飼われるようになって以降、猫好きはどんどん広まっていく。ただ、猫好きが度を超して「猫が本来持つ不穏な側面」まで無視されるようになる。
 4章「女性は猫、あるいは猫は女性」は、猫の擬人化、あるいは人の擬猫化がテーマ。特に猫と女性の関わり、猫が女性と同一視される現象について詳しく語っている。
 5章「猫には、猫なりの権利がある」では、19世紀以降、人間と対等の存在として見られるようになった猫を、多くの文学作品や絵画から引用しながら語る。ある意味本書のハイライトとも言える章。登場する作家は歴史に残る文学者からSF作家まで多種多様。日本の作家も出てくる。主な名前だけでも、シャトーブリアン、デュマ、キプリング、ジェローム、ギャリコ、アンジェラ・カーター、夏目漱石、サキ、村上春樹、ドリス・レッシング等々。
 6章「矛盾こそ魅力」は、現在の猫人気について。「タイトルに「猫」とあるだけでどんな本でも売れるくらいだ」とあるから、ブームは日本だけの話ではないらしい。

 全体を通じて、著者の猫好きぶり――それでいて、猫が本来獰猛な肉食獣であることを忘れていない姿勢が伝わってくる。上にも引用した「猫が本来持つ不穏な側面」というのは、なかなか卓抜な表現ではないだろうか。

Cat

 

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2020年11月11日 (水)

「一九〇五年」の彼ら

「一九〇五年」の彼ら 「現代」の発端を生きた十二人の文学者/関川夏央(NHK出版新書,2012)

 日本の国民国家としての頂点は、一九〇五年五月二十七日である。

 そんな文章から、本書は始まる。これは、「日本海海戦」の日。
 著者はこの年を、「まだ明治三十八年でありながら大正・昭和の発端した年、あるいは「現代」のはじまった年として記憶される」と位置づける。
 歴史に名を残す12人の文学者がその年に何をしていたのか。さらに、彼らはその後、どのように生き、死んだのか――。
 1905年と、それぞれの没年。12人の人生と作品を、二つの年に焦点を当てた短い評伝の形で語る。そんな本書の執筆意図を、著者は後記で端的に語っている。「文学・文学者と時代精神の関係について考え、大衆化社会のとば口、すなわち一九〇五年からそれぞれの文人の全盛期を眺め、ついでその晩年を紙の上に記述する本」と。
 そして、そんな本は「もう出ないかも知れない」とも書いている。確かに、こんな構想の本は他に知らない。

 登場する12人は下のとおり。さすがに超有名人ばかりである。順番は生まれた年の順。

「森鷗外――熱血と冷眼を併せ持って生死した人」
「津田梅子――日本語が得意ではなかった武士の娘」
「幸田露伴――その代表作としての「娘」」
「夏目漱石――最後まで「現代」をえがきつづけた不滅の作家」
「島崎藤村――他を犠牲にしても実らせたかった「事業」」
「国木田独歩――グラフ誌を創刊したダンディな敏腕編集者」
「高村光太郎――日本への愛憎に揺れた大きな足の男」
「与謝野晶子――意志的明治女学生の行動と文学」
「永井荷風――世界を股にかけた「自分探し」と陋巷探訪」
「野上弥生子――「森」に育てられた近代女性」
「平塚らいてう(明子)――「哲学的自殺」を望む肥大した自我」
「石川啄木――「天才」をやめて急成長した青年」

 いかにも明治人らしい気骨を持って人生を終えた森鷗外に始まり、どうしようもなくだらしない短い生涯を送った石川啄木まで。最後に登場する石川啄木が一番若いのだが、一番早く死んでいる。
 そして鷗外と啄木の間には、著者の描いた、12人の個性が作るグラデーションがある。それを見ていると、なんだか世代が若くなるにつれて、文学者としての才能はともかく、人格的にはだらしなくなっていってるような気もする。あるいは、思考や行動が、徐々に「現代人」に近づいているというか…。
 著者の意図とは違うのだろうが、そんなところで、「現代の始まり」を感じてしまった。

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2020年10月30日 (金)

殿、ご乱心でござる

殿、ご乱心でござる/中山良昭(洋泉社・歴史新書,2016)
 江戸時代、さまざまな理由から藩の存続を危機に追いやり、大名の地位を追われた「乱臣の殿様」たちの行状をまとめた本。
 取り上げた事例はけっこう多いが、なにしろ殿様一人あたり2ページから、長くても6ページ、大半は4ページ。おまけに字が大きい。ページ数も200ページ足らずだし、正直言って読みごたえは薄い。早く読めるのだけが取り柄。

 第1章「刃傷事件――人を殺めた殿様」。いきなりとんでもない殿様たちが集まっている。トップは赤穂藩の浅野長矩で、これはやはりそうかと言う気がする。
 他に内藤忠勝、水野忠恒など、全7人。さすがに殺人ともなると切腹という処分が多いが、水野忠恒みたいに、発狂扱いで蟄居謹慎という処分もある(藩は改易だが)。
 第2章「狂乱殿様――発狂してしまった殿様」は、松平忠之、松平光通、稲葉紀通など8人。「乱心」の本来の意味に一番近い人たちである。
 陽明学にのめりこんだり、残虐行為に走ったり、鬱病になったり。中には伊丹勝守みたいに、江戸城の厠で自殺したということしかわからない謎の死をとげた人もいる。実のところ、本当に狂ったのではなく、都合により発狂したことにされた人もいたのではないかと思われる。他の章にもそういう事例は多数ある。
 第3章「セクハラ大名――女性問題でしくじった大名」。江戸時代にセクハラなんて概念はあり得ないので、このタイトルはちょっとどうかと思う。それはともかく、吉原の大夫に入れあげたり、酒食にふけったり、要するに女性関係で不行跡があったということである。伊達綱宗、前田茂勝など5人。
 第4章「幽閉藩主――投獄された殿様」。これは要するに、家臣とのトラブルで失脚した殿様たち。水野忠辰、溝口政親など7人。この人たちは本当に乱心したのではなく、そういうことにされたのだろう。
 第5章「幕政批判――幕府に反逆した殿様」。幕府に反逆というか、むしろ立場は逆で、時の将軍にとって都合が悪いから消された、みたいなケースが目立つ。松平忠輝や徳川忠直など、その典型。他に堀田正信、坂崎直盛など、全7人。最後の坂崎などは本当の乱心だが、その他は前の章と同じように、名目上発狂として処理された場合が多い。
 第6章「御家騒動――家臣と喧嘩した殿様」。これも家臣とのトラブル。大名が偏狭で独善的だったりするケースが多いが、単に性格に問題があるだけで、乱心というのはどうなのだろう。トラブルの果てに正気と思えない行動をする事例もあるようだが(加藤明成みたいに)。黒田忠之、伊達秀宗、宗義成、徳川光圀など9人。
 あの水戸黄門こと徳川光圀も入っているのである。よほど気に入らなかったのか、家臣を斬ったのだが、御三家の威光のおかげか御家騒動にまではならなかった。しかし徳川光圀も、かなりヤバい人だったのは確かなようである。

 こうしてみると、たまに有名な人も出てくるものの、ほとんどは親藩や譜代の中小大名の事例。大藩はあまり出てこないが、その中で前田家と伊達家だけが妙に多い。不思議なような、やはりそうなのかという気もするような…。

Tonogoranshin

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2020年10月13日 (火)

日本に古代はあったのか

日本に古代はあったのか/井上章一(角川選書,2008)
 タイトルはもちろん反語で、日本には古代はなかった――という著者の大胆な持論を全編にわたって展開している。

 3世紀から5世紀頃にかけて、ユーラシア大陸の東西で同時並行的に、古代帝国の崩壊と、蛮族国家の誕生という現象が起きた。西では、ローマ帝国の崩壊とゲルマン諸民族の国家誕生。東では、漢帝国の崩壊と塞外民族の侵入、そして五胡十六国。それはまた、ヨー路一派と東アジア世界の「中世」の開始でもあった。
 日本(倭国)は、そんな時代に生まれた「蛮族国家」のひとつだった。だから日本は国家が成立した当初から中世なのであって、「日本の古代」あるいは「古代日本国家」などというものはないのだ――というのが著者の説。
 乱暴な説かもしれないが、それなりに説得力があるような気がする。しかも記述の根底には著者の「関東史観」への反発が太い底流をなしていて、西日本の人間にとっては、さらに惹かれるものがある。
 それにしても、本書を読んでいて思うのは、日本の歴史学会で、「時代区分論」がいかに大きなテーマだったかということ。今から思えば、「古代」がいつまでで、「中世」がいつからいつまでかというのは、単に呼び名の問題に過ぎないような気がするが、それは大問題だったのだ。
 そこには、根強いマルクス主義の影響力があった。マルクス主義史学で「古代」、「中止絵」、「近代」の区分というのは本質的な問題なのだ。そして、さすがに今はそれほどのことはないのだろうが、戦後からしばらくの間、日本の歴史学界はガチガチのマルクス主義史観に支配されていたらしい。
 日本は戦国時代まで奴隷制度が続いていて、実質的に古代だった――なんて説は、今聞くとなんの妄想だろうと思うのだが、そんなことがマジメに論じられていたという。
 本書は著者独特の持論とともに、日本の歴史学界の裏面を見せてくれる本にもなっている。

 なお、内容は以下のとおり。

一、宮崎市定にさそわれて/二、内藤湖南から脈々と/三、ソビエトの日本史とマルクス主義/四、弥生は神殿はあったのか/五、キリスト教と、仏教と/六、応仁の乱/七、鎌倉爺体はほんとうに鎌倉の時代だったのか/八、江戸から明治の頼朝像/九、ゲルマニアになぞらえて/十、平泉澄と石母田正/十一、東と西の歴史学/十二、京都からの中世史/十三、ライシャワーの封建制/十四、司馬遼太郎よ、お前もか/十五、梅棹忠夫のユーラシア

 

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2020年9月19日 (土)

ビザンツ帝国

ビザンツ帝国 千年の興亡と皇帝たち/中谷功治(中公新書,2020)
 ビザンツ帝国の歴史は、波乱に富んでいてややこしいけど面白い。室町時代の面白さに似ているかもしれない。ただ、一般人にとって、相当マイナーな部類に属する歴史のテーマであることは間違いないだろう。
 にもかかわらず、日本では一般向けのビザンツ帝国関連本がけっこう出ている。新書だけでも何冊もあって、白水社の『ビザンツ皇妃列伝』については本ブログで以前に取り上げたことがある(2011年1月14日のエントリー)。
 そんな新書の中で、講談社現代新書の『生き残った帝国ビザンティン』(1990年)を著者はビザンツ帝国通史として高く評価していて、かなり意識しているのがわかる。この本が出てから30年くらい立つので、新たな新書版ビザンツ帝国史の決定版を――そんな意気込みも感じる。
 ただ、『生き残った帝国ビザンティン』と比べると本書の方がより専門的。史料批判や統治機構論などにかなり力を入れている。その分、新書にしてはやや固い印象はある。
 内容は序章、終章含めて7章構成。

 序章「ビザンツ世界形成への序曲――四~六世紀」。本書ではビザンツ帝国の始まりを、ローマ帝国の東西分裂ではなく、コンスタンティヌス1世からとしている。(これは『生き残った帝国ビザンティン』と共通)。そのコンスタンティヌス1世時代のニケーア公会議から、ユスティニアヌス朝の終わり頃までを扱う。
 第1章「ヘラクレイオス朝の皇帝とビザンツ世界――七世紀」は、フォカス帝の即位から、ヘラクレイオス朝の終焉まで。本書の内容は基本的に王朝史がメイン。
 第2章「イコノクラスムと皇妃コンクール――八世紀」はイサウリア朝、アモリア朝で、実際には9世紀まで扱っている。
 第3章「改革者皇帝ニケフォロス一世とテマ制――九世紀」は、第2章と同じ時期。この時期を代表する皇帝としてニケフォロス一世の事績を詳しく語るとともに、帝国の地方制度「テマ」制誕生の謎をさぐる。
 第4章「文人皇帝コンスタンティノス七世と貴族勢力――一〇世紀」は、マケドニア朝前半。文化面が中心。ビザンツ人の名前の話も出てくる。
 第5章「あこがれのメガロポリスと歴史家プセルロス――一一世紀」。マケドニア朝後半とドゥーカス朝。11世紀はビザンツ帝国史上、7世紀以来の大きな転換期なのだそうだ。その中でバシレイオス2世の時代、帝国は最盛期を迎えるが、わずか半世紀後には存亡の危機に立たされる。
 第6章「戦う皇帝アレクシオス一世と十字軍の到来――一二世紀」。コムネノス朝、アンゲロス朝。この時期はほとんどが簒奪で帝位についた皇帝。政治が乱れるとともに帝国は弱体化。1204年、十字軍がコンスタンティノープルを占領する。
 本書ではこの時をもってビザンツ帝国は滅亡したと見なす。後にパライオロゴス朝がコンスタンティノープルを奪回して帝国は復活するが、それはもはや「帝国」の名に値しない弱小国でしかない。確かにそのとおりではある。
 終章「ビザンツ世界の残照――一三世紀後半~一五世紀」は、帝国の「復活」からトルコによるコンスタンティノープル陥落までの、パライオロゴス朝の歴史。ただ、「帝国」はもう滅亡しているので、これは後日談もしくは余談でしかないことになる。

 

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2020年9月12日 (土)

ヘンテコ城めぐり

ヘンテコ城めぐり/長谷川ヨシテル(柏書房,2020)
 著者はテレビなどで「れきしクン」のニックネームで活躍しているタレント。童顔でいつもかぶりもの(このヒトの場合は兜)をかぶっているなど、「さかなクン」とかなりあからさまに似ている。
 まあそういう人が書いた本なので、専門性はあまりなく、基本的に初心者向け。とはいえ、ところどころにマニアックなトリビアも散見される。また、通常の歴史ファン、お城ファンでは思いつかないようなユニークな着眼点も見受けられる。

 内容は基本的に「城」単位になっていて、全7章。
 第一章「ヘンテコエピソードで城めぐり」は、ちょっと変わった歴史やエピソードを持つ城を紹介。「桃太郎」の鬼が城主だった鬼ノ城、最弱武将が城主の最弱の城、小田城、波の音がうるさいという城主のワガママで廃城になった福島城など。
 他には名古屋城、熊本城など有名な城も入ってはいるが、ほとんどがマイナーな城。鳥羽城、甘崎城、杉山城、園部城、中津城など。この章が一番長い。
 第二章「エンジョイ!お城はテーマパークだ!」。かつて娯楽施設になっていたり、楽しめる要素のある城。本丸跡に競輪場があった会津若松城、再建天守(今の天守とは別)にジェットコースターが走っていた広島城、天守台に観覧車が立っていた小田原城など。 遺構が残ってない渋谷城や練馬城などは、少々無理やり入れた感もある。
 ただ、練馬城はこの8月まで「としまえん」だった場所だが、閉園後は「練馬城址公園」として整備される予定とのことなので、今までほとんどの人が知らなかった「練馬城」がにわかに知名度を上げて来そうである。
 第三章「現代にアジャスト!”マチナカ”のお城たち!」は、街の風景に溶け込んでいる城。堀底に電車が走る水戸城、堀を埋め立てて駅が作られた高松城など。他に上田城、今治城、福井城、新発田城。
 第四章「気分はお殿様?戦国へ"タイムスリップ"!」は、戦国時代の姿が復元された城。荒砥城、高根城、足助城、逆井城の四つしかないが、マニア的には非常に興味をそそられるところばかりである。
 第五章「知られざる"お城のブラザーズ"」。これは本書ならではのユニークな着眼点。いくつかの城をまとめて「兄弟」城に認定している。
 五稜郭とその「仲間」である四稜郭、七稜郭、三稜郭、そして龍岡城五稜郭。歴代二条城。「"へ"城のいろいろ」と題して、一戸、三戸、四戸、五戸、七戸、八戸、九戸の各城。秀吉の「一夜城」の数々(墨俣、石垣山、益富)。
 第六章「"アレ"もお城?"コレ"もお城?」は、一般的な城のイメージとは違う、イレギュラーな城。寺にしか見えない足利氏館、そもそも城と言えるのかどうか疑わしい吉野ケ里遺跡など。他に田中城、品川台場、ヲンネモトチャシ、首里城。
第七章「"現存天守"のここがヘンテコ」
 最後はメジャーな「現存12天守」の城のちょっとトリビアなエピソードを紹介。備中松山城の猫城主とか、犬山城が最近まで個人所有だった話とか、「ヘンテコ」と言うほどではない。

 ――というような内容で、初心者向けとはいえ、ブログ主のようなゆるい城好きにとっては、そこそこ楽しめる。著者の城好きぶりは十分伝わってくる。

Hentekoshiromeguri

 

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