SF

2009年12月16日 (水)

90億の神の御名

90億の神の御名(ザ・ベスト・オブ・アーサー・C・クラーク 2)/アーサー・C・クラーク;浅倉久志ほか訳(ハヤカワ文庫SF,2009)
 『太陽系最後の日』(2009年7月17日のエントリー)に続く、クラーク短篇選集の2冊目。1951年から1958年の作品を収録している。SF短篇の黄金時代に書かれた作品たちである。

 「前哨」は読むの何度目だろう。こうして短篇集に収録されるたびに、律儀に読み返している。しかし、実際何度読んでも、例のピラミッドを発見する場面はセンス・オブ・ワンダーを感じる。
 「月面の休暇」は、解説によれば長らく埋もれていた作品だそうだ。月面基地の司令を務める父親に招待されて、18歳の娘ダフネが家族とともに月旅行をする。ほとんど宇宙開発に関する啓蒙小説みたいなもので、ストーリーもないに等しい。この時期のクラークの長編に、『宇宙島へ行く少年』というのがあるが、この作品は「月へ行く少女」である。
 「おお地球よ……」も月が舞台のショートショート。ラストはやや感傷的だが、いかにも50年代のSFらしい。
 「時間がいっぱい」は、クラークには珍しい時間を扱った作品で、『太陽系最後の日』に収録されていた「時の矢」よりは出来がいい。「おお地球よ……」と同様に、冷戦時代の雰囲気が影を落としている。
 「90億の神の御名」は、これまたクラークには珍しい「宗教に対する科学の無力」を描いた作品。ラストが鮮烈な印象を残し、表題作に選ばれたのもうなずける。実のところ、SFではないが。
 「木星第五衛星」。なぜか作品中には名前が出てこない木星第五衛星の秘密を巡る、二組の探検隊の争い。基本アイデアは、発表時はともかく今となってはインパクトがない。おまけに、クラークはどう考えても、こういうだましだまされみたいな話が得意とは思えないので、印象は今ひとつ。
 「夜明けの出会い」は、あり得たかもしれない、もうひとつの「2001年宇宙の旅」プロローグ、みたいなもの。
「海底牧場」は、同タイトルの長編の原型。クジラやイルカに比べて、サメが差別されすぎ。いくら哺乳類と魚類だからといっても...。
 「密航者」は、王室ネタ大好きのイギリス人ならではの作品。
 「星」は、前にも書いた。表題作とは裏返しの、「科学に対する宗教の無力」を描いた作品。これが表題作でもよかった。でも短すぎるのがネックだったのだろう。
 「月に賭ける」。また月ネタ。人類最初の月探検隊(アメリカ、ソ連、イギリスの3隊)を巡る連作短篇。最後の税金問題のエピソードが非常にイギリス的。
 「究極の旋律」は「白鹿亭奇譚」の一篇。このシリーズの例によって、どこまでホラ話なのかわからない。「究極の旋律」の魔力が、音感のある人間を廃人にしてしまうが、音痴には何の効果も及ぼさないというのがおかしい。
 「天の向こう側」は、静止軌道上の有人通信ステーションを舞台にした連作。この頃のクラークは、通信衛星や放送衛星には人間が常駐する必要があると考えていたらしい。今となってはなぜかわからないが。
 「遙かなる地球の歌」は、長編にもなった作品。要するに、純朴な植民惑星の娘が、地球から来た男にだまされて捨てられる話なのだが、なぜか好み。
 「幽霊宇宙服」は、宇宙ステーションでの小咄的エピソードを語った、どうということのない話。タイトルで期待させすぎ。
 最後の「ベツレヘムの星」はエッセイで、「星」の原型になったアイデアを語っている。
 ベストはやはり、「遙かなる地球の歌」、「星」、「前哨」だろうか。月並みだが。

90億の神の御名 (ザ・ベスト・オブ・アーサー・C・クラーク 2) (ハヤカワ文庫SF)

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2009年11月 6日 (金)

グラックの卵

ラックの卵/浅倉久志編訳(国書刊行会・未来の文学,2006)
 ユーモアSFアンソロジー。
 とは言うものの、ユーモアの感覚というのは、人によってずいぶんと違う。このアンソロジーは、当然ながら編者の観点から見て「笑える」と思ったものを集めたのだろうが、それは万人にとってそうなのだろうか。当然ながら、そう思わない人間がかなりの数存在するだろう。自分もその一人。
 収録作品を見てみると――。

 「見よ、かの巨鳥を! 」(ネルスン・ボンド)。宇宙の彼方から、鳥そっくりの、木星よりも大きい超巨大生物が羽ばたきながら(!)やってくる。目指すは地球。その目的は…。笑うというより、あきれてしまう一発芸的作品。
 「ギャラハー・プラス」(ヘンリー・カットナー)。これはちょっと気に入った。主人公ギャラハーは泥酔して意識を失うと、もう一人の天才の人格(ギャラハー・プラス)が現れて、人間離れした発明を生み出す。意識を取り戻した主人公が、自分が発明したものの正体を探るドタバタ劇。主人公の相棒である超ナルシシストのロボットがいい味を出している。
 「スーパーマンはつらい」(シオドア・コグスウェル)は、超能力者たちの悲喜劇。コメディでがあるが、笑えるというほどではない。
 「モーニエル・マサウェイの発見」(ウィリアム・テン)は、売れない画家とタイムトラベラーの物語で、結末は予想の範囲内。テンの作品なら、もっと毒のきいた、おもしろい作品が他にあると思うのだが。
 「ガムドロップ・キング」(ウィル・スタントン)。少年と、「星の王子様」がひねくれたみたいな宇宙人とのファースト・コンタクト。「おかしい」というより、「変な」話。ユーモアというより奇想SFではないか。少年と宇宙人と家族との話のずれ具合といい、思わせぶりな結末といい、よくできた話だとは思う。
 「ただいま追跡中」(ロン・グーラート)家出したお嬢様を追いかける私立探偵。しかし主人公の乗るマシンが次々と故障する。『ゴーストなんか怖くない』でも思ったが、この人は場面転換やストーリーの飛ばし方が、非常にうまい。でも、おかしいと言えばおかしいが、笑うほどではない。
 「マスタースンと社員たち」(ジョン・スラデック)ワンマン社長が常軌を逸した経営をしているメチャクチャな会社での騒動。こういうタガのはずれた話を書かせるとスラデックの右に出るものはない。前にも書いたが、話のとんでもなさはラファティに匹敵するが、スラデックの方が狂気の度が高い。別な意味で「おかしい」話。
 「バーボン湖」(ジョン・ノヴォトニイ)酒飲みの夢。楽しいファンタジーだが、別におかしくはない。
 「グラックの卵」(ハーヴェイ・ジェイコブズ)グラックという幻の鳥の卵を巡る、二人の学者のけっこういじましい争い。その卵がなんでそこまで大事なのかよくわからないところが、ナンセンスな雰囲気を醸し出している。でも、実のところ、どのへんがおかしいのか、よくわからない。

 というわけで、ナンセンス、コミカル、スラップスティック、という形容はつくだろうが、笑えるほどおかしい話はなかった。普通のSFアンソロジーとして見れば、まあ、平均的なレベルだと思う。ベスト作品を選ぶのも迷うが、あえて言えば、「ギャラハー・プラス」、続いて、「ただいま追跡中」というあたりか。
 ちなみに、自分のこれまで読んだ最高のユーモアSFアンソロジーは、『SFカーニバル』。これまで読んだあらゆるSFアンソロジーのベストでもある。この本については、また別の機会に。

グラックの卵 (未来の文学)

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2009年10月18日 (日)

トラストDE

トラストDE 小説・ヨーロッパ撲滅史/イリヤ・エレンブルグ;小笠原豊樹、三木卓訳(海苑社・文学の迷宮,1993)
 ロシアの作家エレンブルグの、古典SFとしても名高い小説。早川の『世界SF全集 第9巻』に、チャペックの『山椒魚戦争』とともに収録されているので、SF好きはそっちで読んだ人の方が多いだろう。
 この翻訳の最初の版が出たのは1970年、河出書房新社刊。奇しくも、早川の世界SF全集版も同じ年に出ている。早川版の訳者は、レムの翻訳などで知られる吉上昭三。本書の訳者のうち、小笠原豊樹はロシア語よりも英語の訳書が多く、ブラッドベリの『火星年代記』の訳などで知られている。三木卓は翻訳よりもむしろ詩人、小説家として有名。訳者のことを書いたのは、気になる訳語があったからだが、そのことは後で。
 この小説は、ソ連成立直後の1923年に発表されたもの。スターリン時代ならこんな作品の出版はとても認められなかっただろう。ロシアが滅亡してしまうのだから。混沌の時代の産物、といえるかもしれない。
 物語も混沌としている。メインのストーリーは「モナコ王子」(この訳語については後で述べる)の落胤エンス・ボートが、アメリカの大富豪3人の出資による、ヨーロッパ殲滅のための秘密組織、『トラストDE』を設立(表向きは、『デトロイト建設トラスト』ということになっている)、大量破壊兵器と細菌兵器、政治、経済的謀略により、ヨーロッパ各国を次々と滅亡に追いやる、というもの。エンス・ボートがなぜこのようなことを企てたのか、物語の中でも何度か問いが繰り返されるが、最後まで明解な説明はない。ただ、愛するがゆえに滅ぼす――ということらしい。
 主要なできごとには、すべて日付が明記されている。主人公エンス・ボートが生まれたのは1893年3月18日、トラストDEが設立され、最初の重役会が開かれたのが1927年4月4日(作品発表時からは未来にあたる)、計画どおりにヨーロッパ全土が壊滅し、エンス・ボートが業務終了を報告するのが1940年7月4日、といった具合。このあまりに具体的な日付(出来事によっては時刻まで書いてある)が、かえってすべてがあり得ないフィクションだということを強調している。
 一人の男がどうやってヨーロッパ全土を壊滅させるのか。もちろん一人ですべてやるわけではない。トラストDE本部の下、アメリカに17の下部組織があり、ヨーロッパに散在する314の機関を操っている。314の機関には18670人の職員がいて、様々な工作に従事しているのである。そのすべての組織や機関の名称のどこかに、「DE」の文字があるというのがまたいかにも作り物めいている。要するに、ヨーロッパ全土に網をはりめぐらす悪の秘密結社みたいなものがあるわけである。
 とはいえ、こうした説明のどこにもリアリズムはない。著者はただひたすら、ヨーロッパ各国が滅亡していくさまを、簡潔な描写の中に時々感傷的なフレーズを混ぜながら、語っていく。滅亡の有様(あるいは、滅ぼされ方)も、様々で、軍事侵攻、新兵器による攻撃、細菌兵器(これが一番多い)、経済恐慌(もちろん、故意に引き起こされたもの)、気象兵器、内戦(これももちろん、陰謀によるもの)、といった具合。
 エンス・ボートは自分の計画の遂行状況を見届けるため、各国の滅亡のすべての場面に居合わせて、周りの人間がみんな死んでいくのに奇跡的に生き延びる。そしてアメリカで事業終了報告をした後、最後の死に場所を求めて荒野と化したヨーロッパに戻って行くのである。
 ところで滅亡したヨーロッパ各国の生き残りはどうなったのかというと、アメリカやアフリカに亡命したと書いてある。ただ、実は生き残った国家がひとつだけあって、それはロシア(ソ連)なのである。ヨーロッパ・ロシアは荒野と化したが、シベリアはヨーロッパではないので無傷で残り、ソ連はシベリア中部のチタに首都を移して存続しているのだ。一方で、たとえ国土の一部でもヨーロッパにあればその部分の滅亡は免れないので、トルコのヨーロッパ側(イスタンブールがあるところ)は、壊滅している。
 あくまでも地理的な意味での「ヨーロッパ」だけ滅亡というところが、作者のこだわりらしい。
 この小説、第一次世界大戦やロシア革命の内戦の記憶が生々しい中で書かれただけに、厭世観に満ちている。だが、「ヨーロッパのすべてをゼロに戻す」という、出直しの物語ととれないこともない。まあ、固いことは考えずに、文学史上まれに見る大量殺戮と大量死の物語を、半ばあきれながら読むのが正しいのかもしれないが。

 で、翻訳の問題だが、「モナコ王子」という訳語が気にかかる。というか、間違いだろう、普通に考えて。エンス・ボートの父親は「ヨーロッパの小国の支配者」と書かれている。だったら、モナコ公国の君主である「モナコ公」または「モナコ大公」だろう。モナコの君主の称号は、英語でいうと"Prince"なのだ。"Prince"が一国の君主の称号として用いられた場合、「公」と訳すのが普通である。なお、早川版では、正しく「モナコ公」と訳されていた。
 全般的に、早川版の翻訳の方が、理にかなっていて理解しやすいように思える。ただ、本書の訳文には、ところどころ気になる点があるにしても、不条理なパワーに満ちた迫力はある。
 ところで、早川版の訳は単独で刊行されないのだろうか?

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2009年10月12日 (月)

9月に読んだ本から

 9月に読んだ本の中から、比較的最近出た本を2冊。

ミステリーの人間学 英国古典探偵小説を読む/廣野由美子(岩波新書,2009)
 著者は別にミステリー(本書では一貫して「ミステリ」ではなく「ミステリー」と書いているので、それに合わせる)の専門家というわけではではない。本業は英文学者で、京都大学教授、専門はイギリス小説史。しかし固い本ばかり書く人ではなく、「フランケンシュタイン」を題材に文学批評理論を実践するとどうなるか、という『批評理論入門』(中公新書)などは非常におもしろかった。
 この本は、そんな文学史の研究家が、ミステリーを語る本。当然ながら、その立場は普通のミステリー愛好家とは違っている。19世紀から1930年代までのイギリス作家をメインに、代表作を何編が取り上げてストーリーや描写を細かく分析し、文学の伝統に沿って、「小説」としてのミステリーを探求したもの。
 イギリスのミステリーは、「人間を描く」というイギリス文学の伝統の中にあるのだそうだ。逆にいうと、「人間を描く」ミステリーにしか、著者の興味はないということでもある。
 「あとがき」で著者ははっきりとそのことを書いている。

 一読者としては、クリスティーが、「背後に一種の情熱を秘めた探偵小説」と呼んでいるようなミステリーしか、好んで読む気はしない。それは、言い換えるなら、暴力性やトリックの巧妙さを超えた何かがあとに残るような、上質なミステリーである。読み捨てにしてしまえないその何かとは、人間性に関わるものであるにちがいないと、私には思えた。

 「上質」という言葉が出てくるあたり、学問の世界ではいまだに文学の階級意識が生きていることを感じさせる。この「あとがき」によれば、著者はこの本を書くため、かなりのミステリーを読んだらしいが、かなり辛かったらしい。本質的にミステリー読みではないのだろう。
 そんな「文学」の世界の人間である著者が取り上げた「古典探偵小説」というのは、例えば前半ではディケンズの『荒涼館』や『エドウィン・ドルードの謎』、ウィルキー・コリンズの『白衣の女』に『月長石』。文学だかミステリーだかわからないような作品たちである。
 後半になるとさすがに正真正銘の古典的ミステリーが出てくる。ドイルのシャーロック・ホームズもの、チェスタトンのブラウン神父ものに『詩人と狂人たち』、クリスティの『アクロイド殺し』、『オリエント急行殺人事件』など。
 この本はミステリーの紹介ではなく、作品研究が主目的なので、当然ながら作者はトリックや真相を明かすことなどは気にしない。ネタバレ満載である。誰でも知ってるような作品ばかりなので、気にすることはないのかもしれないが、間違っても、読んだことのないミステリー作品の紹介本として、本書を使ってはいけない。本書はミステリー好きのための本ではないし、ましてや、決してガイドブックなどではないのだ。
 取り上げられた作品をすでに読んだ人間にとっては、あの作品はこんな読み方もできるのか、とか、あるいは、こんな風に文学作品としての分析ができるのか、とか、新しい見方を知ることができるだろう。取り上げられた作品を読んでいる方が、本書は理解しやすいのである。かく言う私も、この本を読む前に、未読だったクリスティの作品を読んでしまった。

ミステリーの人間学―英国古典探偵小説を読む (岩波新書)

ノパルガース/ジャック・ヴァンス;伊藤典夫訳(ハヤカワ文庫SF,2009)
 唐突に出版された60年代SF。何を隠そう、私はジャック・ヴァンスのファンで、新しい翻訳が出たというだけで、ほとんど中身も見ずに買ってしった。
 最初、イグザックスという宇宙のどこかの惑星で、延々と続く内戦の有様が描かれる。どうもこの惑星は「ノパル」という精神生命体みたいな存在の侵略を受けていて、そのノパルに操られる側と、反ノパル派とが争っているらしいのである。結局、全惑星を荒廃させた戦いの果てに、反ノパル派が勝利するのだが、宇宙の彼方にノパルの巣である「ノパルガース」があって、そこのノパルを根絶やしにしない限り、侵略は続く。イグザックス人たちは「ノパルガース」での戦いを決意する。
 舞台は一転して、現代(1960年代)のアメリカ。国防総省の研究機関であるARPA(インターネットの原型であるARPANETを作ったことで知られる機関)の職員、ポール・バークの元に見知らぬ男から、信じられないようなことが起きているから至急誰か来てくれ、との連絡が入る。半信半疑のバークの元へ、男から証拠品が届く。重力を無視して宙に浮かぶコイン大の円盤。未知のテクノロジーの産物である。
 本当にとんでもないことが起きてるらしいと察知したバークは、男の家に駆けつけるが、そこに待っていたのは異星人――。ここまでわずか20ページ。とんでもなく早い展開である。
 舞台が地球に変わったところで、読者の大半は気づくと思うが、精神寄生体、ノパルの巣窟であるノパルガースというのは、地球のことなのだ。地球人は全員、知らないうちにノパルを一匹ずつ頭に載せて生きているのである。バークの前に現れた異星人は、当然地球に遠征してきたイグザックス人なのだ。
 で、イグザックスに拉致されたバークは強制的に(拷問としか思えない方法で)ノパルを除去される。イグザックス人の言い方だと、「浄化」である。「浄化」された者は、今まで見えなかったノパルが見えるようになる。その上でバークは、地球に戻って人類を「浄化」する事業にかかれ、失敗したら地球をぶっ壊す、という世にも無茶な使命をイグザックス人から押しつけられる…。
 なんだか、いくらでも拡散し、長大化しそうな話だが、バークが地球に帰った後は、同僚のラルフ・ターバート、恋人のマーガレットとの3人だけで事実上話が進行。内輪だけで何やらごちゃごちゃやってる内に、話が予期しない方向にどんどん進んでいき、最後はバークたちはどこか宇宙の果ての星まで行き、何やら無気味な生命体と対決することになる。
 とんでもない展開である。特に後半は、B級テイストがあふれまくっている。ジャック・ヴァンスというのは、こんな話を書く人だったのだろうか、という気もするが。
 で、薄い。字も大きい。最近の海外SF長編の5分の1か4分の1くらいの分量しかない。さすが60年代。複雑なサブストーリーの絡み合いも、細かい人物描写や人間関係の説明もなく、実にあっさりと読める。
 だけど、正直言って、ジャック・ヴァンスのファンと50、60年代B級SFのマニア以外は、読まなくていいような気がする。

ノパルガース (ハヤカワ文庫SF)

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2009年8月 8日 (土)

ハッカーと蟻

ハッカーと蟻/ルーディ・ラッカー(ハヤカワ文庫SF,1996)
 仮想現実は、どのような悪夢も体験可能にする。しかし一番の悪夢は、仮想現実のはずのものが、現実を侵食してしまうことだろう。
 主人公は近未来のシリコンバレーで働くプログラマー、ジャージー・ラグビー。妻とは別居中で離婚寸前、住んでいる借家は不動産屋が売りに出していて追い出されそうになっていて、現実世界ではどうもうまくいってない。一方、プログラマーとしてのジャージーは、ゴーモーション社で家庭用ロボットのソフトウェア開発に携わる腕利きで、仕事でもプライベートでも、サイバースペースを自在に飛び回っている。
 現実世界の冴えなさに比べ、サイバースペースの描写は文章のタッチからして違っていて、色彩と躍動感にあふれている。だけど、今となっては、どこかで読んだ(あるいは、見た)感がぬぐえない。
 原作が書かれたのは15年前の1994年なのだが、ここに出てくるサイバースペースのテクノロジーは、当然ながらまだ実現していない。にもかかわらず、なんだかもう手垢まみれの感がある。似たような描写の出てくる作品が多すぎて、実現する前に陳腐化しているのである。もちろん、作者の責任ではない。以前に紹介した仮想現実テーマのアンソロジー『シミュレーションズ』(2008年1月8日のエントリー)の原著発行が、この本の原作とほぼ同じ1993年。仮想現実テーマの全盛期だったのだ。
 それはともかく、ある時サイバースペースにまぎれこんできた一匹の蟻を目にしてから、ジャージーの運命は妙な方向に暴走し始める。サイバー蟻は現実世界でのジャージーの相棒であるロボットのスタッドリーにとりつき、とんでもない事件を起こしてしまうのだ。ジャージーは会社をクビになり、社会の敵扱いされることになる。仮想世界からの侵入者が現実世界を脅かす悪夢である。
 無職になり、被告人となったジャージーを、ウェストウェスト社がスカウトする。ゴーモーション社と同じく家庭用ロボットの開発をしている会社なのだが、社員たちは一癖も二癖もありそうなのがが揃っているし、会社の素性もいかにも怪しげである。そもそも、この会社を紹介したのは、例のサイバー蟻にとりつかれたスタッドリーなのだ。ジャージーはどうも何かの陰謀に巻き込まれているらしい。
 ―というわけで、現実世界とサイバースペースをまたにかけたジャージーの冒険、というかドタバタ劇が続く。だが、このおっさん、その合間にもナンパに情熱を燃やす――まだ離婚も決まってないのに。脇役も変なやつばかり。シリコンバレーはこんな連中だらけなのだろうか。
 キャラクターもストーリーも設定も、ちょっとタガがはずれている。まあ、それがルーディ・ラッカーの持ち味なわけだが。
 最後には、主人公が本物のロボット蟻と戦うことになるのは、いかにもアメリカSFらしいお約束。

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2009年7月28日 (火)

絵のない絵はがき

絵のない絵はがき/石川喬司(集英社文庫,1991)
 前に紹介した『SFの時代』(2009年2月24日)でもわかるように、SF評論で有名な石川喬司だが、数は少ないながら小説作品もある。
 といっても、50年以上にわたる文筆生活の中で10冊。しかもそのうち、競馬小説やミステリを除いた、SFやファンタジーを含む作品集は半分ほど。本書は石川喬司の数少ない、「SFも含む」ショートショート集の1冊なのだ。
 Part1は二つの連作ショートショート、「トマトジュースをもう一杯」、「千鳥足劇場」を収録。目次にはこの二つのタイトルしか載ってないが、実際には、「トマトジュースをもう一杯」には20編の独立した作品が、「千鳥足劇場」には共通の登場人物が出てくる9編の連作が含まれている。実はこの2タイトルだけで本編の半分を占めているのである。
 「トマトジュースをもう一杯」は毎日新聞に間をおいて掲載されていたもののようで、新聞小説らしく、家族の絆を描いた人情話が多い。「千鳥足劇場」は『月刊サラリーマンライフ』に連載されていたもので、平凡なサラリーマンの生活に、怪しげな僧が人口冬眠利殖法とか未来予知とかの話を持ち込んできて騒動が起きる――というパターンがほとんど。読者層によって内容ががらりと変わる当たり、結構器用である。
 Part2は『ショート・ショート・ランド』の「落ちコンテスト」のために書かれた作品7編。読者からオチを募集する企画で、連載時には当然オチはついてなかったのだが、さすがに単行本収録だとそうもいかず、作者自身の書いたオチが別ページに掲載されている。
 Part3は各種雑誌に掲載された、今度こそ完全に独立した作品9編を収録――かと思ったら、そのうちの一つ、「不思議な車」は、実は4編のショートショートからなる連作なのであった。ややこしい。しかしこの「不思議な車」、タイムトラベル能力(ただし制御できない)を持つ謎のレンタカーに乗った二人組の、ヨーロッパ珍道中といった趣があるSFで、収録作の中では読み応えがある。
 他には、本書では珍しい本格SFショートショート「宇宙ギフト戦争」、恋する女性の心理をメルヘンタッチで綴った「メルヘン街道」、時空を超えたホラ話「ガリヴァー船長二十世紀の旅」などが目立つ作品。
 全体として、広義のSFやファンタジーと呼べる作品は半分あるかどうか。あれほどSFを愛した石川喬司だが、自らはあまり書こうとしなかったようだ。
 また、これは作者の持ち味だろうが、話に過激な部分がなく、きわめて淡泊である。基本的に悪人が出てこない。
 毒のない小説は、後味はいいがインパクトに欠ける。この本の収録作にも、実のところ強烈な印象を覚えるものは、ないと言っていい。ただ、アンデルセンの有名な童話をもじったタイトルのように、なんとなくほんわかとしたイメージを残すのだ。

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2009年7月17日 (金)

6月に読んだ本から

 前月に読んだ本について書くのが、また遅くなった。遅い記録の更新である。せめて「2ヶ月まとめて」なんてことだけはないようにしなければ。
 ともかく、6月に読んだ本から2冊。

きのこ文学大全/飯沢耕太郎(平凡社新書,2008)
 古今東西の、きのこが出てくる文学作品を集めるという、発想が変。とにかく変。
 構成は辞書形式で、短いものは半ページ、長いもので数ページの記事を50音順に並べている。ただ、各項目の見出しのつけ方に決まった規則がないので、辞書みたいに「引く」ためには使えない。
 例えば、「あ行」は、【赤瀬川原平の「赤坂のマツタケ」】、【アッシャー家の菌類】、【吾妻ひでおの「きのこの部屋で」】、【嵐山光三郎の「森の宴会」】、【アリスときのこ】、【安野光雅のなき茸】、【泉鏡花ときのこの化身】、【一茶の天狗茸】...といった具合。
 見てのとおり、作者名+作品名というパターンが多いが、作品に出てくる固有名詞が見出しになっていることもあり、特定の作品をさがすのは非常に困難なのだ。そのかわり、巻末に人名索引ときのこ名索引がついている。
 各記事は、それぞれの作品紹介、キノコが登場するシーンの短い引用や解説からなる。キノコの名前にやたらにこだわっているあたりに著者のキノコマニアぶりが伺える。
 取り上げられている作品は、上の例にも見るとおり、古今東西のあらゆるジャンルの小説、エッセイ、マンガ、俳句と幅広い。とにかく、松尾芭蕉、宮沢賢治、筒井康隆、手塚治虫、吾妻ひでお、萩尾望都、アレクサンドル・デュマ、ゲーテ、レーニン、レイ・ブラッドベリ、ブルース・スターリング、橋本治などが一緒くたに収録されているような「文学大全」など、他にちょっとないだろう。すべては、「キノコ」でつながっているのだ。
 SFファンにおなじみのキノコといえば、『地球の長い午後』に出てくるアミガサタケか、あるいは「マタンゴ」だろうが、両方とももちろん出てくる。アミガサタケは、「オールディス―」のところではなく、「た行」の【「地球の長い午後」のアミガサタケ】という項目名で収録。マタンゴは、【マタンゴの変容】。
 ちなみに【マタンゴの変容】は10ページもあって、本書でも一番長い記事の一つ。映画「マタンゴ」の話はもちろん、その原作となったウィリアム・ホープ・ホジスンの「夜の声」、福島正実によるノベライズ版、マタンゴをテーマにした橋本治のコラム、大槻ケンジの詩まで紹介するという豪華版である。マタンゴに向ける作者の熱い想いがよくわかる。
 キノコの出てくる作品をひたすら追い求める作者の、調査範囲の広さと、キノコへの異常な愛情に感心してしまう1冊。

きのこ文学大全 (平凡社新書)

太陽系最後の日(ザ・ベスト・オブ・アーサー・C・クラーク 1)/アーサー・C・クラーク;浅倉久志ほか訳(ハヤカワ文庫SF,2009)
 日本オリジナル編集のクラーク短篇選集、全3巻の1冊目。1946年から1951年までの初期作品を収録。
 どれも一度は読んだことがあるはずの作品だが、中には邦訳単行本未収録で、数十年ぶりに再読したものもある。
 表題作になっている「太陽系最後の日」は、クラークのSF作家デビュー作であるともに代表的短篇の一つでもある。「ずらりと並ぶ真空管」というあたりに時代を感じさせるが、ストーリーそのものは、60年以上を経ても色あせない。SF的イメージの原点である。イギリス人なのになんでこんなアメリカ的発想のものを書くんだ、という気もするが。
 続く「地中の火」と「歴史のひとこま」は、二つの文明のコンタクト、というよりむしろすれ違いを描く。「地中の火」は物理的環境の違い、「歴史のひとこま」は時代と文明的背景の違いが、悲劇的結末や喜劇的勘違いを生んでいる。両方とも単純なアイデア・ストーリーだが、歴史的視点がクラークらしい。
 中編「コマーレのライオン」は、解説にも書いてあるように、昔SFマガジンに「ライオンの棲む都市」のタイトルで掲載されて、それきり単行本収録されなかった「幻の作品」。そのSFマガジン版を読んだことは覚えているが、内容は体制に逆らう青年が主人公であることと、ライオンが出てくることだけしか記憶になかった。「停滞した理想社会からあえて外に出て行く異端分子」という、『都市と星』タイプの物語で、こういうシチュエーションは基本的に非常に好きなのだが、今回読み返してみると、思ってたほど大した話じゃなかった。
 「かくれんぼ」は、火星の衛星を舞台に繰り広げられる、宇宙巡洋艦と一人の男の対決の物語。こういう話は今でも書く人がいてもおかしくない。
 「破断の限界」は、二人の男が乗った宇宙船が事故にあって酸素が欠乏し、一人しか生き残れないという「冷たい方程式」パターンの話。二人のうちのどちらかが死ぬしかない(しかも、「方程式」とは違って、二人とも条件は平等)という状況下のストーリーは、緊張感があっていいのだが、邦訳タイトルは誤解を招く。このタイトルだと物理的に何かが壊れることを言ってるようにしか思えないが、実際に壊れるのは、二人の男のうち片方の理性なのである。
 「守護天使」は、『幼年期の終わり』第一部の原型。『幼年期の終わり』を知っている読者には、プロローグだけで終わってるようにしか思えないだろう。
 「時の矢」は、クラークには珍しいタイムトラベルものだが、あまり成功しているとは思えない。
 最後に収録された100ページ近い中編「海にいたる道」は、「コマーレのライオン」と同じようなパターンの遠未来もの。停滞しているが物理的には満ち足りた社会から、あえて出て行った若者が伝説の都市を目指す。
 ただ、「コマーレのライオン」の主人公ペイトンの動機づけがいまひとつあいまいだったのに比べ、「海にいたる道」のブラントが古代都市(古代といっても、現在から見るとはるか未来だが)シャスターを探し求める理由は明解である。―彼女にいいところを見せるため。単純だが、よくわからない目的よりはずっとましである。そういう点も含めて、全体的に話に無理なところがあまりなく、出来はこっちの方が遙かにいい。本書収録作中のベストとしたい。

 蛇足。「海にいたる道」のシャスターが、実際にどのへんにあるのか考えてみた。主人公が住んでいるのは、森の中の集落。周囲は平原だが、「六千年前、この地域は世界でももっとも広大、かつ人間にとっては手ごわい砂漠の一つだった」という。世界でもっとも広大な砂漠といえば、サハラ砂漠だろう。そして、村の北方20マイルと離れてないところに海がある。とすれば、これは北アフリカの海岸に近いどこか。決定的なのは、主人公がたどりついた海岸にローマ帝国(文中では「ある強大な帝国」)の道路が残っていることだ。さらに決め手として、「ローマの百人隊長、シャルルマーニュ大帝麾下の十二勇士(アフリカに遠征したという伝説がある)、ロンメルの装甲軍団」がこの地を通って行ったという描写もある。
 これでもう、ここが北アフリカのどこかだというのは確かだ。さらに、「海に向かって突き出している険阻な岬」があるという描写から、海岸線がかなり変化に富んでいることがわかる。北アフリカ沿岸部でそういう地形があるのは、モロッコかチュニジアくらいだが、ロンメルの軍団が通って行ったということから、条件に合うのはチュニジアしかない。結局、シャスターはチュニジアの北海岸のどこかに位置するのではないかと思うのだが。心情的には、カルタゴ遺跡のあたりと思いたい。

太陽系最後の日 (ザ・ベスト・オブ・アーサー・C・クラーク 1) (ハヤカワ文庫SF)

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2009年6月25日 (木)

時の扉をあけて

時の扉をあけて/ピート・ハウトマン;白石朗訳(創元SF文庫,2000)
 50年の時を超える「時の扉」をめぐる、タイムトラベル小説。ひとことで言うとそうなのだが、実はあまりSFらしさはない。翻訳は一般向けだが、原作はティーンエイジャー向けのジュヴナイルだということで、読んだ印象もSFより青春小説に近い。
 しかし、暗い青春である。
 主人公ジャックは、13歳の時、祖父スコーロの死に出会い、その時にこの祖父の持っていた屋敷で「時の扉」を見つける。が、その時のジャックはすぐに現代に戻ってきて、本格的に過去にいくのはその数年後。その原因というのが、アル中の父による母の撲殺という現実から逃げるためなのだ。く、暗い…。
 で、行った先は太平洋戦争直前の1941年という、これまた暗い時代。戦争が始まり、兵士としてガダルカナルへ行ったジャックは、戦場の中で友人だと思っていたスカッドに殺されかかり、さらに日本軍の攻撃で瀕死の重傷を負って、ついでに頭もおかしくなってしまう。どこまでも暗い展開である。
 このスカッドや恋人のアンディが、実は後の時代で主人公と関わりのある人物だったのが明らかになるというのは、この手の話にはお決まりのパターン。その真相もまた、救いのないものである。どこまでも暗いのだ。
 結局、著者の書きたいことはタイムトラベルではなく、主人公の擬似的な死と再生であったようだ。だから、上にも書いたが、読んだ印象はとてもSFとは言えない。
 物語の鍵となる「時の扉」そのものについても、ほとんど何の説明もないし。終わりの方に登場する謎の男が作ったらしいのだが、結局詳しいことは不明のままで、科学的な説明は出てこないのだ。
 小説としての出来は悪くない。だけど、「タイムトラベルSF」を期待してはいけない。SFファン以外にとっては設定があまりにSF的だし、SFファンにとっては、話があまりにSF的でない。読む人を選ぶ小説ではないだろうか。

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2009年6月13日 (土)

ドグマ・マ=グロ

ドグマ・マ=グロ/梶尾真治(ソノラマノベルス,1993)
 今は亡き朝日ソノラマから出たパロディ風味ホラー長編。その後、2003年に新潮文庫から再刊されている。
 題名からして夢野久作の『ドグラ・マグラ』のあからさまなパロディである。が、中身は『ドグラ・マグラ』とはほぼ無関係で、新米看護婦が体験する、怪しげな病院の一夜のできごとを描いたSFホラー。「怪しげな病院」が舞台であるところだけは似ているか。
 それにしても、「一夜のできごと」と呼ぶには、あまりにも多くの出来事が起きる。人を食う正体不明の怪物、人間の姿をした実験体、ツングース爆発の謎、大日本帝国復活を目論む秘密機関、マッドサイエンティスト、右翼の大物、45年間病院の壁の裏に潜み続けたアメリカ兵、ぼけた婆さんの一団、さらには多元宇宙までかかわってくるという、ネタの洪水状態。そして、登場人物の大半が死んでしまう、スプラッタ・シーンの連続。想像を絶する出来事の果てに、ヒロインがたどりついた世界も、あんまり。
 ここまで来ると、ふざけてるとしか思えない―が、読み出したらやめられない。が、梶尾真治の文章は、どんな惨劇を書いてもどこかコミカルなところがあって、ホラーなりきれておらず、ただのドタバタ劇になってしまっているような印象はある。そこが持ち味、と言えばそれまでだが。

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2009年6月10日 (水)

並列バイオ

並列バイオ/秋口ぎぐる(富士見ファンタジア文庫,2000)
 何年も前に読んだのだが、不思議と印象に残っている本。
 タイトルは何だか意味不明だし、著者の名前も変である。本名、「川上亮」でも著者があるそうだ。でも、『並列バイオ』が川上亮著だったら、あまりに名前が普通すぎてインパクトに欠ける。この名前にこのタイトル、だから印象に残るのだ。どっちにしても、この作者の本はこれしか読んでない。
 肝心の内容だが、バイオ技術が異常発達した未来の地球で、<学会員>ブレイロックが変異種の少女ヒオリに一目惚れし、<巨人機関>をめぐる巨大な陰謀と戦う―というものである。もちろんこれではわけがわからないことと思うが、まあ要するにその手の話。
 遺伝子操作で生まれた奇妙な生物やミュータントにあふれた世界設定は、どう見ても「ナウシカ」の世界と似ているし、ただ一目惚れした女のためだけに、善悪も後先も考えず突っ走る主人公は「未来少年コナン」または「カリオストロ」のルパンのようだし、やたらと乗り物や建物から飛び降りたり飛び乗ったり、時には飛び回ったりするキャラクターたちは「ラピュタ」を見ているようだ。
 要するに宮崎駿的テイストに満ちている。宮崎アニメの疾走感を、ある程度再現していて、その点では、同じく宮崎駿の影響が見てとれるフィリップ・リーヴの『移動都市』より上かもしれない。
 が、「=」や「/」などの記号が多発し、ところどころでフォントが巨大化する独特の文章は、動きを描くには一定の効果を上げているが、情景描写には著しく不向き。何より読みづらい。そのせいで、妙に印象に残る結果にはなっているのだが。
 タイトルも作者名も文章も、ユニークではあるが、あまり一般受けする話とは思えない。そのせいか、結局今に至るまで続編は出てない。

 ところで、ウィキペディアで「秋口ぎぐる」のページを見ると、この作品の続編のタイトルがずらっと並んでいる。どれも未出版だが。『並列バイオ外伝 第二脱出速度蛙』、『弾丸特急』、『分子メール』、『暴走学級』と、どんな話なのかさっぱりわからない。というか、この記事のライターは、なんで未出版の作品名がこんなにわかるんだ? もしかして本人もしくは周辺の人間が書いてる? 

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