ちょっと前に読んだ本

2009年12月31日 (木)

日本の城の謎

 今年最後の記事になるが、特に普段と変わらない。今回は、20年以上前に出た城関係の本。
 城をテーマとした本やムックは最近出版点数がやたらと増えている気がするが、こういう本の需要は、いつの時代もある程度あったのだ。ただ、今出ている「城本」とは少々傾向が違う。

日本の城の謎 (上・下)/井上宗和(祥伝社ノン・ポシェット,1986)
 上下巻になってはいるが、最初から2冊本で出版されたものではなく、文庫に収録するにあたってこういう構成になったらしい。
 上巻は「築城編」、下巻は「攻防編」になっているが、内容がはっきり分かれているわけではない。、このサブタイトルに大して意味はないと見た方がいい。
 内容だが、城にまつわる特定の話題を中心に、複数の城を取り上げて歴史エピソードを紹介するのが基本パターン。
 上巻では、1「なぜ秀吉は城攻めの天才と呼ばれるのか」では、城攻めの一般論から始まって、武田勝頼の長篠城攻め(失敗)、豊臣秀吉の鳥取城攻略、石田三成の忍城攻め(失敗)、徳川秀忠の上田城攻め(失敗)に話題が及ぶ。一つの話題を足がかりに、関連する話題が次々と移り変わっていく。目次や各章の始めに、登場する主な史跡や人物の一覧が出てくるが、なぜか忍城は出てこない。史跡になってないからか。
 また、上巻でいきなり城攻めの話題が出てくるので、このことからも、「築城編」、「攻防編」というサブタイトルに大して意味はないことがわかる。
 続いて、2「なぜ名城には人柱伝説があるのか」では、各地に伝わる人柱の言い伝えに関連して、江戸城、松江城、郡上八幡城、宇和島城が、3「ほんとうに信玄は城を造らなかったか」では、武田家にまつわる「人は石垣=城不要」説のインチキさや武田家埋蔵金伝説を語りながら、舞鶴城(甲府城)、躑躅ヶ崎館、要害山城、積水寺、金沢城、春日山城を、4「なぜ信長は安土城天守閣を築いたのか」では、織田信長や松永久秀の築城と近世城郭の起源を巡って、安土城、観音寺城、本能寺、大坂城、多聞城が取り上げられる。 5章以下は人物より城中心の話題が多くなり、「なぜ抜け穴伝説が生まれたのか」(姫路城、宇和島城、竜光院、熊本城、江戸城、金沢城)、6「なぜ大坂城の土塁は石垣に変わったのか」(大阪城、清洲城、小牧山城、二条城、江戸城)、7「なぜ難攻不落の小田原城は落ちたのか」(小田原城、早雲寺、堀越館、韮山城、石垣山一夜城)、「なぜ城の絵図は正確無比だったのか」(会津若松城、北ノ庄城、弘前城)といった具合。
 城に対するアプローチとしては独特のものがあるし、内容もまともなのだが、この雑学本じみたわざとらしい章タイトルが少々目障りである。
 なお、上巻の99ページから100ページにかけて、「戦国八名城」というのが出てくるが、他ではあまり聞いたことがない。越後春日山城、越前一乗谷城、能登七尾城、近江小谷城、美濃井ノ口(稲葉山)城、甲斐要害山城、近江観音寺山城、大和信貴山城。このうち、落城しなかったのは春日山城と要害山城だけだそうだ。

 下巻「攻防編」も上巻と同じ路線だが、こっちの方が人物メインになっている。
 1「なぜ、加藤清正は鉄壁の石垣を築いたか」では西郷隆盛、谷干城、加藤清正、黒田如水・長政親子と時代を超えた人物たちと、熊本城、福岡城を取り上げる。
 2「なぜ、秀吉は三木城攻めに二年もかかったか」では、豊臣秀吉をメインに、三木城、犬山城、鳥取城、高松城(もちろん備中の方)、姫路城が、3「なぜ、藤堂高虎は築城の天才といわれるのか」では、藤堂高虎の事績と彼が手がけた城を中心に、宇和島城、今治城、津城、伊賀上野城、二条城、高知城が、4「なぜ、毛利氏は海岸線に城を移したのか」では、毛利一族と吉田郡山城、三原城、松江城、膳所城、広島城が取り上げられる。毛利氏と関係ない膳所城が出てくるのは、湖に面した水城だから。
 以下、5「なぜ、江戸城は世界最大の城といわれるのか」(徳川家康と江戸城、大坂城、姫路城)、6「なぜ、上杉謙信は天下人になれなかったのか」(織田信長と上杉謙信、春日山城、一乗谷城、小谷山城、北ノ庄城)、7「なぜ、榎本武揚は新政府で活躍できたのか」(榎本武揚と五稜郭、松前城、竜岡城)と続く。
 各章のタイトルがますますパターン化し、くどくなっている。ただ、おもしろいのは、各章のページ上に表記してある見出しが、タイトルと違ってすっきりしたものになっていること。上巻では同じだった。1「熊本城石垣の謎」、2「秀吉、三木城攻めの謎」、3「藤堂高虎、宇和島城の謎」、4「広島城、毛利水軍の謎」、5「難攻不落、江戸城の謎」、6「上杉謙信、春日山城の謎」、7「榎本武揚、五稜郭の謎」となっている。まあ、長い章タイトルがページ上の小さなスペースに収まらなかった、というのもあるだろうが、著者は本当はこっちのタイトルにしたかったのではないか。
 上・下巻を通じて、同じ城が何回も出てくる。城がメインならこうはならない。やはり城の本というより、歴史の本なのである。

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2009年12月24日 (木)

女ことばはどこへ消えたか?

女ことばはどこへ消えたか?/小林千草(光文社新書,2007
 ここでいう「女ことば」というのは、今ではほとんどフィクションの中にしか生き残ってない、語尾に「~わ」とか「~よ」とかをつけたりするあのしゃべり方。一部の小説(特に翻訳に多い)やマンガ(例えば『美味しんぼ』とか)には、こういう言葉をしゃべる女性が今でも登場するが、現実にこんな話方をする女性はまず見かけない。
 前に紹介した金水敏の『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』(2008年7月13日)では、こういうしゃべり方を、「お嬢様」であることを示す「役割語」と位置づけていた。現実には使われない、記号としての言葉だということだ。
 ところでこの本は、古きよき女性の言葉へのノスタルジーを持ち続ける女性研究者(1947年生まれ)による、「役割語」とはまったく違うアプローチからの「女ことば」論である。その態度は至って真摯。著者は真剣に「女ことば」の衰退、あるいは女性がしゃべる言葉の「男性化」を憂えている。
 とはいえ、ベースは日本語研究なので、「近頃の若い娘の言葉使いはなってない」なんて、オヤジめいた小言を並べているわけではもちろんない。まずは文学作品を主な資料として、日本の女性語の成り立ちを探っていく。
 最初に研究対象になるのは、今から100年前、近代の「女ことば」が成立した時期の夏目漱石の作品。特に『三四郎』。
 『三四郎』というのは、要するに田舎から状況してきた大学生が、東京で知り合った変な女たちにふりまわされる話だが、彼女たちは夏目漱石の目から見て、新時代の女性たちであり、その話す言葉は最先端の流行を示すものだった。例えば著者は、登場人物の口にする「よくってよ、知らないわ」という言い方について、いくつもの用例を引用するが、それは「当時の女学生のきわめつきの流行語だった」という。で、こういう言い方というのは、元々は下町の娘が使うような、どちらかというと下品な言葉と見なされていたのだが、次第に山の手の女学生が使うようになって、徐々に上流階級の間に広まっていったのだとか。漱石はその過渡期にあって、まさに変わりゆく若い女性の言葉づかいをリアルに描いていたのだ。当時から見れば結構軽薄に見えたのかもしれない。
 で、こんな登場人物の言葉の分析だけでなく、実は作者は、引用した場面でそのセリフを登場人物がどんな心理で口にしたか、なんてことまで書いている。夏目漱石が微妙な女心を、少女マンガ並の繊細さで書いていたことにちょっと驚くが、それはともかく、明らかに言語の研究とは関係ないところまで立ち入っている。本書の3分の1はこんな具合で、『三四郎』の解説みたいなものである。著者は実際は「女ことば」論ではなく、女性の言葉を通じた『三四郎』論が書きたかったのではないか、とうがった見方をしたくなってくる。
 長い第一章の後は、時代をさらに百年遡って、江戸時代。式亭三馬の『浮世風呂』に見る女ことば。語尾に「~だよ」とか「~でね」が多用され、漱石の時代よりむしろ現代に近いような気もする。もちろん、ボキャブラリーが全然今とは違うのだが。
 第三章はさらに室町時代まで遡って女房ことばのルーツをさぐる。で、第四章でやっと現代に戻る。著者が勤務する女子短大でとったアンケートなどを資料に、「現代女子学生の言語実態と言語感覚」を分析するのだが、そこから浮かびあがってくるのは、だいたい予想どおりの言語実態と、一方で意外に保守的な言語感覚である。
 ただ、学生が先生に対して提出するアンケートなのだから、そこにはある程度「空気を読んだ」回答が多いことは予想できる。大学全体の雰囲気もあるだろう。見えてくるのは、現在の「女ことば」の実像というよりは、著者の「女ことば」――というか、理想の「女らしい言葉づかい」に対する強い思い入れなのだった。
 で、結局何が印象に残ったかというと、やはり夏目漱石である。タイトルとはだいぶずれているが...。

女ことばはどこへ消えたか? (光文社新書)

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2009年12月 9日 (水)

詩人、草木虫魚を語る

艸木虫魚/薄田泣菫(岩波文庫,1998)
 ほぼ一年前に、「詩人、本を語る」と題して、『本を読む前に』(荒川洋治)を取り上げたが(2008年11月27日)、今回はその本とは何の関係もない。ただ、詩人の書いたエッセイ、という点が共通しているだけである。というか、こういうものは、やはり「エッセイ」ではなく「随筆」と呼びたい。
 明治・大正期の詩人として名高い薄田泣菫は、随筆の名手でもあった。というか、後半生はもっぱら随筆ばかり書いていたらしい。随筆の代表作とされる『茶話』は、大正5年から8年(1916~1919)にかけて複数の新聞に書いたコラムで、4年間に660篇あまりを書いたというからすごい(解説による)。随筆のプロである。
 この本の原本は1929年刊。タイトルのとおり、植物や動物について書いた短い文章が中心。同時代や歴史上の人物にまつわるエピソードや、社会の片隅の出来事を取り上げた小コラムみたいなものも、少し混じっている。上の『茶話』と重複しているものもあるそうだ。全体として、植物や動物に対する目は温かく繊細で、人間に対しては皮肉とペダンティズムに満ちているような気がする。それはまた、随筆の王道でもあるが。詩や文学のことは意外なほど出てこないが、故人を偲んで書いた「徳富健次郎氏」や「芥川龍之介氏のこと」などは、文学者らしい面が出ている。
 動植物に関する随筆が中心といっても、タイトルをよく見てみると、「柚子」、「とうがらし」、「蜜柑」、「松茸」、「桜鯛」、「蟹」、「海老」、「苺」など、実は半分くらいは食べ物の話なのだった。「食味通」なんてタイトルのもあるし。「食べ物エッセイ」の走りなのか。
 薄田泣菫の詩といえば、「ああ、大和にしあらましかば」とか、「かなたへ、君といざかへらまし」とか、やたら詠嘆的な印象があるのだが、随筆の方はわりと淡々としているというか、普通である。あまりに叙情的な随筆というのは、読めたものではない。
 もっとも、食べ物に関したことを語る時、薄田泣菫は時々やたらと生々しい、というかなまめかしい文章を書くことがある「馬には馬の毛皮の汗ばんだ臭みがあり、女には女の肌の白粉くさい匂いがあるように、秋の松山にはまた松山みずからの体臭がある」(「松茸」)とか、「肥り肉の女が、よく汗ばんだ襟首を押しはだける癖があるように、大根は身体中の肉がはちきれるほど肥えて来ると、息苦しそうに土のなかに爪立をして、むっちりした肩のあたりを一、二寸ばかり畦土の上へもち上げて来る」(「蔬菜の味」)とか。もしかしたら食べ物に異様な執着を持っていたのかもしれない、とも思わせる。
 こういうところを除けば、だいたいにおいて文章は平易で、ところどころで詩人らしい巧みなさ言葉の使い方を見せる。とはいえ、やはり戦前の文章であり、現代の文章とはリズムがやや違うのだが。
 つまるところ、上品な面もあれば俗っぽい面もあり、日常的かと思えば浮世離れしたところもあり、一筋縄ではいかない本なのだ。『艸木虫魚』というタイトルから連想されるような、自然を語った優雅な随筆集でないことは確かである。

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2009年10月27日 (火)

信長の野望

信長の野望/童門冬二(光栄,1990)
 前に紹介した吉岡平の『提督の決断』(2008年11月9日のエントリー)と同じく、光栄のゲームから派生した架空歴史小説。ただし、この本は「歴史ifノベルズ」だが、『提督の決断』は「歴史キャラクターノベルズ」だった。どう違うのかよくわからない。
 それにしても、童門冬二とは、また大物をひっぱってきたものである。内容がそれにふさわしいかというと、また別の話。

 物語は本能寺の変から始まる。この物語の信長は、抜け道を通って本能寺から脱出、博多に身を隠す。大筋は、この生き延びた信長が、なぜか性格も思想も一変し、平和的な全国統一に乗り出す、というもの。冒頭の本能寺の変の場面を除いては、合戦シーンが全然出てこない。
 それはそれで、ユニークな架空歴史もの、というか本来の改編歴史SFに近いとも言える。が、問題は、内容があまりに変なところである。つっこみどころ満載。
 ところどころ文章が変だったり、登場人物たちがみんな現代語でしゃべっていること(「あなたは」なんて平気で言ってる)は、目をつぶることにしても、である。いくらなんでも変だろう、というところが目につく。例えば、次のようなところ。

・本能寺の変の後、徳川家康が茶屋四郎次郎の案内で帰国に成功したという記述の後で、「四郎次郎は、家康が天下を取った後、商人代表のブレーンとして、いろいろな知恵を家康にもたらす」とある。だが、この作品では信長が生き延びているのだから、秀吉も家康も天下を取らない。これが架空歴史小説だということを忘れているのでは。
・本能寺の変の情報を掴んだ羽柴秀吉が山崎で明智光秀を破るあたりまでは、実際の歴史と同じなのだが、この時秀吉のライバルとして名前が挙がる信長の重臣の中に、林通勝が出てくる。しかし林通勝は、この時すでに追放されているはず。
・単なる校正ミスからも知れないが、川尻秀隆が「田尻秀隆」と書かれている箇所がある。ご丁寧に「たじり」とルビまでふっている。
・信長が家臣たちの前で「府構想」なる日本の新しい政治体制を述べる時、口にした地名の中に名古屋や高知がある。名古屋も高知も江戸時代に入ってからの名称なので、この時代、そんな地名はないはず。
・織田長益(有楽斎)について、現在の東京の地名(有楽町)になっているとの説明がある。しかし、この物語では歴史が変わっていて、そもそも江戸に幕府が置かれる可能性がなくなっている。織田長益が江戸に住む理由もないし、江戸が後に「東京」になる必然性もない。上の茶屋四郎次郎の件と同じで、架空の歴史を語る物語の中で、実際の歴史の延長線上の「現在」を語ると整合性がとれなくなるのだ。
・「岩代」や「磐城」という旧国名が出てくる。この二つの国名は明治維新後にできたもの。この時代にあるはずがない。

 こうした、思わず首をかしげたり苦笑したりしたくなる箇所の数々に加えて、全体的に、作者のやる気が感じられない。『提督の決断』もあまり作者のやる気を感じない小説だったが、この作品はさらに輪をかけてそんな雰囲気がある。まあ、時代小説のベテランがゲーム会社の依頼する架空歴史小説に、乗り気になれないのもわかるが...。
 ある意味、珍品と言うべき本である。

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2009年10月15日 (木)

ジャンクフードって何なんだ?

きらめくジャンクフード/野中柊(文芸春秋,2006)
 私の偏見かもしれないが、ジャンクフードというと、どこか男の食うもの、というイメージがあった。男といっても、間違ってもマッチョやイケメンではない。太って脂ぎったオタク風のやつが、体に悪そうなものをむさぼり食ってる。そういうイメージだ。
 この本は、小説家、野中柊が女性の視点からジャンクフードを語るもの。言ってみれば、女性の、女性による、女性のための食エッセイ。男が読むと、女性の考えるジャンクフードのイメージが、やはり、男の考えるそれとはちょっと違うらしいことがわかってくる。
 取り上げられている食べ物は次のようなもの。なお、その食べ物が男にとっての(というか、私にとっての)ジャンクフードに該当するかどうかも、コメントする。

 まずはハンバーガー。ジャンクフードの代表だな。ポテトチップス、チョコレートチップクッキー、ピーナッツバター、ポップコーン、アイスクリーム。このへんは、まあ間違いないだろう。みんな、いかにも太りそうな食べ物だ。
 しかし、ベーグル、パンプキンパイ、クラムチャウダー、アップルパイ、バナナブレッド、サンドイッチ、とくると、疑問がわく。パイはともかく、他のは普通の食事では?
 続いて、ピッツァ。これは間違いない。次のコーンズシ、って何だ? ハワイで稲荷寿司のことをこう呼ぶそうだ。でも、稲荷寿司はジャンクフードか?
 と、こんな調子。本書には48種類の食べ物が出てくるので、いちいちは書かないが、いかにもジャンクっぽい、という食べ物は、これ以降に出てくるものとしては、ウィンナーソーセージ、クリームソーダ、綿菓子、シェイク、フライドチキン、餡ドーナツ、ゼリー、くらいか。 オムライス、コロッケ、餃子、たこやき、グラタン、カリフォルニアロール、焼きそば、おでん、などは、ジャンクフードというより、B級グルメという方がぴったり来る気がする。
 どうもジャンクフードというと、どっちかといえば「品のない食べ物」というイメージがあるので、レモンメレンゲパイ、チーズケーキ、チェリータルト、クリスマスケーキ、シュークリーム、あたりになると、ちっともジャンクじゃないじゃないか、という気がする。著者にとっては、食べると太りそうな甘いものは、全部ジャンクフードなのか。
 また、カレーライス、おにぎり、たまご焼き、などは、やはり普通の食事だろう。おせち料理に至っては、よく理解できない。
 結局、自分が好きなものを並べただけじゃないか、という印象である。文章がまた、食べる喜びに満ちあふれていて、陶酔感すら漂っている。この食べる幸福感に満ちた文章も、ジャンクフードのイメージじゃないだろう。ジャンクフードというのは、もっとぎとぎとしていて、どこか罪悪感を抱きながらむさぼるものじゃないのか。
 要は、ただの食べ物エッセイ、というのが本質。たまたま、冒頭にジャンクフードっぽいものが続いていたので、こういうタイトルにしただけではないかと。しかし、このタイトルのつけ方はうまい。上にも書いたように、明らかに女性読者を想定した本だが、男性が読むと、女性の食べ物に対する感性がよくわかる。

 つい最近(2009年9月)、文庫版(文春文庫)も出た。

きらめくジャンクフード

 

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2009年10月 9日 (金)

館島

館島/東川篤哉(創元推理文庫,2008)
 綾辻行人の「館シリーズ」のパロディかとも思われる、ギャグタッチのミステリである。単行本は2005年発行。
 舞台となる「館」は、岡山でのみ有名な天才建築家、十文字和臣が、瀬戸内海に浮かぶ横島に建てた別荘。六角形で中心に巨大な螺旋階段があり、屋上に四つに区切られたドームがあるという、奇妙な建築である。館の名称はない(このことが実は重要な意味を持っていることが、最後にわかる)。時代は1980年代に設定されていて、岡山と香川を結ぶ瀬戸大橋がまだ建設中、横島はその瀬戸大橋の下になる予定、という設定である(そのことにも意味があることが、最後にわかる)。
その別荘で、主である十文字和臣自身が急死する。墜落死であることは確実だが、どこからも落ちたことがないという謎の死であり、警察が捜査するも真相は一向に解明されない。
 事件が迷宮入りしたままの7ヶ月後、十文字和臣の未亡人は、独自に事件の解明をもくろんで、墜死事件の時に滞在していた関係者たちを再び別荘に呼び集める。さらに、遠い親戚にあたる刑事と女私立探偵も――。
 そして、再び館で殺人が起こる。そうでないと話にならないのだから当然である。しかも密室状態での殺人と、またしてもあり得ない場所での墜落死。
 物語の中心になるのは、岡山県警の刑事である相馬隆行、私立探偵の小早川沙樹、招待客の一人で地元の議員の娘、野々村奈々江。この3人が謎に挑むわけだが、相馬隆行は的外れな言動ばかりするお調子者かつ粗忽者で、小早川沙樹は傲慢で粗暴な上に飲んだくれ、野々村奈々江は天然ボケのお嬢様である。
 ほぼ全編、この3人を中心とした、間の抜けた会話とどつき合い(というか、相馬が一方的にどつかれているのだが)の連続で、その合間に事件がちょこちょこ起こるという具合。これで話が進むのかと思うのだが、それでもちゃんとストーリーは展開し、推理が繰り広げられていくのは、ある意味大したもの。
 もっとも、ギャグの部分をカットすればページが3割は減るのではないか。それだと全然おもしろくなくなるだろうが。
 最後は、小早川沙樹が一応探偵役を全うして、殺人事件の犯人と、十文字和臣墜死事件の真相まで解き明かす。すべての鍵は、この奇妙な建物にあったのだ――。
と、とりあえずミステリらしく終わるのだが、なんなのか、このトリックは。建物がああなってこうなっていたなんて。これ自体が壮大なギャグではないのか。感心するべきか、あきれるべきか、怒るべきか、よくわからない。こう感じること自体が、著者のペースにはまってしまっているのだろう、多分。

館島 (創元推理文庫)

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2009年9月18日 (金)

朝茶と一冊

朝茶と一冊/出久根達郎(文春文庫,2000)
 古本屋主人にして直木賞作家、出久根達郎のエッセイ集。単行本は1996年。
 前に紹介したこの著者の『本の気つけ薬』(2009年4月3日)は、明確に本をテーマにしたエッセイ、論説、書評を集めたものだったが、今回の本は、単に「エッセイ集」としか呼びようがないものである。
 ただ、古本の話は多い。
 古本についてのエッセイというと、北原尚彦の『奇天烈!古本漂流記』(2007年3月22日のエントリー)みたいに自分が出会った奇本、珍本の数々を紹介するものや、岡崎武志の諸作みたいに、古本屋巡りの魅力を熱く語るものが思い浮かぶ。が、この本はそういうマニア系の本とは少々違う。
 では、読む側、あるいは買う側と、売る側との違いなのかというと、そうでもない。
 もちろん、古本屋を営む上で経験した数々の出来事が、この本に収録されたエッセイの多くのネタ元になっているのは間違いない。
 だが、そうしたエッセイは古本や古本屋そのものを語るのが目的ではない。そのへんが、『本の気つけ薬』や、古本マニアたちの著書との違いなのである。古本や古本屋にまつわることは、話を引き出す触媒にすぎないのだ。
 では、何を語るのかというと、はっきりいって、決まってない。明解な主旨がある場合もあれば、ない場合もある。普通のエッセイというのはそういうものなのだ。
 例えば最初の1編、「その手は桑名」の冒頭。自分にとっての「しあわせ」とは何かを、ゆったりとした調子で語っている。朝、気持ちよく目ざめて、一杯の朝茶があればいい。それと、茶うけとして、一冊の本。「私にとって、しあわせとは、一杯の朝茶と、一冊の面白い本、このセットの確保である」
 本書のタイトルはもちろん、この部分から来ている。
 実はこの部分はマクラで(と呼ぶにしては全体の4割くらいあるが)、その後、「さて、けさ、私の手元にある一冊は、『騙す人ダマされる人』という本である」と、本の紹介が始まる。しかしそれだけで終わるのではなく、ダマされる話つながりで、著者の奥さんが古本屋の店番をしていてちょっとした詐欺に遭ったエピソードを語る。ここでやっと、「その手は桑名」というこのエッセイのタイトルに結びつくわけである。
 で、このエッセイ、おもしろいことはおもしろいのだが、結局何を言いたいのかよくわからない。本の話が真ん中に入っているが、本の紹介が主目的とは思えない。タイトルはだまされること(またはだまされないこと)に関係があるが、その話は最後の方にちょっと出てくるだけ。最初の「私のしあわせ」の話はどこへ行ってしまったのだろう,,,。
 他のエッセイもこんな感じで、様々な本、時には映画などを取り上げながら、話題はあちこちに飛び、テーマはあるともないとも判別がつかない。まさに「随筆」というべきか。
 実はこれは日本の伝統にきわめて忠実な、オーソドックスなエッセイの書き方ではないだろうか。まあ、難しいことは何も考えず、古本屋のオヤジさんが語るよもやま話に耳を傾けるようなつもりで、楽しめばいいのだろう。

 蛇足ながら、気に入った文章。

 面白がる、この精神である。近頃の本はあまり面白くない、とこぼす人が多いが、そういう人は面白がろうとしない。面白がる気がなければ、本なんて面白くないものなのである。(「面白がる」) 

 もうひとつ。

 著者は面白がって本を書くべきで、そうでないと面白い本ができるはずがない。(同)

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2009年9月15日 (火)

夜中の乾杯

夜中の乾杯/丸谷才一(文春文庫,1990)
 丸谷才一の本については、これまで日本語論やミステリについてのアンソロジーを紹介してきたが、今回のは普通のエッセイ。単行本は1987年発行。
 この「普通のエッセイ」がいいのだ。普通と言っても、丸谷才一の普通。序文によれば、「夜中の乾杯のまへ数時間のあひだ、友達にしやべるやうな話のかずかずである」のだそうだ。いかにも気軽に書いているようで(実際にそうかもしれないのだが)、普通の人が普通に書けるものではない。
 
 本書の内容だが、特定の人物を取り上げ、その人物に関する蘊蓄や話題をメインにしたエッセイが多い。
 歴史上の人物なら、貝原益軒、田崎草雲(幕末の画家)、ケインズ、ココ・シャネル。有名人だけでなく、海賊ミッソンとか、アメリカの禁酒運動のリーダーだったキャリー・ネイションとか、言語学者松下大三郎とか、あまり有名でない人物も出てくる。この人物の選定が、いかにも通好みである。
 現代人なら、和田誠、城達也、吉行淳之介、山本夏彦など、著者が直接交友のある人物。
 あるいは、「ヒゲ」とか、「帽子」とか、「駅弁」とか、「戒名」とか、特定の話題に関するエッセイでも、だいたい歴史上の人物が出てきたり、著作が引用されたりする。「ヒゲ」ならチャップリンにサルバドール・ダリ。「帽子」については、歴史学者の坂本太郎(「日本人はなぜ帽子をかぶらなくなったか」について書いた文章があるそうだ)。「駅弁」ではなぜか中国の大作家周作人。「戒名」では足利尊氏に近藤勇、といった具合。
 総じて、ペダンティックだが、嫌みさがない。ごく自然に知識がわき出してくる感じで、こういうエッセイが書ける人はあまりいないだろう。もちろん、全文が著者の文章の特徴である旧かなづかいで書かれているのだが、そんなことは全然気にならない。

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2009年9月 9日 (水)

異戦大坂の陣

異戦大坂の陣 一~四/中里融司(歴史群像新書,2006-2007)

 この作品の著者、中里融司は今年の6月に52歳で亡くなった。歴史小説的リアリズムよりもエンタテインメント性を重視し、オタクっぽい雰囲気の濃厚な、別の見方をすればかなりムチャクチャな架空歴史小説に、独自の世界を切り開いていた作家だった。ライトノベルやマンガの原作、戦史ものドキュメンタリーと、手がける分野は多岐にわたり、作品数も多かった。

一 表裏比興の総大将
 「大坂の陣の時、もし真田昌幸が生きていたら」という設定の架空歴史小説である。
 史実では、真田昌幸は大坂の陣が始まる3年前、1611年に死んでいるが、この作品では、それは徳川方をたぶらかすための謀略。真田昌幸が本当に死んだかどうか確かめに来た徳川方の伊賀忍者たちが墓をあばくと、「この真田安房が身罷りしこと、要するに、真っ赤な嘘に候。墓を暴きに来られた隠密諸士、大儀大儀」などという、徳川家康宛のふざけた挑戦状が入っているのを見つけるところから、話が始まる。
 うろたえる伊賀忍者たちの前に登場するのが、真田家の誇る忍者、霧隠の才蔵たち。中里融司は真田十勇士が大好きだったらしく、前に紹介した『戦国覇王伝』(2009年1月28日~29日)にも十勇士が登場して人間業とは思えない暗躍をしていた。この作品では十勇士ではなく「真田十傑士」と称しているが、中味は大差ない。「真田十傑士」の操る忍法が、魔術妖術、あるいは超能力としか思えないのも、『戦国覇王伝』と同じだし、何人かが女性化しているのも共通している。この作品では、由利鎌之助が「鎌鼬のお百合」、望月六郎が「望月のお六」、海野六郎が「海野のお六」、三好伊三入道が「三好の漁(後に伊三と改名)」と、4人も女性化しているのだった。
 それはともかく、実は生きていた真田昌幸、「十傑士」の活躍で伊賀忍者たちの妨害をはねのけ、豊臣家を助けて徳川と一戦するため、大坂城に入る。息子の真田信繁も、「幸村」と改名して父の後に続く。真田信繁が途中で幸村と改名するのも、中里融司の作品のお決まりパターン。
 大坂城での、名将真田昌幸の存在感と知略は圧倒的で、おまけに、この種のシミュレーション小説ではありがちだが、淀殿(本作での呼び名は「淀の方」)も豊臣秀頼も、異常にものわかりがいい。真田昌幸は総大将をまかせられ、大坂の陣はタイミングこそおおむね史実どおりに開戦するが、始まった時からその様相を変えることになるのである。
 大坂方は史実よりもはるかに積極的に、かつ効率的に動く。いち早く堺を占領して兵站を確保する一方で、大坂城外堀のさらに外側にいくつもの出丸を築き、戦いを優勢に進める。焦った徳川家康は、「冬の陣」の史実どおり、大坂城に大砲を撃ち込み、和議を迫る。
 それを罠と知った上で、あえて和議に応じる昌幸、これまた史実どおりに、家康が内堀まで埋めにかかるのを読んでいる。で、停戦からわずか七日後、徳川方が内堀の埋め立てに取りかかったところで、約定破りとして再び開戦するところで、第1巻は終わり。
 サブタイトルは、真田昌幸を「表裏比興の者」と読んだ石田三成の書状から来ている。魔道士のような妖しい活躍ぶりを見せるこの作品の真田昌幸にふさわしい。

異戦 大坂の陣〈1〉表裏比興の総大将 (歴史群像新書)

二 豊臣の大反攻
 豊臣家を罠にはめたつもりが真田昌幸の策にはまり、「盟約破り」を口実に猛攻をしかけてくる大坂勢に押されまくる徳川方。なにしろ、半分はすでに帰路につき、残りの大半も大坂城の堀埋め立て作業中で、戦の支度など全然できてない。家康は即座に退却を決断する。
 余勢をかって豊臣勢は京都に進軍、真田幸村らの別働隊は、大和、伊賀を通り抜けて伊勢に侵入し、桑名城に迫る。豊臣秀頼は占領した(というか、豊臣家が奪回した)伏見城に入って天下人になったことを宣言。さらに江戸に潜入した霧隠、猿飛ら「十傑士」は大火を起こして幕府の後背を脅かす。もうやりたい放題の感がある豊臣勢である。
 相変わらず、豊臣方諸将は、史実よりもはるかに有能で、かつものわかりがいい。淀の方に至っては、秀頼の伏見城入りに反対したものの、真田昌幸と秀頼本人に説得され、自分の不明を悟って出家してしまう。人間ができすぎている。
 一方、徳川方は、無策ぶりをさらけ出して討ち死にしたり敗走したりする無能者揃い。ここまで極端にしなくても…。

三 家康の逆襲
 第二巻までで近江西部、伊勢までを押さえた豊臣勢。今度は西に兵を向け、主力軍5万が、池田家の姫路城を攻める。
 この巻一番の見せ所は、「広島城の場」か。
 姫路・岡山を領する池田家は、西国で徳川方にもっとも忠実な大名。池田家の使者が福島家の領土、広島に乗り込み、池田家に従って大坂を攻めろと脅迫まがいの要求をしているところ、大坂勢姫路に迫るとの急報が入る。一刻の猶予もならないと、ますますいきり立つ池田家の使者―。ところがそこへ突然現れたのが、江戸に軟禁されていて、先日の火事で死んだはずの前領主、福島正則。池田家の使者二人を、いきなり素手で殴り殺してしまう。マンガみたいなシーンである。関ヶ原で徳川についたことを後悔しまくっている福島正則は、家臣一同に檄を飛ばし、豊臣方について参戦することを宣言するのだった。
 ところで、一旦は退却した徳川勢だが、もちろん引っ込んだままでいるはずがなく、再び攻勢に出る。東日本の大名たちを糾合して大軍を集め、大坂に向けて再征を始め、伊勢方面では、真田幸村らが占領した桑名城に、海路大軍を送りこんで攻囲する。しかし、桑名城はしぶとく籠城を続けるし、徳川主力軍の動きは、真田昌幸がすでに読んで何やら策謀をめぐらしているらしいし、豊臣家が窮地に陥った、という印象はあまりない。サブタイトルのわりに、大した逆襲と思えないのだ。
 「絶体絶命の危機感の欠如」が、本シリーズの弱点と言えば弱点だろう。何しろ、一番の危機であった「大坂城の堀埋め立て」は、第一巻でクリアしてしまっているのだから。
 あと、忘れてはならないのが、中里融司作品に欠かせないキャラクター、伊達政宗(笑)。主役級だった『戦国覇王伝』に比べると出番は少ないが、危ない性格は変わらない。「そうじゃな。最上殿あたりでどうじゃ」の一言で、隣国の最上家を「上様」に対する謀反人と決めつけて攻めることに決めてしまう。「上様」が徳川家なのか豊臣家なのかもはっきりさせないまま。呆れながら相手をしている片倉景綱もいい味を出している。ちょっとしか出てこないのが惜しい。

四 天竜大決戦
 最終巻。豊臣家主力軍が姫路・岡山の池田家を攻めている隙をついて、名古屋に集結させた大軍を出発させ、近江に迫る徳川家康。しかしそれすらも、真田昌幸一世一代の壮大な戦略の中で予想されていることなのだった。この作品の真田昌幸は、ほとんど諸葛孔明並の大軍師になっている。
 結局、大坂に残った留守舞台を攻めるはずだった徳川家康は、予想をはるかに上回る大軍となった豊臣の主力部隊と、天竜河畔で決戦をすることになる。徳川軍も大軍だが、関東では豊臣方に寝返った伊達・上杉連合軍が江戸を攻めていて、後がない。文字どおり背水の陣である。
 というわけで、このシリーズのクライマックスとなる天竜河畔での東西両軍の決戦が繰り広げられるのだが、この戦い、奇策を使わずに正面からの戦いに終始する。(中里融司にしては)まとも過ぎて少々意外。
 最後は、だいたい予想どおりの展開になって全巻の終わり。
 全体として、新基軸や意外な展開は見あたらず、良くも悪くも、いかにも中里融司らしい架空歴史小説になっている。後半、やや駆け足の印象もあるが。
 著者のおそろしく読みやすい文章と、この手の小説には珍しいくらい個性のある登場人物たちのおかげで、多少のマンネリも気にならないくらいおもしろいことは確か。著者がまだまだ活躍できる年齢で急死したことが惜しまれる。

異戦 大坂の陣〈4〉天竜大決戦 (歴史群像新書)

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2009年8月27日 (木)

イギリス女流怪談集

鼻のある男 イギリス女流作家怪奇小説選/梅田正彦編訳(鳥影社,2006)
 英米の女流作家による怪奇小説のアンソロジーとしては、『淑やかな悪夢』(2007年9月30日のエントリーで紹介)があるが、あちらはイギリス、アメリカ両方の作家が含まれていたのに対し、本書はイギリス作家に限定。しかしコンセプトとしてはよく似ている。収録作品の年代も19世紀後半から20世紀前半まで、というのも共通。
 違うのは、このアンソロジーは聞いたことのない作家がほとんどということ。おまけに『淑やかな悪夢』が、倉阪鬼一郎、南條竹則、西崎憲という怪奇小説の世界では有名な作家・訳者・評論家たちが編者をつとめているのに対し、こちらは編訳者も聞いたことのない人。おまけに出版社もマイナー。とにかくどこまでもマイナーなイメージのアンソロジーである。

 表題作「鼻のある男」(ローダ・ブロートン)は、奇妙なタイトルだが、原題The Man with the Noseの直訳。"the Nose"と、「鼻」に定冠詞がついているところが意味深。特徴的な「鼻」を持つ男の影につきまとわれる人妻の話である。その男は彼女にしか見えず、この手の話のパターンどおり、夫がまったく無理解。自分の見た男に「鼻があった」と訴える妻の話に、「鼻がなかった方がこわかっただろうね」と笑い飛ばし、すべて妻の妄想で片づけようとする。当然ながら、最後は誰もが予想できるような悲劇的結末になる。「鼻」にフロイト的な意味を読み取ろうとするのは、読者の自由だろう。
 「すみれ色の車」のイーディス・ネスビットは、児童小説『砂の妖精』で有名。一般的には、収録作家中で一番有名かもしれない。ただし、怪奇小説も書いていたことはあまり知られてないだろう。1910年に書かれたこの作品は、「自動車怪談」のはしりのようなもの。
 「このホテルには居られない」(ルイザ・ボールドウィン)。ホテルのリフト係をしている男の一人称による、様式どおりの幽霊話。収録作の長短に極端に差があるのがこのアンソロジーの特徴の一つで、これはショートショートに近い。「リフト」はもちろんエレベーターのイギリス英語だが、アメリカ人はなぜリフトという短い言葉を使わずに、長ったらしく「エレベーター」なんて言うんだと、語り手が文句を言ってるのがおもしろい。著者はイギリスの名門の夫人で、息子はイギリス首相にもなった。キプリングは甥に当たるのだそうだ。
 「超能力」(D・K・ブロスター)は、タイトルから想像できるのとは全然違う話。タイトルにしても、原題は"Clairvoyance"だから、「千里眼」とでも訳す方がいいのではないか。どっちにしても、その種の特殊な能力が活躍する話ではない。霊感の鋭い少女が呪いの日本刀に取り憑かれ、日本語を口走りながら刀を振り回して大惨劇を繰り広げるという話。1932年の作品。日本刀や鍔についての蘊蓄が語られるのが珍しい。
 「赤いブラインド」(ヘンリエッタ・D・エヴェレット)は、幽霊屋敷もの――と見せて、実は時を超えた怪現象を巡る話で、一種の時間SFとも見ることができる。まあ、幽霊屋敷話としても、けっこう怖いのだが。
 「第三の窯」(アミーリア・エドワーズ)は、磁器工場を舞台に、三角関係がもたらしたおぞましい犯罪と怪異現象の物語。リーアという娘を巡ってジョージとルイが争い、ジョージが謎の失踪を遂げる。語り手の前に、ジョージが炎をまとった亡霊として姿をあらわすシーンがクライマックス。事態の真相は示唆はされるが、最後まで明らかにされない。宙に浮いたような終わり方が、かえって奇妙な余韻を残す。収録作の中では一番古く、1865年(江戸時代だ!)の作品。この著者の作品は『淑やかな悪夢』にも収録されている。
 「幽霊」(キャサリン・ウェルズ)。著者はあのH・G・ウェルズ夫人。主人公は14歳の少女で、家で開かれるパーティーに有名な俳優が招かれるというのに、風邪で寝ていなかればならないのが残念でならない。俳優は余興として幽霊に扮装することになっているのだが、親切にも出番の前に少女のところに特別に来てくれるという。待っている少女の前に現れたのは…。短い作品だが、雰囲気といい、構成と言い、オチといい、よくできている。怪談に関しては、旦那よりうまいかもしれない。
 「仲介者」(メイ・シンクレア)は、収録作中で一番長く、本書のページ数の3分の1くらいを占めている。著者も怪奇小説アンソロジーに何度も顔を出していて、本書の中では比較的有名。『淑やかな悪夢』にも登場しているのは、上のエドワーズと、この人だけ。
 歴史研究家のガーヴィンが仕事のため下宿することになったファルショー家には、暗い秘密がまとわりついていた。ある夜、ガーヴィンは、この家にはいないはずの、子供の泣き声を聞く…。幽霊話かと思ったら―いや、確かに幽霊話ではあるのだが―、どろどろとした愛欲の渦巻く人間ドラマの話になっていく。ガーヴィンははからずも幽霊と因縁の家族との「仲介者」の役割を果たすことになり、これが題名になっている。暗い話なのだが、読み応えは収録作中でも群を抜いているし、結末は感動的。怪奇小説ではなく、純粋に小説として評価できる。
 というわけで、ベスト作品はこの「仲介者」。次に「幽霊」か。

鼻のある男―イギリス女流作家怪奇小説選

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