ちょっと前に読んだ本

2021年1月14日 (木)

『指輪物語』を創った男

トールキン 『指輪物語』を創った男/マイケル・コーレン;井辻朱美訳(原書房,2001)
 早いもので、映画『ロード・オブ・ザ・リング』が公開されてからもう20年になる。ブログ主のような年寄りには、ついこの間のように思えるのだが…。
 本書は、その映画公開の年に出た本で、明らかな便乗出版。原著も同じ年に出版されているので、そもそも最初から便乗出版なのである。
 それをまたなんで今頃(読んだのは去年)になって読んだのかというと、若き日のJ・R・R・トールキンを主人公にした映画『トールキン』を去年見たのが理由のひとつ。(もうひとつの理由は、近所の図書館にあったから。)
 実のところ、その映画の原作かとも思っていたのだが、実際は全然違っていた。
 映画の方は、トールキンの少年時代から青年時代、第一次世界大戦の戦場での悪夢のような体験を経て、『ホビットの冒険』を書き始めるところで終わっている。つまり映画はトールキンの生涯のごく一部だけを切り取っているのに対し、本書はトールキンの全生涯を語る正統派の伝記である。主要作品についても多くのページを割いている。
 ただし、文字は大きいし、ルビは多いし、見かけは中高生向けの本のように見える。訳者はファンタジー翻訳の第一人者井辻朱美だから、訳文はしっかりしている。

 内容は、いかにもオーソドックスにトールキンの出生から始まる。映画で描かれたようなグラマースクールでの友人関係や第一次世界大戦での体験はごくあっさりと片づけられ、メインになるのは大学教授としての生活と交友、そして『ホビット』と『指輪物語』について。
 中でも、第5章「『指輪物語』」は、12年をかけた『指輪物語』の完成と出版、そして空前の成功について語っていて、やはりこの章が本書のハイライトなのだろう。
 逆に言うと、作品が伝記のハイライトになるくらい。トールキンの人生には劇的なところはほとんどないのである。「まことに教授らしい教授」としてオックスフォード大学に勤め、家庭ではよき夫であり父であった――穏やかで恵まれた人生だったとしか言いようがない。
 だがそんなトールキンにも老いは忍び寄ってきて、最愛の妻エディスが先に死んでしまう。エディスの墓碑には「エディス・メアリ・トールキン、1889-1971、ルシエン」と刻まれた。
 そしてエディスに遅れること2年、トールキンも死去。エディスの下に彼の名と「ベレン」の名が追加で刻まれる。
 ルシエンもベレンも『シルマリルの物語』に出てくる恋人たちの名。「壮大な神話の愛が、トールキンと妻のエディスによって血肉化されたわけである」と、本書は語っている。
 ドラマ風の劇的なできごとには欠ける生涯だったかもしれないが、トールキンの人生を語るこの本は、最後をささやかだが感動的なエピソードで締めくくっていた。

Tolkien

 

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2021年1月10日 (日)

蔵書一代

蔵書一代 なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか/紀田順一郎(松籟社,2017)
 本書は、「永訣の朝」と題した序章から始まる。書き出しからして、痛切な悲哀感に満ちている。

 いよいよその日がきた。――半生を通じて集めた全蔵書に、永の分かれを告げる当日である。

 妻と二人、マンションに引っ越すことになった著者は、3万冊を超える蔵書を手放すことにしたのである。新居に持って行くのはわずか600冊。今までの蔵書に比べると無に等しい。
 この時(2017年)、著者は82歳。年をとって大量の蔵書を抱えておくことには限界がある。紀田順一郎も年には勝てなかった。それにしても、この序章のトーンはあまりに悲痛である。
 続く第1章からは、比較的冷静に、日本の個人蔵書の歴史を、読書・出版事情の変化に即して、また自身の体験をまじえて語っていく。それは日本の「読書文化」、「蔵書文化」の興亡の歴史でもある。

 第Ⅰ章「文化的変容と個人蔵書の受難」は、個人史が半分。それは増殖する蔵書との苦闘の歴史でもある。だが、岡山に設けた書庫・書斎で、著者は束の間の安息の日々を得る。その岡山の書庫も、やがて諸事情から手放さざるを得なくなるのだが。
 第Ⅱ章「日本人の蔵書志向」は、日本の個人蔵書の歴史。図書館の歴史と蔵書とのかかわり、出版・古書界の変遷についても述べる。いわば著者のもっとも得意とする分野。「蔵書」と「コレクション」の違いについて述べたあたりはさすがの卓見と見た。
 第Ⅲ章「蔵書を守った人々」。江戸川乱歩の蔵書が立教大学に譲渡された経緯を述べるのが主な内容。個人蔵書を完全な形で残すことが難しい日本では、実に幸運なケースである。その稀な例を語ることで、逆に蔵書を次代に残すことの困難さを強調している。
 第Ⅳ章「蔵書維持の困難性」では、再び著者の体験をまじえながら、蔵書の活用・保存方法とその困難さを語る。著者が挙げる蔵書活用法は、例えば「一箱古本市」、「集合書棚(シェア・ライブラリー)」、自宅開放図書館、寄贈など。
 いずれにしても状況は厳しいが、著者は最後に「日はまた昇る」という言葉を掲げて希望を保とうとする。しかしやはり現実はきびしいのである。
 本書の最後は、小説風のこんな文章で締めくくられている。

 私は地下鉄神保町駅の階段を、手すりにすがりながら一段一段おりた。この階段をおりるのも今日が最後と思ったとき、足下から何かがはじけた。

 本とともに人生を歩んできた人にとっては(ブログ主も一応そのはしくれではあると思う)、身につまされる内容の本である。

Zoushoichidai

 

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2021年1月 6日 (水)

ラッフルズ・ホーの奇蹟

ラッフルズ・ホーの奇蹟(ドイル傑作集5)/コナン・ドイル;北原尚彦、西崎憲編;北原尚彦ほか訳(創元推理文庫,2011)
 以前に本ブログで、この創元推理文庫版<ドイル傑作集>の2冊目にあたる『北極星号の船長』という短編集を取り上げたことがある(2013年8月30日のエントリー)。そっちの方は怪奇小説を集めた一冊だったが、本書はドイルのSF短篇を中心に収録している。
 中身は知らない作品ばかり8編。SFだけでは一冊分に足りなかったのか、どう見てもSFとは呼べないような作品も入っている。

「ラッフルズ・ホーの奇蹟」
 全体の半分近くを占める長い中編。イングランド中部の田舎町タムフィールドに突然やってきた謎の大富豪ラッフルズ・ホー。無限に湧き出る富を惜しげ無く人々に分け与えるが、そのために地域の人々は堕落し、人生を狂わせる。ラッフルズ・ホーと偶然知り合ったロバートとローラの兄妹を通して、ホーの慈善とその挫折を描く。ホーの富の源泉が、元素変換技術――文字通りの錬金術だったというところがSF。
「体外遊離実験」
 科学者と助手の青年が魂の離脱実験をしたところ、二人の心が入れ替わってしまう。二人がしばらくの間それに気づかず行動したために大混乱が起きる、というドタバタ劇。しかし自分の体でないことに、なぜすぐ気づかないのか不思議。
「ロスアミゴスの大失策」
 世界最大の発電所を誇るロスアミゴスの町で、一人の悪人が死刑になる。処刑方法は、発電所の最大電力を使った電気ショック。しかし電気エネルギーを吸収した男は不死身になってしまうという、ブラックなコメディ。本作が発表されたのは1892年で、アメリカで初めて電気椅子による死刑が執行されてから2年後。発表当時は時事ネタだったのだ。
「ブラウン・ペリコード発動機」
 飛行機械を巡る発明家二人の争いの果てに、一人が殺される。せっかく完成した飛行機械は、死体を人知れず処分するために使われるのだった。1892年の作品で、ライト兄弟による飛行機が初飛行に成功する11年前。しかし本作に出てくるのは羽ばたき式飛行機。
「昇降機」
 600フィートの高さにそびえる展望塔に昇って行く昇降機。しかし気の狂った技師が昇降機を途中で止め、ワイヤを切ろうとする。乗客の必死の脱出劇を語るスリリングな話。しかしSFではない。
「シニョール・ランベルトの引退」
 嫉妬深い男が、妻との浮気相手だと疑ったオペラ歌手の喉を手術で傷つけ、声をだいなしにしてしまう。それだけの話。医学がからむ話ではあるが、SFではない。
「新発見の地下墓地」
 考古学者が、自分の発見したローマの地下墓地に、恋人を奪った男を誘い入れ、二度と帰れない迷宮の奥に放置するという復讐譚。これも一種のミステリであって、SFではない。
「危険!」
 1914年、第一次大戦の勃発直前に発表された未来戦記。潜水艦による通商破壊作戦の脅威を警告している。わずか8隻の潜水艦しか持ってない小国とイギリスが戦争し、イギリスに食糧を運ぶ輸送船が次々と撃沈される。結局、兵糧攻めでイギリスがギブアップしてしまうのである。現実には、第一次世界大戦時のイギリスはドイツのUボートによる津相破壊作戦に耐え抜いている。いくらなんでもそんなことになるはずがないのである。しかし話としては面白い。

 というような内容で、SF短編集というにはやや疑問が残るのだが、バラエティに富んだ作風が楽しめるという点では、値打ちがあるかもしれない。マイベストは「体外遊離実験」。ドイルがこんなマンガみたいな話を書いていたのが意外。

Raffleshaw

 

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2020年12月28日 (月)

カミュ『ペスト』

ペスト/アルベール・カミュ;宮崎嶺雄訳(新潮文庫,1969)
 今ではこの本について感想を書いている人は山のようにいるのだろうが、この2020年という年を象徴するような1冊として、今年の本ブログの最後に取り上げることにする。
 言わずと知れた疫病文学の古典。
 ブログ主はこの本をずいぶん前から持っていたが、積ん読のままだった。今年の3月、新型コロナウイルスの世界的流行(パンデミック)というこの時期こそ、読むのにふさわしい本だと思い、初めて読んでみたのだった。
 この本の新版が書店にどっと並び始めたのは、その後のことである。それを見た時は、「やっぱり…」と思ったが。
 ただ、この作品の場合、ペストが流行するのはオランという一都市内だけだから、「パンデミック小説」とは言えないが。

 オランは、アルジェリア北岸に築かれたフランスの植民都市。本書の描写を読む限り、住んでいるのはフランス人を中心とするヨーロッパ人だけで、現地民であるはずのアラブ人やベルベル人については何ひとつ書かれてない。それはそれで気になるところではあるが、さしあたり物語の本筋とは関係ない。
 ペストは静かにこの都市に忍び寄ってくる。最初は鼠の大量死。そして散発的に起きる住民の突然死。次第に増える死者、これはペストではないかと医師たちがついに認めるのが序盤。
 ペスト汚染地区と認定されたオランの町は、政府によって閉鎖される。ここからが本当の物語。伝染病とともに都市内に閉じ込められた住民たちの苦闘を、一人の医師の眼を通じて描いて行く
 この小説は、その医師ベルナール・リウーが、すべてが終わった後に書いた手記という設定になっている。(そのことは最後の最後になってわかるのだが。)
 務めて記述に客観性を維持しようとするリウーは、彼自身の内面をあまり描こうとしない。まして、他人の内面に立ち入ることもない。ただ、果てしなく続くペストとの闘いの日々が、感情を押さえた乾いた筆致で描かれていく。
 そのリウーに協力するのが、もう一人の主人公と言うべきジャン・タルー。事態が始まる数週間前にオランにやってきた金持ち。最初登場した時はかなり得体の知れない人物だが、献身的にリウーたちの医療活動を補助する。そして終盤で自らもペストに倒れる。
 印象的な登場人物がさらに二人いる。新聞記者のランベールと、犯罪者で自殺志願者のコタール。彼らもまた、それぞれの事情を抱えながらも、ペスト蔓延という事態の中で、やはり医療活動に協力する。事態が終わった後の二人の運命は対照的だが。
 本書には女性の登場人物がほとんど登場しない。それがかえって物語全体にストイックで引き締まった印象を与えている。

 本書は疫病小説であっても、パニック小説ではない。病に襲われた者の恐怖や悲哀、あるいはペストに立ち向かう者の勇気や使命感などは、きわめて抑制的に表現されている。はっきり言ってストーリーらしいストーリーもない。そこにかえって疫病のリアリズムが感じられる。
 本書の一節に、次のような文章がある。

 みずからペストの日々を生きた人々の思い出のなかでは、そのすさまじい日々は、炎々と燃え盛る残忍な猛火のようなものとしてではなく、むしろその通り過ぎる道のすべてのものを踏みつぶしていく、果てしない足踏みのようなものとして描かれるのである。(p.214)

「果てしない足踏み」。これこそ、今の日本を予言する言葉のような気がする。まあ、致死性という点では、新型コロナウイルスは本書のペストとは比べものにならないだろうが、対策が空回りしているような今の事態をよく言い表している気がするのだ。

Pest

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2020年12月25日 (金)

20世紀モノ語り

20世紀モノ語り/紀田順一郎(創元ライブラリ,2000)
 いわゆる「事物起源」の本。
 タイトルには「20世紀」とあるが、実際には明治以来、19世紀後半~20世紀の1960年代までを扱っている。
 なぜそういう内容になっているかは、あとがきを読めばわかるのだが、それによると、本書の来歴は非常に複雑。
 最初は「明治百年」(1968年)の頃、『小説現代』に連載したコラム「明治百年カレンダー」が元になっている。その連載をまとめて単行本になったのが1980年刊『コラムの饗宴』(なぜこういうタイトルになったのか不明)。
 その後連載時のタイトルに近い『近代百年カレンダー』(旺文社文庫、1985)、さらに『近代事物起源事典』(東京堂書店、1992)として再刊。そのつど増補しているという。
 そして今回大幅な増補改訂を行ったというのが本書。最初の連載時も含めれば、実に5回目の刊行、5番目のタイトルということになる。

 内容は、162の項目を五十音順に並べている。一項目2ページ。最初は「アイスクリーム」、最後は「レコード」。
 取り上げられている項目は当然ながら、明治時代に初めて日本に登場した事物が多い。「赤ゲット」、「映画」、「学校」、「銀行」、「自転車」、「タクシー」、「ネクタイ」、「ボーナス」、「ランプ」など。だが、それ以外にも、明治以降に大きな変化を見せたものも取り上げている。「温泉」、「漢字」、「結婚」、「地震」、「下着」、「住宅」、「心中」、「スリ」、「手紙」、「時計」などである。
 また、「図書館」、「文庫本」、「未来記」などは、いかにもこの著者らしい選び方が見える項目だろう。
 記述はあとがきで著者自身も書いているように、「明治時代の起源の部分に厚く、現代に近づくほど薄くする」形。詳しく書けば本1冊になりそうな項目も多いが、全部2ページにまとめているのは力業と言える。
 ただ、「明治百年」が企画の出発点になっているせいか、年代表記が基本的に元号ばかりなので、西暦に慣れた身には、ちょっと時代感覚を把握しづらい。人によっては、むしろその方がわかりやすいのかもしれないが…。

20seikimonogatari

 

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2020年12月20日 (日)

道半ば

道半ば/陳舜臣(集英社,2003)
 陳舜臣の自伝的エッセイ。「陳舜臣中国ライブラリー」の月報連載が元になっている。
 この本が出た時、著者はすでに80歳近かったのだが、それでもタイトルは『道半ば』。(実際に著者が亡くなったのは、この本が出てから12年後。)
 内容は、自分の半生を23章(章番号はなし)に分けて記述している。

 台湾出身の華僑商人の子として神戸に生まれてから、大阪外国語学校を受験するまでが、最初の6章(「幼い日々」~「舞い落ちる旗」)。
 大阪外国語学校時代を語るのが7章から11章まで。(「太平洋戦争まで」~「炎上前後」)。ちょうど中国での戦争が激化し、ついには太平洋戦争が始まる激動の時代と重なる。言い換えれば、著者が大阪外語学校で過ごしたのは、戦時中の日々だったわけだ。
 その頃、外語学校の一学年下に入学してきたのが福田定一(司馬遼太郎)。学生時代は交友はあまりなかったらしいが、「あの男は話術の天才ではないか」と言われるほど話がうまかったという。
 戦時中ではあったが、著者は戦争に行かずにすむ。著者は外語学校を卒業後も「西南アジア語研究所」(著者はペルシア語専攻)の研究助手として学校に残ったのだが、国立学校の職員は徴兵されなかったのだ。司馬遼太郎とは違って学徒出陣で戦争に行かずにすんだのは、台湾人だから、というのもあったかもしれないが。
 戦争が終わると外語学校の研究所は閉鎖され、著者は仕事がなくなる。何より、日本国籍を失ってしまい、外国人になる。著者は弟と二人、いったん台湾の父の本家に帰ることにする。永住ではなく、日本が落ち着くまでちょっと滞在するつもりだった。
 著者が台湾に帰郷したのが1946年。国籍が変わったのだから当然ではあるが、この時期大量の台湾人たちが日本から台湾へ戻って行った。その中に李登輝もいたことが語られている。著者の友人何既明と一緒の引揚船で帰って来たそうで、とんでもない読書家だったそうだ。
 父親の故郷である台北県の新荘という田舎町で、著者は思いがけずも学校の英語教師をすることになり、3年間勤めることになる。そのへんのできごとを語るのが、12章から17章まで(「戦い終わる」~「過ぎ行く牧歌時代」)。動乱の中で著者が小説への志を抱き始めるくだりもある。
 事態が風雲急を告げ、悲劇の様相を帯びてくるのが、最後のパートにあたる18章から21章まで(「二月二十八日事件」~「さらば台湾」)。台湾最大の悲劇2.28事件が起き、台湾は外省人(台湾語で「阿山」[アスア])による恐怖政治の下に置かれる。知り合いが拘束されたり殺されたりする中、自由思想の持ち主だった著者は自分も身の危険を感じ、1949年に神戸に帰って来る。神戸もやはり「帰って」来るところ。台湾も日本も、著者にとっては故郷なのである。
 最後の2章、「乱歩賞まで」と、「後日譚」は蛇足みたいなもの。しかし年月の長さという点では、台湾から日本に戻ってからの方がずっと長いわけで、本書は自伝といっても、ほぼ若い頃に限られている。「道半ば」というのは、本書の内容が若い頃の話で終わっているという意味だったのか。
 それにしても、本書は自伝にもかかわらず、著者の歴史エッセイを読むのと同じような感覚で読める。日本と台湾にまたがる歴史ドキュメンタリーのような味わいを持っている。自伝ではあっても、歴史的視点を常に保ち続けているあたりは、さすがに陳舜臣なのである。

Michinakaba

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2020年12月16日 (水)

トリック・とりっぷ

トリック・とりっぷ/松田道弘(講談社,1982)
 このところなぜか古本が続く本ブログである。
 タイトルどおり本書のテーマは「トリック」。ではあるが、どうもつかみどころのない本である。
 中身はミステリのトリックと手品のトリックの話が大半。他に、トリックみたいなパズル、詐欺、ジョークの話などが出てくる。つまりいろいろな意味での「トリック」の話がごちゃ混ぜに入っている。
 著者は奇術研究家で、日本推理作家協会会員でもあるとのこと。推理作家協会所属なのに小説は書いておらず(他にも翻訳家などでそういう人はいるが)、他に『トリックものがたり』、『トリック専科』などの著作がある。どれも内容は本書と似たようなものらしい。
 それにしてもこの人、調べてみると著書がけっこう多かった。かなりの年だが(1936年生まれ)、まだ存命らしい。

 本書の内容は、22編の短いエッセイからなっている。元は『小説現代』の連載コラム。
 最初の「ミステリは二度おいしい」は、ミステリというより物語の発想法について。「さかさ桃太郎」を題材に、物語のトリックを語っている。
 次の「技巧的なあまりに技巧的な」は、ボトルシップの話から始まり、上下逆さにしても読める(というか、逆さにして物語が完結する)アメリカの漫画について解説。
 さらに次の「奇智との遭遇」は、詰め将棋とパズルゲームの話。こんな感じでどうもまとまりがないが、なんらかの形で「トリック」につなげるというのは意識しているようだ。後半になるとミステリや奇術の話が増えてくる。
 読みものとしては正直言って平凡なものだが、話のネタにはなりそうな本である。
 なおイラストは、ブルーバックスの挿絵などでなじみのある、懐かしのイラストレーター永美ハルオ。Wikiで調べてみると、この人も90歳近いがまだ存命のようだ。著者もイラストレーターも長生きである。

Tricktrip

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2020年12月12日 (土)

乗り物はじまり物語

乗り物はじまり物語/ブリヂストン広報室編(東洋経済新報社,1986)
 ブリヂストンのPR誌『タイヤニュース』の連載記事を再編集したもの。「乗り物」に関するさまざまな話題を、テーマ別に分けて書いている。
 最初が「車輪」というのが、いかにもタイヤ会社らしい。
 その「車輪」から始まって、1章から5章までは、「荷車」→「駕籠」→「自動車」→「二輪車」という並び。だいたい、道路を通る乗り物の発展の順番になっているようだ。しかも、「駕籠」を除いては全部車輪を使っている。「駕籠」の章はも、後半には「人力車」が登場するし。
 6章から9章は、「鉄道」、「重機」、「船」、「飛行機」と乗り物の種類別。
 そして10章から14章は、「道路」、「隧道」、「並木・駅・橋」、「地図」、「標識・駐車場・免許証」と、インフラや制度関係。最後は「新交通」となっている。
 ――というような内容で、「乗り物はじまり物語」というより、「交通はじまり物語」の方が書名にふさわしいようだ。もっとも、タイトルとしては「乗り物」とつけた方が面白そうではある。
 記述は総合的な解説というより短いトピックの連続。だから体系性はあまりないが、図版が豊富で参考文献も載っており、交通の歴史に関する手軽なガイドブックになっている。内容にPRぽいところがほとんどないのもいい。

 各章の内容は次のとおり。

其之壱 車輪之巻 /其之弐 荷車之巻 /其之参 駕篭之巻 /其之四 自動車之巻 /其之伍 二輪車之巻 /其之六 鉄道之巻 /其之七 重機之巻 /其之八 船之巻 /其之九 飛行機之巻 /其之拾 道路之巻 /其之拾壱 隧道之巻 /其之拾弐 並木・駅・橋之巻 /其之拾参 地図之巻 /其之拾四 標識・駐車場・免許証之巻 /其之拾伍 新交通之巻

Norimonohajimarimonogatari

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2020年12月 8日 (火)

血と薔薇のエクスタシー

血と薔薇のエクスタシー 吸血鬼小説傑作集/幻想文学編集部編(幻想文学出版局,1990)
 国産吸血鬼小説のアンソロジー。Amazonで買うと高いが、普通の古書サイトだとそんなにしないようである。(ブログ主はもちろん普通に古本で買った)
 同じテーマのアンソロジーとして、本ブログでずいぶん前に『血 吸血鬼にまつわる八つの物語』を取り上げたことがある。(2012年11月15日のエントリー)
 そっちの方はホラー/SF寄りのセレクションだったが、それより10年前に出版されたこちらは、さすがに当時の『幻想文学』誌がからんでいるだけあって、やや文学寄り。作者も、エンタメ系よりは文学史に名を残すような作家が目立つ。
 そして、吸血鬼には欠かせない「耽美」の色濃い小説が多い。中には、そんなものと関係ない、あっけらかんとしてポップな新井素子の作品みたいなのもあるが。
 収録作は16編。印象的な作品をいくつか挙げてみる。

 最初はいきなり三島由紀夫。「仲間」は、吸血鬼めいた闇の眷属を象徴的に描く作品で、5ページしかない掌編だが、密度は濃い。
 倉橋由美子「ヴァンピールの会」は、湘南のレストランに自らを「ヴァンピールの会」と称して集う上流の女性たちの物語。フランス風の洒落た、そして退廃的な雰囲気が横溢する怪奇譚。
 須永朝彦「森の彼方の地 」は、「ヴァーミリオン・サンズ」と吸血鬼を結びつけるという離れ業を見せる。作者の吸血鬼愛と、そしてJ・G・バラードへのオマージュに満ちている。
 赤川次郎「吸血鬼の静かな眠り」は、赤川次郎の暗黒面を見せつける怪奇譚。外国人が住んでいたという家を別荘として借りた家族を襲う、怪奇現象とその果ての惨劇。
 新井素子「週に一度のお食事を」は、本書の中では異色作。世の中の人間のほとんどが吸血鬼になってしまうが、精神面は前と同じで、みんなきちんと暮らしているという、実に明るい吸血鬼小説。
 日影丈吉「女優」。ベテラン女優の弟子になった若い女優が、なぜか次々と病気に倒れる。女優は吸血鬼なのか、結局疑惑は疑惑のままで、最後まで真相はわからない。このあたりになると、もはや吸血鬼という言葉は象徴的に使われているように見える。
 戸川昌子「黄色い吸血鬼」も、入院患者から血を抜き取って売る悪徳病院を舞台にした話で、「吸血鬼」は、完全に比喩的な意味で使われている。しかし本物の吸血鬼よりたちが悪いのだった。
 岸田理生「ちのみごぞうし」は、吸血鬼の子どもとして生まれた少年が、父を求めて旅をする話、らしい。全編が象徴と言葉遊びとパロディで構成された、特異な作品。

 他に菊地秀行、星新一、岡本綺堂、都筑道夫、種村季弘、中井英夫など、名だたる作家の名が並んでいる。なかなか贅沢なアンソロジーなのである。

 そんな中でマイベスト作品を選ぶのもなかなか難しいが、もっとも正統派の吸血鬼小説ということで、「吸血鬼の静かな眠り」とする。

Chitobara

 

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2020年12月 5日 (土)

考えの整頓

考えの整頓/佐藤雅彦(暮らしの手帖社,2011)
『暮らしの手帖』に連載された27編のエッセイを収録。連載時のタイトルは「考えの整とん」。(なぜ「とん」がひらがなだったのかはよくわからない。)
 著者は大学教授で、巻末の著者紹介を見ると、「独自の考え方や方法で、映像、アニメーション、脳科学と表現の研究など、分野を超えた活動を行っている」のだそうだ。「ピタゴラスイッチ」を企画した人でもある。これでは専門が何なのか、よくわからない。なんだかユニークそうな人だということはわかるが…。
 そして実は、本書に書いている内容も、何がテーマなのかよくわからない。わからないことだらけである。
 まえがきには、「日常という混沌の渦の中に見え隠れしている不可解さ、特に"新種の不可解さ"を取り出し、書くという事で整頓してみようと思いました」と書いてある。テーマは「不可解」ということなのか。ならば、よくわからないのも当たり前か。
 とはいえ、書いてあることそのものは、別にわかりにくいというわけではない。

 最初の「「たくらみ」の共有」に書いてあるのはこんなこと。
 著者がたまたまテレビで見た大河ドラマの再放送(山内一豊が主人公とあるから「功名が辻」だろう)に見入ってしまった。その原因は、ドラマの中である「謀[はかりごと]」にひきつけられ、自分も一味に加えられたかのように感じたからだった。
 そこから著者は、中学校の時、教師も含めたクラス全体で、父兄参観日にある「企み」を実行したことを思い出す。そして「たくらみの共有」から、日本に乏しくなってしまった一体感が取り戻せないかと考えるのだった。
 ――というような、実になんと言うこともない、日常のちょっとしたことから生まれた、ちょっとした思いつき、ただし、普通の人ならあまり考えない、あるいは気づかないような内容について、1編あたり8ページくらいの短い文章で書いてある。
 わりと面白かったのは、こんなところ――。ただ三角形が並んでいるだけの図から自然と話を作ってしまう「物語を発言する力」。未来の自分へのプレゼントを発見する「広辞苑第三版 2157頁」。やはり簡単な図から人の思い込みと想像力の力を説く「ものは勝手に無くならない」。読者をある条件でどんどん限定していき、条件からはずれた人はこれ以上読まないように指示する「ふるいの実験」(どうせ読者は全部読むわけだが)。別役実ばりに嘘か本当かわからない「耳は口ほどにものを言い」。「差」の価値について考える「「差」という情報」、など。
 逆に何が面白いのかよくわからないものもあった。著者の独特の考え方と波長が合うかどうかがポイントなのだろう。ブログ主の場合、そこが微妙にずれていて、波長が合ったり合わなかったりしたわけだ。

Kangaenoseiton

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