滴り落ちる時計たちの波紋
滴り落ちる時計たちの波紋/平野啓一郎(文春文庫,2007)
2004年刊の単行本の文庫化。
この著者は1999年の芥川賞受賞当時、かなり話題になったので名前だけは知っていたが、2年ほど前にこの本を読むまで、全然読んだことはなかった。
芥川賞受賞作の評判から、なんだか難解な作品を書く作家という印象があったが、読んで見るとそうでもない。ただ、実験的、とは言えるかもしれない。それにしても、収録作の作風がバラバラすぎて、どれが本来の姿なのかよくわからない。
収録作は掌編から中編まで長短8編。
「白昼」
白昼、一人の男が幻影の中に消え去る。途中から詩みたいなものになる実験的作品。本のタイトル「滴り落ちる時計たちの波紋」は、この作品の詩の部分に出てくる言葉。
「初七日」
一転して、きわめてリアルな小説。一人の老人の葬式に集まった家族の様子や、息子である兄弟の思いを丹念に描いていく。文章も実に、普通の意味で文学的。
「珍事」
わずか6ページの小品。大阪に出張したサラリーマンが体験した、実にどうでもいいような出来事と、それが心中にもたらした波紋を描く。
「閉じ込められた少年」
これも6ページの小品。少年のいじめの記憶と、それがもたらした突発的な行動の瞬間を切り取る。
「瀕死の午後と波打つ磯の幼い兄弟」
二つのパートからなる作品。ひったくり常習犯の男が交通事故で死にかける「瀕死の午後」と、幼い兄弟が潮の満ちてくる岩場に取り残される「磯の幼い兄弟」。一見何の関係もなさそうな二つだが、実は最後の文章で相互に結びついている(ということが解説を読んでわかった)。
「Les pepites passions」
2ページのスケッチが5編。「彼方」、「数」、「性」、「記憶」、「自己」。どれも少年が主人公で、どれも最後には死ぬか消えるかする。
「くしゃみ」
わずか2ページ。ひよわな男がくしゃみをして死んでしまうというだけの話。
「最後の変身」
150ページ近くの長い作品。この作品だけ文章が横組み。それでいてページは普通に右から左に進んでいて、相当な違和感がある。
内容は、ネットに入れ込んだあまり人生に行き詰まった男の、いつ果てるともしれない愚痴。読んでいていやになるような内容だが、ところどころ、ネットの世界への鋭い指摘がある。
「バベルのコンピューター」
この作品だけ、これまでの収録作ときわだって作風が違う。クロアチア出身の芸術家イーゴル・オリッチの作った電子芸術「バベルのコンピュータ」に対する長文の批評。その作品は、ボルヘスの「バベルの図書館」をコンピュータにより再現しようという試みなのだった。
実はこれは批評の形をとったフィクション。それらしい注もついているが、作者も作品もすべて架空である。架空作品の批評というと、レムの『完全な真空』が連想されるが、この作品はボルヘスに言及しているので、ボルヘス&ビオイ=カサーレスの架空評論集『ブストス・ドメックのクロニクル』へのオマージュなのだろう。
収録作中ベストはこの作品。