ちょっと前に読んだ本

2009年10月27日 (火)

信長の野望

信長の野望/童門冬二(光栄,1990)
 前に紹介した吉岡平の『提督の決断』(2008年11月9日のエントリー)と同じく、光栄のゲームから派生した架空歴史小説。ただし、この本は「歴史ifノベルズ」だが、『提督の決断』は「歴史キャラクターノベルズ」だった。どう違うのかよくわからない。
 それにしても、童門冬二とは、また大物をひっぱってきたものである。内容がそれにふさわしいかというと、また別の話。

 物語は本能寺の変から始まる。この物語の信長は、抜け道を通って本能寺から脱出、博多に身を隠す。大筋は、この生き延びた信長が、なぜか性格も思想も一変し、平和的な全国統一に乗り出す、というもの。冒頭の本能寺の変の場面を除いては、合戦シーンが全然出てこない。
 それはそれで、ユニークな架空歴史もの、というか本来の改編歴史SFに近いとも言える。が、問題は、内容があまりに変なところである。つっこみどころ満載。
 ところどころ文章が変だったり、登場人物たちがみんな現代語でしゃべっていること(「あなたは」なんて平気で言ってる)は、目をつぶることにしても、である。いくらなんでも変だろう、というところが目につく。例えば、次のようなところ。

・本能寺の変の後、徳川家康が茶屋四郎次郎の案内で帰国に成功したという記述の後で、「四郎次郎は、家康が天下を取った後、商人代表のブレーンとして、いろいろな知恵を家康にもたらす」とある。だが、この作品では信長が生き延びているのだから、秀吉も家康も天下を取らない。これが架空歴史小説だということを忘れているのでは。
・本能寺の変の情報を掴んだ羽柴秀吉が山崎で明智光秀を破るあたりまでは、実際の歴史と同じなのだが、この時秀吉のライバルとして名前が挙がる信長の重臣の中に、林通勝が出てくる。しかし林通勝は、この時すでに追放されているはず。
・単なる校正ミスからも知れないが、川尻秀隆が「田尻秀隆」と書かれている箇所がある。ご丁寧に「たじり」とルビまでふっている。
・信長が家臣たちの前で「府構想」なる日本の新しい政治体制を述べる時、口にした地名の中に名古屋や高知がある。名古屋も高知も江戸時代に入ってからの名称なので、この時代、そんな地名はないはず。
・織田長益(有楽斎)について、現在の東京の地名(有楽町)になっているとの説明がある。しかし、この物語では歴史が変わっていて、そもそも江戸に幕府が置かれる可能性がなくなっている。織田長益が江戸に住む理由もないし、江戸が後に「東京」になる必然性もない。上の茶屋四郎次郎の件と同じで、架空の歴史を語る物語の中で、実際の歴史の延長線上の「現在」を語ると整合性がとれなくなるのだ。
・「岩代」や「磐城」という旧国名が出てくる。この二つの国名は明治維新後にできたもの。この時代にあるはずがない。

 こうした、思わず首をかしげたり苦笑したりしたくなる箇所の数々に加えて、全体的に、作者のやる気が感じられない。『提督の決断』もあまり作者のやる気を感じない小説だったが、この作品はさらに輪をかけてそんな雰囲気がある。まあ、時代小説のベテランがゲーム会社の依頼する架空歴史小説に、乗り気になれないのもわかるが...。
 ある意味、珍品と言うべき本である。

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2009年10月15日 (木)

ジャンクフードって何なんだ?

きらめくジャンクフード/野中柊(文芸春秋,2006)
 私の偏見かもしれないが、ジャンクフードというと、どこか男の食うもの、というイメージがあった。男といっても、間違ってもマッチョやイケメンではない。太って脂ぎったオタク風のやつが、体に悪そうなものをむさぼり食ってる。そういうイメージだ。
 この本は、小説家、野中柊が女性の視点からジャンクフードを語るもの。言ってみれば、女性の、女性による、女性のための食エッセイ。男が読むと、女性の考えるジャンクフードのイメージが、やはり、男の考えるそれとはちょっと違うらしいことがわかってくる。
 取り上げられている食べ物は次のようなもの。なお、その食べ物が男にとっての(というか、私にとっての)ジャンクフードに該当するかどうかも、コメントする。

 まずはハンバーガー。ジャンクフードの代表だな。ポテトチップス、チョコレートチップクッキー、ピーナッツバター、ポップコーン、アイスクリーム。このへんは、まあ間違いないだろう。みんな、いかにも太りそうな食べ物だ。
 しかし、ベーグル、パンプキンパイ、クラムチャウダー、アップルパイ、バナナブレッド、サンドイッチ、とくると、疑問がわく。パイはともかく、他のは普通の食事では?
 続いて、ピッツァ。これは間違いない。次のコーンズシ、って何だ? ハワイで稲荷寿司のことをこう呼ぶそうだ。でも、稲荷寿司はジャンクフードか?
 と、こんな調子。本書には48種類の食べ物が出てくるので、いちいちは書かないが、いかにもジャンクっぽい、という食べ物は、これ以降に出てくるものとしては、ウィンナーソーセージ、クリームソーダ、綿菓子、シェイク、フライドチキン、餡ドーナツ、ゼリー、くらいか。 オムライス、コロッケ、餃子、たこやき、グラタン、カリフォルニアロール、焼きそば、おでん、などは、ジャンクフードというより、B級グルメという方がぴったり来る気がする。
 どうもジャンクフードというと、どっちかといえば「品のない食べ物」というイメージがあるので、レモンメレンゲパイ、チーズケーキ、チェリータルト、クリスマスケーキ、シュークリーム、あたりになると、ちっともジャンクじゃないじゃないか、という気がする。著者にとっては、食べると太りそうな甘いものは、全部ジャンクフードなのか。
 また、カレーライス、おにぎり、たまご焼き、などは、やはり普通の食事だろう。おせち料理に至っては、よく理解できない。
 結局、自分が好きなものを並べただけじゃないか、という印象である。文章がまた、食べる喜びに満ちあふれていて、陶酔感すら漂っている。この食べる幸福感に満ちた文章も、ジャンクフードのイメージじゃないだろう。ジャンクフードというのは、もっとぎとぎとしていて、どこか罪悪感を抱きながらむさぼるものじゃないのか。
 要は、ただの食べ物エッセイ、というのが本質。たまたま、冒頭にジャンクフードっぽいものが続いていたので、こういうタイトルにしただけではないかと。しかし、このタイトルのつけ方はうまい。上にも書いたように、明らかに女性読者を想定した本だが、男性が読むと、女性の食べ物に対する感性がよくわかる。

 つい最近(2009年9月)、文庫版(文春文庫)も出た。

きらめくジャンクフード

 

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2009年10月 9日 (金)

館島

館島/東川篤哉(創元推理文庫,2008)
 綾辻行人の「館シリーズ」のパロディかとも思われる、ギャグタッチのミステリである。単行本は2005年発行。
 舞台となる「館」は、岡山でのみ有名な天才建築家、十文字和臣が、瀬戸内海に浮かぶ横島に建てた別荘。六角形で中心に巨大な螺旋階段があり、屋上に四つに区切られたドームがあるという、奇妙な建築である。館の名称はない(このことが実は重要な意味を持っていることが、最後にわかる)。時代は1980年代に設定されていて、岡山と香川を結ぶ瀬戸大橋がまだ建設中、横島はその瀬戸大橋の下になる予定、という設定である(そのことにも意味があることが、最後にわかる)。
その別荘で、主である十文字和臣自身が急死する。墜落死であることは確実だが、どこからも落ちたことがないという謎の死であり、警察が捜査するも真相は一向に解明されない。
 事件が迷宮入りしたままの7ヶ月後、十文字和臣の未亡人は、独自に事件の解明をもくろんで、墜死事件の時に滞在していた関係者たちを再び別荘に呼び集める。さらに、遠い親戚にあたる刑事と女私立探偵も――。
 そして、再び館で殺人が起こる。そうでないと話にならないのだから当然である。しかも密室状態での殺人と、またしてもあり得ない場所での墜落死。
 物語の中心になるのは、岡山県警の刑事である相馬隆行、私立探偵の小早川沙樹、招待客の一人で地元の議員の娘、野々村奈々江。この3人が謎に挑むわけだが、相馬隆行は的外れな言動ばかりするお調子者かつ粗忽者で、小早川沙樹は傲慢で粗暴な上に飲んだくれ、野々村奈々江は天然ボケのお嬢様である。
 ほぼ全編、この3人を中心とした、間の抜けた会話とどつき合い(というか、相馬が一方的にどつかれているのだが)の連続で、その合間に事件がちょこちょこ起こるという具合。これで話が進むのかと思うのだが、それでもちゃんとストーリーは展開し、推理が繰り広げられていくのは、ある意味大したもの。
 もっとも、ギャグの部分をカットすればページが3割は減るのではないか。それだと全然おもしろくなくなるだろうが。
 最後は、小早川沙樹が一応探偵役を全うして、殺人事件の犯人と、十文字和臣墜死事件の真相まで解き明かす。すべての鍵は、この奇妙な建物にあったのだ――。
と、とりあえずミステリらしく終わるのだが、なんなのか、このトリックは。建物がああなってこうなっていたなんて。これ自体が壮大なギャグではないのか。感心するべきか、あきれるべきか、怒るべきか、よくわからない。こう感じること自体が、著者のペースにはまってしまっているのだろう、多分。

館島 (創元推理文庫)

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2009年9月18日 (金)

朝茶と一冊

朝茶と一冊/出久根達郎(文春文庫,2000)
 古本屋主人にして直木賞作家、出久根達郎のエッセイ集。単行本は1996年。
 前に紹介したこの著者の『本の気つけ薬』(2009年4月3日)は、明確に本をテーマにしたエッセイ、論説、書評を集めたものだったが、今回の本は、単に「エッセイ集」としか呼びようがないものである。
 ただ、古本の話は多い。
 古本についてのエッセイというと、北原尚彦の『奇天烈!古本漂流記』(2007年3月22日のエントリー)みたいに自分が出会った奇本、珍本の数々を紹介するものや、岡崎武志の諸作みたいに、古本屋巡りの魅力を熱く語るものが思い浮かぶ。が、この本はそういうマニア系の本とは少々違う。
 では、読む側、あるいは買う側と、売る側との違いなのかというと、そうでもない。
 もちろん、古本屋を営む上で経験した数々の出来事が、この本に収録されたエッセイの多くのネタ元になっているのは間違いない。
 だが、そうしたエッセイは古本や古本屋そのものを語るのが目的ではない。そのへんが、『本の気つけ薬』や、古本マニアたちの著書との違いなのである。古本や古本屋にまつわることは、話を引き出す触媒にすぎないのだ。
 では、何を語るのかというと、はっきりいって、決まってない。明解な主旨がある場合もあれば、ない場合もある。普通のエッセイというのはそういうものなのだ。
 例えば最初の1編、「その手は桑名」の冒頭。自分にとっての「しあわせ」とは何かを、ゆったりとした調子で語っている。朝、気持ちよく目ざめて、一杯の朝茶があればいい。それと、茶うけとして、一冊の本。「私にとって、しあわせとは、一杯の朝茶と、一冊の面白い本、このセットの確保である」
 本書のタイトルはもちろん、この部分から来ている。
 実はこの部分はマクラで(と呼ぶにしては全体の4割くらいあるが)、その後、「さて、けさ、私の手元にある一冊は、『騙す人ダマされる人』という本である」と、本の紹介が始まる。しかしそれだけで終わるのではなく、ダマされる話つながりで、著者の奥さんが古本屋の店番をしていてちょっとした詐欺に遭ったエピソードを語る。ここでやっと、「その手は桑名」というこのエッセイのタイトルに結びつくわけである。
 で、このエッセイ、おもしろいことはおもしろいのだが、結局何を言いたいのかよくわからない。本の話が真ん中に入っているが、本の紹介が主目的とは思えない。タイトルはだまされること(またはだまされないこと)に関係があるが、その話は最後の方にちょっと出てくるだけ。最初の「私のしあわせ」の話はどこへ行ってしまったのだろう,,,。
 他のエッセイもこんな感じで、様々な本、時には映画などを取り上げながら、話題はあちこちに飛び、テーマはあるともないとも判別がつかない。まさに「随筆」というべきか。
 実はこれは日本の伝統にきわめて忠実な、オーソドックスなエッセイの書き方ではないだろうか。まあ、難しいことは何も考えず、古本屋のオヤジさんが語るよもやま話に耳を傾けるようなつもりで、楽しめばいいのだろう。

 蛇足ながら、気に入った文章。

 面白がる、この精神である。近頃の本はあまり面白くない、とこぼす人が多いが、そういう人は面白がろうとしない。面白がる気がなければ、本なんて面白くないものなのである。(「面白がる」) 

 もうひとつ。

 著者は面白がって本を書くべきで、そうでないと面白い本ができるはずがない。(同)

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2009年9月15日 (火)

夜中の乾杯

夜中の乾杯/丸谷才一(文春文庫,1990)
 丸谷才一の本については、これまで日本語論やミステリについてのアンソロジーを紹介してきたが、今回のは普通のエッセイ。単行本は1987年発行。
 この「普通のエッセイ」がいいのだ。普通と言っても、丸谷才一の普通。序文によれば、「夜中の乾杯のまへ数時間のあひだ、友達にしやべるやうな話のかずかずである」のだそうだ。いかにも気軽に書いているようで(実際にそうかもしれないのだが)、普通の人が普通に書けるものではない。
 
 本書の内容だが、特定の人物を取り上げ、その人物に関する蘊蓄や話題をメインにしたエッセイが多い。
 歴史上の人物なら、貝原益軒、田崎草雲(幕末の画家)、ケインズ、ココ・シャネル。有名人だけでなく、海賊ミッソンとか、アメリカの禁酒運動のリーダーだったキャリー・ネイションとか、言語学者松下大三郎とか、あまり有名でない人物も出てくる。この人物の選定が、いかにも通好みである。
 現代人なら、和田誠、城達也、吉行淳之介、山本夏彦など、著者が直接交友のある人物。
 あるいは、「ヒゲ」とか、「帽子」とか、「駅弁」とか、「戒名」とか、特定の話題に関するエッセイでも、だいたい歴史上の人物が出てきたり、著作が引用されたりする。「ヒゲ」ならチャップリンにサルバドール・ダリ。「帽子」については、歴史学者の坂本太郎(「日本人はなぜ帽子をかぶらなくなったか」について書いた文章があるそうだ)。「駅弁」ではなぜか中国の大作家周作人。「戒名」では足利尊氏に近藤勇、といった具合。
 総じて、ペダンティックだが、嫌みさがない。ごく自然に知識がわき出してくる感じで、こういうエッセイが書ける人はあまりいないだろう。もちろん、全文が著者の文章の特徴である旧かなづかいで書かれているのだが、そんなことは全然気にならない。

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2009年9月 9日 (水)

異戦大坂の陣

異戦大坂の陣 一~四/中里融司(歴史群像新書,2006-2007)

 この作品の著者、中里融司は今年の6月に52歳で亡くなった。歴史小説的リアリズムよりもエンタテインメント性を重視し、オタクっぽい雰囲気の濃厚な、別の見方をすればかなりムチャクチャな架空歴史小説に、独自の世界を切り開いていた作家だった。ライトノベルやマンガの原作、戦史ものドキュメンタリーと、手がける分野は多岐にわたり、作品数も多かった。

一 表裏比興の総大将
 「大坂の陣の時、もし真田昌幸が生きていたら」という設定の架空歴史小説である。
 史実では、真田昌幸は大坂の陣が始まる3年前、1611年に死んでいるが、この作品では、それは徳川方をたぶらかすための謀略。真田昌幸が本当に死んだかどうか確かめに来た徳川方の伊賀忍者たちが墓をあばくと、「この真田安房が身罷りしこと、要するに、真っ赤な嘘に候。墓を暴きに来られた隠密諸士、大儀大儀」などという、徳川家康宛のふざけた挑戦状が入っているのを見つけるところから、話が始まる。
 うろたえる伊賀忍者たちの前に登場するのが、真田家の誇る忍者、霧隠の才蔵たち。中里融司は真田十勇士が大好きだったらしく、前に紹介した『戦国覇王伝』(2009年1月28日~29日)にも十勇士が登場して人間業とは思えない暗躍をしていた。この作品では十勇士ではなく「真田十傑士」と称しているが、中味は大差ない。「真田十傑士」の操る忍法が、魔術妖術、あるいは超能力としか思えないのも、『戦国覇王伝』と同じだし、何人かが女性化しているのも共通している。この作品では、由利鎌之助が「鎌鼬のお百合」、望月六郎が「望月のお六」、海野六郎が「海野のお六」、三好伊三入道が「三好の漁(後に伊三と改名)」と、4人も女性化しているのだった。
 それはともかく、実は生きていた真田昌幸、「十傑士」の活躍で伊賀忍者たちの妨害をはねのけ、豊臣家を助けて徳川と一戦するため、大坂城に入る。息子の真田信繁も、「幸村」と改名して父の後に続く。真田信繁が途中で幸村と改名するのも、中里融司の作品のお決まりパターン。
 大坂城での、名将真田昌幸の存在感と知略は圧倒的で、おまけに、この種のシミュレーション小説ではありがちだが、淀殿(本作での呼び名は「淀の方」)も豊臣秀頼も、異常にものわかりがいい。真田昌幸は総大将をまかせられ、大坂の陣はタイミングこそおおむね史実どおりに開戦するが、始まった時からその様相を変えることになるのである。
 大坂方は史実よりもはるかに積極的に、かつ効率的に動く。いち早く堺を占領して兵站を確保する一方で、大坂城外堀のさらに外側にいくつもの出丸を築き、戦いを優勢に進める。焦った徳川家康は、「冬の陣」の史実どおり、大坂城に大砲を撃ち込み、和議を迫る。
 それを罠と知った上で、あえて和議に応じる昌幸、これまた史実どおりに、家康が内堀まで埋めにかかるのを読んでいる。で、停戦からわずか七日後、徳川方が内堀の埋め立てに取りかかったところで、約定破りとして再び開戦するところで、第1巻は終わり。
 サブタイトルは、真田昌幸を「表裏比興の者」と読んだ石田三成の書状から来ている。魔道士のような妖しい活躍ぶりを見せるこの作品の真田昌幸にふさわしい。

異戦 大坂の陣〈1〉表裏比興の総大将 (歴史群像新書)

二 豊臣の大反攻
 豊臣家を罠にはめたつもりが真田昌幸の策にはまり、「盟約破り」を口実に猛攻をしかけてくる大坂勢に押されまくる徳川方。なにしろ、半分はすでに帰路につき、残りの大半も大坂城の堀埋め立て作業中で、戦の支度など全然できてない。家康は即座に退却を決断する。
 余勢をかって豊臣勢は京都に進軍、真田幸村らの別働隊は、大和、伊賀を通り抜けて伊勢に侵入し、桑名城に迫る。豊臣秀頼は占領した(というか、豊臣家が奪回した)伏見城に入って天下人になったことを宣言。さらに江戸に潜入した霧隠、猿飛ら「十傑士」は大火を起こして幕府の後背を脅かす。もうやりたい放題の感がある豊臣勢である。
 相変わらず、豊臣方諸将は、史実よりもはるかに有能で、かつものわかりがいい。淀の方に至っては、秀頼の伏見城入りに反対したものの、真田昌幸と秀頼本人に説得され、自分の不明を悟って出家してしまう。人間ができすぎている。
 一方、徳川方は、無策ぶりをさらけ出して討ち死にしたり敗走したりする無能者揃い。ここまで極端にしなくても…。

三 家康の逆襲
 第二巻までで近江西部、伊勢までを押さえた豊臣勢。今度は西に兵を向け、主力軍5万が、池田家の姫路城を攻める。
 この巻一番の見せ所は、「広島城の場」か。
 姫路・岡山を領する池田家は、西国で徳川方にもっとも忠実な大名。池田家の使者が福島家の領土、広島に乗り込み、池田家に従って大坂を攻めろと脅迫まがいの要求をしているところ、大坂勢姫路に迫るとの急報が入る。一刻の猶予もならないと、ますますいきり立つ池田家の使者―。ところがそこへ突然現れたのが、江戸に軟禁されていて、先日の火事で死んだはずの前領主、福島正則。池田家の使者二人を、いきなり素手で殴り殺してしまう。マンガみたいなシーンである。関ヶ原で徳川についたことを後悔しまくっている福島正則は、家臣一同に檄を飛ばし、豊臣方について参戦することを宣言するのだった。
 ところで、一旦は退却した徳川勢だが、もちろん引っ込んだままでいるはずがなく、再び攻勢に出る。東日本の大名たちを糾合して大軍を集め、大坂に向けて再征を始め、伊勢方面では、真田幸村らが占領した桑名城に、海路大軍を送りこんで攻囲する。しかし、桑名城はしぶとく籠城を続けるし、徳川主力軍の動きは、真田昌幸がすでに読んで何やら策謀をめぐらしているらしいし、豊臣家が窮地に陥った、という印象はあまりない。サブタイトルのわりに、大した逆襲と思えないのだ。
 「絶体絶命の危機感の欠如」が、本シリーズの弱点と言えば弱点だろう。何しろ、一番の危機であった「大坂城の堀埋め立て」は、第一巻でクリアしてしまっているのだから。
 あと、忘れてはならないのが、中里融司作品に欠かせないキャラクター、伊達政宗(笑)。主役級だった『戦国覇王伝』に比べると出番は少ないが、危ない性格は変わらない。「そうじゃな。最上殿あたりでどうじゃ」の一言で、隣国の最上家を「上様」に対する謀反人と決めつけて攻めることに決めてしまう。「上様」が徳川家なのか豊臣家なのかもはっきりさせないまま。呆れながら相手をしている片倉景綱もいい味を出している。ちょっとしか出てこないのが惜しい。

四 天竜大決戦
 最終巻。豊臣家主力軍が姫路・岡山の池田家を攻めている隙をついて、名古屋に集結させた大軍を出発させ、近江に迫る徳川家康。しかしそれすらも、真田昌幸一世一代の壮大な戦略の中で予想されていることなのだった。この作品の真田昌幸は、ほとんど諸葛孔明並の大軍師になっている。
 結局、大坂に残った留守舞台を攻めるはずだった徳川家康は、予想をはるかに上回る大軍となった豊臣の主力部隊と、天竜河畔で決戦をすることになる。徳川軍も大軍だが、関東では豊臣方に寝返った伊達・上杉連合軍が江戸を攻めていて、後がない。文字どおり背水の陣である。
 というわけで、このシリーズのクライマックスとなる天竜河畔での東西両軍の決戦が繰り広げられるのだが、この戦い、奇策を使わずに正面からの戦いに終始する。(中里融司にしては)まとも過ぎて少々意外。
 最後は、だいたい予想どおりの展開になって全巻の終わり。
 全体として、新基軸や意外な展開は見あたらず、良くも悪くも、いかにも中里融司らしい架空歴史小説になっている。後半、やや駆け足の印象もあるが。
 著者のおそろしく読みやすい文章と、この手の小説には珍しいくらい個性のある登場人物たちのおかげで、多少のマンネリも気にならないくらいおもしろいことは確か。著者がまだまだ活躍できる年齢で急死したことが惜しまれる。

異戦 大坂の陣〈4〉天竜大決戦 (歴史群像新書)

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2009年8月27日 (木)

イギリス女流怪談集

鼻のある男 イギリス女流作家怪奇小説選/梅田正彦編訳(鳥影社,2006)
 英米の女流作家による怪奇小説のアンソロジーとしては、『淑やかな悪夢』(2007年9月30日のエントリーで紹介)があるが、あちらはイギリス、アメリカ両方の作家が含まれていたのに対し、本書はイギリス作家に限定。しかしコンセプトとしてはよく似ている。収録作品の年代も19世紀後半から20世紀前半まで、というのも共通。
 違うのは、このアンソロジーは聞いたことのない作家がほとんどということ。おまけに『淑やかな悪夢』が、倉阪鬼一郎、南條竹則、西崎憲という怪奇小説の世界では有名な作家・訳者・評論家たちが編者をつとめているのに対し、こちらは編訳者も聞いたことのない人。おまけに出版社もマイナー。とにかくどこまでもマイナーなイメージのアンソロジーである。

 表題作「鼻のある男」(ローダ・ブロートン)は、奇妙なタイトルだが、原題The Man with the Noseの直訳。"the Nose"と、「鼻」に定冠詞がついているところが意味深。特徴的な「鼻」を持つ男の影につきまとわれる人妻の話である。その男は彼女にしか見えず、この手の話のパターンどおり、夫がまったく無理解。自分の見た男に「鼻があった」と訴える妻の話に、「鼻がなかった方がこわかっただろうね」と笑い飛ばし、すべて妻の妄想で片づけようとする。当然ながら、最後は誰もが予想できるような悲劇的結末になる。「鼻」にフロイト的な意味を読み取ろうとするのは、読者の自由だろう。
 「すみれ色の車」のイーディス・ネスビットは、児童小説『砂の妖精』で有名。一般的には、収録作家中で一番有名かもしれない。ただし、怪奇小説も書いていたことはあまり知られてないだろう。1910年に書かれたこの作品は、「自動車怪談」のはしりのようなもの。
 「このホテルには居られない」(ルイザ・ボールドウィン)。ホテルのリフト係をしている男の一人称による、様式どおりの幽霊話。収録作の長短に極端に差があるのがこのアンソロジーの特徴の一つで、これはショートショートに近い。「リフト」はもちろんエレベーターのイギリス英語だが、アメリカ人はなぜリフトという短い言葉を使わずに、長ったらしく「エレベーター」なんて言うんだと、語り手が文句を言ってるのがおもしろい。著者はイギリスの名門の夫人で、息子はイギリス首相にもなった。キプリングは甥に当たるのだそうだ。
 「超能力」(D・K・ブロスター)は、タイトルから想像できるのとは全然違う話。タイトルにしても、原題は"Clairvoyance"だから、「千里眼」とでも訳す方がいいのではないか。どっちにしても、その種の特殊な能力が活躍する話ではない。霊感の鋭い少女が呪いの日本刀に取り憑かれ、日本語を口走りながら刀を振り回して大惨劇を繰り広げるという話。1932年の作品。日本刀や鍔についての蘊蓄が語られるのが珍しい。
 「赤いブラインド」(ヘンリエッタ・D・エヴェレット)は、幽霊屋敷もの――と見せて、実は時を超えた怪現象を巡る話で、一種の時間SFとも見ることができる。まあ、幽霊屋敷話としても、けっこう怖いのだが。
 「第三の窯」(アミーリア・エドワーズ)は、磁器工場を舞台に、三角関係がもたらしたおぞましい犯罪と怪異現象の物語。リーアという娘を巡ってジョージとルイが争い、ジョージが謎の失踪を遂げる。語り手の前に、ジョージが炎をまとった亡霊として姿をあらわすシーンがクライマックス。事態の真相は示唆はされるが、最後まで明らかにされない。宙に浮いたような終わり方が、かえって奇妙な余韻を残す。収録作の中では一番古く、1865年(江戸時代だ!)の作品。この著者の作品は『淑やかな悪夢』にも収録されている。
 「幽霊」(キャサリン・ウェルズ)。著者はあのH・G・ウェルズ夫人。主人公は14歳の少女で、家で開かれるパーティーに有名な俳優が招かれるというのに、風邪で寝ていなかればならないのが残念でならない。俳優は余興として幽霊に扮装することになっているのだが、親切にも出番の前に少女のところに特別に来てくれるという。待っている少女の前に現れたのは…。短い作品だが、雰囲気といい、構成と言い、オチといい、よくできている。怪談に関しては、旦那よりうまいかもしれない。
 「仲介者」(メイ・シンクレア)は、収録作中で一番長く、本書のページ数の3分の1くらいを占めている。著者も怪奇小説アンソロジーに何度も顔を出していて、本書の中では比較的有名。『淑やかな悪夢』にも登場しているのは、上のエドワーズと、この人だけ。
 歴史研究家のガーヴィンが仕事のため下宿することになったファルショー家には、暗い秘密がまとわりついていた。ある夜、ガーヴィンは、この家にはいないはずの、子供の泣き声を聞く…。幽霊話かと思ったら―いや、確かに幽霊話ではあるのだが―、どろどろとした愛欲の渦巻く人間ドラマの話になっていく。ガーヴィンははからずも幽霊と因縁の家族との「仲介者」の役割を果たすことになり、これが題名になっている。暗い話なのだが、読み応えは収録作中でも群を抜いているし、結末は感動的。怪奇小説ではなく、純粋に小説として評価できる。
 というわけで、ベスト作品はこの「仲介者」。次に「幽霊」か。

鼻のある男―イギリス女流作家怪奇小説選

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2009年8月14日 (金)

不実な美女か貞淑な醜女か

不実な美女か貞淑な醜女[ブス]か/米原万里(新潮文庫,1998
 死後もまだ新しい本が出続けている米原万里。その人気のほどがうかがえる。
 この本が、その人気を生み出したエッセイの第1作。
 第2作以降、著者のエッセイは幅を広げ、テーマが文化や言語全般にまで多様化していくのだが、この本はほぼ通訳の世界だけに限られている。その分、通訳の世界の奥深いところまで立ち入った話が含まれていて、「ロシア語通訳」という希少な職業がもっと直接的な形で生かされた作品と言えるのではないだろうか。
 タイトルは、もちろん翻訳の二つの極端な例を言い表している。「忠実ではないが美しい翻訳」と、「忠実だが聞き心地のよくない翻訳」。もちろん「貞淑な美女」が一番いいのだが、現実にはそうもいかず、忠実に訳していては、それこそ身に危険が及ぶ場面だってあったりする。通訳者は圧倒的多数の場合において、この二つのどちらかを選んでいるのだという。これは通訳の世界に限らず、社会のいろんな場面で起こっている現象でもあるのだろうが。
 なんといってもこの本でおもしろいのは、通訳の現場のヤバい実例の数々。こんなことまでバラしていいのだろうか、という場面が次々と紹介される。この暴露話の部分を拾い読みするだけでも、値打ちがある。
 一方では、内容がやや専門的にすぎて軽さに欠ける部分があり、大衆向けエッセイと教養書の中間のような印象も受ける。後から出たエッセイ集に比べれば――の話だが。テーマが絞り込まれていることもあり、内容の豊富さでは、米原万里のベスト本かもしれない。

不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か (新潮文庫)

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2009年8月 8日 (土)

ハッカーと蟻

ハッカーと蟻/ルーディ・ラッカー(ハヤカワ文庫SF,1996)
 仮想現実は、どのような悪夢も体験可能にする。しかし一番の悪夢は、仮想現実のはずのものが、現実を侵食してしまうことだろう。
 主人公は近未来のシリコンバレーで働くプログラマー、ジャージー・ラグビー。妻とは別居中で離婚寸前、住んでいる借家は不動産屋が売りに出していて追い出されそうになっていて、現実世界ではどうもうまくいってない。一方、プログラマーとしてのジャージーは、ゴーモーション社で家庭用ロボットのソフトウェア開発に携わる腕利きで、仕事でもプライベートでも、サイバースペースを自在に飛び回っている。
 現実世界の冴えなさに比べ、サイバースペースの描写は文章のタッチからして違っていて、色彩と躍動感にあふれている。だけど、今となっては、どこかで読んだ(あるいは、見た)感がぬぐえない。
 原作が書かれたのは15年前の1994年なのだが、ここに出てくるサイバースペースのテクノロジーは、当然ながらまだ実現していない。にもかかわらず、なんだかもう手垢まみれの感がある。似たような描写の出てくる作品が多すぎて、実現する前に陳腐化しているのである。もちろん、作者の責任ではない。以前に紹介した仮想現実テーマのアンソロジー『シミュレーションズ』(2008年1月8日のエントリー)の原著発行が、この本の原作とほぼ同じ1993年。仮想現実テーマの全盛期だったのだ。
 それはともかく、ある時サイバースペースにまぎれこんできた一匹の蟻を目にしてから、ジャージーの運命は妙な方向に暴走し始める。サイバー蟻は現実世界でのジャージーの相棒であるロボットのスタッドリーにとりつき、とんでもない事件を起こしてしまうのだ。ジャージーは会社をクビになり、社会の敵扱いされることになる。仮想世界からの侵入者が現実世界を脅かす悪夢である。
 無職になり、被告人となったジャージーを、ウェストウェスト社がスカウトする。ゴーモーション社と同じく家庭用ロボットの開発をしている会社なのだが、社員たちは一癖も二癖もありそうなのがが揃っているし、会社の素性もいかにも怪しげである。そもそも、この会社を紹介したのは、例のサイバー蟻にとりつかれたスタッドリーなのだ。ジャージーはどうも何かの陰謀に巻き込まれているらしい。
 ―というわけで、現実世界とサイバースペースをまたにかけたジャージーの冒険、というかドタバタ劇が続く。だが、このおっさん、その合間にもナンパに情熱を燃やす――まだ離婚も決まってないのに。脇役も変なやつばかり。シリコンバレーはこんな連中だらけなのだろうか。
 キャラクターもストーリーも設定も、ちょっとタガがはずれている。まあ、それがルーディ・ラッカーの持ち味なわけだが。
 最後には、主人公が本物のロボット蟻と戦うことになるのは、いかにもアメリカSFらしいお約束。

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2009年7月25日 (土)

くさいものにフタをしない

くさいものにフタをしない/小泉武夫(幻戯書房,2005)
 発酵の専門家である著者が、においと人間について――というか、より正確には「食べ物のにおい」と「日本人」について、語る本。その後2008年に新潮文庫から再刊されている。

 序章で、「発酵臭と腐敗臭の違いを、人間は本能的に嗅ぎ分ける」という、よく聞くエピソードを披露。 続いて一章「おいしい日本のにおい」で、定番の発酵の話に行くかと思えば、「ご飯のにおい」で始まったのはちょっと意外。たきたてのご飯の「いいにおい」というのは、米に含まれるブドウ糖が熱のためにアミノ酸と反応してできる、揮発性のカルボニル化合物から生まれるのだそうだ。以下、味噌、醤油、鰹節、漬け物のにおいなどを、こんな風に化学的解説もまじえながら語っていくのだが、後の方になると、くさやとかフナズシとか魚醤とか納豆とか、臭い食べ物が顔を出してくる。
 ところで、本書では「におい」という表記を最初から最後まで使っているが、これは、漢字で「匂い」と書くといい香り、「臭い」と書くと悪臭というイメージになってしまうからだろう。
 二章「季節を告げる食のにおい」、三章「体によくて芳しい」では、セリ、フキノトウ、茶、鮎、茗荷、松茸、ニラ、ニンニク、ワサビ、シソ、生姜、山椒など、日本の伝統的な食材を、においを中心に語る。この部分は各パートが短いこともあって化学成分についての説明は少なく、普通の食べ物エッセイである。
 四章「くらしの中のにおいの文化」は、タイトルどおり生活の中から、日本文化を象徴するようなにおいを拾い出していく。この章では著者には珍しく、畳、木桶、蒲団、市場、花火など、食べ物以外のにおいがかなり出てくる。
 五章「においと人の未来」と終章「においをなくした日本人へ」は、一転して文化論。アロマテラピー、香料工業、においとバイオテクノロジーなど、においの技術論から入って、最後は「生活からにおいを排除してはいけない」という日本社会への呼びかけで終わる。
 なお、本文はほとんど日本の話だけで、あまり変な食べ物も登場せず、この著者の本としてはおとなしめなのだが、章の間に「においの教室」と題するコラムが挟まれていて、そこではシュールストレミングとかホンオフェとかキビヤックとか、世界的に臭い食べ物の話が出てくる。やはりこういう話を語らずにはいられないようだ。
 基本的に「いいにおい」をテーマにしているのだろうが、それでも、この著者の「臭いもの好き」は、随所に顔を出してしまうのである。

くさいものにフタをしない

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2009年7月13日 (月)

猫目石連続殺人事件

キャッツアイころがった/黒川博行(創元推理文庫,2005)
 1986年のサントリーミステリー大賞受賞作。
 滋賀、京都、大阪で連続殺人が起きる。最初は身元不明の男、続いて京都の大学生、三番目に大阪の日雇い労働者。一見まったく関係のない3人の被害者だが、死体の口の中にはなぜかキャッツアイが…。
 ―という事件の解決をめぐって、現場の各府県の警察と、二番目の犠牲者であった大学生のクラスメートたちが、それぞれ独自に動き出す。「独自に」というのが肝心なところ。だから、物語は三つの視点から進められる。
 メインのストーリーは女子大生の河野啓子と羽田弘美が主役。河野啓子がホームズ役で羽田弘美がワトソン役(あまり役に立たない)。二人は殺されたクラスメートが死の直前に旅行していたインドまで行ってその足取りをたどる。このインドでのエピソードでは、どんな波乱や冒険があるのかとけっこう期待していたのだが、意外とあっさり終わったのはちょっと残念だった。
 サブストーリーとして、滋賀県警の根尾と京都府警の五十嵐という二人の刑事の捜査活動が平行して語られる。これが2番目と3番目の視点。この事件には大阪もからんでいるのだが、大阪府警はほんの脇役で、独自のストーリーはほとんど出てこない。
 女子大生二人組と3府県の刑事たちは、同じ事件の犯人を追い求めながら、共同では行動しない。警察の目をかすめて行動している女子大生たちはともかく、滋賀・京都・大阪の警察の間にはかなり露骨な対抗意識や縄張り意識があって、一部重要情報こそ交換しているものの、最後まで捜査活動が平行線をたどっている。このあたりは妙にリアル。
 結局最後は、プロである刑事たちを出し抜いて、インドまで飛んで事件の手がかりをつかんだ女子大生たちが真相を明らかにしてしまう。予想どおりとはいえ、通常はあり得ないようなこの結末に自然に持っていくのは、構成のうまさだろう。
 ただ、肝心の連続殺人の謎解きの方は、納得はできるが驚くほどのものではなく、ちょっと拍子抜けしてしまう。だけどこれは、ミステリに「驚天動地の真相」を期待してしまう読み手側に問題があるような気がする。やたらと意外性を追求する新本格以後のミステリに慣れてしまったせいなのだろう。
 なお、本書はオリジナル出版時の1986年、「猫目石ころがった」のタイトルで、単発ドラマ化されている。見てないけど。

キャッツアイころがった (創元推理文庫)

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2009年7月 5日 (日)

三国志人物外伝

三国志人物外伝 亡国は男の意地の見せ所/坂口和澄(平凡社新書,2006)
 世の中に「三国志」関係の本は―正史も演義も含めて―いやというほどあふれている。
 私も「三国志」はわりと好きなので、一度その関係の本を集めてみようかと思ったこともあったが、あまりの多さにすぐにあきらめてしまった。基本的に、興味を引かれた本は読んでみる、程度である。それだけでもけっこうあるのだが。
 小説を除く三国志関係本というと、歴史系(陳舜臣『三国志と中国』など)、文学系(井波律子『三国志曼荼羅』など)、ビジネス書系(守屋洋の各著作など)といった系統が主なところ。
 このブログでも以前に関連書として、三好徹『三国志外伝』を取り上げたが(2007年5月10日)、あれは歴史系と文学系の中間型か。

 今回の本は、タイトルは『三国志外伝』と似ているが、スタイルはちょっと違う。というか、初めて読んだ時は、まだこの手があったか、と思わせる視点の本だった。
 基本は、正史の注やその他の史書から、あまり知られてないエピソードや、定説とは異なる観点を集めて、おおまかなテーマ別にまとめたもの。サブタイトルには大した意味はないようだ。
 全部で40余りの短い章に分かれているのだが、複数の人物のエピソードを一つにまとめているものが多い。例えば、「凶兆どおりに死は確実に訪れた」(死の前兆が記されている人物、董卓、曹操、劉備、公孫淵など)、「言いがかりで殺されるなんて」(理不尽な理由で殺された人物、何苗、董越、周不疑など)、「さっさと降伏したわけではない」(呉にあっさり降伏したことにされている劉備配下の郝普、士仁、糜芳の知られざる一面)、「きっと呪われた家系に違いない」(呉の孫一族の若死に・不慮の死の数々)等々。
 かと思うと、一章に一人だけ(ただしあまり有名でないエピソード)というのもある。「行年八十、身命ともに滅びるか」(王陵)とか、「人妻に惚れようと英雄は英雄」(関羽)とか、「戦いはみんなで歌えば怖くない」(留賛)とか。この例で見るように、一人一章だからといって、有名な大物ばかりではない。
 テーマも人物の選び方も別に原則があるわけではなく、作者の気の向いたままに書いているようだ。列伝ではなく、各人物のテーマに合ったエピソードを集めているので、曹操や劉備など、史書に登場する回数の多い人物は、何カ所にも顔を出している。一方では、上の例にも見るように、誰も名を知らないようなマイナーな人物もよく出てくる。
 この気まぐれな書き方といい、その反面、各エピソードに必ず出典が書いてある律儀さといい、まさに伝統的な歴史随筆という感じである。
 著者が専門の歴史学者ではなく、本業はフリーのデザイナー、つまりディレッタントであるところも、随筆というにふさわしい。
 三国志をテーマにした随筆というと、花田清輝の『随筆三国志』という有名な本がある。が、花田清輝が三国志に託して思想を語っているのに対し、本書は基本的に、「こういう本にこういうことが書いてある」という以外のことは述べてない。素人学者が気ままに歴史のエピソードを拾い集めて書く随筆―こういうのは、江戸随筆によくあるパターンではないか。
スタイルは江戸時代以来のものなのだが、そこがかえって新しく感じるというのも、おもしろいものである。

三国志人物外伝 亡国は男の意地の見せ所 (平凡社新書)

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2009年7月 2日 (木)

インターネットの夜明け

インターネット/村井純(岩波新書,1995)

 先月、『ウェブはバカと暇人のもの』を紹介した時(6月15日のエントリー)、この本も「いずれ紹介したい」と書いた。その予告を実行に移す。

 日本のインターネットの夜明けを告げた本である。
 この本が出版された1995年は、まさに日本のインターネット夜明けの年。その前年までは、ウェブなんて見たことのある人はほとんどいなかったし、電子メールだって、使っているのは、ごく一部のパソコン通信をやっている人だけだった。
 それが、1994年頃から、ぼちぼちとインターネット接続サービスを提供する企業が出始める。日本最初のインターネット雑誌、インプレスの『インターネットマガジン』が創刊されたのも1994年(2006年に休刊)。
 だが、本格的に世間の注目を浴び始めたのは、翌1995年。「インターネット」はこの年の新語・流行語大賞トップテンに選ばれ、本書の著者村井純が受賞している。日本のインターネットを、1980年代の草創期から支えてきた著者が受賞者として選ばれたのは、まさに適役と言えるだろう。
 さて、本書の内容だが、大まかにいって三つある。必ずしもパートが別れているわけではなく、本書全体にこの三つが混在しているのだが。「インターネットとは何か」、「インターネットの歴史」、そして、「インターネット思想」である。
 最初の二つは主に技術的な話。で、「インターネット思想」というのは、要するに、インターネットによるコミュニケーションの革新が、国を超えた人々のつながりを生み出し、全地球上的な社会の変革をもたらすという、一種のユートピア思想みたいなものである。例えば、序章にはこんなことが書いてある。

コンピュータによって自由に情報、データを交換できるという基盤ができあがると、世界中の一人ひとりの人間が、どういうコミュニケーションをもって、どういう活動をして、どんな世界をバックにした生活をしているのかということを考えられるようになります。この点からは、今後新しい国際社会をどういうふうに形成していくかということを考えるための基盤としても、期待されているということができるでしょう。(p.6)

 あるいは、巻末に近い第5章。

このようにインターネットは、人間の倫理とか思想といったものにまで、広範な影響を与える可能性が見えはじめているのです。そしてその議論字体が、従来のような権威をもった組織によってではなく、世界中の個人たちが主体となって進められているというのが、インターネットの特徴です。このような流れをよい意味で生かしながら、新しい地球の社会をつくっていく必要があると思います。(p.200)

 なんだか、インターネットが人類の革新をもたらしかねない印象である。インターネットの夜明けどころか新人類の夜明け。まさに「賢人のネットワーク」としてのインターネットの理想像だろう。それが、今や「ウェブはバカと暇人のもの」にまで堕落してしまったわけだ。諸行無常である。
 まあ、そんな理想主義的すぎるところはあるが、具体的な話になると、今読んでも、というか、今読むからこそ、その先見の明に驚かされる部分がある。「インターネット百科事典」のくだりとか、ビジネスへの影響とか、「ネットいじめ」への言及とか。回線使用料などその後劇的に改善された問題もあるし、セキュリティなどますます深刻化する問題もあるが、インターネットの持つ負の面も含めて、ほとんどあらゆる課題に目を向けている。
 私が持っているのはこの本の2刷だが、1刷が11月30日で、2刷が12月5日。わずか5日で増刷している。この当時、いかに注目を集めていたかがわかる。(というか、今でも絶版になってなくて、その意味では現役なわけだが。)
 インターネットがこんなにも熱く、理想をこめて語られる時代もあったのだ。わずか14、5年前の話である。信じられない。

インターネット (岩波新書)

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2009年6月18日 (木)

信長の親衛隊

信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材/谷口克広(中公新書,1998)
 当代きっての織田信長研究家、というか信長マニアによる、ややマニアックな歴史読み物。
 羽柴秀吉、明智光秀、柴田勝家といった信長の武将たちは戦国歴史ドラマの常連で、あまりに有名だが、小姓、馬廻、吏僚といった側近たちは、あまり知られてない。例外として、後に武将に出世した一部(前田利家、佐々成政、堀秀政など)、行政官として活躍した人(村井貞勝など)、小姓として例外的に有名な森蘭丸(本当は森"乱"成利というらしい)などがいるが、長谷川宗仁、木村高重、岩室長門守、明院良政など、よほどの歴史マニアしか知らないような名前が多いのだ。まあ、現代風に言えば、秘書、ボディガード、事務官といった役割なので、歴史の表舞台に出てこないのは当然ではあるが。
 そういった裏方は、信長だけでなく、戦国武将の誰にもいただろう。だが、織田信長はそういう実務家たちの登用や使い方が特にうまかったらしい。著者は史料を丁寧に当たりながら、信長の組織術の妙を解き明かしている。
 さすがに信長マニアの著作だけあって、情報量は膨大。華やかな武将たちの影に隠れた多彩な人材たちに光を当て、織田信長政権の知られざる一面を紹介してくれる。
 しかし、確かに多様な人材がいることはよくわかるし、歴史書や小説などを読む時などに参考になるが、正直なところ、読んでいてそんなおもしろいとは思えなかった。題材が地味なせいもあるが、あまりに事実の羅列になりすぎていて、資料としては評価できるが、読み物としてはもうひとつなのだ。
 実は、この本に名を連ねる側近たちは、ほとんどが本能寺の変で殺されてしまう。その悲劇的な最後に向けて盛り上げていくような工夫があれば、もうちょっとおもしろかったかもしれない。専門書じゃなくて新書なのだから、ノンフィクションといえどもある程度の演出は必要なのでは―、なんてことを思った。
 この本が発行されて7年後に、姉妹編とも言える『信長軍の司令官』が出ているが、それはまた別の機会に。

信長の親衛隊―戦国覇者の多彩な人材 (中公新書)

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2009年5月30日 (土)

海底二万里

海底二万里/ジュール・ヴェルヌ;江口清訳(集英社文庫,1993)
 あまりにも有名なSFの古典。
 私が読んだのは、メビウスの表紙イラストが印象的な集英社文庫版だが、これはもう絶版らしい。今は創元SF文庫版か岩波文庫版で入手可能。

 『海底二万里』と言えば、高性能潜水艦ノーチラス号が、世界の海を巡る冒険物語―。まあ、一般的なイメージはそういうところだろうし、基本的に間違ってはいない。
 この作品、遙か昔、子供の頃に児童向けリライト版を読んだ。多分、多くの人がそうなのではないだろうか。原作の忠実な訳、つまりこの本を読んだのは、わりと最近である。イメージが全然違っていた。
 登場人物は実質4人だけ。語り手である海洋学者アロナックス、その助手のコンセイユ、カナダ人の銛打ちネッド・ランド、そして、言うまでもなく、万能潜水艦ノーチラス号の謎の船長、ネモ。
 この集英社版で600ページ近くある長い話だが、上の4人を除いては、「その他大勢」しか出てこない。女性の登場人物は、実質ゼロ。しかしまあ、登場人物が少なくても波乱に満ちたドラマを展開する小説というのはある。が、この作品の場合、ドラマ性はないに等しい。
 アロナックスは研究のことしか頭になく、コンセイユは単なる分類オタク、自由人ネッド・ランドは自由を奪われて鬱屈し、ネモ船長は終始謎の人物としての立ち位置を崩さない。で、4人の関係は最初から最後まで変化しない。ネッドが時折思いついたように脱出計画を提案するが、それ以外には葛藤も駆け引きもないのだ。
 で、登場人物の間にドラマが存在しないところに、表面だけ危機や事件が起きても、真の意味での波乱にはならないのである。原住民や人食いサメや巨大イカに襲撃されたり、氷山に閉じこめられたりするが、ちっとも緊張感が生まれない。
 新しい海に移動すると、アロナックスがそこに生息する魚介類の種類を並べ立て、コンセイユは魚の名前を聞くたびにその学名を口にする。ネッド・ランドは脱出の機会を狙っては逃し、ますます苛立ちをつのらせる。ネモ船長は本人以外には理解できないような意味不明の言動を見せてアロナックスたちを煙に巻く。その繰り返し。
 この作品の一番の見せ場は、ノーチラス号の性能を発揮する場面だろう。時代設定はちょうど明治維新の頃(アロナックスたちがノーチラスに拾われるのが1967年、とはっきり書いてある)。ノーチラスは氷の海を突破して南極へ到達したり、深度1万メートル以上に潜航したり、1万6千メートルの深度から水面まで4分で浮上したり(潜水病は?)、軍艦を体当たりで沈めて何のダメージも受けなかったりする。明らかなオーバーテクノロジーである。宇宙人が作ったのじゃないかと思えるほどだ(それじゃ『ナディア』だ)。
 でも、やっぱりそれだけじゃドラマにならないのだ。
 ヴェルヌは決してドラマ作りが下手なわけではない。それどころか、前に紹介した『アドリア海の復讐』(2008年10月28日)など、文字通り波乱万丈のドラマに満ちていて、稀代の冒険小説作家としての実力を見せつけていた。それがなぜ、この作品はこんなに平板なストーリーなのか。潜水艦というアイデアと、海底の驚異を描写することに入れ込みすぎたのか。
 この作品が後世に与えた影響力は絶大である。だけど、現代のSFあるいは冒険小説のような話を期待して読むと、少々退屈かもしれない。多分、ストーリーを読むより、部分を楽しむべきなのだろう。あるいは、「世界の海洋ガイド」として読むとか...。

 蛇足だが、マッコウクジラの大虐殺はどうかと思う。

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2009年5月23日 (土)

わからなくなる本

わからなくなってきました/宮沢章夫(新潮文庫,2000)
 劇作家宮沢章夫のエッセイ集。前に取り上げた同じ著者の、『牛への道』(2008年5月22日)も変なエッセイ集だったが、こちらも相当変。
 ページ数の半分を占める第1章「天の猿 地の牛」は、新潮社のPR誌『波』に1995年から1996年にかけて連載されたエッセイをまとめたもの。特に共通したテーマはない。というか、1篇ごとの内容にさえ、共通したテーマがない。
 どういうことかというと、7、8ページ程度のエッセイの中に、三つのテーマが入っている。というか、全然脈絡のないテーマに関する三つのパートに分かれている。例えば第1章冒頭のエッセイは「距離はない・手をぱたぱたやる・東京の坂道」というタイトルで、最初はパソコン通信(懐かしい言葉だ)について、次にいきなり話題が変わって夏の虫について、そして「まったくのところ、自転車はいい」と唐突に自転車の話をし始めたかと思うと、いつの間にか東京の坂の名前について語り出す。
 テーマがあちこち飛ぶばかりでなく、内容も想像を絶する方向へ飛んでいく。「胴上げ・こんなにとれました・蒲団」というエッセイの第一部では、タイトルどおり胴上げについて書いているのだが、胴上げ参加者は自分が何を上げているのかわからない、気がついたら牛を上げていたとか、天津丼を上げていたとかいうことかある―なんて書き出す。天津丼を上げていても、胴上げ参加者は気がつかないのだ。「私はそこに、胴上げが持つ不可思議さを見るのだ。」
 こういうシュールなパターンだけではなくて、わりとまともなエッセイもある。「黒人たちが踊っている・知りたがっている・家に帰るまでが遠足だ」のパート3では、「職業が寝言を規定する」ことについての話。俳優が電車の中でうたた寝をした時の寝言が、その時出演している劇によって規定される―という想定から、ギャグを連発する。それがシェイクスピアや別役実だったらかなり困ったことになるが、平田オリザなら大丈夫らしい。最後は「いまや演劇の言葉は、寝言で口にすることに耐えうるかどうかにかかっているのだ。」と、結論づける。いや、この本の中ではかなりまともなんですよ、これで。普通におかしいし。
 第2章「はじめに賢いものござる」は、あちこちの雑誌や新聞に書いた短いエッセイの寄せ集めで、それぞれ三つのテーマを持っているなどという妙な特徴は持ってない。が、やっぱり変な発想に満ちている。
 第3部「読む人は幸いだ」は、タイトルから予想されるとおり、書評集。さすがにそんなにぶっ飛んだことは書いてないが、文章のはしばしから、おかしな空気が洩れているような気もする。
 解説を書いているのは、本文中にも名前があがっている別役実。この人もわけのわからない発想をすることでは当代に並ぶ者がないほどだが、「読み終わって、「わからなくなってきました」ら、あなたは確かに読み終えたのである。」と、解説を締めくくっている。
 それは正しい。「わからなくなる」のは、著者ではなく読者の方なのだ。前に『牛への道』について、「なんだかよくわからない本」という感想を書いたが、またしても同じようなことを書かなければいけないようだ。「なんだかよくわからなくなる本」。同じことか...。

わからなくなってきました (新潮文庫)

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2009年5月 4日 (月)

不可能犯罪捜査課

不可能犯罪捜査課(カー短編全集1)/ディクスン・カー;宇野利泰訳(創元推理文庫,1970)
 ロンドン警視庁で「奇怪な事件を専門に処理するために設置された」D3課のマーチ大佐を探偵役とした連作6編と、それ以外の独立短編4編を収録。
 原題は"The Department of Queer Complaint"で、もちろんこのD3課のことを指しているのだが、これを直訳せずに「不可能犯罪捜査課」と訳したのは見事である。ただし、「不可能犯罪」という言葉自体は作品中に一度も出てこない。
 マーチ大佐は体重238ポンドの巨漢だが、見かけからは想像できない鋭い頭脳の持ち主で、ほとんどの場合、現場を一通り見ただけで、一件不可能な事件の真相を言い当てる。ただし、種明かしは「なんじゃそりゃ」と言いたくなる、拍子抜けするようなものが多い。
 このマーチ大佐が挑む奇怪な犯罪は次のとおり。
 「新透明人間」では、タイトルのとおり、目に見えない犯人による殺人事件、しかも犠牲者も見つからず、事件そのものが幻としか思えない。
 「空中の足跡」は、雪の中の殺人現場に残された、あるはずのないところにつけられた足跡と、あるはずのところに存在しない足跡の謎。
 「ホット・マネー」は、強盗が隠したはずだが、どうしても見つからない金のありか。正直、この作品の謎解きが一番しょうもなかった。
 「楽屋の死」は、楽屋で起きた女優殺人事件の犯人のアリバイ破り。どうでもいいが、事件自体は普通の殺人で、全然「不可能犯罪」じゃないぞ。
 「銀色のカーテン」は、犯人の姿も凶器も見えないのに、目撃者の目の前で、いつの間にかナイフで刺し殺されていた男の事件。タイトルがややネタバレ気味。
連作最後の「暁の出来事」は、これまた凶器も犯人も見えない状態で起きた殺人事件。
結局、トリックとして一番よくできているのは「空中の足跡」か。
 シリーズ外の4編についても、ざっと書いておく。
 「もう一人の絞刑吏」は、死刑執行をめぐる法の隙間をついた"完全犯罪"の顛末を描く。
 「二つの死」は、成功寸前で破綻した完全犯罪の話だが、怪奇小説風味が混じっている。
 「目に見えぬ凶器」は、イギリスのとある館を舞台に、17世紀に起きた奇妙な殺人事件を館の主人が語る。ゴシックロマン的な雰囲気はよく出ているが、凶器の正体にはあまり意外性がない。
 放送禁止用語をタイトルにした「めくら頭巾」は、これまたイギリスの古い館で起きた惨劇が題材だが、ミステリではなく完全な怪奇小説。
 結局、一番気に入ったのは、この怪奇風味あふれる「めくら頭巾」なのだった。次がミステリとはいえ謎解きタイプではない「もう一人の絞刑吏」か。謎解きをメインとするミステリは、やはり私の趣味に合わないのかもしれない。

不可能犯罪捜査課 (創元推理文庫―カー短編全集 (118‐1))

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2009年4月23日 (木)

水族館の通になる

水族館の通になる―年間3千万人を魅了する楽園の謎/中村元(祥伝社新書,2005)
 2005年に創刊した祥伝社新書の、No.10。帯には「創刊第2弾!」と書いてあるので、創刊の翌月に出た中の1冊。
 この本、けっこう売れているらしい。今でもアマゾンはもちろん、主要な本屋には在庫がある。世の中、けっこう水族館好きが多いのだろう。かくいう私もその一人だが...。
 著者は鳥羽水族館や新江ノ島水族館のプロデュースにかかわった、いわば水族館のプロ。そのプロが水族館にまつわる基礎知識からトリビアまでを語る本である。例えば水族館と動物園の違いや、日本の水族館の数といった基本中の基本といった情報もあれば、魚はいつ寝ているのかとか、死んだ魚は食べるのかとかいった素朴な疑問への答えもある。
 まあ要するに、メインは水族館の裏話で、それ以上でもそれ以下でもない。あまり高度の知識や、日本の水族館ガイドといった内容を求めると、期待がはずれる。著者がターゲットにしているのは、マニアではなく、あくまで水族館好きの普通の人、それに子供たちである。つまりは、家族連れで休日に水族館に来てくれそうな人たちだ。
 また、著書は水族館や海に関する本を何冊か出しているようだが、水族館のプロではあっても、文章はあまりプロらしくは見えない。上に書いたような本書の狙いからして当然かもしれないが、おそろしく平易な、水族館の専門家が中学校やカルチャースクールで講義でもしているような雰囲気の文章である。それがいい味を出している。新書の中でも、これだけ何のひっかかりもなく、それこそ水が流れるように読める本というのは珍しいのではないか。
 そして、その平明な文章から、とにかく水族館が好きでたまらないという著者の気持ちはよく伝わってくる。水族館の好きな人間は、その思いを共有できるだけでも楽しい気分になるだろう。好著と呼びたい。

水族館の通になる―年間3千万人を魅了する楽園の謎 (祥伝社新書)

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2009年4月 3日 (金)

本の気つけ薬

本の気つけ薬/出久根達郎(河出書房新社,2006)
 古本屋兼直木賞作家として有名な著者のエッセイ集。タイトルからもわかるように、当然ながら、本がテーマ。
 全体は3部構成で、第1部「本を売る」が約半分を占めている。これは、読売新聞社広告局が出していたマーケティングレポート、『Input』に連載されていたコラムをまとめたもの。『Input』の実物を見たことはないのだが、多分業界向けに発行されていたものだろう。そのわりには、「本を売る」の各篇は、古書業界を巡る話題を中心に、本や出版界全般、さらには身辺雑記に至るまで幅広いテーマを飄々としたタッチで語っていて、マーケティング業界の影はまったく見えない。一般の人向けに書いているとしか思えないのである。
 古本屋の立場から、同業者の商売ぶりを批判する「客の立場」や、本を買うのも読書のうち(「選ぶことが、すでに読んでいる」と、売り手と買い手の違いはあれ、岡崎武志と同じようなことを言っている「買うのも読書」などもおもしろいが、第1部でのマイベストは、「赤い服の子」。小説のジャンル無用論という大胆な主張を語りながら、いつのまにか一篇のショートショートみたいな物語的要素のあるエッセイに仕上がっている。わずか3ページによくもこれだけの要素が詰め込めるもの、と感心する。
 以下は、「ジャンル不要論」の部分の一節。

 小説はもともとジャンルに分けるべきではない。推理小説というなら、まずはほとんどの小説がそうだろうし、恋愛小説といったら、全部の小説が当てはまる。幻想小説でない小説があろうか。ファンタジーでない小説があったら、教えていただきたい。魔法使いは姿を見せなくとも、読者を幻惑する仕掛けはひんぱんに設けられている。(p.94)

 見てのとおり、実は、「あらゆる小説はファンタジーである」という主張でもある。

 第2部「書店浴」は、新聞、雑誌、文庫の解説などを寄せ集めたもの。長さもテーマも読者層もバラバラで、それに応じてスタイルや文体も、レポート、断章、回想、評論とさまざま。
 標題になっている「書店浴」は、本屋好きの心をくすぐるショートエッセイ。これも捨てがたいが、第2部のマイベストは、古書店業界に入ったばかりの若い頃の思い出を語る「雲ながるる果てに」としたい。しみじみとした名品である。
 また、「一千八十七名 『坂の上の雲』の全登場人物」では、『坂の上の雲』を読みながら実際に全ての登場人物の人数を数えたというあきれるようなエピソードを語っている。それだけこの作品に入れ込んでいるということなのだろう。司馬遼太郎については他にも何篇かのエッセイが収録されている。著者はかなりの司馬遼太郎マニアと思われる。

 第3部「父の読者」は、基本的に書評集。ただ、標題の「父の読者」だけは書評ではなく、著者の父親についての思い出。父親は投稿マニアで、著者を最初の読者として見ていたらしい、という短いエッセイ。
 書評の中でおもしろいのは、岡崎武志の『気まぐれ古書店紀行』の書評、「掘り出しは均一台」。古本屋が古本マニアの書いた本の書評を買いているわけで、親しみをこめておちょくっているような文章が、読んでいて楽しい。
 本書全体のタイトルとなっている「本の気つけ薬」は、この第3部に収録されている。呉智英の『言葉の常備薬』の書評である。冒頭にいきなり、「タイトルが、いい」と買いている。よほど気に入ったらしい。エッセイのタイトルは、本文中の、「本書は気付け薬であり、謝った言葉遣いの治療薬である」から来ている。ちなみに、本文では「気付け薬」と書いてあるが、タイトルの表記は「気つけ薬」である。なぜ違うのかはわからない。
 「本の気つけ薬」は『言葉の常備薬』という本への賛辞であると同時に、そのタイトルの本歌取りにもなっている。ただ、呉智英とは違って、この本が何かの治療薬になるかどうかはわからない。ちょっとした無気力や倦怠感の治療には役立つかもしれないが、全体としては、むしろ活字中毒を悪化させるだけのような気がする。まあ、帯の惹句にも「本は百薬の長」なんて書いてあるし、もっと活字中毒になりたい、という人は読むといいかもしれない。

本の気つけ薬

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2009年3月26日 (木)

春秋戦国激闘史

春秋戦国激闘史/来村多加史(学研M文庫,2002)
 春秋戦国時代は、通常は紀元前770年の東周王朝の開始から、紀元前221年の秦による中国の統一までを指す。春秋時代と戦国時代の境目は、紀元前403年に春秋の大国、晋が韓・魏・趙に分裂した時とされている(晋そのものは、その後も何十年か細々と続く)が、そんなに劇的な変化が起きているわけではない。約550年にわたる、長い分裂時代である。
 もっとも、この時代より以前に後の秦以後のような中央集権的国家が成立していたわけではないので、「分裂」というよりは、「未統一」の状態だったという方がいいかもしれない。
 本書は、「戦闘」に重点を置いた春秋戦国史である。ただし全期間ではなく、春秋についてはごく一部、戦国も秦の始皇帝の登場前までで終わっている。第一幕は「柏挙の戦い」をクライマックスとする呉と楚の戦い(紀元前511~506年)。最後の第二十八幕が、秦の中国統一に先立つこと37年前、秦と趙・魏・楚連合軍との間の「邯鄲の戦い」(紀元前257年)。つまり、紀元前511年から257年までの約250年間。長い春秋戦国時代の半分以下である。
 どうしてこの期間に限定されているのかよくわからないが(ページの都合もあるもしれない)、伍子胥、勾践、夫差など、日本でもよく知られている人物が登場し始めるのが紀元前510年頃からであり、一方「邯鄲の戦い」は、秦が他の諸国に最後に大敗した戦争で、それ以後は秦が強くなりすぎ、一方的な侵略ばかりになっておもしろみがない、というところだろうか。
 文章は、歴史の本にしては小説的。「暗闇遠く、左右から地鳴りのように響いてくる無気味な鼓の音に、思わず夫差は声をあげた。」(p.36)とか、「田単の放った間諜は、一呼吸おいて話を続けた。」(p.198)とか、「見てきたような描写」が多い。まあ、これは文庫の性格もあるだろう。歴史本というより、戦史本なのだ、やはり。臨場感はたっぷりとある。
 また、戦況図や作戦面の詳細な描写など、軍事的な面での情報量は多い。反面、局地的な戦場の記述に特化していて、全体的な動きが見えにくく、多数の国々が織りなすダイナミックな興亡史にはなりきってない。文庫一冊でこの二つを両立させるのは至難の業なので、これは仕方がないところか。

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2009年3月 9日 (月)

壜の中の手記

 ジェラルド・カーシュの短篇集『壜の中の手記』には、2002年に晶文社から出たハードカバーと、それをベースに2006年に角川から出た文庫版がある。文庫版はハードカバーとまったく同一ではなく、一部の作品が差し替えられている。
 今回取り上げるのは、ハードカバーの方。

壜の中の手記/ジェラルド・カーシュ;西崎憲他訳(晶文社ミステリ,2002)
 「豚の島の女王」は無人島漂流もののバリエーション。ただし、無人島に漂着したのは、サーカス一座で見せ物になっていた双子の小人、怪力の巨人、そして手も足もない美女。彼らだけの王国の成立と崩壊が、「女王」の遺した手記から明らかになる。鮮烈な印象を残す異形のドラマである。
 「黄金の河」は、エル・ドラド物語の一種。酒場で出会った男が、アマゾン奥地での奇怪な風習を持つインディオたちとの経験を語る。黄金や宝石であふれた村、ナッツを使った奇妙なゲーム、「知能を持ったナッツ」との出会いと別れの物語。
 「ねじくれた骨」は、多分南米のどこかにある孤立した刑務所が舞台。脱出しても外にいるのは奇怪な風習を持つインディオで、脱出した囚人は、刑務所にいるより遙かに悲惨な目に会う。刑務所にいる方がまし―という救いのない現実を、老囚人が語る。
 「骨のない人間」は、旧・『奇想天外』で初めて翻訳された(その時の邦題は「「骨なし族」、ちなみに訳者は鏡明)、怪奇SFの佳品。アマゾン地方と思われる(また!)港町にさまよいこんできた「狂った男」が語る、ジャングルの奥に隠れ住む奇怪な種族「骨のない人間」と、その意外な正体。ラストの一文を読んで、「ウルトラセブン」のあるエピソードを思い出したのは、私だけではないだろう。
 表題作「壜の中の手記」の原題は"The Oxoxoco Bottle"。オショショコというのは架空の地名で、メキシコ奥地にある村の名前。そこは特異な形の壜の産地ということになっている。語り手がたまたま入手した「オショショコの壜」から、アンブローズ・ビアスの手記が発見される。ビアスが1914年にメキシコで行方不明になっているというのは歴史上の事実。異様な風習を持つインディオ(また!)に捕らわれたビアスの運命を、手記は示唆しているが、例によってどこまで本当なのかは、わからないままになっている。この作品の初出は1957年。宮沢賢治の「注文の多い料理店」は、この作品を先取りしていたのか?
 ブライトンの怪物」は、18世紀にブライトン沖の海で捕らえられた「怪物」の記録を巡る物語で、収録作の中では珍しく、明解な証拠の数々が動かない事実をつきつける。「怪物」の正体は、日本人には特に衝撃的なものである。1948年、原爆投下の記憶がまだ生々しい時代に書かれた作品で、冒頭の「それは人類史上最も恐ろしい出来事に関連した話なのだが」という文章に著者の思いが感じられる。「原爆文学」としても読めるSF。
 「破滅の種子」は持ち主に破滅をもたらす指輪を巡る物語。有名な寓話のヴァリエーションである。
 「カームジンと『ハムレット』の台本」は、自称天才的犯罪王、カームジンを主人公とした連作のひとつ。このエピソードでは、シェイクスピア劇の自筆脚本を使った詐欺の一幕を、犯罪王自らが自慢たっぷりに披露する。この作品と、次の「刺繍針」は、文庫版には入ってない。
 「刺繍針」は、タイトルどおり、刺繍針を凶器にした奇妙な殺人事件を巡るミステリ。
 「時計収集家の王」は、伯爵を名乗る胡散臭い男が語る、とある王国の崩壊の物語。伯爵は実は元時計職人で、彼が作った精巧な自動人形が、文字どおり一国を動かすことになるのだが...。
 「狂える花」は、一種のマッドサイエンティストもの。犯罪者の血が食虫植物を凶暴化させ、さらに植物から虫に、虫から動物や人間に、凶暴化因子が伝染していくという、とんでもない奇想が、実験に関わった科学者の手記(また!)の形で語られる。
 「死こそわが同志」は、収録作の中で一つだけ作風が違っている。この作品だけは、誰かの手記でも、語りでもなく、普通の小説の形式で書かれているのだ。果てしなく破壊兵器の開発を続ける死の商人を皮肉たっぷりに描く寓話風の物語。作中に、「あの男は自国の独裁者にとどまらず、世界に君臨したがっている」と隣国の大統領に言われるフェイエルバッハという独裁者が登場するが、これが誰をモデルにしているかは、この作品が書かれた1938年という時代背景を考えるとすぐにわかる。

 こうして見ると、大半の作品に共通する特徴があることがわかる。第一に、物語は孤島とか、ジャングルの奥とか、刑務所とか、王宮とか、日常生活から隔絶した場所で展開する。第二に、その物語は何者かの一方的な語り、あるいは手記という形で間接的に伝えられる。伝聞という枠の中に、閉ざされた舞台というもう一つの枠がはまっている。つまりは、真偽を確かめる術がない。
 これは実は、まったくホラ話のパターンなのだが、その内容は、ホラ話と呼ぶにはあまりに辛辣だったり悲惨だったり深刻だったりする。「残酷なホラ話」とでも言うべきか―、これがカーシュの持ち味なのだろう。

壜の中の手記   晶文社ミステリ

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2009年2月28日 (土)

詩人、本を語る 2

 前に荒川洋治の『本を読む前に』を取り上げたが(2008年11月27日)、今回はねじめ正一による書評エッセイ。

読むところ敵なし 言葉のボクシング/ねじめ正一(ハルキ文庫,1998)
  銀座と巨人をこよなく愛する詩人・作家のエッセイ集である。
 ねじめ正一といえば、『高円寺純情商店街』で直木賞を受賞し、テレビドラマ化までされたことでよく知られているが、やはり本業というべきは小説ではなく詩だろう。1997年には「詩のボクシング」の初代チャンピオンにも輝いている。その翌年に出たこの本のタイトルは、もちろん「詩のボクシング」から来ているに違いない。
 この本だが、要はコラムや書評が中心の軽いエッセイ集である。が、言葉の選び方のはしばしに詩人らしい感性が埋め込まれている。中には「中上健次に捧げる」や「美空ひばりに捧げる」みたいに詩の形式のエッセイまである。
 が、詩人が書いているから高踏的なところや抽象的なところがあるかというとそんなことはなく、その感性はあくまで日常的。高橋源一郎や長島茂雄や藤井貞和の「地に足がついてない」ところを誉めているが、本人は実に地に足がついた人のようだ。
 無論、詩人だけあって詩関係のエッセイも多く、この世界をよく知らないこともあって、なかなか新鮮だった。現代詩のおもしろさを力説する著者の言葉には、詩の世界への思い入れがこもっていて、この人はあくまで詩人が本領なのだと思わせる。
 特に、北村太郎、高橋鏡太郎(俳人)、藤井貞和(高橋源一郎の「ゴヂラ」の登場人物としてしか知らない)、山口哲夫、高岡淳四、田中庸介などの詩は実におもしろそうに見える。もっとも、詩を紹介するというのは至難の業である。この本でも、実は詩の中身はさっぱり見当がつかないので、それぞれの詩人のキャラクターの書きぶりのが、おもしろそうに見える主な原因だが。
 「ボクシング」と言うほどのインパクトは正直なところ感じられないが、頭を心地よく揺さぶられる気分にはなる。なお、巨人ファンだというところだけは残念だが、誰にも欠点の一つ二つはあるものだから仕方ない。

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2009年2月19日 (木)

大リーグと都市の物語

大リーグと都市の物語/宇佐見陽(平凡社新書,2001)
 タイトルだけだと、内容がなんだかわかりにくいが、要するに大リーグの略史がメイン。ただし、球団の成績やプレイヤーの話はほとんど出てこない。「野球」の話を期待すると当てがはずれるだろう。
 何が書いてあるかというと、球団の移転や拡張、誘致合戦、チームとファンや地域との結びつき、マイナーリーグと地域社会、球場の名称と建築様式の変遷、といった大リーグ周辺の話題に焦点を当てている。特に、最後の「球場進化論」みたいな話はオタクっぽくてけっこうおもしろい。
 つまりは、スポーツとしての「野球」に関する本ではなく、社会現象としての「大リーグ」という仕組みについての本。スポーツ史ではなく、歴史といっても、社会史なのである。
 ところで、当たり前だが大リーグチームは通常は大都市にフランチャイズを置いている。日本のプロ野球と同じように。だが日本と違ってアメリカでは、メジャーの下に200を超えるマイナーリーグがある。基本的に3A→2A→A→ルーキーとランクが下がるにつれ、所在地も小さな町になっていく。チームのランクと所在都市のランクが連動しているのである。逆にいうと、その町に本拠を置くチームのランクが高ければ、町のランクも高く見られるということだ。
 中部の町カンザスシティ(カンザス州ではなくミズーリ州にある)は人口50万弱、大都市というほどではないのだが、大リーグチーム、ロイヤルズの本拠地がある。ロイヤルズと、NFLのチーム、チーフス(本書ではなぜか「シェフス」と書かれている)があることが、カンザスシティの「格」を高くしているわけで、本書の98ページには、「この二つのチームがなければ、われわれの街はウィチタとなんら変わらない」という地元の政治家の言葉が引用されている。ウィチタはカンザス州にあるカンザスシティのライバル都市、だそうだが、田舎の街という印象が強い。大リーグチームがなかったら、カンザスシティもただの田舎町にすぎない、ということだろう。
 一方で、けっこう規模が大きい都市なのに大リーグのチームがない、という都市もある。オハイオ州コロンバス、ルイジアナ州ニューオーリンズ、インディアナ州インディアナポリス、テキサス州サンアントニオ、などだが、こういった都市がどのように見られているのか、また市民が大リーグをどう見ているのか、興味がわくところである。残念ながら新書のページ制限のためか、本書にはそこまでは書いてない。インディアナポリスが大リーグチーム誘致に失敗した、ということはちらっと書いているが。
 また、同一都市圏にチームが複数あるのは、大都市の証明(ニューヨーク、シカゴ、ロサンジェルスなど)との記述もある。都市の格や威信と野球チームとのつながりは、日本よりはるかに強いようだ。日本では、たとえば所沢や西宮にプロ野球チームがあるからと言って、そんなんい都市自体の格が上がると見られているようには思えない。日本のチーム名に都市名があまり入らない、ということも大きいかもしれないが。
 こんなふうに、スポーツファンよりはむしろ地理ファンの好奇心や想像力を刺激する、ユニークな視点の本である。

大リーグと都市の物語 (平凡社新書)

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2009年2月 7日 (土)

黄昏のカーニバル

黄昏のカーニバル/清水義範(徳間文庫,1995)
 最近、ちくま文庫から清水義範の「清水義範パスティーシュ100」と題して自選のパスティーシュが刊行され始めた。全6冊の予定だという。パスティーシュだけでこれくらいの分量の本が出せる作家は、他にいないだろう。それくらい、清水義範はパスティーシュ、パロディ、言葉遊びの印象が強く、普通のSFやミステリに出会うと、かえって新鮮味を感じたりする。
 この本がまさにそうで、清水義範の「SF短編集」である。パスティーシュや言葉遊びではなく、普通のSF短編(SFに「普通」というのも変だが)ばかり。ちなみに、単行本は1991年発行。
 最初はいつものあの路線かと思いながら読んでいて、巻頭の「外人のハロランさん」があまりに普通に終わってしまったので、「あれ?」と思った。改めてあとがきや解説を読んで、やっとそのことがわかった。
 巻末にはなぜか「著者あとがき」と牧真司による「解説」の二つがあるが、収録作については両方とも同じようなことを言っている。著者いわく、「ノスタルジック」、「古き良き時代を思わせる」、牧真司いわく、「オーソドックスなSF」、「往年のアイデアSFが持っていた妙味」。
 要するに、よく言えば懐かしく、味わいのある、悪く言えば古くさいということだろう。実際に読んでみた感想も、それに近かった。
 今時珍しいストレートなアイデアストーリー。ただし、ハードなSFではなく、「少し不思議」に近い話。実のところ、肝心のアイデアにしても、そんなに目新しいアイデアがあるわけでもないし、また、ショートショートで十分だろ、というアイデアも目につく。が、それをある程度の長さの話にしてしまうのは、パスティーシュで鍛えた饒舌な文体のせいだろう。昔のSFにはあまりなかったこの語り口が、清水義範の真骨頂である。いわば、「なつかしのSF」の清水義範的再話か。
 ベスト3は「外人のハロランさん」、「嘉七郎の交信」、「21人いる!」(時代を感じさせる題名だ)。偶然かもしれないが、どの話もある意味、未知の存在との「コンタクト」がメインテーマになっている。何とコンタクトするのかは、ネタバレになるので書かないが。
 表題作はなつかしの核戦争もの。今や希少価値のあるテーマだが、正直、あまりおもしろくない。なぜこれを本のタイトルにしたのかよくわからない。だいたい「清水義範らしくない」タイトルで、おもしろそうに思えないのだ。
 しかし上に挙げたベスト3のうち2編はタイトルとしてはいまひとつで、「21人いる!」もあまりにあからさまなパロディ風で、内容にそぐわない。インパクトという点では「デストラーデとデスティファーノ」も考えられるが、しかしこれでは小説ではなくて野球の本みたいだ。話としては、エッセイの後ろに無理矢理ストーリーをくっつけてSFにしていて、ある意味おもしろいが。残る二つ、「唯我独尊」、「消去すべし」は、本のタイトルとしてはしっくりこない上に、両方とも内容が今ひとつ。
 といういことで、消去法で行けば、ブラッドベリもどきで内容と雰囲気があわない「黄昏のカーニバル」しかなかったのかもしれない。


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2009年2月 4日 (水)

考える胃袋

 だいぶ前になるが、小泉武夫『地球怪食紀行』を紹介した時(2007年4月19日)、小泉武夫、石毛直道、森枝卓士の3人を、「日本3大食文化人」と言えるのではないか、などと書いたことがあった。
 その後、森枝卓士は取り上げたが(『味覚の探究』2008年11月25日)、石毛直道はまだである。石毛直道の『文化麺類学ことはじめ』はぜひ紹介したい好著だが、今回はとりあえず共著から。

考える胃袋 食文化探検紀行/石毛直道、森枝卓士(集英社新書,2004)
 石毛直道と森枝卓士という「日本3大食文化人」のうち二人の対談。
 小泉武夫ほどのはじけ方はしないが、石毛直道はアカデミックに、森枝卓士はルポあるいはドキュメント・タッチで、海外の食文化を巧みに語る名人である。さぞや食の話に花が咲くだろうと思ったら、実のところ、年齢・学歴でかなりひけめのある森枝がやたら下手に出て聞き役にまわるものだから、今ひとつトークが白熱しないのだった。
 だいたい、前書きからして、森枝卓士は「石毛さんには迷惑な話だろうが、勝手に師匠だと思っている。」なんて下手に出まくっている。対談の中でも、基本的に石毛直道に質問するか、発言を補完するかという役回り。親分と子分の対談みたいな感じである。
 ちなみに、石毛直道は京大卒、国立民族学博物館名誉教授(元館長)、森枝卓士は石毛より18才年下で、国際基督教大学卒、フリーのジャーナリスト。
 だいいち、酒の話があんまり出てこずに、マジメなことばかりしゃべってる。「酒がなくなる恐怖の話」というのもあるが、10ページくらいしかない。これで小泉武夫が混じって酒の話を始めたらさぞ興奮ものの対談になっただろうに。刺激的な要素に乏しく、顔ぶれから予想するほどおもしろくはなかったのが残念。
 とはいえ、石毛直道の得意分野の麺食文化の話(第四章「文化"麺"談」)は押さえてあるし、異文化を巡る旅と食の話(第三章「旅が食を、食が旅を」)、人類学視野からの食談議(第五章「サルから文明まで」)、現代社会と食の問題(最終章「食の現状をどう見るか」)など、食文化にまつわる基礎的なテーマはひととおり押さえてあるので、入門的な本としてはいいかもしれない。

考える胃袋―食文化探検紀行 (集英社新書)

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2009年1月29日 (木)

架空戦国大作(その2)

 前回の続き。

戦国覇王伝 6~10/中里融司(学研・歴史群像新書,2000-2002)

6 東海道の荒武者
 今回、伊達政宗は休み、出番はほとんどない。豊臣体徳川の両巨大勢力が、いよいよ直接対決に向けて動き出す。
 といっても、前半はもっぱら謀略戦。四国の藤堂、長宗我部、蜂須賀が徳川の調略を受けて反豊臣側に寝返る。寝返りの常習犯だった藤堂高虎はまあ当たり前として、史実では大坂の陣で豊臣方として死んだ長宗我部盛親が徳川につくのはやや意外であった。だが話を盛り上げるためには、四国でも危機を作っておかねばならないのだろう。
 後半では、徳川家康がいよいよ直接軍を動かし、清洲の福島正則を攻める。この頃、まだ名古屋城はなく、「那古野砦」があるだけ。数にまかせて押し寄せる徳川軍に追いつめられた正則を救うため、豊臣秀頼自らが密かに清洲に乗り込むのだが、それを許す淀殿が人間ができすぎ。秀頼と並んで、史実とは性格が一変した代表格だろう。ここまで話のわかる、人間のよくできた淀殿は、他の小説やドラマでは見たことがない。表紙はその淀殿。

7 鹿角の軍神
  前半は、清洲城の戦いと福島正則救出作戦の続き。しかし福島正則は加藤清正とキャラがかぶるせいもあり、今ひとつ目立たない。これは実際の歴史でもそういうイメージなのだが。
 後半、伊達政宗が表舞台に再登場。伊達家討伐をめざす徳川軍の奥州侵攻戦が始まる。この『戦国覇王伝』という長い物語全体を見た時、ここからが間違いなくクライマックスになる。
 徳川家康自らが統率する遠征軍が、とにかく強い。というか、その中心である「無傷の名将」本多忠勝の強さが人間離れしている。ゲームで言えば「ラスボス」クラスか。いや本当のラスボスは家康だろうが、戦闘力から言えば間違いなく最強。というわけで、表紙は本多忠勝。

8 仙道の火祭り
 奥州戦線の続き。数で勝る徳川軍は序盤から伊達家を圧倒する。伊達家は次々と要地を落とされ、野戦でも敗れ、ついには仙台にまで徳川軍が攻め込んでくる。―という具合に、作者はこれでもかというほど伊達政宗を追いつめていく。
 しかし状況がいくら不利になっても、政宗の余裕たっぷりな態度が崩れないので、読む側としてはあまり緊張感はない。むしろ、この窮地からどうやって一発逆転するかというそっちの方に興味が向いてくる。
 一方で清洲に進駐した徳川秀忠軍に秀頼が何やら謀略をしかけている様子も描かれ、東でも西でも何か大逆転の気配を感じさせながら次の巻に引っ張る。
 この巻では、1巻から登場していた秀頼のお伽衆にして軍師、曽呂利新左衛門の意外な正体も明らかになる。表紙はジュリア・ヴァルデス。

9 龍神たちの宴
 奥州戦線完結編。やはり8~9巻がこのシリーズ全体のクライマックスだった。
 仙台に攻め込んだ徳川家康が伊達政宗の奇策により撃退される場面が、全体の戦局の大きな転換点になる。関ヶ原から始まって、今まで攻勢一方だった徳川軍がここでついに敗退することで、流れが変わってしまうわけである。ミッドウェイ海戦みたいなものだ。
 仙台攻防戦で伊達政宗がとった起死回生の秘策というのが、映像にすればさぞ迫力があるだろう。要は水攻めの大規模なやつである。作戦そのものはだいぶ前から話の中で示唆されていたので意外性はないが、徳川軍を押し流す怒濤とともに日本全体の戦いの潮流そのものが変わるわけで、話の攻勢としても視覚的効果としてもよくできている。
 後半は話が目まぐるしく動き、豊臣方が徳川秀忠の暴走で京都を追われた天皇をかくまい、「官軍」としての大義名分を手に入れると、九州からは加藤、黒田、立花が合流し、仙台から追撃する伊達軍には上杉軍が合流、徳川攻めの体制を整える。
 一方敗退した徳川軍も戦力を立て直し、島津、鍋島、長宗我部を呼び寄せて反攻をはかる。双方が戦力を結集し、関東平野を舞台にいよいよ最終決戦に望む、というところで続く、と来る。表紙は徳川家康。

10 乱世終焉
 10巻にわたる長大な架空戦国絵巻の最終巻。9巻の仙台攻めでの大逆転と、「錦の御旗」を手に入れた豊臣軍の出撃で流れは決まっているので、後の興味は「徳川家康がいかに敗れ、いかに死ぬか」だけである。
 クライマックスは、「第二の関ヶ原」、利根川沿いの「深谷の戦い」。南北から押し寄せる豊臣軍と、残存兵力を集結した徳川軍の最終決戦である。なんとも派手な戦闘シーンが延々と繰り広げられるが、最後は予想どおりになる。
 この後、家康は戦場ではなく江戸城で意外な(いや、複線はもう何巻も前から引かれていたのだが)なりゆきで命を落としてしまうが、それはもう蛇足のようなもの。
 最後にデビュー作『坂東武陣侠』(2008年3月29日のエントリーで紹介済)と同じパターンで、豊臣家の天下となった日本の、200年後までの歴史を簡単に書いている。どこがどう変わっても、日本は明治維新と同じ頃に近代国家になるらしい(笑)。
 この巻で惜しいのは、登場人物が多すぎ、最後の1冊にすべてを詰め込むため、一人一人の描写が少なくなってしまったこと。長大なシリーズの最終巻にはありがちなことで、仕方がないことではあるが。最後の表紙は当然ながら伊達政宗。

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2009年1月28日 (水)

架空戦国大作(その1)

 今まで読んだ戦国時代もの架空歴史小説の中で(といってもそんなに多いわけではないが)、一番おもしろく、かつ一番ぶっ飛んでいた作品『戦国覇王伝』を2回に分けて紹介する。まず最初は1巻から5巻まで。

戦国覇王伝 1~5/中里融司(学研・歴史群像新書,1999-2000)

1 乱世ふたたび
 関ヶ原の戦いから歴史が変わっていく、というのは戦国架空歴史ものの定石であるが、この話の場合、戦いそのものはほぼ史実どおりに展開し、西軍の惨敗に終わる。歴史が変わってくるのはその直後からで、幼い豊臣秀頼が、突如として年に似合わない異様な才知を発揮し、一挙に戦後処理の主導権を握ってしまう。
 この話の基本設定は、秀頼が見せる超人的な、というか怪物的な早熟の天才ぶりという、ほとんどその一点にかかっていると言っていい。そこで、「そりゃあり得ないだろ」と言ってしまえばすべて終わってしまうのである。
 中里融司の熱気のこもった文体は、この非現実的な設定を無理矢理読者に飲み込ませてしまうことに成功している。豊臣秀頼のあり得ないような天才ぶりに加えて、真の主人公、伊達政宗のメチャクチャな性格をこれでもかと見せつけ、「これはそういうとんでもない話なのですよ」と宣言してしまっているのが大きく作用しているのだろう。何があってもおかしくない架空歴史小説なのだと、のっけから読者を思わせてしまうのだ。
 小林智美の華麗なイラストも、破天荒で派手なストーリーに合っている。1巻の表紙キャラクターは(当然)伊達政宗。

2 北の関ヶ原
 伊達政宗の暴走はとどまるところを知らず、秀頼はますます妖怪じみてきて、その敵方である家康の陰険さもレベルが上昇する一方。主要なキャラクター3人の、感情(政宗)、理性(秀頼)、知恵(家康)という対比ぶりがよくできている。
 伊達政宗の相方、片倉景綱や朝鮮から来た道術使いの女戦士、柳照蘭、ちょっとだけ出てくる前田慶次郎など、脇役もキャラが立っていて、そこが「歴史シミュレーション」の枠をはみ出すおもしろさになっている。もう「歴史キャラクター小説」と言ってもいい。
 この巻では東北と関東を舞台とする徳川方と豊臣方の戦いを追っているが、最後には謎のスペイン船まで登場するなど、ストーリーもとどまるところを知らず突っ走っている。
 残念なのは本文イラストが小林智美から変わってしまったこと。表紙だけは幸い前のまま小林智美で、今回は美少年の豊臣秀頼。

3 乱刃信州戦線
 スペイン船に乗っていた金髪のお姫様、ジュリア・ヴァルデス登場。この巻以後、重要な役割を果たすことになる。架空歴史ものでこういう完全な虚構の人物、しかも女性が出てくるのは珍しい。それ以外にも、女忍者や女戦士がずいぶんと出てきて活躍する。作者の趣味か。
 後半は真田家登場。真田昌幸、信繁(この巻ではまだ幸村とは名乗ってない)親子のキャラクターは、わりと類型的ではあるが、信繁が異様なまでに好青年に描かれている。真田家だけならまだしも、真田十勇士がちゃんと出てくるのも、この作品らしい。この巻で出てくる十勇士は、三好青海、霧隠才(才蔵が女性化)、猿飛、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎(普通の武士っぽい)。名前だけなら、根津甚八、伊佐入道も出てくる。もう何でもありという様相である。
 さらに最後の数ページでは、島津家の呪法による豊臣秀頼暗殺未遂というとんでもない事件が起きる。物語の展開上もとんでもないが、超自然的な力が出てくることにより、一挙にファンタジーの領域に足を踏み入れてしまうわけである。作者はいったいどこへ行こうとしているのか。
 ところで「ジュリア・ヴァルデス」はスペイン風発音なら「フリア・バルデス」では。
 表紙は多分上杉景勝(上杉謙信の兜をかぶっている)。

4 西海の猛虎
 舞台を九州に移し、前巻の最後で豊臣家に反旗をひるがえした島津家と、加藤清正を中心とする豊臣方討伐軍の死闘を描く。全体の流れからいえば傍流的な1冊か。
 豊臣方は加藤清正、黒田如水に加えて立花宗茂という結構豪華な顔ぶれ。書きぶりから見て、著者はとにかく加藤清正と黒田如水が出したかったと見える。そのわりには、せっかく出てきた大物があっさり死んだりするが。
 この話に登場する島津家は完全な悪役、しかも妖術を操る。呪法で鍋島直茂を操って裏切らせ、味方につけたりする。何だか要所要所で超自然的な力が働く話である。
 表紙は加藤清正。

5 北辺の守護神
 伊達政宗が5巻目にして初めて、ほぼ1冊まるごとの主役を張る。宿敵・最上義光との決戦とはいえ、マイナーな武将との合戦に1冊全部使い切っているのは、さすがに、「真の主役」というべきか。
 この巻で討ち死にする最上義光は、なんとなく伊達政宗と似たキャラクターで、著者はこの男にもけっこう思い入れがあったようだ。前巻の黒田如水もそうだったが、単なる忠義者よりも、一癖も二癖もある策謀家がむしろ好意を持って扱われているように見える。というか、そういう人物の方がキャラクターを立てやすいからか。表紙は真田幸村。

 というわけで5巻まではもっぱら地方での争乱がメイン。6巻目から、事態はいよいよ豊臣・徳川の全面対決に向けて動き出す。次回に続く。

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2009年1月18日 (日)

リンボウ先生の閑雅なる休日

 今回初登場、リンボウ先生こと林望。本業は書誌学者だが、書誌学といってもどんな学問なのかということすら知らない人が多いだろう。まあ、私も書誌学などどうでもよくて、この人のエッセイにしか興味がないわけだが。
 実はけっこうひいきにしているエッセイ作者の一人である。エッセイといえば昔は椎名誠に入れあげたこともあったのだが、年のせいか最近では丸谷才一や林望の方が面白くなってきた。ただし、東海林さだおは別格で、あれは年齢に関係なくいつ読んでもおもしろい。
 それはともかく、林望で最初に取り上げるのはこの本。代表作のイギリスものやその他については、いずれまたの機会に。

リンボウ先生の閑雅なる休日/林望(集英社文庫,2005)
 短めの文章を集めたエッセイ集。林望といえば、当然ながら『イギリスはおいしい』に始まる一連のイギリスものエッセイで有名になったわけで、この本にも、やはりイギリスに関するものが目立つ。が、それだけではなく、周辺雑記、回想、日本文学、食べ物、言葉、音楽など、テーマは実に幅広い。初出がどこにも書いてないのが残念だが。
 本書冒頭のエッセイ「近代の置き忘れた視点」の書き出し、つまりはこの本全体の書き出しは、「イギリスの田園地方の古い運がを行きながら考えた。」と、なんだか夏目漱石の『草枕』を思わせるような文章になっている。そのせいか、明治時代の文人が現代に生きていたらこんなことを書いたのではないか、と思わせるような雰囲気があちこちに感じられる。
 そういえば収録されたエッセイの中にも夏目漱石のことを書いたものがあり(「漱石とビステキ」)、他にも漱石の名前が出てくる箇所がある。同じようにイギリスに留学した者同士として、著者は漱石のことを意識していたのだろうか。

 タイトルの「閑雅」とは、日常ではあまり聞かない言葉だが、あとがきによれば、「俗に居て俗に堕ちず、市に居て車馬の喧しきを聞かず」という井原西鶴の生き方をいうのだそうだ。そして、この「閑雅」こそが、著者の目指す境地なのだとか。
 上に書いた独特の、どこか高踏的な雰囲気は、そう言われると、なるほど「閑雅」という言葉がしっくりくるような気がする。これは、林望のエッセイ全般に通じることでもあるのだが。
 とはいえ、収録されたエッセイの中には、単なる日本社会についての頑固オヤジの苦言としか思えないものもある。「閑雅」を感じるのは、やはりイギリスでの経験から出てきたエッセイだ。日常見聞きすること(そして腹の立つこと)を書いて、「俗に堕ちない」のは、リンボウ先生にも難しいのかもしれない。
 この本には共通したテーマもなく、きわだった特徴もないのだが、林望の人生のテーマである「閑雅」の語を題名に選んでいることといい、題材や書きぶりの多様さといい、「リンボウ・エッセイ」のサンプル集と言うべきかもしれない。

リンボウ先生の閑雅なる休日 (集英社文庫)

 なお、まったくの蛇足だが、林望の「望」は、「のぞむ」と読む。SF翻訳家の大森望は「のぞみ」、ミステリ作家の西村望は「ぼう」(ただし本名は「のぞみ」)、念のため。

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2009年1月11日 (日)

本と中国と日本人と

本と中国と日本人と/高島俊男(ちくま文庫,2004)
 中国をテーマにした本の書評集。取り上げているのは、ほとんどが日本人が書いた本。つまり「日本人」が書いた「中国」に関する「本」を扱っているからこういうタイトル。
 書評といっても新刊本を扱っているわけではなく、出版年は明治から現代までをカバーしている。また、著者は中国文学の専門家だが、取り上げた本のジャンルは文学や歴史にとどまらず、きわめて幅広い。
 例えば、詩人金子光晴の中国紀行『どくろ杯』、山口淑子の自伝『李香蘭 私の半生』、檜山良昭のスパイ小説『スターリン暗殺計画』、邱永漢の有名なグルメエッセイ『食は広州に在り』、春風亭柳昇の異色の従軍記『与太郎戦記』、日影丈吉の台湾を舞台にしたミステリ『内部の真実』、第二次大戦中にチベットに潜入した調査員(要するにスパイ)木村肥佐生の手記『チベット潜行十年』など。
 もちろん、桑原隲蔵、内藤湖南、宮崎市定、吉川幸次郎といった大家たちをはじめ、中国の歴史や文学に関する本は数多く入っている。この本を読めば、明治以来百数十年にわたって、日本人が中国についてどんな本を書いてきたか、だいたいわかるようになっているのだ。
 一世紀以上にわたって出版されたものから、著者が推す本をピックアップしたものだから、その意味では選りすぐりのものが集められている。自分で選んだだけあって、どれもきわめて評価が高く、読もうかという気にさせるものが多い。ブックガイドとしても有用である。
 それはいいのだが、こういう事情で誉めてある本ばかりなものだから、高島俊男の十八番である毒舌(何しろ『本が好き、悪口言うのはもっと好き』なんて著書もあるくらいだ)がかなり影をひそめているのが、少々物足りない。だから、一部でも悪口が書いてある部分―例えば、メインに取り上げた本ではないが、ある本について「腹が立ってくるから読まない方がいい。」なんて書いてあるところ―を見つけると、嬉しくなってくる。

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2008年12月 2日 (火)

大江戸番付づくし

大江戸番付づくし/石川英輔(実業之日本社,2001)
 とにかく江戸時代の人々は、何でもかんでも「番付表」にしたてあげた。これは、江戸の「見立番付」コレクション。要するにランキング集。
 どんな「番付」があるかというと、まずは現代の日本でもおなじみのものから、第一章の料理茶屋、うなぎ屋、酒など飲食関係。江戸時代から、日本人はグルメランキングが大好きだったのだ。
 職人の種類、名刀、儲かる商売。これもまあ、似たようなものがないとは言えない。儲かる商売の筆頭は、大関(この時代の相撲にはまだ横綱という位はなく、大関がトップだった)の米屋(米問屋)と両替屋。続いて関脇の唐物屋と造酒屋となっている。もっとも、番付外に書かれている「勧進元」(主催者)の呉服店と「差添人」(副主催者)の廻船屋は別格扱いだから、本当に儲かっていたのはこっちかもしれない。
 第三章のの山、橋、名所旧跡、温泉、神社仏閣、祭り、物産、これも今でもよくあるランキング。山の番付では、富士山が「勧進元」になっていて別格扱い。ところで富士山の相棒の「差添人」は、何と天保山である。天保山は大阪市内にある、「日本一低い山」。これを富士山と組ませるというのは、すごいギャグのセンスだ。番付そのものは、東の鳥海山、西の阿蘇山が大関になっている。また、主観的な格付けが多い番付の中で、神社仏閣の番付は、それぞれの寺社領の石高で並べてある。要するに寺社を財産で格付けしているわけで、実に客観的なランキングではあるが、生臭い。今の時代に全国の神社仏閣を年間収入の順に格付けなどしたら、抗議がどっと来そうだ。
 時代を感じさせるのが、第二章に出てくる「よい娘悪い娘」(これは明治時代のものだが)、「よい奉公悪い奉公」、「よい女房悪い女房」あたりか。今では作りたくても作れないランキングである。なお、「娘」や「女房」というのは、別に個人をランキングしているのではなく、性格や行動を挙げているのである。「よい娘」の大関は「針仕事の好きな娘」、「悪い娘」の大関は「親へ悪口する娘」となっている。しかしこの二つは両立することもあると思うのだが、その場合はどうなるのだろう。
 他に、ほとんど言葉遊びの「大小くらべ」、「雲泥の差があるもの」なども江戸独特のランキングか。「大」の大関は「大坂米相場」、「小」の大関は「伊勢暦の字」なのだそうだ。客観的な大小を言ってるのではなく、完全に冗談の世界だとわかる。こういうランキングの方が、この時代の人間のセンスがよくわかる。
 世の中のすべてを相撲番付に見立ててパロディ化してしまう江戸時代人の。現代人と代わらない遊びの精神を確かに感じる、楽しい本である。ただ、ところどころで石川英輔の著作につきものの江戸時代礼賛、現代社会批判が目につく。この本のテーマからいって、そんなことを書く必要はないと思うだけに、どうもその部分が鼻についてしまうのが残念だった。

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2008年11月27日 (木)

詩人、本を語る

本を読む前に/荒川洋治(新書館,1999)
 詩人による異色の書評・読書エッセイ集。
 第1部(実際には「第○部」とはどこにも書いてないが)は、読書や出版に関するエッセイを集めた「本を読む前に」。第2部が小説の書評を集めた「本を読む小説」。第3部が、第1部よりももっと広く、本にまつわるバラエティに富んだエッセイやコラムを集めた「読む」。
 詩人というのは、限りなく商売とは遠いところにある職業で、その「商売気のなさ」、あるいは「浮き世離れぶり」は、この本全体にわたって見てとることができる。作家やライターの書く書評やエッセイとは、明らかにスタンスが違うのだ。
 典型的な例は、第1部に収録された「まぼろしの読者」というエッセイ。冒頭、いきなり「ぼくはいわゆる大衆文学について興味を持たない人間である。」とくる。「大衆文学」なんて、この本が出版された前世紀末でも、ほとんど死語じゃなかったのか。さらに「大衆小説をよろこんで読むのは、純文学の文章の深い楽しみを知らないからだろう。」と言ったあとで、「いまはとても、こんなことは言えない。言ったら、ばかにされるだけだろう。」と続ける。「言ってるじゃないか」というツッコミはおいといて、自分が時代からはずれた、浮き世離れした感性を持っていることは自覚しているのだ。だがそれでいい、と思っているのが、詩人らしいところ。
 が、このエッセイの眼目はそこではない。ある推理小説の批評家の文章を例にあげて、評する言葉が甘く、軽すぎる、要するに「読んでいて気恥ずかしくなるような」誉め言葉ばかりだと批判する。「どうしてこうなるのか。それは世間で売れるものに対して、批評家たちの頭が上がらなくなった、ということに尽きると思う。」と、詩人は主張する。まあ、みんな知ってることと言えばそれまでだが、この程度のことさえ、出版界の内部にいる人間はなかなか堂々と言えないだろう。
 出版業界に気兼ねしない著者は、世にもてはやされていても叩くべきと思った作家は遠慮なく叩き、逆にほとんど世に知られてない作家を発掘してきて称揚する。『山梨の作家』とか『越前若狭文学選』とか、マイナーの極致みたいな地方出版にまで目を配り、「人生の絶頂を感じた。」とまで激賞しているあたりなど、大手商業主義へのあからさまな反抗心まで感じてしまう。もちろん、詩人だから詩集も取り上げている。かと思うと、新潮文庫の新旧の目録を比較して作家のはやりすたりを分析したり、明治以来の文芸雑誌の創刊一覧を作ったり、自分で作った日本文学全集のラインアップを公開したりと、オタク的な遊び心を見せたりもする。
 文章は純文学信奉者というイメージから連想するような硬いものではなく、詩人だからといって難解な表現があるわけでもなく、それなりにくだけた文体で、読みやすい。
 「あとがき」にタイトルの意味が説明してあるのだが、これが詩みたいな文章で、なんだかよくわからない。

 読む前だから、まっしろか、まっくろ。これほど不安な、でも広々とした場所もない。そのあたりへ、でかけてみた。そこからはじけた、ちいさな本である。

 でも、これはこれで、いかにもこの本にふさわしい、詩人らしい「あとがき」である。

本を読む前に

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2008年11月22日 (土)

名字の日本史

名字の日本史/森岡浩(ビジネス社・B選書,2005)
 著者は『 日本名字家系大事典』(東京堂出版)など、名字に関する本を多数出しているライター。本人のホームページには、「姓氏研究家・野球史研究家」とある。森岡浩之と名前が似てるが全然関係ない。
 「まえがき」によれば、この本は「名字の歴史」ではなく、「名字から見た日本史」であり、単なる「雑学本」ではなく「日本通史」だという。
 実際には、主な名字のルーツや変遷、歴史上で重要な役割を果たした家系にまつわる「名字の歴史」と、名字とは必ずしも直接関係しない、単なる日本史上の人物を扱ったエピソードを混じえて、古代から中世、近世、近代へと、目立つトピックスを基本的に見開き単位で語っていく構成。厳密に言えば古代には「名字」はなく、「姓」のはずなのだが、この本では広い意味で家系につく名前を全部名字と呼んでいるようだ。
 全七章だが、そのうち三~五章、ページ数にすると全体の半分近くを、鎌倉~戦国時代を扱った「武家編」が占めている。「武士の誕生と名字の爆発」の項で説明されているように、武士たちが古代からの姓のかわりに、自分で勝手に「苗字」を作り出して日常の名乗りに使うようになって、日本を世界有数の「名字が多い国」とすることになった原因を作ったのがこの時代だからだ。それにしても「名字の爆発」という表現はすごいね。「カンブリア爆発」みたいだ。
 歴史エピソードの合間には、都道府県ごと地域的特徴を1ページで解説した「お国の名字」のパートがあり、さらになぜかこの部分だけ字が大きい「なるほどコラム」と「珍名さんいらっしゃい」がはさまる。その上、半ページの空きスペースを使って、小さい字のミニコラムもあるというサービスぶり。
 個々のエピソードには興味を引くものもあるし(「現存する豊臣姓と羽柴姓」とか、「支倉使節団とスペインの「日本さん」」とか)、歴史上の誤解を解くエピソードもあったりして(「江戸時代、武士以外には名字がないという大嘘」とか)、おおむねデータ的にも正確だと思うのし、情報量の多さは特筆もの。ただ、著者が宣言したように「通史」になっているかというと、構成がごちゃごちゃしている上に、雑多な情報をあれこれ詰め込みすぎて、結局雑学本になってしまっている。まあ、雑学本だと思って見れば、かなりよくできた本だと言えるだろう。

名字の日本史 (B選書)

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2008年11月 9日 (日)

提督の決断

提督の決断 吼える四戦艦/吉岡平(光栄・歴史キャラクターノベルズ,1994)
 前回はおすすめしない本を取り上げたが、今回紹介する本も微妙。だが、ある意味珍しい作品ではある。

 タイトルからわかるとおり、シミュレーションゲームを元ネタにしたシミュレーション小説。そのゲームはもちろんこの本の出版元である光栄(今の社名はコーエーに変わっている)が出しているので、まあ、小説の形態をとったゲームの宣伝みたいなものである。
 といっても、ゲーム自体にストーリーはないので、話は完全なオリジナル。それはいいのだが、なんだか読んでいて作者のやる気があまり感じられない。戦記シミュレーションの注文が来たので、とりあえず型どおり書いてみました、という印象がありありなのだ。事実、「あとがき」で著者自身が、「私はいわゆる「IF戦記」あるいいは「架空戦記」というものを、この期に及んで書きたくはなかった。」と言っている。正直である。
 書く気がないのに書かなければならない時は、定型に則るのが常道。この作品も、旧式戦艦の活躍、酸素魚雷の脅威、日本戦艦に撃破される米空母、突然現れる隠密艦隊など、よくぞここまで揃えた、と言いたくなるほどのお約束のオンパレード。むしろここまでやれば天晴れかもしれない。
 また、戦記シミュレーションには珍しく、主要登場人物はほとんど架空。話の主役となる殴り込み艦隊のスタッフ8人の姓は『八犬伝』からとってきたもの。犬田文璽中将(司令官)、犬坂要大佐(参謀)、犬飼衛上飛曹(戦闘機パイロット)、犬山惟史中佐(「北上」艦長、水雷屋)、犬川允大尉(砲術屋)、犬江嘉尚中尉(特殊潜航艇乗り)、犬塚徹中佐(駆逐艦長)、犬村寿壱少将(次席司令官)、金碗大治郎少佐(次席参謀)、といった具合。最後の方で、里見洸大将、八房少将などという人物も出てくる。
 しかし前半部分の、仲間を次々と集めていくという部分以外は、『八犬伝』とストーリー上のつながりがあるわけでもなく、こういう名前にしてあることに大して意味があるようには思えない。まあ、少しだけ名前が覚えやすくはあるが。
 ここまでメチャクチャなことをされると、作者の他の架空戦記も読みたくなるが、残念ながら吉岡平はこの手の架空戦記はほとんど書いてない(というか、架空戦記より遙かにぶっ飛んだ小説ばかり)。ただ、「あとがき」に出てくる、作者がこの作品の前に唯一書いたという架空戦記『新・昭和遊撃隊』(1989)は何だかおもしろそうである。

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2008年11月 6日 (木)

数の根拠

 最初に断っておくが、今回とりあげる本は、自信をもって「おすすめしない本」である。
 新刊で並んでいることはないはずだが、古本で見つけても、よほど物好きな人以外は、買って後悔しても知らないと忠告しておきたい。

そこが知りたい数の根拠/小泉十三(雄鶏社 オン・セレクト・シリーズ,1994)
 京都の古本市で買った本。一見して雑学本みたいだが、この手の本には珍しく、小さいながらもハードカバーだし、着眼点もおもしろそうなので、つい買ってみた。

 結論からいうと、だまされた。数の「根拠」ではなく、ほとんどの場合、「由来」や「事情」を述べているだけ。
 たとえば「四十九日の法要」の項では、49日というのは死者が現世から来世に転生する「中有」の最終日、との説明があるが、これは、なぜ「49」なのかという根拠の説明にはまるでなってない。
 また、「1年=365日」の項では、紀元前のエジプトでナイル川の観察の結果、1年が365日と決まった、と説明するが、一番肝心なこの数字の根拠、地球の公転周期のことをまったく書いてない。
 いい加減なところは他にもあって、「1ドル=360円」の項では、「円」が360度だから360円になったという俗説を堂々と書いていたりする。「これが本当なら」という注釈つきではあるが、それなら別の説も書くべきだろう。実際には当時の実勢レートを基準にした慎重な検討の結果だったことは、次の論文からもわかる。(一時は「330円」がかなり優勢だったらしい。)
 http://www.cm.hit-u.ac.jp/coe/seika/WP/HJBS_WP_029.pdf

 さらに「大の月・小の月」の項では、月名の語源についてこんなことを書いている。 

英語で、九月は「September」だが、これは「Seventh」というラテン語が語源。

 この一文を読んだ時は「ん?」としばらく目が点になってしまった。これでは、「Seventh」という単語そのものがラテン語だと言ってるようにしか読めない。まさか中学校で習うこんな英語をラテン語だと思いこんでいるわけではないだろう(と思う)。もちろん、これは「Seventhを意味するラテン語」という意味なのだろう。もっとも、ラテン語で「七番目」に相当する序数詞は「septimus」であって、基数詞の「七」にあたる「septem」の方が月名の形に近い。
 他にも「ラテン語の「eighth」、「ninth」、「tenth」」などと書いている。別に英語で書かずに、「ラテン語の「七」、「八」、「九」」などと書けばいいのに、何を考えているのだろう。まさか、「seventh」、「eighth」などが本当にラテン語だと思っていたのだろうか。
 唯一役にたったと思ったのが、「除夜の鐘108」の説明。「六根(目・耳・鼻・口・身・意)」×「三不同(好・平・悪)」×「染・浄」×「3世(現在・過去・未来)」で108だという。でも、他の部分がいい加減なので、これも鵜呑みにするのではなく、裏をとっておく必要がある。
 巻末の参考文献を見たら、ほとんど雑学本ばかり。雑学本から雑学本を作るという、一番ひどいパターンだった。こんな本を定価1100円で売るなんて、あんまりである。私はまあ、300円で買ったのだが、それでももったいなかった。

 著者は他に『頭がいい人の習慣術』など、「頭がいい人の○○」という本をやたらと出している。でも、この本を読んで頭がよくなるとは思えない。

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2008年10月30日 (木)

バルト海の復讐

バルト海の復讐/田中芳樹(光文社・カッパ・ノベルズ,2004)
 この小説、タイトルからして『アドリア海の復讐』を意識していることは明らかである。では、ジュール・ヴェルヌへのオマージュ作品なのかというと、その点は少々疑問がある。
 まず、前回(2008年10月28日)のエントリーでも書いたように、『アドリア海の復讐』というのは、翻訳の題名であって、ヴェルヌがつけた原題とは全然違う。
 次に内容。これがまた、『アドリア海の復讐』とは似ても似つかない。そもそも『アドリア海の復讐』は、ヴェルヌが『モンテ・クリスト伯』へのオマージュをこめて書いた小説で、ストーリーの根幹にも似た要素がある。例えば、罠にはめられ投獄され、脱出するものの行方不明となる主人公。年月を経てから名を変え身分を隠し、大富豪になって再び現れる主人公。子の世代を巻き込んで繰り広げられる愛憎劇...。
 『バルト海の復讐』にはそんなものはない。1492年、ハンザ同盟都市リューベックの若き船長エリックは部下に裏切られ、凍てつくバルト海に放り込まれる。死の間際で、ホゲ婆さんと名乗る謎の老婆に助けられたエリックは、自分が陥れられた陰謀の真相と裁きを求めてリューベックに戻る。しかし陰謀の張本人たちは彼を再び陥れ、エリックは身を守るために戦うことになる――ざっとこんな内容の歴史冒険小説である。
 エリックは復讐に立ち上がったのではない。自分を裏切った部下たちに、最初は法の裁きを下すことを考えていた。だが、そのために動いた結果、新たな罠に陥ることになってしまい、追い詰められて仕方なく相手と戦い、結果として復讐を果たすことになるのだ。なお、この物語の開始から結末までに経過する時間は2ヶ月足らずに過ぎない。
 十数年をかけて復讐を果たすサンドルフ伯爵やエドモン・ダンテスとは、執念のレベルにかなり差がある。
 それに、エリックは田中芳樹の作品の主人公としては珍しいが、あまり頭がよくないし、人を見る目もない(作品中ではっきりそう指摘されている)。武術の達人でもないし、金持ちでもない。生命力と運の強さ、それにホゲ婆さんや謎の騎士ギュンター・フォン・ノルト(『七都市物語』にギュンター・ノルトという登場人物が出てくるが、先祖か?)といった強力な援護者の助けを借りて、なんとか危地を乗り切っていくのだ。
 ナイーブで力も金もない主人公が間一髪で危機をくぐり抜けながら目的を果たす、というのは冒険小説の黄金パターンの一つではある。しかし、主人公の圧倒的な意志と知略と財力がものをいう『モンテ・クリスト伯』や『アドリア海の復讐』とは、全然違うパターンの話であることは確かである。
 結局、ヴェルヌへのオマージュでないとすれば、この小説は何なのか。もしかしたら、『アドリア海の復讐』というタイトルへのオマージュ、つまりは『○○海の復讐』というタイトルの小説が書きたかっただけなのかもしれない。本家の「アドリア海」は使えないし、「瀬戸内海」や「オホーツク海」ではトラベルミステリーみたいだし、「エーゲ海」は誰かが書い ていそうだし、言葉の響きもよく、話を作りやすそうなのが「バルト海」だったのかもしれない。

バルト海の復讐 (カッパノベルス)

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2008年10月22日 (水)

捕虜たちの日露戦争

捕虜たちの日露戦争/吹浦忠正(NHKブックス,2005)
 戦争になれば当然捕虜という存在が生まれる。日露戦争でも、敗れたロシア側に7万人を超える膨大な数の捕虜が出たのはもちろんのことだが、日本からも約2000人の捕虜が出て、ロシアのメドヴェージ村に収容されていた。
 著者は公文書や日記などの資料や現地取材により、捕虜たちの経歴、収容所での生活、帰国とその後の状況などを丹念に調べている。労作である。特に前半部分の、メドヴェージ村の日本人捕虜たちについての記述は、これまでほとんど知らなかった部分で、目新しかった。
 一方、日本が捕虜にした外国将兵については、この後の第一次世界大戦でのドイツ人捕虜を、徳島県の板東収容所で厚遇したことが、映画にもなったくらい有名である。が、この本によれば、ロシア人捕虜も自由散歩や観劇を許されたり、大量の慰問品が送られたりして、結構寛大に扱われていたという。大阪の浜寺(今の浜寺公園のあたり)に、2万人以上を収容する最大の収容所(テント村だったらしい)があったというのも、この本で初めて知った。だいたい、第一次大戦の時のドイツ人捕虜より、日露戦争の時のロシア人捕虜の方がはるかに数が多いのに(というか、日本が歴史上抱えた最大の捕虜集団だろう)、知られてなさ過ぎるのではないか。(私が知らないだけかもしれないが...)
 日本の捕虜生活についても、個人の記録を元にきわめて具体的に書かれているが、労役もなく待遇はよかったようだ。食料は肉も含めて不足なく供給されており、紅茶は飲み放題、時々は酒も支給され(将校はいつでもビールが飲めたそうだ)、時間を決めて市中に買い出しに行くことも認められていた。日本人捕虜の一人は、収容所の周辺をかなり自由に歩き回って大量の写真を撮っており、この本の貴重な資料になっている。ちなみに、ロシアでの捕虜収容所というと、第二次大戦の印象ですぐシベリアを連想するが、メドヴェージはロシア本土、モスクワとサンクトペテルブルクの中間くらい、古都ノヴゴロドの近くにある。もちろんロシアだから冬は厳しいが、シベリアほど過酷な環境ではなかったわけだ。まあ、別に捕虜たちの健康のためにメドヴェージに収容したわけではないのだが。(なぜ遠く離れたロシア本土に捕虜たちを連れてきたかについては、ちゃんと理由が説明してある。)
 両国ともに後の第二次大戦の時とはえらい違いである。
 ただ、日本に帰国した捕虜が冷たい目で見られたり、サハリンでロシア人捕虜の殺害事件があったりという暗い面も、著者は忘れることなく書いている。とはいえ、この時代は全般的に日本もロシアも捕虜に対してかなり人道的な扱いをしていたことは間違いないようだ。日本での、捕虜になったことを恥辱とするという観念も、後の時代ほどはきびしくなかったらしい。
 この頃はまだ余裕があったということなのだろうか。捕虜の扱いについて、第二次大戦やその後の歴史で起きたことを思うと、人類は歴史に学んでないとしか思えない。

捕虜たちの日露戦争 (NHKブックス)

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2008年10月 9日 (木)

<鬼子>たちの肖像

<鬼子>たちの肖像 中国人が描いた日本/武田雅哉(中公新書,2005
 「鬼子」(グイヅ、と読む)という言葉で多くの人がまず連想するのは、満州事変から太平洋戦争終戦に至るまでの、中国に攻め込んだ日本兵に対する、中国の側からの憎悪のこもった呼び方「日本鬼子」だろう。
 実際、この本でも第1章では20世紀前半から現在までに至る「日本鬼子」のイメージを取り上げている。が、そういうテーマを扱った本なのかと思うと、これは全体から見るとプロローグに過ぎないのだった。
 第2章ではいきなり時代が遡って、中国で言う「鬼」とは何かという根元的な問いかけに始まり、明朝以前の書物に現れた「日本人の図」を扱う。だがこれもやはり前説にすぎない。
 この240ページあまりの本のうち、200ページほどは、清末の「画報」に現れた日本と日本人に関する絵入りの報道を扱っているのだ。本来、これが武田雅哉の専門分野なのである。
 「画報」というのは、まあ日本の瓦版みたいなもので、はっきり言って興味本位のB級メディアである。だからこそ、近代化の曲がり角に立つ時代の中国から日本に向けた、かなり下世話な生のまなざしというものが見てとれる。ちなみにその見方というのは、別に好意的というわけではないが、特に悪意がこもっているわけでもない。「日本人というのは変な連中だよ」みたいな感じである。もっとも、日清戦争の期間中だけ日本人に対する見方が極端に悪意に満ちてきたりしている(それでも日中戦争時ほどではないと思うが)。そして、そんな「画報」の報道ぶり自体が、現代の日本人読者から見ると、かなり「変」なのだ。題材としてはおもしろいし、独創的である。(武田雅哉の本というのはどれも、独創性が命、みたいなところがある。)
 だからそれはそれでいいのだが、このタイトルから、「清末中国が報じた日本」がメインであることがわかるだろうか。まあ、人目を引くタイトルには違いないから、出版社の作戦としてはいいのかもしれないが、日中戦争に関する本だとばかり思って買った人は怒らないだろうか。

「鬼子」(グイヅ)たちの肖像―中国人が描いた日本人 (中公新書)

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2008年10月 2日 (木)

超・殺人事件

超・殺人事件 推理作家の苦悩/東野圭吾(新潮文庫,2004)
 「ミステリの約束事そのもの」をネタにしたあぶない短編集。この著者の『名探偵の掟』と同系列。それにしても東野圭吾という人は、どシリアスから完全ギャグまで作風が幅広いな。実は何人もいるんじゃないか。
 それはともかく、中味はこんな具合。
 「超税金対策殺人事件」は税金対策がミステリをメチャクチャにしてしまう話で、これ自体はミステリではない。
 「超理系殺人事件」は、いつのまにか読者が被害者になってしまう。次の「超犯人当て小説殺人事件」は、ミステリが本当の殺人を生む。この二つは、虚構が現実を浸食するメタ・ミステリ。
 「超高齢化社会殺人事件」は、近未来が舞台で、ボケが進行する作家になんとかして小説を書かせようとする編集者の苦闘を描くが、若い人間は小説など誰も読まなくなり、作者も読者もみんな老人ばかりというのが、本当にそうなりそうでこわい。
 「超予告小説殺人事件」は、小説の中で書かれたとおりに現実に殺人が起こってしまい、最後はちゃんと現実的な解決もされている、収録作の中では珍しく普通のミステリ。
 「超長編小説殺人事件」は、ひたすら分厚くなる昨今の小説を強烈に皮肉った作品だが、どこが「殺人事件」なのかわからない。
 最後の「超読書機械殺人事件」も、文芸批評への痛烈な皮肉に満ちている。「どうせ書評家なんておれたちの小説をろくに読みもせずに勝手なこと抜かしてんだろ」という本音が実によくわかる。先が読めるが、これが一番おもしろい。しかしこれもどこが「殺人事件」かね。ただのSFだと思うが。
 総じて『名探偵の掟』の方がギャグが冴えていたし、小説としてもおもしろかったような気がする。毒は増えているが。それに、メチャクチャなミステリという点では、芦辺拓の『名探偵Z』や清水義範の『茶色い部屋の謎』の方がおもしろかったという印象がある。「小説の約束ごとそのものをネタにする小説」というのが、私はけっこう好きなので、これらの作品もそのうち取り上げたい。

超・殺人事件―推理作家の苦悩 (新潮文庫)

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2008年9月29日 (月)

好きになってはいけない国

好きになってはいけない国/菅野朋子(文芸文庫,2005)
 日本の歌や芸能人たちのファンになった韓国の若者たちを取材したドキュメンタリー。
 タイトルは、韓国の女の子の「日本の歌は好きですけど、日本は、好きになってはいけない国っていうか―」といセリフからきている。つまり、韓国人は日本を「好きになってはいけない」という意味。
 実際、著者がレポートする韓国の若者たち(ほとんどが女の子)は、ジャニーズ・ジュニアの熱狂的なファンでありながら、「日本のスターが好きなら、日本のことも好きでしょ」と著者が質問すると(こんな露骨な質問をぶつけるのもどうかという気もするが)、首をかしげ、「好きか嫌いかわからない」などと曖昧な返事をする。
 日本人のライターを前にして「嫌い」とは言いにくいだろうし、かといって、韓国人がそう簡単に日本を「好き」とは言えないし、彼女らとしてはそう言うしかないのだろう。著者の方も、もっと空気を読んで質問すればどうかと思う。まあ、ルポライターがあまり空気を読んでばかりいても、対象に迫ったものは書けなくなるだろうが。
 韓国の若者たちの複雑な反応を目にした著者は、「彼らのもつれた思いはほどけるのだろうか。――私は、その糸口を探し始めていた。」と書く。本書の前半部分である。
 そして最終章では、「最後までほどけなかった日韓のすれ違う思いのなかに、ただ一つ鮮明に残ったのは、韓国の人たちの日本に向けた、まっすぐで真剣なまなざしだった。」と、ちょっときれいすぎるまとめ方をする。あまりにジャーナリズム的な文章という気もするが。まあ、そう簡単にはほどけないわけである。
 この本が最初に出版されたのが2000年。この文庫版はその後の日韓ワールドカップや韓流ブームを経て加筆修正されて、2005年3月に出ている。
 文庫版のあとがきを書いている時点で、著者は日韓関係の前途にまだ希望を持っているように見えるが、この年の7月には『マンガ 嫌韓流』が出ている。その後の日本と韓国とを見て著者はどう思っているのだろう。

好きになってはいけない国。―韓国発!日本へのまなざし (文春文庫)

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2008年9月24日 (水)

大坂の陣 リアル&架空

 大坂冬の陣、夏の陣を題材にした歴史書は多い。無論、歴史小説も。そして、架空歴史小説も、やたらと多いわけではないが、いくつかはある。だけど、同じ著者が、ノンフィクションと架空小説の両方を、しかも同時期に出版している例は少ないだろう。

真説大坂の陣/吉本健二(学研M文庫,2005)
 「人物」と「合戦」に焦点をあてた「大坂の陣戦史」とでもいうべきノンフィクション。一応、大坂の陣の10年前の豊国祭に始まって、東西決裂に至るまでの政治的な動きから、大坂落城後の後日談までをカバーしているのだが、ページの大半は詳細な戦いの描写に費やされている。戦いの説明には必ず戦況図がつき、両軍の人数、指揮官、部隊ごとの動きが、細かく述べられ、大坂と江戸、両陣営のかなり複雑な動きが、きわめてわかりやすくまとめてある。
 ただ、その語り口は、歴史というより物語風で、ほとんど小説と区別がつかないくらい。「幸村は普段の穏やかな表情が消え失せ、激怒した。」とか、そんな感じの描写がやたらと出てくる。スポーツ・ドキュメンタリー風というか。
 固い歴史ファンからは異論も出てきそうな書き方なのだが、そのおかげで、この本がきわめて読みやすいものになっているのは確か。いかにも『学研M文庫』らしい本ではある。
 しかしタイトルの「真説」というのは、何の意味なのだろうか。今までの常識を裏切る意外な真実が述べてあるわけでもないし、誰も知らなかったような新事実を明らかにしているわけでもない。この本だけ読んでも、結局よくわからない。
 単なる憶測だが、この著者が同時期に出した、大坂の陣を舞台とする架空戦記に対して、「真説」と言ってるのだろうか。「架空」に対する「真」ということで。

 なお、吉本健二の著作は、戦国もの架空歴史小説が圧倒的に多い。別ペンネームではアニメ関係のノンフィクションや右派言論誌に書評なども書いていた。

真説大坂の陣 (学研M文庫)

 で、「本領」である架空歴史小説で、大坂の陣を舞台にした作品がこれ。ちなみに、上の『真説大坂の陣』は、こっちの架空版の1巻と2巻の間に出版されている。
 実際に1巻から読み始めたのは、『真説大坂の陣』を読んだ直後なので、非常に話が理解しやすかった。

反大坂の陣 1~4/吉本健二(学研・歴史群像新書,2004-2005)
1 講和成らず
 しょっぱなで淀殿が死んでしまう。大坂冬の陣の最中、史実では当たらなかった徳川方の砲撃が命取りになったのだ。つまりここが、SFでいう「歴史転換点」。
 そのため秀頼をはじめとする大坂城の面々がいきり立ち、冬の陣の講和がならなかった、というところから架空歴史が始まるの。「大坂の陣」という絶体絶命の状況から豊臣家がいかに盛り返していくのか、話の焦点はそこになる。とりあえずこの第1巻、足を引っ張る淀殿がいなくなったせいか、大坂方が優勢に戦いを進めることになる。

2 京洛の攻防
 この手の架空歴史ものは、実際の歴史にまだ引きずられる部分があるのか登場人物がなかなか死なずに増えていくばかりというパターンが多いのだが、この小説の場合、史上の有名人物を遠慮なく次々と殺していくのがある意味痛快。1巻目でいきなり淀殿が死ぬのが代表だが、とにかく登場人物がよく死ぬ。特に幕府側で殺される人物が多く、作者が楽しんでいるのではないかという気もする。それはともかく、2巻目では大坂方が城を包囲する徳川方の大軍を退け、京都に討って出る。

3 忠臣と叛臣と
 大坂城から出撃した豊臣家と京都方面へ退却した徳川家の戦いは、京都東南での攻防、山崎の戦いへと続いていく。反撃に出たとはいえ、徳川方に比べると数では劣る豊臣勢を有利に持っていくため、徳川方に離反、裏切り、仲間割れなど、内紛が相次ぐ展開になっている。忠臣も叛臣も何人もいるので、タイトルが誰を指しているのかよくわからないが、徳川方での忠臣の代表は立花宗茂、叛臣の代表は伊達政宗だろう。伊達政宗というのは、とにかくこの手の小説では裏切るのが当たり前、というお約束キャラクターになっているようだ。(だから、伊達政宗が裏切る、と書いてもネタバレにもならないと思う。)
 豊臣方の忠臣代表は言わずとしれた真田幸村。叛臣は織田有楽みたいな小物くらい。とにかく徳川方は中身がガタガタで大軍の利が生かせず、豊臣方は寡兵を集中運用して戦いを有利に進めるというのが基本パターンになっている。まあ、そうでないとどう考えても豊臣方は勝てないのだから仕方がない。豊臣秀頼が異様なほど人間ができていて有能なのも、この手の小説のお約束。

4 復活への道
 というわけで、この無理矢理な歴史シミュレーションも大詰め。京都から退却した徳川家康を豊臣勢が追撃、徳川方から有力武将が次々離反してこれに加わり、ついに家康は駿府城に追いつめられる、という予想どおりの展開。最後は豊臣方にとってもハッピーエンド、とはいかないのだが...。
 ラストに至っても、豊臣家は西日本を一応抑えているだけで、その基盤は脆弱なまま。結局、大坂の陣の前から何もよくなってはいないのではないか。新たな乱世を迎えて真田幸村が「これからが本当の戦いよ……」と言うところで話は終わるのだが、何となく、少年誌連載マンガの、途中打ち切り「第一部完」を思わせるような終わり方である。本当はこの続きこそおもしろいと思うのだが。
 この話の本質は、大坂の陣の勝敗を逆転させたい、という一点だけなので、徳川幕府が滅びた後などどうでもいいのだろう。

 考えてみれば、著者がノンフィクションと架空戦記で使った資料は、ほとんど重なっているはずだ。同じ資料を使って、リアルと架空で二度の商売。なかなかうまいやり方である。

反 大坂の陣1

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2008年9月22日 (月)

4000億の星の群れ

4000億の星の群れ/ポール・J・マコーリイ(ハヤカワ文庫SF,2005)
 3年ほど前に出たSF長編。タイトルは非常に好み。私にしては比較的出版から間をおかずに(といっても次の年だが)読んだのも、タイトルだけにひかれたようなものである。
 宇宙に進出した人類が、正体不明の異星人と戦争を続けている未来。「敵」が改造したらしい惑星に設けられた前線基地に、超能力(テレパシーの一種)を持つ女性科学者ドーシー・ヨシダが調査員として送り込まれるところから物語は始まる。この惑星への到着シーンというのが、シャトルではなく小さなカプセルに押し込められて射出されるという乱暴なもので、『ソラリス』の出だしにそっくりである。
 この惑星自体も謎に満ちたもので、途方もないテクノロジー―登場人物の言葉を借りれば、「何かがその惑星を自転させ、氷山を数百個ばかり落とし、数十の火山を噴火させて大気を豊かにし、生命の種子をまいた。」―で改造されているにもかかわらず、文明らしいものは何もない。何の目的でかわからないが、地球の絶滅動物メガテリウムなど、さまざまな星から集められた動物たちが生息し、低レベルの知的生命「牧夫」が、群れを管理している。
 惑星そのものが謎に満ちているのに加え、ドーシーが着陸時に<能力>で感知した圧倒的な知性、突如出現する巨大構造物、「牧夫」と「敵」とのかかわり…と、新しい謎が次から次へと現れる。理解不能な世界に挑み、理解不能な知性と向き合う主人公、というパターンには、やはりどこか『ソラリス』とか、あるいは『ストーカー』とかを連想してしまう。
 SFとしては魅力的な道具立てに、展開が予想できないストーリーと、読み応えは十分にある。ただ、イギリスのSFだけあって、重苦しい雰囲気に満ちている。背景は銀河にまたがり、いくつもの種族を巻き込んだ壮大なものだが、ストーリーは文字通り地を這い、最後まで読者の予想を裏切り続ける。いい意味でも悪い意味でも(どちらに判断するかは、読者の感性によるだろう)。
 ただ、自分の人生にも任務にも意義を見いだせないでいるドーシー・ヨシダのキャラクターは、ちょっと鬱陶しい。その上、彼女にかかわった男たちはみんなろくな目に遭わない。というか、登場人物の中に、ドーシーと二人で異星の大地を放浪することになるキルツァーをほとんど唯一の例外として、好感の持てる人物がいないというのも、ある意味すごい。
 なお、ドーシーのキャラクターは表紙イラストとはイメージが全然違うので、だまされてはいけない。

4000億の星の群れ (ハヤカワ文庫SF)

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2008年8月26日 (火)

本能寺六夜物語

本能寺六夜物語/岡田秀文(双葉文庫,2003)
 同じ著者の『太閤暗殺』(2008年5月9日のエントリー)は、豊臣秀吉暗殺計画を巡る歴史ミステリだった。この本もまたミステリタッチの歴史小説と言えるが、『太閤暗殺』に比べればミステリ風味は薄い。
 『太閤暗殺』は秀吉の「これから起こる死」を巡る物語だったが(結局物語中では死なないが)、この『本能寺六夜物語』は、信長の「すでに起きてしまった死」を巡る物語である。
 本能寺の変に何らかの形でかかわった6人の男女が、30数年後にとある寺に集められ、一本の蝋燭の下で一夜に一人ずつ、六夜にわたってそれぞれの体験を語る、という構成で、当然ながら6章からなる。
 「最後の姿」は信長の茶坊主だった僧、「ふたつの道」は本能寺の変のとばっちりで殺された穴山信君に仕えていた乞食、「酒屋」は信長の馬廻とかかわりを持った京都の酒屋、「黒衣の鬼」は京都所司代・村井貞勝の配下だった男、「近くで見ていた女」は安土城で働いていた尼僧、「本能寺の夜」は、明智光秀の家臣だった侍によって語られる。
 一貫したストーリーやトリックがあるわけではない。基本的にはそれぞれの話の独立性が強く、別々の短篇として読める。本能寺の現場に居合わせた当事者たちの語る物語、「最後の姿」と「本能寺の夜」は相互のつながりが強いのだが、これはむしろ例外。「黒衣の鬼」に至っては、本能寺の変と直接は関係がないのだ。なぜこの章の語り手である男が呼ばれたのか、理解に苦しむ。
 それはともかく、独立した短篇として見た場合一番よくできていたのが「酒屋」で、山本周五郎的な人情話になっている。「近くで見ていた女」は、森蘭丸に片想いするあまり、自分の指を切って調理し、蘭丸の食事に混ぜるというとんでもない女の話で、インパクトという点ではこれが一番。
 最後の「本能寺の夜」は、話そのものとしてはたいしたことがない、というか、独立した物語にすらなってない。が、この章は「本能寺の真相」という本全体の核心に触れる内容で、そこで明かされる真相は、明智光秀の謀反の真相としては今まで聞いたことのない意外なもの。まあ小説だからどんな出まかせでもいいのだが、とんでもない説ではあるものの、それなりに理屈のとおった説ではある。
 だけど話としては、「真説・本能寺」を語るだけ終わってしまう。結局、6人の語り手は何のために集められて、何のために話をしていたのか、意味がよくわからないまま、盛り上がらない結末を迎えるのだった。「本能寺の真相」というのは、小説技術上の細かい話とかどうでもよくなるくらい、作家にとって魅力のあるテーマなのかもしれない。

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2008年8月23日 (土)

ズルと偉業

誰だってズルしたい!/東海林さだお(文芸春秋,2004)
 「丸かじり」シリーズと並ぶ東海林さだおの長寿エッセイ・シリーズの一冊。「丸かじり」シリーズについては、去年『おでんの丸かじり』(2007年4月5日のエントリー)を紹介している。 ちなみに、「丸かじり」シリーズは『週刊朝日』の連載「あれも食いたいこれも食いたい」をまとめたもので、朝日新聞社から新書をひとまわり大きくしたサイズの単行本が出た後、文春文庫から再刊されるのがパターン。で、こっちのシリーズは、文藝春秋社の『オール讀物』の連載をまとめたもので、同社からハードカバーで出た後、文春文庫で再刊される。結局、どちらも最後は文春文庫になるわけである。
 それはともかく、このシリーズ、「丸かじり」と違ってタイトルに統一性がない。というか、シリーズ名そのものも、はっきりわからない。カバーにも帯にもそれらしいものは書いてない。連載のタイトルから、「男の分別学」シリーズと呼ぶのが一般的のようだが。
 だからタイトルだけでそれと識別するのは難しいが、内容は各巻とも様式が決まっているので、慣れると目次を見たら判別できる。
 内容というのは、4~5編のミニシリーズエッセイ、感想もの、考察もの、現地ルポ、そして対談が混じる。ときどき「辞典」ネタなんてものも混じる。この本にも「迷解料理用語辞典」なんてものが入っている。
 テーマと形式のバラエティが広く、それでいて全体として様式が決まっているのがこのシリーズの特徴なのである。どれか一冊読むだけで、東海林さだおの様々な持ちネタが楽しめる、その意味ではお得なシリーズ。逆にいうとこれといった特徴がないので、「丸かじり」シリーズみたいに、熱心な読者はつかないかもしれない。
 この本のミニシリーズエッセイはタイトルのとおり「ズル」をテーマにしたもので、「世の中はズルの壁でできている」と拡張高く始まり、、「セコズル、オニズルが幅をきかす」、最後には「あの××ズルを摘発せよ!」と威勢よく世の中の「ズル」を告発していく…はずが、なぜか最後は小説も捏造であり、ズルであり、「このようにズルは、世の中に密かに潜行している」とどうでもいいようなことを書いて、なにやらよくわからないままにぐだぐだと終わる。実に予想どおりで、威勢よく始まり、ヘタレまたはグダグダで終わる予定調和こそが、東海林さだおのエッセイの美学であると言いたい。
 他に、現地ルポものとして、「江ノ島を馬鹿にするものは江ノ島に泣く」に、ニューヨークまで松井秀喜を見に行く3回シリーズ、考察ものとして、「ダミ入り、しわがれ、懐かしい声」、感想ものとして、「「老人の主張」君たちは恥ずかしくないのかっ!」、対談は土屋賢二を迎えて「ユーモアはいじましい。」などを収録。
 文庫版は2007年11月に発行。

誰だってズルしたい!

 このシリーズをもう1冊。

偉いぞ!立ち食いそば/東海林さだお(文芸春秋,2006)
 全6回の連作「偉業!立ち食いそば全制覇」がこの本のメイン。「偉業」にあこがれた著者が、時間も金もかからない偉業をあれこれと考えたあげく、西荻窪の駅前の立ち食いそば屋のメニュー全制覇というのを思いつく。
 その時の自画自賛ぶりがいい。  

 クラクラと目まいがするほど素晴らしいアイデアであった。

 もしこれを成し遂げれば、日本人初ということになり、前人未踏ということになり、すなわち偉業をいうことになる。

 ということで、この偉業を達成すれば「アインシュタインや野口英世と並ぶ」ことになると、著者は勇み立ち、「一日一そば」に挑むことになるのだ。この舞い上がりぶりが、いかにも東海林さだおらしい。
 この店のメニューは約30種類。著者は律儀に一日一種類ずつ(さすがに毎日通ってはいないが)食べ続け、律儀にそれぞれのメニューについて報告し、その合間に店員や客の生態も観察し、「立ち食いそば屋論」をぶち(立ち食いそばに「常連」はいない、とか)、もちろん関係のない脇道の話もする。こういう「食べること」を巡る東海林さだおの筆致は、実に生き生きしている。
 結局偉業は達成されたかというと、十七日目までいったところで肝心のそば屋が改装して「椅子にすわり食いそば」になってしまい、挫折するという、ヘナヘナとなるような結末を迎えるの。これも予定調和というか、絶妙の落としどころである。途中であっさりあきらめるのも、見事偉業を成し遂げるのも、東海林さだおらしくないのだ。
 この大作の後には、付録みたいに著者と丹道夫(作詞家、富士そば社長)との対談「対談 立ち食いそば立志伝」が収録されている。どうせなら「立喰師」の創造者、押井守と対談して欲しかった気もするが。
 というわけで、なんと全ページの半分以上が立ち食いそば関係である。ところでタイトルの「偉いぞ!」というのは、やはり偉業に挑んだ自分が偉いと言ってるのだろう。
 他に、「駅弁「奥の細道」」、「おじさん宝塚を観る」(といっても東京公演だが)、「喜ぶ人々」(胴上げとビールかけ考)、「食事のマナー考」(なぜか動物の食事マナーの話になる)、「温泉騒動ホテル闖入記」、「湯気学」(湯気に関する論文…のはずが...)、「男は黙ってニンニク注射」、黒川伊保子(感性アナリスト…って何それ?)との対談「ことばの不思議を訪ねてみたら」を収録。
 こちらの方はまだ文庫版が出てない。ハードカバーから文庫化まで3年ほど間を空けるのが文藝春秋の方針のようだ。

偉いぞ!立ち食いそば

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2008年8月20日 (水)

リアル「鉄子」の旅

おんなひとりの鉄道旅/矢野直美(小学館,2005)
 マンガ『鉄子の旅』(2007年3月15日のエントリー)にも登場したライター、矢野直美の鉄道紀行。
 乗車した鉄道は、北はJR宗谷本線から、南は沖縄のゆいレールまで40路線。「北斗星」や九州新幹線「つばめ」みたいなメジャーな列車にも乗っているが、ほとんどは弱小ローカル線。
 例えば、濡れせんべいで有名になった「銚子電鉄」とか、日本最短「紀州鉄道」とか、京福電鉄の廃止路線を復活した「えちぜん鉄道」とか。中には「ちほく高原鉄道」とか「くりはら田園鉄道」とか、この本が出た後で廃止された鉄道もある。
 『鉄子の旅』に出てきた矢野直美は、大人びた雰囲気の非常にまともそうな人だったが、この本の文章は少々イメージが違う。
 「きゃあ!カギ閉めてないっ!」とか、「海に叫ぶ。基本でしょ?」とか、マンガじみた独り言と感嘆符と体言止めを多用する、30代後半とは思えないはじけた文章は、好みが分かれるところだろう。昔こういう感じの文章をどこかで読んだことがあるような気がする…と思ってよく考えてみたら、新井素子のエッセイだった。まあ、そういう文章なのである。
 ただ、鉄道と旅が好きだという思いはよく伝わってくる。各路線の地図もついていて(小さい地図だが)データとしても最低限は揃っている。惜しむらくは乗車年月日が書いてないこと。この点は『鉄子の旅』に負けている。
 『鉄子』と言えば、イラストを菊池直恵が描いていているが、本文とあまり関連性がない&著者があまりに可愛く描かれすぎていて、菊池直恵ファン以外の人にとっては、微妙なところか。
 最近小学館文庫から2冊本の文庫版も出た。

おんなひとりの鉄道旅 (BE‐PAL BOOKS)

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2008年8月18日 (月)

漢字三昧

漢字三昧/阿辻哲次(光文社新書,2003)
  「柿」(かき)という漢字はまあ、誰でも知っている。でも「こけら落とし」の「こけら」を漢字で「柿」と書くことは、知らない人が多いかもしれない。実はこの二つの漢字は、一見似ているようで実は違うということは、もっと知らない人が多いだろう。もっとも、上の字は、「こけら」がJISにないので、両方とも「かき」だが。
 「かき」の旁(つくり)は、上の飛び出してる部分が「点」、その下が縦棒。一方「こけら」の旁の縦棒の部分は、上から下まで一本線である。ゴシック体のフォントだと、まったく同じだが。
 この二つの文字の微妙な違いの話は、本書の「まえがき」に出てくる。この漢字の専門家は、そのことについて蘊蓄を述べているのではない。そんな細かい知識を自慢そうに語る漢字マニアたち、あるいは漢字崇拝者たちを批判しているのだ。「漢字の知識が豊富であればあるほど、それだけ他人から敬意をもって眺められるという傾向」について、実に困ったことだと言っている。「かき」と「こけら」の違いを知っているかどうか人に聞くのは、ケプラーの法則を知ってるかどうか聞くのと同じくらい、「現実生活からかけ離れている」と。「私はそのことを訴えたくて、この本を書いた。
 ところが、この後に続く六章からなる本文のうち、「そのこと」について書いているのは、第一章「知っててエラいか? 難字・奇字」だけである。 

 現実にはほとんど使われなかった奇妙な漢字に関して、知ったかぶりのムダな知識をひけらかし、それで他人を煙に巻いて溜飲を下げるというのは、まわりの人間にとっては迷惑以外のなにものでもない、と私は考える。

 と、さすがにこの章では、誰も知らないような漢字トリビアや、難字奇字に関する知識をひけらかしてうれしがってるマニアたちへの批判が手厳しい。
 が、この第一章の最後で作者は、そんな迷惑な漢字マニアたちに材料を提供している難字・奇字がなぜ作られてきたか、「そのメカニズムと背景を分析する」と宣言して第二章以下に突入する。何のことはない、マニア批判は枕に使われているだけなのだ。
 後は、第二章「誰知るや、漢字の総数」、第三章「『中華字海』――八万五千五百六十八字の"海"を泳ぐ」は、漢字というのは全部でどれくらい数があるのか、という話。特に第三章のテーマである、収録語数史上最高の漢字辞書『中華字海』についての話は、総ページ数の3分の1を占め、本書の中心的話題をなしている。実のところ、『中華字海』がネタとしてなければ、この本は成立しないとと言っていい。
 第四章「漢字が生まれるメカニズム」は漢字の起源、第五章「部首法、痛し痒し」は、部首検索法の発展とその限界、第六章「異体字――混乱の"張本人"」は異体字を巡る問題の数々について書かれている。「まえがき」に書いてある「そのこと」は、もうどこかに忘れ去られているようだ。「あとがき」にも出てこないし。
 そのかわりに、「あとがき」を読むと、辞書には載っているけれど実際には使われたことのない大量の難字・奇字について、「それを漢字文化の鬼子、と私は呼びたい。」と書いてある。そんな難字・奇字についていくら知識を集めても、何の役にも立たない、と言いたいようだ。
 結局この本は、漢字がいかに多いか、なぜそんなに増えたのか、を紹介する内容である。だがそれは、漢字マニアたちにトリビアの材料を提供しているだけのような気がする。「かき」と「こけら」の違いだって、知ればひけらかしたがるに決まってるではないか(このブログを見ればわかるとおり)。だいたい、『漢字三昧』という、いかにもなタイトルに釣られて本を買うような読者に、何を期待するというのだろう。
 まあ、作者の意図はともかく、釣られて買った読者たちは、自分のことを批判されているようで不愉快に感じる、というのでなければ、楽しめるはずである。

漢字三昧 (光文社新書)

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2008年8月15日 (金)

ジョニー・デッドライン

ボブ・グリーン 街角の詩/ボブ・グリーン;香山千加子訳(新潮文庫,1992)
 アメリカ一のコラムニスト、ボブ・グリーンが、『シカゴ・タイムズ』の駆け出し記者の頃に書いたコラム50編。原題はJohnny Deadline, Reporter (1976)。「イントロダクション」には「デビュー作」と書いているが、最初に出版した本ではない。「最初に書いた原稿たち」という意味なのだろう。
 「ジョニー・デッドライン」というのは著者のその当時のあだ名らしい。「次の版に署名入りで載せられるようなニュースを追って、朝から晩まで街中を駆けずり回る新米レポーターにふさわしい呼び名である。」とのこと。ちょっとカッコつけすぎの気もするが。(でも日本語にすれば「ぎりぎり小僧」みたいなニュアンスか。)
 それに比べてこの安っぽい翻訳題名は何なのだ。おまけに著者名をタイトルの頭につけているのも恥ずかしい。
 まあタイトルに文句を言っても仕方がないので内容を見てみる。

 アメリカのこの手のコラムの特徴だが、だいたい必ず「主人公」がいる。誰か特定の人物についてのエピソードを物語風に書いているのだ。中には短編小説と区別がつかないようなものもあるが、「コラム」というからには、きっと誰かに取材しているのだろう。
 日本にはこういう種類の文章はあまりない。少なくとも新聞や週刊誌には載らない。『Number』などに載るスポーツ・ノンフィクションには、こういうタッチのものがあるだろうが、それはアメリカのコラムのスタイルを輸入しているのだと思う。
 50編の「コラム」は、ちょうど25編目(「ボブ・グリーンのバラード」)を境に、前半と後半でかなり傾向が違う。前半は、主に有名人、あるいは比較的社会的階層の高い人たちのエピソードが多い。ローリング・ストーンズ、ジャック・シュミット(アポロ計画の宇宙飛行士)、ジャック・ベニー(コメディアン)、ミッキー・スピレーン、カーネル・サンダース(本人!)と言った有名人たち。あるいはジャーナリスト、素人ミュージシャン、スポーツマンたち。成功者ばかりではないが、少なくとも陽の当たるところにいる人々が、この前半の主人公たちの主流を占めている。
 極めつけは、ちょうど真ん中あたりに掲載されている、この本の中では異例に長いコラム「ヘフの館」。『プレイボーイ』誌の発刊者ヒュー・ヘフナーの邸宅に招かれた著者が過ごした一週間の、豪奢にして無為の日々を語ったもの。贅沢の極みとはどういうものかがわかる。
 後半は、打って変わって社会の底辺の人々、あるいは不幸の数々を描くコラムが多い。暴走族、場末のバレエ団、なぜか葬儀場の前で歌う少女、金のために目玉を売ろうとする老人、クリスマスのためになけなしの財産を質屋に入れる人々、それに老人の孤独死や、傷害事件やら殺人事件やら、等々。この後半部分の方が「街角の詩」と呼ぶにふさわしい。
 暗くなるようなテーマが多いのに、著者の文章はなぜか暗くならない。まあ、アメリカの新聞に載るコラムに、読者を暗い気分にさせるようなものは許されないだろう。読者を暗くしてはいけないが、感情を揺さぶる、あるいは心に触れる―、そういうものが要求され、また、それに応える文章の技術が確立されている。そんなことを感じさせるコラムの数々である。

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2008年8月 6日 (水)

英雄たちの秘密

英雄たちの秘密 歴史の中の虚と実/尾崎秀樹(文春文庫,1990)
 大物評論家、尾崎秀樹が1971年に発表した『私設・史誌考 歴史のなかの虚と実』を改題・加筆修正した文庫版。
 尾崎秀樹といえば、本人がまだ生きている内から「尾崎秀樹記念・大衆文学研究賞」なる賞が設けられたほど、大衆文学論で有名だし、代表作はそのものずばりのタイトルの『大衆文学論』。で、この本も、江戸時代の講談から戦後歴史小説までを主要な題材として取り上げているのだが、それだけではなく、古典、歴史文書、学術研究書から何やら怪しげな本まで、出てくる本は実に幅広い。
 この本だが、タイトルからすると、物語に出てくるイメージとしての人物に対し、歴史上の実像をさぐる、という内容が連想されるが、実際はそんな単純なものではない。「史実と違う、本当はこうなのだ」と切り捨てるのではなく、虚構に託された民衆の願望や、そこに反映する社会情勢まで切り込んでいる。だから、虚構の上にさらに虚構が加わる、などという例も多い。
 例えば、最初に取り上げられる『伊勢物語』の在原業平については、木村鷹太郎なる人の書いたトンデモ歴史を紹介する(「業平秘史」)。木村鷹太郎というのは戦前に数々のトンデモ本を書いた学者らしいのだが、この人の著書によれば、軟弱な色男とされてきた業平が実は英雄で、中国各地を歴訪して最後は台湾で没したというのだ。
 かと思えば徳川家康については、実は松平家とは何の縁もない遊行僧の子供で、松平家を乗っ取ってその一族を詐称したのだという異説を紹介し(「阿弥号の謎」)、宮本武蔵については史料から二人の人物の事績が一つに混同されているのではないかという仮説を述べ(「武蔵くらべ」)、忠臣蔵事件については、赤穂藩と吉良領との塩生産を巡る抗争が背後にあったのではないかと分析する(「塩をめぐる忠臣蔵」)。
 一方では、江戸末期に講談として知られていた美濃金森家のお家騒動「宝暦騒動」や(「歪められた宝暦騒動」)、怪談「真景累ケ淵」の元になった鬼怒川沿いの村での事件など(「羽生村奇聞」)、一般によく知られてない事件については、史実の説明や、それがどのようにして作品化されたかという由来の紹介をしている。
 よく知られた出来事や人物については、そこから派生した虚構、あるいは異説や仮説を展開し、虚構の元ネタになりながら、あまり有名でない事柄については事実を解説する。事実から虚構を引き出し、虚構に事実を発掘するという、史談と文芸評論が混じり合ったような、なかなか手の込んだ評論集なのである。
 「虚を実に変え、実を虚像化できる力は、大衆の中にしか存在しないものなのだ」という結びの文章に代表されるように、人々が史実に見いだしたイメージに独自の価値を認めているあたり、やはり歴史家ではなく評論家の視点だと納得させられる。もっとも、ちらほらとかいま見える民衆抵抗史観が、気になる人は気になるかもしれない。

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2008年7月27日 (日)

余寒の雪

余寒の雪/宇江佐真理(文春文庫,2003)
 以前、江戸の受験生物語『春風ぞ吹く』を紹介した(2008年1月13日のエントリー)宇江佐真理の短編集。人情時代小説7編を収録。
 「紫陽花」は、吉原から見受けされて江戸指折りの太物屋の後妻に収まった「お直」が、かつての遊女仲間「梅ヶ枝」の死を聞き、葬列を見送りに行って、吉原での日々をしみじみと思い出すという、要する「勝ち組」と「負け組」の物語。
 「あさきゆめみし」は、どこかで聞いたようなタイトルだが、女浄瑠璃「竹本京駒」の追っかけに情熱を燃やす紫屋(紫専門の染め物屋)の長男「正太郎」の夢と幻滅を描く。最初はバカかと思える正太郎が実は一番まともだったというのが皮肉がきいている。ただ、結末の正太郎のセリフ「そうさ、だって夢はいつか覚めるものだもの」はちょっと平凡。もう少し気のきいたことを言ってほしい。
 「藤尾の局」の主人公は、元大奥で「藤尾の局」として要職についていた「お梅」。母の病のために江戸城を出て、両替商の後妻に収まるが、夫の前妻の息子二人ができが悪く、暴力を働く。そのドラ息子たちとの対決が話の中心。とはいえ、息子たちは大奥で鍛えたお梅の敵ではないのだった。痛快な話である。
 「梅匂う」は、小間物屋の主人助松が、見せ物の大女「大滝太夫」に惚れ込む話。中年やもめと大女という異色の組み合わせだが、ストーリーそのものは現代もののラブストーリーと大して変わらない。
 「出奔」は一転して武士の世界を描く。旗本川村修富の甥、川村勝蔵の出奔の謎を巡る話で、意外な真相に迫っていく展開自体はいいのだが、主人公が何もかも手下にやらせているだけで、自分でほとんど動かないのは小説としてどんなものかという気もする。
 「蝦夷松前藩異聞」は、幕末の松前藩の内紛の話。この話でも主人公である蠣崎将監広伴は何もしない。前の「出奔」とこの作品の二編は、史実に基づいているのだが、出来事を追っているだけで、小説としての面白さを今ひとつ感じない。史実を忠実に描く小説には向いてない作家なのか。
 表題作「余寒の雪」では、仙台から江戸に出てきた、男装の剣術自慢の娘「原田知佐」が、だまされて旗本「鶴見俵四郎」と結婚させられることになる。最初はかたくなに拒否していた知佐が、鶴見の前妻の子「松之丞」と触れあううちに、次第に心を動かしていき、最後は誰もが予想するような結末になる。自分のことを終始「おれ」と呼び、東北訛りでしゃべる知佐のキャラクターがいい。

 全体的に、話がお約束どおりに進む傾向はあるものの、人情話でありながらべたついたところがなく、読んでいて爽快なのは好感が持てる。ベストはやはり「余寒の雪」、次が「藤尾の局」か。

余寒の雪 (文春文庫)

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2008年7月21日 (月)

バルト三国の歴史

物語 バルト三国の歴史 エストニア・ラトヴィア・リトアニア/志摩園子(中公新書,2004)
 中公新書の「物語○○の歴史」のシリーズの中でも、おそらく一番マイナーな国をテーマにした一冊。そして、たぶん日本人の手による初めてのバルト三国史概説。希少価値がある。
 バルト三国のうち、リトアニアは中世からあった国だが、エストニアとラトヴィアは20世紀までは存在しなかった国である。リトアニアも中世の終わり頃にポーランドに吸収されて国としては一旦消滅しており(さらにそのポーランドも一時期は消滅していた)、第一次大戦後に復活した。
 だからこの本が扱っているのは、主に地域の歴史で、国家の歴史ではない。その点で。国家の浮沈を描くようなドラマ性はあまりない。「三国」というイメージから、三つの国の争いの歴史みたいなものを連想する人もいるかもしれないが、上にも書いたように、そもそも20世紀までバルト三国というものは存在しなかったのだから、三国間の闘争が起きるはずがないのである。
 だが、この地で国や民族間の闘争が起きなかったかというとそんなことはないので、ポーランド、スウェーデン、デンマーク、ドイツ、ロシアなど、周辺諸国の絶え間ない覇権争いが繰り広げられてきた。ドイツ騎士団とかハンザ同盟とか、国家だかなんだかわからない勢力も登場する。その名残は今でもバルト三国の文化に残っていて、エストニアはデンマークの、ラトヴィアはドイツの、リトアニアはポーランドの影響が濃い。
 こうした諸勢力の間で取ったり取られたりする歴史は、転変きわまりなく、「物語」の名にふさわしい。通常の国家史が一人の主人公を描くものだとすれば、こちらはいくつものストーリーの糸が絡み合う複数主人公もののドラマと言えるかもしれない。
 ただ、ソ連からの独立については意外とページ数が少なく、あっさりと流している印象がある。そこを詳しく書こうとすると、それだけで一冊の本になってしまうからだろう。

 ところで田中芳樹の『マヴァール年代記』にクールラントという国が出てくる。クールラントというのは、16世紀から18世紀までラトヴィア南部に実在した国である。正式名称はクールラント公国。もちろん、この本の中にも少しではあるが、この国が出てくる。民衆はラトヴィア人、支配層はドイツ人貴族、名目上はポーランド王に臣従し、最後はロシアに吸収されて消滅したという、この地域の象徴のような運命を辿った、短命の国である。本書では数ページで片づけられているが、実はこの徒花のような小国が、ヨーロッパ列強の植民地獲得競争に参加し、一時はアフリカのガンビアや中米のトバゴ島(トリニダード・トバゴの小さい方の島)を植民地化していた歴史がある。トバゴ島に今でも「Courland bay」という湾があるが、「Courland」はクールラント(Kurland)の英語風綴りだから、この地名は「クールラント湾」という意味で、かつての植民地の名残なのだ。なんとなく歴史マニアの興味をそそる国なのである。
 誰かクールラントの歴史を書いてくれないものだろうか...。無理だろうな。

物語 バルト三国の歴史―エストニア・ラトヴィア・リトアニア (中公新書)

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2008年7月 9日 (水)

輝きの一瞬

輝きの一瞬 短くて心に残る30編/中島らも・他(講談社文庫,1999)
 30編のショートショートを集めたアンソロジー。元は、『小説原題』1996年5月号の「超短編小説25人集」の掲載作に、『IN★POCKET』掲載の5編を足したもの。
 執筆陣は非常に豪華で、ラインナップは次のとおり。

 1.ココナッツ・クラッシュ(中島らも)
 2.堰(有吉玉青)
 3.トマト(藤原伊織)
 4.死ぬのはごめんだ(高橋直樹)
 5.ねずみ(山崎洋子)
 6.毛蟲(池内紀)
 7.悍妻懦夫(高橋義夫)
 8.燻り(黒川博行)
 9.探偵ごっこ(落合恵子)
10.桜(桐野夏生)
11.コンパス(斎藤純)
12.サドルは謳う(山上龍彦)
13.おかね座談会(嵐山光三郎)
14.せめてものディナー(佐々木譲)
15.相合傘(高橋三千綱)
16.春分の日(目黒孝二)
17.橘の宿(加納朋子)
18.獲物(中村隆資)
19.聖なる河(泡坂妻夫)
20.霞ヶ谷(鳥越碧)
21.死の天使(小沢章友)
22.おこぜ(内海隆一郎)
23.長谷川辰之助の暇乞い(関川夏央)
24.推理小説作家の午後(今野敏)
25.山月忌(篠田節子)
26.花火(高橋克彦)
27.女も虎も(東野圭吾)
28.たたり(井上雅彦)
29.生きている山田(太田忠司)
30.変わらずの信号(斉藤肇)

 「短くて心に残る」というから、「ちょっといい話」系の短編が集まっているのかと思ったが、普通のエンタテインメントがメイン。
 あえて単純化して分類すれば、
 8、9、10、15、22、24、26、27、29、30は広い意味でのミステリで、5、6、21、28はホラー。だから、どちらかというと、ミステリ・ホラー系がメインなのである。あと、4、7、20、23が時代小説、歴史小説。異色作品としては、どこかわからない国を舞台にした寓話めいた話である1、お札の架空座談会の13、中世説話めいた幻想歴史小説の17、原始時代を舞台にした18、そして25は、タイトルからもわかるように中島敦の「山月記」のパロディ。残り7編が、まあ普通の小説ということになる。
 要するに、なんだかまとまりのないアンソロジー。共通点といえば、短いタイトルが多いということくらいか。
 が、さすがに売れ筋作家を集めているだけあって、ひとつひとつをとると、それなりにうまい話が多い。名前からイメージする作風と違っていたりするのもおもしろい。独断でベスト3を選べば、2、26、29といったところか。
 ところでこの本のカバー、全作者の名前が印刷してあるのだが、中島らも・桐野夏生・藤原伊織・篠田節子・東野圭吾・高橋克彦の6人だけ特に字が大きい。それについでやや大きいのが黒川博行と有吉玉青。他の作者の立場はどうなる? 黒川博行や有吉玉青は加納朋子や関川夏央や佐々木譲や高橋三千綱や太田忠司よりも大物なのか? これだけつっこみどころの多いカバーも珍しい。

輝きの一瞬―短くて心に残る30編 (講談社文庫)

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2008年7月 3日 (木)

百人一首の秘密

百人一首の作者たち/目崎徳衛(角川文庫ソフィア,2005)
 これは、和歌についての本ではない。
 「百人一首」作者の人物論でも(そういう要素が一部はあるが)ない。
 「百人一首」を通じて王朝文化の盛衰を語る、異色の文学史であり、文化史であり、社会史であり、同時に評論であり、謎解きの本でもある。
 第一首めの天智天皇の歌をはじめ、百人一首に納められた万葉歌人の歌には、本人の作でないものや、架空の作者のものがあると論じる第一章「万葉歌人の変貌」。ここだけでも意外な指摘が山ほど出てくるが、これはほんの序の口。
 第二章からは「敗北の帝王」「賜姓王氏の運命」「古代氏族の没落」と、百人一首の作者たちが政治的敗者であることを明かしたり、社会の表舞台には出られない女性歌人や隠遁者たちの内面を探ったりしながら、終焉に向かう貴族社会を描き出していく。そこに描き出されるのは、政治闘争や出世競争に敗れ、運命を嘆く貴族たち、貴族社会の片隅で細々と生きる、滅び行く氏族の末裔たち。歌に気持ちを託すしかない不遇な人々の姿である。
 そして、百人一首の編者である藤原定家が、収録された歌の選定とその配列に秘めた意図を解き明かす最終章は圧巻。
 著者は一流のミステリのような推理と論理展開を見せ、歌人たちの内面をえぐり出し、藤原定家の隠された意図を暴き出していく。恐るべし定家。恐るべし「百人一首」。
 が、考えてみれば、すべては著者の「解釈」にすぎないのだ。
 それがわかっていても、「百人一首」とは鎌倉時代初期に生きた藤原定家が、失われた貴族文化に向けた挽歌だった、この本を読むとそうとしか思えなくなってくるのである。真に恐るべきは著者か。
 もともと和歌にも「百人一首」にもほとんど興味はなかったのだが、つい引き込まれてしまった。文学作品を分析し、解釈するとはどういうことか、その一つの見本とも言える本。

百人一首の作者たち (角川文庫ソフィア)

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2008年6月28日 (土)

定刻発車

定刻発車/三戸祐子(新潮文庫,2005)
 この本の単行本は2001年発行だが、文庫本は2005年。例の尼崎でのJR福知山線脱線事故とタイミングを合わせるように発行された。そのために当時は話題になり、けっこう売れた。
 あの事故が起きたのが200 5年4月25日、文庫版の発行日は5月1日になっている。5月1日発行なら、4月25日にはもう印刷・製本は終わっている。だから、事故とほとんど同時に発行されたのは、まったくの偶然である。そのおかげで、売れたことそのものはいいにしても、一種のキワものみたいになってしまったのは、この本にとって、また読者にとっても、不幸だったかもしれない。
 世界的に見れば異常なレベルにまで達している日本の鉄道の「正確さ」と、その正確さへの「信頼」。著者はその由来を資料と取材を元に丹念に調べ、時に大胆な推測を交えて考察する。ユニークな着眼点と丁寧な取材に基づいた本である。
 が、作者自身はその「正確さ」を必ずしもベストのものだとは思っていない。むしろ日本の社会的条件がやむを得ず生み出した「必要悪」のように考えているらしい気配がある。
 最後に書かれた「定時運転」の将来についての考察でも、現在の異常なまでの定時運転は消滅の運命にある、というか、消滅しなければならない、と作者が考えていることが見てとれる。
 文庫版の発売と時を合わせて起きた例の事故は、この本を読んだ時点では(その年の9月)、無理を重ねた定時運転の未来を暗示するかのようにも思えたものだった。おそらく、当時多くの人がこの本を読んで同じようなことを思ったのではないか。この本は、定時運転へのレクイエムになるのかもしれないと。
 だけど、あまりに事故とタイミングが合いすぎたのが不運だった。あの事故をめぐる諸現象の一つとして埋もれてしまったのだ。

 結局その後、あまりに過密なダイヤはやめましょうということになっただけで、相変わらず、日本の鉄道は時刻表どおりに動くのが当たり前だと、みんな思っているのだった。

定刻発車―日本の鉄道はなぜ世界で最も正確なのか? (新潮文庫)

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2008年6月26日 (木)

寝言も本のはなし

寝言も本のはなし/高島俊男(大和書房,1999)
 中国文学者による読書エッセイだが、大部分は日本語の本について。
 あくまで趣味で読んだ本、というスタンス。学者の目で読んだ本を批評する、みたいなところはあまり感じられない。
 だいたい、巻頭のエッセイ「わが読書法」の最初の方(つまりこの本の出だしのところ)に、こう書いてあるのだ。

 研究室でソファにねころがってよんでいたのは中国の本である。二十年ほどのあいだ、日本の本はほとんどよまなかった。

 なお、やたらとひらがなが多いのはこの人の文章の特徴。
 それはともかく、いくら中国文学の専門家とはいえ、日本語の本をほとんど読んでなかったというのはすごい。
 だから日本の小説家の名前も有名な本もほとんど知らないのだという。
 それがなぜ、また日本語の本を読むようになったかというと、「教師をやめて、身すぎ世すぎのために」だそうだ。要するに、大学をやめて文筆業になったので、日本語の本も読まないと話題に事欠くからなのである。実に正直だ。
 日本語の本の事情をほとんど知らないと自ら言うだけあって、取り上げられている本は千差万別。伝記、エッセイ、文学論、歴史、目録、教育論、小説。古い本から新しい本まで、固い本から軽い読み物まである。東海林さだおの『キャベツの丸かじり』や横田順彌の『明治不可思議堂』まで入っている。ちなみに、東海林さだおの文章を「文章の技ここに至り得るものか」とベタ褒めしている。
 小説はほとんど入ってないのだが、取り上げられているのはなぜか『日影丈吉選集』。どういう基準で選んでいるのかさっぱりわからない。
 ただまあ、「身すぎ世すぎのために」に読んでいる本なのだから、どうしても読まなければならないと思っているわけでないのは確かだろう。最初の方で「あくまで趣味で読んだ本」と書いたのは、そういう意味。

 高島俊男は基本的に日本語の本より中国語の本の方が好きらしい。本好きといっても、とにかく本と名のつくものが好きで好きでたまらないとか(岡崎武志みたいな)、とにかく読むことが好きでたまらないとか(豊崎由美みたいな)、そういうタイプの本好きではないのだ。『寝言も本のはなし』というタイトルに、単なる本好きの話かとだまされそうになるが(実は私は、古本市でこのタイトルにだまされて買いました)、「身すぎ世すぎのために」日本語の本を読んでいる著者の視点は、世間一般の書評や読書エッセイとは微妙にずれている。
 言ってみれば、日本に住む外国人、あるいは何十年も日本を離れていた人が日本の本を見るような、「外からの視点」なのかもしれない。
 まあ、社会に対する辛口の批評をしてみたり、ちょっと上からの目線でものを言ったりとかしている部分は、ところどころにあるが。それは本に対する見方というより、この著者のエッセイ全般の特徴なのである。

 後半には専門の中国語の本に関するエッセイがいくつか収録されていて、さすがにどれも内容が濃い。特に中国での本の分類と配列方法の歴史について書いた「本の並べ方について」は、分類マニアにはたまらない。
 巻末の「わたしのフリカナ論」は、本全体から言えば蛇足みたいなエッセイだが、この人の文章になぜ(中国文学者だというのに)漢字が少ないのか、よくわかる。

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2008年6月17日 (火)

忘れられたSF作家?

架空の街の物語 SFハードメルヘン/津山紘一(集英社文庫コバルト・シリーズ,1981)
 津山紘一といっても、今では知らない人が多いかもしれない。
 1970年代後半から1980年代前半にかけて10数冊の本を出し、突然活動をやめた作家である。得意とするのは、ちょっとブラックで、それでいて「泣かせ」の入ったショート・ストーリー。
 昔、『別冊新評』というユニークな雑誌があって、1977年に「SF-新鋭7人特集号」というのを出した。当時のSF界で期待の新人たちとされていた7人の、書き下ろし短編と作家論、それに自筆年譜という、けっこう資料的価値のありそうな特集である。その7人というのは--山田正紀、かんべむさし、横田順彌、山尾悠子、堀晃、鏡明、そして津山紘一。
そう、津山紘一というのは、こんな顔ぶれと並べられることもある作家だったのである。

 これは、その津山紘一が得意とした短編集。コバルト(この当時はまだ「コバルト文庫」ではなく、集英社文庫のサブ・シリーズだった)もこの頃はそれほど少女向けという色が強くなくて、誰が読んでもあまりおかしくないような小説である。
 「すれちがい」と題された最初の作品は、実は4編の独立したショート・ショートからなっている。「ホット・ドッグ」、「麦畑と少女」、「貝殻」、「ミカちゃん」と、どれもタイトルどおり、子供と大人のすれちがう心をテーマとした物語。
 「恋するコンピュー太」は、航行中に事故にあった宇宙船内で、ただ一人残った女性と、船のコンピュータの奇妙な「愛」を語る。他の星系に探検に行くような時代だというのに、「テレックス」(!)で地球と連絡をとってるというのがすごい。いくら1970年代の作品とはいえ…。
 「風邪をひいたら…」。デンマークを舞台にした、「難病少女」もの。著者のヨーロッパ放浪体験が背景にあると思われる。
 「アッコの冒険」は、ネコになってしまった少女が主人公。ポール・ギャリコはネコになった少年を主人公に長編1冊を書いたが、この話はちょっと短すぎるような。キャラクター作りでは収録作品中で一番いい。
 「スナック・鳩ポッポ」。主人公にしか見つけることのできない幻のスナックの話。途中でオチがわかってしまった。
 「長い航海」。日本とアメリカから、ヨットで単独太平洋横断に乗り出した二人の男女が、偶然海のど真ん中で出会うという、ある意味究極のボーイ・ミーツ・ガールもの。ただし、主人公は女性の方。
 「さむい夏」は、車ごと崖に落ちた男の不条理な運命を描くホラー作品。主人公が男性でしかも犯罪者という、この本では異色の作品。
 「天使の涙」。いつ、どことも知れない戦場で戦う日本軍とアメリカ軍、それに一人の少女をまきこんだ悲劇。日米の戦いというと普通は第二次世界大戦のはずなのだが、場所も戦局もまったく特定できないように書かれているので、架空の戦場のように思えてくる。作品的には、収録作中ベストかもしれない。
 「あたしはネズ美」は、なぜか知性を持ったネズミと孤独な浪人が心を通わせる話。貧乏くさいシチュエーションで、最後は悲劇で終わるというのに、なぜか暗くない。
 「錆びたブローチ」は「田舎の少女がかつて憧れた、都会から来た青年と、年月を経て意外な場所で再会する」というパターンの話で、パターンどおりに終わる。だけど20ページくらいでこの物語を過不足なく納めるというのは、たいしたものかもしれない。
 「チカちゃん」は、言ってみれば一種の侵略もの。人形が本物の人間になってしまい、社会にあふれるのだが、それで「彼ら」が何をするわけでもなく、普通に暮らしているだけ、というのが、意表をついている。
 「扉のむこうに」は、「開かずの間」テーマのホラー。物理的とか心理的な怖さではなく、不条理の怖さである。
 最後の作品「草笛」は、「醜い男が盲目の少女に尽くす」という、これもどこかであったようなパターンの話。ラストもやはり予想どおり。
 こうして見ると、個別のシーンで印象的なところはあるが、ストーリー全体としては、わりと型どおりのものが多いようだ。津山紘一が消えてしまった原因もそのへんにあるのだろうか。しかし型にはまったストーリーしか書けない作家なんていくらでもいるし、単純に忘れられた作家にしてしまうには惜しい気もするが。
 ところで、「SFハードメルヘン」というわりには、純粋にSFと言えるのは二つか三つしかないし、「ハード」というのも何がハードなのかよくわからない。というか、そもそも「架空の街」と言いながら、「街」を舞台にした作品がほとんどないじゃないか。タイトルは正直につけてほしいものだ。

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2008年5月26日 (月)

神さまと神社

神さまと神社 日本人なら知っておきたい八百万の世界/井上宏(祥伝社新書,2006)
 日本の神さまと神社についての本。
 しかし、「神道」の本ではない。
 著者は宗教の研究家ではなくノンフィクションライターであり、理論的な話はむしろ意識して抜いているように見える。この本で扱っているのは宗教ではなく、日本の神さま事情、神社事情なのだ。
 とすれば、テーマとしてはやはり、タイトルどおり、「神さまと神社」としか言いようがない。

 第1章「日本人と神さま」は、個人的体験を含めた神々と神社と日本人についての序論。
 第2章「暮らしのなかの日本の神々」は神社で行われる祭礼や日常的な信仰や儀礼の説明(七福神も含める)。
 第3章「八百万の神々の系譜」は歴史編で、記紀神話とギリシア神話との比較、神道史というかなり性質の違うものが同居している。
 第4章「伊勢神宮と皇室とお伊勢参り」は、本書のハイライトだろう。題名のとおり伊勢神宮について一章を割いている。作者は伊勢の皇學館大学の出身だそうで、伊勢神宮には特別な思い入れがあるようだ。「あとがき」によれば、愛憎入り交じった複雑な思いのようだが。
 第5章「知っておきたい神々と神社」は、神社と神宮の違い、神社の格付け、社殿や鳥居の類型、神官の資格、拝礼の方法などといったミニ知識集。本書の中で一番役に立つ部分だろうが、なんとなく付け足しの感がある。
 最後の第6章「日本を代表する神社とその神々」も、各地の主要神社の紹介で、これまた付録的存在。

 結局、伊勢神宮のところで言いたいことは尽きたということか。
 それならいっそのこと伊勢神宮だけで1冊書いた方がよかったのではないかという気もする。
 というわけで、ガイドブックとしてはよくできているが、なんとなく消化不良な印象も残る本なのだった。

神さまと神社―日本人なら知っておきたい八百万の世界 (祥伝社新書 (035))

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2008年5月19日 (月)

食あれば楽あり

食あれば楽あり/小泉武夫(日本経済新聞・日経ビジネス文庫,2003)
 様々な食材を中心にした食の話題を語る、2~3ページ程度の短いエッセイ(というより、コラムか)を集めたもの。
 前にとりあげた「怪食紀行」シリーズ(2007年4月19日『地球怪食紀行』、2008年3月13日『アジア怪食紀行』)ほどの破天荒さはなく、どちらかというとおとなしめの文章で、数々の食材や食品を語っている。
 もちろん酒の話も出てくるが、全体的に小泉武夫の著書としては地味。取り上げられる食材も、おなじみの韓国のエイの加工食品ホンオ・フェ(どの本にも必ず出てくるね)や、マンボウ、エラブー(ウミヘビ)など珍味もあるが、身近な食材の方が圧倒的に多い。 アンコウ、カエル(身近か?)、ウニ、アナゴ、サンマ、桜エビ、ホヤ、イカ、カラスミ、魚肉ソーセージ(これが大好物なのだそうだ)、カワハギ、カキ、ハマグリ、シャコ、ウナギ、サヨリ、ショウガ、ニガウリ、スズメ、ベーコン、ハンバーグ...。東海林さだおの「まるかじりシリーズ」に出てきそうなラインナップである。それにしても海産物が多いな。
 ただ、よくある食材も、著者の筆にかかると、時と所を得てたちまち美味の極地に思えてくるから不思議である。小泉武夫は「うまさ」を語らせたら止まらなくなるようだ。地味とはいえあなどれない。(実はその逆に「まずさ」を語った本もあるのだが...それはまた別の機会に。)
 ところどころで顔を出す「怪食紀行」シリーズのレギュラー出演者、「八溝の義っしゃん」(要するに著者の飲み友達、正体不明)の名脇役ぶりにも要注目。

 ところで、この本のタイトルは「くあればらくあり」と読む。よく見ると奥付にも書いてあったのだが、今回のエントリーを書くために改めて調べてみるまで、気がつかなかった。

食(く)あれば楽あり (日経ビジネス人文庫)

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2008年4月27日 (日)

黄金太閤

黄金太閤 夢を演じた天下びと/山室恭子(中公新書,1992)
 去年、『群雄創世紀』を紹介した(2007年3月19日のエントリー)、異色の文章で歴史を語る歴史学者、山室恭子の著書。発行されたのは『群雄創世紀』の前、一般向けとしては最初の著作となる。
 これももちろん、歴史の本。しかし、普通には始まらない。
 プロローグ、「幕が開く。地獄。」。いきなりこれだ。閻魔大王の審判の場から始まるのだ。引き立ててられてくるのは豊臣秀吉。すごい出だしである。
 その後の構成も、第一幕、インテルメッツォ、第二幕、そしてカーテンコールと、あくまで芝居仕立て。歴史書とは思えない。山室節炸裂である。
 しかしメインとなる記述そのものは、古文書や史料を豊富に引用して、秀吉が金ぴかのパフォーマンスにより「黄金王」を演出して民衆の支持を得たこと、人気取りの果てに朝鮮まで出兵したことを解明するという、まともなもの。
 明からの国書を見た秀吉が怒ったのが単なる演出であったとか、朝鮮で一時期横行した「鼻そぎ」が、地震で壊れた大仏に替わる「鼻供養」の演出のためであったとかいう説は新鮮。家康が秀吉の二の舞をおそれ、「上下の別」をきびしくすることによって演出のエスカレート防止と秩序の安定を図ったという論理の展開も、説得力がある。
 歴史の本として、核の部分はしっかりしているのである。
 しかし、やはり、全体的に描写が演出過剰という気がする。これが山室恭子の持ち味と言ってしまえばそれまでだが。
 演出過剰、という秀吉の陥った自縄自縛を著者自らが演じているようにも見える。それもまた意図してのものだとすればすごいが。

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2008年4月23日 (水)

悲しくておもしろいスコットランド史

とびきり哀しいスコットランド史/フランク・レンウィック(ちくま文庫,1998)

 スコットランド貴族(称号はレイヴンストーン男爵)による、自虐たっぷりのスコットランド史。
 例えば、こんな調子。

 誰がスコット族の真の王であり、誰が偽物であるかの判別はなかなか難しく、大混乱が起こったため、ある重要な法則が発達した。アイルランド語を母語とする民にふさわしい真の国王は、むごたらしい最期を遂げたかどうかで基本的には決められることになったのである。敵の手に落ちるもよし、血縁者や味方の手にかかるもよし。だが、できればその三者の協力によって殺されることが好ましいと考えていた。(p.48)

 実際、本書では悲惨な最期を遂げる中世スコットランドの王が次々と紹介される。かのマクベスもその中の一人だが、実は彼などまだましな方なのである。だいたい、シェイクスピアの戯曲から受けるイメージとは裏腹に、マクベスは17年も王の座についている。前王ダンカンの息子マルコムとの戦いに敗れて死ぬのは事実だが、マクベスの王朝はそこで終わったわけではなく、息子のルーラッハが王位についている。が、このルーラッハが出来が悪く、わずか在位7ヶ月でマルコムに殺されてしまうのである。シェイクスピアの描くマクベスの最期は、このルーラッハに近い。
 というようなマクベス親子のエピソードを、この本は4ページで片づけている。
 これでわかるように、この本の記述はかなり駆け足である。それでも、スコットランドの起源から消滅までを230ページ程度の文庫に収めるには、少し無理があるようだ。
 イギリスの読者にはこれで十分わかるのかもしれないが、ちと説明はしょりすぎ。おまけに固有名詞がやたらと多く、しかも似たような名前が多過ぎる。ジェイムズやエドワードやデイヴィッドやウィリアムが何人出てきたことか。
 まあなんとなく、ほとんどイングランドに一方的にやられっぱなしの小王国の歴史、という流れはわかる。著者によれば、それもこれもすべては、スコットランド人自身に問題があるのだという。「スコットランド人にはつまらない言い争い激しい内輪もめを延々と繰り返すという、どうしようもない傾向があり、また我が身の破滅をもたらすほど極端な行動に走りやすい国民なのである。」
 ただ、こう言う自虐的表現の裏に、「自分たちはイングランド人とは違う」というはっきりしたアイデンティティがあることは間違いない。

 訳文は内容にふさわしく、だいたいこなれている。ただ、"Lord of the Isles"を「イール卿」と訳するのはどうかと思う(p.168)。
 これじゃ単にイールという土地の領主としか思えない。
 この称号は、スコットランド西部のヘブリディーズ諸島などの島々を支配する強大な領主のもので、"Isles"は「イール」じゃなくて「アイルズ」のはずだ。直訳すると「島々の領主」。そのままである。
 "Lord of the Isles"というこの称号、ファンタジーに出てきそうで好きなんだけど(というか、実際にそういうタイトルのファンタジー・シリーズがあるらしい)、何かその実態にふさわしい訳を考えてほしかったところだ。

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2008年4月 5日 (土)

シーラカンスの物語

「四億年の目撃者」シーラカンスを追って/サマンサ・ワインバーグ(文春文庫,2001)
  子供の頃から、なぜかシーラカンスに興味があった。シーラカンスそのものより、この奇妙な魚をめぐる人々のドラマに惹かれるものがあった、と言ってもいい。
 今思えば、小学校だか中学校だかの教科書に、シーラカンス発見のエピソードが載っていたのが、そもそもの始まりだった。
 市場で見たことのない魚を発見した若い女性科学者(いや、実はマージョリー・コートネイ=ラティマーは、科学者じゃなくて「学芸員」なんだけど、子供にはそう思えたのだ)、その連絡を受けた大科学者(スミス博士という人はラティマーの知り合いだっただけで、この時点ではまだ40歳を過ぎたばかりで、そんなに高名な学者というほどでもなかったのだが...以下同文)の驚き。
 とにかくドラマチックだった。そのシーンを想像するだけで何度でも感動するほどドラマチックだった。

 これは、その有名なシーラカンスの発見から、インドネシアでの新しい生息地の発見まで、シーラカンス探索史約70年を追った本。シーラカンス(というか、その周辺のドラマ)好きにはこたえられない。
 古生物的学的な説明よりも、シーラカンスにかかわった人々の描写に力を入れているのが特徴で、いわばシーラカンス・ハンター列伝といったところか。ラティマーやスミスのその後も書かれているし、2匹目のシーラカンスを発見した冒険野郎エリック・ハント、スミスと対立するフランスの科学者ジャック・ミロー、生きたシーラカンスの撮影に挑むドイツ人ハンス・フリッケ、新婚旅行でやってきたインドネシアで偶然シーラカンスを発見するマーク・アードマン、等々。シーラカンスの周辺はやはりドラマチックである。
 シーラカンスの進化史上の意味や生物学的特徴も書かれてはいるのだが、ほんの刺身のつま程度。本質的にサイエンス本ではなくドキュメンタリーとして読むべきで、その面ではかなりおもしろい内容である。
 ただ、翻訳の文章については、正直いまひとつの感があった。

 シーラカンスをめぐるドキュメンタリーとしては、ゴンベッサよ永遠に 幻の化石魚シーラカンス物語/末広陽子(小学館,1988)という本もある。「ゴンベッサ」というのは、棲息地、コモロ諸島の言葉でシーラカンスのことだとか。こちらは生きものとしてのシーラカンスがメインテーマ。

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2008年3月29日 (土)

武田勝頼の逆襲

坂東武陣侠/中里融司(学研・歴史群像新書,1994)
 シミュレーション作家、中里融司の原点。というか、これ以前の著作『鬼十郎妖戦録』は、コミック原作だということなので、この作品が事実上のデビュー作と言えるだろう。
 シミュレーション小説というのは、基本的に史実での敗者(日本軍とか、関ヶ原の西軍とか、明智光秀とか)の逆襲の物語だが、この作品では武田勝頼が、その逆襲の主役になっている。
 史実では、織田信長に攻められた武田勝頼は、家臣の小山田信茂に裏切られて行き場を失い、一族全滅する羽目になる。この話の場合、織田軍の侵攻を受けて窮地に陥るまでは史実と同じなのだが、新府城での評定の結果、武田勝頼は小山田を頼らず、真田昌幸の勧めに応じて上野岩櫃城に入る。この新府城の決断が、SF的に言えば歴史分岐点になるわけである。
 岩櫃城(実在の城である)にたてこもった武田勝頼は、真田昌幸の諸葛孔明のごとき知謀の助けを借りて織田信長の大軍を迎え撃ち、撃退する。そしてクライマックスは武田勝頼対織田信長の一騎討ち。―というかなりとんでもない話だが、そこへ持っていくまでの話の進め方が、「こんなのありかよ」とつっこみたくなる部分が随所にありながらも読ませる。
 この作品、主人公こそ違うものの、後の戦国シミュレーション大作、『戦国覇王伝』(実はこっちの方を先に読んでる)につながる要素が、ずいぶんある。
 例えば、忍者集団(諏訪八衆)、女忍者、真田十勇士(出てくるのは猿飛と霧隠だけだが)、あぶれ者集団(雑賀衆)の活躍。馬上から銃を放つ騎兵集団(この話の場合は雑賀の「竜騎兵」)。真田昌幸の子、真田信繁が、途中で「幸村」と改名するエピソードも、(改名の事情は違うが)両方に共通する。(そもそも、真田幸村と呼ばれる人物は、信頼できる史料には「信繁」としか出てこない。改名するというのは、史実と世間に知られる名前とを整合させようとする苦しい辻褄合わせではあるが、歴史へのある種のこだわりを感じさせる。例えばスペースオペラであっても科学的に押さえるべきところは押さえるといったような。)
 さらに、最後に20世紀に至るまでの「その後」の話を書くのも同じ(これは架空歴史ものでも書かない話が多い)。
 違うのは、主要登場人物である武田勝頼や真田昌幸のキャラが、(例えば『戦国覇王伝』の伊達政宗あたりに比べて)今ひとつ立ってない点か。しかしこれだけの話を1冊に詰め込み、そこまで要求するのは高望みしすぎだろう。
 上に書いたようにかなり強引な設定や展開もあるし、何より1冊にすべての話を押し込んでいるので、詰め込み過ぎの感はある、が、シミュレーションものというのは、「そりゃないだろ」という無茶な展開が適当に散りばめられている方がおもしろいのだ。あまりに滅茶苦茶だと笑いものになるだけだが、所詮架空の話なのだから、ぎちぎちにリアルに書くのもかえってしらける。
 史実と、リアルな虚構と、遊びとの微妙なバランスこそが、おもしろいシミュレーション小説を生み出すのだと思う。この事実上のデビュー作には、すでにそのバランスの妙が見てとれる。

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2008年3月23日 (日)

陳舜臣 長い長い旅の話

 このブログには今回初登場の陳舜臣。
 なぜ今まで取り上げなかったのか、われながら不思議である。単純に読んだ冊数では、多分一番多い作家なのだ。(もっとも「上・下」とか「全○巻」というのを1冊1冊カウントしての話ではあるが。)
 陳舜臣は、よく知られているように江戸川乱歩賞で作家デビューしている。当然ミステリ作品の数は多い。だけど、私にとって陳舜臣の小説といえば、なんといっても中国を舞台にした歴史小説である。
 まず、『秘本三国志』ではまってしまった。こんな独特の視点で書かれた三国志ものを読んだことがなかったのだ。この作品は今でも陳舜臣の歴史小説のマイベストである。いずれ取り上げたい。
 他に陳舜臣の歴史小説といえば、大作『小説十八史略』や、鄭成功を主人公にした『旋風に告げよ』、モンゴル時代を扱った『耶律楚材』、『チンギスハーンの一族』、それに独擅場とも言える中国近代史もの、『太平天国』、『阿片戦争』、『江は流れず』あたりが代表的なところだろう。
 が、今回取り上げるのは、どちらかというとマイナーな作品であり、かつまたいろいろな点でユニークな作品である。

桃源郷(上・下)/陳舜臣(集英社,2001)
 陳舜臣の歴史説の主人公は旅をすることが多いが、この作品の移動距離はこれまでの最長記録ではないだろうか。
 時代は12世紀前半、新興王朝「金」が「北宋」と「遼」を滅ぼし、中国の北半分を占領しようとしていた頃。「水滸伝」の時代のちょっと後。
 主人公は「桃源郷」を探す「探界使」の一族の若者、陶羽。もちろん架空の人物。
 彼が遼の皇族、耶律大石に呼ばれ、西方探索の密命を帯びて燕京(今の北京)を旅立つところから話は始まる。実は耶律大石も陶羽もマニ教徒という設定。古代ペルシャでの宗教成立以来、迫害を受け続けてきたマニ教徒の楽園「桃源郷」をいかにして実現するかというのが、この物語のテーマなのだ。
 燕京を出発した陶羽は、中国南部から船出し、インドを経てペルシャに上陸。行く先々で謎めいたマニ教の同士たちに出会う。歴史上の人物も何人か出てくるが、どれもこれも隠れマニ教徒だったりする。たとえば、「暗殺者教団」イスマイル派の長老、「山の老人」ハサン・サッバーフ、ペルシャの大学者にして詩人ウマル・ハイヤーム。このへんの設定は、普通の陳舜臣の歴史小説にはない大胆さである。
 さらにマニ教徒の安住の地を求め、カイロ、アレクサンドリア、そして地中海を渡ってスペインのコルドバまで、延々と旅は続く。
 このコルドバが一応旅の到達点。この地で紙製造業を始めた一部の同志を残し、陶羽やその仲間たちは東に引き返す。というか、この先は大西洋だから、当時としてはこれ以上先へ進みようがないので、引き返すしかないのだ。だから上巻が「西遷編」、下巻が「東帰編」というサブタイトルがついている。わかりやすい。
 ペルシャまで引き返した陶羽は、、ホルムズから船出して中国に戻り、海南島に上陸。ここからまっすぐ燕京に引き返すかと思えば、まだまだコースを変えて旅は続く。中国南部を行ったり来たりした後、中央アジアへ、そして最後に敦煌まで来て、やっと物語は終わるのだ。
 長い旅の果てに、マニ教徒たちの「桃源郷」は見つかったのか...。陳舜臣の歴史小説には珍しくちょっと甘いところのある、しかし味わい深い結末が待っている。
 メインストーリーで陶羽の旅と平行して、耶律大石の物語も語られる。というか、最初にこの小説の設定を読んだ時、耶律大石を主人公にした「西遼」の建国物語かと思っていた。耶律大石といえば、滅亡した遼王朝の残党を率いて中国を脱出、中央アジアを征服して王朝を再興した英雄。十分に歴史小説の題材になる人物だからだ。その耶律大石を脇役にしか使わないとは、実に贅沢な作品である。(帰路、陶羽が中央アジアに寄るのは、もちろん耶律大石がそこにいるからだ。)
 そればかりではない。耶律大石の協力者としてさらに意外な人物が登場する。梁山泊の宋江。もちろん宋江もマニ教徒である。とにかく主要な人物はみんなマニ教徒なのだ。この物語の宋江、陶羽への使者としてダマスカスまでやってくる。あの宋江がシリアに…、考えてみるとすごい場面だ。
 秘密結社めいたマニ教団といい、「桃源郷」というテー マといい、話の要所要所で出てくる幻術といい、史実を離れて奔放に動き回る登場人物たちといい、陳舜臣にしてはファンタジーの色がきわめて濃い小説。ほとんど歴史ファンタジーといってもいいく らいである。

(これは文庫版)
桃源郷〈上〉 (集英社文庫)

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2008年3月19日 (水)

アーサー・C・クラーク追悼記念

 アーサー・C・クラークが亡くなった。
 ロバート・A・ハインライン、アイザック・アシモフとともに、かつてSF界の「御三家」と呼ばれた大家たち(日本だけかも知れんが...)の最後の一人。小説のテクニックでは他の二人の方が上だったかもしれないが、SFマインドを一番持ってたのはクラークではなかったかと思う。冥福を祈りたい。

 というわけで、今回はクラークにまつわる作品を取り上げる。が、クラーク本人が書いた作品ではないのが、ここのブログ管理人の天邪鬼なところ。

ふわふわの泉/野尻抱介(エンターブレイン・ファミ通文庫,2001)
 アーサー・C・クラークへのオマージュに満ちた作品。
 著者自身があとがきで書いているように、クラークの名作『楽園の泉』から、タイトルとメインテーマを持ってきている。
 話自体は、空気よりも軽くダイヤ並に硬い夢の新素材「ふわふわ」を発明した女子高生起業家のサクセス・ストーリー。この新素材が、軌道エレベータを可能にする。というか話は逆で、軌道エレベータを可能にするための新素材をまず考え、読者受けのためにその新素材を女子高生が発明したことにして...と話を組み立てていったのではないかという気がする。
 とにかく、「軌道エレベータを実現する」のがこの本の核心なのだ。一点集中型の構成もクラークに似ている。
 このメインストーリーに、異星から来たナノマシン型知性体とのファースト・コンタクトがからむ。メインテーマから言えば、地球外知性体を出さなくても話はまとまると思うが、やはりファースト・コンタクトを持ってくるところがクラークへのオマージュなのではないかと思う。アーサー・C・クラークほど、ファースト・コンタクトを何度も書いたSF作家はいないだろう。
 忘れていけないのが主人公の名前「浅倉泉」。泉はむろん『楽園の泉』から。姓の「浅倉」は(翻訳家の浅倉久志と同じく)、「アーサー・クラーク」から来ていることは明らか。また、物語の後半で軌道エレベータ(というか、エレベータを軌道に上げるためのカタパルト)を建設することになった太平洋の島の守護神の名前は「カリ」と「ダザ」。『楽園の泉』で、軌道エレベータの建設地となるタプロバニーの伝説の王の名「カーリダーサ」をもじったものであることは言うまでもない。
 さらに、ヒロインが「ふわふわ」を貯蔵したサイロに落ちてしまって脱出できなくなるの場面は、『渇きの海』へのオマージュではないかとか、いろいろうがった見方もできるかもしれない。あまり細かいところまで詮索してもきりがないのでやめておくが。
 タイトルどおり、話全体になんとなくふわふわした雰囲気が漂っているが、それでもハードSF的に抑えるべきところは抑えているのがこの作者らしい。
 クラークの作風とはまるで違うが、まぎれもなくクラークの精神的遺伝子をこの作品は持っている。それはもっともSFらしいSFの形質を持った遺伝子に違いない。

(この表紙は『ふわふわ』ではなく『楽園の泉』です。)

楽園の泉 (ハヤカワ文庫SF)


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2008年3月16日 (日)

日本語の相場

日本語は生き残れるか 経済言語学の視点から/井上史雄(PHP新書,2001)
 「経済言語学」というのは聞き慣れない言葉だが、まだ新しい学問で、この本が出た時点では「名前もまだ確立していない」段階だっととのこと。今はどうかというと、Googleで「経済言語学」を検索しても1300件くらいしかヒットしないので、やっぱりまだ一般的にはなってないようだ。
 その経済言語学だが、「言語市場」、「言語の市場価値」、「言語産業」などを論じるのだそうだ。伝統的な言語学の世界では、「言語に上下の区別はない」、「すべての言語は平等である」ということになっている。が、それは建前、実際には世界の諸言語には上下の序列があり、市場価値の差があり、もっと言ってしまうと弱肉強食の現実がある、その現実を認めるところから始まる学問ということらしい。
 市場価値という点からいうと、現在の世界では英語が圧倒的な優勢を占めている。日本は今のところほとんど日本語だけでやっていけるが、それでも場面によっては英語に頼らざると得なくなっている。航空管制はすべて英語だし、国際会議ではどこの国の人間も英語を使う。理系の学問分野では、研究業績として認められようと思ったら英語で論文を書かなければいけない。
 著者によれば、英語帝国主義の勢いは止めようがないが、かといって英語を第二公用語にしたりするのは、日本語を守るためにはやめた方がいいそうだ。「第二」であっても、もし英語を公用語にすると、市場価値の高い英語がどんどん日本語を浸食することになるらしい。何もせずにほっておくと日本語の地位は低下していくのだが、ではどうすればいいかというと、結局著者は日本語を大切にするというありきたりのことしか言ってない。このへんはややはぐらかされた感じである。

 それよりおもしろかったのは、言語の難易度や外来語の影響度を客観的に分析している第四章「日本語の難しさ」。
 同じ時間を言語学習に費やしても、初級にしか到達できない言語と上級まで到達できる言語がある。つまり学習時間の投資効率が違う。投資効率が高いほど、難易度が低い=経済的なのだ。これはいかにも「経済言語学」の名にふさわしい考え方である。
 もちろん、学習の難易度といっても絶対的なものではなく、英語やドイツ語やフランス語を学習するのは、同じヨーロッパ系言語を母語とする人間にっとては難易度が低く、アジア系にとっては難易度が高い。韓国人にとっては文法が似ている日本語は相対的に難易度が低い。一方で、ヨーロッパ系にもアジア系にも難易度が高い、「絶対的難易度」の高い言語、逆に低い言語もあるのだそうだ。絶対的難易度の高いのはアラビア語、低いのはスワヒリ語やインドネシア語だとか。
 日本語の絶対的難易度は、発音は簡単、文法は中位(文法の難易度は教科書の厚さで判断できるのだそうだ)。ただ、語彙の面では難易度が高い。日本語では使用頻度上位千位までの単語を覚えても、新聞や雑誌で使われる語彙の6割しかカバーできないが、フランス語やスペイン語では千語で8割までカバーできる。つまり語彙の効率が悪い。その理由は類義語の多さにある。同じような意味を表現するのに、和語、漢語、外来語と系統の違う言葉を微妙に使い分けているため、他の言語の2倍、3倍の語彙が必要になるのだ。
 確かに、考えてみれば、「数」というもっとも基礎的な語彙でさえ、「ひとつ、ふたつ、みっつ…」という和語、「いち、に、さん…」という漢語、「ワン、ツー、スリー…」という外来語を場面によって使い分けている。こんな言語は日本語くらいだろう。逆に言えば、それだけ表現力が高いともいえるのだが。
 結論として、日本語の絶対的難易度は、「決して低くはない」というところだろうか。相対的難易度も、欧米人にとっては高い。一方で、世界有数の言語人口を持ち、経済力や大衆文化での影響力はけっこう高い日本語。
 で、結局、日本語は「買い」だろうか? 今後の相場の行方が気になってくる。

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2008年3月13日 (木)

アジア怪食紀行

アジア怪食紀行/小泉武夫(光文社・智恵の森文庫, 2004)
 以前紹介した(2007年4月19日のエントリー)『地球怪食紀行』の姉妹編。
 『地球~』と多少内容が重なる部分もあるが、ラオス、ベトナム、韓国、モンゴル、ウイグル、ミャンマー、中国と、主に北・東アジア諸国の暴飲暴食紀行。
 まあ要するにやってることは、『地球~』と同じで、とにかくどこへ行っても、変なものを食っては酒を飲みまくり、酔っぱらう。その繰り返し。
 例えば、ラオスではネズミの燻製に何だかわからない虫の幼虫に雛入り卵、ベトナムではトカゲに豚の脳みそ、韓国では例のエイの発酵食品ホンオ・フェ(この著者の本にはよく出てくる)、モンゴルでは羊の血の腸詰め、中国では蜂のサナギに蛇にセンザンコウといった具合。こういうものを食べながら、現地の人たちと一緒に変な酒をがぶがぶ飲むのである。言葉が通じなくても、「そんなものは酒があればどうでもいい」のだそうだ。世界の民族食を探求するにはこうでなくてはならないのだろう。
 しかしどこへ行って何を食っても平気な小泉先生の味覚と胃は、常人を遙かに超えているとしか言いようがない。
 巻末のゲッツ板谷(西原理恵子のマンガに出てくる「金角」だそうだ)の解説は、同じようにアジア各地へ行って変なものを飲み食いした思い出が書いてあるが、「そんな変なものなんか本当はうまくもなんともないんだよ、吐き気がするくらいまずくて気持ち悪くて、とても人間の食べるものじゃねえんだよ!」という本音があふれている。まあ、それが普通の人の感覚だろう。
 これだけ書いてる本人が「うまいうまい」と書いてるのに、食べたいという気持ちが全然わいてこない食べ物の本も珍しい。読むだけならすごくおもしろいんだけどね。

アジア怪食紀行―「発酵仮面」は今日も行く (知恵の森文庫)

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2008年3月 8日 (土)

異色中国短篇傑作大全

異色中国短篇傑作大全/宮城谷昌光ほか(講談社文庫,2001)
 タイトルのとおり、中国史を題材にした歴史小説11編を集めたアンソロジー(タイトルは他につけようがなかったのか?)。うち8編は、『季刊歴史ピープル』に発表されたもの。他は『週刊小説』、『小説新潮』、『小説現代』掲載。『週刊小説』と『小説新潮』だけが講談社以外から発行されているが、それが宮城谷昌光と田中芳樹の作品。なんか昔の日本の映画によくあった、「特別出演」という言葉を思い出してしまう。
 それはともかく、収録作を見ていく。
 最初の作品は「指」(宮城谷昌光)。孔子が生きていた時代の衛の国の貴族、「女を喜ばせる指の持ち主」疾が主人公。疾に降りかかる権力闘争がらみの女難がメインの話で、ベッドシーンが多いのだがこの著者が書くと全然いやらしさがない。孔子が脇役でちょっとだけ登場する。
 「曹操と曹丕」(安西篤子)は、陰険なイメージが強くて評判の悪い曹丕が主人公。曹丕の少年時代から皇帝即位後までを30ページ足らずで語っている。駆け足感は否めないが、このまとめ方はすごい。安西篤子は直木賞を受賞した大ベテランで、日本の鎌倉時代や戦国時代ものが多いが、1964年に直木賞をとった「張少子の話」も中国史ものだった。
 「潔癖」(井上祐美子)は、以前紹介した(2007年4月29日のエントリー)『公主帰還』に収録されていた作品で、北宋末の有名な文人でかつ変人の米フツが主人公の話。
 「方士徐福」(新宮正春)。不死の仙薬を求めると称して海を渡った徐福はいろいろな作品に登場するが、秦の始皇帝をうまいことだましたペテン師の親玉みたいなイメージで語られることが多い。この作品では徐福の正体と渡海の理由に新しいアイデアを持ち込んでいる。始皇帝をだますことに変わりはないのだが。
 「茶王一代記」(田中芳樹)。五代十国時代の「十国」の一つ「楚」の建国者、馬殷の物語。朱全忠、李克用、楊行密、王建、高季興など、五代十国の建国者たちの名が次々と出てくる「歴史絵巻」的な展開が、いかにも田中芳樹らしい。さすがに読みやすさは抜群。
 「九原の涙」(東郷隆)。この作品だけが20世紀が舞台。胡弓弾きの身の上話という形で語る、戦前の上海の裏社会の物語。これは確かに異色だ。
 「汗血馬を見た男」(伴野朗)は、かの有名な西域の冒険者、張騫の一代記。といっても、40ページ足らずの作品なので、ダイジェスト版みたいになっているのは仕方がない。ダイジェストでも、正統派歴史小説である。
 「西施と東施」(中村隆資)。作者は文学界新人賞受賞、芥川賞候補にもなった人で、どちらかといえば純文学系のはずなのだが、収録作の中で一番文体がくだけている。というか、女性の一人称、「そのとき、東施ちゃんは怒ってた。」というような感じでほぼ全編が進行する。これも異色か。ちなみに、「東施」というのはこの作品の主人公で、「西施の顰みにならった」醜女の名前。感動的という点ならこの作品がベスト。
 「范増と樊噲」(藤水名子)は、単純な項羽、老獪な劉邦という実にわかりやすい構図で語られる「鴻門の会」の物語。主人公は范増に頼まれて剣舞を演じ、劉邦の命を狙った項荘で、大きすぎる役割を押しつけられて苦しむ純朴な若者、という役どころ。人物描写がちょっと型どおりなのが気になるが、歴史の一シーンだけをクローズアップしているので、非常にまとまりはいい。
 「屈原鎮魂」(真樹操)。屈原賛歌、それ以外の何ものでもない。「みんなあなたを覚えていますよ、屈大夫。あなたは政治に負け、歴史に勝った。」 この一文がすべてを語っている。
 「蛙吹泉」(森福都)は、唐代、則天武后の没後間もない頃の長安を舞台にしたミステリで、トリックも謎解きもけっこう本格的。
 こうして見ると、「異色」というにしてはかなり本格派歴史小説が多いが、いろんな作風の作家が入り交じっているのは確か。でも「大全」は誇大ではないかという気がするが。
 時代的には、春秋時代が3作、秦・漢が3作で、以下、三国時代、唐代、五代、北宋が各1作、そしてかなり飛んで20世紀が1作と、かなり古代の比重が高く、11作のうち7作が西暦300年以前の話。配分がちょっとアンバランスな気もする。その分、作風のバラエティでカバーしているとも言えるが。

異色中国短篇傑作大全 (講談社文庫)

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2008年3月 5日 (水)

わたしの城下町

わたしの城下町 天守閣からみえる戦後の日本/木下直之(筑摩書房,2007)
 これは城郭研究の本ではない。もちろん歌謡曲に関する本でもない。
 著者は元々美術分野の研究者。この本が扱っているのは「文化現象」としての城、著者自身が東京大学サイトの教員紹介ページで語っているところによれば、「城郭研究の対象としての城ではなく、思わず「お」を付けて呼んでしまう現代人の通念の中に存在している城」なのだ。
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/CR/staff/kinoshita.html

 本書は元々筑摩書房のPR誌『ちくま』に連載されたコラムで、単行本化にあたって大量の「補遺」を追加しているが、メインの部分は連載時のままらしい。
 連載第1回にあたる「序」で、著者は江戸城と、自分の故郷浜松にある浜松城について触れ、最後に「さあ、お城とお城のようなものを巡る旅に出かけることとしよう。」と宣言する。
 ところがその後しばらく、著者は旅に出る気配がなく、皇居(つまり江戸城)から離れない。そのまわりの国立近代美術館、和気清麻呂や楠木正成の銅像などのモニュメント類の話が、第1章から第4章(連載4回分)にわたって続く。これでページ数の4分の1くらいを費やしてしまうのだ。このあたりで、著者が「お城」を、銅像と同じようなモニュメントとして同列に扱っているらしいことがわかってくる。そして、この本のテーマが、普通の意味での「城」ではないことも。
 第5章でやっと東京を離れ、小田原へ行ったかと思うと、そこでの話題の中心は小田原城ではなく、小田原駅前の小便小僧である。第6章でやっと、戦後の小田原城天守閣建築の経緯が語られるが、「補遺」では「熱海城」や「下田城」など周辺の怪しげな城を取り上げている。その上で著者は「ホンモノの城とまがいものとの違いはどこにあるのか」と問いかけるのだ(これはこの本全体が投げかける問いでもある)。
 こんな調子で著者は、各地の「お城」、あるいは「お城もどき」を訪れながら、日本列島を西へと下っていく。話題は中心テーマであるはずの「城」からはずれて、幻の松代大本営とか旧海軍の戦艦とか、絶え間ない脱線を繰り返し、その上「補遺」がまた脱線に輪をかけている。

 本文で取り上げられている主な「お城」は、すでに出てきた江戸城、小田原城のほか、駿府城、掛川城、浜松城、名古屋城、清洲城、墨俣城、彦根城、大阪城、伊賀上野城、伏見城、福岡城、熊本城、首里城など。「補遺」に出てくるのは、上の熱海城や下田城をはじめとして、長岡市郷土資料館(城みたいな建物だが、本当の長岡城とは全然違う場所にある)、洲本城、高松城、中城城(本土風のインチキな「お城」を建てる計画が一時あったそうだ)。
 こうして見ると、古くからの天守を残しているのは彦根城くらいで、他は再建(もしくは再建予定)、または史的根拠のないニセモノの城である。ニセモノたちこそが、この本ではむしろ主役のようにスポットライトを浴びている。

 ところで、城郭用語としては、「天守閣」という言葉は不正確なのだそうだ。正確には「天守」または「天守建築」。しかしこの本ではあえてタイトルから本文まで「天守閣」で通している。歴史上の建築ではなく、日本人のイメージとしての「お城」には、「天守閣」という言葉こそが似合っているからだろう。
 この本を読むと、日本人がいかに天守閣が好きだったかよくわかる。想像と推測に基づく「再建」など当たり前、天守など存在しなかった城に、いや、そもそも城など全然なかったところにさえ、「天守閣」を作ってしまうのだから。城郭に詳しい人が、「天守なんて飾りです! 偉い人たちには(以下略)」と言っても、誰も聞いてくれなかったのだろう。
 城郭ファンには評判の悪いそんなニセの天守閣も、この本を読めばまた違った視点から楽しめるようになる(かもしれない)。
 今まで読んだ城関係の本の中で、もっともユニークな本である。

わたしの城下町―天守閣からみえる戦後の日本

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2008年3月 3日 (月)

関羽伝

関羽伝/今泉恂之介(新潮選書,2000)
 ありそうでなかった、関羽だけを扱った史伝。三国志の登場人物と言えば、諸葛亮関係の本は山のようにあるし、曹操や劉備関係の本もそれなりにあるのだが。
 しかし、この本を読んでその理由がわかった気がする。関羽の人生はそのまま伝記にしても大しておもしろいものではないのだ。
 個人的な武勇で、史実として確認できるのは官渡の戦いで顔良を討ち取ったことだけ。前半生はよくわからないし、劉備軍団に入ってからも、武名のみは高いが、具体的にどんな活躍をしたか確認できないらしい。
 劉備の四川入りには当然ながらついて行ってないし、結局軍人としてはっきりわかっている事績は、死ぬ直前の荊州での一連の戦いだけ。
 関羽のイメージの大部分は、三国演義でのフィクションと民間伝承により形づくられたものなのだ。これでは伝記にするのは難しいだろう。
 著者も史実だけを追うことはせず、関羽ゆかりの地をめぐりながら土地の人にインタビューし、現地での関羽信仰の実態をレポートし、伝承を紹介し、三国演義を引用して、歴史上の人物が「神としての関帝」に変わっていくさまを描いていく。伝記であると同時に、アジアで一番信者が多いという「関帝」信仰のレポートでもある。
 ジャーナリストである著者の文章は、歴史叙述についてはちょっともの足りない気もするが、素直に読みやすい。

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2008年2月29日 (金)

読むスポーツ

 老荘の次はスポーツを読む。

スポーツを「読む」/重松清(集英社新書,2004)
 スポーツ・ノンフィクション、ではなく、スポーツ読み物に関するノンフィクション。というより、むしろ作家別書評集、というべきか。一人のライターにつき、代表作一つを取り上げ、主としてその叙述スタイルを論評する。対象となるスポーツそのものではなく、あくまで「それをいかに書いているか」について語る本なのだ。
 山際淳司(『江夏の21球』)、玉木正之(『不思議の国の野球』)といった、私でも名前を知っているようなスポーツ・ライター、村上春樹(『Sydney!』)、三島由紀夫(ボクシングなどの観戦記)、夢枕獏(『群狼の旗』)など、小説家たちの書いたスポーツ・ノンフィクション(もっとも、開高健の『オーパ!』をスポーツ読み物と呼ぶのはかなり無理な気がするが)、大橋巨泉(『競馬解体新書』)、阿久悠(『甲子園の詩』)、といった異色のライターの異色の著作、梶原一騎や水島新司のマンガ(『巨人の星』と『大甲子園』)、ホイチョイ・プロ(『極楽スキー』)に至るまで、小説以外のほとんどあらゆる著作が対象になっている。
 その中でもっとも正統派の著作、というか本書の核になるのが、現在一線で活躍している専門のスポーツ・ライターたち。―なのだが、なにしろスポーツには疎いもので、金子達仁(『28年目のハーフタイム』)、小松成美(『中田英寿 鼓動』)、佐山一郎(『闘技場の人』)、増島みどり(『6月の軌跡』)など、紹介される名前と著作のほとんどがぴんとこないのが悲しいところ。(このエントリーを書くために中身を見直してみて、『星新一』で一躍SF界でも有名になった最相葉月が載っていたのに気づいたが。)
 そんな具合だから、ここに紹介された著作のほとんどは読んだことがない。だが、著者の熱っぽい文章は、著者を知らなくても、本を見たことがなくても、書かれているスポーツになじみが薄くても、読むだけで十分に楽しめる。スポーツ・ライティングのおもしろさを熱く語るこの本は、それ自体がスポーツ・ライティングの秀作だろう。

スポーツを「読む」―記憶に残るノンフィクション文章読本 (集英社新書)

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2008年2月28日 (木)

老荘を読む

老荘を読む/蜂屋邦夫(講談社現代新書,1987)
 老子に荘子。なんとなく「無為自然」とか、「浮世離れ」とか、「隠者」とかいう言葉が浮かんでくる。つきつめれば、「仙人」の思想という感じか。
 老子は後に「大上老君」として神格化され、『西遊記』や『封神演義』にも登場する。実際のところ、その存在すら確かではない伝説の人物である。
 荘子は実在自体が疑問視されているわけではなく、戦国時代の宋の人と言われるが、その生涯にはやはり謎が多い。
 どちらもつかみどころのない、言ってみればちょっとあやしげな人物であるが、そのあやしさがかえって、その思想にはふさわしい。
   この本では第1章と第2章が老子・荘子の紹介と概説、第3章と第4章が老子、荘子のそれぞれの思想の紹介という構成になっていて、全編にわたって引用が豊富に散りばめられている。だが、要所要所が紹介されているだけで、老荘思想の全貌が解説してあるというわけではない。老荘を「読む」というより、「ちょっとのぞく」程度である。
 だいたい、著者があとがきで「『荘子』のほうは内篇を中心として一部分を読んだにすぎない。」と書いているので、全貌が解説できるわけがないのである。全部読まずに解説本を書くのもなかなかすごいと思うが。
 ただ、もともと老荘思想というのは、老子が「知る者は言わず、言う者は知らず」と言ってるように、言葉では本質が説明できないものらしい。下手に理解しようとして深みにはまると、浮世に戻ってこれなくなるかもしれないので、この本みたいに、エッセンスのつまみぐいをしていた方がいいのだろう。
 実際、この本に引用される部分だけでも、ある程度のことは―例えば、老子が意外と処世術や政治論みたいな現世的なことを語っており(「能く士たる者は武ならず、善く戦う者は怒ならず、善く敵に勝つ者は与(あらそわ)ず、善く人を用いる者はこれが下となる。」みたいに「孫子」かと思うようなことも言っている)、荘子の方が抽象的であることとか―わかってくる。少なくとも、その一端を知るというか、知ったかぶりくらいはできるわけである。
 老荘という難解な対象を扱っているわりに、文章が非常に読みやすい。気楽に、老荘思想に入門、とまではいかなくても、門前に立った気分くらいにはなれる。

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2008年2月22日 (金)

SF万国博覧会

SF万国博覧会/北原尚彦(青弓社,2000)
 SFマガジンに連載されたコラム「空想科学小説叢書列伝」(1994~1995)と「バベルの塔から世界を眺めて」(1997~1999)をまとめたもので、独特の視点から翻訳SFの世界を案内する。
 第1部「空想科学小説叢書列伝」は22回連載。「あとがき」によれば、1970年代後半から1980年代前半のSF叢書を中心にしたもので、それ以前のもの(ハヤカワSFシリーズとか元々社とか)や、今でも続いているもの(ハヤカワ文庫とか創元SF文庫とか)は除いている(例外もあり)。
 どういうものが取り上げられているかというと、「世界SF全集」、「海外SFノヴェルズ」(実はまだ続いている)、「サンリオSF文庫」みたいな有名どころから、「久保書店Q-Tブックス」、「別冊奇想天外」、「青心社SFシリーズ」みたいに昔からのファンには知られているもの、「久保書店SFノベルス」、「NW-SFシリーズ」みたいなレアものまでさまざま。どちらにしても、今では手にいれることが困難な本が多い。
 第2部「バベルの塔から世界を眺めて」は36回連載。日本の翻訳SFがあまりに英米の作品に偏重しているので、英米以外の国のSFを、翻訳本を通じて紹介するというのが趣旨だそうだ。こちらの方が「万国博覧会」と呼ぶにふさわしい内容で、本のタイトルもこの第2部をイメージしてつけられているのだろう。
 それはいいのだが、第1回がカナダから始まるのには、ちょっと違和感があった。カナダのSFといっても、だいたいはアメリカやイギリスで出版されているのだから、英米SFの一部と言っていい。作者の国籍だけの問題なのだ。これは後の方で出てくるオーストラリアやニュージーランドについても同じ。
 これらの英語国を除けば、後は「バベルの塔」にふさわしく、さまざまな国、言語のSFが並んでいる。出てくる順番に、イタリア、ドイツ、オーストリア、フランス、ベルギー、スペイン、スウェーデン、チェコ、ポーランド、ハンガリー、ロシア・ソヴィエト、中国、その他(ブルガリア、オランダ、アルゼンチン、アルバニア、韓国など)。
 もちろん、翻訳されるSFの量は国によってかなり差があるので、多い国は何回も連載になり(フランスが7回、ロシアが6回、ドイツが5回、など)、少ない国は1回、もっと少ないと数カ国まとめて「その他」に押し込められている。また、普通のSFだけではネタが足りないので、児童向きの本や幻想小説に近いものまで紹介されていたりする。英米以外の国のSFがいかに少ないか、よくわかる。
 それにしても、これだけバラエティに富んだ本を集めるのは大したもので、しかも第1部と重なる本がほとんどないというのもすごい。ただ、第1部以上にレア度の高い本が多く、入手するのはさらに難しいだろう。
 この本の背表紙には、「入門者から上級者まで対応の、ポップでマニアックなSFガイドブック」とあり、「あとがき」にも、「ある種の読書ガイド、もしくはある種の蒐集ガイドとして活用いただければ」と書いてあるのだが、これだけ入手しにくい本が多いと、よほど古本屋めぐりが好きなマニアならともかく、実用的なブックガイドとしてどれだけ役に立つかは疑問である。
 それよりも、世の中には埋もれたSFや変なSFがこれだけあるのだという雑学的知識を披露する、マニアックなコラム集として読むべきだろう。だいたい、博覧会というのは、珍しい品物を陳列するものではないか。
 インデックスがついてないのは残念。

蛇足
 「バベルの塔から世界を眺めて」のハンガリーの回(26)にこんなことが書いてある。

ハンガリーはヨーロッパにしては珍しく、名字が先、名前を後に表記する(つまり日本と同じ)。「ペーテル・レンジェル」だと、「ペーテル」がファミリー・ネームということになるので注意。

 前半は正しい。しかし後半は間違い。
 ハンガリーSF、『オグの第二惑星』(早川「海外SFノヴェルズ」)の作者は、確かに「ペーテル・レンジェル」と表記されているが、これは欧米式表記、つまり「ペーテル」が名で「レンジェル」が姓。日本の作家の英訳本が出る時に「ハルキ・ムラカミ」とか「バナナ・ヨシモト」とか表記されるのと同じこと。
 下のハンガリーの書店のサイトに『オグの第二惑星』ほかの表紙写真が載っているが、 そこにはちゃんとハンガリー式に「Lengyel Peter」と表記されているのが見える。
http://www.antikva.hu/onan/osszetett-handle.jsp;jsessionid=B79F2254798C54C542D949E3D61040AD?bongeszes=true&hol=szerzo&szerzoid=457
 下のサイトでも同じ。
http://www.hunbook.hu/index.php?op=item&id=136616
 なぜこういうことになるかというと、日本語訳の『オグの第二惑星』がドイツ語からの重訳だからだ。つまりハンガリー語からドイツ語に訳された時点で、名前が欧米式表記に変わっているのだ。
 ハンガリー人の名前は、こんな風に英語やドイツ語からの重訳だと欧米式表記、ハンガリー語からの直接訳だとオリジナルのハンガリー式表記になっていることが多いので、どっちが姓でどっちが名前なのかは、個別に判断する必要がある。
 ちなみにここに載っている名前でいうと、「ペーテル・レンジェル」の他、「ジェルジ・ダロス」が「名・姓」の欧米式表記。「ランドルフ・ロバン」、「レオ・シラード」も欧米式だが、それ以前に名前自体を欧米風に変形してあるっぽい。「カリンティ・フェレンツ」(本文に「カンリティ」と書いてあるのは間違い)、「カリンティ・フリジェシュ」、「バラージュ・ベラ」は「姓・名」のハンガリー式表記。
 ハンガリーはカトリック国で、その名前は他のヨーロッパ諸国と起源が共通するものが多い。ペーテル(Peter)は英語で言えば「ピーター」そのままだし、ジェルジ(Gyorgy)はジョージ、パール(Pal)はポール、アンドラーシュ(Andras)はアンドリューだと類推できる。そういうものは、それが姓でなくて名だろうと推測できるのだが、両方とも名に見えるものや、形だけではどっちがどっちだか見当がつかない姓名もけっこうある(作曲家の「コダーイ・ゾルターン」なんてそうだな)。最終的には調べてみるしか確認のしようがないのだ。

 続けて同じ著者の『SF奇書天外』を取り上げようと思っていたが、長くなったので次回に。

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2008年2月18日 (月)

天ぷらにソース

全日本食の方言地図/野瀬泰申(日本経済新聞社,2003)
 食文化というにはあまりに俗っぽい習慣がある。例えば「天ぷらにソース」とか、「甘納豆入り赤飯」とか、「西では肉=牛、東では豚」(これはあまりに有名)とか、地域独特の料理の呼び方とか。そういうものをこの本では「食の方言」と呼んでいる。
 元は、日経新聞のサイト「食べ物 新日本奇行」に掲載した記事と、メール投稿を再編集したもの。
 どんな「方言」が載っているかというと、まず最初が、このサイトの開設のきっかけにもなったという、「天ぷらにソース」。これはほぼ完全に西日本の習慣らしい。一番比率が高いのは和歌山で、80%を超える人が「天ぷらにソース派」だとか。他に半数以上を超えているのが、奈良、福井、それに香川を除く四国など。そういえば、私の故郷の高知でも、小さい頃は天ぷらにソースをかけて食べていたような気がする。
 あるいは、「卵焼きに砂糖」。これは東日本では普通、というか、全国的には「入れない派」の優勢な県の方が少ない。だが関西では和歌山県以外は砂糖を入れない。四国でも香川以外はおおむね入れないらしい。私も甘い卵焼きというと、寿司屋で出てくるやつしか食ったことがない。
 食べ物の地域差という話になると、必ずと言っていいほど話題になる納豆関係では、「納豆を食パンにはさんで食べる」(秋田県の一部、あと名古屋の一部から報告あり)とか、「納豆に砂糖」(北海道、東北など)とか、変な(私から見て)食べ方の例が出てくる。
 こんな話題の数々のほか、巻末には、広島の「カレーチャーハン」に「ホルモンうどん」、秋田の「ばばへらアイス」、新潟の「醤油カツ丼」、「イタリアン(ミートソースのかかった焼きそばのこと)」など、方言的食物を実食するツアーのルポも載っている。
 元々ネットの記事ということもあり、メールの情報と著者(日経の記者です)のコメント、短いルポが並べてあるだけで、特にまとまった考察があるわけではないし、何か結論が出る、という性格の本でもない。
 この本に書かれている実に様々な「食の方言」のディテールと、それへの反応(ツッコミも)を、難しいことは考えずに楽しめばいい。
 欲を言えば、登場する食べ物のインデックスをつけてほしかった。

全日本「食の方言」地図

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2008年2月15日 (金)

頼朝と信長の間

人物を読む 日本中世史 頼朝から信長へ/本郷和人(講談社選書メチエ,2006)
 サブタイトルにあるとおり、源頼朝から織田信長まで、8人の人物を通じて見る日本の中世。ここでいう中世とは、つまり鎌倉幕府の始まりから室町幕府の終わりまでを指す。
 これだけならごく当たり前の歴史の本、というところなのだが、著者の語り口は相当にユニークである。「はじめに」で、「日本史がうまくない。前近代史が特にうまくない。私はいくつかの学校で中世史を講義しているのだが、最近の学生たちはびっくりするほど日本史を知らないのだ。」と、こんな調子でいきなり始まる。
 著者は日本史の研究者だが、日本史のあまりの不人気ぶりに、学問全体の衰退の危機を感じているのだ。
 ではどうすればいいか。戦後の歴史学アカデミズムは、それまでの人物中心の歴史から、社会の動きを中心にした民衆史が主流だった。これが面白くないので、歴史離れを招いているのだ。ならば、冷遇されている人物中心の歴史を復権する。それをきっかけに歴史に興味を持つ人が増えてくればいい。歴史が「面白い物語」でもいいではないか、と著者は主張する。
 言ってることは正しい。まあ、民衆の歴史だって、網野善彦の本などそれなりにおもしろいのだが、歴史にあまり詳しくない人が、いきなり『無縁・公界・楽』とかから入っていくのは難しいだろう。やはり問題は入り口なのだ。
 そんなわけで、人物中心の、読んで面白い歴史をめざしたというこの本。確かに、ところどころ会話形式になるなど、学者の文章とは思えない破格な語り口も随所に見えて、学術書にしては面白い。ただ、あくまで「学術書にしては」という留保つき。歴史をあまり知らない人を引きずり込むような入門書―には見えない。
 それは、この本に取り上げられた8人を見ても明らか。
 8人全部が、源頼朝や織田信長みたいな有名どころというわけではないのだ。顔ぶれは以下のとおり。各人物につけられたサブタイトルも一緒にあげる。

乾の巻 第一章 源頼朝―新しい王/第二章 法然―平等の創出/第三章 九条道家―朝廷再生/第四章 北条重時―統治の追求
坤の巻 第五章 足利尊氏―「一つの王権」を/第六章 三宝院満済―ザ・黒幕/第七章 細川政元―秩序なき戦乱へ/第八章 織田信長―圧倒的な合理性

 見てのとおり、源頼朝と織田信長にサンドイッチされた間には、歴史好きでも聞いたことのないようなマイナーな名前が出てくる。三宝院満済って誰だ?
 実は、この三宝院満済という、室町幕府の影のフィクサーとなった僧について語る第六章は、本書でも一番おもしろい部分の一つなのだが、やはりどっちかというと歴史マニア向きだろう。
 ついでに言うと、実は単なる人物伝を並べたものではなく、統一したテーマがある。各章のサブタイトルが暗示しているし、最後に著者自身もバラしているが、その隠されたテーマを読み解くのも楽しみの一つだろう。結局この点でも、入門レベルではなく、歴史マニア向けということになるのだが。
 まあ、講談社選書メチエというのは、どれもだいたいこんな風な、入門書と専門書の中間くらいのレベルで、この本も例外ではないということ。ただ、「メチエ」の中では読みやすい方だと思う。
 

人物を読む 日本中世史―頼朝から信長へ (選書メチエ)

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2008年2月 8日 (金)

中公新書ラクレのジョーク集シリーズ

 2001年に刊行が始まった「中公新書ラクレ」は、言ってみれば「中公新書」の大衆版みたいなもの。その中に一連の「ジョーク集」シリーズがある。
 厳密には、シリーズとはどこにも書いてないが、本家中公新書の『物語○○の歴史』みたいに、事実上のシリーズになっている。
 どんなのがあるかというと、出た順番に並べれば次のとおり。

 世界ビジネスジョーク集/おおばともみつ著, 2003.2
 世界の紛争地ジョーク集/早坂隆著, 2004.3
 世界反米ジョーク集/早坂隆著, 2005.1
 大学教授コテンパン・ジョーク集/坂井博通著, 2005.7
 世界の日本人ジョーク集/早坂隆著, 2006.1
 少子化「必毒」ジョーク集/坂井博通 , 2006.6
 日本の戦時下ジョーク集/早坂隆, 2007.7
 爆笑!大江戸ジョーク集/笛吹明生, 2007.11

 この他に、『世界のイスラムジョーク集』(早坂隆)が、中公文庫から2007年に出ている。中央公論はよほどジョーク集が好きなようだ。
 この一覧を見ると、半分以上をルポライターの早坂隆が書いていることもわかる。

 今回はこの中から3冊を取り上げる。うち2冊は早坂隆の著書。

世界の紛争地ジョーク集/早坂隆(中公新書ラクレ,2004)
 やばい地域で流布しているやばいジョークを集めた本…かと思ったら、普通のジョーク集だった。
 確かに、イラク、パレスチナ、アフガニスタンといった紛争地は含まれているが、エストニア、リトアニア、チェコ、ハンガリー、インドといった、少なくともこの本が出た時点では別に紛争地じゃない国も多く含まれている。過去には紛争が起きていたということかもしれないが、そんなことを言えば、世界中「紛争地」じゃない国なんてなくなってしまう。
 メインになっているのは、旧ソ連・東欧の「共産国家ジョーク」。およびその派生系ともいえる各地域の「独裁者ジョーク」。これはこれでジョークとしてはおもしろいのだが、どこかで聞いたようなネタが多い。
 しかもネタが足りないのか、トルコの「ナスレッディン・ホジャ」とか、モンゴルの民話とか、伝承小咄まで含めている。
 ジョーク初心者にはおもしろいかもしれないが、正直、やや期待はずれの内容だった。
 そんな中でも、一番おもしろいと思ったのは、ルーマニアの、「マイクロソフトの車」。

 
ビル・ゲイツ率いるマイクロソフ卜が、新しく自動車業界に進出することになった。しかし、
 できあがった車は以下のようなものだった。
 一 特に理由がなくても二日に一度は突然動かなくなる
 二 高速道路ではそれが特に顕著である              、
 三 こうした場含、最悪のケースとしてはエンジンを総取り替えしなければならない
 四 ユーザーは新しい道ができるとそのたびに、新しい車に買い替えなければならない


 この点に関しては、ルーマニア人の気持ちがよくわかる。


世界の日本人ジョーク集/早坂隆(中公新書ラクレ,2006)

 この本は売れた。めちゃくちゃ売れた。トーハンの調査では2007年のベストセラー・ランキング第19位だそうだ。
 間違いなくジョーク集シリーズ、というか中公新書ラクレのベストセラーである。私は発売直後に買ったのだが、その時はこんなに売れるとは思ってなかった。
 日本人くらい、外国から自分たちがどう思われているか気にしている国民はないという話がある。加えて、エスニック・ジョークはどんなネタでもおもしろい。政治ジョークと並んで、ちょっとブラックで、なおかつ知的なジョークの宝庫である。
 考えてみれば、この二つの要素が組み合わさっているのだから、売れて当たり前なのだった。
 世界のジョークに現れる日本人の特性とは、ハイテク、勤勉、金持ち、杓子定規、英語が下手といった、予想されるものばかり。まあ、ステレオタイプだからこそエスニック・ジョークのネタになるわけで。
 中にはマンガやアニメをネタにしたジョークもあるようだが、まだまだ少数派。
 この本の中でよくできたジョークだと思われるものは、どれもステレオタイプをネタにしたもの。一番気に入ったのは、最初で紹介される「不良品の設計図を送ってください」だったりする。
 この本でひとつ問題なのは、自分をネタにしたジョークは言いにくいので、せっかく気に入ったものがあっても実際には使いにくいということだろう。読むだけなら問題なしにおもしろい。
 ただ、正直言ってジョーク自体として見れば、秀逸なものがそんなに揃っているわけではない。このおもしろさには「日本人をネタにしているからおもしろい」という要因がかなりの部分を占めている。


爆笑!大江戸ジョーク集/笛吹明生(中公新書ラクレ,2007)

 江戸笑話集の数は多い。原典そのものが多いし、現代語に翻訳されたものも、古典文学の一種として、各種の全集や文庫に収録されている。
 しかしこれがおもしろいかというと、この本のまえがきにも書いてあるように、「当時の世相がわからないと通じないギャグ」が多くて、たいしておもしろくないのである。
 この本では、小咄のたぐいよりむしろ実際に起こったできごとの方に、今の目から見ればおかしな話が多いということで、かなりの数の実話を収めている。「笑えないジョークより笑える実話」というわけだ。
 確かにジョークとしか思えないような実話は多いし、それはそれでいいのだが、問題は、収録された話をどこから取ってきたか、解説に書いてないケースが多いことだ。どれが実話でどれがジョークなのかわからない。それくらいははっきりさせてほしいものである。
 が、何より問題なのは、「爆笑」と言えるほど笑える話がないことだ。ジョークというのは、権力者や権威あるものを笑いものにするのが一番おもしろい、と思う。たとえば冷戦時代の共産圏のジョークみたいなやつ。ひとつ間違えば牢屋行き、そういう危ない類のもの。それが、この本にはあまりに少ない。
 日本では、「二条河原落首」以来、その種のジョークの役割はもっぱら狂歌、落首(さらに江戸時代なら川柳)が担うものになっている。著者はまえがきで「落語・小咄、川柳・狂歌」などは、扱った書籍が多いので、「ここでは扱うのを遠慮した」と書いているが、そんなことにこだわらずに、「大江戸ジョーク集」と題する以上、川柳、狂歌、都々逸なども入れるべきだったと思うのだが。

爆笑!大江戸ジョーク集 (中公新書ラクレ)

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2008年2月 4日 (月)

童話のようで童話じゃない

血のごとく赤く 幻想童話集/タニス・リー(ハヤカワ文庫FT,1997)
 童話をモチーフにした、ダークな風味のファンタジー短編集。
 元の童話が何であるかは、どの作品中でも明言されることはないし、登場人物の名前も違っているが、読めば何となくわかるようになっている。ただ、特筆すべきは、ほとんどの作品が小説としての独立性が強く、元ネタがわかってもわからなくても、おもしろさにあまり違いがないということ。
 つまり、元ネタを前提に成り立つパロディやパスティーシュではなく、あくまでモチーフを借りているだけということ。
 パロディ的要素が目立つのは、「白雪姫」の善悪を裏返しにした表題作「血のごとく赤く」くらいだろう。(これがまた、収録作の中で一番おもしろいのだが。)
 「血のごとく赤く」の次におもしろいのが、最後の作品「緑の薔薇」。これは一応「美女と野獣」が元ネタだが、完全なSFに変えられている。舞台は未来、異形の宇宙人に選ばれて共に暮らすことになった娘が、やがて自分の秘められた運命を知るという、オリジナルとはまったく違う話。
 さらに原型がわからないくらい話を変形させているというか、オリジナルになっているのが、ホラー小説「墨のごとく黒く」。この本の中に入っているから、童話か民話が原型、おそらく「白鳥の湖」がモチーフ、と推定できるが、普通の短編集の中に混じっていてもまったく違和感がないだろう。
 他の作品のタイトルと元ネタは、「報われた笛吹き」(パイド・パイパー)、「いばらの森」(いばら姫)、「時計が時を告げたなら」(シンデレラ)、「黄金の綱」(ラプンツェル)、「姫君の未来」(蛙の王子)、「狼の森」(赤ずきん)。ほとんどがホラー小説風に料理されている。
 「幻想童話集」というサブタイトルは、変な先入観を与えるのでむしろ邪魔かもしれない。純粋にダーク・ファンタジーの短編集として見て、よくできている。

 蛇足。ところで「狼の森」と「血のごとく赤く」は諸星大二郎のマンガ「赤ずきん」と「スノウホワイト」によく似ている。いや、ストーリーはまるで別なんだけど、原型の処理の仕方というか、方向性が。

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2008年1月28日 (月)

中国に「妖怪」はいるのか?

中国妖怪伝/二階堂善弘(平凡社新書,2003)
 中国の古典に登場する妖怪・怪物たちについての解説本。主なネタ元は、『西遊記』、『封神演義』、『山海経』、『白蛇伝』などの古典文学。
 ただ、本文にも書いてあるが、中国では妖怪と神、それに単なる変な動物や人間との区別があいまいで、日本のようにはっきりした「妖怪」という概念があるわけではない。
 例えば、『西遊記』に出てくるのは、どっちかといえば「モンスター」で、『封神演義』に出てくるのは「神」と「仙人」、『山海経』に出てくるのは「未確認動物」。『白蛇伝』がやや日本の妖怪に近いかもしれない。
 この本では伝奇小説や随筆などからも、日本的な意味で「妖怪」に含まれそうなキャラクターを抜き出してきているのだが、それでもネタ不足な感は否めない。少なくとも、日本的な、土俗的な意味での妖怪は、この本にはほとんど出てこないので、その点では拍子抜けする。
 全体の4分の1を「あの世と術者の話」と題して、地獄や幽鬼の話にあてているのも苦しい。それだけ、「妖怪」に該当する存在を探すのが難しいということか。
 そのおかげで、文化の違いというか、日本的な意味での「妖怪」が中国にはほとんど存在しないらしいことはよくわかる。
 「妖怪」はこの際忘れることにして、中国の「幻獣」ガイド、あるいはファンタジー作品のガイドと考えれば参考になる。

中国妖怪伝―怪しきものたちの系譜 (平凡社新書)

 むかし、岩波からも似たような趣旨の本が出ていたので、それもついでに。

中国の妖怪/中野美代子(岩波新書,1983)

 著者は中国文学研究家で、『西遊記』研究の第一人者。
 だが、意外と『西遊記』などの古典文学ばかりではなく、織物や青銅器など考古学資料の図像も資料として、古代中国の「妖怪」のイメージをさぐっている。さらには西洋の神話・伝説との比較も持ち出すなど、視野は幅広い。
 といっても、この本もやはり、日本の「妖怪」みたいなものを期待するとあてがはずれるだろう。
 全体は3章にわかれていて、1がプロローグにあたる「妖怪との出会い」、2が「龍の栄光と堕落」で、この章が全体の約半分を占める。3が「霊獣と魑魅魍魎」、4が「妖怪と漢の文化」という短い章。
 「龍の栄光と堕落」は、タイトルのとおり、龍についての考察。日本の感覚から言えば、龍は妖怪ではない。
 「霊獣と魑魅魍魎」の前半は朱雀、玄武、麒麟などの霊獣を扱っているが、これも日本では「神」の一種で、妖怪とは言えないだろう。後半は人面鳥、人面魚や、「山海経」に出てくるけったいな生き物を博物学的に取り上げているが、ここでやっと「妖怪」らしきものが出てくる。が、それでもやはり、わけもなく出現してわけのわからないことをする日本の妖怪とは、ちょっと違う。単に「変な生き物」じゃないかと思うのだ。
 最後の「妖怪と漢の文化」は、そのタイトルにもかかわらず、出てくるのは「鬼」と「神」で、やはり妖怪とは言えない。
 この本にも、『中国妖怪伝』同様、日本で言ういわゆる「妖怪」はほとんど出てこない。これもやはり、中国文化に現れる幻獣・鬼神たちの伝統を知るには役立つ本である。

 要するに、中国の古典や神話・伝説には、さまざまな「妖しい存在」、「怪しげな生き物」が出てくるが、日本の「妖怪」みたいなわけのわからないものはいない、ということか。

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2008年1月22日 (火)

1985年という遠い過去

極東セレナーデ (上・下)/小林信彦(新潮文庫,1989)
 1986年から87年にかけて、朝日新聞に連載された小説。
 物語自体は、一言で言えば、「マスコミ業界シンデレラ・ストーリー」というところ。
 主人公、朝倉利奈は運に見放された娘。幼くして両親をなくし、短大を出て勤めた出版社は、会社の事情で4ヶ月でクビになる。先輩編集者から紹介された怪しげな編集プロダクションで働き始めたのもつかの間、経営者が雲隠れする。
 途方に暮れていたところに、突如変な仕事が舞い込んできて、朝倉利奈の運命が大きく変わり始める。その仕事というのは、ニューヨークに住み、現地のミュージカルや劇などのショウビジネスの現場を見て、そのレポートを日本に送る、というもの。
 なぜ素人の利奈がそんな仕事に抜擢されたのか、という謎は物語の後の方で明らかになるのだが...。
 かくして、日本で明日の食事にも困っていた貧乏娘が、ニューヨークでブロードウェイに毎日通うという生活を送るようになる。これだけも夢物語みたいな話である。
 だがこれはほんの序の口、やがて日本に帰った朝倉利奈は、自分をめぐる状況がとんでもないことになっていることを知る...。
 小林信彦って、やっぱりうまい。「おもしろい」とか「楽しめる」とか言うより(それも事実ではある)、「うまい」というのが一番ぴったりくる小説である。
 そして、小林信彦の他の小説がそうであるように、この作品もどこか普通ではない。何かが変である。リアルな小説のようでいて、現実味がない。解説を書いた氷室冴子は、その点について、「この小説にはまぎれもなく、ニセモノ臭がします。」、あるいは、「なにかが、コンマ1ミリの差で、ズレている」と実に的確に表現している。
 どこがどう変かというと、説明しにくいのだが。

 例えば、細かいところはやたらと具体的で、その点はリアルである。
 小説内のできごとは、1985年という設定で、実際にこの年に起きた事件が物語の中にたびたび出てくる。朝倉利奈がニューヨークに出発する直前に日航機の墜落事故が起きるし、ニューヨーク到着後には、「夏目雅子が死んだ」とか「三浦和義が逮捕された」とかいう話が出てくる。そして、物語のクライマックスでは、この年に起きたある出来事が大きな意味を持ってくる。
 さらに、本や映画、音楽に関する蘊蓄の量はすごい。その他にも多方面にわたってとんでもない量の雑学がつめこまれている。
 だが、それらのディテールがリアル感を生み出しているかというと、そうでもないのだ。
 出版業界やテレビ業界の内幕は生々しいが、それでいてマンガ的に誇張されていたりもする。ニューヨークの街の描写もリアルだが同時にどこか作り物めいている。
 登場人物も、小説というよりマンガに出てきそうなキャラクターばかり。頭がいいが常識がない主人公からしてマンガ的キャラだし、他にも、絵に描いたようなキャリアウーマンとか、ニューヨークでひっそりと暮らしている元マスコミの大物とか、祖父の名前に猛烈なコンプレックスを持つ変人の作詞家とか(その名前がある日常的な言葉と同音で、誰かがたまたまそれを口にした途端に怒り狂って席をたってしまう)、エロいイラストで売れているお嬢様イラストレーターとか。
 細部のリアルさと、話全体の嘘っぽさが、この作品の絶妙な味付けになっているのだ。

 結末近くに、こんな一節がある。

 つけ加えておくと、この物語の背景になっている一九八五年、八六年には、<お嬢さまブーム>というものが存在した。... (笑わないでほしい。これは遠い昔の物語なのだから。)

 つまりこの小説は、50年か100年くらい未来に、過去の日本を舞台に書かれたもの、という設定なのかもしれない。だとしたら、細部は資料を元にリアルに書いているが、何しろ遠い過去の話なので、話全体が現実からどこかずれてしまう、というのも納得がいくのだ。これって一種のSF?

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2008年1月16日 (水)

金星といってもヴィナスじゃなくて

金星/もりたなるお(文春文庫,1990)
 タイトルは「きんせい」ではなくて、「きんぼし」。
 相撲の世界を描いた短編集。スポーツ小説は数多いが、相撲を題材にした小説というのは、どっちかというと少数派だろう。私も相撲小説を読むのは初めてだったし、この著者の本これが最初だった。もりたなるおは1926年生まれのベテラン作家で、推理小説の著作が多いらしい。
 この本に収められた7編だが、「スポーツとしての相撲」よりは「相撲の世界」に生きる人々の哀歓を描いた人情話の側面が強く、いかにもベテラン作家らしい味わいのある、しかも推理作家らしい意外な結末も見せる達者な作品が集まっている。
 もっとも、「哀歓」とはいっても「歓」より「哀」の方がはるかに多く、さわやかさに欠けるのが難点。
 特に最後の作品「相撲の骨」は、実在の巨漢力士出羽ヶ嶽をモデルに、その悲惨な晩年を描いたもので、あまりに暗い話のため気が滅入ってくる。最後から3番目の「相撲梅ガ香部屋」にもこの出羽ヶ嶽にまつわるエピソードが出てきて、いわば後日談のようになっている。こちらは弱小部屋の親方が主役の、わりといい話なので、これを最後に持ってきた方がいいように思うのだが。
 他には、相撲だけが生き甲斐の元記者を主人公にした「摺り足」、部屋にただ一人の関取となった力士が、やめたいのにやめられない苦境であがく「十両十三枚目」も、いい話だった。

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2007年12月29日 (土)

月曜日の水玉模様

 明日から数日、ネットにつなげなくなるのでこれが今年最後のエントリになる。でもまあ、特別なことは何もなく淡々とやります。(実は時間がない、というのが正直なところ。)

月曜日の水玉模様/加納朋子(集英社文庫,2001)

 「月曜日の水玉模様」から「日曜日の雨天決行」まで、曜日をタイトルにした7編の連作短編。
 主人公片桐陶子は普通のOL。信用調査会社の調査員萩広海とコンビを組んで謎解きに挑む。この萩という男が職業のわりにあまり役にたたず、謎解き役はほとんど推理力に優れた陶子が受け持つ、という設定は皮肉がきいている。
 ただし、記憶力に関しては萩の方が優れている(そんなに並はずれてもいないが)し、陶子は萩の恋愛感情に全然気づかないくらい鈍い。
 まあ、早い話が陶子も萩もごく普通の人間である。そんな二人が解決する謎も、いかにも加納朋子らしい日常的なもので、凶悪犯罪も露骨な悪人も出てこない。ただ、小さな「悪意」は淡々とした描写の底に見え隠れするが。
 最後の7話目で、それまでのゲストキャラクターが野球の試合で勢揃いする趣向がいい。(私はなぜか、小説でもマンガでも、登場人物たちが集まって野球をする、というエピソードを見るとやたらとうれしくなる。もちろん、野球小説、野球マンガ以外での話。)

 『小説すばる』に連載されただけあって、全体的にミステリ色は薄く、普通の小説っぽい。本格的なミステリを求めた人には、その点はもの足りないかもしれない。しかしミステリといえば重厚長大・複雑怪奇・奇想天外な作品が多い中で、こういうのを読むとなんだかほっとする。西澤保彦の熱をこめた解説も楽しい。

月曜日の水玉模様 (集英社文庫)

 というわけで、今年の「紙魚のファイル」は終わり。
 本当は今年のまとめなどを何回かやりたかったのだが、諸般の都合によりそこまでできなかった。あとはまた来年ということで。

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2007年12月28日 (金)

死んだ魚を見ないわけ

死んだ魚を見ないわけ/河井智康(角川ソフィア文庫,1999)
 『カラスの死骸はなぜ見あたらないのか』(矢追 純一)という、その筋では有名なトンデモ本があるが、この本もタイトルだけ見ると、なんだかそのたぐいと思ってしまいそうである。実は中身は海洋学者による、ごくまっとうな科学ノンフィクション。
 「自然死する魚はほとんどいない」というのが著者の説で、それを確かめるため、自ら深海潜水船に乗り込んで実験と観察をする。その潜水船でのエピソードがメイン。いわゆる科学書の硬さはなく、ドキュメントタッチになっていて、きわめて読みやすい。
 自然死しないとすれば、魚はどうやって死ぬのかといえば、「自然状態では、魚はほとんどが他の魚に食われて一生を終わる」というのが結論。
 これが今どれだけ主流の説なのかは、私にはよくわからない。が、著者が自分の目で確かめた「海底に魚の死骸はない」という事実に加え、海でとれる魚に死にかけのやつがいない、というのはかなりの説得力がある。良質の科学本である。

 ところで、この本の著者の河井智康自身、意外な形で死んでいる。2006年5月、夫婦ともども息子に殺されるという、悲劇的な最期をとげたのだ。私はこの件は知らなくて、このエントリーを書くためにネットを調べていてわかったのだが、著者が平和運動に熱心だったこともあり、その時は科学だけでなく政治がらみでもいろいろ話題になったようだ。
 人間の死に方だけはいくら研究しても予測がつかない。

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2007年12月18日 (火)

趣味人の日曜日

趣味人の日曜日/笹川巌(講談社現代新書,1987)
 「三代続いたサラリーマン」と自ら称する著者が、「四代目のサラリーマンたるべく運命づけられている息子に、"家訓"のかわりになる一冊の本を書きのこすべきではないか」と思い立って書いたという本。
 さらに著者は、「それが現代の士太夫・読書人階級であるサラリーマンのライフスタイルやアイデンティティを確立・確認するためのてがかりになれば拾いものだ」なんてことも考えたりする。このあたりですでに、普通のサラリーマンとはかなり違った指向を感じるのだが...。
 上の文章でもわかるように、著者は現代のサラリーマンを、かつての中国の士太夫・読書人、あるいは江戸時代の勤番侍に当たるものだと考えている。「サラリーマンのライフスタイルやアイデンティティ」を理想化すれば、昔のこういった層、言い換えれば、「文人」が一番近いというのだ。だからこの本では「新・文人生活」のノウハウを考えるという。
 そう言われても、実際にサラリーマン生活を送っている人の大半にとっては、全然実感がないだろう。私もそうである。いきなり「文人」とか言われても...。
 実際に著者がおすすめの趣味生活というのは、まず書斎をかまえ、花や金魚鉢を飾り、随筆(それも主に江戸随筆)や怪談・怪奇小説を読もこと。あるいは外に出れば、江戸の面影を求めて町歩きをすること。
 なるほどいかにも「文人」らしい。優雅にして粋である。
 でも著者が自分の趣味について書いているだけのような気がする。とても万人の楽しむことのできる趣味とは思えない。
 というか、趣味生活のすすめというよりは、「おれはこんなに優雅な趣味を持ってるのだぞ」という趣味自慢に思えてしかたがない。
 だいたい、「三代続いたサラリーマン」というが、著者の祖父は大蔵省の局長、父親は財閥系の銀行に勤め、自分自身は放送会社に勤務するかたわら、いくつかの大学で講師を勤めている。三代続けて東大を出ているらしい。
 要するに三代続いたエリートじゃないか。江戸時代の侍に例えれば、少なくとも千石どり以上の旗本クラスで、決して内職で傘貼りをしている貧乏侍ではないのだ。
 まあ、「文人」というのは、結局エリート階級なのだから、当然といえば当然。
 別にそれが悪いというわけではない。ただ、普通のサラリーマンが普通の趣味生活について語っているのではない、そのことだけは強調しておきたい。
 そこさえ押さえておけば、ユニークな着眼点が楽しめる本なのだ。実のところ、ここで書かれているような趣味生活は、私は非常に好きである。

 それにしても、こんな本が出るというのは、社会に余裕があった証拠だろう。すでに過去形で語るしかないが。
 この本が出版されたのは、まだバブル景気のまっただ中。ワーキングプアや非正規雇用が社会問題にならなかった、幸せな時代の著作である。

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2007年12月15日 (土)

沈黙の王

沈黙の王/宮城谷昌光(文春文庫,1995)
 古代中国、伝説の夏王朝時代から春秋時代(紀元前6世紀半ば)までを舞台にした中編5編。 だいたい年代順に並んでいるが、夏王朝を舞台にした「地中の火」だけはなぜか最初ではなく二番目。これは表題作「沈黙の王」を最初に持ってきたためだろう。
 「沈黙の王」は、文字を初めて作ったと言われる伝説上の商(殷)の王「武丁」の物語だが、文字を作る話というのは、最後の1ページで片づけられている。メインストーリーは、言葉に障害があるため国を追放された王子「子昭」(後の武丁)の、神話的な遍歴。
 古代も夏や商の時代まで遡ると、もう歴史と神話伝説との区別がつかなくなる。この話も、自然と、ファンタジーだか歴史小説だかわからないものになっている。実のところ話も哲学的で、やや難解。
 「地中の火」は、商よりもさらに古い、まだ実在も証明されてない(中国ではあったことにされているが)夏時代が舞台。が、なぜかこっちの方が普通の歴史小説に近い味わいがある。当然ながら史料などないも同然なので、ほとんどは作者の創作なのだが。
 夏王朝を一時簒奪した異民族の王「后ゲイ(1)」と、その臣下で、「后ゲイ」の国を簒奪した(つまり簒奪者からさらに簒奪した)「寒ソク(2)」の物語。宮城谷昌光の小説というのは、だいたい非現実的なまでに高潔な人物が主人公であることが多いが、この作品は、珍しく主人公も周囲の人物も、生臭い野心家である。その分、登場人物がきわめて人間くさく描かれている。神話伝説の時代であるにもかかわらず歴史小説的な雰囲気が出ているのはそのへんが原因だろう。
 「妖異記」と「豊穣の門」は、西周が滅びた混乱の時代に、国を中原に移動するという奇策で民を救った「鄭」の名君「友」(鄭の初代、桓公)と二代目「掘突」(武公)親子の物語。狂言回し役の史官「伯陽」や策謀家の「カク(3)」(国の名前です)公一族、周王を籠絡して国を滅ぼした妖姫「褒ジ(4)」など、脇役も魅力的で、ドラマ的盛り上がりもたっぷりとあり、歴史小説としてはこの2編が飛び抜けておもしろい。
 最後の「鳳凰の冠」は、春秋時代、晋の悼公から平公の時代にかけての重臣「羊舌キツ(5)」(字は「叔向」)を主人公に、晋の貴族群像を描いたもの。叔向はいかにも宮城谷らしい、高潔な賢者だが、歴史的に見ればはなばなしい活躍をした人ではなく、当然ながら話も地味。タイトルにもなっている「鳳凰の冠」は、話の最初と最後に象徴的に出てくるだけだが、妙に印象に残る。わずかしか登場しないものにそれだけの存在感を与える語り口のうまさに感心する。
 春秋時代以前という、宮城谷昌光のもっとも得意とする舞台に、それぞれにパターンの違う作品を集めた、この著者のエッセンス集とも言うべき本。

※古代中国ものは、表示できない漢字が多いのが困りもの。上でカタカナで代替した字(1)~(5)は、本当は次のような字。
Kanj071215_4    

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2007年12月 8日 (土)

物語イタリアの歴史

 4月に『物語チェコの歴史』を取り上げた時、中公新書の『物語○○の歴史』シリーズでは『物語イタリアの歴史』が出色だと書いた。
 今回は、その『物語イタリアの歴史』。実は続編である『物語イタリアの歴史Ⅱ』を先に読んだので、そちらを先に紹介する。中公新書のこのシリーズで、2冊出たのはこの本と、確か『物語スペインの歴史』だけだ。読者からも好評だったらしい。

物語イタリアの歴史Ⅱ 皇帝ハドリアヌスから画家カラヴァッジョまで/藤沢道郎(中公新書,2004)
 この「物語○○の歴史」シリーズも、アイルランド、カタルーニャ、ウクライナ、ヴェトナム、バルト三国と、いろいろあるが、この『物語イタリアの歴史』のどこか一番おもしろいかというと、ちゃんとタイトルどおり「物語」になっているところ。他の本は「物語」と題しながら実は単なる歴史の本なのだ。それはそれで、歴史としてのおもしろさはあるのだが、「物語」じゃないだろうとつっこみたくなる。
 この本の特徴は徹底した人物中心になっているところ。取り上げられた人物は、サブタイトルのとおり2世紀のローマ皇帝17世紀の画家まで8人。
 その時代と人物は次のとおり。

第1話:2世紀/ハドリアヌス(ローマ皇帝)
第2話:6~7世紀/グレゴリウス1世(ローマ教皇)
第3話:10世紀/マローツィア(ローマの貴族・イタリア王妃)
第4話:12世紀/アルナルド(修道士)
第5話:13~14世紀/ボニファティウス8世(ローマ教皇)
第6話:15世紀/ロレンツォ・デ・メディチ(フィレンツェの支配者)
第7話:15世紀/クリストフォロ・コロンボ(コロンブスのイタリア名・航海者)
第8話:17世紀/カラヴァッジョ(画家)

 主舞台はローマ。8人の主人公のうちロレンツォ・デ・メディチとクリストフォロ・コロンボ以外はローマで活躍した人物である。ロレンツォの物語には、フィレンツェの政敵としてローマ法王庁が出てくる。
 全然ローマと関係ないのは、「航海者コロンボ」くらいか。この人が「イタリアの歴史」に登場するのは、もちろんイタリア生まれ(ジェノヴァ出身)のイタリア人だからである。
 ところで著者の指摘によれば、日本での呼び方「クリストファー・コロンブス」というのはおかしいのだそうだ。「クリストファー」は英語読みだが、姓の方は英語読みだと「コランバス」になるはず。出身地のイタリアだと、上のとおり。臣下として仕えたスペインでの読みは「クリストバル・コロン」、ラテン語だと「クリストフォルス・コルンブス」(姓の読みはこれが一番近いが、名前が全然違う)。結局コロンブスの名前の読み方は日本語独特らしい。
 それはともかく、ハドリアヌスの時代に建設されたカステル・サンタンジェロ(本来は霊廟)のシーンで始まり、最後もまたカラヴァッジョの悲劇を語った後で同じシーンで終わる構成は見事。カステル・サンタンジェロは途中のエピソードでも要所要所に出てきて、全編を貫く隠れた「主人公」となっている。本文は200ページ足らずだが、ほとんど大河小説に近い読後感がある。これこそ、「物語―歴史」のタイトルにふさしい本である。
 というわけで、前編にあたる『物語イタリアの歴史』も読まずにいられなくなった。

物語イタリアの歴史 解体から統一まで/藤沢道郎(中公新書,1991)
 西ローマ帝国が崩壊に向かう4世紀から、イタリアが統一される19世紀までを、10人の人物を通じて描く、中公の「物語・歴史」シリーズの最高傑作。
 上の「物語イタリアの歴史Ⅱ」の解説に、「隠し味」としてそれぞれのエピソードが違う都市と結びついている、と書いてあったのでそのへんにも注目してみた。
 確かに、『Ⅱ』が「ローマの物語」だったのに、こちらは舞台が分散している。言ってみれば、『Ⅱ』が大河小説なら、こちらは連作短編集というところか。

 時代/中心人物/中心都市の順でそれぞれのエピソードを見てみると、こうなる。

第1話:4~5世紀/ガラ・プラキディア(ローマ皇帝テオドシウスの娘)/ラヴェンナ
第2話:11世紀/マティルデ(トスカーナ伯)/カノッサ
第3話:12~13世紀/聖フランチェスコ(宗教家)/アッシージ
第4話:13世紀/フェデリーコ(皇帝・フリードリヒ2世)/パレルモ
第5話:14世紀/ボッカチオ(作家)/フィレンツェ・ナポリ
第6話:15世紀/コジモ・デ・メディチ(銀行家)/フィレンツェ
第7話:15~16世紀/ミケランジェロ(芸術家)/ローマ・フィレンツェ
第8話:17世紀/ヴィットリオ・アメデーオ(サルデーニャ王)/トリノ
第9話:18世紀/カサノーヴァ(色事師)/ヴェネツィア
第10話:19世紀/ヴェルディ(作曲家)/ミラノ

 イタリアの主要都市はほぼ出てきている。ただ、なぜかジェノヴァがないが、ページと構成の都合だろうか(ジェノヴァ出身のコロンブスはⅡで登場する)。
 職業も適度に分散しているし(王侯と芸術関係が多めだが)、何より、第2話以降、各人物をほぼ1世紀の間隔をおいて配した構成のバランスがすばらしい。
 イタリアの歴史は、題材としてそれ自体がおもしろい、ということもあるだろう。昔読んだ塩野七生のイタリア史ものも、歴史物語としてのおもしろさは抜群だった。だが、どんなに材料がよくても、シェフの腕あってこその料理である。
 藤沢道郎は歴史を料理する一流のシェフだった。惜しいことに『物語イタリアの歴史Ⅱ』の原稿を書いてまもなく亡くなったのだが(本が出たのは死後3年経ってから)、もっと違う味付けをほどこした「物語」も読みたかったものである。

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2007年11月30日 (金)

『ぬ』

実験小説 ぬ/浅暮三文(光文社文庫,2005)
 第一章「実験短編集」に10編、第二章「異色掌編集」に16編、おまけが1編、計27編の小説(と言っていいのだろう、たぶん.)が収録された短編集。
 「実験小説」の名にふさわしく、特に変な発想の作品が多いのが第一章。ただ、よく見るとパターンがあって、記号または図と文章の組み合わせで成立している話が多い。
 「帽子の男」は街角でよく見かけるある人物、「喇叭」は図の混じった謎のクイズ(表題の「ぬ」はこのクイズの一部)、「遠い」は矢印の一種、「線によるハムレット」はタイトルどおり「線」、「壺売り玄蔵」はあるものの写真が、それぞれ作品の必須の一部となっている。
 とんでもない発想をきちんとストーリーにまとめるのはうまいと思うし、バラエティに富んでいて、内容によって文体まで変えるという技も見せてくれる。特に「喇叭」などは不条理物語としてよくできていると思うが、文字だけで成立してないというのは、小説としてどうなのかという気もする。
 「小さな三つの言葉」でも文字が記号的に使われている。でも一番肝心の言葉が、スペルが違っているのは残念。
 「カヴス・カヴス」上下2段に分かれてストーリーが進むが、これ自体は他にもある手法で、実験というほどでもない。ただ、この作品でも一種の記号が重要な役割で使われている。この第一章で、まったく文章だけで成立しているのは、ゲームブックの手法を使った「お薬師様」と、全編独白の「雨」だけだろう。「雨」は、この本の中では一番普通の小説に近い作品である。
 第一章の残る1編、「參」(「参」ではない、字体が違うのに注意)は、文章だけとは言い難い面があるが、記号や図が使われているわけでもない。文字の使い方という点で他に例を見ない発想で、しかも物好き同士の知識自慢に見えていたものが、いつの間にかホラーになるという展開の妙を見せる傑作。収録作中のベストである。
 第二章の各編は、記号や図や変な文字が出てくるわけではなく、形式的には普通のショートショート。「タイム・サービス」、「再会」、「行列」などはわりとありがちな話だが(といってももちろん普通の小説ではない、しいて言えばホラー系)、「何かいる」、「隣町」、「海驢の番」みたいに、不条理な奇想に満ちた作品もある。かと思えば「ワシントンの桜」、「ベートベンは耳が遠い」、「箴言」(これはプラトンが主人公)みたいな歴史上の有名人を主人公にしたパロディ、「変身」のパロディである「カフカに捧ぐ」みたいに、冗談だけで成立しているみたいな作品もある。
 この第二章で一番おもしろかったのは、蝸牛を主人公にした「進めや進め」。カタツムリが主人公の小説というのは読んだことがなかった。
 おまけの作品は、「これはあとがきではない」というタイトル。でもひょっとしたら本当はただのあとがきなのかもしれない。

 帯に「絶頂期の筒井康隆を彷彿させるアイディア」という豊崎由美(この本の解説も書いている)の惹句がある。
 一時期の筒井康隆並に発想がぶっ飛んでいるのは確かだが、かなり違うところもある。筒井との一番の違いは、読んでもあまりテンションが上がらないところ。これはひょっとして、私が年をくったせいかもしれないが...。
 とはいえ、筒井康隆とは方向性や資質が違うというだけで、これはこれでいい。実をいうと、こういうアホな(誉めてます)試みはけっこう好きである。この方向を突き詰めて、もっととんでもないものを書いてほしい。

実験小説 ぬ (光文社文庫)

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2007年11月21日 (水)

「ケンミンセイ」を笑う

真説 県民大図鑑/「ニッポン・ジャーナル」編集部編 堀五朗訳(扶桑社文庫,2000)
 「県民性」の本というのは山ほど出ているが、これは、そういったあまたの「県民性本」そのものをパロディ化した、ある意味究極の「県民性」本。
 東京に在住する外国人のための情報誌「ニッポン・ジャーナル」の外国人編集者たちが、他の「県民性」本をネタに作った本『The Hilarious Japanese』の全訳、と序文には書いてある。参考にされたという「県民性」本は中央新書からPHP文庫まで11冊。メタ「県民性」本とでも言おうか。
 本文のいたるところに訳注がつき、出典が書いてある。外国人がそれらの参考文献を鵜呑みにして書いたものだから、原典の嘘をそのまま書いたり、日本語を誤読したり、勘違いや見当はずれなことも書いてあったりするわけで、「訳注」でその間違いを丁寧に指摘したり、その県の出身者が「そんなことはない」と否定する言葉を紹介したりしている。
 例えば「三重県」の章では、本文に「日本では経済活動にまで、ニンジャが暗躍しているというこの事実に我々は驚きと興奮を感じずにはいられません。」と書いてあり、それに対する「訳注」では、「荒唐無稽な解釈に、勝手に興奮していればいいと思う」と冷淡に突き放している。
 もうおわかりと思うが、「ニッポン・ジャーナル」の翻訳なんてのは大嘘。外国人が書いたものを翻訳した、という設定で書かれた冗談本なのである。実は「訳者」の堀五朗という人が全部書いたのだろう。

 最後のページには、わざわざ「『ニッポン・ジャーナル』なる雑誌は架空のものであり...」云々という注意書きが書いてある。これはまったく余計。こんなもの、普通の判断力を持った人が読めば、翻訳を装った冗談だとわかるはずで、本当のオリジナルがあるなんて思うのが悪い。
 この手の冗談本はけっこう好きなのだが、最後にこういう蛇足を書いてあるのだけが残念。 
 なお、「図鑑」というタイトルにもかかわらず、挿絵のたぐいは全然ない(地図はあるが)。

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2007年11月13日 (火)

生まれる地名、消える地名

生まれる地名、消える地名 「平成の大合併」で日本地図に大異変!/今尾恵介(実業之日本社,2005)
 サブタイトルのとおり、「平成の大合併」で日本の地理に生じた大変動を、地図の専門家、今尾恵介が語る。もちろん地図上の境界線も大きく変わったが、この本でもっぱら取り上げているのは地名。それも新たに生まれた地名がメインである。より正確にいえば、「地名」というより「自治体名」だが。
 著者が考える、自治体名称の決定にあたって必要な原則というのは、「歴史的地名を尊重する」、「地名の範囲を守る」、「中心都市の名称を採用する」、「安易にかなを使わない」だそうだ。
 このことから想像できるように、著者は「平成の大合併」で新たに生まれた新地名の多くに批判的で、この本の半分近くを使って、上の原則からはずれた地名を取りあげて問題点を指摘している。
 それが第一章「生まれる地名」。この章では新地名をさらに五つの類型に分類しており、それぞれに皮肉な見出しをつけている。「雨後のたけのこのように出現 ひらがな地名」(さいたま市、つくばみらい市など)、「古代からの歴史があるけれど…… 方位つき地名」(四国中央市、西東京市など)、「憧れの地名を持ちたい! ブランド地名」(伊豆市、南アルプス市、四万十市など)、「旧国名から広域地名まで…… 大風呂敷地名」(奥州市、瀬戸内市など)、「もはや地名ではない!? 平成創造地名」(さくら市、湯梨浜町、和水町など)といった具合。取り上げられているのは、確かにどれも批判的意見が多い地名である。
 第2章、「幻の地名・消える地名」では、合併で消滅した地名だけでなく、新しい自治体名の候補になりながら、合併が成立しなくて幻になったものも取り上げている。太平洋市、湘南市、それに一時話題になった南セントレア市などである。
 第3章では、全都道府県について、第1章や第2章で取り上げられなかった新自治体名を説明。まともな方の新地名はこっちに入っている。
 で、これでもまだ漏れる地名があるので、巻末にはさらに「平成の大合併」で生じた全ての自治体の変動についてリストをつけるという丁寧さ。
 だいたい、地名・地理マニアというものは、こんな風に徹底しないと気がすまない、という面がある。(私もそういう傾向があるのだ。)
 だからこの本は、「平成の大合併」についての資料集にもなっている。変な新地名に対しても、皮肉はきかせるものの強い批判は表に出さず、記述はおおむね客観的。変な新地名に対して著者がやたらと怒りをぶちまけているような本もあるが、それでは読んでいる方も苛々してくる。地名の是非は読者が自分で考えてほしい、というこの本のスタンスはいい。地名エッセイであり、地理雑学本でもあり、資料集でもあるという、地理好きには楽しめる本になっている。

生まれる地名、消える地名―「平成の大合併」で日本地図に大異変!

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2007年11月 7日 (水)

人間は考えるFになる

人間は考えるFになる/土屋賢二、森博嗣(講談社,2004)
 土屋賢二は哲学が専門で、お笑いエッセイで知られる。森博嗣は工学が専門で、本格ミステリが売れている。そんな対象的な二人による、異文化間の対談。共通点は、本業が国立大学の教員だということくらいか。
 タイトルは、土屋賢二の著書『人間は笑う葦である』のそのまた元ネタのパスカルの名言「人間は考える葦である」と、森博嗣の『すべてがFになる』を合成したものであることは言うまでもない。
 エッセイのイメージと同じく、情けないことばかり言っていて自虐ネタの多い土屋に対し、これまた小説のイメージどおり、クールで超俗的な森。まるで噛み合わないようでいて、妙にシンクロするところもある会話がそこはかとなくおかしい。
 同じミステリという言葉でも、土屋賢二がしゃべると「ミステリー」、森博嗣がしゃべると「ミステリィ」となるあたり、表記もけっこう凝っている。かなり本人たちの手が入っていると見た。というか、どこまでが実際にしゃべったことなのか?
 おまけとして、巻末に二人の書いた「小説」が載っている。土屋賢二の「消えたボールペンの謎」は、いつものエッセイとまったく同じタッチ。書いてある内容がフィクションだから小説なのか。しかしエッセイだって、ほとんどが誇張とホラと冗談でできているからフィクションみたいなものなのだが。
 森博嗣の「そこに論点があるか、あるいは何もないか」は、これも一見小説に見えない。巻末の著者二人による対談を装っていて、実はフィクションだということが、最後のページでわかる仕掛け。これはだまされた。
 実は私は土屋賢二のエッセイはけっこう好きだが、森博嗣のファンとは言えない。それでもけっこうおもしろかったのだから、この二人のどちらか片方のファンなら楽しめるのではないだろうか。

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2007年11月 4日 (日)

中国人の機知

中国人の機知 『世説新語』を中心として/井波律子(中公新書,1983)
 著者は半年ほど前に『トリックスター群像』を紹介した中国文学の専門家。
 この本は魏晋時代の貴族たちの逸話集『世説新語』を題材に、巧みなやりとりを「機智」というキーワードでとらえ、その歴史的背景、処世術を解説する。会話のパターンを構造的に分析しているあたり、前に紹介した米原万里の『必笑小咄のテクニック』とちょっと似たところがある。そういえば、『世説新語』も一種の小咄集みたいなものだ。
 相手をやりこめる当意即妙の応酬(というか、イヤミのぶつけ合いみたいな気もするが)も興味をそそられるが、そういう浮き世離れした会話に逃避して、乱世の中に身の安全を図る貴族たちの生き方そのものがおもしろい。
 『世説新語』の時代は3世紀から4世紀にかけてだから、今から1600年から1700年くらい昔、日本では邪馬台国や倭の五王の時代。そんな時代に、何の役にも立たないイヤミのやりとりに精力を傾けていたのだから、ある意味文化の高さを物語っているには違いない。
 だが、その機智の伝統が現代にも生きているという実例として、やたら毛沢東語録を持ち出すのはいかがなものか。この本が出版された1980年代前半には、まだ中国革命への幻想みたいなものが生きていたのだろうか。最後の章、「『世説新語』と魯迅」も余計な気がする。

 どうでもいいトリビア。この時代の中国では相手を呼ぶのに「卿」と呼ぶのがぞんざいな言い方で「君」と呼ぶのが丁寧な呼び方だったとか。今の感覚とは逆である。田中芳樹の小説ではやたらと相手を「卿」と呼んでいるが、魏晋時代の中国なら、それは「お前」呼ばわりしていることになるわけだ…。

 気に入ったエピソード。

 王濛と劉タン(*)はつねづね蔡公(蔡謨)に敬意をはらってなかった。二人はあるとき蔡を訪問して語り合い、しばらくたってから、蔡にたずねていった。 --あなたは自分で夷甫(王衍)とくらべてみてどうだとお思いですか。
 蔡はこたえた。
 --わたしは夷甫にかないません。
 王と劉は目くばせして笑いながらいった。
 --どの点でかなわないのですか。
 蔡はこたえた。
 --夷甫には君たちのような客がいない。(p.32

(原文)
王 、 劉 毎 不 重 蔡 公 。 二 人 嘗 詣 蔡 , 語 良 久 , 乃 問 蔡 曰  「 公 自 言 何 如 夷 甫 ? 」 答 曰  「 身 不 如 夷 甫  」 王 、 劉 相 目 而 笑 曰  「 公 何 處 不 如 ? 」 答 曰  「 夷 甫 無 君 輩 客 」

(蛇足)
王衍、蔡謨はともに東晋の重臣。劉タン、王濛は東晋の名家の出身で、二人は親友だったらしい。『世説新語』の世界では「王・劉」というだけで誰のことかわかるようだ。

*タン=
Tan2

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2007年10月31日 (水)

全日本荒唐無稽観光団

全日本荒唐無稽観光団/綱島理友(講談社文庫,1995)
 あちこちの雑誌でよく見かけるコラムニスト綱島理友。その著者が、編集者やカメラマンと一緒に日本の各地に、何の原則も思想も展望もなく、おもしろ半分に行ってみるという、要するにそれだけの本。
 行き先は、「カミナリ風呂」(福島・飯坂温泉)、「東京周遊券」(都内熊野前、南千住、浅草その他)、「太秦映画村」、「日本モンキーセンター」(犬山)、「下呂温泉」(変な地名シリーズその1)、「地下鉄博物館」(葛西)、「登呂遺跡」(静岡)、「ウェスタン村」(栃木)、「大歩危、後免」(変な地名シリーズその2)、「ヘビ・センター」(群馬)、「バナナ・ワニ園」(伊豆・熱川)、「小笠原・父島」、「羽合温泉」(鳥取・変な地名シリーズその3)、「馬込温泉」(大田区)、「ホテル国際きのこ会館」(桐生)、「南蛇井」(群馬・変な地名シリーズその4)、「妙立寺(忍者寺)」(金沢)、「ハニベ岩窟院(地獄めぐり)」(小松)、「UFOの町・羽咋」、「網走」、「大麻町」(北海道・変な地名シリーズその5)、「日本はきもの博物館」(福山)、「刑事博物館」(東京)、「及位」(山形県・変な地名シリーズその6)、「人体科学博物館」(清水)、「半家」(西土佐村・変な地名シリーズその7)、「竜馬歴史館」(高知)、「南阿蘇水の生まれる里白水公園駅」(熊本県)、「寄生虫博物館」(東京)、「金のシャチホコクルーズ」(名古屋)、「大阪球場住宅展示場」、「新世界」(大阪)、「清里のペンション」(山梨県)。
 有名な観光地から怪しげな名所、ただ地名が変だというだけの場所まで、よくもまあ、これだけ脈絡もなくバラバラなところに行ったものである(誉めてます)。
 大半はパソコン誌『ポプコム』に連載されたもので、連載時には「変な地名シリーズ」が人気があったらしい。しかし人気があるとはいえ、だんだんと行き先がショボくなり、最後は駅以外何もないところへ行ってしまって何を書けばいいのか途方にくれているあたりが、かえっておもしろい。
 行った先でおもしろくないところは、はっきりとおもしろくないと書いてあるところも、正直でよろしい。
 実は綱島理友の本で読んだのはこれだけだが、他にも、『街のイマイチ君』、『イマイチ君の東京トボトボ探検隊』、『猫メシのサジかげん』など、タイトルを見るだけでもいかにもどうでもよさそうな本を多数出していて、こういう路線はけっこう好みだったりする。でもやはり本好きとして読んでみたいのは、『よろず古本綱島探書堂』かな。

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2007年10月28日 (日)

戦国の雄と末裔たち

戦国の雄と末裔たち/中嶋繁雄(平凡社新書,2005)
 戦国時代の大名の末裔たちがその後どうなったか、今はどうなっているのかを語る12編の歴史読み物。
 著者は歴史学者ではなく、本来はジャーナリスト。福井新聞記者、「歴史読本」編集長などを経て歴史ノンフィクション作家になったとのこと。そういえば、各編に必ず自ら足を運んで取材したルポ風の部分があり、いかにも新聞記事みたいな文章である。
 それにしても、1929年生まれだというから、この本を執筆していた時点で70代なかばのはず。さすがに文章にクラシックな味わいがある。
 取り上げられているのは、相馬、足利、武田、織田、今川、新田、立花、毛利、黒田、浅野・木下、蜂須賀の各家、それに由井正雪の同志だった丸橋忠哉。丸橋忠哉はもちろん、足利、新田も「戦国の雄」ではないと思う。相馬家も戦国大名ではあるが小勢力で、「雄」と言うほどでもない。平将門の子孫ということで取り上げられているようだ。まあ細かいことはいいが、どういう基準で選んだのかよくわからない顔ぶれである。
 織田、黒田、毛利、立花のように江戸時代も大名として存続し、明治には華族となり、その子孫も健在である家もあれば、武田、新田、今川のように、江戸時代は旗本となり、ひっそりと続いてきた家もある。
  最後の丸橋忠弥は、実は長曽我部元親の孫だったのだという。本当かどうかわからないが。著者が訪ねていった丸橋忠弥の子孫は秦という姓だが、長宗我部家は秦氏の末裔を称していたから、辻褄は合っている。長曽我部家の末裔ということならば、まあ本の趣旨にも合っていると言えるだろうが、丸橋忠弥が本当に長曽我部元親の孫だったのかどうか、確かな証拠がないのが苦しいところである。(ちなみに、長曽我部本家は大坂夏の陣で盛親が死んで途絶えたが、傍系の子孫は残っている。末裔というなら、そっちを取材する方が確かだろう。)
 ところで、この秦氏の訪問取材は昭和32年というから、ずいぶん前の話だ。他の章は、なぜかいつ取材に行ったのか、時期を明記してない。ひょっとしたら、何十年にもわたってあちこちに書いてきた文章をまとめたものなのかもしれない。
 「戦国の雄」ということなら、北条、上杉、細川、伊達、島津、尼子など、有名どころは他にいくらでもあるが、要するに著者が歩いて取材した対象だけを取り上げたということだろう。ちょっと資料を調べれば、他の戦国大名の末裔が今どうしているかは、いくらでも書けると思うが、自分が足で取材したものしか書かない、というところにこの老ジャーナリストのこだわりを感じる。

戦国の雄と末裔たち (平凡社新書)

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2007年10月26日 (金)

七都市物語 シェアードワールズ

 ここ数年、田中芳樹作品は、未完のシリーズを他の作家に引き継がせるケースが目立っている。主なところだと、「クラン」→霜越かほる、「自転地球儀世界」→一条理希、「灼熱の竜騎兵」→小川一水、羅門祐人、青木基行らがシェアードワールズ化、といった具合。
 未完シリーズのひとつ、といっても一冊しか出ていない「七都市物語」をシェアードワールズにしたものが、今回の『七都市物語 シェアードワールズ』。

 が、その前に、知ってる人には今更かもしれないが、本家『七都市物語』について触れておこう。

七都市物語/田中芳樹(ハヤカワ文庫JA,1990)
 西暦2190年代、荒れ果てた地球には、散在する七つの都市国家だけに人間が住んでいた。(これに似た世界をどこかで見たような気がすると思ったら、手塚治虫の「火の鳥・未来編」だった。)
 七つの都市はアクイロニア、ニュー・キャメロット、クンロン、タデメッカ、サンダラー、ブエノス・ゾンデ、プリンス・ハラルド。それぞれが、大陸ヨーロッパ、イギリス、内陸アジア、中東、アジア島嶼部、ラテンアメリカ、アングロアメリカを文化的に代表しているようなイメージがある。あくまでイメージであり、住んでる人間はいろいろな人種が混ざっているのだが。
 この世界が成立するには、いくつかの段階を経ている。

 その一、2088年、地球の地軸が突然大きく角度を変える「大転倒」と呼ばれる異変により(原因は不明)、地球上の人類が絶滅する。
 その二、月面都市に生き残った人類が、増えすぎた人口の一部を無人化した地球に入植させ、七つの都市を建設する。
 その三、月面都市は地上500メートル以上を飛ぶ物体を破壊する「オリンポス・システム」を構築し、地上陣から航空能力を奪う。「地上人たちを監視し制圧するため」というが、地球の再建を大いに妨げることになったと思うのだが、なぜそんなことをしなければならなかったのか、理由はわからない。ルナティックというくらいだし、月に住んでいる内に頭がおかしくなったのだろうか。
 その四、2136年、月面都市は突然の疫病蔓延により、迷惑なシステムを残したまま全滅する。
 その五、空を飛ぶ手段を持たないまま地球に取り残された七都市の人々は、性懲りもなく争いを続ける。

 以上、最悪の災害と最低の愚行の積み重ねという、かなり無理矢理な設定で、地球上に都市が七つだけ、空は飛べない、という戦争シミュレーション・ゲームの舞台としか思えない世界ができあがったわけである。
 実際、この本に収められた五つの中編、話自体はどれも戦争シミュレーション・ゲームみたいなもの。
 ただ、セリフでも文章でも、「銀英伝」以来おなじみの田中節が満開で、読みやすいことこの上ない。ちょっとひねくれたキャラクターが続々と登場するのもいつものことだが、さすがに他の作品とキャラがかぶってくるのは仕方がないか。例えば、リュウ・ウェイはヤン・ウェンリーが偽名を使って演技しているようにしか見えない。
 ともあれ、主要登場人物たちがやっと顔を揃えたというところでこの本は終わっており、この後彼らがどんなドラマを展開するか興味はあったのだが、続きはいつまでも出る気配がなく、さんざん待たせたあげくに出たのが、この本である。

七都市物語 シェアードワールズ/小川一水ほか(トクマノベルズ,2005)

 上の各シリーズと同様、本人はもう書く気なしと思っていいですか?
 しかし、本家『七都市物語』はハヤカワ文庫だったのに、徳間で出るのか...(まあ、よくある話だが)。

 それはともかく、このアンソロジーというか競作形式のシェアードワールズノベル、小川一水、森福都、横山信義、羅門祐人と、なかなかおもしろい顔ぶれである。
 小川一水の「ジブラルタル攻防戦」は、「戦術と人間のドラマ」である原作のテイストに一番近く、それでいて「困難な事業への挑戦と達成」という、いかにも小川一水らしいテーマを打ち出した良作。個人的には、これが4作中ベスト。
 森福都は本来中国ファンタジーが主要路線で、「七都市物語」の世界からは一番遠い作風の人。なぜこの企画に入っているのか謎。しかし「シーオブクレバネス号遭難秘話」は、物語のスケールが宇宙まで拡大しており、意外にも一番SFらしかった。が、原作の設定と矛盾するような描写が出てくるのがちょっと気になる。「船でコワンチョウまで送ってもらったら、いよいよお別れですね」というセリフが出てくるが、「コワンチョウ」は中国の広州のこと。七都市以外に町があるというのは、この物語世界とは相容れない設定じゃないかと思うが。
 横山信義の「オーシャンゴースト」と羅門祐人の「もしも歴史に…」は、両方とも、いかにも架空戦記の作者らしく、高性能原子力潜水艦と水面滑空体という「幻の超兵器」を扱ったもの。「オーシャンゴースト」は戦術面で、「もしも歴史に…」は技術面で、田中芳樹本人はとうてい書きそうにない精密な描写をしており、オリジナル作品を補完するという意味では、いかにもシェアードワールズらしい作品である。

 正直なところ、偏見かもしれないが、シェアードワールズ・ノベルにあまり大きな期待はしていなかった。だが、各作家が、田中芳樹本人が絶対に書きそうにない「七都市物語」を目指していて、意外な効果をあげている。オリジナルを読んでないとついていくのが難しい、というのはやはりつらいところだが。

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2007年10月22日 (月)

少女たちのプロ野球

 女の子が野球をする話には、なぜか惹かれるものがある。
 このテーマ、マンガでは、『野球狂の詩』を始めとして、『無敵のビーナス』、『剛球少女』など、いくつか作品があるし、アニメでは『プリンセス・ナイン』なんてのもあった。
 でも、『野球狂の詩』以外は高校野球の話で、女性がプロ野球の世界に入る話というのは、なぜか少ない。翻訳ものでは『赤毛のサウスポー』や『彼女はスーパールーキー』なんてのがあるが、元々日本では「女子野球もの」の小説は少なく、プロ野球ものとなるとさらに少ない。
 今回は、そんな希少種である「女の子がプロ野球をやる小説」を2冊。

勝利投手/梅田香子(河出文庫,1989)
 女性投手でサウスポーという黄金パターンである。
 出だしは、甲子園で完全試合をなしとげた優勝投手は、実は替え玉で出場していた女子だった、という変化球。
 その投手、国政克美が星野仙一に見込まれてドラフトで電撃指名され、中日ドラゴンズに入団。ここから後の展開はひたすら直球勝負。プロ野球史上初めての女性投手、国政克美の成長を描く、汗と血と涙と恋の野球小説。恥ずかしいキャッチフレーズみたいだが、本当にこのとおりの内容なのだから仕方がない。
 単行本は1986年、執筆はさらに2年前だとか。
 小説の中で、星野監督率いるドラゴンズが、巨人との激しい争いの末、最終試合で優勝するペナントレースの展開は、明らかに現実の1982年のシーズンがベース。この年も中日は巨人と最後まで競り合い、最終試合で優勝を決めるのだ。ただし、実際のこの年の監督は星野ではない。
 星野が初めてドラゴンズの監督になるのは1985年のシーズンから。星野監督の初優勝は1988年。ただし、小説とは違って、1982年も1988年も、ドラゴンズは日本シリーズでは負けている。
 ほとんどの球団が実在の名称で出てくるが、ただひとつ架空の球団が、この小説でのドラゴンズの日本シリーズの相手、主人公の父親国政道朗が監督として率いる三星クラウンズ。
 この球団、本拠地が所沢。「三星」という親会社名は、韓国の球団「三星ライオンズ」からとっているのだろう。つまり、球団名がライオンズだという暗示なのだ。で、「クラウンズ」というのは、ライオンズの以前の親企業、クラウンライターから来ていると見られる。
 第一、秋山とか東尾とか田淵とか、(当時の)実在の選手名まで出てくるのだから、どこからどうみても西武ライオンズである。その監督である国政道朗のモデルは広岡達朗らしい。だからといって、主人公が広岡の娘がモデルというわけではないだろうが(現実の広岡達朗に娘がいるのかどうかは知らない)。

 主人公がなぜか男性顔負けの体力とスタミナを持っている、という点を除けば、物語はわりと現実的に(主人公が1軍に上がるまで2年かかるとか)、地味に進行する。女の子が主人公にしては、あまりに華がないような気もする。
 日頃読んでる小説は、最後に明らかになる意外な真相! とか、驚愕の二重どんでん返し! とかいうのが多いので、ラストにどんな魔球が来るかと待っていたら、最後までど真ん中のストレートだったので、思わず見逃し三振してしまったような気分だった。
 著者はこの小説を出した後、スポーツ・ライターに転身し、今はアメリカに本拠を置いて活動しているとのこと。

ラスト・マジック/村上哲哉(新潮文庫,1990)
 『勝利投手』の次の年に出たこの作品は、第2回日本ファンタジーノベル大賞最終候補作。でも中身は単なる野球小説なので、そもそも作者が何を考えてこの作品で応募したのかは謎である。
 解説を書いている荒俣宏も、なぜこの小説がファンタジーノベル大賞に、と困惑したことを告白している。
「最初にこの小説の草稿を見せられたとき、私は肩すかしをくらわされて机に頭をゴンとぶつけてしまった。」 
 ただ、超現実的要素こそないが、17歳の女の子がプロ球団の監督になるという、かなり現実離れした話なので、ある意味ファンタジーと言ってもいいかもしれない(?)。
 この小説の世界ではパ・リーグが8球団あって、(当時の)実在6球団の他に、「東亜ホワイト・ウィングス」と「高知ツインズ」という架空2球団が加わっている(1965年にリーグ加盟したのだそうだ)。
 これは一種のパラレルワールドということになるが、だからファンタジーノベルに含まれる、というわけではない。それを言ってしまえば、野球小説・マンガのほとんどはファンタジーになってしまう。
 とにかく、その架空球団、パ・リーグのお荷物「東亜ホワイト・ウィングス」のオーナー兼球団社長兼監督(これもかなり非現実的な設定だね)が病死し、遺言でまだ高校生の孫娘、東由貴に、球団の所有権、経営権、監督の地位、すべてを譲渡する。が、なぜか野球を嫌う由貴の父親がこれに強く反対し、次のシーズンで優勝できなければ球団は身売り、という条件つき。
 戦力がない上に深刻な財政難、危機に瀕する球団を受け継いだ東由貴は、野球知識は豊富だが、実技はまるでできない。ボールを投げるとピッチャーマウンドからホームベースまで球が届かない。だが、ひたむきな情熱でバラバラになりかかっていたチームをまとめ、優勝争いに導いていく、というベタベタな話。
 はっきりいって、キャラクターは月並みだし、話はお約束だらけだし、試合のシーンもあまり書き込まれてないし、野球小説としてそんなに優れているとは決して思えないのだが、なぜかこれがおもしろい。上の『勝利投手』よりもはるかに引き込まれる。小説は情報量やテクニックじゃない、ということか。

 この本は、ファンタジーノベル大賞の選外作を中心にした新潮文庫の文庫内シリーズ、「ファンタジーノベル・シリーズ」の1冊。大賞は続いているのに、なぜか1990年から2年間に十数冊出ただけで終わってしまった。小野不由美の『魔性の子』や、恩田陸の『六番目の小夜子』もこの文庫が初出。
 作者の村上哲哉は、少なくともこの名前ではこれ1冊しか小説を出していない。

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2007年10月 7日 (日)

江田島教育

江田島教育/豊田穣(集英社文庫,1983)
 海軍江田島兵学校。有名だが実態についてあまり詳しくは知らなかった。
 これは、実際に兵学校での生活を体験した豊田穣の回想を中心とした本。私のような中途半端な知識しかない人間にはうってつけだった。
 著者は1937年に兵学校に入学した第68期生。1940年に卒業後、すぐに太平洋戦争が始まって実戦に参加することになる。戦記小説の大家が実体験を書くわけだから、さすがに臨場感がある。
 開戦直前の兵学校は、近い将来のアメリカやイギリスとの戦争は予測の範囲内だったはず。とはいえ、実際にはまだ戦争は始まってないから(中国とは10年以上も戦争をしていたが、海軍はあまり関係ない)、卒業したらいつ死んでもおかしくない、というほどの極限状態ではない。平時ではないが戦争のただ中でもない、いわば臨戦態勢にある、緊張感に満ちた状態で兵学校の生活を送ったわけだ。
 こういう環境の中で鍛えられた仲間たちの連帯感というのは、戦後に育った人間には想像もつかないほど強いものがあるだろうし、文章からもそれが伺える。そして、回想に出てくる、個性的で人間くさい同窓生や先輩たちは、ほとんどが戦死しているのである。(たまに生き残った人間は、海上自衛隊の幹部になっていたりするが。)
 戦後26年を経て江田島を再訪した著者の、「私は、自分の江田島再訪が、やはり墓参であったことを再認識した」という感慨は重い。
 豊田穣自身、実は戦死したことになっていた。1943年、ソロモン方面の戦いで乗機を撃墜され、連合軍の捕虜になったのである。日本では作戦中に撃墜されて行方不明になったのだから、当然ながら戦死扱いにされた。
 アメリカの捕虜収容所で、兵学校の同期生だった捕虜第一号の酒巻少尉と再会するエピソードは、この本の中でも一番興味を引く体験談。数ページで片づけられているが、できればもっと詳しく書いて欲しかったところである。
 実はこの本は、元々『江田島教育』と『続・江田島教育』として出版された本を1冊にしたものだそうで、同じような内容が繰り返されたりするところがあるし、全体としてまとまりがない印象もある。そのへんを整理すれば、上のようなエピソードにもっとページを割けたかもしれないという気もする。もっとも、本題からははずれてしまうかもしれないが。
 江田島や戦争の思い出話だけでなく、戦後社会に対する批判めいたことも何カ所かに出てきて、バスや電車で老人に席をゆずらない若者や、そんな若者を生み出した戦後教育にかなりきびしい批判の目を向けている。
 言ってみれば、典型的な戦中派頑固オヤジの小言とも言えるが、一度死んだことにされた人間に文句はいいにくい。しかも、豊田穣はとっくに亡くなっているので(1994年没)、ますます文句は言えない。

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2007年10月 4日 (木)

願い星、叶い星

願い 星、叶い星/アルフレッド・ベスター(河出書房新社・奇想コレクション,2004)
 これはSF短編集ではない。ホラー短編集である。一見ロマンチックな題名にだまされてはいけない。
 「ごきげん目盛り」はSFサイコホラーの代表とも言えるような作品だし、「ジェットコースター」は人間の獣性をむき出しにするサスペンス・ホラー。
 そして、表題作の「願い星、叶い星」は、願ったことを何でも実現する特殊能力を持った少年が生み出す、惨憺たる事態を描く、ミステリが混じったホラー。「イヴのいないアダム」は、ホラーとは少し違うが、地球が全滅した後にただ一人生き残った男(しかも破滅の原因を作った張本人)という、ある意味この上ない恐怖に満ちたシチュエーションを描いている。さらに、「選り好みなし」は「時間怪談」の一種。
 そして、ベスターの中編の代表作とも言うべき、「昔を今になすよしもがな」は、一種のサイコホラー。実はこれを読むのはもう3回目か4回目になる。「鋼鉄の音」とか、「ジープを走らせる娘」とか、読むたびにタイトルが違っていたような気がするが。
 最終戦争後のアメリカで、奇跡的に出会った生き残りの男と女。実は二人とも狂っていました、という救いのない話。そして二人の他にも「何か」が生き残っているらしいのだが、それが人間と呼べるものかどうか実はわからない。やはりホラーである。
(なお、「鋼鉄の音」は『SFマガジン』掲載時のタイトル、「ジープを走らせる娘」は、『年刊SF傑作選4』(創元推理文庫)収録のタイトル。今回の訳題は、短編集『ピー・アイ・マン』(創元推理文庫)掲載時のタイトルと同じ。)
 最後の3分の1くらいを占める中編、「地獄は永遠に」は、人にはその人それぞれの地獄がある、というホラー風味のファンタジー。
 結局ホラーでないのは、コミカルなタイム・パラドックスもの、「時と三番街と」くらいか。
 ほのぼのした題名とは正反対に、恐怖と暗黒に満ちた作品ばかりが詰まっている。それと同時に、独特の熱気に満ちた文章と暴走するストーリーが、危険を感じるほどに読み応えがある。怪しい迫力に満ちた作品集である。

願い星、叶い星 (奇想コレクション)

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2007年9月30日 (日)

淑やかな悪夢

淑やかな悪夢/倉阪鬼一郎、南條竹則、西崎憲・編訳(創元推理文庫,2006)
 19世紀末から20世紀初め頃まで――タイトルが暗示するように、「淑女」という言葉が生きていた頃の、英米の女性作家による怪奇小説アンソロジー。
 古典的怪奇小説(やはり「ホラー」というより、「怪奇小説」という言葉がぴったりする)の最盛期ともいうべきこの時代の作品を集めたアンソロジーはいくつもあるが、女性作家ばかりというのは珍しい。
 全般的な傾向として、男性作家の怪奇小説は、いくら怖い話でもどこか理詰めのところがあるのに対し、女性作家のものは、怖い話になるとひたすら理不尽に怖い。この本にもそんな話が含まれている。

「追われる女」(シンシア・アスキス)。作者はこの種のアンソロジーによく顔を出す人で、この時代の代表的な女性怪奇小説作家。謎の追跡者におびえる女性を描いた不気味な話だが、結末が日本の有名な怪談とあまりにそっくりなのでつい笑ってしまった。
「空地」(メアリ・E・ウィルキンズ-フリーマン)。一種の幽霊屋敷もの。いくら怪現象が起きても引っ越そうとしない頑固オヤジがいい味出している。
「告解室にて」(アメリア・B・エドワーズ)。収録作の中では古い方(1871年初出)。結末は予想できてしまうが、この話のパターンがそれだけオーソドックスだということだろう。
「黄色い壁紙」(シャーロット・パーキンズ・ギルマン)。上に書いた「理不尽に怖い」話というのがこれ。あまりに気分が悪くなるような話だというので、掲載を断った編集者もいたという。発表された後も、「読んだ者が正気を失う」と抗議してきた医師がいたとか。1892年の話である。超自然的恐怖とサイコホラーを融合したこの作品が、まだそういう物語に対して免疫の少なかった当時の社会で抵抗を読んだとしても無理もない気がする。とにかく、今読んでも怖いのだ。怖すぎる。
「名誉の幽霊」(パメラ・ハンスフォード・ジョンソン)。調べてみたところ1936年の作品で、収録作の中では比較的新しい。そのせいか作風もかなり洗練されていて、幽霊は出てくるがタッチが軽妙なので怖くはない。読みやすさという点では一番。
「証拠の性質」(メイ・シンクレア)。今の日本では怪奇小説の分野でばかり有名な作家だが、メイ・シンクレアは本来怪奇小説を主に書いていた作家ではなく(それを言えばこの本の収録作家の大半がそうだが)、20世紀前半のイギリスを代表する女流作家だったそうだ。前妻の亡霊が再婚した夫の夫婦生活を邪魔しに来るというこの作品、間違えばドタバタになりかねない話を、通常のゴーストストーリーとは別の意味で「こわい」結末に導いていくあたりがうまい。
「蛇岩」(ディルク夫人)。呪われた一族の運命を描く、きわめて古風な因縁話。
「冷たい抱擁」(メアリ・E・ブラッドン)。1867年発表だそうで、これが多分収録作で一番古い。話も恋人を捨てて自殺に追いやった学生の末路、という古典的としかいいようのないもの。
「荒地道の事件」(E&H・ヘロン)。母親と息子の合作。息子の方は本名ヘスキス・プリチャード、第一次世界大戦で狙撃の専門家として活躍した有名なイギリス軍人。そういえば、イギリスの田舎に出現する地霊を描くこの作品も、主人公は軍人である。
「故障」(マージョリー・ボウエン)。マージョリー・ボウエンは、3月に取り上げた『看板描きと水晶の魚』の表題作の作者。あの作品もそうだったが、これも怪奇小説の範疇には入りきらない、一種独特の暗さを帯びたファンタジー。
「郊外」(キャサリン・マンスフィールド)。最後に大物が出てきました。キャサリン・マンスフィールドといえば、エンサイクロペディア・ブリタニカにも項目が立てられている、文学史上に残る作家である。この短い作品は、怪奇小説というより、寓話に近い味の幻想小説。
「宿無しサンディ」(リデル夫人)。作者はアリス・リデルとは別に関係がないらしい。悪魔に魅入られた聖職者の物語で、ひたすら暗い。ちなみに「サンディ」という名前は、日本では女性のイメージがあるが、この小説のタイトルになっているサンディは、浮浪者のオヤジである。

こうしてみると、本当に怪奇小説と言えるのは半分くらいで、ちょっと異色の幻想小説アンソロジーと言った方がいいかもしれない。しかし「黄色い壁紙」のイメージが強すぎて、他の作品の怖さ不足を補っている。

淑やかな悪夢 (創元推理文庫)

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2007年9月23日 (日)

超短編アンソロジー

超短編アンソロジー/本間祐編(ちくま文庫,2002)
 この本のタイトルになっている「超短編」というのは、ショートショートのことではない。
 収録作品は、短いものは1ページ(一番短いのは1行!)、長いものでも3ページくらい。平均的なショートショートよりも明らかに短い。が、長さだけで言うなら、これくらいのショートショートというのは、いくらでもある。
 「超短編」というのは、ショートショートとはまるで違う概念らしいのだ。翻訳もので、『Sudden Fiction 超短編小説70』というのがあったが、あれは完全に「小説」。こちらは「超短編小説」ではなく、あくまで「超短編」。
 編者自ら書いた「解説」によれば、「本書に収められた作品は九十五編。超短編を名乗って発表された数編をのぞけば、他の作品は小説、詩、神話、伝説、神謡、狂詩、狂歌、歌詞、寓話、童話、童謡、アフォリズム、エッセイ、辞典、日記、落語などさまざまな名で呼ばれている。」
 そしてこの本は、「日本ではまだなじみの薄い超短編のおそらくは初の国産アンソロジー」なのだそうだ。
 あらゆる形態をとった短い「話」というと、少し前に紹介した米原万里の『必笑小咄のテクニック』に出てくる「小咄」の定義にも似てくる。だが、この本の解説の中に、「笑話は概ね短いが、落ちに頼ったものが多く、超短編的な味のあるものは意外と少ない。」という一文がある。「超短編」は、落ちに頼るものではないというのが編者の考えで、小咄との決定的な違いがあることがわかる。
 短い「お話」ではあるけれど、落ちはない…。ますますわからなくなってくる。
 もうこうなったら、実際どんな「超短編」が収録されているか、見た方が早いだろう。
 九十五編全部列挙するのも大変なので、上の解説に出てくる類型ごとに例をいくつかあげてみる。ただ、あくまで私の主観による分類なので、編者の意図とは違っていることも大いにあり得る。

 小説(と思われるもの)は、宇野千代の「ある夜のこと」、編者自身による「飛ぶ男」、岡崎弘明の「自転する男」、川上弘美の「おめでとう」(これはSF)など。ただ、一般的な「小説」のパターンには収まらない作品ばかりである。
 詩は、ルイス・キャロルの「代名詞の迷宮」、吉行理恵の「梨の花の揺れた時」など。散文詩もずいぶんあるようだが(高梁杞一の「夏は夜」など)、小説との区別がつけにくい。
 神話としては、オデュッセイアや、マヤ神話や、古事記からの一部引用。
 伝説は、これがそのカテゴリーに入るかどうか、今ひとつ確証がないが、『列子』からの引用「果ての国」、『列仙伝』から「黄帝」などがそれにあたるだろうか。
 上の引用にはなぜか入ってないが民話・昔話もあって、日本昔話からいくつか、シベリア民話、イタリア民話など。
 神謡は、ユーカラの一部から「小オキキリムイが自ら歌った謡」。
 狂詩…詩はいくつも入っているけど、どれが「狂詩」に当たるのか、実のところよくわからない。
 狂歌は、小泉八雲が英訳した狂歌百物語から「離魂病」(原文に英訳つき)。
 歌詞…、詩はいくつも入っているけど、どれが(以下略)。
 寓話は、イソップがいくつか、カフカの「小さな寓話」など。
 童話は、アンデルセンの『絵のない絵本』の一部、小川未明の「ある男と無花果」、グリムの「トゥルーデおばさん」など。
 童謡は、マザー・グースから2編、サミュエル・ラヴォーの「妖精の子供」など。
 アフォリズムは、ルナール、芥川龍之介など。
 エッセイは、安野光雅の「左と右」、寺田寅彦の「すっぽんの鳴き声」など。
 辞典、というか辞典形式の文芸作品としては、A・ビアスの『悪魔の辞典』から「小説」、きたやまようこの「犬のことば辞典」から「けんか」。
 日記は、永井荷風と正岡子規の日記から。
 落語は、桂枝雀のミニ落語「定期券」。これはさすがに「落ち」がある。
 この他、上のどの分類にも当てはまらないもの多数。『伊勢物語』や『浮世物語』といった古典からの引用、新聞記事、中国伝奇等々。

 よくこれだけ古今東西の文章を集めてきたものである。
 結論として、「超短編」とは、ごく短い話であって、小説のパターンに当てはまらないもの、ということになるだろうか。おもしろい試みではある。ごく短い作品ばかりなので一気に読めるし。
 ただ、この本が出版されてから5年くらい経つが、まだ編者の提唱する「超短編」の概念が根づいているようには見えない。ネットで検索すると、この本のような「超短編」を掲載するサイトも出てきているが、「超短編」という言葉でショートショートを意味しているところも多い。
 第一、「超短編」の本がその後あんまり出てない。
 考えてみれば、アンソロジーを編集しようとすれば、上で見たように守備範囲が広すぎて恐ろしく労力がかかるし、新作を集めて本にしようとすれば、なにしろあまりに短いので、質のいい作品を本にするだけ集めるのはこれまた大変である。
 ジャンルや形式にこだわらない、読むのに時間もかからない「超短編」は、むしろネットにこそふさわしいものなのかもしれない。

超短編アンソロジー (ちくま文庫)

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2007年9月19日 (水)

傑作の条件

傑作の条件/向井敏(文春文庫,1992)
 2002年に亡くなった向井敏は、谷沢永一と並んで、現代日本を代表する書評の名手として知られていた。谷沢がどちらかというとアカデミック指向(かつ毒舌)なのに対し、向井はやや大衆指向(かつ穏健)のように見える。もっとも、この二人の対談書評集という本もあるので、守備範囲がはっきり分かれているというほどでもない。
 それはともかく、この本は、広い意味での書評、というよりむしろ本をテーマにしたエッセイ集というべきか。「後記」で著者自身が、「エッセイか書評が、はっきりと区分けしにくいものが私の文章にはかなり多い。」と書いている。
 3部構成になっていて、第1部「紙上の紙吹雪」が作家論など文学関連のエッセイ。新聞や雑誌に掲載される書評を論じた、「メタ書評」もある。
 第2部「傑作の条件」は国産の本の書評。取り上げられている著者は、山崎正和、倉橋由美子、丸谷才一、立花隆、海老沢泰久、植草甚一など。本のタイトルにもなっている「傑作の条件」は、中村紘子の音楽エッセイ『チャイコフスキー・コンクール』について書かれたもの。
 第3部「文明のなかの神話」が外国の作家の書評。取り上げられているのは、アンリ・トロワイヤ、エド・マクベイン、スコット・フィッツジェラルド、P・D