作家別

2012年6月28日 (木)

レイ・ブラッドベリ追悼記念

 今月初め――6月5日にレイ・ブラッドベリが亡くなった。初めてSFを読みはじめた頃、すでに大家だったブラッドベリがまだ生きていたことの方を驚くべきかもしれないが、とにかく、SF界の最後の巨星が堕ちた――という思いを抱かずにはいられない。
 このブログに追悼記念として記事を書くのは、アーサー・C・クラーク(2008年3月19日)、野田昌宏(2008年6月7日)、バリントン・J・ベイリー(2009年4月9日)、J・G・バラード(2009年5月7日)、小松左京(2011年8月9日、15日)、内藤陳(2012年1月9日)に続いて7人目になる。
 ブラッドベリといえば、『華氏451度』や『何かが道をやってくる』といった長編もいいが、詩的な言葉が凝縮された短編の数々こそに、やはり本領があると思う。
 ということで、ブラッドベリを追悼して、短篇集を2冊取り上げてみることにしたい。

スは宇宙[スペース]のス/レイ・ブラッドベリ;一ノ瀬直二訳(創元推理文庫,1971)

 表紙を変えて今でも創元SF文庫の1冊として版を重ねている短篇集。私が持っていたのはこんな表紙のやつ。

Space

 この本と対になる『ウは宇宙船のウ』という短篇集があるのだが、おかげで本書(原題 S is for Space)は、「宇宙」に「スペース」とルビをふるなどという苦しい細工をしなければならなくなった。R is for Rocketを、原題に忠実に『ロはロケットのロ』としておけばよかったのに。そうしたら、本書のタイトルは『ウは宇宙のウ』になっていたことだろう。

 それはともかく。本書の「まえがき」は、味わい深くも、こんな書き出しで始まる。

 ジュール・ヴェルヌがぼくの父親であった。
 H・G・ウェルズがぼくの賢明なる伯父さんであった。
 エドガー・アラン・ポオは蝙蝠の翼をもった従兄弟で、ぼくたちは彼を屋根裏部屋に隠しておいた。

 この後まだ続くが、ここでブラッドベリが、かなり資質が違うと思われるヴェルヌを父親に指名しているのは興味深い。どちらかというとポオの直系のような気もするのだが…。

 収録作品は16編で、「さなぎ」、「火の柱」という最初の二つの中編が本書を代表する2作になっている。なにしろこの2編だけで本書のページ数の3分の1を占めているのだ。
 「さなぎ」は、サスペンスに満ちた一種のミュータントものSF。体中を緑色のかさぶたに被われ、呼吸や脈動が極端に遅くなり、ゆっくりと死につつあるように見える男、スミス。だが、彼を調査する医者たちは、これが「さなぎ」ではないかという結論に達する。スミスの中からやがて誕生するのは、超人なのか――。
 一方、「火の柱」は、未来を舞台にしたホラー風味のファンタジーである。墓の中から、「地球最後の死んだ人間」ラントリーが甦る。はっきりした説明はないが、一種の吸血鬼みたいな存在らしい。生きた死者ラントリーは、すべての恐怖を排除し、死者を焼却し、墓場さえも消そうとする、清潔な未来社会に挑戦する。恐怖の死者となったラントリーの、「おれはポオだ」という心の叫びが、まえがきと呼応する。それにしてもブラッドベリは火葬がよほど嫌いらしい。
 「さなぎ」のスミスも、「火の柱」のラントリーも、世界中で他に同類のいない、ただ一人の異質な存在である。
 だが、その方向性はまるで違う。スミスは俗物だらけの世界の中で、神に近い者として生まれ変わる。一方、ラントリーは人生のマイナス面をすべて取り除いた未来世界の中で、暗闇と恐怖の使者として墓から甦る。
 この2作、ブラッドベリの作品の二つの方向性を象徴しているようなものである。光と影というか、奇跡への憧れと、暗闇への恐怖という相反する側面。その両方を、極端な形で描き出すのがブラッドベリなのだ。
 本書の他の収録作でいうと、「奇跡」系の作品は、とある惑星での文字どおり(キリスト教的な意味での)奇跡を描く「あの男」や、空への憧れを音楽のような文章で綴った「イカルス・モンゴルフィエ・ライト」。「永遠の少年」が登場する「別れも愉し」や、火星での人類の変容の物語、「浅黒い顔、金色の目」、『火星年代記』の最終エピソードにあたる「遠くて長いピクニック」も、そちらの方に分類できるかもしれない。
 一方、「暗黒」系の作品としては、少年たちが侵略の手引きをする「ゼロ・アワー」や「ぼくの地下室へおいで」、少女が地中からの死者の声を聞く「泣き叫ぶ女の人」など。
 また、夜中に散歩する男が精神異常者として捕まってしまう「孤独な散歩者」は、機械化された社会へのアンチテーゼとして「火の柱」の変形みたいなもので、作品自体に恐怖はないものの、闇への賛歌的作品と見ていいだろう。
 両方の中間的な作品として、郷愁や諦念に満ちた、言ってみれば「黄昏」色の作品がある。タイムトラベルものの「脱出する男の時間」、悲しい魔女の話「透明少年」、中国ファンタジー「飛行具」。ある町で電車が廃止される日を描いた「市街電車」など。
 上にも書いたように、本書の中では「さなぎ」、「火の柱」の2編が圧倒的な存在感を持っているのだが、好みとしては、「イカルス・モンゴルフィエ・ライト」が捨てがたい。

 ところで、この『スは宇宙のス』あたりからしばらくの間、ブラッドベリの新しい翻訳本はなかなか出なくなる(旧作の再編集版は除く)。ブラッドベリももう年だし、ほとんど新作を書かなくなったのか、などと思ったりもしたものだ。だがブラッドベリは健在だった。その後、1990年頃から、新作短篇集(と、長編も)が次々と訳されるようになるのだ。その1冊がこれ。

二人がここにいる不思議/レイ・ブラッドベリ;伊藤典夫訳(新潮文庫,2000)
 収録作は比較的短い作品23編。ほとんどが1980年代に発表されたもので、つまりはブラッドベリの60代の作品ということになる。だいぶ前に買って、長い間積ん読になっていたのだが、今回のブラッドベリの訃報を聞いて読んでみた。
 実は読まずにいたのは、老境(今になって考えると、まだまだ若かったのだが)にさしかかったブラッドベリを読むのに、いささかためらいを覚えていたせいもある。
 だが、読んでみて驚いた。作風も文章も昔と変わってないのだ。

 一番最初の、「生涯に一度の夜」は、ブラッドベリの感性の若さを端的に語る一編。月光の下、女の子と二人で丘の上ですごす、一生に一度だけ必ずやってくる夜――少年時代から待ち望んでいたそんな夜に、ついに巡りあった中年男の物語。中二病的な夢想をそのまま小説にしたようにも思えるが、これは明らかに「奇跡」の物語である。
 他にこの系統の作品としては、原著の表題作「トインビー・コンベクター」。収録作中唯一の、SFらしいSFで、世界に救いをもたらしたタイムトラベルの真相が明かされる。
 また、クリスマス・ファンタジーの佳作「ゆるしの夜」も、ささやかな「奇跡」話と言える。
 一方で、屋根裏にひそむ恐怖を描いた、ホラー小説の見本みたいな「トラップドア」や、幼年期の悪夢が具現する「階段をのぼって」、アイルランドの荒野が幽霊によく似合う「バンシー」などは、暗黒面のブラッドベリ。
 ヨーロッパ大陸に居場所のなくなった幽霊がイギリスに亡命する「オリエント急行、北へ」や、「日の柱」とよく似た味わいの「ときは六月、ある真夜中」にも、闇と恐怖への志向が見てとれる。
 少年時代へのノスタルジーを語ることも忘れていない。過剰なまでに哀愁に充ちた「最後のサーカス」や、人騒がせな大佐と少年が、退屈な町に波乱を起こす「ストーンスティル大佐の純自家製本格エジプト・ミイラ」。
 昔のブラッドベリにあまりなかったのは、一風変わったラブストーリーだろうか。「ローレル・アンド・ハーディ恋愛騒動」は、喜劇映画ファンにはたまらないと思われる、軽いタッチの愛と別れの物語。「プロミセス・プロミセス」では、娘を助けるために、男が一番大事なものを手放すと神に誓い、その結果、不倫相手と永遠に別れることになる。どの話も、結局別れるのである。
 その他、老人の束の間の回春をコミカルに語る「ジュニア」や、別れることになった夫婦が、蔵書の山を分割しようとしてもめる「気長な分割」なども、かつては見られなかった作風の話。
 かと思うと、古くからのブラッドベリ読者にはおなじみの超能力(というより化け物?)一族の物語「十月の西」も収録されているし、「恋心」に至っては、『火星年代記』の一エピソードである。
 他には、表題作の「二人がここにいる不思議」も触れないわけにいかないだろう、死んだ両親をディナーに招いた男の物語で、全然死者らしくない死者とのしみじみとした交歓を描く。
 ちょっと変わった傾向の作品としては、「ご領主に乾杯、別れに乾杯」。アイルランドの領主が死亡し、後に大量の名品ワインのコレクションが遺された。遺言では、ワインはすべて遺体とともにあの世に送って欲しいという。貴重なワインが無駄に失われようとしているのを目にして、飲んべえの領民たちが立ち上がる。
 どの作品にも言えることだが、ブラッドベリの文章は健在。 

 「そうだ」男たちの声は、くぐもった黒いビロードのひびきのように、暗夜へと進軍した。「そうだ」(p.256 「ご領主に乾杯、別れに乾杯」)

 これこそブラッドベリ節。とはいえ、実はブラッドベリの原文が持つ響きを日本語に移すのは不可能に近いのではないかと、昔『太陽の黄金の林檎』の原書を読んだ時に思ったのだが――。
 本書のもの足りないところをあえて言えば、際だって印象の強い作品がこれといってなく、明確な目玉が見つからないという点だろうか。
 とにかく、ブラッドベリは年を経てもほとんど同じままだったということが、本書を読んでよくわかった。
 多分、死ぬ瞬間まで、ブラッドベリはブラッドベリだったのだろう。

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2012年1月 9日 (月)

読まずに死ねるか! ――内藤陳追悼記念

 2011年12月28日に内藤陳が亡くなった。
 内藤陳の本業はコメディアンだったが、本好きの間では無類の冒険小説好きとして知られていて、その熱気あふれる書評のファンは多かった。冒険小説と言っても、内藤陳の好む本の範囲は広く、冒険小説・ハードボイルドといったホームグラウンドから、ミステリ、ホラー、SF、伝奇、スポーツ小説、戦争小説、歴史小説、さらにはエッセイまで、面白い本がありそうだと見ればどこへでも出かけていくフットワークの軽さがあった。要は「面白い本」でありさえすれば何でもいい、という基本姿勢で、これには自分もずいぶん影響を受けている。
 その内藤陳の熱血ブックガイド『読まずに死ねるか!』――通称「読ま死ね」シリーズは、全5冊。(1)『読まずに死ねるか!』、(2)『読まずば二度死ね!』、(3)『読まずに死ねるか! part3』、(4)『読まずに死ねるか! part4』、(5)『読まずに死ねるか! 第五狂奏曲』。
 私はリアルタイムで読んでいたわけではなく、後からこの本の存在を知って、古本で入手したりしながら追いかけたので、読んだ順番は刊行順ではない。(2)、(1)、(4)、(5)、(3)の順番。
 以下、著者を追悼して、刊行順にその軌跡を追いかけてみる。

読まずに死ねるか!/内藤陳(集英社文庫,1985)
 単行本は1983年発行。
 メインとなるのは1978年から1983年までの読書日記。『PLAYBOY』の連載をまとめたものである。それにプラス、開高健、椎名誠との対談なども収録。
 読書日記の記念すべき1回目はジャック・ヒギンズの『脱出航路』。ちなみにこの回のサブタイトルは「ジャック・ヒギンズを知らない? 死んで欲しいと思う」。いきなり過激である。そのわりにシメの1行は「読んでほしい。ヒギンズの『脱出航路』」とまだおとなしめ。
 このサブタイトル、前半では「飲んでから書かないのが身体にいいってんでこの始末」とか「みんな冒険小説のことを知らないんだもん。まいったね」とか、取り上げる本と関係ないぼやきみたいなものが多い。これはこれでおもしろいのだが、後半になると、「芸人の世界にも似た、哀しい男を描く航空冒険小説だ」とか、「砂漠に輝く美しい星々、そして熱い風、AFの原点がここに…」とか、わりと普通になる。
 そのかわり、最後の一行が、「同志よ、本書こそ男が誇りをとりもどすためのバイブル」とか、「さぁ、誉めすぎと殺さば、殺せ。今のところは北方が好きだ」とかだんだん熱くなってくる。でも一方では「ソンをさせないオススメ品であることは合計85点で、おわかりください」なんて、ちょっと気弱な終わり方もあったりして、また試行錯誤の跡が見てとれる。
 しかし巻末の「わが愛しき本たちスペシャル」は、いわば著者のオールタイムベスト、『深夜プラス1』(G・ライアル)、『高い砦』(D・バグリイ)、『三国志』(吉川英治)、『女王陛下のユリシーズ号』(A・マクリーン)、『鷲は舞い降りた』(J・ヒギンズ)などを語って、さすがに熱気たっぷりである。

読まずば二度死ね!/内藤陳(集英社,1985)
 上にも書いたように、初めて読んだ本シリーズがこの本。
 冒頭に8ページのカラー口絵で著者の勇姿(?)を見せている。シリーズ中で本書だけの特典である。
 1983年から1985年までの読書日記をメインに、短編ハードボイルド小説「殺し屋チャーリー」、酒エッセイ「飲まずに死ねるか!」、冒険小説ベストブックガイド「読まずば二度死ね!」、日本作家レビュー集「愛しき日本軍へのラヴ・レター」を収録。
 1冊目に比べると、読書日記はスタイルが安定してきている。サブタイトルは、紹介する本に言及しつつ内容の熱さを反映する「『深夜プラス1』に平伏!」、「落涙ボウダ! 男ジョバンニが帰ってきた!」、「『永遠の1/2』に万歳三唱、乾杯三度」といった調子のものが多くなる。
 そして本文の方は、絶叫、詠嘆、ギャグ、脅迫(?)の数々を取りそろえた独特のスタイルが確立。「とにかく、スーパーウルトラ・エキサイティング本を読まない奴は、非国民とみなし、読殺(!)だ」、「陳メ涙が、また2キロ」、「さあ、お手に取ってよお立ち合い。少しの立ち読みでもおわかりの滅多に見られぬ読んで気分の良くなるとい面白本」…等々、全編にわたってこんな調子。
 このシリーズを本書から読み始めたのは、正解だったのかもしれない。

読まずに死ねるか! PART3/内藤陳(集英社文庫,1990)
 単行本は1987年発行。
 1985年から1987年の読書日記をメインに、「冒険小説教会風雲録」、「パロディ版冒険小説陳辞典」、「深夜プラス1ツアー」の三つの読みものをあわせて収録。
 読書日記は、序文から「オーットオー! 愛する読者諸君、この駄文[コラム]読み飛ばしてはキミ一生の不覚なのだ」と飛ばしている。
 登場する本は、海外ではクライブ・カッスラー、ロバート・ラドラム、デイヴィッド・マレル、ディック・フランシス、トニー・ケンリックなどおなじみの作家たちをはじめ、ポール・ロスワイラーの野球小説『熱狂球場』やスティーブン・キングの『デッド・ゾーン』なども登場。国内では船戸与一、高橋克彦、志水辰夫、逢坂剛、大沢在昌など。筒井康隆の『歌と饒舌の戦記』も。自著『読まずば二度死ね!』の宣伝も忘れない。
 日本冒険小説協会の発足から、そこに集う人々の行状をコミカルに綴った60ページに及ぶ「冒険小説教会風雲録」、そしてその番外編とも言うべきフランス紀行「深夜プラス1ツアー」が、マニアたちの愛すべき生態を活写しておもしろい。
 読みものとしての側面が評価できる1冊。

読まずに死ねるか! PART4/内藤陳(集英社,1990)
 1987年から1990年までの読書日記。『PLAYBOY』の他に『コミック・トム』の連載分も収録(いつの間に掲載誌が増えたんだろう?)。さらに、著者やテーマごとに3冊のおすすめ本を紹介する「寝かせてたまるか! 読ま死ぬオススメ三連発」、おすすめ映画紹介「読まずに見れるか! 冒険小説映画オススメ十本勝負」、文庫解説を集めた「読まさずをにはいられない! 文庫解説録連発」を収録。
 意外なことに、純粋にレビュー記事だけを集めて1冊になっているのは、シリーズ中で本書が初めてである。そして多分、取り上げられた本の数では、本書が一番多い。何しろ「寝かせてたまるか!」の三本立て25連発がある。
 登場する作家は、これまでの常連たちに加えて、ディーン・R・クーンツ、ボブ・ラングレー、隆慶一郎がにわかに台頭。特に隆慶一郎はいかにも著者が好みそうな傾向の作家で、今までのシリーズで登場しなかったのは、単に本が出てなかったからにすぎないだろう。「おれはいま慶次郎にゾッコンだ」と、内藤陳ならこう言うだろう、と思ったとおりの文章も出てくる。
 ともかく、ブックガイド本としての充実度は、シリーズ中ナンバー1かもしれない。

読まずに死ねるか! 第五狂奏曲/内藤陳(集英社,1990)
 最後になってしまったシリーズ第5弾。1990年から1994年までの読書日記に、エッセイ2編、「されば愛しき友へ――魔窟伝説――」と「ハードボイルドの水先案内人」を収録。読書日記以外のページが、これまででは一番少ない。
 『PLAYBOY』の連載が1994年8月号で終了。その後さらに、他の雑誌に掲載された書評も載っていて、本文最後は『アド インフィニタム』掲載記事「読まずに死ねるか! 止めのツープラトン攻撃」で、最後に取り上げられた本は高村薫の『照柿』。
 ――かと思えば、実は本文以後の掲載分があとがきにまで載っていたのだった。「この<あとがき>も定価のウチ」という、いかにも著者らしい配慮。そう言えば、『二度死ね』や『Part3』では、あとがきのページももったいないとばかりにおすすめ本のリストを載せていた。
 最後の最後は、ロバート・マキャモンの『ミステリー・ウォーク』。巻末の索引を見ればわかるが、本書で一番多く言及されている外国作家がこのマキャモン。そして日本作家では高村薫と稲見一良。
 私が稲見一良の『猟犬探偵』を読むきっかけになったのが本書だった。それに以前に紹介した(2007年9月5日)『熱砂の三人』(ウィルバー・スミス)も、本書がなければ読むことはなかっただろう。
 Part4と並んで、ブックガイドとしての値打ちが高い本。

 たとえ別のタイトルであっても、いつかはまたブックガイド本を出してくれるのではないかと期待していただけに、著者が亡くなったのは実に残念。しかし、ジャンルにこだわりなくひたすら面白い本を求め続けるその精神は、多くの本好きに受け継がれているに違いない。あの文章はちょっとマネできないけど…。

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2008年1月25日 (金)

丸谷才一 日本語を語る

 実は、丸谷才一のエッセイのファンである。東海林さだおとか原田宗典みたいな、とにかく気楽に読める軽いエッセイもいいが、博覧強記に裏打ちされ、エスプリが効いていてなおかつ実に読みやすい丸谷才一のエッセイは、また格別の味わいがある。
 去年の終わり頃、そういうエッセイの延長線のつもりで『桜もさよならも日本語』を読んでみたら、これがエッセイというより、問題意識にあふれた日本語論の本だった。しかしおもしろい。もともと「言葉」に興味はあったし。
 で、その本が、前に出た『日本語のために』を引き継いだ内容だというので、その前著も読んでみた。
 今回は、この日本語に関する本を取り上げる。
 上の2冊の少し後に、最近出た本『ゴシップ的日本語論』も読んだのでそれもまとめて。
 丸谷才一が日本語を語る3冊の本、である。

 読んだ順番とは別に、出版順に取り上げることにする。

日本語のために/丸谷才一(新潮社,1974)
 1974年、戦後の国語改革と国語教育のためにどんどんダメになっていく日本語の現状を憂えた丸谷才一が、危機感をこめて書きつづった批判の書。
 3部からなり、第1部が「国語教科書批判」、第2部が「未来の日本語のために」と「現在の日本語のために」という日本語論、第3部が「当節言葉づかひ」。
 第1部はとにかく当時の国語教科書、それに基づく教育をめった斬りにしている。
 「子どもに詩をつくらせるな」とか、「子どもの文章はのせるな」とか、「小学生にも文語文を」とか、「中学で漢文の初歩を」とか、「文部省にへつらふな」とか。
 基本姿勢は、「子どもにはとにかく名文を読ませろ、下手な詩や文章を作文させるな」というもの。徹底した古典主義である。まあ、小学生に詩を作らせて何の意味があるのか、というのは確かにそう思う。しかしあまり非日常的な文章ばかり教えるのも、国語教育としては偏ってるような気がするが。
 第2部は、著者が一番力をこめて書いたらしい論説2編。
 「未来の日本語のために」の冒頭、「昭和の知識人は明治の知識人にくらべて遙かに文章が下手になってゐる。」という一文にすべての主張がこめられている。丸谷才一は
戦後の国語改革の否定論者で、旧かなづかいで文章を書いている。新かなづかいがなぜダメで、どのように日本語を劣化させているかということを、情熱をこめて論じる。
 ただ、漢字の字体に関しては、一部を除いて新字体を認めている。だから丸谷才一の文章は「新字・旧かなづかい」なのだ。(旧かなづかいであるにもかかわらず、文章がきわめて読みやすいのは、新字を使っているせいもあるだろう。もちろん、文章自体がうまいというのが一番の理由だが。)
 ここで、「昭和の知識人」の文章がいかにひどいかという例としてあげられているのが、「中央公論」昭和38年7月号84~89ページの文章と、昭和39年2月号148~164ページの文章。「その文章の拙劣さは形容に苦しむほどのものである。」というひどいけなしようである。
 誰が書いた文章かはっきり名前は書いてないが、調べてみればすぐわかる。
 最初のは、「拝啓水上勉様:総理にかわり、「拝啓池田総理大臣殿」に答える」、著者は当時の内閣官房長官、黒金泰美。水上勉による福祉行政批判への反論だが、まるっきり国会答弁みたいな文章である。本人ではなく、官僚が書いたものかもしれない。
 2番目は、「二十一世紀文明への序章」、著者は古垣鉄郎。元駐仏大使で外務省顧問、後にNHK会長もつとめた人。これはもう、丸谷才一があきれるのもわかるくらい、意味不明な文章である。例えば「人間は生まれながらに先天的な遺伝を有しており、またドストエフスキー的な人間心理の深淵ともいうべき潜在意識を蔵している。」とか。しかしこの人、調べてみると著書が結構多い。全部こんな調子なのだろうか。
 ただ、確かに両方とも文章としてはなってないかもしれないが、黒金泰美は1910年生まれ、古垣鉄郎は1900年生まれで、二人とも戦前に教育を受けている。戦後の国語改革と国語教育が日本語をダメにしたという丸谷才一の主張の裏付けにはならないと思うのだが。
 第3部は、あとがきで著者が「硬い評論と軟い随筆が同居してゐる風変りな本が出来あがつた。」と書いている、その「軟い随筆」に当たる部分。要は日本語の気になる点を書き並べた軽いエッセイなのだが、ここにも日本語に対する危機感があふれている。
 正直言って、この本の主張は理想論すぎて、現実的とは思えない。ただ、自分たちの使っている言葉や文字が、必ずしも唯一の正解として成立したものではないこと、別の形であり得た可能性もあることを、考えさせてくれる。

桜もさよならも日本語/丸谷才一(新潮文庫,1989)
 『日本語のために』から10年(単行本発行は1986年)。丸谷才一は再び日本語問題を世に問う書を出した。
 内容は4部に分かれている、Ⅰ「国語教科書を読む」、Ⅱ「言葉と文字と精神と」、Ⅲ「日本語へらず口」、Ⅳ「大学入試問題を批判する」。
 「国語教科書を読む」では、小学・中学の国語教科書を題材に、国語教育についての批判を並べている。「漢字配当表は廃止しよう」、「読書感想文は書かせるな」、「名文を読ませよう」、「子供に詩を作らせるな」(これは前にも出てきた)、「古典を読ませよう」など。
 「言葉と文字と精神と」は、100ページを超える長文の論説で、戦後の国語改革(主に旧かなづかいの廃止)を徹底的に批判するとともに、戦後の言論の自由化により、日本人の言語能力はかつてないほど向上しているとも主張する。これは矛盾しているようだが、著者に言わせると、言語能力が向上したおかげで、国語改革の悪影響が覆いかくされているのだそうだ。
 『日本語のために』では、あれだけ文章力の低下を嘆いていたのに、10年の間に日本人の平均的な文章力が、丸谷才一も認めざるを得ないほど向上したということだろうか。

「これだけ大きな不幸とこれだけ大きな幸福とが雑然と同居してゐる時代はほかになかつたらうから、われわれはずいぶん奇妙な状況のなかに生きてゐるわけだ。」(p.128)

 このあたり、ちょっとわかりにくい理屈ではある。。
 とにかく国語改革の誤りがいつまでも改められないせいで、著者の不満は前著以上に高まっているらしく、「しかし今ならばまだ打つ手がある。国語改革といふ国家的愚行を廃棄することがそれである。」「このことを断行しない限り、破局はいつの日か、確実に襲ひかかるであらう。」とその口調はますます激烈になっている。
 「日本語へらず口」は、現代日本語の言い回しやアクセントの気になる点を取り上げた軽いエッセイ4編。
 「大学入試問題を批判する」は、国語教育批判の延長みたいなもので、東大、京大をはじめ25の国内主要大学の国語入試問題について、その問題点を指摘している。「正直いつて、わたしは呆れ返り、絶望した。」とここでもかなり怒っているようである。タイトルからして「慶応大学法学部は試験をやり直せ」と過激。

 全体として、言っていることは『日本語のために』とほとんど同じである。つまりは、丸谷才一の問題提起にもかかわらず、国語教育がなってない、謝った国語改革が横行している、言葉づかいがなってない、など、日本語をめぐる状況は10年間、そんなに変わらなかったということだ。

ゴシップ的日本語論/丸谷才一(文春文庫,2007)
 『桜もさよならも日本語』から20年を経て(単行本は2004年発行)、またまた丸谷才一の日本語論。
 といっても、これは講演、対談など、「口述したもの」だけを収録した本で、前の2冊とは傾向が違う。
 しかも、収録されている6つの講演、3つの対談のうち、「日本語論」と言えるのは最初の2つの講演だけで、ほかは文学論が中心。だから厳密には日本語論の本とは言えない。その2つの講演、「日本語があぶない」と「ゴシップ的日本語論」にしても、言ってることも、おおむね穏当であって激烈さは影をひそめている。
 まあ、人前でしゃべる時に、あまり過激なことは言わないだろう。それじゃただのアジテーターだ。
 「日本語があぶない」には国語改革への批判がちょっとだけ出てくるが、ここでは国語改革を廃止しろとは言ってない。それより、文部省は国語教育にもっと力を入れてと言っている。つまりは、国語教育が相変わらずひどすぎて、国語改革問題どころじゃない。せめて今の日本語を、もっとちゃんと教えてほしいということか。
 「ゴシップ的日本語論」は、昭和天皇の言語能力の問題から始まって、最後はやはり、今の国語教育はだめだという話になる。
 丸谷才一から見た日本語をめぐる状況は、依然として改善の兆しを見せてないようである。ここはひとつ、また激烈な論説を書いてほしいと思う。

ゴシップ的日本語論 (文春文庫 ま 2-19)

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2007年4月 3日 (火)

高橋源一郎を3冊

 高橋源一郎がSFファンの間でどうしてももっと話題にならないのか、疑問である。
 ある意味、「文学」と言われる分野の中で、これくらいSFと親和性のある作家もいないと思うのだが。
 一番のお気に入りは、『優雅で感傷的な日本野球』だが、この傑作に関しては、いつかまた日を改めて語ってみたい。

 ここでは、最近4~5年の間に読んだ高橋源一郎の本から3冊取り上げてみる。選んだ基準は、特にない。気まぐれである。

一億三千万人のための小説教室/高橋源一郎(岩波新書)
 高橋源一郎のことだから、きっとまともな小説の書き方などじゃないだろうと思っていたら、やはりそうだった。
 はっきりいって、小説を書こうとする人にとっては何の役にもたたない。しかし、小説とは何かよくわからんという人にはなにがしかのヒントを与えるかもしれない。とはいえ、ますますわけがわからなくなる可能性の方が高いが。
 これはやはり、小説の書き方とかなんとか、そんなことはいっさい頭から追い出して、文学エッセイとして読むべき本だろう。

君が代は千代に八千代に/高橋源一郎(文芸春秋)
 「文学界」に掲載した作品を中心にした短編集。
 統一したテーマは「人間関係の崩壊」というところか。
 最初の3編、「Mama told me」、「Papa I love You」、「Mother Father Brother Sister」は卑わいな言葉の洪水の中でぐじゃぐじゃな家族を描く。
 「殺しのライセンス」は死神らしいことをしている男の日常。
 「素数」は、やたらと素数にこだわる数学マニアで、父親殺しの殺人犯の少年と、強姦犯の主人公との対話にならない対話というか、友情にならない友情の話で、数学の勉強になる。
 「SF」は、地球と連絡がつかなくなった宇宙ステーションの中での現実感の崩壊した日々を送る男たちの話。しかし高橋源一郎の小説はもとから現実感が崩壊しているので、この人の小説としてはいたって普通のものになっている。
 他にダッチワイフに執着するロリコンの小学校教師を描く「ヨウコ」とか、セックスのたびに相手と体が入れ替わる精神交換の話を高橋源一郎風に処理した「チェンジ」とか、読んでいて痛くなってくる「人体崩壊」の話「鬼畜」とか。

 しかし一番とんでもないのは、やはり表題作の「君が代は千代に八千代に」だろうか。

 タクシードライバー、ハルがある日正体不明の男を乗せ、渡された地図のとおりに車を走らせると、「どこでもない場所」にある窓のないビルの前につく。男からタクシー代を取るため建物の中に入っていくと、「ちょっと大きめの教室みたいな部屋」があって、「冴えない連中」が集まっている。よく見ると、その男たちは、ヒトラーや毛沢東やレーニンやゲバラやガンジーやキリストや仏陀らしい。善悪の評価の差はあっても、歴史を動かした大物たちが集まっていたのだ。
 タクシーに乗っていた男は黒板に「最後の審判」と書き、男たちに過ちのツケを払ってもらうと宣言する。男はどうやら神、それもキリストが契約した神(問題を起こして失踪したらしい)ではなく、その後任らしい。そして、男が黒板に書いた「最後の審判」の方法は「バトルロワイヤル」。
 ここまであからさまにパクりますか、高橋先生。いや、わかっててやってるのは知ってるのだが。
 この後のとんでもない展開は、もう紹介するのもアホらしくなるようなものなので(誉め言葉です)、とにかく読んでもらった方がいいだろう。

 はっきりいって、この作品だけが浮いてるような気がしないでもないが、「SFバカ本」あたりに載ってもおかしくないようなバカSFの佳品である。

人に言えない習慣、罪深い愉しみ/高橋源一郎(朝日文庫,2003)
 タイトルは、もちろんドナルド・バーセルミの短編集『口に出せない習慣、奇妙な行為』と、『罪深き愉しみ』の2冊から来ている。
 内容はバーセルミとはなんの関係もなく、ここでいう、「人に言えない習慣、罪深い愉しみ」とは、「読書」のこと。このタイトルといい、帯の「けっして読んではいけません!!<読書>はからだに悪いんです(?)」というコピーといい、実に挑発的だが、中身はなんということもない、普通の書評集。
 むしろ高橋源一郎にしては普通すぎて肩すかしを食う。もっとも、書評の一つに自分の書評集『もっとも危険な読書』を取り上げていて、「書評、あるいは本に関する本として、ちょっとこれ以上のものを見つけるのは難しいのではないかと思う」とベタ誉めしているのはこの人らしいが。しかしそんなことを言ったら、それ以下だと作者に宣言されたも同然のこの本の立場はどうなるのかね。

 高橋源一郎の書評集には、他にも『退屈な読書』、『いざとなりゃ本ぐらい読むわよ』など、さらに書評よりもう少し幅を広げたエッセイ集、『文学じゃないかもしれない症候群』、『文学なんかこわくない』など、取り上げてみたい本がいくつもある。それについてはまた別の機会に。

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