レイ・ブラッドベリ追悼記念
今月初め――6月5日にレイ・ブラッドベリが亡くなった。初めてSFを読みはじめた頃、すでに大家だったブラッドベリがまだ生きていたことの方を驚くべきかもしれないが、とにかく、SF界の最後の巨星が堕ちた――という思いを抱かずにはいられない。
このブログに追悼記念として記事を書くのは、アーサー・C・クラーク(2008年3月19日)、野田昌宏(2008年6月7日)、バリントン・J・ベイリー(2009年4月9日)、J・G・バラード(2009年5月7日)、小松左京(2011年8月9日、15日)、内藤陳(2012年1月9日)に続いて7人目になる。
ブラッドベリといえば、『華氏451度』や『何かが道をやってくる』といった長編もいいが、詩的な言葉が凝縮された短編の数々こそに、やはり本領があると思う。
ということで、ブラッドベリを追悼して、短篇集を2冊取り上げてみることにしたい。
スは宇宙[スペース]のス/レイ・ブラッドベリ;一ノ瀬直二訳(創元推理文庫,1971)
表紙を変えて今でも創元SF文庫の1冊として版を重ねている短篇集。私が持っていたのはこんな表紙のやつ。
この本と対になる『ウは宇宙船のウ』という短篇集があるのだが、おかげで本書(原題 S is for Space)は、「宇宙」に「スペース」とルビをふるなどという苦しい細工をしなければならなくなった。R is for Rocketを、原題に忠実に『ロはロケットのロ』としておけばよかったのに。そうしたら、本書のタイトルは『ウは宇宙のウ』になっていたことだろう。
それはともかく。本書の「まえがき」は、味わい深くも、こんな書き出しで始まる。
ジュール・ヴェルヌがぼくの父親であった。
H・G・ウェルズがぼくの賢明なる伯父さんであった。
エドガー・アラン・ポオは蝙蝠の翼をもった従兄弟で、ぼくたちは彼を屋根裏部屋に隠しておいた。
この後まだ続くが、ここでブラッドベリが、かなり資質が違うと思われるヴェルヌを父親に指名しているのは興味深い。どちらかというとポオの直系のような気もするのだが…。
収録作品は16編で、「さなぎ」、「火の柱」という最初の二つの中編が本書を代表する2作になっている。なにしろこの2編だけで本書のページ数の3分の1を占めているのだ。
「さなぎ」は、サスペンスに満ちた一種のミュータントものSF。体中を緑色のかさぶたに被われ、呼吸や脈動が極端に遅くなり、ゆっくりと死につつあるように見える男、スミス。だが、彼を調査する医者たちは、これが「さなぎ」ではないかという結論に達する。スミスの中からやがて誕生するのは、超人なのか――。
一方、「火の柱」は、未来を舞台にしたホラー風味のファンタジーである。墓の中から、「地球最後の死んだ人間」ラントリーが甦る。はっきりした説明はないが、一種の吸血鬼みたいな存在らしい。生きた死者ラントリーは、すべての恐怖を排除し、死者を焼却し、墓場さえも消そうとする、清潔な未来社会に挑戦する。恐怖の死者となったラントリーの、「おれはポオだ」という心の叫びが、まえがきと呼応する。それにしてもブラッドベリは火葬がよほど嫌いらしい。
「さなぎ」のスミスも、「火の柱」のラントリーも、世界中で他に同類のいない、ただ一人の異質な存在である。
だが、その方向性はまるで違う。スミスは俗物だらけの世界の中で、神に近い者として生まれ変わる。一方、ラントリーは人生のマイナス面をすべて取り除いた未来世界の中で、暗闇と恐怖の使者として墓から甦る。
この2作、ブラッドベリの作品の二つの方向性を象徴しているようなものである。光と影というか、奇跡への憧れと、暗闇への恐怖という相反する側面。その両方を、極端な形で描き出すのがブラッドベリなのだ。
本書の他の収録作でいうと、「奇跡」系の作品は、とある惑星での文字どおり(キリスト教的な意味での)奇跡を描く「あの男」や、空への憧れを音楽のような文章で綴った「イカルス・モンゴルフィエ・ライト」。「永遠の少年」が登場する「別れも愉し」や、火星での人類の変容の物語、「浅黒い顔、金色の目」、『火星年代記』の最終エピソードにあたる「遠くて長いピクニック」も、そちらの方に分類できるかもしれない。
一方、「暗黒」系の作品としては、少年たちが侵略の手引きをする「ゼロ・アワー」や「ぼくの地下室へおいで」、少女が地中からの死者の声を聞く「泣き叫ぶ女の人」など。
また、夜中に散歩する男が精神異常者として捕まってしまう「孤独な散歩者」は、機械化された社会へのアンチテーゼとして「火の柱」の変形みたいなもので、作品自体に恐怖はないものの、闇への賛歌的作品と見ていいだろう。
両方の中間的な作品として、郷愁や諦念に満ちた、言ってみれば「黄昏」色の作品がある。タイムトラベルものの「脱出する男の時間」、悲しい魔女の話「透明少年」、中国ファンタジー「飛行具」。ある町で電車が廃止される日を描いた「市街電車」など。
上にも書いたように、本書の中では「さなぎ」、「火の柱」の2編が圧倒的な存在感を持っているのだが、好みとしては、「イカルス・モンゴルフィエ・ライト」が捨てがたい。
ところで、この『スは宇宙のス』あたりからしばらくの間、ブラッドベリの新しい翻訳本はなかなか出なくなる(旧作の再編集版は除く)。ブラッドベリももう年だし、ほとんど新作を書かなくなったのか、などと思ったりもしたものだ。だがブラッドベリは健在だった。その後、1990年頃から、新作短篇集(と、長編も)が次々と訳されるようになるのだ。その1冊がこれ。
二人がここにいる不思議/レイ・ブラッドベリ;伊藤典夫訳(新潮文庫,2000)
収録作は比較的短い作品23編。ほとんどが1980年代に発表されたもので、つまりはブラッドベリの60代の作品ということになる。だいぶ前に買って、長い間積ん読になっていたのだが、今回のブラッドベリの訃報を聞いて読んでみた。
実は読まずにいたのは、老境(今になって考えると、まだまだ若かったのだが)にさしかかったブラッドベリを読むのに、いささかためらいを覚えていたせいもある。
だが、読んでみて驚いた。作風も文章も昔と変わってないのだ。
一番最初の、「生涯に一度の夜」は、ブラッドベリの感性の若さを端的に語る一編。月光の下、女の子と二人で丘の上ですごす、一生に一度だけ必ずやってくる夜――少年時代から待ち望んでいたそんな夜に、ついに巡りあった中年男の物語。中二病的な夢想をそのまま小説にしたようにも思えるが、これは明らかに「奇跡」の物語である。
他にこの系統の作品としては、原著の表題作「トインビー・コンベクター」。収録作中唯一の、SFらしいSFで、世界に救いをもたらしたタイムトラベルの真相が明かされる。
また、クリスマス・ファンタジーの佳作「ゆるしの夜」も、ささやかな「奇跡」話と言える。
一方で、屋根裏にひそむ恐怖を描いた、ホラー小説の見本みたいな「トラップドア」や、幼年期の悪夢が具現する「階段をのぼって」、アイルランドの荒野が幽霊によく似合う「バンシー」などは、暗黒面のブラッドベリ。
ヨーロッパ大陸に居場所のなくなった幽霊がイギリスに亡命する「オリエント急行、北へ」や、「日の柱」とよく似た味わいの「ときは六月、ある真夜中」にも、闇と恐怖への志向が見てとれる。
少年時代へのノスタルジーを語ることも忘れていない。過剰なまでに哀愁に充ちた「最後のサーカス」や、人騒がせな大佐と少年が、退屈な町に波乱を起こす「ストーンスティル大佐の純自家製本格エジプト・ミイラ」。
昔のブラッドベリにあまりなかったのは、一風変わったラブストーリーだろうか。「ローレル・アンド・ハーディ恋愛騒動」は、喜劇映画ファンにはたまらないと思われる、軽いタッチの愛と別れの物語。「プロミセス・プロミセス」では、娘を助けるために、男が一番大事なものを手放すと神に誓い、その結果、不倫相手と永遠に別れることになる。どの話も、結局別れるのである。
その他、老人の束の間の回春をコミカルに語る「ジュニア」や、別れることになった夫婦が、蔵書の山を分割しようとしてもめる「気長な分割」なども、かつては見られなかった作風の話。
かと思うと、古くからのブラッドベリ読者にはおなじみの超能力(というより化け物?)一族の物語「十月の西」も収録されているし、「恋心」に至っては、『火星年代記』の一エピソードである。
他には、表題作の「二人がここにいる不思議」も触れないわけにいかないだろう、死んだ両親をディナーに招いた男の物語で、全然死者らしくない死者とのしみじみとした交歓を描く。
ちょっと変わった傾向の作品としては、「ご領主に乾杯、別れに乾杯」。アイルランドの領主が死亡し、後に大量の名品ワインのコレクションが遺された。遺言では、ワインはすべて遺体とともにあの世に送って欲しいという。貴重なワインが無駄に失われようとしているのを目にして、飲んべえの領民たちが立ち上がる。
どの作品にも言えることだが、ブラッドベリの文章は健在。
「そうだ」男たちの声は、くぐもった黒いビロードのひびきのように、暗夜へと進軍した。「そうだ」(p.256 「ご領主に乾杯、別れに乾杯」)
これこそブラッドベリ節。とはいえ、実はブラッドベリの原文が持つ響きを日本語に移すのは不可能に近いのではないかと、昔『太陽の黄金の林檎』の原書を読んだ時に思ったのだが――。
本書のもの足りないところをあえて言えば、際だって印象の強い作品がこれといってなく、明確な目玉が見つからないという点だろうか。
とにかく、ブラッドベリは年を経てもほとんど同じままだったということが、本書を読んでよくわかった。
多分、死ぬ瞬間まで、ブラッドベリはブラッドベリだったのだろう。