ノンフィクション

2020年11月19日 (木)

猫の世界史

猫の世界史/キャサリン・M・ロジャーズ;渡辺智訳(エクスナレッジ,2018)
 原題は、単にCat (2006)。猫そのものの歴史というより、猫に関わる世界の文化を語るのがメイン。特に文学の中の猫に詳しい。
 内容は6章構成。

 1章「ヤマネコからイエネコへ」は、家畜としての猫の歴史を語る序説的な章。先史時代から古代エジプト、中世、18世紀頃まで。西洋が中心だが、中国や日本への猫の伝播にも少し触れている。
 2章「災いをもたらす猫、幸運を呼ぶ猫」では、人間が猫に対して抱く「不思議とも言える感覚」を、実例を挙げて紹介している。16世紀から17世紀、ヨーロッパでは魔女の使い、悪魔の化身として迫害されていた猫の歴史。逆に「長靴をはいた猫」に代表される、幸運をもたらす猫の物語など。日本の招き猫や、猫の恩返しの昔話にも触れている。
 3章「ペットとしての猫」。愛されるペットとしての猫の歴史は、ヨーロッパではそう古くはない。第2章にも書かれていたように、16世紀頃のヨーロッパでは、まだ猫に対する愛情は珍しいものだった。だが17世紀末、貴族の間で猫が広く飼われるようになって以降、猫好きはどんどん広まっていく。ただ、猫好きが度を超して「猫が本来持つ不穏な側面」まで無視されるようになる。
 4章「女性は猫、あるいは猫は女性」は、猫の擬人化、あるいは人の擬猫化がテーマ。特に猫と女性の関わり、猫が女性と同一視される現象について詳しく語っている。
 5章「猫には、猫なりの権利がある」では、19世紀以降、人間と対等の存在として見られるようになった猫を、多くの文学作品や絵画から引用しながら語る。ある意味本書のハイライトとも言える章。登場する作家は歴史に残る文学者からSF作家まで多種多様。日本の作家も出てくる。主な名前だけでも、シャトーブリアン、デュマ、キプリング、ジェローム、ギャリコ、アンジェラ・カーター、夏目漱石、サキ、村上春樹、ドリス・レッシング等々。
 6章「矛盾こそ魅力」は、現在の猫人気について。「タイトルに「猫」とあるだけでどんな本でも売れるくらいだ」とあるから、ブームは日本だけの話ではないらしい。

 全体を通じて、著者の猫好きぶり――それでいて、猫が本来獰猛な肉食獣であることを忘れていない姿勢が伝わってくる。上にも引用した「猫が本来持つ不穏な側面」というのは、なかなか卓抜な表現ではないだろうか。

Cat

 

| | コメント (0)

2020年8月22日 (土)

フォークの歯はなぜ四本になったか

フォークの歯はなぜ四本になったか 実用品の進化論/ヘンリー・ペトロスキー;忠平美幸訳(平凡社ライブラリー,2010)
 原題は、The Evolution of Useful Things (1992)。つまりサブタイトルの方が本来の書名。
 読む前は、技術の進化を扱った理工系の本かと思っていたのだが、実際には文化史に近い内容だった。
 身近な日用品がどのように進化してきたかを、豊富な資料に基づいて追跡するのが主な内容。そこから明らかになるのは、既存の製品への不満や批判が、新たな発明の原動力になってきたということ。時には行きすぎて、むやみにバリエーションが増えたり、不要なものが生まれたりする。
 試行錯誤、あるいは迷走とも見える数々の事例から著者が主張するのは、「必要は発明の母」ではなく、「贅沢」や「失敗」が発明の母ということ。あるいは、章題の一つを借りると、「形は失敗にしたがう」。

 著者が取り上げる事例の最初は、食器の進化。フォークやナイフやスプーンがどのように発展し、多様化してきたかを追っていく。「食べ物は不可欠だが、フォークを使って食べる必要はない。必要ではなく、贅沢こそが発明の母なのである」。
 当初は二本だったフォークの歯が、四本になるまでの変遷の歴史は、まだ必然性を感じさせる。だが、後の方で語られる食器の多様化の歴史は、もはや迷走ではないかと思われる。図版とともに紹介されるのは、サーディンフォーク、ゼリーナイフ、トマトフォーク、チーズナイフ、オイスターフォーク、フルーツフォーク、フルーツナイフ…。
 また、ペーパークリップの開発の話では、針金を曲げて作るだけの単純な製品に、いかに多くの試行錯誤がなされてきたかが語られる。
 さらに登場するのは、ファスナー、工具、缶切り、飲料缶のプルタブ、手押し車等々。
 それら日用品の進化の歴史を見ていると、あらゆる製品に改良の余地は常にあるということがわかってくる。食器の例みたいに、改良が行きすぎて種類がとめどなく増えてしまうこともあるが…。
 結局のところ、本書が教えてくれるのは、現在存在する日用品たちはすべて、ある意味欠陥品なのだということ。どんなに完璧に見えても、いつの日か、発明家がよりよい製品を生み出して、今までの製品に含まれていた欠陥を明らかにするという意味で。

Evolutionofusefulthings

 

| | コメント (0)

2020年8月19日 (水)

カレル・チャペック

カレル・チャペック 小さな国の大きな作家/飯島周(平凡社新書,2015)
 本ブログでは過去に一度だけカレル・チャペックの本を取り上げたことがある(2016年7月23日のエントリー『絶対製造工場』)。他に例を見ない独創的なSFの作者で、「ロボット」という言葉の創造者――まさに本書のサブタイトルどおり「小さな国の大きな作家」というにふさわしいだろう。
 本書はそのチャペックの評伝(余談だが、平凡社はチャペックの著作を何冊も出していて、日本で一番チャペック推しの出版社と言える)。チャペックの生涯とその人間像、文筆から政治問題、趣味までの多才な活動をさまざまな角度から語っていて、その全体像を知ることができる。
 とはいえ、『ロボット』や『山椒魚戦争』などの有名作品の内容そのものについてはあまり触れておらず、作品論を期待するとあてがはずれる。ただ、日本であまり知られてない作品については、そのあらすじをかなり詳しく紹介しているが。

 内容は4章構成。
 第1章「世に出るまで」は、チェコ北部の田舎での少年時代から、大学を出て文筆家の道を歩み始めるまでの前半生。
 第2章「ジャーナリスト、作家として」は、本書で一番長く100ページ以上。ジャーナリスト、作家、評論家としての活動と、その死までを語る。
 若くして新生チェコスロヴァキアきっての流行作家として活躍、マサリク大統領の若い友人として、対談を本にしたり、伝記を書いたりするなど、政治とも深くかかわってきたチャペックだが、最後は悲劇的だった。
 ナチスドイツの台頭に警鐘を鳴らし続けたのも虚しく、チェコスロヴァキアがドイツに併合される直前の1938年に48歳の若さで病死する。兄のヨゼフは、カレルの死にあたって、「あのカレルは、ずっと幸せな人生を送ったんだ。死ぬのさえちょうどいいときだった。これ以上生きてたって、もう何もいいことなんかなかったさ」と言ったそうだ。
 チャペックの伝記としては、一応ここで終わりということになる。残る2章は、チャペックの周辺について別な角度から語るもの。
 第3章「趣味に生きる」は、趣味の世界からチャペックの人間像を浮かび上がらせる。犬と猫、園芸、詩、チャペックと日本の関わりなど。日本はともかく、他の分野はそれぞれに本を書いているほどだから、趣味というレベルを超えている。
 第4章「カレルの周辺の人たち」は、チャペックと交友のあった人々や家族、親族について。トーマス・マンとも交流があったそうだ。

 カレル・チャペックの作品は何冊か読んだが、その生涯については、意外なほどに若死にしていたことを含め、あまりにも何も知らなかったことに気づかされる本だった。チャペックが病死せず、ナチスの手も逃れて、どこかで長生きして活躍していれば、「世界の大きな作家」になっていたかもしれない。

 

| | コメント (0)

2020年7月13日 (月)

世界の辺境とハードボイルド室町時代

世界の辺境とハードボイルド室町時代/高野秀行、清水克行 (集英社インターナショナル,2015)
 前回に引き続き、室町時代がテーマ(のひとつ)の本。
 歴史関係本とは思えない変なタイトルは編集者がつけたもの。清水克行はあとがきの中で「もはや元ネタが何なのかもわからない絶妙なタイトル」と書いているが、村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』が元ネタであることはすぐにわかる。
 高野秀行は、『謎の独立国家ソマリランド』などを書いた「世界の辺境」が専門の探検家・ノンフィクション作家。清水克行は、『喧嘩両成敗の誕生』などを書いた室町時代が専門の歴史学者。
 本書の内容はこの二人の対談。無政府状態だったソマリアと、室町時代の日本社会はよく似ているというのが中核的な話題なのだが。そこから話があちこちに飛びまくる。
 内容は一応6章構成。

 第一章「かぶりすぎている室町社会とソマリ社会」は、ほぼタイトルのとおり。ソマリ人と中世の日本人、ソマリア内戦と応仁の乱。高野のソマリアでの見聞と、清水の室町時代に関する知識が呼応して、それらがいかに似ているかで二人の意見が一致する。
 第二章「未来に向かってバックせよ!」では、日本の中世とアジア・アフリカの辺境が似ているのはなぜか、を二人は掘り下げていく。もう似ているのが前提なのである。話は文明論、宗教論、時間論へと飛びまくる。似てはいるが、中世日本とソマリアの決定的な違いは、天下統一がされたかどうか、なのだそうだ。
 第三章「伊達政宗のイタい恋」から、方向性が違ってくる。この章は主に農業と経済の話。酒の話題。高野からはソマリアよりもタイの話が多く出てくる。そこからなぜかひげの話、伊達政宗が恋人の男の子にあてたラブレターの話に。ソマリアと中世日本との比較はどこへ行ったのだろう。こうなってくると、ただの雑談ではないだろうか。
 そして、第四章「独裁者は平和がお好き」になると、さらに最初のテーマはどこかへ行ってしまって、歴史学、戦争、食文化、妖怪、等々、話題が飛びまくる。
 第五章「異端のふたりにできること」は、二人がお互いの経歴と仕事の内容を語り合う章。歴史学者とは何か、探検家とは何か、という話も出てくる。高野は正式には「探検家」とは名乗ってないのだそうだ。
 第六章「むしろ特殊な現代日本」は、日本社会の特殊性について、自殺、中古車、NGOなどを題材に語り合う。

 というような内容で、さすがに「ソマリアと中世日本は似ている」だけで一冊語り尽くすことはできなかったようである。後半になると、ただ居酒屋での雑談を聞いているような雰囲気になってくる。しかし、これだけの経験と知識に裏打ちされた雑談は滅多にない。総体としてあまりにもとりとめがない印象で、まとまった知識が身につくわけではないが、独特の立ち位置の二人が自由に語り合う対話は、読んでいて飽きない。

Sekainohenkyou

 

| | コメント (0)

2020年4月16日 (木)

言論統制

言論統制 情報官・鈴木庫三と教育の国防国家/佐藤卓己(中公新書,2004)
 出版界に対する横暴な弾圧者として悪評の高かった鈴木庫三という陸軍軍人がいた。日中戦争の時期に言論担当の士官として頭角をあらわし、太平洋戦争前半まで「情報官」として出版界の統制に当たっていた。
 本書は、実質的にその鈴木庫三の詳細な評伝。戦時中の言論統制の実態を語る本みたいなタイトルだが、サブタイトルが本質なのである。

 内容は、序章、終章とあわせて7章構成。
 序章「『風にそよぐ葦』の神話」は、戦後に描かれた鈴木庫三のイメージの典型例として、石川達三の小説『風にそよぐ葦』に登場する、鈴木をモデルとする軍人「佐々木少佐」を取り上げ、そこに疑問を呈する。「はたして実在の鈴木庫三は本当に「知的ならざる軍人」だったのだろうか」と。
 本編は、鈴木庫三の評伝そのもの。記述の大半は、鈴木が残した詳細な日記によっている。この日記の発見が本書を生みだしたらしい。
 第1章「立志・苦学・軍隊」は、鈴木の生い立ちと、軍人としての初期の経歴。
 第2章「「教育将校」の誕生」では、鈴木の大学生活について述べる。鈴木庫三は軍人としての勤務の傍ら、大学に通っていたのだ。日大夜間部を卒業、その後軍から派遣されて東京帝大の学生となる。「陸軍派遣学生」という制度があったのだ。知らなかった。帝大では哲学、倫理学、教育学などを学ぶ。
 第3章「昭和維新の足音」。若手将校による昭和維新運動、満洲事変、一〇月事件、五一五事件など、世の中の動きが不穏になっていく中、鈴木は帝大に通い続け、教育学の専門家となる。インテリ将校の誕生である。
 第4章「「情報部員」の思想戦記」。1938年、鈴木は陸軍省の情報部に勤務することになり、いよいよ言論統制の現場に出る。出版界や文芸界に対する思想統制の他、自身が精力的に論文執筆や講演を行い、「思想戦」に本領を発揮する。
 第5章「「紙の戦争」と「趣味の戦争」」。1940年、鈴木は情報部「情報官」に就任。幹部の職名らしいが、組織の中でどういう位置づけなのかよくわからない。組織図が欲しかった。
 この章では「情報官」として言論統制の現場の最高責任者となった鈴木の活動を詳しく追う。総力戦体制の中で鈴木の思想はますます全体主義に傾いていく。「鈴木の「戦争=福祉国家」は、ほとんどソヴィエト体制である」と、鈴木びいきの著者も語っているほど。
 終章「望みなきにあらず」は、太平洋戦争後半、情報官から満洲に転出してからと、戦後1964年に死ぬまでの鈴木の経歴を簡単に追う。

 要するに著者が本書を通じて言いたいことは、「鈴木庫三はそんなに悪人ではなかった」、「もののわかっているインテリだった」ということらしい。
 しかし鈴木を擁護したいあまり、その全体主義的思想のやばいところに目をつぶっているように見えるのはどうなのだろう。まあドキュメンタリーとして読みごたえはあるのだが。
 第3章で書かれていた、「平時の軍隊は教育機関である」という見方は新鮮だった。だからこそ、鈴木庫三は大学で教育学を専攻していたのだ。

 

| | コメント (0)

2019年12月 7日 (土)

終身刑の死角

終身刑の死角/河合幹雄(洋泉社・新書y,2009)
 著者は法社会学の専門家で、特に犯罪や刑罰の現状を研究分野としている。
 2008年頃、国会の超党派の議員団が、「仮釈放のない終身刑」の導入を主張していた。本書は、この動きに危機感を感じた著者が、急遽執筆、発表したもの。
 この時は結局、「仮釈放のない終身刑」は国会での賛同が得られず導入は見送られたが、本書の価値が時期を逸したとして失われるわけではない。
 内容は、日本の凶悪犯罪の実態から刑務所の中の実情、死刑制度、無期懲役制度の実態と問題点、受刑者の出所後の社会復帰のあり方、被害者の視点、さらには「罪を犯した者を世間から永久に排除する」日本人の心性にまで議論が及んでいて、教えられることが実に多い。
 その中で「仮釈放のない終身刑」の問題点を論じているのはひとつの章に過ぎないが、これがまた実に説得力がある。終身刑の囚人は、どんなに反抗的な態度をとっても、また脱走を試みても刑がこれ以上重くなることはなく、逆に素行をいくらよくしても仮釈放という成果は得られない。要するに、刑務官の仕事を困難にするだけだという。
 実際には、現在仮釈放は滅多に認められず、無期懲役の受刑者は獄死する方がはるかに多い。それでも、わずかな可能性であっても仮釈放の望みがあることは、刑務官が受刑者と良好な関係を築く上で欠かすことのできない要素になっているというのだ。
 なお、問題の「仮釈放のない終身刑」というのは、死刑を廃止するかわりの最高刑として検討されていたのだが(そのわりには、上記の導入の動きには死刑存続派も加わっていたというのは不思議な気がするが)、死刑については、著者は存続賛成派だとはっきり言っている。著者が受刑者の処遇についての配慮を強調しているだけに、これはちょっと意外だった。ただし、死刑という制度は残した上で、できる限り執行をゼロにしておくことが望ましいというのが、著者の立場。
 単なる時事ネタではなく、日本の刑務所制度について貴重な情報を提供してくれる良書だった。

 

| | コメント (0)

2018年12月13日 (木)

定年入門

定年入門 イキイキしなくちゃダメですか/高橋秀実(ポプラ社,2018)
 フリーランスの著者にとって、定年という制度はひとごとでしかない。
 しかし、共に仕事をしてきた人たちが、ある日突然「定年なもんで」と言って消えていくという、不思議な現象がある。「彼らを連れ去る「定年」とは、一体何なのだろうか」と著者は疑問を抱く。
 本書は、そんな著者が見た定年者たちの姿の数々。いわば定年者たちの観察記録みたいなもの。本文は主にインタビューからなる。

 第1章「超法規的な風習」では、定年を控えるホテルマンが、人生を学校に例える。要するに定年とは卒業みたいなもの。
 第2章「プライドのゆくえ」は、定年者と日々のスケジュールについて。就業する人、スケジュール帖を埋める人…。中にはこんなことを言う人がいて好感が持てる。「定年後は寂しい、ってよく言いますよね。仕事の人間関係がなくなって孤独になるとか。でも僕の場合は全然寂しくないんです。もともと仕事での付き合いは深い人間関係じゃないんで。人とつるむのは好きじゃないし」(p.49)。そのとおりである。
 第3章「おはようおかえり」は、定年者と趣味について。図書館、陶芸、モザイク造りなど、まあ実に普通。
 第4章「テイスト・オブ・定年後」も趣味の章だが、前章より本格的になってくる。釣り、海外旅行、畑仕事、環境保全NPO…だんだん道楽の域を超えてくる。最後の方は趣味か仕事かわからなくなる。
 第5章「特に何も変わりません」は、仕事人間から抜け出せない人たちの姿。元の職場に顧問として残る人、世間を知らない元秘書、再就職した人。
 第6章「ただの人になれますか?」は、元パイロット、元公務員、元先生たちのそれぞれの職業ならではの定年後が語られる。だが、職業柄というより、個人差ではないだろうか。
 第7章「平等なカルチャー」は、定年者たちが集まるカルチャーセンターの世界をルポする。
 第8章「問題ない問題」では、とうとう家族内の問題に立ち入る。定年と夫婦関係。夫に問題がないのに「イラっとする」妻。「もしかすると夫に「問題がない」ことが原因ではないだろうか」と著者は深読みする。しかしこの本、夫婦関係は出てくるのに、意外なほどに、「親子」の関係は出てこない。
 第9章「人生のマッピング」では、二人の女性へのインタビューで本書を締めくくる。退職してやりたいことを30個書き出し、人生のマッピングをする女性。「会社は人生ではありません」と断言する女性。おじさんの世界で始まったのに、最後は女性。定年後は女性の姿を見ろということか。

 定年に関する本というものは、とかく説教・教訓・指導めいたものが混じることが多いが、本書の場合、著者が定年のあるべき姿を求めてないので、押しつけがましいところがないのは好感が持てる。
 著者はただ定年者のさまざまな姿を報告しているだけであり、結局のことろ「定年後は人それぞれ」としか思えない内容だった。しかし、「定年後に定型はない」はということこそが、本書の言いたいことなのかもしれない。

Teinennyuumon

| | コメント (0)

2018年9月13日 (木)

伊号58帰投せり

伊号58帰投せり 太平洋戦記/橋本以行(河出書房,1967)
 だいぶ前、本ブログでは1945年7月30日に撃沈されたアメリカの巡洋艦インディアナポリスについて書かれた2冊のノンフィクションを取り上げた(2008年7月30日のエントリー)。
 本書は、そのインディアナポリスを撃沈した潜水艦「伊58」の橋本艦長自らが書いた回想記。この本は再刊で、最初は1952年に鱒書房というところから刊行されたもの。さらにこの本の後にも、朝日ソノラマや学研などから何度も再刊されている。戦記としてかなり人気がある本だったようだ。

 内容は、真珠湾攻撃から終戦まで、日本海軍の潜水艦作戦の実態を現場の目から書いたもの。潜水艦に自ら乗った者ではわからないような知見がたっぷりと含まれている。
 ただ、読んでいて困ったのは、著者自身がどこにいたのか、時々わからなくなること。明らかに著者自身は乗ってないはずの潜水艦の行動が、自分が体験したかのような書き方で語られている。一方、著者自身の潜水艦の行動が、なんだか他人ごとみたいに書いてあったりもする。全体として、主語をはっきり書いてないのである。
 要するに、「いつ、誰が体験したことなのかよくわからない」という、ドキュメンタリーとしては実に困った欠点がある。
 とはいえさすがにインディアナポリス撃沈のあたりは、著者自身の体験が生々しく描かれている。だが一方で、終戦を受けて作戦を終了後、国内に帰還する場面は、実にあっさりしたもの。「八月十七日平生特攻基地に帰り投錨した」と書いてあるだけ。
 タイトルに「帰投せり」と書いてあるのに、帰投の具体的な場面描写はないのだった。
 著者は戦後、インディアナポリスの艦長を裁く軍法会議の証人としてアメリカに渡る(というか、否応なしに召喚される)のだが、その証人喚問の場面は、当事者でなければ書けないもの。ある意味本書のハイライトのひとつとも言えるが、それも期待したほど詳しくはない。このへんはもう少し長くてもよかった。アメリカ側の人々の、著者への対応ぶりがいろいろと面白い。
 最後に著者は結びの部分で、日本海軍の潜水艦作戦のまずさを悲憤をこめて批判――というか告発している。

 実のところ、ノンフィクションとしては決して出来がよくはない。上にも書いたように、誰の体験を書いているのかよくわからない。記憶に頼って書いているせいか、ところどころ事実誤認もある。
 要するに素人の文章ではあるのだが、貴重な歴史の証言であることは間違いない。

I58kitouseri

| | コメント (0)

2018年7月31日 (火)

大戦下の欧州留学生活

大戦下の欧州留学生活 ある日独交換学生の回想/桑木務(中公新書,1981)
 前回に続いて第二次世界大戦がらみの本だが、こちらはノンフィクション。
 九州帝国大学卒業後同大の助手になっていた著者は、1939年1月にドイツでの在外研究を命じられる。著者の専門は哲学。冒頭からいきなり、ややこしい哲学の話が始まるのには戸惑う。根っからの研究者タイプの人らしい。
 サブタイトルのとおり、著者は日独文化協定による交換学生という制度でドイツに渡るのだが、国内的には、身分は教員の一種である「助手」。そして渡航目的も「在外研究」だから、学生の身分ではなく、若手研究者として研究に行くのである。その後の著者の海外での行動も、完全に研究者のもの。だから内容から言うと、「学生」としての回想ではない。
 とにかく、著者がドイツに渡ったその年に第二次世界大戦が始まる。それ以来、著者は戦時下のヨーロッパでドイツの国内外を、研究や講義のために飛び回ることになる。戦争中だというのに、実に忙しく飛び回っている。
 主な滞在地はドイツ、フィンランド、スウェーデン。他にハンガリー、オーストリア、イタリア、フランス、スイスなどにも行っている。当然と言えば当然ながら、枢軸国かその占領地か、中立国しかない。
 ドイツには空襲もあったりするが、1944年まではわりと普通の生活が続いていたことがわかる。ただ、著者の関心は日常生活を描写することではなく、ハイデガーをはじめとする知識人たちや学生たちとの交流や、自分自身がフィンランドで担当することになる日本文化の講義、各種学術活動などが中心。言わば本書の内容は、「大戦下の留学生活」というより、「大戦下の学術生活」。
 スウェーデンやスイスなど中立国には敵国である英米の人も滞在している。街角や店でのすれ違いも時にはあったらしい。本文中では2、3行で片づけられているが、そんな時のことをもっと詳しく知りたいものだ。
 著者は終戦までヨーロッパにいたわけではなく、1944年、ソ連と講和したフィンランドからシベリア経由で日本に帰る。何もそんな大変な時に戻らなくても、と今だから思う。日本に帰国後のことはほとんど何も書いてないが、そのへんのことも知りたいもの。
 要するに著者は第二次世界大戦の前後に体験したことのほんの一部しか書いてないわけである。それもけっこう浮世離れした世界でのことがほとんど。前線から遠く離れたところにはこういう世界もあったのだ、ということはわかるが。


| | コメント (0)

2018年7月23日 (月)

サラリーマン漫画の戦後史

サラリーマン漫画の戦後史/真実一郎(洋泉社・新書y,2010)
 戦後日本の特異なマンガの1ジャンル、サラリーマン漫画。それを読み解くことにより、日本の会社や働き方の変化、サラリーマン像の変遷、そして「サラリーマン」の解体までが見えてくる。――みたいなことを書いた本。

 第1章「島耕作ひとり勝ちのルーツを探る」
 サラリーマン漫画のルーツは、源氏鶏太のサラリーマン小説にあった。この<源氏の血>を受け継いだ王道作品が『課長島耕作』。本書はこの漫画を、社会現象にまでなった、あらゆるサラリーマン漫画の頂点と位置づける。
 この章が序論。以下、第2章から第5章まで、年代別に追っていく。
 第2章「高度経済成長とサラリーマン・ナイトメア」
 1950年代から70年代までのサラリーマン漫画。前谷惟光『ロボットサラリーマン』、サトウサンペイ『フジ三太郎』、東海林さだお『サラリーマン専科』、藤子・F・不二雄『劇画・オバQ』・『中年スーパーマン左江内氏』、諸星大二郎『商社の赤い花』・『会社の幽霊』、北見けんいち『釣りバカ日誌』。この頃は大河サラリーマンドラマみたいなのはまだないようだ。
 第3章「バブル景気の光と影」
 バブルに踊った1980年代。島耕作シリーズもこの頃からだが、それ以外の作品を取り上げている。聖日出夫『なぜか笑介』、植田まさし『おとぼけ課長』・『かりあげクン』、高井研一郎『総務部総務課山口六平太』、柳沢みきお『妻をめとらば』、窪之内英策『ツルモク独身寮』、ホイチョイプロ『気まぐれコンセプト』、望月峯太郎『お茶の間』。マンガにもバブルの光と影が見える。
 第4章「終わりの始まり」
 サラリーマンの基盤が崩壊し始めた1990年代。新井英樹『宮本から君へ』、国友やすゆき『100億の男』、本宮ひろ志『サラリーマン金太郎』、高橋しん『いいひと』。
 第5章「サラリーマン神話解体」
 2000年以降、一般的なサラリーマン像はもはや解体し、マンガでも特定職業ものが流行し始める。もはや「サラリーマン漫画」というより、「お仕事マンガ」と言うべきだろう。
 女性主人公が増えてくるのも21世紀の特徴か。安野モヨコ『働きマン』、おかざき真里『サプリ』、三宅乱丈『ヒーローズ』、三田紀房『エンゼルバンク』・『透明アクセル』、花沢健吾『ボーイズ・オン・ザ・ラン』、よしたに『ぼく、オタリーマン』、田中圭一『サラリーマン田中K一がゆく!』、うめ『東京トイボックス』、ねむようこ『午前3時の無法地帯』、柳沢きみお『特命係長只野仁』。

 上記のように、実にさまざまな「サラリーマン漫画」が本書には登場する。しかし実はブログ主はこの手のマンガにはほとんど興味がなく、ちゃんと全部読んだことがある作品は一つもない。そして、本書を読んでも、とりたてて読んでみたいという気は起きないのだった。
 それなのになぜこういう本を読むのかというと、まあ、読んでないからこそ、これですませてしまうという側面もある。それに、読み物としてはそれなりに面白い。
 マンガガイドとしてはあまり役に立たなかったが(少なくともブログ主にとっては)、マンガを通じた「サラリーマン論」としては、よくできているのではないだろうか。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧