コミック

2018年12月26日 (水)

お楽しみはこれもなのじゃ

お楽しみはこれもなのじゃ/みなもと太郎(河出文庫,1997)
 和田誠の映画名セリフエッセイ「お楽しみはこれからだ」は、映画好きでなくても知っている人は多いだろう。本書はタイトルや表紙でもわかるとおり、そのマンガ版。イラストと文章で名セリフを語っていくスタイルや構成、それにイラストのタッチまで、堂々と本家をパクっている。
 出てくるネタは、圧倒的に昔のマンガが多い。みなもと太郎にとっての懐かしマンガなのから、とんでもないレトロな作品なのである。何しろ著者の原点は戦後まもない頃の貸本マンガなのだから。
 だから、1940年代や50年代のよく知らないマンガがぞろぞろ出てくる。「のんびりトン助」(山根一二三)、「おかしな連中」(滝田ゆう)、「昭和新撰組」(佐藤まさあき)、「タックル猛牛」(南波健二)、「てんてん娘」(倉金章介)、「どんぐり天狗」(うしおそうじ)…、もうきりがない。
 たまに「現役」の作品が出てくることもあるが、それは「すすめパイレーツ」とか「マカロニほうれんそう」だったりする。なにしろ、元は『マンガ少年』に1976年から79年まで連載されたもの。単行本化されたのが1991年。なぜ単行本化まで10年以上もかかったのかは、著者あとがきに詳しい。
 ノスタルジーとマニア心にあふれた著者の語り口はなかなか楽しいし、マンガ史の資料としても貴重。惜しむらくは、作品紹介に力を入れるあまり、「名セリフ」という本来の趣旨が二の次にされている。中には、セリフの話が全然出てこなくて、マンガの紹介だけで終わってるものすらある。
 結局、肝心のセリフが全然印象に残らないのである。まあ、「お楽しみ」はマンガそのものということか。

Otanoshimiwakoremo

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2016年5月23日 (月)

ナツメグの味

ナツメグの味/ジョン・コリア;垂野創一郎ほか訳(KAWADE MYSTERY,2007)
 いわゆる奇想作家の一人として知られるジョン・コリアの短編集。既刊の『ジョン・コリア奇談集』と重なってる作品が多いが、すべて新訳になっている。
 ジョン・コリアが活躍していたのは1930年代から1960年頃までで、けっこう古い作家なのだが、作風は古さを感じさせないので、現代作家のような気がしていた。
 本書に収録されているのは、その作家活動の全期間にわたる作品、17編。
 必ずしも年代順に並んでいるわけではなく、全体を通して、作品の傾向が徐々に変わっていくのが見てとれるような構成になっている。
 最初の方は、人間の狂気や欲望や妄執から生まれる物語。
 殺人の嫌疑をかけられたおとなしそうな男が、最後に狂気の影を垣間見せる「ナツメグの味 」やマネキン人形に恋した男の運命を描く「特別配達」などは、狂気の物語と言えるだろう。
 歯医者に突然若者がやってきて、歯を全部抜いてくださいと頼むシーンから始まる「異説アメリカの悲劇」や、フランスの田舎にもたらされた1枚の小切手が騒動を生む「魔女の金」は、欲望の物語。どれもブラック・ジョーク的な味わいがある。
 その次あたりから、超自然的な存在が出てきたり、現実ではあり得ないシュールな展開が待っていたりする作品が並ぶようになる。
 謎の卵から生まれた、「鸚鵡だか何だかわからない」鳥が、夫婦に破滅をもたらす「猛禽」。少年だけが存在を信じる謎の存在の話「だから、ビールジーなんていないんだ」。このへんは典型的ホラー小説のパターン。
 日記形式の作品「宵待草」は、世間からはじき出された若者が夜の百貨店に住み着く決意をすると、そこには先住民たちが大量にいたという話で、ホラーとブラック・コメディをミックスしたような作品。
 次の「夜だ!青春だ! パリだ! 見ろ、月も出てる! 」も、世間に嫌気がさした若者が主人公だが、こちらはトランクの中に住み着く。
 ストーカーの話かと思ったらゴースト・ストーリーだったりする「遅すぎた来訪」、アイルランドの片田舎に魔女とおぼしき美少女が出現する「葦毛の馬の美女」もホラーもしくはファンタジー系の作品。
 そしてこのへんからまた作風が変わってきて、本物の悪魔や魔法がごく当たり前のように登場する、超自然系コメディともいうべき作品が続くようになる。
「壜詰めパーティ」は、別にパーティの話ではなく、壜の中の魔神を呼び出して欲望をかなえてもらうという、よくある話をひねったもの。
 綱を天上にかけるインドの魔術をイギリス人が会得する「頼みの綱」は、肝心の魔術の説明が何ひとつなしに、とんでもない物語が進行していく。
「悪魔に憑かれたアンジェラ」では、若い娘が突然悪霊にとりつかれ、下品な詩を次々を口にし始める。とりついているのは実は悪魔ではなく詩人だった。
 自殺した男が悪魔に案内されて地獄に向かう「地獄行き途中下車」。途中でごまかして引き返してしまうのだが、悪魔とのかけあいがおかしい――というか、それが話のすべて。
 これも地獄ものの「魔王とジョージとロージー」では、普通の青年がなぜか魔王から女性専用の地獄の管理人に任命される。そこへ間違って連れてこられた美少女ロージーが騒動を起こすという、シュールなコメディ。自分が連れてこられたのが「地獄」だと知ったロージーの反応がいい。

 「あらよかった!」彼女は大声で言った。「てっきりブエノスアイレスかと思っていたわ」

「ひめやかに甲虫は歩む」も、これまでのコメディ・タッチとちょっと作風が違うが、これまた悪魔もの。理想の映画作りのため悪魔と契約しようとした若者だが、今一歩で――という話。
 最後の収録作「船から落ちた男」は、ずいぶん前にアンロソジー『千の脚を持つ男』で紹介した(2007年12月11日のエントリー)。大海蛇の存在を信じて世界を航海する富豪の船に、すべてを笑いものにする無神経な男が乗船してきたところから起きる悲喜劇。あのアンソロジーで読んだ時はけっこうマジメな話のような気がしていたが、本書の中ではジョークの総仕上げのような印象になってしまった。

 作品そのもののバラエティもあるが、訳者によって雰囲気にずいぶん差があるような気もする。本書で特に印象に残ったのは、語り口のおかしさで読ませる作品だったので、その傾向の「壜詰めパーティ」、「悪魔に憑かれたアンジェラ」、「魔王とジョージとロージー」を私的ベスト3としたい。なんだか、魔神とか悪魔とかが出てくる話ばかりになったが。

Nutmeg

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2015年9月26日 (土)

8月に読んだ本から

 またしても月末ぎりぎりに書くことになったが、8月に読んだ本から2冊。たまたまだが、両方とも「街」という字で始まる。

街場のマンガ論/内田樹(小学館文庫,2014)
 あの内田樹がついにマンガ評論にまで手を出したか――と思わせるタイトルだが、解説の高橋源一郎によれば、著者(1950年生まれ)はマンガを親代わりに育った(多分、第1期の)世代なので、マンガに「愛と敬意」を持っているのは当たり前なのだとか。だからこういう本を出すのは意外でもなんでもないということらしい。
 ところで、タイトルに「街場」とあるが、別に街のあれこれとマンガとの関係について述べているわけでなく、「内田樹の著書である」という記号にすぎない。
 内容は要するに、マンガと多少でも関係したエッセイを集めたもので、おおまかなテーマごとに7章に分かれている。

 第1章は「井上雄彦論」。タイトルのとおり、「バガボンド」を中心に井上雄彦を語ったエッセイ5編。著者が、井上雄彦こそが現在世界最高の漫画家である、と評価していることはよくわかる。そして、内田樹は何について書いても、どこかで教育論になってしまうということに、改めて気づいたりもする。
 第2章「マンガと日本語」は、外来語、擬態語、ベストセラーのタイトルなどを取り上げたエッセイ4編。正直言って、「擬態語について」以外は、マンガとあまり関係ない。着眼点には感心するところがあるが。
 第3章「少女マンガ論」は3編を収録。少女マンガを読むには、特別なリテラシーが必要だという「少女マンガリテラシーと元少女おじさん」が面白い。
 第4章「オタク論・ボーイズラブ論」は、ちょっと傾向のバラバラな4編を収録。「オタク文化はSFから生まれた」という「SFから「オタク」へ」は、かつてSFファンの世界に身をおいていた人間には興味深い論。また、「反米ナショナリズムとしての少年愛マンガ」によると、少女マンガの根っこには、「反米」があるのだそうだ。ほんまか? 総じてこじつけというか、強引な論旨が目立つ章である。
 第5章「宮崎駿論」は、短いエッセイ6編。こんなところにも師弟論や身体論が出てくるところが、さすが著者らいしというか。
 第6章は「マンガ断想」。分類しきれなかったものをこの章に押し込んだようで、10編のバラバラなテーマのエッセイが収録されている。アメコミ、大学を舞台にしたマンガ、スピリッツ、著作権、アマゾン、『エースをねらえ!』、有害図書、など。こういうバラエティに富んだ章の方が、実は読む方としては面白い。
 第7章「戦後漫画家論-戦後漫画は手塚治虫から始まった」は、内田樹と養老猛司の対談。司会の菊地史彦は、今は企業家だが元は編集者。けっこう対談に口を出しているので、事実上鼎談みたいなもの。しかし、このサブタイトルは当たり前すぎるのではないか。
 当然のことだが著者はマンガの専門家ではないので、収録されているのは部外者から見たマンガ論でしかない。いしかわじゅんのマンガ評論みたいなマニアックな掘り下げは期待すべくもないのだが、反面、部外者だからこその意外な見方がある。
 ただ、もうちょっと批判的にマンガ家やマンガ作品について書いてもよかったのではないかという気はする。基本的に、ほめてばっかりなのだ。これが「愛と敬意」というやつなのだろうか。

Machibanomangaron

街角の書店 18の奇妙な物語/中村融編;宮脇孝雄ほか訳(創元推理文庫,2015)
 ちょっと変わった趣向のアンソロジー。といっても、最近あちこちで目にする本屋が舞台の小説を集めたものではない。
 目次を見ると、ヴァンスにウィルヘルム、オリヴァー、ブラウン、ゼラズニイ、ライバー、ハリスンなど、SF好きにはおなじみの名前が並んでいる。だが、収録作で純粋にSFと言えるものはほとんどない。このSF作家が、こんな変な話を書いていたのか――という意外性のある話ばかりである。
 SF作家の他に、世界的に超有名な作家から、知る人ぞ知るマイナー作家、誰も知らないような作家まで収録されている。
 傾向としてはファンタジーの系列が多いのだが、本書のようなのはやはり、「奇妙な味の小説」と呼びたい。サブタイトルのままだが。
 同様の趣向のアンソロジーは何種類も出ているが、本書の場合、定番の作品をできるだけ避けて、いわば埋もれた名品を発掘して収録しているのが特徴。 

 ジョン・アンソニー・ウェスト「肥満翼賛クラブ」は、妻たちが夫をひたすら太らせて、一世一代のコンテストに挑むブラック・ユーモアたっぷりの作品。結末は、もしかしてと思っていたらやっぱりだった。
 文豪イーヴリン・ウォーの「ディケンズを愛した男」。アマゾンの奥地に住む、ディケンズの朗読だけを楽しみに暮らす男。ある日そこへ遭難した英国貴族がたどり着き…。何か怪奇な現象や凶悪な事件が起こるわけではないが、これはひどい、あまりにひどすぎる話
 シャーリイ・ジャクスン「お告げ」は、おばあちゃんが落とした買い物メモを、結婚に悩む一人の女性が拾ったことからおこる騒動。こういうほのぼのした路線の作品が混じっているとほっとする。
 異世界SFの名手ジャック・ヴァンスの「アルフレッドの方舟」は、洪水が来ると信じ、自家製の方舟を作る男の起こす騒動を描く。あまりヴァンスらしくない傾向の作品だが、宙に放り出されるようなラストは印象的。
 怪奇小説で有名な作家ハーヴィー・ジェイコブズの「おもちゃ」は、別に怖い話ではないが、不思議でちょっと不気味な話。男がふと入った骨董品屋に陳列されているのは、彼の幼少期の思い出の品の数々だった。
 ミルドレッド・クリンガーマン「赤い心臓と青い薔薇」は、とんでもなくいやな気分になる物語。さりげなく家庭に入り込んで来た青年が、次第に悪魔のような本性を出し始める。といっても、あからさまな犯罪行為ではなく、心理的な不快さがエスカレートするだけなのが、かえって恐ろしい。
 ロナルド・ダンカン「姉の夫」も、不穏な雰囲気に満ちた作品。たまたま列車の中で出会った男が主人公の姉と恋仲になり、やがて結婚する。だが、男はその直後に姿を消し、驚愕の真相が明らかになるのだった。
 収録作中一番難解なのが、ケイト・ウィルヘルム「遭遇」。雪に閉じ込められたバスターミナルで一夜を過ごす男女に、何があったのか。正直言って、よくわかりません。
 カート・クラーク「ナックルズ」は、一種のアンチ・クリスマス・ストーリー。たちの悪い父親がでっちあげた、「逆サンタクロース」は、「ナックルズ」と呼ばれる邪悪な存在だった。結末は予想がつくが。
 テリー・カー「試金石」も不思議な作品。謎の店で手に入れた試金石は、持つ者に奇妙な安らぎをもたらす。ただそれだけの話で、怪異がはっきりと現れるわけではないのだが、石の不気味さが迫る。
 オールドSFファンには懐かしい名前、チャド・オリヴァーの「お隣の男の子」は、SFでもなんでもなかった。ゲストに少年を招待してトークを繰り広げるラジオ番組「お隣の男の子」。だがその日登場した少年は、とんでもないことを言い出す。ブラックなドタバタ劇。
 これまた懐かしい名前のフレドリック・ブラウン「古屋敷」。こういう設定の話、前にも読んだことがある。要するに死を迎えた男が、自分の記憶を再現した屋敷の中にさまよいこむ話。しかし、この作品の場合、男の記憶はカオスだったらしい。それが現実に近いかもしれないが。
 大文豪ジョン・スタインベックの「M街七番地の出来事」は、ガムが意志を持って動き出すという、まさかのドタバタ・ファンタジー。
 ロジャー・ゼラズニイ「ボルジアの手」は、オーストリアの田舎に住む少年が主人公。少年は手に障害があり、ある日村を通りかかった「さまよえるユダヤ人」に、自分の手をとりかえて欲しいと頼む。チェーザレ・ボルジアの手を持つことになったこの少年は、実は歴史上非常に有名なある人物であることが次第にわかってくるのだが、その名を最後まで明かさないのが巧み。改題はネタばらししすぎではないだろうか。
 フリッツ・ライバー「アダムズ氏の邪悪の園」は、「プレイボーイ」のオーナーの屋敷をモデルにした豪邸で、邪悪な実験をもくろむ大富豪アダムズの破滅の物語。収録作中では、一番まともなホラー小説と言える。
 ハリー・ハリスン「大瀑布」は、昔『SFマガジン』にも掲載された異色作。誰もみたこのない「上の世界」から落ちてくる大瀑布。大量の水に混じって、時には船や、家までもが流れてくる。「上」で何が起きているのか、謎のメッセージが想像力をかきたてる
 ブリット・シュヴァイツァー「旅の途中で」は、シュールな奇想譚。旅人がふとしたはずみで、自分の頭を落としてしまう。落ちた頭が、その場に突っ立っている自分の体に戻ろうと悪戦苦闘する有様を描く。
 最後はネルスン・ボンド「街角の書店」。その書店にある本はすべて、著名な作家たちの「書かれなかった本」、「未完に終わった本」の完全版。つまり「ロストブックス」(2011年12月15日の本ブログ参照)を集めた本屋なのだった。本好きなら誰でも行ってみたい店である。しかし、その店に足を踏み入れることができるのは、限られた人間だけで、しかも、二度と戻ることはできないのだった…。

 ベストは、ロスト・ブックスの魅力で、表題作。次点は、「ボルジアの手」。小説としては、もっとうまい作品がいくつもあるのだけど、あまりに後味が悪かったりするのは、ちょっと選びたくない。本書は基本的には、粒よりの作品が揃う、優れたセレクションのアンソロジーなのだが、唯一の問題が、後味の悪い作品が少々多いことだろう。

Machikadono

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2013年10月15日 (火)

バーナード嬢曰く。

バーナード嬢曰く。/施川ユウキ(一迅社・REX COMICS,2013)
 とある学校(たぶん普通の高校)を舞台とした、ほぼ会話のみからなるマンガ。
 12話からなっていて、各話は「第○話」ではなく、「1冊め」、「2冊め」…と表記されている。別に1冊の本がテーマになっているわけではなく、それぞれが1ページから4ページくらいの短いエピソードからなりたっている。
 主人公は、本を読まないくせに読書家のふりをしたがる少女、町田さわ子。その彼女に興味を抱き、観察し続けるもの好きな少年、遠藤。さらにその遠藤に片想いしていて、ひそかに彼を観察している図書委員の長谷川スミカ。そして途中から登場する神林さおりを加えた4人、これが登場人物のほぼすべて。(この他に、書店員が1回だけ登場する。)
 そして舞台は、ほぼ一貫して、学校の図書室の中だけ。近所のカフェや書店がそれぞれ一度だけ舞台になったことはあるが。彼らの家庭はもちろん、教室すら出てこない。実にシンプルなマンガである。
 タイトルの「バーナード嬢」というのは、町田さわ子の自称。だが「その名で呼ばれているところを見たコトがない」と遠藤が語るとおり、他の人間からは常に「町田さわ子」(なぜか常にフルネーム)としか呼ばれてない。遠藤は彼女を「ド嬢」と呼んでいるが、内心だけの話なので、セリフには出てこない。さらに後半になると、作者もそんな設定を忘れたかのように、「バーナード嬢」も「ド嬢」も出てこなくなる。
 しかし身の程もわきまえず、バーナード・ショーをもじったこの自称は、町田さわ子のアホっぽさを象徴する名前なので、この本にはこのタイトルしかあり得ない、という気がする。何よりインパクトがあるし。ちなみに、町田さわ子はこの高名な文学者の名前を、間違って「バーナード・ジョー」だと思い込んでいたらしい。やはりアホである。
 とにかく努力せずに読書家ぶりたい町田さわ子。名言を引用したり、映画化されたり文庫化されたりした本を前から読んでたと自慢したり、そういうことがやりたくて仕方がない。しかし元々アホなので、うまくいったためしがない、そういうキャラクターなのである。まあ、これで頭が並以上だったらただの嫌な女でしかないので、アホで救われていると言えよう。
 「1冊目」は、読書家ぶってはスベってばかりの町田さわ子と、それにツッコミを入れる遠藤のエピソードがメイン。作者も最初、「名言マンガ」のつもりで書いていたそうだ。だが、「2冊目」で神林さおりが登場してから、路線が明らかに変化を見せ始める。
 他のキャラクターも、例えば常識人に見えた遠藤は、『恋空』を読んで涙ぐむ一面があったり、長谷川が実はシャーロキアンだったりと、話が進むにつれてそれぞれの個性を見せ始めるのだが、この神林さおりの存在感は圧倒的である。
 神林さおりは正真正銘の読書家で、超SFマニアである。『今日の早川さん』の早川量子の学生時代みたいなものだ。もっとも、いじられキャラの早川量子と違って、神林さおりはやたらと短気で、すぐ暴れ出す傾向がある。
 被害者はもちろん町田さわ子。「な・か・み!!ちゃんと読んでる?」と言って「オマエが言うな」とぶん殴られ、「SFって何?」と聞いて「ウンザリだよ!」とののしられ、SFを10冊くらい読んだだけで「SFは大体わかった」と言って「わかるかぁ!!」とテーブルをひっくり返され、『ハロー・サマー・グッドバイ』をラストから読もうとして頭を踏みつけられる。
 そんな凶暴な神林さおりだが、SFを語り始めると止まらない饒舌(コマがフキダシで埋め尽くされる)と、時折出てくる名セリフがすばらしい。彼女のおかげで、「名言マンガ」だったはずの本作はいつの間にか、ほとんど「SFうんちくマンガ」とも言うべきものになってしまっているのだった。「6冊目」の神林さおりがグレッグ・イーガンを論じるエピソードは傑作(SFファンにしか面白さがわからないだろうが)。神林さおりこそ、このマンガの影の主役だと言いたい。全然かわいくないが。
 彼女の名セリフをいくつか(セリフが長すぎて引用できないものの方が多いが)。

「本は読みたいと思った時に読まなくてはならない その機会を逃がし「いつか読むリスト」に加えられた本は 時間をかけて「読まなくていいかもリスト」に移り やがて忘れてしまうのだ」(5冊目)
「SF語るなら最低千冊!」(8冊目)
「ディックが死んで30年だぞ! 今更初訳される話が面白いワケないだろ!」(9冊目)

 
ところで本作は正直言って、マンガとして見ると絵はヘタ。ヘタウマではなくて本当にヘタみたいに見える。わざとそういう風に見せているとすればすごい才能だ。しかし、変にうまい絵で描かれると、この独特の味は出てこないだろう。町田さわ子など、目が単なる「○」でしかないのに、時々かわいく見える。マンガは絵だけじゃない、という絶好のサンプルになっている。

Bernard

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2013年3月 3日 (日)

青春マンガ列伝

青春マンガ列伝/夏目房之介(マガジンハウス,1997)
 夏目房之介に「青春」を冠するタイトルの本――という組み合わせが意外だったが、読んでみると、確かにそうとしか呼べない自伝的エッセイなのだった。
 本書はこの単行本が出た後、ちくま文庫から『あの頃マンガは思春期だった』と改題して再刊されている。なぜか単行本の方がいまだに新刊で手に入れることができて、文庫は絶版なのが不思議。しかし古書では両方とも比較的容易に手に入る。
 単行本と文庫は、文章は同じなのだが、図版が一部違っている。文庫版の方は、スペースの関係で単行本に引用されていたマンガの一部をカットしていることがあるのだ。図版自体も単行本の方が見やすいし、どうせ買うなら単行本の方がいいだろう。タイトルも元の方がいい。(なお、著者には『風雲マンガ列伝』というよく似たタイトルの著書もあるので、こんがらがらないよう注意が必要。そちらは普通のマンガ書評集である。)

 内容は、著者が小学生の頃から、大学を出てマンガ家兼ライターとして歩み出すまでの若い日々の回想を、その時期に出会ったマンガの思い出とともに語ったもの。最初は『マルコポーロ』に連載されていたのだが、途中で同誌が休刊になってしまう。どうしても本作の連載をやめたくなかった著者は、この本の出版元マガジンハウスから出ていた『鳩よ!』(これももう廃刊になってしまったが)で連載を再開する。この事情から見ても、本書を書くことに著者が相当入れ込んでいたことが想像できる。
 登場するマンガは、マンガ史に残る有名作品から、聞いたこともないマンガ家のマイナーな作品まで。メジャーなところでは、石ノ森章太郎『サイボーグ009』、白土三平『サスケ』、上村一夫『同棲時代』、山上たつひこ『喜劇新思想体系』、鴨川つばめ『マカロニほうれん荘』など、一時代を画した作品が出てくるが、数はそう多くない。ややマニア好みなものでは、池上遼一『スパイダーマン』、永島慎二『漫画家残酷物語』、林静一『赤色エレジー』などで、作者は知ってるけど作品は全然知らなかったのが、深井国の『スペース女捜査官サフォン』とかバロン吉元の『スネーキーシャラー』とか。樋口太郎の『脱出』、エモリ・Iの『Chicken』、今村直道『パニック』などに至っては、作者の名前も聞いたことがなかった。
 しかし、本書の主要テーマは、マンガの紹介や評論ではない。あくまでメインは、著者の過去の行動や妄想を赤裸々に語った回想記なのである。回想6:マンガ4くらいの割合だろうか。
 本書の帯には「恥多き青春の思い出を通して戦後マンガの歴史に新しい光をあてる」とあるのだが、逆だ。正確には「戦後のマンガの歴史を通して恥多き青春の思い出を語る」とすべきだった。まあ、そう書いてしまうと、買う人がぐっと減るだろうが。
 特に高校時代から、「人生を二分するような鬱状態に落込」んだ大学時代の回想など、読んでいる側の気分まで滅入ってくるような――あるいはいたたまれなくなるような、自意識過剰とその裏返しの自己嫌悪の泥沼ぶりを、これでもかと書いている。そのへんの各章のタイトルからして、「ミナハイきめて新宿へ」とか「ラリったあの娘と初デート」とか、70年代の空気が濃厚に漂う。
 そうやって悩んでいる若い頃の著者は、今の目から見るとかなり「痛いやつ」なのだが、その時代のその年齢の若者たちは、みんなイタかったのだ。ある意味、典型的な60-70年代青春記ではある。
 それにしても、自分の恥多き過去をここまであからさまに語ることができる――というか、連載誌を変えてまで書かずにいられない、というのは、どこか文学者的な精神を感じさせる。私などは凡人なので、自分の20歳前後の頃のことは、すべて黒歴史として封印することにしている。そのへんには、もしかして祖父の夏目漱石の血が影響してるのだろうか(本人は多分、そんな風に見られるのを嫌がるだろうが)。

 個人的に本書を読んで一番の「発見」は、筒井康隆のマンガ『色眼鏡の狂詩曲』(これも知る人ぞ知る的な作品だが)の下絵の一部を夏目房之介がやっていたということだった。

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2012年3月22日 (木)

2月に読んだ本から

2月に読んだ本から、趣味に走った新書を2冊。

プロ野球 強すぎるチーム 弱すぎるチーム/小野俊哉(PHP新書, 2011)
 強いチームはどこが強いのか、弱いチームはなぜ弱いのか、徹底的に数字で分析する。
 第一部「強すぎるチーム」が全体のページ数の約8割を占めていて、実質的には強いチームの分析本と言っていい。
 その第一部は、9章に分かれていて、特に第一章「藤本巨人」が長い。戦前・戦中期、藤本定義が巨人の監督をしていた1936年から1942年にかけての話で、これだけ古いと知らない人が多いから、それだけ説明が必要になるのだろうか。それにしても、この時期の巨人の勝率は.715という、現在では信じられないような強さ。今だったら、勝率5割代後半で優勝できる。
 以下、時代を追って、「水原巨人と三原西鉄」(1950年代)、「V9巨人」(1960、70年代)、「鶴岡南海」(23年にわたる長期政権)、「広島の初優勝」(1975年)、「上田阪急」(1970、80年代)、「森西武」(1986、84年代)、「野村ヤクルト」(1990年代)、「21世紀の優勝チーム」と続く。
 著者の考える強いチームというのは、数値分析にも現れているように、守りに強い安定したチームのようで、1985年の阪神みたいな、突発的に強くなった狂い咲きみたいなチームは取り上げられていない。
 もっとも、1985年の阪神については、その後の長期低迷の原因になった反面教師として、第二部で言及されている。
 その第二部「弱すぎるチーム」は、4章構成。こっちは時代順ではない。
 ここに取り上げられた不名誉なチームは、21世紀の「横浜ベイスターズ」、1954年から56年まで存在した短命チーム「高橋(トンボ)ユニオンズ」、1961年に103敗した近鉄、そして1987年から2001年までの阪神。
 膨大な数字、そしてグラフは説得力がある。
 例えば、阪神タイガース。1985年から2003年までの阪神の得点と失点の変遷を現したグラフを見ると、1985年に優勝した翌年から得点力がガタ落ちし、2003年に再び優勝するまで回復してなかったことがわかる。その間、常に失点が得点が上回っていたので、これでは勝てるわけがない。上にも書いたように、この阪神の暗黒時代を招いたのは、1985年の優勝だったというのが、著者の説。要するに、勢いだけで優勝してしまったので、大ざっぱな野球しかできなくなったことが、阪神をダメにしたというのだ。
 ただ、長期低迷期の中で、1992年に一年だけ強かったことがあるが、この年も得点力が上がったわけではない。この年だけ急激に失点が減っていて、得点を下回っていたのだ。(仲田や猪俣などの投手陣がこの年に限って異常に成績がよかった。)
 ――というようなことが、グラフを見れば一目でわかる。
 また、各所に出てくるのが、得点別、失点別の勝敗数。その分析の結果出てくるのが、最後から2番目のページに載っている「敗戦になる可能性が高い3得点以下の試合で、いかに負けないかを競うスポーツが、プロ野球なのです」という言葉。この論理が本書全体を通じて貫かれている。
 それはまあ確かにそうなのだろうが、最低限の得点で堅実に守り勝つ、というのは、森西武や、最近では落合中日が目指していたスタイルだ。そんなチームばかりになって面白いだろうか、という気もする。
 とはいえ、強いチームにはそういう傾向がある、というのは事実だろう。何より、膨大なデータの分析は説得力があるし、野球が統計のスポーツだということを実感させてくれる。
 そんなデータを頭に入れておきながら、ペナントレースを眺めるのも面白いかもしれない。

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マンガの遺伝子/斎藤宣彦(講談社現代新書, 2011)
 プロローグ「マンガ――つながりとしての」は、こんな意表をつく文章で始まる。

 『人間失格』の主人公は、マンガ家である。

 本当か?と思って原作を確認してみると、確かにそのとおりなのだった。ここで著者は、『人間失格』の主人公像から始まって、この太宰治の代表作のマンガ版について、さらにその精神を受け継ぐ『さよなら絶望先生』などについて語る。これがいわば、マンガにおける『人間失格』の「遺伝子」というわけか。
 こんな具合に、マンガにおいてあるテーマや表現方法が、どのように作者や時代を超えて伝えられているか、あるいは共有されているか、を考察することが本書のテーマ。著者の表現を借りれば「モノサシ」を当てる、もしくは補助線を引くわけである。
 内容は、テーマごとに全9章。
 第一章は、野球マンガの起源と、少年週刊誌の誕生と発展について。第二章は前章の続きみたいなもので、野球マンガ、特に「魔球」の進化史。
 第三章はギャグマンガ論。ギャグマンガの世界を「萌え←→実話・爆笑」、「コンサバティブ←→アバンギャルド」の二つの軸上にマッピングした図が載っている。この図については、納得のいかない部分も多いが、それは仕方がない(誰からも異論のないマッピングなど不可能だろう)。
 第四章は表現論。マンガの画面での車などの疾走の表現と、感情を表現する「浮遊物」の表現について。この二つがなぜ一緒に論じられるのか、よくわからない。
 第五章も表現論で、少女マンガと青年マンガと「青女」マンガ、それぞれに特有の表現(「背景の花」とか)と描線の考察。
 第六章は、少年マンガのヒーロー像、特に著者が「エクストリームマンガ」と呼ぶ過激なマンガの系譜。
 第七章は、現在にまで続く料理マンガの表現史に、野球マンガの「魔球」の伝統をからめて論じる。正直言って、ここまでのところは、ところどころ面白い視点や見解はあるものの、それほどの独創性は感じなかった。
 魔球については、夏目房之介の『消えた魔球』という、この分野では古典的な著作がある。ギャグマンガ、少女マンガ、少年マンガなどのジャンル論、描線や画面構成、ストーリーなどについても、すでに各種のマンガ評論で語られている。
 本書のユニークさを感じたのは、第八章の「サンプリングマンガ」と最後の第九章の「マンガ家マンガ」だった。
 「サンプリングマンガ」は、引用や模倣、コラージュ表現を特徴とするマンガ。「マンガ家マンガ」は、文字どおりマンガ家の世界を描くマンガ(『バクマン。』とか、『俺はまだ本気出してないだけ』とか)である。いわば、マンガの上に成り立つマンガ。ここへきて、プロローグの『人間失格』とつながるわけである。
 とはいえ、どうも全体として脈絡がないという感は否めない。本格的評論というより、エッセイ集として読んだ方がいいのかもしれない。

 ところで、本文中で言及されたマンガの図版が豊富に引用されているが、その発表年が記載されてないのは解せない。マンガの歴史が重要なテーマであるこのような本で、年代を表記することは非常に重要なことだと思うのだが。例えば第一章で野球マンガの先駆として紹介されている「バット君」は、何年の作品なのか、どこにも書いてない。図版の出典は巻末に載っているが、ほとんどがコミック版で、中には復刊もあったりして、雑誌での初出はわからないのだ。このへんはもうちょっと気を使ってほしかった。

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2010年8月27日 (金)

超絶4コママンガ版「龍馬伝」

サカモト/山科けいすけ(新潮文庫,2010)
 NHK大河ドラマのおかげで世は龍馬ブーム。そんな中、約10年の時を経て復刊されたのが、この四コママンガ。文庫化されたのは今回が初めてだから、厳密には復刊ではないが、とにかく、堂々と便乗出版を名乗ってのリバイバルである。
 このマンガ、最初は竹書房の四コマ雑誌『まんがくらぶ』に連載されていて、たまたまその新連載第一回を読んだことがある。笑撃の出会いだった。その第一話というのは、こんな感じ。

 攘夷を唱える志士たちの中で、余裕の微笑を浮かべる龍馬。「小さい」「おまんら小さいぜよ」。
 「なにいっ」いきりたつ志士たちに向かってさらにたたみかける龍馬。「こんなちっぽけな国の中で争っている場合じゃないぜよっ」「もっと大きな視野をもたんでどーするぜよっ」。
 息を呑む志士たち。龍馬はさらに叫ぶ。
 「月の裏側には宇宙人の基地があるぜよ!」「宇宙人は空飛ぶ円盤にわしらを連れ込んで人体実験するぜよ!!」

 このマンガの龍馬は、勝海舟に洗脳されたトンデモ信者なのだった。
 この直後、「高度な話が理解できない」志士たちによって龍馬はボコボコにされるが、そんなことにはめげず、自分勝手な論理で幕末の京都をかきまわし続けるのである。

 実のところ、この第一話のインパクトが大きすぎて、それ以降は同じようなエピソードがだらだら続いているだけの印象があり、連載時はそんなに熱心に読んでなかった。
 全部読んだのは今回が初めてである。やはり第一話が一番おもしろい、という印象に変わりはない。だけど、幕末の有名人たちが変人ぶりを競い合うドタバタ劇は、それなりに楽しめる。

 あらゆるトンデモ説を信じている上に、卑劣で自分勝手な坂本龍馬。
 龍馬の師であり、時代を遙かに超えた視点を持つ――というか、頭が完全にあっちの世界に行ってしまっている勝海舟。地球を守るために銀河パトロール隊の創設を唱えた時は、さすがの龍馬もついていけなかった。
 サツマイモ至上主義者の西郷吉之助。
 病弱なくせにデブ、一見陽気だが内心は腹黒い沖田総司。
 男色家で人斬りしか能がない単純バカの近藤勇。
 両刀使いで沖田をオモチャにしている陰険なサディスト、土方歳三。
 すぐにキレる凶暴な天然テロリスト、高杉晋作。
 変装が趣味で年中逃げ回っている小心者、桂小五郎。
 「おまけ」に出てくる乙女姉さんも、わずか2ページの出番だがとんでもなく存在感がある。
 こんな連中が架空の幕末世界を舞台に、体をはったギャグをかましまくるのである。山科けいすけのブラックなギャグのセンスがえぐいくらいに発揮されている。これだけ血が飛び散る四コママンガも珍しい。
 毒のあるマンガが平気な人にはおすすめできる。
 あと、個人的願望だが、できればジョン万次郎をちょっとでも出して欲しかった。さぞとんでもないキャラクターになったと思うのだが...。

サカモト (新潮文庫)

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2009年12月12日 (土)

11月に読んだ本から

11月に読んだ本から、例によって比較的最近出た本を2冊。

ハプスブルク家の光芒/菊池良生(ちくま文庫,2009)
 「長さ一三二メートル、幅二二メートル、高さ一三.二メートルの巨大な「ノアの方舟」が、ノアの家族八人とすべての種類の動物、鳥、地を這うもののそれぞれのつがいを載せてたどりついたところはアララテの山である」と、意表をつく書き出しからこの本は始まる。
 ノアから始まった歴史で、人の世には身分の差が生まれた――と著者は語り、ヨーロッパの階級社会の話へとつながっていく。階級社会の頂点に立つのが皇帝である――というところから、やっと本書の主役であるハプスブルク家、その中でももっとも広い領土を治めたカール五世が登場する。 

 そしてカール五世の身体にハプスブルクとブルゴーニュが合流したとき、ハプスブルク家は華麗な祝祭の季節[とき]を迎えたのである。(p.17-18)

 この文章が、まるでファンファーレのように響く。この本が語るのは、歴代のハプスブルク家が繰り広げた祝祭絵巻であり、パレードと祝祭とセレモニーから見た、ハプスブルク家の歴史なのだ。
 カール五世はヨーロッパ各地に巡幸を行った。その行く先々で、皇帝を迎える町が華麗な「入場式」を演出する。記念門を建て、山車を並べ、パレードや劇や馬上試合が開催された。そしてカール五世が死去すると、ヨーロッパ各都市はまた華麗な葬儀を催す。ブリュッセルでは巨大な「ノアの方舟」の山車が行進した。ここで、冒頭とつながるわけである。歴史書とは思えないくらい、書きぶりが凝っている。これがこの著者の持ち味なのだろう。
 次の章では、カール五世の後オーストリアとスペインに分裂したハプスブルクのうち、スペイン王家のごたごたが語られる。祝祭の話はひとまずお休み。 

 王(フェリペ二世)は宮殿の奥深くに閉じ籠もり、スペイン・ハプスブルクの光と翳りのすべてを燃やし、その燃え殻をせっせと積み上げて無惨なぼた山を築いたのだ。(p.43)

 同じハプスブルクでも、スペインは暗い。でもこれは本書の主題から言えば脇道。次の章から話題の中心はオーストリア・ハプスブルクに戻り、最後までオーストリアを離れることはない。やはりオーストリアは華やかである。祝祭に次ぐ祝祭が語られる。
 16世紀、オーストリア大公カールとバイエルン公女マリアの結婚祝祭。17世紀、皇帝レオポルト一世とスペイン王女マルガレーテの婚儀を祝う、延々2年も続く祝宴。この頃のハプスブルク宮廷は、一年のうち157日は祝祭をやっていたとか。
 18世紀、フランクフルト生まれのゲーテが目にした、皇帝ヨーゼフ2世の戴冠式。フランクフルトは16世紀以来、神聖ローマ皇帝の戴冠式の地となっていた。この戴冠式から約40年後、「神聖ローマ帝国」は消滅してしまうのだが。
 「神聖ローマ帝国」がなくなっても、ハプスブルク家はまだ続く。ハプスブルク家の一員である「メキシコ皇帝」マクシミリアンの処刑、踊るウィーン会議、流浪の皇妃エリザベート。このあたり、祝祭というより劇のようだが、ドラマチックで見せ場に富むことは確かである。エリザベートなど、宝塚の舞台にまでなっている。
 そして最後を飾るのが、1908年、皇帝フランツ・ヨーゼフ2世の「在位60年慶祝パレード」。パレード参加者1万2千人、見物客60万人という途方もない祝祭である。だがその裏では民族間の対立と国際的緊張が高まっており、6年後には第一次大戦が勃発し、ハプスブルク帝国は消滅に向かうことになる。最終章で著者は、宴の後の虚しさが漂う筆致で、ハプスブルク家の最後を語る。
 きらびやかな祝祭に彩られた「ハプスブルク家の光芒」とともに、「ハプスブルク家の興亡」も描き出す。分量としては短いのだが、内容はいろいろな意味で濃い、異色の歴史書である。
 前に取り上げた『神聖ローマ帝国』(2007年10月19日)や『傭兵の二千年史』(2009年4月6日)を書いた人だけあって、やはり歴史好きのツボを心得ている。

ハプスブルク家の光芒 (ちくま文庫)

四コマ漫画 北斎から「萌え」まで/清水勲(岩波新書,2009)
 サブタイトルのとおり、北斎に見るコマ漫画の起源から、現代の四コマまでの歴史の概説。著者は戦前(1939年)生まれの漫画史研究の大家。帝京平成大学教授、京都国際漫画ミュージアム研究顧問。本人のホームページ(http://www013.upp.so-net.ne.jp/kun-shimizu/)によると、著作84冊。手塚治虫のデビューを目撃し、「サザエさん」を最初からリアルタイムで読んでいた世代である。
 本書の神髄は、全体の3分の2にあたる明治から終戦直後までの四コマ漫画の歴史を述べた部分にある。章で言うと「2 西洋四コマの到来――明治時代」から、「5 第二次「新聞四コマ漫画」ブーム――昭和二〇年代」まで。新聞や雑誌の四コマ漫画という、追跡のきわめて難しい資料を、よくこれだけ集めたものである。戦前の人気四コマ「のんきな父さん」や「フクちゃん」などが取り上げられている。
 中でも気になるのは、日本で初めて女性を主人公にした漫画という長崎抜天の「ひとり娘のひね子さん」(大正13年~)。残念ながらこの漫画の図版は載ってないので、ひね子さんがどんな顔なのかわからない。調べてみると、2008年に京都の漫画ミュージアムでこの漫画の展覧会が開催されていたらしい。行けばよかった!
 最後の3分の1は昭和30年代から現代までで、いしいひさいちやいがらしきみお、吉田戦車、それにとってつけたように美水かがみの「らき☆すた」が出てくる。この部分は、正直いって、蛇足。同時代史なので、他でもわかることである。「オバタリアン」の堀田かつひこが「すえつぐなおと」の名で少女漫画を書いていた(p.160)というのは初めて知ったが。
 巻末の「四コマ漫画史年表」は力作。さすがに長年漫画史研究を手がけてきただけのことはある。
 ただ、問題は、読み物としては、まったくおもしろいと思えないないこと。四コマ漫画という魅力的な題材を、どうしてここまで無味乾燥な文章で書けるのだろう。資料的には値打ちがある本だと思うが...。

四コマ漫画―北斎から「萌え」まで (岩波新書)

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2008年11月30日 (日)

シュレディンガーの猫と妻

シュレディンガーの猫は元気か サイエンスコラム175/橋元淳一郎(ハヤカワ文庫NF,1994)
 物理学者でSFファンで、自らSFも書いている著者が、英米の代表的科学雑誌、『ネイチャー』と『サイエンス』の記事から主にネタを拾ってきた科学コラム集(それ以外の科学雑誌も少し混じっている)。ちなみに、日本で出ている『日経サイエンス』の旧誌名は『サイエンス』だったが、本書の情報源となったアメリカで出ている『サイエンス』とは関係がなく、もう一つの有名科学誌『サイエンティフィック・アメリカン』の日本語版という位置づけ。知ってる人も多いと思うが、念のため。
 元は『SFマガジン』に連載されていたものなので、ちょっとだけSFのにおいがするが、内容的にはほぼ純粋な科学コラムと言っていい。巻末にそれぞれのコラムのネタ元になった文献の一覧表が載っているのも、科学者的こだわりを感じさせる。(もっとも、あとがきによれば、情報源となった雑誌を捨ててしまい、出典を確認するのにずいぶん大変だったらしい。)
 サブタイトルのとおり、短いコラムが175も収録されている。ひとつあたり1ページちょっと。しかもページの下3分の1はカット(宮武一貴)や注釈のスペースになっているので、実質はもっと短い。この短い文章の中に最先端の科学の話題を、素人にもわかるようにまとめる技術は大したものである。
 何しろ10年以上前の科学記事だから、今となっては最先端の話題とはほど遠いはずだが、今読み返しても意外なほど古い感じがしない(中には「スーパーカミオカンデ計画始まる」なんて、時代を感じさせる話題もあるが)。元々科学に疎くて、何が古くて何が最先端なのかわかってない、というのもあるだろうが。
 タイトルにもなっている「シュレディンガーの猫は元気か」は、QND(quantum nondemolition)=量子非破壊測定に関する話題。なんでも、量子光学において、測定される対象に観測の影響が及ばない測定方法なのだそうで、要するに例の「猫」を犠牲にしなくても箱の内部の状態がわかるということらしい。では不確定性理論の根拠はいったいどうなるのかという気もするが、正直なところ私の理解を超えていて何のことかよくわからないのである。ただ、非常に印象的なフレーズであることは確かで、この本全体のタイトルに選ばれたのも当然だろう。今でも、このフレーズを検索するとブログの記事のタイトルがいくつもヒットする。多くの人の記憶に残っているのだ。

 今年になって、14年の時を経て、このタイトルをもじった本が新たに出版された。中島沙帆子の4コママンガである。

シュレディンガーの妻は元気か 1/中島沙帆子(竹書房 バンブー・コミックス,2008)
 理系人間と結婚した女性を主人公にした4コママンガ。この夫のキャラクターというのが、いくら理系でもこんなやついるかよ、というくらい論理と技術でガチガチに固まった人間なのだが、作者自身の夫がモデルらしい。タイトルもその夫が考えたとか。『シュレディンガーの猫は元気か』の愛読者であったことは間違いない。
 マンガ自体は、ごく普通の女性(文系かつ体育会系)である妻が、まったく空気を読まない夫の言動に切れて怒るというのが基本パターン。そんなに気が合わないならなぜ結婚したのかというのが、誰でも思う最大の謎で、それ自体たびたびマンガのネタになっている。ところでこの夫は自然科学全般に興味を持ってるらしいのだが、専攻が何だったのかよくわからない。
 中島沙帆子が4コマ作家として世に出た『電脳やおい少女』は、「やおい」にはまったオタク女が、常識人の彼氏と正体を告白できないままつきあう、というパターンだったが、今回は男の方が変で(本人は普通だと思っているが)、女が(比較的)普通という逆パターンになっている。『電脳やおい少女』と一番の違いは、こちらはお互いに相手の正体を知り尽くした夫婦という設定であること。雰囲気的にはファミリー4コマに近くなっている。
 で、このマンガを見ると、女性から見た理系男のイメージというのが、なんとなくわかってくる(理系男を描いたマンガとしては、最近よしたに著『理系くん』が出ているが、あれは理系人間による自画像であって、女から見た理系人間というのとは少し違う)。まあ、私は理系ではないので、それがわかったからといってどうなるものでもないのだが。

シュレディンガーの妻は元気か(1) (バンブー・コミックス) (バンブー・コミックス)

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2007年3月15日 (木)

鉄子の旅

鉄子の旅1~6/菊池直恵(小学館・IKKI COMICS, 2005~2007)

 鉄道の本を読むのは結構好きである。そのうちの何冊かは、いずれこのブログでも取り上げたい。
 かといって、私にはいわゆる「テツ」の要素はほとんどない。だいたい、基本が出不精なので、わざわざ電車に乗ったり写真を撮ったりするために、遠くまで出かける人たちの気が知れない。
 私にとって鉄道というのは、「地理趣味」の延長なのだ。鉄道旅の本というのは要するに「紀行」だし、鉄道史の話は歴史地理の本として読んでいる。時刻表には興味はないが、「地図」の一種である路線図を見るのは楽しい。まあ、そういうことだ。
 それはともかく、菊池直恵の『鉄子の旅』第6巻(最終巻)が先日発売された。このマンガ、連載が始まってしばらくは単行本化されなかったのだが、2年ほど前に1、2巻が同時発売されてから、なぜか人気が出てきて今やアニメにもなるという話である。私は最初の2冊が発行された時から欠かさず買っていたのだが、まさかこんな人気が出るとは思いもよらなかった。
 このマンガのおもしろいところは、純粋「鉄男」である横見浩彦と、鉄道に対してニュートラルな菊池直恵との絶妙な組み合わせであり、視点の取り方だろう。常識人から見れば、横見がボケで菊池がツッコミだが、表面的には(というかテツ的には)、アグレッシブなのは常に横見で、もの知らずな菊池が振り回されているというアンバランス。だからこそ、鉄道好きもそうでない人間も楽しめる作りになっている。
 加えて、一見シンプルだが、部分的には非常に丁寧な絵の効果も大きい。このマンガ、メインであるべき列車は、一部を除いて、実はそんなに描き込んでいるわけではない(さすがにSLだけは力を入れて描いてるが)。しかしポイントとなる風景などは実に丁寧で、また、食べ物の描き込みはきわめて細かい。作者の興味のありどころがよくわかる(笑)。
 まあ、そんな理屈はどうでもいいので、要は、「なんとなく楽しめる」マンガだった、としか言いようがない。もともとストーリーなどないので、完結しても「話が終わった」という感じはしない。IKKI最新号でも読み切りで復活しているし、その内読み切りがたまって、また単行本になった、なんてことになってもおかしくない。
 アニメもこれから始まるらしいし、まだしばらくは楽しめそう。

鉄子の旅 6 (6)

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