思い出の本

2019年3月 8日 (金)

懐かしの<銀背>『第五惑星』

 久しぶりに復活した、懐かしのハヤカワ「銀背」を紹介するシリーズ。今回は、世界的な天文学者にしてSF作家フレッド・ホイルとその息子ジェフリイ・ホイルの合作。

五惑星/フレッド・ホイル、ジェフリイ・ホイル;伊藤哲訳(ハヤカワ・SF・シリーズ,1967)
 30年くらい前に同じタイトルのSF映画があったが、この小説はその原作ではない。
 映画の方はバリー・B・ロングイヤーの「わが友なる敵」(原題 Enemy Mine)が原作。映画の原題は原作と同じEnemy Mine。日本公開の際に原題と全然関係ない邦題をつけたので、こんなややこしいことになった。
 本書のタイトルは、原題Fifth Planetの直訳である。
 映画と全然関係ない本作のストーリーは、こんなもの――。

 20世紀の終わり頃、太陽系に接近してくる恒星が発見される。宇宙を放浪しているその恒星はヘリオスと名づけられ、2087年に太陽に再接近することが予想された。再接近時の太陽との距離は20天文単位、つまり天王星の軌道あたりを通過することになる。
 ヘリオスが接近するにつれ、この恒星がいくつか惑星を従えていることがわかる。最初に木星みたいな巨大惑星や冥王星みたいな小さな惑星が4個見つかる。
 イギリス人天文学者ヒュー・コンウェイは、5個目として地球型惑星を発見し、これをアキレスと名づける。さらに彼は、アキレスの表面に何らかの植物が存在していることもつきとめる。
 この発見を受けて、アキレスを探査するために、アメリカとロシアがそれぞれ宇宙船を送り込むことになる。双方とも探検隊は4人のチーム、計8人がアキレスに行くわけである。
 この作品世界では21世紀になっても相変わらず東西対立が続いている。冷戦の真っ最中に書かれた小説だから仕方がない。しかし東の大国は「ソ連」ではなく「ロシア」だし、大統領がいる。今の世界と同じである。もっとも、国名はロシアでも、この小説では相変わらず共産国らしい。
 それはともかく、この惑星アキレスへの探査ミッションを軸としてストーリーは進む。では、これは単なる宇宙探検物語かというと、全然そんなことはないのだった。

 本書の序盤3分の1くらいは、ヒュー・コンウェイの私生活がもっぱら中心になる。コンウェイの妻キャシーは美人だが知性に欠ける上に浮気性という困った女で、目下の愛人は宇宙飛行士のフォーセット。序盤は、キャシーとフォーセットの情事や、悪妻の所業に悩むコンウェイのどろどろしたドラマが続くのである。
 全体の3分の1くらい進んだところで、やっと宇宙船がアキレスに向けて出発。フォーセットも探検隊に加わっている。コンウェイはただの学者だから、もちろん宇宙へ行ったりはしない。
 中盤の3分の1くらいが惑星アキレスでの話。アキレスには植物だけでなく、「何か」がいて、人類の精神に干渉してくる。おかげでロシアの宇宙船は大破、探検隊員も次々と発狂したり原因不明の死を遂げたりして、8人の内4人が死ぬという惨劇に見舞われ、やっとのことで地球に逃げ帰る。
 終盤の3分の1は、再びコンウェイとキャシーの物語になる。
 宇宙飛行士のフォーセットはヘリオスから瀕死の状態で地球に帰ってくる。浮気妻のキャシーはフォーセットに一目会おうと病院に駆けつけるが、彼の死を見届けるだけに終わる。ところが、それからキャシーは変わってしまう。
 ネタバレしてしまうと、実はアキレスで探検隊を壊滅させたのは、惑星の住民である精神生命体、いわば「アキレス人」、人間の精神を操る力を持つ。そのアキレス人の1体が、地球偵察のためフォーセットに取り憑いてやって来たのだ。しかしアキレス人に寄生されたことが原因でフォーセットは死んでしまう。どうやら高度な知能や精神の持ち主であるほど、精神生命体に憑依されると激しい拒否反応を起こすらしいのだ。
 フォーセットの死の直前、アキレス人は側にいたキャシーに乗り移ったのだった。キャシーはバカなので、アキレス人に取り憑かれても健康には影響がない。キャシーは理知的で神秘的な女性に変貌してしまい、コンウェイを驚かせた後に自分の正体を打ち明ける。コンウェイは、前のキャシーよりも、宇宙人になってしまった今のキャシーの方を好ましく感じるのだった。
 この間、実はヘリオス探検隊の失敗の原因を巡ってロシアとアメリカが対立、戦争の危機が進んでいた。キャシーに取り憑いたヘリオス人は、人々の不安を種に、実際に核戦争が起きる幻影を送り出す。幻影は連鎖反応的に世界に広がり、大混乱を巻き起こす。
 この事態の後、アメリカ政府はヘリオスで実際に何が起きたかをやっとつきとめ、フォーセットと最後に接触したキャシーに目をつけて、追跡を始める。地球が野蛮な惑星であることを確認したキャシーは、アキレスに帰ろうとする。当局に追われるコンウェイとキャシー。コンウェイはキャシーをヘリオスに帰すことができるのか…。
 というような話で、宇宙探検物語とはほど遠い。まあ、そういう要素も確かにあるのだが。実は、浮気ばかりしているアホな嫁(ただし普通の人間)と、完璧に理性的で頭脳明晰な嫁(ただし中身は宇宙人)と、どっちがいいかというテーマの話――とも言える。

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2018年3月 7日 (水)

懐かしの<銀背>『メカニストリア』

メカニストリア/エリック・フランク・ラッセル;深町真理子ほか訳(ハヤカワ・SF・シリーズ,1969)
 イギリス人だけど、時としてアメリカ人以上にアメリカ的な作品を書くSF作家、ラッセルによる宇宙SF。原書が発行されたのは1956年
 ジェイ・スコアというアンドロイド宇宙飛行士を主人公とした、4編からなる連作短編集。ジェイ・スコア登場編である最初の「非常パイロット」を除く3編は、地球人、火星人、アンドロイドからなる混成宇宙探検隊があちこちの惑星を訪問するという話になっている。原題は、"Men, Martians and Machines"と、Mの頭韻を踏んだタイトルになっているが、この探検隊の構成を表しているわけである。

 最初の「非常パイロット」は、上にも書いたように、ジェイ・スコアというキャラクターを紹介する話。ジェイ・スコアがアンドロイドだというのは最後まで読者には伏せられていて、人間には到底生き延びられないような危機を彼がくぐり抜けてそれが明かされるというオチになっている。
 日本語版表題作になっている「メカニストリア」は、機械生命の惑星に探検隊が着陸する話。隊員の拉致・監禁・脱出、そして逆襲。探検隊はそこらじゅうを破壊してまわって引き上げていく。
 次の「共生」では、植物と共生する知的生命の住む惑星に探検隊が着陸。隊員たちは周辺を歩き回ったあげく、現地生命の襲撃を受け、そこらじゅうを破壊してまわって引き上げていく。
 最後は「催眠惑星」。幻覚を生み出す生命体の住む惑星に探検隊が着陸。行方不明になった隊員を探してまわり、あげくに、やっぱりそこらじゅうを破壊してまわって引き上げていく。

 というわけで、太陽系からやってきた探検隊があちこちの惑星に行っては、原住民とトラブルを起こし大暴れして行ってしまうというパターンばかりなのだった。
 それぞれの惑星の住民の視点から見たら、よその星の連中が頼まれもしないのにやってきてそこらへんを勝手に歩き回り、あげくに破壊と殺戮の限りを尽くして帰って行くという、迷惑きわまりない話である。
  元は第二次世界大戦中の1940年代に発表された作品で、妙に好戦的なのはそのせいかもしれない。それにしてもこの力まかせのストーリーの味わいはやはりアメリカ風。

Mechanistria

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2018年2月 8日 (木)

懐かしの<銀背>『300:1』

 懐かしのハヤカワ・SF・シリーズとハヤカワ・ファンタジイを紹介する新企画、第2弾。

300:1/J・T・マッキントッシュ;一ノ瀬直二訳(ハヤカワ・ファンタジイ,1960)
 ハヤカワSFシリーズがまだ「ハヤカワ・ファンタジイ」と名乗っていた頃の本。著者のマッキントッシュは邦訳はこの1冊しかない。忘れられた作家と言っていいだろう。
 太陽活動が突如極大化し、このままでは地球の全生命が死に絶えることが不可避となった近未来。生き延びるために宇宙に脱出した人々の苦闘を描く作品。梶尾真治の『怨讐星域』と基本設定がほぼ一緒。
 人類は生き残りのため、限られた時間で小型宇宙艇を大量製造、パイロットも即席養成し、火星に脱出することにする。
 宇宙艇に乗ることができるのは、300人に一人の割合。誰を乗せるかは、パイロット自らが選択する。素人にそんなことさせるなよと思うが、そういう話なのだから仕方がない。
 主人公はそんな即席パイロットの一人、ビル。アメリカの小さな町で、自分の宇宙艇に乗せる10人を選ぶため、日々町の人々を観測している。
 ビルが最後に10人を選んで出発するまでの話が第1部「300:1」。魅力的なヒロイン(になるはずだったキャラクター)パットをあっさり殺してしまう展開は少々驚き。
 第2部「1000:1」では、粗製乱造した小型宇宙艇が、実はほとんど火星に辿りつく能力を備えていないことが明らかになる。無事火星に到着できるのは、1000隻に1隻くらいの割合なのだった。一方、きちんとした大型脱出船は別にあって、本当の重要人物たちはそっちに乗っている。ひどい話である。
 ビルの乗る宇宙艇も航行中にもいろいろあって、乗客の一人が途中で死んでしまう。が、強運の持ち主だったらしく最後はなんとか火星着陸に成功する。
 この時代、火星にはすでに宇宙基地が建設されていて7千人ほどが滞在している。そこへやっとのことでたどり着いた地球の生き残りが1万数千人。この時代の地球人口が40億人程度だとして、脱出したのが1000万人台、その1000分の1だから、計算は合っている。こうして人類の生き残りは、火星に2万人余りだけとなった。
 ここまでが全体の約半分。
 後半は第3部「∞:1」。いきなり大嵐が起きて、貴重な生き残りがさらに何千人も死んだりするが、メインのストーリーは、火星に脱出した人々の中に不良分子が混じっていて、いろいろと内輪もめをする話。特にたちの悪いボス格がいて火星の社会を乗っ取ろうとするのだが、それが第1部でビルの選んだ一人。
 要するに、ビルの人を見る目のなさが、ごたごたの大きな要因になっている。第1部で死んだパットのセリフに「人間は変えられるか、自分から本性をむきだすか、それとも最初に間違って判断されたりするわ」というのがあるが、そのとおりだったのだ。
 そんなわけで第3部では、主要な問題が生き残りよりも権力闘争になっている。こんな様子ではどうも火星の人類も先行きは希望が持てないようだ。だから「∞:1」(実質ゼロ)なのか。
 この後半、はっきり言って大して面白くない。

 というわけで、半世紀以上前に『怨讐星域』を先取りした作品だった。アイデアでは先見の明があったかもしれないが、物語の充実度や面白さでは、今の小説とはかなり差があって、やはり昔のSFという印象である。

Oneinthreehundred

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2018年1月 7日 (日)

懐かしの<銀背>『宇宙行かば』

 今年から新たに、オールドSFファンには懐かしい<ハヤカワ・SF・シリーズ>を、時々取り上げることにしたい。
 現在では装いも新たに<新★ハヤカワ・SF・シリーズ>として出版されているが、ここで取り上げるのは、もちろん1974年で終了した旧シリーズ、通称「銀背」。ただし、その前身の<ハヤカワ・ファンタジイ>は含める。そして、原則として、「その後文庫化されてないもの」、つまりこのシリーズでしか読めないものが対象。
 ということで、第1弾は、名前も懐かしいマレイ・ラインスターである。

宇宙行かば/マレイ・ラインスター;高橋泰邦訳(ハヤカワ・SF・シリーズ,1963)
 1950年代の段階でのリアルな宇宙開発を描いた作品で、元はテレビシリーズのノベライズ。宇宙飛行士マコーレイを主人公にした6章からなる長編小説の体裁をとっているが、実質的には6話からなる連作短編集である。ただし、各エピソード固有のタイトルはついてない。
 ただし、1、4、5、6章(実際には「章」という言葉はついてないが)にあたる部分が<「宇宙行かば」シリーズ>として、『SFマガジン』に掲載されたことがあり、その時は当然個別のタイトルがあった。第4話「対決」(62年5月号)、第1話「大気を裂いて」(62年6月号)、第5話「太陽に挑む」(63年1月号)、第6話「小惑星軌道」(63年8月号)。
 なお、本書のタイトルについて、本のどこにも読み方が書いてないのだが、『SFマガジン』掲載時は、「宇宙」に「そら」とルビがついていたので、この本の場合も「そらゆかば」と読むのだろうと思う。「うちゅうゆかば」ではなんだか語呂が悪いし…。
 各エピソードの内容は次のようなもの。

 1は、若いマコーレイによる、人類初の弾道飛行。打ち上げ地点にまた降りてくるのはなぜなのだろう。
 2では、再着陸可能な新型宇宙船の初飛行にマコーレイが挑む。要するにスペースシャトル。ただしラムジェットエンジン装備。訳文中に「噴射式離陸促進装置」というのが出てくるが、今なら「離陸用ブースター」と言うところだろう。
 3、早くも宇宙ステーションが建設中。その建設工事中に、若いクルーがちょっとしたミスから漂流を始める。宇宙での漂流者をどのようにして救出するか、というこの頃の宇宙ものによくあるパターン。
 4の舞台は月面。第1章から十数年は経っているようだが、それにしても恐ろしく宇宙開発のペースが早い。いがみあう二人の男が月面で遭難の危機にあう。なぜか放棄されていた酸素ボンベを見て、上司のマコーレイは殺人の可能性を疑う。結局、二人とも立派な男でした、というオチ。
 5では、太陽フレアに耐えるための最新式スクリーンを備えた宇宙船が、金星へ飛び立つ。ところが、スクリーンの開発者である科学者が、宇宙船への乗り組みを拒否してゴネ始め、マコーレイがそいつを無理矢理宇宙船に乗せるという話。
 最後の6では、火星へ飛行する宇宙船の中で盗難事件が起きる。犯人はクルーの一人なのだが、実は彼は脱獄囚で、兄とすり替わって乗組員になりすましていたということが明らかになる。そんなアホな、と言いたくなる話だが、この当時のセキュリティチェックはそんないい加減だったのだろうか。時代を感じさせる。

 1950年代にはリアルな未来予測だったはずの宇宙開発物語が、今ではツッコミどころだらけの話になっている。これでは文庫化されないのも無理はないか…。
 しかし、同じ時期に発表されたリアルな宇宙開発ものでも、クラークの『宇宙への序曲』(1951年)などは今でも名作とされ、最近も新訳が出ている(2016年1月28日の本ブログで紹介)。この差は何なのか。
 思うに、マレイ・ラインスターの作風が元々こういう地味でシリアスな話に似合わなかったのではないか。ノベライズの作者の人選を誤ったとしか言いようがない。(なお、ラインスターは『タイム・トンネル』のノベライズ版も書いているが、こちらは元々突拍子もない話なので、それほど違和感がないのだった。)

Sorayukaba

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2015年1月27日 (火)

陳舜臣追悼

 先日、陳舜臣が亡くなった。本ブログでもこれまで何回か取り上げてきたが、陳舜臣はブログ主が一番よく読んでいる作家の一人である。これまで読んだのは、冊数にして120冊くらいになる。
 オールドSFファンとしては、その前に亡くなった平井和正の方を先に取り上げるべきかもしれないが、手元に適当な本がなかったので、取りあえず後回し。今回は陳舜臣追悼として、一番好きな陳舜臣作品を取り上げる。

秘本三国志(1~6)/陳舜臣(文春文庫,1982)
 陳舜臣の歴史小説には、オーソドックスな歴史小説ももちろん多いが、ブログ主にとっては、変化球的な作品の方が印象に残る。マルコ・ポーロを探偵役にした歴史ミステリ『小説マルコ・ポーロ』とか、遼の滅亡と西遼の建国をマニ教徒の秘密ネットワークと絡めて語る『桃源郷』(2008年3月23日のエントリーで紹介)とか。そして、この『秘本三国志』。思い切り変化球の三国志物語である。元は1977年に単行本として刊行されたもので、その後中公文庫や集英社など、何種類もの版が出ているが、昔ブログ主が読んではまったのはこの文春文庫版。
 この話、まず主人公が、劉備でも曹操でもない。漢中の五斗米道教団の長である張魯の側近、陳潜。張魯は三国志にも出てくる人物だが、陳潜は架空の人物である。
 物語は、陳潜が張魯の母少容(この人も重要登場人物・永遠の美女)の指示を受け、太平道の教祖張角と接触するところから始まっている。時は太平道すなわち「黄巾賊」の蜂起の直前。『三国志演義』では悪役として描かれている五斗米道・太平道が、序盤の物語の中心になるわけである。
 陳潜は五斗米道と太平道との連絡役として中国各地を旅しながら、三国志の鍵を握るさまざまな人物と関わりを持つ。
 例えば、陳潜がとおりかかった亭(あずまや)で3人の若者たちが天下を論じているのを耳にするが、その3人というのが、劉備、関羽、張飛だったとか。あるいは、黄巾の乱が始まった後に、陳潜は官軍の警戒網に引っかかって司令部に連行されるのだが、そこの将軍が常人離れした雰囲気を備えた人物で、曹操と名乗るとか。
 もっとも、物語が陳潜を中心に進むのは、1巻くらいまで。後の方になると劉備や曹操、諸葛亮などが中心になり、それぞれの視点で物語が進んでいく。ただ、陳潜や少容は出番は減るが狂言回し役みたいな形で、呂布や曹操のところにも諸葛亮のところにも出没し、乱世の裏側で特殊な役割を果たし続ける。NHK人形劇「三国志」の紳々と竜々みたいなものである(古いか)。
 中心人物は物語の進行につれて変わっていくものの(これは、原典『三国志演義』そのものがそうだ)、著者独自の視点は物語全体をとおして貫かれている。

 ところで本作の大きな特色のひとつは、大胆にアレンジされた人物像にある。例えば、序盤から登場する劉備。この作品の劉備像は、他の三国志物語のそれとは大きく違っている。
 上に書いたように、陳潜はとおりがかりにたまたま劉備たち3人が天下を論じているのを見かけるのだが、衝撃的なのが、その後の再登場シーン。
 陳潜の加わる一行が孫堅の元に嫁入りする令嬢を送り届ける途中、花嫁を奪いに現れるのが劉備一党である。「女を置いて、さっさと消え失せろ!」と、ヤクザなセリフを吐く劉備。地の文でも「根っから品が悪い」などと描写されていて、どう見ても、ただのならず者である。
 しかし考えてみるとこれはむしろ、あまたある三国志小説の中でも、正史に描かれた姿に近い劉備ではないかとも思う。正史にも確かに、劉備は若い頃ヤクザ者だったと書かれているのだ。
 この作品の劉備は、ガラが悪いだけではない。悪知恵もまわる。曹操と手を組んで袁紹を滅ぼすための工作を行うなど、野望のために手段を選ばない、ある意味曹操以上の奸雄である。
 このヤクザで狡猾な劉備はほんの一例。他にも、色狂いの関羽とか、サディスト張飛とか、戦は素人の諸葛亮とか、実は平和主義者の孟獲とか。イメージを裏切るキャラクターの続出は、この作品の読みどころである。
 もっとも、劉備の例にも見るように、何らかの史実上の根拠のある描写がほとんどで、むしろ「演義」の方が虚像なのかもしれないが。曹操の大人物ぶりは、いかにも史実に近い書かれようである。

 もうひとつ、この小説のすごいところは、表面上は史実に忠実に出来事を追いながら、その裏事情を大胆に創作しているところ。
 上にも書いた「劉備と曹操は裏で手を組んでいた」という設定など、その典型。劉備は曹操を裏切るふりをして八百長を演じていたのだ。
 それを言えば、史上有名なあの戦いとかあの戦いとかも、この話の中では八百長だったりする。三国志物語ではよくあるパターンだが、この作品は諸葛亮が五丈原で死ぬところで幕を閉じる。その時司馬懿が、諸葛亮が死んでいると百も承知の上で、だまされたふりをして撤退するところで、物語は終わる。そもそもこの五丈原の戦いそのものが、諸葛亮と司馬懿の間で八百長をする話がついていたのだった。最後まで八百長である。

 ただ、こんな意表をつく裏事情やイメージ破りの人物像は、これまでの三国志物語の常識を知っていた上で、それをひっくり返すところに面白さがあるので、何も知らずに読んでは意味がない。陳舜臣には同じく三国志時代を舞台にした『諸葛孔明』や『曹操』といった長編もあるが、そちらはこの作品みたいな大胆なアレンジはしていない。初心者にはそちらがおすすめ。この『秘本三国志』を楽しむには、読者がある程度三国志を知っていることが前提である。
 アマゾンのレビューに「三国志というものをまったく知らない人は読んではいけない」と書いている人がいたが、まったくその通り。普通の三国志を知る前にこの作品を読むのは、もったいなさすぎる。

Hihonsangokushi

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2013年3月 7日 (木)

言語学のたのしみ

言語学のたのしみ/千野栄一(大修館書店,1980)
 今回は、思い出の本。というか、言語学本マイベストと言ってもいい。
 スラブ言語学の第一人者だった故千野栄一(2002年没)の言語学エッセイ。そのタイトルのとおり、初めて言語学の面白さを教えてくれた本である。
 帯の惹句にいわく、「ラーメンの命名論、宇宙人との対話、地名・人名考から言語の普遍性の研究まで、軽妙な筆で言語学の愉しさと奥行を語る17章」
 バラエティ、アイデアの奇抜さ、それでいて濃厚な学術の香りといったものが、今も強く印象に残っていて、自分にとってこれにまさる言語学の本はちょっとない。

 内容を見てみる。
 帯に書いてあるとおり全17章を、第1部「言語学の愉しみ」(1~10章)、第2部「言語学ア・ラ・カルト」(11~17章)の2部構成で収録。
「言語学」といっても特に学問的な大系性があるわけではなく、特に第1部は「言語ネタエッセイ集」という方が実態に近い。
 特に序盤が意表をつくテーマばかりで秀逸。
 1「アンドロメダ星人との対話」2「長い長いヒドラの話」3「「元祖ゴキブリラーメン」考」4「タモリの言語学」(ちなみに、タモリは本書が出版された当時、まだメジャーになり始めたばかりだった)と、タイトルだけでも読まずにいられなくなる。
 5「地名学と言語学」以降は、6「人名学と言語学」、7「ことばの旅」と、わりと普通になる。ただ、地名や人名に潜む面白さを語る手並みは鮮やか。著者の専門がチェコ語などスラブ系言語なので、ネタも東欧のものが多い。
 8「現代のロゼッタ石」は、80種類の言語の実演を収録したレコードを作成する話。東京で80の言語の語り手が見つかってしまうというのが、考えてみるとすごい。
 9「日本語と日本人」は日本語の特性について述べたもので、第1部では一番まともな言語学。
 10「ことばの不思議」は、言語によって違う音素――つまり、子音と母音の数が言語によってどれだけ違いがあるかという話。カフカス地方のウビフ語という言語には、子音がなんと80種類もある(日本語は16で英語は20と言われる)。ところがこのウビフ語、母音は2種類しかないのだとか。蛇足だが、このウビフ語という言語は、本書が出た時点ではまだかろうじて存続していたのだが、1990年頃に最後の話者が死んでしまって、今や絶滅言語になっているとか。
 第1部が個別言語を扱った話、つまり具体的なテーマが多かったのに対し、第2部はより理論的、あるいは学術的な話が多い。
 11「言語は変化する」12「言語の普遍性」言語学全般のテーマ。さらに13「プラハのヤーコブソン」14「プラーグ学派の詩学」は言語学史と、これぞ言語学、という印象。
 15「言語記号は記号か」16「情緒の言語」も、それぞれ言語と記号、言語の機能という言語学の大テーマ。最後は17「ソシュールとソビエト言語学」、タイトルのとおり。
 しかし内容はそんなに固いと思えない。いや、ソシュール言語学がソ連にどのように受け入れられたか――なんてテーマが固くないわけはないのだが…。前半から読んでいくと、後半にさしかかる頃には脳が言語学に取り憑かれていて、固い話も固いと思えなくなっているらしい。
 著者もあとがきで書いている。「第Ⅱ部に行くと、やや専門的な部分もあるので、ぜひ最初から読んでいただきたい」と。
 アンドロメダ星人やヒドラの話を読んでいく内に、脳内に変な汁が分泌されて、言語についての話なら何でも面白いと感じるようになってくるのだと思われる。この現象には永続性があるらしく、今でも影響が続いていて、本ブログにも「言葉」というカテゴリーがあるのは見てのとおり。
 といっても、言語学を本格的に勉強しようなどとは毛頭思わず、あくまでオタク的興味に終始しつつ今に至っているわけだが。

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2012年12月 3日 (月)

みみずく偏書記

みみずく偏書記/由良君美(ちくま文庫,2012)
『みみずく偏書記』は、私が初めて読んだ由良君美の本である。青土社から刊行されたハードカバーだった。タイトルのとおり本を巡るエッセイを集めたものだのだが、そのテーマの多様さ、話題の幅広さ、分野を超えた博覧強記ぶりに、この人はいったい何が専門なのだろうと疑問に思ったものである。
 実は専門は英文学だということは、著者紹介を見たらすぐわかるのだが、「英文学者」という枠には到底収まりきらないイメージがあった。澁澤龍彦がフランス文学を、種村季弘がドイツ文学をそれぞれ専門としながら、その専門を遙かに超えた作品を送り出していたように。
 この3人は幻想文学、異端文学のよき理解者であり、紹介者であったことも共通している。実のところ、由良君美の著作や訳書は澁澤・種村に比べるとだいぶ少ないのだが(というか、この二人が多すぎるとも言えるが)。白水社から出ているアンソロジー『現代イギリス幻想小説』や、河出文庫の『イギリス怪談集』は、由良君美の編訳によるもの。
 つまるところ、由良君美という人は、澁澤龍彦、種村季弘と並べてもいいくらいの人だった――と言いたいのである。

 それはともかく、『みみずく偏書記』は、20ウン年の時を経て、今年ちくま文庫から再刊された。おまけに、読んだことのなかった『椿説泰西浪曼派文学談義』まで、ほぼ時を同じくして平凡社から再刊されたのは嬉しい限り。
 ところで本書の内容だが、上にも書いたとおり、一口に「本に関するエッセイ」と言っても、実に様々な文章が集められている。
 約50編の短いエッセイが7章に分けて収録されている。ほとんどが『図書新聞』、『日本読書新聞』、『週刊読書人』、『出版ニュース』など、出版関係の新聞雑誌に掲載された記事が元になっている。
『図書新聞』の連載記事をまとめたのが、最初の章「読書狂言綺語抄」(このタイトルのつけ方も、由良君美独特の味)。連載とはいえ、内容は実にさまざま。
 最初の「書狼に徹して書物漁り」で自分の読書を戯言風に語る。かと思うと、次には柳田国男を論じたり、読書メモの方式を考察したり。ウィリアム・ブレイクの狂詩を紹介して英文学者らしさを見せたかと思うと、『フランケンシュタイン日記』なんて得体の知れない偽書の詳細なレビューを載せる。本書そのものを凝縮したような、バラエティに富んだ章なのである。
 二番目の章は本書のタイトルと同じ「みみずく偏書記」。これも元は『図書新聞』の連載。ほとんど誰も聞いたことがないような、和洋の著者を取り上げている。ジョン・ニュートン、ジョージ・メレディス、郡虎彦、湯浅半月、ウィリアム・ジョイス。確かに、思い切りマイナーな方向に「偏って」いる。
 次の「書志渉猟」は、けっこう本格的な評論を集めているが、そのテーマがやはり一筋縄ではいかない。コールリッジの大百科事典計画、夢野久作の父親の話、動物磁気説のメスメルの日本への紹介――など。
 後半に入って、「わたしの読書遍歴」、「反能率的読書法」と、読書論的なエッセイを集めた章が並ぶ。この中では、日本の出版や言語の現状を皮肉をこめて語る「みみずくの眼」が面白い。
「辞書とのつきあい」の章では、英文学者らしく英語に関する辞書の話が並ぶが、おしまいに『西脇順三郎全詩隠喩集成』を「東西空前の書物」として紹介しているところが、「偏書記」らしいところ。
 最後の章「書物についての書物」は、タイトルどおり、「本についての本」の書評を収録。といっても、単純な書評集とか読書論とかは出てこない。山口昌男『本の神話学』、リチャード・ド・ベリー『フィロビブロン』、寿岳文章『書物の世界』など、いかにも通好みの本を取り上げている。

 全体的に、誰でも知ってるような本はほとんど出てこないのが、本書の特徴なのである。初めて読んだ時、本書で言及された本で読んだことがあるのは、『本の神話学』くらいだった。恐ろしいことに、長い年月を経た今も、その点は変わってないのである。
 しかし、自分の知らない書物たちの深遠な世界を垣間見るのは、ちょっとした興奮を伴う面白さがある。今回、文庫化されたこの本をパラパラと読み返して、その面白さも思い出したのだった。

Mimizuku

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2012年11月25日 (日)

ボリス・ストルガツキー追悼記念

 ロシアの生み出した最高のSF作家は、ストルガツキー兄弟だった。そのことに異論のある人は少ないだろう。
 11月19日に、そのストルガツキー兄弟の弟の方であるボリス・ストルガツキーが死去した。兄のアルカジイは20年ほど早く、1991年に死んでいるので、とうとう兄弟ともこの世からいなくなってしまったのだ。
 もっとも、兄が死んだ後、ボリスが単独でSFの新作を書くことはなかった。アルカジイの単独作品はあるみたいなので、あるいは、執筆は兄の主導だったのか。その意味では、アルカジイが死んだ時、SF作家「ストルガツキー兄弟」も死んでいたのかもしれない。
 ともあれ、今回はストルガツキー兄弟を追悼して、この作品を取り上げることとする。

ストーカー/アルカジイ&ボリス・ストルガツキー;深見弾訳(ハヤカワ文庫SF,1983)
 何の予備知識もない人がこのタイトルだけ聞くと、まさかこんな話だとは想像もしないだろう。
 奥付を見て改めて気づいたが、これは昭和の出版物だったのだ。
 この頃、まだストーカーという言葉は日本では一般的でなかった。ストーカーにかかわる事件がたびたび新聞をにぎわせるようになる――とわかっていたら、邦訳題名は違ったものになっていたかもしれない。少なくとも、これが訳されたのが21世紀に入ってからだったら、訳者は違うタイトルを選んでいたのではないか。
 ちなみに原題を直訳すると『路傍のピクニック』。この邦題でもよかった気がするが、それはそれで、やはりこんな話だとは誰も想像しないだろう。
 もっとも、タルコフスキーがこの小説を原作として制作した映画『ストーカー』は、原題も<Сталкер>="Stalker"である。「ストーカー」と呼ばれる職業の男が主人公なのだから、このタイトルはごく自然なものではあるのだ。言うまでもなく、このタイトルのストーカーは、本来の意味――「密猟者」である。
 タイトルの話ばかりになってしまったが、物語そのものについては、映画で知った人も多いだろう。ただ、タルコフスキーの映画とこの原作とでは、ストーリーはだいぶ違う。(もっとも、映画の脚本はストルガツキー兄弟が自分で書いている。)

 物語の基本設定は、おおまかに言うと次のようなもの。
 ある時(20世紀末頃か21世紀と思われる)、正体不明の異星人が地球を訪れ、人類と接触することもなく、ごく短時間滞在して去っていった。その異星人の滞在した場所に、5ヵ所の「来訪ゾーン」が出現する。そこには人類の知識を超えた得体の知れない「何か」が大量に残されていた。
 例えば、<電池>、<青い霊薬>、<ムズムズ>、<黒い飛沫>、<スポンジ>、<炭酸粘土>、<ブレスレット>。危険な<魔女のジェリー>や<死のランプ>。「ゾーン」の中に踏み込んだ人間を待ち受ける<肉挽き機>、<蚊の禿>、<浮かれ幽霊>、<旅烏のディック>など。そして究極のアイテムである<願望機>または<黄金の玉>…。これらの「もの」や「現象」の多くは、描写がほとんどないので、想像するしかない――。それが「ゾーン」のわけのわからなさを増幅している。
 登場人物の一人が作品中でこの状況を説明している。ピクニックに来た人々が、道ばたでキャンプをはり、ゴミや道具を残して去っていく。野の虫たちは、残されたものを見てどう感じるだろうか――(原題はここから来ている)。
 未知のテクノロジーが入手できるかもしれない宝庫であると同時に、命にかかわる危険に満ちた「ゾーン」は、国連管理地区とされ、国連軍が人の出入りを厳重に監視している。
 それでも、「宝」を求めて非合法に「ゾーン」に忍び込む人間たちがいた。それが「密猟者=ストーカー」なのだった。
 ものすごく魅力的な舞台設定である。この設定でホラー、サスペンス、ミステリ、大冒険小説、どんなエンタテインメントも書けそうだ。だけど、単純なエンタテインメントにしないのがストルガツキー(というか、ロシアの作家全般の傾向だが)。

 主人公は、「ゾーン」に近接するハーモントという町に住むレドリック・シュハルト。物語の舞台となるハーモントは、どうやら北アメリカ、アメリカ北部かカナダ南部のあたりにあるらしい(ハーモントの市民がデトロイトに移住しているという話が作中に出てくる)。「ゾーン」は国連管理地区なので、ロシア人など他国人も出てくるが、シュハルトをはじめ、登場人物のほとんどは、名前からして北アメリカの人間である。
 登場した時のシュハルトは、まだ若く独身で、「ゾーン」を調査する研究所の一員でありながら、裏稼業としてストーカーをやっている。物語が進むにつれ、シュハルトは結婚し(でき婚)、障害のある娘が生まれ、研究所をやめて専業のストーカーとなり、何人もの仲間の死を目撃し、逮捕されて刑務所に入り、出所してまたストーカーを始め――要するにどんどん道を踏み外していく。
 最終章、そんなシュハルトが、若い仲間アーサーとともに、人の望みをかなえるという秘宝<黄金の玉>を探して「ゾーン」の奥深く分け入って行くところが物語のクライマックス。(タルコフスキーの映画はこの最終章が原型になっている。)
 一方では、「ゾーン」の住民が移住した地域で、死亡率や事故の急増、自然の異常の続発といった謎の異変が進行していることもちらっと語られるが、著者たちはその点には深入りしない。そこまで書いていたら、この長さでは終わらないだろう。
 この小説はあくまで、シュハルトをはじめとして、「ゾーン」を巡るさまざまな人々の個人的なドラマの集積なのだ。舞台設定は優れてSF的な魅力に満ちているが、奇想天外な展開や超科学的な真相の解明などはない。ストルガツキー兄弟のSFにそういうものを期待してはいけない。
 そういう話なのだと心得て読めば、この作品は、ストルガツキー兄弟の作品の中では、一番物語として面白く魅力的で、かつ話がわかりやすい。ストルガツキー兄弟の――というか、ロシアが生み出したSFの一つの頂点と言ってもいい。
 ところでこの作品、かつてソ連政府によって出版禁止になっていたことがあるそうだが、いったいどのへんがソ連共産党の気に入らなかったのか、さっぱりわからないのである。舞台がアメリカだからか?

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2012年9月12日 (水)

ク・リトル・リトル神話集

 前回に引き続き、国書刊行会の本から、思い出の1冊。

ク・リトル・リトル神話集/荒俣宏編;広田耕三ほか訳 (国書刊行会・ドラキュラ叢書第5巻,1976)

 日本での「Cthulhu」の表記は、何種類あるのかわからない。
 ローマ字表記の言語ならそのまま書けばすむのだが、発音どおり書かなければいけないカタカナのややこしさである。とおうか、この邪神の名前をどう発音するか、本家のアメリカでも諸説あるのが最大の原因なのだが。
 もっとも一般的というか、古くからのファンになじみ深いのは「クトゥルー」で、青心社や早川書房などの本に多い。東京創元社などが使っている「クトゥルフ」も、今ではこちらもかなりの勢力になってきている。他に「クートゥリュウ」や「クスルウー」の表記も。
 公式には、「人間には発音できない音」なので、どの表記も正しくないと言えるし、どれでもいいとも言える。(なお、「Cthulhu」の読み方については、このサイトに詳しく書いてある。)

 そして、「ク・リトル・リトル」は主に国書刊行会で使われていた表記である。――というか、本書の編者荒俣宏が使っていた表記、というべきだろう。同じ国書刊行会でも別の人の著作では別の表記が使われていることもあるのだから。
 「ク・リトル・リトル」は、なぜそう読むのかさっぱりわからないという点では際だっていて、おまけにどこか妖しげで禍々しい響きも持っている。こういう表記もありなのではないかと思う。ただ、口に出していうのはちょっと変な奴だと思われるかもしれない。
 本書はその「ク・リトル・リトル」がタイトルに使われた初めての本。というか、日本で初めて発行された、クトゥルー神話専門のアンソロジーである。最初の本として、「クトゥルー」ではなく、「ク・リトル・リトル」という、「なんじゃこれは?」と思わせるような表記を使ったのは、成功だったのではないかと思う。

 表記関係の話が長くなってしまったので、内容をかいつまんで紹介する。4部構成で、収録作は10編。神話の元祖H・P・ラヴクラフトの単独作品は収録されていない。ラヴクラフトとオーガスト・ダーレスの共作が3編。ラヴクラフトの弟子筋からヘイゼル・ヒールド(2編)、ゼリア・ビショップ、R・B・ジョンソン。共に神話を作り上げた同志とも言える作家として、ロバート・E・ハワードとクラーク・アシュトン・スミス(2編)。そして「先駆者」R・W・チェンバースの作品が1編。ラムジー・キャンベルやブライアン・ラムリイといった、「クトゥルー神話作家」の大物が入ってないのが今から見るとやや意外である。

 第Ⅰ部「発端」は、ラヴクラフトとダーレスの共作「アルハザードのランプ」の1編だけ。狂気のアラブ人アブドゥル・アルハザードの墳墓から発掘されたランプを手にした青年が、太古の世界や邪神の息づく街々を幻視し、それを小説にする。彼の一連の小説はいつか「ク・リトル・リトル神話」と呼ばれるようになった…という、ラヴクラフト自身の生涯のパロディである。
 第Ⅱ部「超宇宙の邪神」は、神話の「主役」、ガタノソア、ハストゥール、イグ、ラン-テゴスといった邪神たちが登場する物語4編。作者はラヴクラフトとダーレスの共作が1編の他は、ヘイゼル・ヒールドとゼリア・ビショップによるもので、話がちょっとワンパターン気味。
 第Ⅲ部「魔書の啓示」は、呪われた禁断の書が登場する物語4編。「ネクロノミコン」、「無名祭祀書」、「黄衣の王」、「エイボンの書」…。
 作者はまたまたラヴクラフト&ダーレスに、ロバート・E・ハワード、R・W・チェンバース、クラーク・アシュトン・スミスと、ファンタジー小説史上に名を残す作家たちで、さすがに第Ⅱ部の作品と比べると格段にうまい。
 なお、R・W・チェンバースは上にも「先駆者」と書いたように、ラヴクラフト以前の作家で、ここに収録された作品「黄の印」は本来はクトゥルー神話とは無関係な単独の作品。後から神話大系に組み込まれたのである。だから怪奇小説としての完成度は非常に高い。
 また、スミスの作品は、前に紹介した『ヒュペルボレオス極北神怪譚』(2011年12月18日)にも収録されていた「白蛆の襲来」。これも本来は別のシリーズの作品である。
 第Ⅳ部は「怪物の侵寇」で、2編を収録。いずれも禍々しい怪物が登場する話で、第Ⅱ部とどこが違うかというと、こちらは「邪神」ではなく、ただのモンスターなのである。
 R・B・ジョンソンの「地の底深く」は、地下鉄のトンネルに出現する食人鬼の恐怖を描く。作者はこの作品1編だけで有名らしい。
 最後の作品はクラーク・アシュトン・スミスの「墳墓の末裔」、ゾンビものである。冒頭に「ネクロノミコン」が引用されている以外は、クトゥルー神話との関連性は特にないが、話全体の雰囲気には似通ったものがある。

 本書は別に傑作揃いというわけではない。だが、クトゥルー神話の邪神や魔書、怪物が典型的な形で登場する上、先行作家や同時代の作家の作品も取り込んでいく神話の拡張性、追随する作家たちのパターン化された作風などをうかがい知ることができる。
 クトゥルー神話の全体像をコンパクトにまとめた入門編アンソロジーとして、今でも意義は高いと見る。本書は現在も新刊で手に入るロングセラーになっている。

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2011年8月15日 (月)

小松左京追悼(続き)

 小松左京追悼の続き。長編の代表作に続いて、今度は短編集を。

小松左京ショートショート全集/小松左京(勁文社,1995)
 小松左京の代表作といえば、前回の『果しなき流れの果に』をはじめ、『復活の日』、『継ぐのは誰か』、『日本沈没』といった長編の数々であることは、誰にも異論のないところだろう。
 だが、小松左京の短編やショートショートにも名品は多い。小松左京の本領は長編にあったとはいえ、昔は短い作品には根強い需要があった。あとがきで著者自身も書いている。「かつてSFの草分けの頃、「SFとはショートショートだ。」とマスコミに思いこまれていた時代があったような気がする。」
 本書はそんな日本SF草創期から書かれてきた小松左京のショートショート192編を収録した1巻ものの全集。600ページ近いどっしりしたハードカバー。1冊で読めるのはいいのだが、ショートショートの手軽なイメージとは裏腹に、重い。そのせいか、後に文庫化されている。3分冊の文庫で同じ勁文社の「ケイブンシャ文庫」から、その後さらに何編かの追加作品を入れてハルキ文庫から5分冊で刊行されている。
 この本だが、作品の配列は年代順で、一番最初は1962年7月に『宇宙塵』に掲載された「さんぷる1号」。小松左京の商業誌デビューは『SFマガジン』1962年10月号の「易仙逃里記」だから、それ以前の作品である。アイデア的には、今となっては珍しくないが、文体はすでに小松左京らしさがよく出ている。
 逆に一番日付が新しいものは、1974年。小松左京がショートショートを書いていたのは、わずか12年の間だということだ。前回も書いたが、小松左京が小説を書いていた期間は意外に短いのである。

 収録作について、192編全部を取り上げるわけにもいかないので、特に印象的な作品をいくつかピックアップしてみる。いずれも、この本を読む以前に短編集やアンソロジーなどで読んだことがあるもの。タイトルを見るだけで初めて読んだ時の記憶がよみがえってくる、そんな作品たちである。

 「コップ一杯の戦争」(1962)は、米ソ核戦争の危機が現実味を帯びていた冷戦時代らしい作品。安酒場のラジオから流れてくる核戦争のニュースを聞きながら、飲んだくれている客の脳天気な反応がおもしろい。
 「十一人」(1964)は、タイトルを聞いただけでネタがわかる人も多いだろう。「座敷わらし」である。未知の星に着陸した10人の調査隊。ところがいつの間にか11人に増えている。余談だが、この作品から10年以上たって、萩尾望都の漫画「11人いる!」が話題になった。この作品の影響があるかどうかはわからない。
 「牛の首」(1965)は、忘れようとしても忘れられない話。ショート怪談の歴史的傑作で、小松左京のショートショートでは一番有名かもしれない。誰も聞いたことがないほど怖い、最凶の怪談の噂――その話について語ること自体が怪談になるというメタ怪談。すでに都市伝説化していて、小松左京の作品が元ネタであるということすら知らない人が多いとか。
 「新都市建設」(1965)も忘れられない印象を残す。高度経済成長時代の空気を色濃く反映した、ハイテク都市建設の話。「人々の心をおしつぶすような、非人間的な巨大さで、宙空にのびていく大建築――これは、この国のものではない、と老人は動機が早まるのを感じながら考えた」。最後のオチもすばらしい。
 「施餓鬼」(1965)は、小粒な作品だが、小松左京の「食」へのこだわりが垣間見える。というか、作品中で重要な役割を果たす高野豆腐、湯葉。おいしそうでたまらない。
 「ある生き物の記録」(1965)は、短編集のタイトルにもなった、「大河ショートショート」。地球を支配した種族の誕生から滅亡までの数万年をわずかなページ数で語る。普通の意味での登場人物は一人も出てこない。作品のコンセプト上、個人を登場させることはできないのである。
 「一生に一度の月」(1969)も、短編集のタイトルになっている。アポロ11号の月着陸のテレビ中継を、著者はSF作家同士が集まって麻雀をやりながら見ていた。そのいきさつを語る実話めいた作品。小説なのかエッセイなのかわからない。
 「午後のブリッジ」(1969)は、最初の作品「さんぷる1号」とネタがかぶっている。ではあるが、10年足らずの間に語り口はずいぶん洗練されてきて、優雅ですらある。

 小松左京のショートショートをまとめて読んで思うのは、これは本当の「ショートショート」ではなく、「短い短編」なのだということ。時には「短い長編」であったりする。省略の美学とかオチへのこだわりといったものはあまり感じられず、文章は長編と同じように饒舌、結末は奇をてらわない正統派。小松左京の作家としての資質や指向性はどう見てもショートショートに向いてなかった。それでも、これだけの量の、記憶に残るショートショートを生み出した才能の巨大さに改めて圧倒される。

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