思い出の本

2009年5月 7日 (木)

J・G・バラード追悼

 先月、J・G・バラード死去の報が流れた。
 かつて一時代を画したSF作家たちが毎年のように死んでいくので、バラードの訃報にも、ついに来るべきものが来たかとの思いがする。だが、最近亡くなった作家の中では、飛び抜けて思い入れの深い名前であることは間違いない。
 特に思い出が深いのは、創元推理文庫から発行されていた一連の作品群である。1970年前後に、9冊が矢継ぎ早に出版された。刊行ペースは以下のとおり。
 1.『沈んだ世界』1968.2.16
 2.『結晶世界』1969.1.10
 3.『時の声』1969.5.2
 4.『時間都市』1969.5.30
 5.『永遠へのパスポート』1970.7.24
 6.『燃える世界』1970.8.21
 7.『狂風世界』1970.9.11
 8.『時間の墓標』1970.10.30
 9.『溺れた巨人』1971.1.15

 1969年5月には2冊出たり、1970年には4ヶ月連続で出たり、すごいペースである。表紙がそっけない、というか手抜きなのもこの頃の創元文庫の特徴で、上の1と2と7、3と4と5、8と9は、同じイラストの色違い。今なら考えられない。どの本も、その後再刊された時に、より洗練された表紙に変わっているが、元の表紙もそれはそれで、なかなか味があった。
 とにかく、この9冊を読んで(リアルタイムで読んでいたわけではないが、他に邦訳は出てない頃だったのだ)、私のバラードに対するイメージは固定されてしまった。そのイメージというのは、「終末を描く作家」というのがひとつ。もうひとつは、「短篇の名手」。
 そう、私の見るところ、バラードはSF界でもたぐいまれな、短篇SFの作り手なのだ。バラードに匹敵するのは、日本の筒井康隆くらいではないかと思っている。
 少々遅ればせではあるが、そんなバラードの追悼記念として、なつかしの9冊の中から短篇集を取り上げてみる。

時の声/J・G・バラード;吉田誠一訳(創元推理文庫,1969)
 ベスト作品はやはり表題作。人間から睡眠を取り去る手術、生物の強制的進化の実験、終末へのカウントダウンを告げる宇宙からの通信、という3題噺みたいな―それ自体で作品がひとつ作れそうなテーマの贅沢な組み合わせだが―題材。それを抑制の効いた語り口で哲学的な作品に仕上げている。バラードの短篇の典型であり、後の「内宇宙」への志向の萌芽も見てとることができる。
 ところで、この「時の声」のアイデアの一部をなす「人間から睡眠を取り去る手術」というテーマだけで書かれた短篇も本書には収録されている。「マンホール69」がそれ。もちろんストーリーは全然違っていて、こちらはむしろオーソドックスなSF。
「重荷を負いすぎた男」は、認識力を意識的に消し去る能力を身につけた男の話。もちろん、その能力を使いすぎて最後は悲惨なことになるのだが、これはSFというより心理的ホラー小説かもしれない。
 「恐怖地帯」も、今読んだら、一種のドッペルゲンガーもののホラー小説である。
 かと思うと、本格SFもある。「音響清掃」は、余分な音をゴミとして片づける未来社会に展開する、騒音と音楽をめぐるドラマだし、「待ち受ける場所」は、短篇でありながら壮大な宇宙史のヴィジョンを見せ、「深淵」は、全ての海が干上がった地球で最後に生き残った魚と、滅び行く世界に残ることを選んだ人々を描く。
 バラエティに富んだ短篇集だが、バラードが「時の声」でかいま見せた、当時としては斬新な作風を本格的に繰り広げるのは、もっと後のことになる。

時の声 (創元SF文庫)
(これは再刊版)

時間の墓標/J・G・バラード;伊藤哲訳(創元推理文庫,1970)
 原題はTerminal Beach。つまり、原書は「ニューウェーヴ」の記念碑的作品、「終末の浜辺」を表題作にしていた。邦訳版も、再刊された時は原書に合わせて、『終末の浜辺』とタイトルを変えている。
 この本のハイライトは、やはり新版の表題作、「終末の浜辺」だろう。後のコンデンスト・ノヴェルの原型とも言うべき、象徴的なタイトルを持つ断章で構成された作品だが、今読むと、別にそう難解というほどではなく、けっこう普通である。だが、手法そのものはもはや新しさを感じさせないとしても、核実験場で繰り広げられる「核による終末」のイメージの鮮やかなモザイクは、色あせていない。
 他の作品は、オーソドックスな短篇の形式をとってはいるが、内容は『時の声』に比べると、象徴的、観念的な作品、あるいは人間の心理を正面から扱った作品が多い。死刑囚と看守とのチェスを通じてカフカ的不条理世界を描く「ゲームの終わり」。自分が住む世界のミニチュアを手にした男の物語、「ゴダード氏最後の世界」。太古の海のイメージが悪夢のように襲ってくる一種の心理的ホラー「甦る海」。精神の交換がもたらす混乱を日常的なドラマにからめた「ある日の午後、突然に」。
 もちろん、数は減ったが普通のSFも収録はされている。「識域下の人間像」はサブリミナル広告が蔓延する未来社会が舞台の社会派SF。邦訳版の最初のタイトルになった「時間の墓標」は、要は異星の墓荒らしの話。「ヴィーナスの狩人」は、言わばバラード版「未知との遭遇」。
 また、「マイナス 1」は、精神病院で失踪した患者をめぐるブラック・ユーモア小説で、バラードもこんなドタバタ作品が書けるのだと再認識させてくれる。それにしても、バラードは精神病院を舞台にした小説がうまい。

終着の浜辺 (創元SF文庫)
(これも再刊・改題版)

 『時の声』と『時間の墓標』で、それぞれの収録作のオリジナルの発表年代を見てみると、『時の声』が1957年から1961年まで、『時間の墓標』が、「ゴダード氏最後の世界」だけが1960年で、他は1963年から1964年にかけて。このわずかな間に、バラードは「内宇宙」への志向を一気に促進させていったようだ。だが、読む者を静に引き込んでいく独特のタッチや、巧妙な構成は変わらない。優れた抽象絵画が実はオーソドックスなデッサンの熟練の上に成り立っているように、前衛的に見えるバラードの作品も、小説技術の卓越した技巧をベースとしているのだ。
 名手バラードの死を惜しみたい。

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2009年4月 9日 (木)

バカSFの真打

 『SFマガジン』の最新号が、トマス・M・ディッシュとバリントン・J・ベイリーの追悼特集だった。亡くなったのはディッシュが2008年7月4日、ベイリーが同10月14日と、追悼というにしては半年以上も前なのだが、こういうのはやはりそれなり時間がかかるものなのだろう。ディッシュの追悼特集の準備をしていたところにベイリーの訃報が入り、それなら一緒にしてしまえ、ということにでもなったのだろうか。その間にもしもう一人大物が死んだらどうしたのだろう。
 それはともかく、ここでも遅ればせながら追悼記念ということで、バリントン・J・ベイリーを取り上げることにする。ディッシュについては、死ぬ前だけど一度とりあげているので(『アジアの岸辺』―2007年8月3日のエントリー)、今回はパス。

時間衝突/バリントン・J・ベイリー;大森望訳(創元推理文庫,1989)
 『カエアンの聖衣』や『禅銃<ゼン・ガン>』も捨てがたいが、バカさ加減が極まった作品として印象に残っているのがこれ。印象に残っている原因はもう一つあるが、それは一番下で述べる。
 この作品の核となるアイデアは、時間旅行の開発により、「時間」の本質―生物の意識を乗せて過去から未来へ前進する「現在波」―が明らかになる、というものだ。「現在」以外の時間は存在せず、「現在波」の上にのみ生命と意識が存在する。あるいは、「現在」に閉じこめられている。過去はすでに死んでいて、一切の干渉ができない。未来はまだ存在しないので、無人の廃墟が広がっているだけ。
 上記の『SFマガジン』で、殊能将之がこの作品のアイデアをドゥルーズと比較してその哲学性を論じているが、思索だけなら確かに哲学的かもしれない。しかし、それをもろに小説の設定に使ったら、やっぱりバカSFである。
 「現在波」の設定だけでもとんでもないのに、タイムマシンによる調査の結果、地球上には逆方向に進むもう一つの「現在波」が存在し、二つの「現在」が数世代後に衝突することがわかる。この事実を前に、地球を支配する軍事独裁政府が、全力をあげて事態の解決に乗り出す…というのが大筋。
 この他にも、宇宙都市に奇妙な文明を築く中国人たち、時間流の中を斜めに進む「斜行存在」、逆行する時間波に住むキツネザルみたいなエイリアンたち(彼らもまた「地球人」なのだが)と、変なものばかり出てくる。おかげで、ストーリーや登場人物などどうでもよくなってしまって、終わり方などなんとなく投げやりだが、そんなことは気にならない。
 アイデアのバカさという点では、実はテッド・チャンなどもかなりのものだと思っているのだが、チャンの場合、バカをバカと感じさせないテクニックがある。バカなアイデアをよりバカに見せる―これこそ、ベイリーの持ち味だろう。敬意をこめて、真の大バカSFと呼びたい。ベイリーこそバカSFの真打なのだ。
 ところで、上に書いたように、この物語のメインキャラクターとなっているのは、地球を支配する軍事独裁政府のメンバーたちなのだが、この組織には次のような特徴がある。

 ・ファシスト的なエリート軍人集団である。
 ・制服は黒で統一。
 ・名称は「タイタン」。"Titan"、複数だと"Titans"。

 この小説を最初読んだ時、アイデアのとんでもなさとは別の部分で、「なんじゃこりゃ!」と思ってしまったのが、これ。『機動戦士Zガンダム』に出てくる「ティターンズ」と名称から何からそっくりじゃないか。この作品の原作は1973年刊、邦訳が1989年刊。『Zガンダム』は邦訳が出る前に放映されているから、偶然なのだろうが、おそろしい一致である。

時間衝突 (創元推理文庫)

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2008年6月 3日 (火)

名文・マイベスト

 前回は個人的な歴史の名著ベストの話だったが、今回は、個人的な名文のベスト。

長安の春/石田幹之助(講談社学術文庫,1979)
 この本は基本的には、歴史学者、石田幹之助の史論を集めたものだが、タイトルとなっている「長安の春」は、歴史よりはむしろ文学に属するものといえるだろう。唐の都長安が春を迎え、人々が牡丹を愛でる様子を、当時の詩文を豊富に引用しながら描いたエッセイで、冒頭の20ページほどを占める短い文章である。短いが、その存在感は圧倒的で、私にとってはこれが人生でもっとも記憶に刻み込まれた名文なのだ。

 実は、私が最初に「長安の春」を読んだのは、この本ではない。平凡社の『世界名著全集』18巻に収録されていたのを読んだのだった。この巻が発行されたのは1962年で、「長安の春」そのものは、1932年に最初に発表され、1941年に創元社から単行本として発行されている。戦前に発表され、1960年頃にはすでに名著として評価が定着していたことになる。
 ちなみに、この『世界名著全集』18巻に収録されていたのは、この「長安の春」の他、鳥山喜一の『黄河の水』、武田泰淳の『史記の世界』、松岡譲の『敦煌物語』といういずれも中国史関係の名著。世界名著全集なのだから名著ばかりなのは当たり前と言われそうだが、これだけいい作品が揃っているのは珍しいのだ。
 ところでこの巻で、他の3作品がどれも本一冊分のボリュームがあるのに対し、「長安の春」はあまりに短い。そのため、単行本に収録された他の史論も一緒に収録されている。が、これが上に書いた1941年の創元社刊の単行本とは少し違っている。
 1941年版の内容は、「長安の春」/「「胡旋舞」小考」/「当壚の胡姫」/「西域の商胡、重価をもって宝物を求める話」/「再び胡人採宝譚について」/「隋唐時代におけるイラン文化のシナ流入」/「長安盛夏小景」の7編。
 『世界名著全集』18巻では、「西域の商胡…」以下の4編が削除され、代わりに次の5編が収録されている。「長安の歌妓」/「字舞」/「唐代燕飲小景」/「唐史襍鈔」/「唐代の婦人」。
 では、講談社学術文庫はどうかというと、基本的に1941年の創元社版の内容に基づいている。ただ、「再び胡人採宝譚について」の後に、「胡人買宝譚補遺」という長めの文章が追加されていて、全8編になっている。唐代伝奇などによく出てくる、胡人(中央アジアから来たイラン系民族、要するに唐の時代の「西洋人」)が不思議な宝を高値で買う、というパターンの奇譚を考察したもので、著者はよほどこの手の話が好きだったらしい。
 (他に東洋文庫版も出ているが、それについては省略。)

 が、実のところ、そんなことはどうでもいいのである。他に収録された文章がどれだけ入れ替わっても、所詮普通の文章で、「長安の春」だけが特別なのだから。言い換えれば、「長安の春」以外は何が収録されていようと関係ないのだ。

 「長安の春」は、冒頭に唐の詩人韋荘の同名の詩を引用した後、こんな風に始まる。

 陰暦正月の元旦、群卿百寮の朝賀と共に長安の春は暦の上に立つけれども、元宵観燈の節句の頃までは大唐の春色もまだ浅い。立春ののち約十五日、節は雨水に入って菜の花が咲き、杏花が開き、李花が綻ぶ頃となって花信の風も漸く暖かく、啓蟄にいたって一候桃花、二候棣棠[たいとう]、三候薔薇[しょうび]、春分に及んで一候海棠、三候木蘭と、つぎつぎに種々[くさぐさ]の花木が撩乱を競う時にいたって帝城の春は日に酣[たけなわ]に、香ぐわしい花の息吹が東西両街一百十坊の空を籠めて、渭水の流れも霞に沈み、終南の山の裾には陽炎が立つ。溟濛たる春雨の日が続いて清明の節が過ぎ、桐の花が紫に匂い、郊外の隴畝[ろうほ]には麦の穂が青々と秀で、御溝の水には柳絮が繽紛として雪のように舞うころになると、時は穀雨の節に入って春はようやく老い、照る日の影も思いなしか少しずつ輝きを増して空も紺青に澄んでくる。

 以下、全編がこんな調子で続く。漢文の語句を豊富に取り込んだ、それでいて骨格はしっかりと和文調の息の長い文章が独特のリズムを刻み、読むうちに酔うような気分になってくる。
 ちなみにこの文章、ところどころに空白の行をはさんだいくつかの断章からなるのだが、基本的に一つの断章内に改行はない。章の切れ目だけで改行している。だから、文庫版でいうと一つのページに改行が一カ所か二カ所というところ。まったく改行のないページもある。この果てしなく流れていくような字句の連なりがいいのだ。
 ただ、名文ではあるが「声に出して読みたい日本語」とは少し違うような気がする。「ギョコーのミズにはリュージョがヒンプンとして…」みたいな、耳で聞いただけではよくわからない部分が多すぎるからだ。
 目で字を追って、頭の中で朗読を響かせる、そんな読み方が合っているのだろう。

 これもまた前回と同じく、ずいぶん昔に読んだ本なのだが、今でも「名文」と言えば、まっさきに頭に浮かぶのは、この流麗な文章なのである。

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2008年5月31日 (土)

歴史本・マイベスト

 歴史の本は、このブログでもずいぶん取り上げてきた。読書を好む人間は、コアとなる分野をひとつかふたつは持っているものだが(もっと多い人もいるかもしれない)、私にとって歴史、特に外国の歴史に関する本は、間違いなくその一つである。
 しかし私も子供の頃から歴史の本を読んでいたわけではない。大学時代(昔だなあ…)、歴史のおもしろさを教えてくれた本がある。

侯景の乱始末記 南朝貴族制社会の命運/吉川忠夫(中公新書,1974)
 中国の南北朝時代、南朝の最盛期を築いた「梁」の武帝、蕭衍は文武に優れた英雄だったが、その末期、北朝「東魏」の将軍、侯景の亡命を受け入れたばかりに、悲惨な最期をとげることになる。侯景は反乱を起こして武帝を幽閉し、国を乗っ取ろうとするのだ。
 この乱そのものは1年足らずで終わるのだが、梁王朝は事実上瓦解し、二度と立ち直れない。蕭衍の死後、混乱の中で次々と短命な皇帝が立ち(無事に寿命を迎えることのできた者はいない)、結局10年足らずで滅亡。それとともに晋以来の伝統を受け継ぐ南朝貴族社会も壊滅する。梁の後を継いだ南朝最後の王朝、「陳」は軍人政権である(そのわりには弱体なのだが)。
 この滅亡のドラマは、南朝だけを舞台にしているのではない。侯景の出身である中国北部もまた、北魏が分裂した東魏と西魏が並び立っていて、さらに東魏は北斉、西魏は北周へと変わっていく、大きな変化の時代にある。南朝、北朝を巻き込んだ激動の中の人物群像を、著者はドラマチックに描いていく。
 時として演出過剰にも見える文章は、歴史の本、特に学問的な観点から見れば、少々異端と言えるかもしれない。が、正直言って下手な歴史小説よりよほどおもしろいのだ。
 中国の南北朝の歴史なんて、高校レベルくらいまでの教育では、ざっと教わるだけである。南朝は宋・斉・梁・陳。まあその程度の知識で普通は十分だ。
 だが、概説ではわからない歴史の細部に、限りないドラマが隠されていることをこの本は教えてくれる。

 この本の中に、首都建康を占領した侯景が、台城(皇宮)に籠もっていた武帝に面会するエピソードがある。

「長江をわたったさいしょ、いかほどの人数じゃった」
「千人」
「台城包囲のはじめには」
「十万」
「では現在は」
「卒土の内、すべてわが所有でござる」
 帝はがっくりと頭をたれた。

 ちなみに、「卒土の内、すべてわが所有」という侯景の言葉は大嘘である。この時点で侯景が支配しているのは首都周辺だけなのだ。
 それはともかく、この会話、田中芳樹の短編「蕭家の兄弟」(2007年5月17日のエントリーで紹介)にも出てくる、「侯景の乱」のクライマックスとも言える場面なのだが、実のところ、あまりに劇的にすぎて、本当にこのとおりの会話がなされたとは思えない。史書に載っているのは確かだろうが、かなりの脚色が入っているのだと思う。
 だが、それでもかまわないのだ。史料の中に無数に埋もれているであろう、こういう劇的なエピソードが、歴史のおもしろさの核をなしていることは間違いないのだから。学問的な研究も重要だろうが、まずは興味を引かなければ、何も始まらないのだ。『人物を読む 日本中世史』(2008年2月15日のエントリー)で本郷和人も言ってたように。
 歴史の神は細部に宿る。ドラマは限りなく潜んでいる。この本はそれを雄弁に教えてくれる。

 今までに読んだ歴史の本の中で、ベストの本をひとつだけ挙げろと言われたら、間違いなくこの本を選ぶ。

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2007年10月15日 (月)

ヴェルヌの『南十字星』

南十字星/ジュール・ヴェルヌ(中公文庫,1973)
 邦訳されたジュール・ヴェルヌの長編の中で、『南十字星』は一番マイナーな作品のひとつだろう。
 翻訳は1973年に中公文庫から出ただけで、それも絶版になって久しい。数々あるヴェルヌの選集(ジュヴナイル版も含めて)にも全然収録されてないし、そんな本が出てること自体、知らない人も多いのではないだろうか。

 『南十字星』は南アフリカを舞台とした冒険小説である。原作の刊行は1884年。
 南アフリカのダイヤ鉱山主ワトキンズの下で働くフランス人化学者シプリアンが主人公。ヴェルヌの小説には珍しくヒロインがいる。ワトキンズの娘アリスである。
 シプリアンがワトキンズに対し、アリスとの結婚を申し込むところから話は始まる。アリスはシプリアンと相思相愛、化学を教えられ、「化学の本の酸素の章は三度も読み返しました」と口走るような化学オタクに洗脳されていたのである。
 が、誰もが予想できるように、シプリアンはワトキンズから「金もないフランス人のところに大事な娘をやれるかボケ、とっとと失せろ」(まあ、原文はもっと丁寧な言い方ですが)と追い返される。鉱山から追放されなかっただけ、まだましというものだろう。
 けんもほろろに結婚を断られたシプリアンだが、ヴェルヌの小説の主人公だけあって、あきらめが悪い上に発想が異常。一発逆転を狙って、人工ダイヤモンドの技術開発に取り組む。そしてとうとう史上最大級の巨大ダイヤの製造に成功してしまう。
 それを知った途端、ワトキンズはその技術を独り占めするため、娘をやろうと言い出す。困ったオヤジである。ここまでが約半分。
 「南十字星」というのは、このダイヤモンドにつけられた名前である(命名したのはアリス)。
 ところがこの「南十字星」、お披露目の席で行方不明になってしまい、姿をくらました使用人が怪しいと、南アフリカの未開の荒野を横断しての大追跡が始まる。追っ手はシプリアンの他、アリスとの結婚を狙う男3人。ワトキンズが「ダイヤを取り戻した者をアリスを結婚させる」と宣言したもので、全員が必死になる。まったく困ったオヤジである。
 それはともかく、本書後半の大部分を占めるこの追跡行が、一難去ってまた一難、危機の連続で、いかにもヴェルヌらしい冒険譚になっている。逆に言うと、ヴェルヌらしいのはこの部分くらい。
 結果をバラしてしまうと、シプリアン以外の3人は、熱病にやられたり象に叩きつぶされたりして悲惨な死をとげてしまい、生き残ったシプリアンも、追っていた男は見つけ出すものの、結局ダイヤは見つけられず、虚しく引き揚げてくる。
 残りページもわずかとなったここから、物語は急展開を見せる。「南十字星」にまつわる意外な真相と、とんでもないところからの再発見、ワトキンズのオヤジを見舞う悲劇...。
 ある意味、ドンデン返しの連続なのだが、実を言うとここまで来て、「今までの話は何だったのだ」と言いたくなってしまった。隠された事実が明らかになって、盛り上がるのならいいのだが、逆にヘナヘナとなるような展開なのである。

 結論を言ってしまうと、この小説、ヴェルヌにしてはあまり出来がいいと思えない。マイナー作品にとどまり続けているのは、そこらへんに理由があるのではないだろうか。
 ただ、この作品に優れた点があるとすれば、タイトルだろう。『南十字星』、ジュール・ヴェルヌ著。タイトルと著者名だけ聞くと、どれだけ面白い冒険小説なのかと、とめどなく想像力が刺激される。タイトルだけはすばらしい。実際読んでみると、大したことない話なので、よけいに評価が辛くなってしまうのである。
 あと、挿絵は表紙イラストも含め、原著のものをそのまま収録していて、原作が発行された時代の雰囲気を伝えてくれる。そんなわけで、話の中身は物足りなくても、「本」としては気に入っている。

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2007年6月22日 (金)

暗黒星雲のかなたに

 今回は、思い出の本。
 『暗黒星雲のかなたに』は、私が初めて読んだアシモフの小説である。多分。
 読んだのは角川文庫版だった。なんだか冴えないイラストがついていたのも、なつかしい。
 その本も、いつの間にかどこかへ消えてしまって、今手元にあるのは、東京創元社版である。

暗黒星雲のかなたに/アイザック・アシモフ(創元SF文庫,1964)

 遠い未来、銀河系に広がった人類社会は、科学技術だけは発達しているものの、社会はなぜか封建体制に逆戻りしている。圧倒的な力で各星系を制圧するティラン帝国と、その支配下にあるいくつもの封建領主領という世界設定は、あまりアシモフらしくない。ロボット・シリーズはもちろん、ファウンデーション・シリーズと比べても、世界観がまるで違っていて、連続性が感じられない。銀河帝国はローマ帝国風の社会だったが、この作品はむしろ中世風である。
 そんな世界で、ウィデモスの領主の息子バイロンが、父の死の真相と、帝国に対抗する謎の「反乱軍の星」と、人類世界を変えてしまうという謎の文書を求めて冒険の旅をするわけである。旅をともにするのは、父の死と関係があるらしいローディアの領主ヒンリックの娘、アーテミシアと、その叔父(つまり領主の弟)ギルブレッド。そこに帝国から派遣された総督アラタップや得体の知れないリンゲーンの領主などがからみ、陰謀と裏切りと野望の物語が展開され、最後には意外などんでん返しが待っている。
 今の目で見れば、「宇宙を舞台にした中世風社会で展開される冒険物語」というのは、いかにもよくあるパターンのスペース・オペラだが、原作が刊行されたのは1951年。その時代にもそんな話は腐るほどあったのだろうが、現在にまで残り、読み継がれている作品は、そう多くはない。
 で、この作品、今では銀河帝国シリーズの一部に位置づけられ、トランター帝国=「銀河帝国」勃興の数世紀前の話ということになっているのだが、それは「後付け設定」ではないかという気がする。上にも書いたとおり、ファウンデーション世界との連続性がまるでない。未来史の一部に組み込む必然性が感じられないのだ。
 むしろ、「ファウンデーション」をスケールダウンしたような独立作品と見るべきではないかと思う。だいたい、宇宙のどこかにある「幻の星」をさがすという基本的なプロットが、『第二ファウンデーション』と同じ。「幻の星」が最後に「誰も捜そうとしないところ」で見つかるというどんでん返しのパターンもいっしょである。

 この作品、英語版Wikipediaの記述によれば、アシモフ本人も気に入ってなかったそうで、自分らしくない作品だということは自覚していたのだろう。
 独創的なアイデアがあるわけでもないし、最後に明かされる「謎の文書」の正体はヘナヘナとなるようなものだし、物語自体が過去の架空の国を舞台にしてもなりたつような、SFであるべき必然性があまりない話。おまけに、登場人物はほとんどバカばっかり(他人に利用されてばかりの無鉄砲バカのバイロン、貴族の娘のくせにがさつなバカ女のアーテミシア、科学バカのギルブレッド、陰謀バカのリンゲーン公...)ときている。作者からも冷遇されているマイナーな作品である。
 しかし、この作品にはなぜか愛着がある。アシモフの長編の中では一番好きな作品と言っていい。『スター・ウォーズ』みたいに、しょうもない話ではあるが、どことなく人をひきつけるものがあるのではないかと思う。手元にある本は1999年刊の38版! 30年以上版を重ねているのは、その証拠ではないだろうか。

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2007年3月17日 (土)

銀河英雄伝説(番号なし)

 四半世紀も前に刊行された一冊の本がある。

銀河英雄伝説/田中芳樹(トクマノベルズ,1982)

 現在では『銀河英雄伝説1 黎明編』として版を重ねている(ついこの前、創元SF文庫から新版が出た)作品だが、この本が発行された時点では、まだ番号はついてない。ただの『銀河英雄伝説』である。

 その昔、書店で初めてこの本を見つけて買った時(たぶん、発行された直後)、私は当然ながらこの作者の名前も、何者かも知らなかった。その少し後で、あるファンジンに私はこんな感想を書いている。

「もとネタはわかる人にはすぐわかる。『三国志』なのだ。科学的にはデタラメな部分が多いがストーリーはよくできている。まだ大河小説のほんの導入部という感じで、是非続きを書いてほしいものである。(声をひそめて)実をいうと、去年読んだ日本SFの中で、これが1番おもしろかったのだよ。実に単純じゃ。」

 これを読んでわかることは、
 1.実に偉そうである。
 2.続きが出るかどうか、期待しながら危ぶんでいる。
 3.この小説を単純におもしろいと宣言するのがちょっと恥ずかしい。
 ということである。
 しかし続編が次々出るようになってからは、もう大っぴらにおもしろいと公言するようになっていた。

 とにかく、この本が出た当時、作者も出版社も、果たして売れて続編が出せるかどうか、確信がなかったのだろう。今見ると、2巻以降のペースなら3~4冊になりそうな話を、1冊につめこんでいる。私自身も、「こんな話、一般受けするんだろうか。まあ、そこそこ売れて続編が2冊くらい出たらラッキーだよな」などと思っていたものだ。
 予想は大外れだった。自分が「おもしろい」と思った感覚を素直に信じるべきだったのだ。その後のことはよく知られているとおり。

 なお、この初刷には、本文にミスがある。冒頭のアスターテ会戦で戦死したはずのパストーレ中将が、第10章で第一艦隊司令官になったと書かれているのだ。初めて読んでいた時、ここまで差しかかって、「死んだはずじゃなかったのかよ、こいつは!」とつっこみたくなった。後の版では(たぶん2刷から)、パエッタ中将に訂正されている。

Gineiden





番号なしの『銀河英雄伝説』(1983.11.30 初刷)

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