本についての本

2021年1月10日 (日)

蔵書一代

蔵書一代 なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか/紀田順一郎(松籟社,2017)
 本書は、「永訣の朝」と題した序章から始まる。書き出しからして、痛切な悲哀感に満ちている。

 いよいよその日がきた。――半生を通じて集めた全蔵書に、永の分かれを告げる当日である。

 妻と二人、マンションに引っ越すことになった著者は、3万冊を超える蔵書を手放すことにしたのである。新居に持って行くのはわずか600冊。今までの蔵書に比べると無に等しい。
 この時(2017年)、著者は82歳。年をとって大量の蔵書を抱えておくことには限界がある。紀田順一郎も年には勝てなかった。それにしても、この序章のトーンはあまりに悲痛である。
 続く第1章からは、比較的冷静に、日本の個人蔵書の歴史を、読書・出版事情の変化に即して、また自身の体験をまじえて語っていく。それは日本の「読書文化」、「蔵書文化」の興亡の歴史でもある。

 第Ⅰ章「文化的変容と個人蔵書の受難」は、個人史が半分。それは増殖する蔵書との苦闘の歴史でもある。だが、岡山に設けた書庫・書斎で、著者は束の間の安息の日々を得る。その岡山の書庫も、やがて諸事情から手放さざるを得なくなるのだが。
 第Ⅱ章「日本人の蔵書志向」は、日本の個人蔵書の歴史。図書館の歴史と蔵書とのかかわり、出版・古書界の変遷についても述べる。いわば著者のもっとも得意とする分野。「蔵書」と「コレクション」の違いについて述べたあたりはさすがの卓見と見た。
 第Ⅲ章「蔵書を守った人々」。江戸川乱歩の蔵書が立教大学に譲渡された経緯を述べるのが主な内容。個人蔵書を完全な形で残すことが難しい日本では、実に幸運なケースである。その稀な例を語ることで、逆に蔵書を次代に残すことの困難さを強調している。
 第Ⅳ章「蔵書維持の困難性」では、再び著者の体験をまじえながら、蔵書の活用・保存方法とその困難さを語る。著者が挙げる蔵書活用法は、例えば「一箱古本市」、「集合書棚(シェア・ライブラリー)」、自宅開放図書館、寄贈など。
 いずれにしても状況は厳しいが、著者は最後に「日はまた昇る」という言葉を掲げて希望を保とうとする。しかしやはり現実はきびしいのである。
 本書の最後は、小説風のこんな文章で締めくくられている。

 私は地下鉄神保町駅の階段を、手すりにすがりながら一段一段おりた。この階段をおりるのも今日が最後と思ったとき、足下から何かがはじけた。

 本とともに人生を歩んできた人にとっては(ブログ主も一応そのはしくれではあると思う)、身につまされる内容の本である。

Zoushoichidai

 

| | コメント (0)

2020年10月26日 (月)

黙読の山

黙読の山/荒川洋治(みすず書房,2007)
 このブログに登場するのは2回目の、詩人荒川洋治。
 前回取り上げたのは『本を読む前に』という書評・読書エッセイ集(2008年11月27日のエントリー)。
 本書も、本と文学を主なテーマに書かれたエッセイを集めている点では似たような本。ただ本書の場合、1編あたり2~3ページのごく短いエッセイが多いので、収録されている数は58編と多い。発表媒体は新聞・雑誌などさまざま。
 書名は同題のエッセイから。「山」という字を普段は黙読しているので、話す時に山の名を呼ぶ時、読みが「やま」なのか「さん」なのか迷う、という何でもない話。ただ、著者がこれまで黙読してきた膨大な本の山、という意味もこめられているのだろう。
 この人の本に関する文章は、平易な文章でありながら――というか、だからこそ、言及されている本を読みたい気にさせる効果に富んだ名品が多い。
 時にはわずか2、3行の文章で、その本に対する関心と興味をかきたてる。
 特に、巻末近くに掲載されている「おもかげ」というエッセイ。著者の個人展覧会に出品した、自分の蔵書の中の思い出の本を列挙しているが、それにつけられたコメントがいい。例えば――。

□草野心平『わが青春の記』(オリオン社・一九六五)。詩と青春の記録。詩を生きることは、つらい。でも楽しそうだ。そう感じた。
□保田與十郎『日本の橋』(講談社学術文庫・一九九〇)。美しい措辞と妖しい思想が奏でる「日本」の名作。学生のとき、講談社の著作集で読む。
□村上一郎『日本のロゴス』(南北社・一九六三)。激越な評論が心をとらえた時期。わけても愚直に「かなしみ」を生きる村上一郎の文字は印象を残した。

 一見なにげないようでいて、簡明で的確な言葉の選び方。
 他にも気になる本がぞろぞろ出てきてきりがないのである。本の選び方というより、言葉の選び方がうまいのだろう。本に輝きを持たせる言葉の力である。
 本に関するブログを書いてる身としては、こんな風に本を表現できる言葉が持てれば、と切実に思う。

Mokudokunoyama

| | コメント (0)

2019年12月11日 (水)

渡り歩き

渡り歩き/岩田宏(草思社文庫,2019)
 2001年に発行された単行本の文庫化。
 ブログ主は不勉強にして岩田宏の名はよく知らなかった。だが、本名である小笠原豊樹と言えば、翻訳者として慣れ親しんだ名前なのだ。レイ・ブラッドベリ『火星年代記』やチャールズ・ボーモント『夜の旅その他の旅』などの訳者としてSFファンにもなじみ深い。
 とはいえ、本書にはSFのことは出てこない。本来の専門分野であるロシア文学、そして一部フランスや英文学の話を中心とした、一種の読書エッセイである。ただし、下に書いたように、読書ガイドとしては役に立たない。
 また、著者は詩人でもあって、現代詩文庫にも収録されている。英語、ロシア語、フランス語、ドイツ語を読みこなし、小説、評論、詩を書き、翻訳書は数十冊。とんでもなく多才な人だったのだ(2004年没)。

 内容は、草思社のPR誌『草思』に1999年から2000年まで連載されていたエッセイ「渡り歩き」が中心。まん中あたりに、各種雑誌に掲載された短いエッセイを「箸休め」として収録。
 さらに巻末に「雑談」として草思社編集者によるインタビュー(といっても岩田の言葉だけ)と、講演記録「毒蛇の袋」を収録している。
 本書の主体をなす「渡り歩き」は、本や作品を次から次へと渡り歩くところからつけた題名だろう。
 全12編。ひとつひとつはけっこう長く、最後に話題となった本の書影が必ずついている。しかしこれが全部洋書。
 最初の「幻灯機」は、スペイン内戦がテーマのエリオット・ポール『The life and death of a Spanish town』について。次の「ピュリリア」は、劇作家エルマー・ライスの小説『A Voyage to Purilia』について――と、全然知らない著者の知らない作品が出てくる。しかも未訳である。
 しかしこれは英語だからまだまし。「事実と原型」や「レクイエム」に出てくるのはロシア語、「裸馬と裸女」や「常識に逆らう」に出てくるのはフランス語の本。もう元の本を読もうなんて気が起きるはずもない。読書ガイドとして役に立たないというのはそういう意味なのだ。
 しかし、これらの本を紹介する著者の文章は非常に読みごたえがある。詩人の文章感覚から来るのだろうか、普通の書評や読書エッセイとは、文章の密度が違うのを感じる。そのせいか、原本を読めなくても、その読みごたえみたいなものが、迫力をもって伝わってくる。

Watariaruki

| | コメント (0)

2019年11月 1日 (金)

最も危険な名作案内

最も危険な名作案内 あなたの成熟を問う34冊の嗜み/福田和也(ワニブックスPLUS新書,2009)
 元は『ダ・ヴィンチ』の連載で、2002年に単行本として刊行。その時のタイトルは、『成熟への名作案内 大人になるための34冊』。
 同誌の若い読者に向けて「少しコクのある、一ランク上の読書への誘いを」というのが執筆意図だったそうだが、「いささかコクがありすぎたのでは」と著者自身が認めている。しかし「コク」というよりは「アク」というべきかもしれない。かなり毒気もある内容なのだ。
 
 だいたい、「はじめに」の最初の書き出しからして、こんな具合。なんか最初からやばい雰囲気が漂っている。早い話が、なんだか濃厚な中二病的気配を感じるのである。

 この本は、入門書ではない。
 むしろ、読書の厄介さ、しんどさに関わる書物である。
 本とつきあうことの、その危険と困難についての。

 内容は全17章。1章につき2冊ずつの本を、長い引用つきで取り上げている。2冊は必ず翻訳と日本語作品という組み合わせ。『放浪記』や『カラマーゾフの兄弟』みたいな定番の名作もあるが、『悪意と憂鬱の英国式週末テニス』みたいな聞いたことのない本も入っている。
 各章には「読書」、「政治」、「女」、「賭博」といったテーマが設定されているが、登場する本が、必ずしもそのテーマと直接結びついていないところが凝っている。例えば第一章のテーマは「読書」だが、取り上げられている本は、林芙美子『放浪記』と、ヤン・コット『シェイクスピアはわれらの同時代人』。
 それぞれの本について書かれた文章の冒頭に、ひときわ大きい字で、内容を代表するような1行から3行くらいの文章が掲げてある。例えば第一章の最初には「読書とは呪いである」とデカデカと書いてある。
 文中で取り上げている本からの引用を最初に持ってくるというパターンは時々あるが、この文章は著者自身のもの。自分自身が書いた文章の中から、もっとも効果的と思われる一節を抜き出して冒頭に掲げているのである。ちょっと自分に酔いすぎではないかという気もする。
 また、内容の文章にも、独特の癖のある表現が多い。
「人が他者と出会った瞬間に、政治ははじまる、と云ってもいい」(第二章)とか。
「だが、もとより骰子の目に神秘があるはずもなく、神秘は骰子を投げ、出目を凝視する人の方に、その精神と認識にあるのだ」(第四章)とか。
「二十世紀は、人間から多くのものを奪った。/真に洗練されたエレガンス、それと望まれた訳ではなく、自ずと醸されて琥珀のように滑らかに出来上がった成熟。昨日と明日がつながっているのだ、という確信」(第九章)とか。
 こんな風に、『ダ・ヴィンチ』の若い読者たちに、中二病を悪化させるような文章や演出を多用しているのである。だから「最も危険」なのかもしれない…。
 ブログ主みたいに毒にも薬にもならないようなことしか書けない人間から見ると、その危険さがまぶしい。

 

| | コメント (0)

2019年9月 3日 (火)

本の虫の本

本の虫の本/林哲夫ほか(創元社,2018)
 本の世界にまつわるキーワードを、本好き5人が分担執筆している。
 執筆者は以下のとおり。それぞれが本書専用の「本の虫」としてのペンネームというか、「虫ネーム」を持っている。

<ハヤシウンチククサイムシ>:林哲夫。画家・エッセイスト・装幀家、執筆者代表らしい。「犬耳する」、「つんどく」、「小脇にはさむ」、「一箱古本市」など、テーマは自由自在。
<ノムラユニークホンヤムシ>:野邨陽子。本好きの聖地、恵文社一乗寺店の店員。「この本、ありますか」、「客注台帳」、「倉庫さらえ」、「本屋で本は読めるか」、「面陳」など、いかにも書店員らしいテーマが多い。
<オギハラフルホングラシムシ>:荻原魚雷。古書エッセイを主な活動分野とするライター。「収集癖」、「本の山に埋もれて」、「活字中毒の漫画家」、「詩人とミステリー」、「せどり今昔物語」など、古書生活と作家についてのエッセイを書いている。面白そうな本を紹介することについてはこの人が一番かも。「掘り出し物」に出てくる酒井徳男『趣味馬鹿半代記』とか、「文芸編集者」に出てくる寺田博『昼間の酒宴』とか。
<タナカコケカメムシブンコ>:田中美穂。倉敷の古書店「蟲文庫」の店主。「倉庫問題」、「店番危機」、「消しゴム」、「店猫」、「組合未加入」など、いかにも古書店主の日々の生活から生まれ出たようなテーマを書いている。この人の担当部分は、項目名のほとんどが単語になっていてまともである。
<オカザキフルホンコゾウムシ>:岡崎武志。日本を代表する古本マニアの一人で、本ブログにも過去3回ほど登場したことがある。ブログ主が「本の虫」という言葉でまず連想するのがこの人。「同じ本を何冊も買う」、「ティッシュボックスの空き箱」、「ご当地小説」、「自作の索引・人物紹介」、「野球場内にあった古本屋街」、「「本の虫」名言集」など、いかにも「本の虫」らしい項目の選定と内容。荻原魚雷と少々作風がかぶっている気はするが。

 体裁としては用語集みたいなものだが、項目名は執筆者それぞれが勝手に選んでいて、調整もしていない。それでもほとんど重複はしていないそうだが。
「項目ごとにひとつの独立した読み物になっています」とまえがきに書いてあるように、実質的には、ショートエッセイを集めたもの。だいたい、執筆者によって「です・ます調」と「だ・である調」を使う人がいて、文体すら統一されてないのである。
 項目名にしても、本についての重要語というわけでもなく、「犬耳」とか「ショトン」とか聞いたこともないような用語があるし、「全部読んだんですか?」とか、「カバーおかけしますか」とか、「同じ本を何冊も買う」とか、そもそも単語ですらないものも多い。
 それらの項目が、50音順ではなく、執筆者ごとにまとめられ、よくわからない順番で並んでいる。文中に登場する本の索引は巻末についているが、項目名の索引はない。もっとも、分類別の一覧はあるが、それも「習性の棚」とか「苦悩の棚」とか、これまたよくわからないカテゴリーで並んでいる。
 要するに、項目名から探す、なんてことはまるで考えてない。結局、用語集ではなくエッセイ集なのだから、それでも問題はないのだ。本書を買って読むような本好きは、そんなことは最初から気にしないだろう。

Honnomushinohon

 

| | コメント (0)

2019年8月18日 (日)

読書で離婚を考えた

読書で離婚を考えた。/円城塔+田辺青蛙(幻冬舎,2017)
 夫婦作家による交換読書エッセイ。互いに相手の指定した本を読んでそれについてのエッセイを書き、次の課題図書を指定する、というのを繰り返す。他にもいろいろ細かいルールがある。
 元は幻冬舎のWEBマガジン「幻冬舎Plus」に2015年から2016年にかけて連載されたもので、全40回。第1回は田辺青蛙が課題図書なしで書いていて、この企画が始まった経緯などを語っている。テーマは「夫婦の相互理解」なのだそうだ。
 実際どうなのかというと、夫婦の相互理解どころか、お互い相手をいかに理解してないかということがだんだんあらわになっていくばかり。だいたい、料理を作らせても円城塔はレシピどおりにきっちりと作り、田辺青蛙は勝手なアレンジを加えたり途中で飽きたりして失敗するというくらい、性格が違う。
 いかにも論理と数学で思考していそうな理系の典型みたいな円城塔。いい加減でずぼらで飽きっぽくて感性だけで生きてるような田辺青蛙。
 それでいて、田辺青蛙の方は翻訳関係のビジネスをやっているらしいのが不思議だが、あまりに理詰めだとかえって商売には向いてないのかもしれない。文章からの印象だと、なんとなく円城塔より田辺青蛙の方が社交性はありそうな気もするし。
 とにかく、これくらい考えの合わない夫婦というのも珍しい。まあ、「離婚」という言葉はどちらも一言も言ってないのだが、どちらかがそういうことを考えたとしてもおかしくないくらい、ずれている夫婦なのだった。

 そんな夫婦がお互いに薦めた本や作品は以下のようなもの。
 田辺青蛙から円城塔へ:『羆嵐』(吉村昭)、『VOWやもん!』(吉村智樹と仲間たち)、『クージョ』(スティーヴン・キング)、『板谷式つまみ食いダイエット』(ゲッツ板谷)、『小説講座 売れる作家の全技術』(大沢在昌)、「五里霧の星域」(弘兼憲史)、『活字狂想曲』(倉阪鬼一郎)、『人間にとってスイカとは何か』(池谷和信)…など。
 円城塔から田辺青蛙へ:「熊が日を発見する」(テリー・ビッスン)、「ボビー・コンロイ、死者の国より帰る」(ジョー・ヒル)、『〆の忍法帖』(山田風太郎)、「台所のおと」(幸田文)、『年収は「住むところ」で決まる』(エンリコ・モレッティ)、「プールの物語」(レム・コールハース)、『日本の鶯』(関容子)、「私が西部にやってきて、そこの住人になったわけ」(アリソン・ベイカー)、『パリの夜』(ロラン・バルト)…など。

 円城塔からの課題図書に、当初短編が多いのは、多忙な田辺青蛙に配慮していたのだとのこと。しかし円城塔が多忙な時に田辺は『クージョ』などを平気で指定してくるので、そういう配慮はあまりしなくなったらしい。しかしその後もけっこう短編を指定している。
 こうしてみると、何だかわからない田辺青蛙からの課題図書、なんとなく教育的配慮を感じる円城塔からの課題図書、とこのへんにも性格の違いがよく出ている。本書の最後を飾る円城塔からの指定図書は、レムの『ソラリス』。すごくまともだ。
 こんなに性格が違っていてもわかりあえなくても、夫婦とはやっていけるものなのだ――ということがよくわかる本。もっとも、田辺青蛙が十歳年下、という要素も大きいのだろうが。円城塔は、世話の焼ける生徒を持った先生、みたいな気分でいるのかもしれない。

Dokushoderikon

| | コメント (0)

2019年7月22日 (月)

新刊!古本文庫

新刊!古本文庫/北原尚彦(ちくま文庫,2003)
 著者が古本として買った変わった文庫、珍しい文庫をひたすら紹介しまくる本。対象となるのは「文庫サイズの本」で、中には自費出版や雑誌の付録まで混じっている。
 タイトルはもちろん、古本の文庫について書かれた新刊の本、という意味だが、見てのとおりもう16年も前の本なのですでに新刊ではない。まあ、そのへんは気にしないことにする。
 内容は<珍本・稀書篇>(66冊)、<歴史・変遷篇>(24冊)、<文庫画廊[ギャラリー]篇>(77冊)の3部構成。目次にはこの160冊あまりのタイトル、出版事項がずらりと並んでいて、目次というよりインデックスみたいになっている。
 著者が一番力を入れていると思われるのが第1部の<珍本・稀書篇>。全体の半分以上を占めている。だいたい発行年順に並んでいて、最初が『モルモン宗』(1901)、次が『ハスケル氏断食諸病新療法』(1903)と、のっけから聞いたこともないタイトルが並ぶ。
 中にはSF奇書コレクターの著者らしい本も混じっている。例えばハガードの『ソロモン王の洞窟』の翻案『魔境の宝庫』(昭和14)。これは『新少年』の付録。また、1978年から3年間刊行されただけのハヤカワ文庫Jrなんてのも紹介されている。その1冊が『超人ハルク対スパイダーマン』。
 全然知らない本だが、これでも第1部ではかなりメジャーな方だろう。
 なにしろ、仲には寺が発行した本とか(『中宮寺』)、戦後まもなく発行された、警察学校の教材らしき本(『犯罪事実記載例』)なんて超マイナーな出版物まであるのだ。
 第2部は、1891年の国民叢書『進歩乎退歩乎』に始まり、1951年の市民文庫『折蘆』まで、今ではなくなってしまった文庫シリーズを中心に、その文庫の本を1冊ずつ取り上げていく。文庫そのものを紹介することが趣旨のようで、個別の本よりもシリーズ自体の歴史を中心とした説明が多い。今となっては貴重な本ばかりなのだろうが、あまり変な本はない。
 第3部は、1ページに1冊、文庫の表紙を大きく載せ、簡単な解説をつけたもの。コレクション披露みたいなものである。ここにも観音文庫『観音経の話』とか、真昼文庫『民謡の旅』とか、聞いたこともない本が混じっているが、やはり第1部のような変な本は少ない。
 珍しいのは、葬式で配られる「マンジュウ本」の数々。福島正実の葬式の香典返し、角川文庫特装版『就眠儀式』(著者はもちろん福島正実)とか。

 この著者の奇書コレクション紹介本を本ブログで取り上げるのは、3冊のSF奇書紹介本も含めて、今回で5冊目。相変わらず読み物としては面白い。しかし登場する本がマニアックすぎて、読書ガイドとしてはほとんど役に立たないのも相変わらず(もう慣れた)。

Furuhonbunko

| | コメント (0)

2019年7月14日 (日)

虎バカ本の世界

虎バカ本の世界 阪神タイガースを「読む」/新保信長(ワニブックスPLUS新書,2017)
 タイガースファンによる57冊のタイガース本を集めた、熱いレビュー集。書評のあちこちに著者のタイガース愛がみなぎっていて、この本自体が立派な「虎バカ本」と言える。
 内容は、虎バカ本を6種のカテゴリーに分類して、それぞれに1章をあてている。

 第1章「純粋虎バカ本」は、有名無名の人々の、「虎への想いがあふれまくる」本。いきなり歌集や詩集から始まるのが意表をついている。『歌集 阪神タイガース 虎にしびれて』(小杉なんぎん)など10冊。
 著名なスポーツライターが書いた河出文庫の『タイガースへの鎮魂歌』(玉木正之)みたいなわりとメジャーな本もあれば、チャンネルゼロから出た『ええかげんにせいっ! タイガース』(レオナルドいも)みたいな、同人誌みたいな本もある。90年代暗黒時代の本が多いのは、逆境の時こそ虎バカ魂が燃えあがるということか。
 第2章「便乗虎バカ本」は、タイガースがたまに強くなった時期に作られた便乗本。1985年や2002年、2003年に出た本が多い。即席感に満ちた『獣王無敵!嗚呼タイガース』など9冊。便乗本でも即席でも、著者にとってはタイガース愛さえあればいいらしい。
 第3章「うんちく虎バカ本」は、タイガースに関する知識、情報、評論などの本9冊。辞書スタイルの『甲子゛園[こうじえん]』(由倉利広)、1年365日のタイガースに関する出来事を集めた『今日も明日も阪神タイガース!』(近藤道郎)みたいなオタク本があるかと思えば、京都や関西について次々と話題の本を出している井上章一が書いた『阪神タイガースの正体』みたいな、ちょっと学術的な本もある。
 第4章「有名人虎バカ本」は、とにかく有名人のタイガースファンが書いた本10冊。『マンボウ阪神狂時代』(北杜夫)に始まり、月亭八方、道場洋三、江國滋、ダンカン、松村邦洋など、いかにもな顔ぶれが並ぶ。読まなくてもだいたいの内容は想像できるような気が…。
 第5章「内幕虎バカ本」は、タイガース関係者や記者、スポーツライターが書いた、タイガースの裏面に踏みこんだ本9冊。負の面を暴露しているところがあっても、「根底にはやはり愛がある」のだそうだ。バースと親交のあった評論家が書いた『この一年 バースが言いたかったこと』(平尾圭吾)など。
 変わったところでは、甲子園の舞台裏を捉えた写真集『もうひとつの阪神タイガース』(妹尾豊孝)なんて本もある。
 第6章「フィクション虎バカ本」。最後の章は小説とマンガ10冊。この中で、『新本格猛虎会の冒険』は読んでいて、前に本ブログでも紹介したことがあるが(2007年3月24日のエントリー)、他はタイトルすら知らなかった本が多い。『ヒーローインタビュー』(坂井希久子)は、この本で知って、その後読んでしまった本。実のところ、この章が一番、読んでみたくなる本が多かった。

Torabakabonnosekai

| | コメント (0)

2019年3月12日 (火)

本のなかの旅

本のなかの旅/湯川豊(文芸春秋,2012)
 旅の本についての文学的エッセイ。元は文藝春秋のPR誌『本の話』(現在は休刊)に連載された記事をまとめたもの。
 本に書かれた旅についてのエッセイというと、去年本ブログで紹介した高田宏の『旅の図書館』(2018年5月13日のエントリー)と趣向は同じである。
 それに、高田宏も本書の湯川豊も、編集者で文藝評論やエッセイを買いている点が共通している。よく似た著者が、よく似たテーマの本を書いているのである。
 紀行、旅行記、旅を扱ったエッセイ、文学作品、ノンフィクションなどを取り上げ、その成り立ち、内容、著者の人間像、そして旅とは何かということまで、深く掘り下げていく。『旅の図書館』も本書も、そんな本なのだ。

 ただ、『旅の図書館』に比べると、引用部分は少なく、本そのものより著者の人生に焦点を当てている。『旅の図書館』の各章のタイトルが、「本」であったのに対し、本書では「人」がタイトルになっていて、書名は表に出てこない。また、1冊の本だけでなく複数の本を取り上げていることもあるし、逆に本の一部だけを取り出していることもある。
 言わば「旅の本を書いた人々の列伝」みたいな内容。そして『旅の図書館』と重複して出てきている人はいない。
 登場する「旅人」は18人。その内外国人が6人という顔ぶれ。

 最初は、民俗学研究家として日本全国を巡り歩いた宮本常一を語る「宮本常一 歩かなければ見えないもの」
 次は、まったく対照的に何の目的もなく列車に乗る内田百閒。『阿房列車』の旅について語る「内田百閒 用事がないから汽車に乗る」。しかし百閒の旅はただの呑気旅行ではなく、「しかしここまでくると、旅情とか旅愁とかとは別の何かが現れてきそうな気配がする。窓明かりをつけた夜汽車が向かう先は、この世ならぬ「異界」かもしれないのだ」と著者は語る。内田百閒のエッセイに漂う不穏な空気をよく表現している。
 さらに1989年に48歳で若死にした作家チャトウィンの旅を読み解く「ブルース・チャトウィン 歩く人の神様」と、目先が次々と変わる。
 また、旅行記として独立した著作がない作家も取り上げていて、その次の「吉田健一 一杯の天ぷら蕎麦」に出てくる吉田健一など、旅行記作家の印象はない。だが、著者は酒や食についてのエッセイや小説の中の断片的な文章から、旅する人としての著者の姿を浮かび上がらせている。このあたり、本書の特徴がよく出ている。
 開高健の「とり憑かれたような旅」を語る「開高健 永遠に、幸わせになりたかったら」。ここでは特に釣り紀行をクローズアップ。『私の釣魚大全』、『フィッシュ・オン』、『オーパ!』を中心に。小説『夏の闇』にも触れている。1冊の本ではなく、著作群全体から旅を読み取る、これもまた本書の特徴。
 こんな感じで、以降登場する作家、著者は次のとおり。
「ル・クレジオ すべては結ばれている」(ノーベル賞作家のメキシコでの経験)。
「金子光晴 かへらないことが最善だよ」(型破りな詩人の型破りな旅)。
「今西錦司 そこに山があるから」(山に対する「異様な情熱」)。
「アーネスト・ヘミングウェイ 川には鱒がいて」(ヘミングウェイの描く鱒釣りの魅力)。
「柳田國男 「なにヤとやーれ」の歌声」(『雪国の春』の中に紀行文の傑作を見る)。
「田部重治 そこに自由があるから」(日本の登山のパイオニアが残した記録)。
「イザベラ・バード 東北へ、もっと奥地へ」(女性旅行家の見た日本の奥の奥)。
「中島敦 光と風のなかで」(中島敦のパラオ諸島体験)。
「大岡昇平 「留学」作家の孤独」(『ザルツブルグの小枝』に見る「旺盛きわまりない勉学心」と「痛ましいほどの孤独」)。
「アーネスト・サトウ 時代の空気」(『日本旅行日記』に見るサトウの旅――山と自然、料理、温泉と、現在のインバウンドツーリストを先どりしている)。
「笹森儀助 そのとき南の島では」(明治中期の沖縄旅行記『南嶋探検』に見る悲惨な社会状況)。
「菅江真澄 「北」にみいられて」(旅行記を読むというより、東北の隅々まで経巡った謎の多い旅行家菅江真澄の小伝みたいなもの)。
 最後は「R・L・スティヴンスン 至福のとき」。スティヴンスンの44年の短い生涯は旅の連続、最後はサモアで客死した。しかし本編に出てくるのはアメリカやサモアへの大旅行ではなく、小説家になる前に書いた『旅は驢馬をつれて』というフランス南部紀行。「何事も起こらない小さな旅のことを語った、不朽の旅行記というべきものだ」という著者の言葉が締めくくり。

 特に印象深かったのは、開高健、金子光晴、スティヴンスンあたりか。ただ、内容はなかなかいいのだが、出てくる本の一覧がないのはちょっと残念。

Honnonakanotabi

| | コメント (0)

2019年3月 4日 (月)

読んでいない本について堂々と語る方法

読んでいない本について堂々と語る方法/ピエール・バイヤール;大浦康介訳(ちくま学芸文庫,2016)
 読んだことのない本について読んだと見栄をはるための秘訣や、読んでないと見破られないためのハッタリの技法を説いた本かと思ったら、全然違っていた。
 本書の第1章では、「未読の諸段階」として「ぜんぜん読んだことのない本」、「ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本」、「人から聞いたことがある本」、「読んだことはあるが忘れてしまった本」といった諸類型を掲げ、そもそも「本を読んでいる」「読んでいない」とはどういう状態か、という根源的な問題を問いかける。
 要するに本というものは読んでいても読んでなくてもたいした違いはないのだから、堂々とそれについて語ればいいのだというのが著者の主張。
 例えば、本は読んでもどうせ内容を忘れる。覚えていたとしても、正確に覚えている保証はないし、隅から隅まで全部覚えているはずはない。中には、読んだことだけは記憶しているが、中身をまったく覚えていない本もあることだろう。そんな本は「読んだ」と言えるのか。
 つまり本を読む人によって解釈も記憶も違うのだから、「同じ本」を読んでいると言えるのか。結局、人は頭の中のその本についてのイメージについて話をしているだけなのだ――。
 これは著者の説く論拠のひとつ。こんな議論が次々と出てくる。「未読の本でも堂々と語ってかまわない」という主張を、手を変え品を変え、1冊使って説明しているわけである。
 最後の方では、実際に人前で語る時の心がまえも指南してくれている。(「気後れしない」、「自分の考えを押しつける」、「本をでっち上げる」、「自分自身について語る」…)

 一見ふざけているようだが、読んでみれば「未読」をキーワードにした読書論であり、文学論であり、人生論でもあるのだった。
 本書を読めば、少なくとも、読みたくもない本を有名だとか古典だとかいう理由で無理やり読まなくてもいい、という気分にはしてくれる。少なくとも、全部読み通す必要はない。例えば著者の言うには、『失われた時を求めて』なんて、どこを読んでも同じだから、一部分だけ読めばそれで十分なのだそうだ。
 しかしだからといって、「本など全然読まなくていい」と主張しているわけではないので注意すべきだろう。著者の読書量は恐るべきものなのた。実際に大量の本を読んでないと、「読まないで語る」こともできないのである。

Yondeinaihonnitsuite

| | コメント (0)

より以前の記事一覧