ミステリ

2009年12月 2日 (水)

木曜日だった男

木曜日だった男 一つの悪夢/チェスタトン;南條竹則訳(光文社古典新訳文庫,2008)
 『木曜日の男』という訳題で創元推理文庫から邦訳が出ていた、チェスタトンの代表作にして世紀の奇作。
 若き詩人ガブリエル・サイムは、友人のグレゴリーに案内されて、無政府主義者の集会に参加する。グレゴリーは正真正銘の無政府主義者で、冷笑的なサイムといつも議論を闘わせていた。そのグレゴリーが、ある時議論の勢いで、自分の思想がいかに真剣なものであるか証明するために、サイムを秘密の集会に連れていくことになったのである。
 ところが実はサイムは、スコットランド・ヤードから特命を受けた秘密警察官で、グレゴリーとの議論も、無政府主義者の地下組織に潜入するための作戦なのだった。このサイムが警察に採用されるくだりのエピソードが、実にナンセンスでおもしろい。というか、サイムとグレゴリーが浮世離れした議論をかわしている最初のシーンから、現実を遊離したような雰囲気が充満している。
 サブタイトルに「一つの悪夢」とあるが(これは原題でも、"a nightmare"とそのまま)、確かに冒頭から、夢の中のような不条理で非現実的なムードが覆っているのだ。具体的に非現実的なものごとが描かれているのではないにもかかわらず。この非現実感は加速度的に濃くなっていく。
 サイムは舌先三寸(詩人だからレトリックには長じているらしい)で、まんまと無政府主義者の組織に潜入することに成功する。それもたった七人しかいない、幹部の一人におさまってしまうのだ。七人の幹部は、リーダーである「日曜日」を筆頭に、それぞれ曜日の名で呼ばれている。ねじれた微笑を浮かべる「月曜日」、爆弾魔にしかみえない「火曜日」、黒眼鏡の医者「土曜日」など、邪悪そうな連中ばかり。
 この組織の中で「木曜日」と呼ばれることになったサイムは、無政府主義者たちの陰謀を阻止するため、奮闘を始める。が、事態は彼の予想もしなかった方向にどんどん進んでいき、この作品の冒頭部分に出てくる表現を借りれば、「狂った冒険」、「暗くめちゃくちゃな闇の綴織り」が展開される。物語そのものが、次第にシュールでコミカルでしかもブラックなドタバタ劇と化し、と同時に、詩的でもあり哲学的でもあるという、なんだかわけのわからない様相を呈していくのだ。ラストに至っては、夢だったのか現実だったのかわからない。
 この小説は、一般的にはミステリに分類されることが多いし、幻想文学の側からは、一種のファンタジーと見られてもいる。しかし、読んだ印象では、「不条理アクション小説」と呼ぶのが一番ふさわしいような気がする。ストーリーは全然違うのだが、雰囲気的に、同じイギリスの風土が生み出した不条理ドラマの傑作「プリズナーNo.6」を連想してしまった。主人公が本名ではなく記号で呼ばれているところ、敵の「リーダー」の正体が謎に包まれているところ、誰が味方で誰が敵かわからなくなっていくところ、夢か現実かわからない結末など、共通する点もある。
 なにより、どっちの物語も、一見日常的なようでいて、とんでもなく非現実的な世界が描かれている。今の日本で言えば、森見登美彦の世界にも通じるものがあるかもしれない。
 このきわめて現代的なセンスの奇想に満ちた作品が、百年以上前(1908年)に書かれていたというのは、驚きである。

木曜日だった男 一つの悪夢 (光文社古典新訳文庫)

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2009年10月24日 (土)

配達あかずきん

配達あかずきん/大崎梢(創元推理文庫,2009)
 これが著者のデビュー作である(単行本、2006年)。わりと珍しい(?)「普通の本屋を舞台にした本屋ミステリ」。古本業界を舞台にしたミステリは、紀田順一郎や横田順彌や出久根達郎など、何人もの作家が書いているが、新刊書店を舞台にした作品は、ありそうであまりない(と、思う――本来ミステリファンではないので、このへんちょっと弱気)。
 物語の舞台は、ビジネス街の駅ビルにある本屋、成風堂。主人公はバイト時代も含めると書店員歴6年の店員、杏子(24才)。よくあるパターンで探偵役は別にいて、なぜか飛び抜けた推理力を持つ大学生アルバイトの多絵(21才)。二人とも外見に関する描写がないため、どんな姿形をしているのかさっぱりわからないが、とにかくこの娘二人が書店で起きる様々な謎の事件に挑むという連作。
 書店という限定された舞台で、けっこういろいろなパターンの謎が持ち上がる。
 「パンダは囁く」では、病床の老人が依頼した本の注文が持ち込まれるが、それがまったく意味不明の暗号になっている。
 「標野にて 君が袖振る」では、書店の常連の老婦人が普段買うことのないコミックを購入、その直後に行方がわからなくなる。
 表題作、「配達あかずきん」は、雑誌の配達を巡るトラブル。雑誌の間にいつの間にかはさまっていた悪意ある写真、事故に遭う店員。収録作の中では、一番複雑な事件である。「あかずきん」というのは、トラブルに巻き込まれたちょっと頼りないアルバイト店員に対し、主人公が「あかずきんを送り出した母親の心境」になりかけたことから来ている。やや無理やり気味ではあるが、印象的なタイトルになっているのは確か。
 「六冊目のメッセージ」では、入院していた娘に母親が差し入れた5冊の本が謎を生む。母親は成風堂で「店の人」に差し入れの本を選んでもらっていたらしいのだが、個性的で意表をつき、しかも的確なラインナップを選び出した該当者は、店員の中にいない。書店の中にいて、その本を選んだのはいったい誰なのか…。
 最後の「ディスプレイ・リプレイ」では、とあるコミックの販促用に作った大がかりなディスプレイが、一夜にして無惨に壊される。これはまあ、事件こそ特異だが、わりと普通の犯人さがしと、動機さがしである。
 こんな感じで、起こる出来事はどちらかというと日常の範囲内。加納朋子や北村薫の系統の「日常の謎」を解くミステリ、という印象を最初は受ける。が、実はそうではない、殺人未遂がからんだりする、れっきとした犯罪が暴かれるエピソードもあるのだ。そうかと思うと、過去の意外な事実を巡るしみじみした話だったり、本当に「日常の謎」で、実はちょっとした誤解だったことがわかる話もある。
 要するに、謎の裏にあるのが本当の犯罪なのか、「ちょっといい話」で終わる話なのか、読んでみるまで着地点がわからない。けっこう油断のならない連作なのである。ただ、後味の悪い話はひとつもない。
 この「成風堂書店事件メモ」シリーズは、現在までにさらに2冊が刊行されている。本好きとしては、ちょっと気になるシリーズではある。

配達あかずきん―成風堂書店事件メモ (創元推理文庫)

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2009年10月12日 (月)

9月に読んだ本から

 9月に読んだ本の中から、比較的最近出た本を2冊。

ミステリーの人間学 英国古典探偵小説を読む/廣野由美子(岩波新書,2009)
 著者は別にミステリー(本書では一貫して「ミステリ」ではなく「ミステリー」と書いているので、それに合わせる)の専門家というわけではではない。本業は英文学者で、京都大学教授、専門はイギリス小説史。しかし固い本ばかり書く人ではなく、「フランケンシュタイン」を題材に文学批評理論を実践するとどうなるか、という『批評理論入門』(中公新書)などは非常におもしろかった。
 この本は、そんな文学史の研究家が、ミステリーを語る本。当然ながら、その立場は普通のミステリー愛好家とは違っている。19世紀から1930年代までのイギリス作家をメインに、代表作を何編が取り上げてストーリーや描写を細かく分析し、文学の伝統に沿って、「小説」としてのミステリーを探求したもの。
 イギリスのミステリーは、「人間を描く」というイギリス文学の伝統の中にあるのだそうだ。逆にいうと、「人間を描く」ミステリーにしか、著者の興味はないということでもある。
 「あとがき」で著者ははっきりとそのことを書いている。

 一読者としては、クリスティーが、「背後に一種の情熱を秘めた探偵小説」と呼んでいるようなミステリーしか、好んで読む気はしない。それは、言い換えるなら、暴力性やトリックの巧妙さを超えた何かがあとに残るような、上質なミステリーである。読み捨てにしてしまえないその何かとは、人間性に関わるものであるにちがいないと、私には思えた。

 「上質」という言葉が出てくるあたり、学問の世界ではいまだに文学の階級意識が生きていることを感じさせる。この「あとがき」によれば、著者はこの本を書くため、かなりのミステリーを読んだらしいが、かなり辛かったらしい。本質的にミステリー読みではないのだろう。
 そんな「文学」の世界の人間である著者が取り上げた「古典探偵小説」というのは、例えば前半ではディケンズの『荒涼館』や『エドウィン・ドルードの謎』、ウィルキー・コリンズの『白衣の女』に『月長石』。文学だかミステリーだかわからないような作品たちである。
 後半になるとさすがに正真正銘の古典的ミステリーが出てくる。ドイルのシャーロック・ホームズもの、チェスタトンのブラウン神父ものに『詩人と狂人たち』、クリスティの『アクロイド殺し』、『オリエント急行殺人事件』など。
 この本はミステリーの紹介ではなく、作品研究が主目的なので、当然ながら作者はトリックや真相を明かすことなどは気にしない。ネタバレ満載である。誰でも知ってるような作品ばかりなので、気にすることはないのかもしれないが、間違っても、読んだことのないミステリー作品の紹介本として、本書を使ってはいけない。本書はミステリー好きのための本ではないし、ましてや、決してガイドブックなどではないのだ。
 取り上げられた作品をすでに読んだ人間にとっては、あの作品はこんな読み方もできるのか、とか、あるいは、こんな風に文学作品としての分析ができるのか、とか、新しい見方を知ることができるだろう。取り上げられた作品を読んでいる方が、本書は理解しやすいのである。かく言う私も、この本を読む前に、未読だったクリスティの作品を読んでしまった。

ミステリーの人間学―英国古典探偵小説を読む (岩波新書)

ノパルガース/ジャック・ヴァンス;伊藤典夫訳(ハヤカワ文庫SF,2009)
 唐突に出版された60年代SF。何を隠そう、私はジャック・ヴァンスのファンで、新しい翻訳が出たというだけで、ほとんど中身も見ずに買ってしった。
 最初、イグザックスという宇宙のどこかの惑星で、延々と続く内戦の有様が描かれる。どうもこの惑星は「ノパル」という精神生命体みたいな存在の侵略を受けていて、そのノパルに操られる側と、反ノパル派とが争っているらしいのである。結局、全惑星を荒廃させた戦いの果てに、反ノパル派が勝利するのだが、宇宙の彼方にノパルの巣である「ノパルガース」があって、そこのノパルを根絶やしにしない限り、侵略は続く。イグザックス人たちは「ノパルガース」での戦いを決意する。
 舞台は一転して、現代(1960年代)のアメリカ。国防総省の研究機関であるARPA(インターネットの原型であるARPANETを作ったことで知られる機関)の職員、ポール・バークの元に見知らぬ男から、信じられないようなことが起きているから至急誰か来てくれ、との連絡が入る。半信半疑のバークの元へ、男から証拠品が届く。重力を無視して宙に浮かぶコイン大の円盤。未知のテクノロジーの産物である。
 本当にとんでもないことが起きてるらしいと察知したバークは、男の家に駆けつけるが、そこに待っていたのは異星人――。ここまでわずか20ページ。とんでもなく早い展開である。
 舞台が地球に変わったところで、読者の大半は気づくと思うが、精神寄生体、ノパルの巣窟であるノパルガースというのは、地球のことなのだ。地球人は全員、知らないうちにノパルを一匹ずつ頭に載せて生きているのである。バークの前に現れた異星人は、当然地球に遠征してきたイグザックス人なのだ。
 で、イグザックスに拉致されたバークは強制的に(拷問としか思えない方法で)ノパルを除去される。イグザックス人の言い方だと、「浄化」である。「浄化」された者は、今まで見えなかったノパルが見えるようになる。その上でバークは、地球に戻って人類を「浄化」する事業にかかれ、失敗したら地球をぶっ壊す、という世にも無茶な使命をイグザックス人から押しつけられる…。
 なんだか、いくらでも拡散し、長大化しそうな話だが、バークが地球に帰った後は、同僚のラルフ・ターバート、恋人のマーガレットとの3人だけで事実上話が進行。内輪だけで何やらごちゃごちゃやってる内に、話が予期しない方向にどんどん進んでいき、最後はバークたちはどこか宇宙の果ての星まで行き、何やら無気味な生命体と対決することになる。
 とんでもない展開である。特に後半は、B級テイストがあふれまくっている。ジャック・ヴァンスというのは、こんな話を書く人だったのだろうか、という気もするが。
 で、薄い。字も大きい。最近の海外SF長編の5分の1か4分の1くらいの分量しかない。さすが60年代。複雑なサブストーリーの絡み合いも、細かい人物描写や人間関係の説明もなく、実にあっさりと読める。
 だけど、正直言って、ジャック・ヴァンスのファンと50、60年代B級SFのマニア以外は、読まなくていいような気がする。

ノパルガース (ハヤカワ文庫SF)

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2009年10月 9日 (金)

館島

館島/東川篤哉(創元推理文庫,2008)
 綾辻行人の「館シリーズ」のパロディかとも思われる、ギャグタッチのミステリである。単行本は2005年発行。
 舞台となる「館」は、岡山でのみ有名な天才建築家、十文字和臣が、瀬戸内海に浮かぶ横島に建てた別荘。六角形で中心に巨大な螺旋階段があり、屋上に四つに区切られたドームがあるという、奇妙な建築である。館の名称はない(このことが実は重要な意味を持っていることが、最後にわかる)。時代は1980年代に設定されていて、岡山と香川を結ぶ瀬戸大橋がまだ建設中、横島はその瀬戸大橋の下になる予定、という設定である(そのことにも意味があることが、最後にわかる)。
その別荘で、主である十文字和臣自身が急死する。墜落死であることは確実だが、どこからも落ちたことがないという謎の死であり、警察が捜査するも真相は一向に解明されない。
 事件が迷宮入りしたままの7ヶ月後、十文字和臣の未亡人は、独自に事件の解明をもくろんで、墜死事件の時に滞在していた関係者たちを再び別荘に呼び集める。さらに、遠い親戚にあたる刑事と女私立探偵も――。
 そして、再び館で殺人が起こる。そうでないと話にならないのだから当然である。しかも密室状態での殺人と、またしてもあり得ない場所での墜落死。
 物語の中心になるのは、岡山県警の刑事である相馬隆行、私立探偵の小早川沙樹、招待客の一人で地元の議員の娘、野々村奈々江。この3人が謎に挑むわけだが、相馬隆行は的外れな言動ばかりするお調子者かつ粗忽者で、小早川沙樹は傲慢で粗暴な上に飲んだくれ、野々村奈々江は天然ボケのお嬢様である。
 ほぼ全編、この3人を中心とした、間の抜けた会話とどつき合い(というか、相馬が一方的にどつかれているのだが)の連続で、その合間に事件がちょこちょこ起こるという具合。これで話が進むのかと思うのだが、それでもちゃんとストーリーは展開し、推理が繰り広げられていくのは、ある意味大したもの。
 もっとも、ギャグの部分をカットすればページが3割は減るのではないか。それだと全然おもしろくなくなるだろうが。
 最後は、小早川沙樹が一応探偵役を全うして、殺人事件の犯人と、十文字和臣墜死事件の真相まで解き明かす。すべての鍵は、この奇妙な建物にあったのだ――。
と、とりあえずミステリらしく終わるのだが、なんなのか、このトリックは。建物がああなってこうなっていたなんて。これ自体が壮大なギャグではないのか。感心するべきか、あきれるべきか、怒るべきか、よくわからない。こう感じること自体が、著者のペースにはまってしまっているのだろう、多分。

館島 (創元推理文庫)

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2009年9月26日 (土)

スネークスキン三味線

 前回に続いて、庭師マス・アライ事件簿の2作目。実は読んだのはこっちが先だった。

スネークスキン三味線 庭師マス・アライ事件簿/ナオミ・ヒラハラ;富永和子(小学館文庫,2008)
 前回も書いたように、主人公マス・アライ(姓を漢字で書くと「荒居」だということが、今回初めて明らかになる)はカリフォルニアに住む庭師だが、その経歴はいささか複雑である。戦前アメリカで生まれ、一旦日本に帰り、原爆投下の時広島にいたが生き延びて、戦後アメリカに戻ってきた、そういう設定なのだ。本文中にも書かれているが、ただの日系人ではなく、「キベイ(帰米)」。これは著者自身の父親の経歴を反映しているらしい。
 今回、物語はカリフォルニアの日系人社会で展開する。前回はアウェーだったが、今回はホームゲームというわけだ。だが、今度の事件も一筋縄ではいかない。
 マスは友人である弁護士ハスイケ(前作にちょっとだけ出てくる)から、自分が主賓となったパーティで起きた殺人事件の捜査を依頼される。というか、正確には、ハスイケのガールフレンドである私立探偵ジャニタ・グシケンの捜査への協力を頼まれる。ニューヨークでの事件を解決した手腕を買い、ジャニタが危なっかしくて見ていられないから、ついてやってくれというわけだ。
 マスは事件が起きたパーティに出席していたのだが、ハスイケから依頼を受けるまで、自分で解決に乗り出す気は全然なかった。今回も不本意ながら探偵役を引き受けるのである。
 ジャニタ・グシケンは、姓が示すように沖縄系3世で、事件の鍵を握っているのも、事件現場に落ちていた沖縄の三線。タイトルの「スネークスキン三味線」というのは、もちろんこの蛇の皮を張った三線のことだが、作品中では、ちゃんと"サンシン"と呼ばれている。そして、殺された被害者も、沖縄系日系人。とにかく、沖縄に縁がある事件なのである。マスとジャニタがわずかな手がかりを元に犯人をさがす内、沖縄と日系人の歴史に関わるある悲劇が浮かび上がってくるのだった。
 前回も書いたようにマス・アライはいわゆる名探偵タイプというわけではないし、今回相棒となるジャニタ・グシケンもまた同じ。超人的な推理力を発揮して、事件の真相や犯人を見抜くわけではない。前作と同じように、少しでも関係のありそうな人々や場所をこつこつと調べ回っているうちに、いつのまにかもつれた糸がほぐれ始め、真相が見えてくる。
 今回、マス・アライはひとつだけ特別な能力を発揮する。漢字を知っていることである。その知識のおかげで、事件に重要な関わりを持つ二つの名前が、実は漢字で書くと同じであることを見抜くのだ。
 とはいえ、基本的なパターンとしては前回と変わりがないが、なんとなく読んでしまう、地味だが気になる、そういう作品である。日系人の目から見たアメリカを描いたエンタテインメント小説なんて、他にあまり例を見ない。例によって、文中には、"オセワニナッタ"、"ウルサイ"、"メイワク"、"バカイウナ"、"ドロボー"といった日本語が頻出する。今回、特に重要性を持つ日本語は、"ナマエ"。見慣れた言葉がなんとなくエキゾチックに見える。

 ところで、この小説にはマスの好物として「スパム・ムスビ」が何回も出てくる。スパム・ムスビで始まってスパム・ムスビで終わるのだ。表紙にもこのスパム・ムスビが出てくる。このいかにもB級テイストにあふれた食べ物が、読んでると気になって仕方がない。

スネークスキン三味線―庭師マス・アライ事件簿 (小学館文庫)

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2009年9月25日 (金)

ガサガサ・ガール

ガサガサ・ガール 庭師マス・アライ事件簿/ナオミ・ヒラハラ;富永和子訳(小学館文庫,2008)
 カリフォルニアに住む日系人庭師マス(マサオ)・アライを主人公とするミステリの第1作。
 著者も名前でわかるとおり、日系アメリカ人。日系人が書く日系人の物語である。
 「ガサガサ」というのは、日本語の「ガサガサしている」の「ガサガサ」。原題もそのままGasa-Gasa Girl。マス・アライの娘マリは、小さい頃ちっともじっとしていないので、「ガサガサ娘」と呼ばれていた。そのマリも今では結婚してニューヨークに住み、子供もいる。マス・アライが70歳なので、娘もそれなりの年なのである。
 だから、この物語には、正確に言うと「ガサガサ・ガール」は出てこない。もっとも、カリフォルニアから来たマスに言わせると、ニューヨークは「みんなガサガサ」だということなのだが。それはともかく、「元ガサガサ・ガール」マリとマスとは、長年疎遠になっていて、その母親、つまりマスの妻が死んだ後は、ほとんど口も聞いてない。
 そんなマリが、ある日突然マスに電話をかけてくるところから物語は始まる。困ったことになっているので、ニューヨークに来て助けてほしいというのだ。わけがわからないままマスはニューヨークに飛び、マリの家を訪ねる。ところがマリと息子は行方不明で、義理の息子のロイドが一人困り果てている。ロイドもやはり庭師なのだが、修復を頼まれている庭が荒らされる事件が続いている。おまけに女房と子供が行方をくらましたのだから、困るのも当たり前である。
 マリは自分に会いたくないので行方をくらましたのかもしれない――そう思ったマスは、ロイドを妻子の捜索に向かわせ、自分は問題の庭がある邸宅を見に行く。ところがそこで見つかったのは、邸宅の主カジー・オーウチの他殺死体。ミステリの本番開始である。
 だが、この時点でマスには、事件の解決に乗り出す気などまるでない。殺人事件はほっておいて、騒ぎの最中に姿を現したマリと短い会話をかわし、相変わらず父娘の関係がうまくいく気配がないのに嫌気がさして、カリフォルニアに戻ろうとする。
 ところがその矢先、オーウチ殺しを捜査していた警察がロイドとマリに疑いの目を向ける。息子夫婦の嫌疑をはらすため、マスはちっともガサガサしてないマリを助手役に、日系人たちや、アジア人専門の弁護士ジニー・イーの協力を得て、真相究明に乗り出す。
 マス・アライは素人探偵の典型で、捜査や尋問の技術を持っているわけでもないし、推理力が鋭いわけでもない。ただ、観察力と粘り強さを武器に、関係のありそうな人物や場所を丹念に調べてまわり、じわじわと解決に近づいていくのだ。
 アジア人差別、戦争中の日系人強制収容といった重いテーマも出てくるし、事件の背後にあるのも人種問題がからむ家庭の悲劇である。暗い話になっても仕方がないところだが、マス・アライの飄々としたキャラクターのせいか、あまり深刻なトーンにはならない。殺人事件という難事を通じて、父と娘とのわだかまりが徐々に溶けていくあたりもうまく書けている。
 ミステリとして見るとあまり独創性はないし、波瀾万丈の面白さがあるわけでもない。だが独特の味がある。それはもしかすると、日本的な「義理と人情」の世界に通じるものかもしれない。日本人のよく知らないアメリカの日系人というものが、ちょっとだけ身近に見えてくる。
 要所要所ではさみこまれる日本語の単語が効果的である。"ガサガサ"はもちろん、"ビンボー"、" エライ"、"チャント"、"クルクルパー"(日本ではもう死語だが)、"ツマラン"、"カミサマ"等々。"バカタレ"と"アホ"の違いについての解説もある。もっとも、翻訳だと日本語の文章の中に引用符・カタカナで書かれているので、英語で読むほどの効果は生み出してないのだろうが。
 ところで、表紙にはマリとおぼしき女性が硝煙ただようピストルを手にしているが、実際にはこんなシーンはない。マリは作中で一度だけ実力行使するが、その時の武器は石である。なお、この表紙イラストは「さべあのま」。一部の人にしかわからないだろうが、なつかしい名前である。

ガサガサ・ガール―庭師マス・アライ事件簿 (小学館文庫)

 

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2009年9月13日 (日)

8月に読んだ本から

二壜の調味料/ロード・ダンセイニ;小林晋訳(ハヤカワ・ミステリ,2009)
 ロード・ダンセイニのミステリ短篇集。日本では、ファンタジーで名の売れた作家がミステリも書くことに何の不思議も感じない。外国でもまあ、基本的には変わりがない。が、ダンセイニとなると別である。ファンタジーで誰にも真似のできない独自の世界を築いた人が、ミステリを書く、ということに奇異な印象を持ってしまう。
 では、ダンセイニのミステリというのはどんなものなのだろうか。
 1編が短い。330ページほどの本に26編収録。1編あたり10ページ前後。ダンセイニの作品はファンタジーでもこれくらいの長さが普通である。
前半の9編が、スメザーズという男を語り手とする連作。スメザーズは「ナムヌモ」という変な名前の調味料を売って歩いている行商人で、同じフラットの同居人であるリンリーという青年が探偵役。
 シリーズ第1作で表題作にもなっている「二壜の調味料」は、死体なき殺人事件の謎を追う話で、犯人が死体をどうやって始末したかが焦点になっている。
本書の解説によると、この作品、江戸川乱歩から「奇妙な味」の代表作と激賞され、60年以上にわたって各種アンソロジーに収録されている傑作とのこと。スメザーズのまどろっこしい語り口が独特のムードを醸し出す中、最後に切れ味鋭いオチの一言が来るあたり、確かに印象的ではある。だが、60年前はショッキングだったかもしれないが、現在では「なるほどねえ」で済んでしまう結末でもある。
 この作品もそうだが、本書に収録された作品の共通する傾向として、いかにもミステリらしい「犯人捜し」や「動機の解明」や「アリバイ崩し」に関わる話は少なく、「犯人、あるいは探偵が、問題をどう解決したか」を語るものが多い。
 表題作の他に印象に残る作品として、「演説」がある。これも、「問題解決型」ストーリーの典型。国際情勢が不穏な時期、過激な言動で知られる国会議員が議院で演説を予定している。その演説が戦争を引き起こす危険があるとして、ある組織が中止するよう圧力をかけてくる。演説をやめさせるためなら、殺人も辞さないというのだ。議員は脅迫をきっぱりとはねつけ、警察が大量に動員されて彼の身辺を警備する。そして演説が予定されている当日、水も漏らさぬ鉄壁の護衛陣に守られた議員は議事堂に向かうが、その時、組織が取った行動は...。
 この結末は意表をつかれた。まさにイギリスの貴族ならではの発想である。
 ただ、大半の作品は、正直それほどのインパクトはない。「問題解決」が話のメインなので、そこの部分がよほどよくできていない限り、ドラマ性やスリルに欠ける面を補えないのだ。ファンタジー作品に見られる簡潔で引き締まった文章も見られない。どうも、ダンセイニにはやはりミステリの資質はないような気がする。私にとって(多分多くの人々にとってもそうだろうが)、ダンセイニはやはり『ペガーナの神々』の作者であり、それが一番ふさわしい。
 なお、少数だがミステリ以外の作品も混じっていて、古代の恐怖が甦る「アテーナーの盾」はファンタジー、チェス・ロボットを描いた「新しい名人」と、核兵器開発を巡る謀略劇「消えた科学者」は、ミステリ以上に珍しいSF的作品。どれも純粋ミステリよりは面白い。

二壜の調味料 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

戦国の城を歩く/千田嘉博(ちくま学芸文庫,2009)
 「ちくまプリマーブックス」から2002年に初版が出て、「ちくま学芸文庫」で再刊されたもの。
 「ちくまプリマーブックス」は今は「ちくまプリマー新書」に受け継がれているが、本来は中高生くらいを対象としたシリーズである。ある程度の学術的な内容を含んでいながら、当然ながら内容はきわめてわかりやすい。入門書としては最適である。
同じパターンとしては、網野善彦『日本の歴史をよみなおす』、 若桑みどり『イメージを読む』、黒田日出男『絵画史料で歴史を読む』などがあり、なかなかあなどれないシリーズである。

 それはともかく、この本は戦国時代を中心とした城について、調査研究の立場から初心者にもわかるように解説したものである。なにしろ、「城歩き」のすすめから入るのだからすごい。
 城郭好きにもレベルがあって、天守などの建物にしか興味がないのは超初心者、少しレベルが上がると、石垣とか堀、土塁しか残ってない遺構にも興味を持つようになる。さらに上のレベルになると、外観からはただの山にしか見えないところに、藪をかき分けて入り込み、草木に埋もれた曲輪や土塁、空堀の跡を見つけて往時の「縄張り」を再現することに情熱を燃やすようになる。これが「城歩き」である。「城歩きをすることは知的で活動的な生き方です」と著者は言うが、中学生や高校生に城歩きを勧めてどうするのかという気もする。
 だが、「城歩き」というのは、建物こそが城だと思っている人にとっては、城というものに対する見方ががらっと変わってくる概念であることには間違いなく、最初にこういうカルチャー・ショックを与えておくのは有効かもしれない。
 後半は、観音寺城、安土城、岐阜城などを取り上げて、戦国時代の城の発達史を解説しているが、ここにも研究者ならではの視点が見てとれて興味深い。さらに、巻末の参考文献一覧にも、城跡の発掘調査報告書や学術雑誌の論文などが並んでいる。本格的な城郭研究への手引き書にもなっているのだ。元が「プリマーブックス」だからといってあなどれない。
 「天守閣」イコール「城」だと思っている人にこそ、読んでもらいたい本である。

戦国の城を歩く (ちくま学芸文庫)

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2009年8月 1日 (土)

インシテミル

インシテミル/米澤穂信(文芸春秋,2007)
 時給11万2千円という信じられないような報酬を約束する、内容不明の「モニター」のアルバイト。その募集広告に応じた12人の人間が、「暗鬼館」と呼ばれる地下施設に集められるところから物語は始まる。
 プロローグにあたる部分で、「モニター」たち一人一人の募集動機が最初に並べられるのだが、後で登場する人物たちの誰がどれに当たるのかは、最後まで明確には明かされない。例えば、「波乱を期待し、自分の才覚を試すため応募した者」、「記述が真実かどうか確かめるために応募した者」、「条件のおかしさを間違いと決めつけ、他の短期雇いと並行して応募した者」、「冗談のつもりで応募した者」、「金が必要なので、警告を無視して応募した者」、「あやしい話だと想いながら、こんな話にのる馬鹿をあしらってやろうと応募した者」―といった具合。誰がどれに当たるのか、よく読めば推測できるようになっている。
 でもまあ、それはどうでもいいので、問題は、「暗鬼館」に集まったのは12人なのに、ここに出てくる「モニター」は10人しかいないということ。そのことが後で重要な意味を持ってくる。
 「暗鬼館」に収容された「モニター」たちは得体の知れない「実験」のため、七日間そこに滞在することを強制される。法外な報酬は滞在中24時間支払われ、さらに、「人を殺した場合」、「人に殺された場合」、「人を殺した者を指摘した場合」、「人を殺した者を指摘した者を補佐した場合」、ボーナスが出るというとんでもない条件が提示される。「モニター」たちに割り当てられた個室には、殺人の道具とその解説書。個室のキーカードには、ミステリファンお馴染みの「ノックスの十戒」をもじった参加者の「十戒」が書き込まれている。
 つまり正体不明の「実験」の主催者は、「モニター」たちに殺人ゲームをやれと挑発しているのだ。もちろん、理性的に考えれば、殺人を強制されているわけではなく、何もせずに七日間滞在しただけで大金が手に入るというのに、たがいに見知らぬ「モニター」たちが殺し合う理由はない。最初はみんながそれで納得したかに見えた。だが、もちろんそれで終わっては小説にならないので、やがて一人目の犠牲者が出て、悪夢の幕が上がる――。
 という、まあ、きわめて異常かつ非現実的な、閉ざされた環境下での殺人事件を巡るミステリである。
 この設定の異常さは、森博嗣か西澤保彦が書いても不思議がないようなもの。だが、話の展開は、どちらかというとごく普通。例えば森博嗣なら、天才的な探偵役がいて、超人的な論理を駆使して謎を解明するだろうし、西澤保彦なら、みんなで酒を飲んで議論しながら、真実にたどりついていくだろう。
 だが、この物語に登場するのは、約一人を除いて、普通の人間たちだし、彼らの行動もおおむね常識の範囲内である。だからこそ、異常な舞台設定がひきたつのだが。

 ところで、タイトル『インシテミル』には、"The Incite Mill"という「英語題」がついている。厳密には、英語の発音どおりなら「インサイト・ミル」だが、それをどうしてこういうカタカナにしたのかという詮索までし始めるときりがないのでおいといて、この英語はどういう意味なのだろう。
 Inciteは、あまり見ない単語だが、辞書によると、「刺激する、励ます、扇動する」の意味だという。Millは、よく使われる単語。元々の意味は、製粉機。大きな臼で麦をごりごりと碾いて粉にする、あれである。「コーヒーミル」や「ペッパーミル」は、誰でも知ってるだろう。なお、「Miller」は、粉屋。「Windmill」は、「風車」と訳されるが、風車小屋の中では、風を動力として挽き臼が回っていた。そこから転じて、大きな工場のこともmillと呼ぶようになった。ちなみに、製粉機の中核をなす「碾臼」は、millstone。
 要するに、私が「ミル」で連想するのは、何かを入れて回すと粉砕する機械――ということだ。
 ではこの英語タイトルはどう解釈すべきかというと、内容から見て、inciteは「挑発」、millは、そのまま「ミル」。臼のように丸い建物に人間たちを放り込み、悪意と疑心、そして謎の死体という「挑発要因」と一緒に封じ込めて、ごりごりとかき回せば、死体が次々と生まれる。みたいなイメージ。
 こう書くと、ほとんど生き残る人間がいないみたいな感じになるが…。物語後半で登場人物の一人が「クローズドサークルは全滅あり」とのたまわったり、ラウンジにインディアン人形(ミステリファンならすぐに意味がわかるだろう)が置いてあったりするにもかかわらず、「そして誰もいなくなった」りはしない。その点、かえって意表をつかれるほどだ。
 仕掛けが大がかりな割には、事件の規模もその真相も、予想したほどではない。
 だが、最後の最後で、それもまた物語の仕掛けの一つだったことがわかる。
 エピローグにあたる部分のある箇所で、「<暗鬼館>実験は決して実り多いものではなかった」と、「実験」が不首尾であったとの評価が下されるのだ。この物語世界には、同じような「実験」を「興業」として企画する一族があちこちにいて、その出来を競い合っている。「暗鬼館」で事件のがなんだか中途半端に終わったのは、それが平凡な「興業」の一つに過ぎず、取るに足りない出来事であることを示唆しているわけだ。終わりのない殺人ゲームはまだ続いていくのである。
 そして、主人公の前には新たな「実験」への扉が開く。
 「実験」あるいは「興業」というのは、実はミステリ作家たちの創作活動そのものの比喩なのかもしれない。

インシテミル

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2009年7月13日 (月)

猫目石連続殺人事件

キャッツアイころがった/黒川博行(創元推理文庫,2005)
 1986年のサントリーミステリー大賞受賞作。
 滋賀、京都、大阪で連続殺人が起きる。最初は身元不明の男、続いて京都の大学生、三番目に大阪の日雇い労働者。一見まったく関係のない3人の被害者だが、死体の口の中にはなぜかキャッツアイが…。
 ―という事件の解決をめぐって、現場の各府県の警察と、二番目の犠牲者であった大学生のクラスメートたちが、それぞれ独自に動き出す。「独自に」というのが肝心なところ。だから、物語は三つの視点から進められる。
 メインのストーリーは女子大生の河野啓子と羽田弘美が主役。河野啓子がホームズ役で羽田弘美がワトソン役(あまり役に立たない)。二人は殺されたクラスメートが死の直前に旅行していたインドまで行ってその足取りをたどる。このインドでのエピソードでは、どんな波乱や冒険があるのかとけっこう期待していたのだが、意外とあっさり終わったのはちょっと残念だった。
 サブストーリーとして、滋賀県警の根尾と京都府警の五十嵐という二人の刑事の捜査活動が平行して語られる。これが2番目と3番目の視点。この事件には大阪もからんでいるのだが、大阪府警はほんの脇役で、独自のストーリーはほとんど出てこない。
 女子大生二人組と3府県の刑事たちは、同じ事件の犯人を追い求めながら、共同では行動しない。警察の目をかすめて行動している女子大生たちはともかく、滋賀・京都・大阪の警察の間にはかなり露骨な対抗意識や縄張り意識があって、一部重要情報こそ交換しているものの、最後まで捜査活動が平行線をたどっている。このあたりは妙にリアル。
 結局最後は、プロである刑事たちを出し抜いて、インドまで飛んで事件の手がかりをつかんだ女子大生たちが真相を明らかにしてしまう。予想どおりとはいえ、通常はあり得ないようなこの結末に自然に持っていくのは、構成のうまさだろう。
 ただ、肝心の連続殺人の謎解きの方は、納得はできるが驚くほどのものではなく、ちょっと拍子抜けしてしまう。だけどこれは、ミステリに「驚天動地の真相」を期待してしまう読み手側に問題があるような気がする。やたらと意外性を追求する新本格以後のミステリに慣れてしまったせいなのだろう。
 なお、本書はオリジナル出版時の1986年、「猫目石ころがった」のタイトルで、単発ドラマ化されている。見てないけど。

キャッツアイころがった (創元推理文庫)

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2009年5月 4日 (月)

不可能犯罪捜査課

不可能犯罪捜査課(カー短編全集1)/ディクスン・カー;宇野利泰訳(創元推理文庫,1970)
 ロンドン警視庁で「奇怪な事件を専門に処理するために設置された」D3課のマーチ大佐を探偵役とした連作6編と、それ以外の独立短編4編を収録。
 原題は"The Department of Queer Complaint"で、もちろんこのD3課のことを指しているのだが、これを直訳せずに「不可能犯罪捜査課」と訳したのは見事である。ただし、「不可能犯罪」という言葉自体は作品中に一度も出てこない。
 マーチ大佐は体重238ポンドの巨漢だが、見かけからは想像できない鋭い頭脳の持ち主で、ほとんどの場合、現場を一通り見ただけで、一件不可能な事件の真相を言い当てる。ただし、種明かしは「なんじゃそりゃ」と言いたくなる、拍子抜けするようなものが多い。
 このマーチ大佐が挑む奇怪な犯罪は次のとおり。
 「新透明人間」では、タイトルのとおり、目に見えない犯人による殺人事件、しかも犠牲者も見つからず、事件そのものが幻としか思えない。
 「空中の足跡」は、雪の中の殺人現場に残された、あるはずのないところにつけられた足跡と、あるはずのところに存在しない足跡の謎。
 「ホット・マネー」は、強盗が隠したはずだが、どうしても見つからない金のありか。正直、この作品の謎解きが一番しょうもなかった。
 「楽屋の死」は、楽屋で起きた女優殺人事件の犯人のアリバイ破り。どうでもいいが、事件自体は普通の殺人で、全然「不可能犯罪」じゃないぞ。
 「銀色のカーテン」は、犯人の姿も凶器も見えないのに、目撃者の目の前で、いつの間にかナイフで刺し殺されていた男の事件。タイトルがややネタバレ気味。
連作最後の「暁の出来事」は、これまた凶器も犯人も見えない状態で起きた殺人事件。
結局、トリックとして一番よくできているのは「空中の足跡」か。
 シリーズ外の4編についても、ざっと書いておく。
 「もう一人の絞刑吏」は、死刑執行をめぐる法の隙間をついた"完全犯罪"の顛末を描く。
 「二つの死」は、成功寸前で破綻した完全犯罪の話だが、怪奇小説風味が混じっている。
 「目に見えぬ凶器」は、イギリスのとある館を舞台に、17世紀に起きた奇妙な殺人事件を館の主人が語る。ゴシックロマン的な雰囲気はよく出ているが、凶器の正体にはあまり意外性がない。
 放送禁止用語をタイトルにした「めくら頭巾」は、これまたイギリスの古い館で起きた惨劇が題材だが、ミステリではなく完全な怪奇小説。
 結局、一番気に入ったのは、この怪奇風味あふれる「めくら頭巾」なのだった。次がミステリとはいえ謎解きタイプではない「もう一人の絞刑吏」か。謎解きをメインとするミステリは、やはり私の趣味に合わないのかもしれない。

不可能犯罪捜査課 (創元推理文庫―カー短編全集 (118‐1))

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