1月に読んだ本から3冊。
遣唐使/東野治之(岩波新書,2007)
この本の「はしがき」によると、遣唐使についての一般向けの本は半世紀余りも出てなかったのだそうだ。その間、歴史研究の分野では当時の国際関係についての研究が進み、従来の常識が覆されてきた。そんな最新の成果を踏まえ、遣唐使を通じた日本の外交史を解説する。
「一般向け」とは言っても、史料の引用や分析が多く、かなり専門的な印象を受ける人が多いだろう。決して読みやすい歴史読み物というわけではない。が、史料を通じて明らかにされる、日本と唐との外交関係の真相解読は、歴史に興味のある人間にはなかなか刺激的。
遣唐使は唐の側から見れば周辺諸国からの「朝貢使」の一つに過ぎず、日本からの使者もそのようにふるまっていた。その一方で、日本国内向けには、唐に持って行く品を、「唐への賜り品」と称し、日本こそが世界の中心であるかのように取り繕っていたのだ。まあ、当時そういうことをしていた国は日本だけではないかもしれないが。
遣唐使船が逆風で天候の悪い夏に渡海してたびたび難波していたのも、実は唐の朝廷での正月の儀式に間に合うように出発時期を選んでいたから(日本を出発してから長安に着くまで半年くらいかかる)なのだそうだ。正月には朝貢国の使者が揃って参賀することになっており、日本の使者もその中に混じって「皇帝陛下万歳(ワンセー)」と言っていたのだろう。
前に紹介した(2007.5.31)司馬遼太郎の『空海の風景』には、遣唐使船が夏に渡海していたことについて「この当時の日本の遠洋航海術は幼稚という以上に、無知であった。」と、さんざんなことを書いていたが、実はこういう事情があったのだ。
その他にも遣唐使のメンバー構成とか往来した品々の実態解明とか、小さなボリュームにかなりぎっしりと情報が詰め込んである。その分、上にも書いたようにとっつきやすさを犠牲にしているような感もあるのだが。
終章から「あとがき」にかけて、日本が「本質的に持つ鎖国体質」とか、世界的に見た日本の歴史の特異性とか、けっこう刺激的なことがさりげなく書かれている。
黒いハンカチ/小沼丹(創元推理文庫,2003)
小沼丹(おぬま・たん)というのは今では忘れられた作家らしく、私も当然ながら知らなかった。本来は文学畑の人で、余技にミステリを書いていたそうだ。
これは、その余技のミステリ作品で、オリジナルは1958年に刊行されたもの。とある女学院の女性教師、ニシ・アズマを探偵役とする連作短編集である。
学校の先生が探偵役、というと加納朋子や北村薫みたいな「日常の謎」的な話を予想する人がけっこういるかもしれない(実は私も、裏表紙の紹介文を読んでそう思った)。が、実は全12編中、窃盗(未遂も含む)が5件、殺人(傷害致死も含む)が6件と、ほとんどがれっきとした犯罪のからむ話なのである。残る一つだけが、犯罪ではない。そういう意味では本格ミステリなのだ。
なぜか殺人やら窃盗やらの現場に居合わせてしまうニシ・アズマは、鋭い観察力とひらめきで、犯罪の真相を瞬時に言い当ててしまう能力の持ち主。普段は眼鏡をかけてないのだが、その推理能力を発揮する時だけ、なぜか伊達眼鏡をかける。いっそのこと、その眼鏡に秘密があって、それをかけることにより平凡な女性が天才探偵に変身する、という設定の方がおもしろいような気がするが、そこまではじけた話ではない。
表題作になっている「黒いハンカチ」は、タイトルは印象的だが、字面から連想するような暗くおどろおどろしい雰囲気は全然なくて、実に淡々というか、裏表紙の紹介の言葉を借りれば「飄飄とした」話。実際のところ、この話だけではなくて、どの作品もそんな雰囲気(殺人事件が起きても!)なのだが。
収録作の中では、道端に落ちていた人間の手首を、どこからともなく走ってきた犬がくわえて消え去る、という事件を扱った「犬」が一番おもしろいかったのだが、書きようによってはいくらでもセンセーショナルに書けるこんな話も、やはり雰囲気はあまり変わらない。血のついた手首をくわえて走り去る犬を見て、「まあ、驚いた」なんてのんきに言ってるニシ・アズマに、「お前本当に驚いてるのか!」とつっこみたくなる。
なお、この作品の登場人物はなぜか全員カタカナで名前が表記されている(単に作者の方針で、別に未来が舞台とかいうわけではない)。主人公ニシ・アズマ(西東?)の友人がミナミ・タキコにヒガシ・ケイコといった具合で、何だか命名が適当である。このいい加減なカタカナ名前のせいで登場人物たちが記号化されているのに加え、ストーリーは謎解きだけに焦点が当てられ、犯人たちの身の上や動機はほとんど語られない。全体として非常にゲーム性の強い、ある意味時代を先取りした作風になっている。
神を見た犬/ディノ・ブッツァーティ;関口英子訳(光文社古典新訳文庫,2007)
古いSFファンにとって、ディノ・ブッツァーティは、イタロ・カルヴィーノと並んで、「イタリアのSF」を代表する名前である。昔ハヤカワSFシリーズから『偉大なる幻影』 という中編集も出ていた。
実のところ、ブッツァーティはカルヴィーノと同様にSF作家というわけではなく、一般文学の作家で、ただファンタジーやSFとしても通用するような幻想的作品が比較的多いというだけなのだが。
この本のオリジナルは、過去の短編のセレクションである『コロンブレ ほか50編の物語』(1966)。そこからさらに22編をセレクトして訳したもので、いわばセレクションのセレクション。この1冊を読めばブッツァーティの作品世界がだいたいわかる、ということだろう。
印象に残った作品をピックアップしてみる。
収録作の22編のうち、完全にSFと呼べるの唯一の作品が「秘密兵器」。東西冷戦を背景に両陣営の「最終兵器」の応酬を嫌みのきいたコメディに仕立て上げている。一昔前のショートショートに、こんな雰囲気の作品がよくあって、なんだか懐かしい味わいがある。
半分以上の14編はファンタジーと言っていい作品。宗教がらみの話が多い。
最初の作品「天地創造」は、タイトルどおり神による天地創造をコミカルに語る話だし、「聖人たち」、「風船」、「天国からの脱落」は、天国に住む聖者たちを主人公にした話。「高さ数十億光年に及ぶ高架の回廊」なんて、カルヴィーノ作品に出てきそうなぶっ飛んだ舞台設定もある。
この本の表題作で、収録作中一番長い「神を見た犬」は、一匹の犬の存在が村の人々の生活を変えていく話で、超自然的と言えるかどうか微妙なところだが、やはり一種の宗教的ファンタジーと見ていいだろう。ただ、こうした宗教をテーマにした作品は、キリスト教徒でない人間には今ひとつ理解しにくいところがある。
「コロンブレ」は、原典のタイトルにもなっているので、ブッツァーティの代表的作品と目されているのだろう。海の怪物につけ狙われる男の生涯を描いた作品で、他のアンソロジーにも翻訳が掲載されている。寓話、皮肉、幻想、それに宗教風味が混じっていて、確かにブッツァーティの作風が凝縮されている。
老山賊の最後の意地を描く「護送大隊襲撃」は、日本の時代小説みたいな「サムライの魂」を感じさせる。
表題作についで二番目に長い作品、「戦艦《死(トート)》」は、かつてSFマガジンに掲載されたこともあったが、どちらかといえばSFというよりファンタジーだろう。ナチス・ドイツが終戦間際に完成させた、謎の秘密兵器を搭載した巨大戦艦、<フリードリヒ2世>のすさまじい運命の物語。最初は第二次大戦秘話、みたいなリアルなムードなのだが、次第に話が幻想的になっていく。
「一九八〇年の教訓」は、ある手段により神が地球上に平和をもたらす有様を描く。フレドリック・ブラウンの短編「スポンサーから一言」でも、やはり神と思われる存在により地球上に平和が無理矢理もたらされるのだが、ブッツァーティのこの作品では、その方法が遙かに強引。
最後の作品「この世の終わり」は、神による最後の審判が実際に起きるという、これまた宗教的ファンタジー。最初の作品が「天地創造」で、最後が「この世の終わり」と、ちゃんと照応しているあたりが凝っている。
そのほかに超自然的な要素のない作品も7編あるが、別に写実的というわけではなくて、まず起こり得ないような話が多い。
特に病院を舞台にした「七階」。軽症で入院したはずの主人公が、あらかじめ定められた運命、としかいいようのない出来事の連鎖により、重症者の収容される下層病棟に引きずり込まれていく。最初から結末が予想できるとはいえ、これは怖い。
病院ものがもう一つあって、タイトルはそのまま「病院というところ」。病院がいかに悪意に満ちた場所であるかを語る。それにしても作者は病院や医者に何か恨みでもあったのだろうか。
私的ベストは、「戦艦《死》」、「七階」、「護送大隊襲撃」。
それにしてもこの「古典新訳文庫」、クラークの『幼年期の終わり』の新訳も出していたりして、目が離せない。