文学

2021年4月18日 (日)

滴り落ちる時計たちの波紋

滴り落ちる時計たちの波紋/平野啓一郎(文春文庫,2007)
 2004年刊の単行本の文庫化。
 この著者は1999年の芥川賞受賞当時、かなり話題になったので名前だけは知っていたが、2年ほど前にこの本を読むまで、全然読んだことはなかった。
 芥川賞受賞作の評判から、なんだか難解な作品を書く作家という印象があったが、読んで見るとそうでもない。ただ、実験的、とは言えるかもしれない。それにしても、収録作の作風がバラバラすぎて、どれが本来の姿なのかよくわからない。
 収録作は掌編から中編まで長短8編。

「白昼」
 白昼、一人の男が幻影の中に消え去る。途中から詩みたいなものになる実験的作品。本のタイトル「滴り落ちる時計たちの波紋」は、この作品の詩の部分に出てくる言葉。
「初七日」
 一転して、きわめてリアルな小説。一人の老人の葬式に集まった家族の様子や、息子である兄弟の思いを丹念に描いていく。文章も実に、普通の意味で文学的。
「珍事」
 わずか6ページの小品。大阪に出張したサラリーマンが体験した、実にどうでもいいような出来事と、それが心中にもたらした波紋を描く。
「閉じ込められた少年」
 これも6ページの小品。少年のいじめの記憶と、それがもたらした突発的な行動の瞬間を切り取る。
「瀕死の午後と波打つ磯の幼い兄弟」
 二つのパートからなる作品。ひったくり常習犯の男が交通事故で死にかける「瀕死の午後」と、幼い兄弟が潮の満ちてくる岩場に取り残される「磯の幼い兄弟」。一見何の関係もなさそうな二つだが、実は最後の文章で相互に結びついている(ということが解説を読んでわかった)。
「Les pepites passions」
 2ページのスケッチが5編。「彼方」、「数」、「性」、「記憶」、「自己」。どれも少年が主人公で、どれも最後には死ぬか消えるかする。
「くしゃみ」
 わずか2ページ。ひよわな男がくしゃみをして死んでしまうというだけの話。
「最後の変身」
 150ページ近くの長い作品。この作品だけ文章が横組み。それでいてページは普通に右から左に進んでいて、相当な違和感がある。
 内容は、ネットに入れ込んだあまり人生に行き詰まった男の、いつ果てるともしれない愚痴。読んでいていやになるような内容だが、ところどころ、ネットの世界への鋭い指摘がある。
「バベルのコンピューター」
 この作品だけ、これまでの収録作ときわだって作風が違う。クロアチア出身の芸術家イーゴル・オリッチの作った電子芸術「バベルのコンピュータ」に対する長文の批評。その作品は、ボルヘスの「バベルの図書館」をコンピュータにより再現しようという試みなのだった。
 実はこれは批評の形をとったフィクション。それらしい注もついているが、作者も作品もすべて架空である。架空作品の批評というと、レムの『完全な真空』が連想されるが、この作品はボルヘスに言及しているので、ボルヘス&ビオイ=カサーレスの架空評論集『ブストス・ドメックのクロニクル』へのオマージュなのだろう。
 収録作中ベストはこの作品。

Shitatariochirutokeitachi

| | コメント (0)

2021年3月 3日 (水)

言葉人形

言葉人形 ジェフリー・フォード短篇傑作選/ジェフリー・フォード;谷垣暁美編訳(東京創元社,2018)
 中・短篇13編をセレクトした日本オリジナル短編集。
 基本的にどの作品もファンタジーなのだが、現実に近い話から、幻想的要素がだんだん多くなるように配列しているのだそうだ。最後の方の数編はほぼ異世界ファンタジーになる。

「創造」
 好奇心から、森で集めた植物や石から「人間」を作った少年。キャヴァノーと名づけられた「人間」は行方をくらます。設定はホラーに見えるが、そこから父と子の物語に展開するところが普通のファンタジーと違うところ。。
「ファンタジー作家の助手」
 異世界「クリーゲンヴェイル」を舞台としたシリーズものファンタジーで売れている作家アシュモリアンのアシスタントになった女性メアリー。アシュモリアンは実際にクリーゲンヴェイルを幻視して見たままを物語にしていたのだが、ある時クリーゲンヴェイルが見えなくなる。メアリーはアシュモリアンに代わってクリーゲンヴェイルに入り込む。ファンタジーのパロディに見えるが、もっと深い。
「〈熱帯〉の一夜」
 バー「熱帯」を久しぶりに訪れた「私」は、少年時代の友人、不良のリーダーだったボビーと再会する。「熱帯」のバーテンダーになっていたボビーは「私」に、呪いのチェスの駒にまつわる昔話を聞かせる。収録作中では幻想性が一番薄い。
「光の巨匠」
 光を操る巨匠ラーチクラフト。その技術は「光の錬金術によっておぞましいものを美しく、使い古されたものを新品同様に、物質的なものを精神的に、偽りを真実に変える技」と描写されている。ラーチクラフトはインタビューに訪れた新聞記者に向かって、かつて見た生々しい夢の話をする。
「湖底の下で」
 湖底の下の洞窟に「薔薇色の硝子玉」が鎮座していて、その中には「一度だけ語られたが誰にも聞かれなかった物語が渦巻いている」。「私」が語るのはその硝子玉の中の、エミリーとヴィンセントという少女と少年の物語。
「私の分身の分身は私の分身ではありません」
 語り手「私」は自分の分身(ドッペルゲンガー)と出会う。この物語の世界は分身がいるのが普通らしい。分身の言うことには、分身の分身「ファンタスマ=グリス」が出現したが、それは凶悪な存在で、殺さなければならないという。気乗りしないまま、「私」は分身の計画に協力することになる。アクションもあり、収録作中一番わかりやすく読みやすい。
「言葉人形」
 作者の分身らしいジェフ・フォードと名乗る主人公は、ある日、道路脇の草に埋もれた看板に気づく。「言葉人形博物館」。その家を訪れると、現れた老婦人が、かつてこの地方にあった、農民の子どもが農作業の間集中力を保つための「野良友だち」という風習について語る。それは言葉だけで構成された架空の人形だった。そしてさらに彼女は、「野良友だち」の儀式が終わるきっかけとなったおぞましい事件について語るのだった。
「理性の夢」
 ここから後の作品は異世界の物語。大学都市ベルダンチの光の研究者アマニタス・ベラルは、光を減速させる実験に打ち込む。最終的に彼が光を静止させるための媒体としたのは、人間の精神だった。
「夢見る風」
 リバラの町には毎年<夢見る風>が通る。<風>は人間の体を含め、あらゆるものを変形させる。「混沌と雑多、現実全体のしっちゃかめっちゃか状態」が生じ、その作用は二、三時間続く。災厄とも言える<風>だが、なぜかある年から到来しなくなる。その時、人々は――という寓話めいた話。
「珊瑚の心臓[コーラル・ハート]
 この話はヒロイック・ファンタジー風。触れるものすべてを珊瑚に変える魔剣「珊瑚の心臓」(持ち主の異名でもある)を持つ剣士イズメット・トーラーが主人公だが、この男、果てしなく殺戮をくり返す殺人鬼。ある城に招かれたトーラーが、復讐の罠にはめられるという、実に殺伐とした話。
「マンティコアの魔法」
 王国を荒らしていた最後のマンティコアが仕留められた時、魔法使いワトキンはその死骸を前に、弟子の「ぼく」にすべてを記録するように命じる。人とマンティコアの奇妙なつながりが物語の核になっている。
「巨人国」
 人間を鳥籠に入れて飼う巨人が住む国。明らかに異世界だが、この世界とじかにつながっているらしい。<犬の背骨>という山地を通ると、アメリカのどこかから巨人国へ行けるらしいのだ。巨人国と宿命的なつながりを持つ女性アンナの不可解な遍歴が主なストーリーだが、話が奇妙な具合にジャンプして、不条理さに頭がよじれそうになる。ひょっとして傑作かもしれないという気もする。
「レパラータ宮殿にて」
 元海賊のインゲスが一代で築き、はぐれ者たちが集まって政府を形作る王国で、すべての人々から愛されていた王妃ジョゼットが死ぬ。壮麗なレパラータ宮殿は悲しみに包まれ、絶望した王は生きる力を失う。魔術師めいた老治療師が呼ばれて王の心を救うが、それには大きな代償が伴っていた。

 複雑な構成と予想のつかない展開、そして眩惑的な語りの技巧を駆使した精巧な文章が特徴。ファンタジーとかSFとかのジャンルを超越した作家の一人だろう。例えば、ルーシャス・シェパードやケリー・リンク、エリック・マコーマックあたりが似た作風と言えるだろうか。
 マイベストは「レパラータ宮殿にて」。次点は「巨人国」。

Kotobaningyou

| | コメント (0)

2021年2月19日 (金)

青春の文語体

青春の文語体/安野光雅編著(筑摩書房,2003)
 昨年12月に亡くなった安野光雅の本。主体は著者の本業である絵ではなく、あくまで文章。文語体への思い入れが過剰なほどに詰まっている。
 文語体=古くさいというイメージがあるが、著者にとって、文語体とは青春の覇気と熱情をこそ表現するための文体なのである。「文学は年齢ではないが、思うに文語文は、その文章の気負うところ、志の高さ、訴える気概などにおいて、青春の文学なのである」と、序文でその思いを語っている。
 内容は、著者のお気に入りの文語体の文章を引用し、それに関する自分の思いを述べるというもの。全体の半分くらいは引用だから、「編著」となっている。
 章題はついてないが、内容は全7章。

「はじめに」は、「わたしは、鴎外訳の「即興詩人」に傾倒している」という文章から始まる。この「即興詩人」は、この後たびたび引用されることになる。
 第1章は島崎藤村の文語詩「初恋」から始まる。そして「藤村詩集」序文、「小諸なる古城のほとり」、「千曲川旅情のうた」と藤村の詩が続く。さらに、「春の小川」、「われは海の子」などの小学唱歌。このへんが、著者の文語体験の原点ということらしい。
 第2章も詩が中心。北原白秋「邪宗門秘曲」、「啄木詩集」、萩原朔太郎「純情小曲集」に収録された詩を取り上げている。「即興詩人」の引用も出てくる。
 第3章は、一転して江戸時代の文章が並ぶ。
 新井白石の「西洋紀聞」、久米邦武の「米欧回覧実記」、鈴木牧之の「北越雪譜」、杉田玄白の「蘭学事始」、橘南谿の「東西遊記」。いずれも歴史に残る名著。
 最後にひとつだけ江戸時代ではなく明治時代の文章として、鴎外訳「即興詩人」より「蜃気楼」のくだり。
 この章は長い。全体の3分の1近く、80ページ以上ある。しかし、江戸時代に「文語体」という概念があったのだろうか。
 第4章は10数ページしかない。藤村操の「巌頭の感」と、高山樗牛の「滝口入道」、「敦盛と忠度(青葉の笛)」という唱歌。
 第5章は明治文学から。中江兆民「一年有半・続一年有半」、樋口一葉「たけくらべ」、樋口一葉「通俗書簡文」。そしてまたも「即興詩人」より「絶交の書」。
 一葉の文章は本書の中で一番文語らしい文語かもしれない。中江兆民は「である」調がまじっていて、純粋な文語体とはちょっと違う気がする。
 第6章は戦争文学と文語。
 最初は司馬遼太郎『坂の上の雲』から、「敵艦見ユ」の電文のくだり。本文も長々と引用されているが、これはもちろん文語体ではない。「水師営の会見」の歌、「広瀬中佐」の歌、永井荷風「断腸亭日乗」、吉田満「戦艦大和ノ最期」と続く。
 この「戦艦大和ノ最期」は、「わたしの知り得た最後の文語文である」とのこと。ただ、山本夏彦は『完本 文語文』の中で、「戦艦大和ノ最期」は、「生活がないから真の文語ではない」と言っている。
 第7章は短い。またまた「即興詩人」から、「わが最初の境界」と、与謝蕪村の「北寿老仙をいたむ」。
「あとがき」は、「さらば、お灯明もいらない、花もいらない、この本を、読んでくださるだけで、「老仙」、思い残すことはない」と締めくくられている。実際には亡くなるまでまた17年もあったのだが、まるで遺書のような趣である。

 とにかく、文語体への著者の思いが、痛いほどに伝わってくる本である。
 しかしその後、著者はあれほど思い入れのあった鴎外訳「即興詩人」を口語訳して出版している(2010年刊)。本書を読んだ後では、言ってはなんだが、「それはありなのか?」と思ってしまう。

Seishunnobungotai

| | コメント (0)

2020年12月28日 (月)

カミュ『ペスト』

ペスト/アルベール・カミュ;宮崎嶺雄訳(新潮文庫,1969)
 今ではこの本について感想を書いている人は山のようにいるのだろうが、この2020年という年を象徴するような1冊として、今年の本ブログの最後に取り上げることにする。
 言わずと知れた疫病文学の古典。
 ブログ主はこの本をずいぶん前から持っていたが、積ん読のままだった。今年の3月、新型コロナウイルスの世界的流行(パンデミック)というこの時期こそ、読むのにふさわしい本だと思い、初めて読んでみたのだった。
 この本の新版が書店にどっと並び始めたのは、その後のことである。それを見た時は、「やっぱり…」と思ったが。
 ただ、この作品の場合、ペストが流行するのはオランという一都市内だけだから、「パンデミック小説」とは言えないが。

 オランは、アルジェリア北岸に築かれたフランスの植民都市。本書の描写を読む限り、住んでいるのはフランス人を中心とするヨーロッパ人だけで、現地民であるはずのアラブ人やベルベル人については何ひとつ書かれてない。それはそれで気になるところではあるが、さしあたり物語の本筋とは関係ない。
 ペストは静かにこの都市に忍び寄ってくる。最初は鼠の大量死。そして散発的に起きる住民の突然死。次第に増える死者、これはペストではないかと医師たちがついに認めるのが序盤。
 ペスト汚染地区と認定されたオランの町は、政府によって閉鎖される。ここからが本当の物語。伝染病とともに都市内に閉じ込められた住民たちの苦闘を、一人の医師の眼を通じて描いて行く
 この小説は、その医師ベルナール・リウーが、すべてが終わった後に書いた手記という設定になっている。(そのことは最後の最後になってわかるのだが。)
 務めて記述に客観性を維持しようとするリウーは、彼自身の内面をあまり描こうとしない。まして、他人の内面に立ち入ることもない。ただ、果てしなく続くペストとの闘いの日々が、感情を押さえた乾いた筆致で描かれていく。
 そのリウーに協力するのが、もう一人の主人公と言うべきジャン・タルー。事態が始まる数週間前にオランにやってきた金持ち。最初登場した時はかなり得体の知れない人物だが、献身的にリウーたちの医療活動を補助する。そして終盤で自らもペストに倒れる。
 印象的な登場人物がさらに二人いる。新聞記者のランベールと、犯罪者で自殺志願者のコタール。彼らもまた、それぞれの事情を抱えながらも、ペスト蔓延という事態の中で、やはり医療活動に協力する。事態が終わった後の二人の運命は対照的だが。
 本書には女性の登場人物がほとんど登場しない。それがかえって物語全体にストイックで引き締まった印象を与えている。

 本書は疫病小説であっても、パニック小説ではない。病に襲われた者の恐怖や悲哀、あるいはペストに立ち向かう者の勇気や使命感などは、きわめて抑制的に表現されている。はっきり言ってストーリーらしいストーリーもない。そこにかえって疫病のリアリズムが感じられる。
 本書の一節に、次のような文章がある。

 みずからペストの日々を生きた人々の思い出のなかでは、そのすさまじい日々は、炎々と燃え盛る残忍な猛火のようなものとしてではなく、むしろその通り過ぎる道のすべてのものを踏みつぶしていく、果てしない足踏みのようなものとして描かれるのである。(p.214)

「果てしない足踏み」。これこそ、今の日本を予言する言葉のような気がする。まあ、致死性という点では、新型コロナウイルスは本書のペストとは比べものにならないだろうが、対策が空回りしているような今の事態をよく言い表している気がするのだ。

Pest

| | コメント (0)

2020年11月11日 (水)

「一九〇五年」の彼ら

「一九〇五年」の彼ら 「現代」の発端を生きた十二人の文学者/関川夏央(NHK出版新書,2012)

 日本の国民国家としての頂点は、一九〇五年五月二十七日である。

 そんな文章から、本書は始まる。これは、「日本海海戦」の日。
 著者はこの年を、「まだ明治三十八年でありながら大正・昭和の発端した年、あるいは「現代」のはじまった年として記憶される」と位置づける。
 歴史に名を残す12人の文学者がその年に何をしていたのか。さらに、彼らはその後、どのように生き、死んだのか――。
 1905年と、それぞれの没年。12人の人生と作品を、二つの年に焦点を当てた短い評伝の形で語る。そんな本書の執筆意図を、著者は後記で端的に語っている。「文学・文学者と時代精神の関係について考え、大衆化社会のとば口、すなわち一九〇五年からそれぞれの文人の全盛期を眺め、ついでその晩年を紙の上に記述する本」と。
 そして、そんな本は「もう出ないかも知れない」とも書いている。確かに、こんな構想の本は他に知らない。

 登場する12人は下のとおり。さすがに超有名人ばかりである。順番は生まれた年の順。

「森鷗外――熱血と冷眼を併せ持って生死した人」
「津田梅子――日本語が得意ではなかった武士の娘」
「幸田露伴――その代表作としての「娘」」
「夏目漱石――最後まで「現代」をえがきつづけた不滅の作家」
「島崎藤村――他を犠牲にしても実らせたかった「事業」」
「国木田独歩――グラフ誌を創刊したダンディな敏腕編集者」
「高村光太郎――日本への愛憎に揺れた大きな足の男」
「与謝野晶子――意志的明治女学生の行動と文学」
「永井荷風――世界を股にかけた「自分探し」と陋巷探訪」
「野上弥生子――「森」に育てられた近代女性」
「平塚らいてう(明子)――「哲学的自殺」を望む肥大した自我」
「石川啄木――「天才」をやめて急成長した青年」

 いかにも明治人らしい気骨を持って人生を終えた森鷗外に始まり、どうしようもなくだらしない短い生涯を送った石川啄木まで。最後に登場する石川啄木が一番若いのだが、一番早く死んでいる。
 そして鷗外と啄木の間には、著者の描いた、12人の個性が作るグラデーションがある。それを見ていると、なんだか世代が若くなるにつれて、文学者としての才能はともかく、人格的にはだらしなくなっていってるような気もする。あるいは、思考や行動が、徐々に「現代人」に近づいているというか…。
 著者の意図とは違うのだろうが、そんなところで、「現代の始まり」を感じてしまった。

| | コメント (0)

2020年10月22日 (木)

魅せられた旅人

魅せられた旅人/ニコライ・レスコーフ;木村彰一訳(岩波文庫,1960)
 19世紀のロシア小説。原著は1873年に刊行されている。
 実のところ、こんな作品があるなんて全然しらなかった。60年も前に出版された本なのに。いや、だからこそか。古本でたまたま見つけて買ったのである。

 巡礼の一行に加わってきた、曰くありげな修道僧の身の上話という形で、一人の男の波瀾万丈の半生が語られる。
 男の名はイヴァン・セヴェリヤーヌイチ・フリャーギン。姓を呼ばれることは滅多になく、「ゴロヴァン(頭でっかち)」の通称で呼ばれることが多い。元は農奴の出身だが、その運命の変転は実に予測不能というか、どこに転がっていくかわからない。
 主なところだけでも、伯爵の召使い、韃靼人の捕虜(この捕虜生活中に身につけた馬の知識が、後で大いに役に立つ)、公爵に仕える馬鑑定人、兵隊、そして最初の方で予言されたとおり、修道僧になる。
 しかしこのイヴァン氏、これだけいろいろな経験をしながら、女性関係についてはあまり語るほどのことがなかったらしい。終盤になるまで、女性はほとんど話の中に出てこないのだ。
 ただ、韃靼人(今で言うタタール人か)のところに10年間捕らわれていた間に、現地の女性と結婚して子供もできていたということがさらっと語られている。しかし韃靼人の妻子は、イヴァンが脱走する時にみんな置き去りにしてきたのだった。
 その他にも、身分が変わるたびに、過去をさっぱり投げ捨ててきている。この人物、妙に人にも物にも執着がないのである。
 話も終わりに近くなって、やっと女性がらみのエピソードが出てくる。後半の大部分を占める公爵家のエピソードで、公爵の愛人だったジプシー女グルーシュカと危うい仲になりかけるのだ。しかし結局、公爵に捨てられて殺して欲しいと懇願する彼女を、崖から突き落としてしまう。イヴァンは彼女を殺したと思っているが、本当に死んだのかどうかは、最後までわからない。

 とにかく話がどう展開するかわからない。現代の小説のような約束ごとは通用しない世界なのである。正直言って、ストーリーが行き当たりばったりという気もしないではない。だが結局のところ、妙に面白いのだ。ロシア小説の隠れた佳作ではないだろうか。

 

| | コメント (0)

2020年8月19日 (水)

カレル・チャペック

カレル・チャペック 小さな国の大きな作家/飯島周(平凡社新書,2015)
 本ブログでは過去に一度だけカレル・チャペックの本を取り上げたことがある(2016年7月23日のエントリー『絶対製造工場』)。他に例を見ない独創的なSFの作者で、「ロボット」という言葉の創造者――まさに本書のサブタイトルどおり「小さな国の大きな作家」というにふさわしいだろう。
 本書はそのチャペックの評伝(余談だが、平凡社はチャペックの著作を何冊も出していて、日本で一番チャペック推しの出版社と言える)。チャペックの生涯とその人間像、文筆から政治問題、趣味までの多才な活動をさまざまな角度から語っていて、その全体像を知ることができる。
 とはいえ、『ロボット』や『山椒魚戦争』などの有名作品の内容そのものについてはあまり触れておらず、作品論を期待するとあてがはずれる。ただ、日本であまり知られてない作品については、そのあらすじをかなり詳しく紹介しているが。

 内容は4章構成。
 第1章「世に出るまで」は、チェコ北部の田舎での少年時代から、大学を出て文筆家の道を歩み始めるまでの前半生。
 第2章「ジャーナリスト、作家として」は、本書で一番長く100ページ以上。ジャーナリスト、作家、評論家としての活動と、その死までを語る。
 若くして新生チェコスロヴァキアきっての流行作家として活躍、マサリク大統領の若い友人として、対談を本にしたり、伝記を書いたりするなど、政治とも深くかかわってきたチャペックだが、最後は悲劇的だった。
 ナチスドイツの台頭に警鐘を鳴らし続けたのも虚しく、チェコスロヴァキアがドイツに併合される直前の1938年に48歳の若さで病死する。兄のヨゼフは、カレルの死にあたって、「あのカレルは、ずっと幸せな人生を送ったんだ。死ぬのさえちょうどいいときだった。これ以上生きてたって、もう何もいいことなんかなかったさ」と言ったそうだ。
 チャペックの伝記としては、一応ここで終わりということになる。残る2章は、チャペックの周辺について別な角度から語るもの。
 第3章「趣味に生きる」は、趣味の世界からチャペックの人間像を浮かび上がらせる。犬と猫、園芸、詩、チャペックと日本の関わりなど。日本はともかく、他の分野はそれぞれに本を書いているほどだから、趣味というレベルを超えている。
 第4章「カレルの周辺の人たち」は、チャペックと交友のあった人々や家族、親族について。トーマス・マンとも交流があったそうだ。

 カレル・チャペックの作品は何冊か読んだが、その生涯については、意外なほどに若死にしていたことを含め、あまりにも何も知らなかったことに気づかされる本だった。チャペックが病死せず、ナチスの手も逃れて、どこかで長生きして活躍していれば、「世界の大きな作家」になっていたかもしれない。

 

| | コメント (0)

2020年8月10日 (月)

宇宙飛行士オモン・ラー

宇宙飛行士オモン・ラー/ヴィクトル・ペレーヴィン;尾山慎二訳(群像社ライブラリー,2010)
 1992年に出版されたロシアの小説。ソ連時代の架空の宇宙飛行計画を中心とした小説だが、SFというより不条理小説に近い。
 父親から変わった名前をつけられたオモン・クリマヴァーゾフは、少年時代から宇宙飛行にあこがれ、高校を出ると親友のミチョークとともに宇宙飛行士になるために航空学校の試験を受ける。
 ザライスクという町の試験会場で、オモンは一人の老人に話しかけられ、「宇宙に行くってのは並大抵じゃないぞ。お国に命まで求められるかもしれん」と言われる。「やるべきことをやるだけです」とオモンは答えるが、これが文字どおりの意味だということが、後でわかるのである。
 そしてオモンとミチョークが試験に合格して宇宙飛行士訓練生になった途端に、悪夢が始まる。訓練生たちはまず足を切られる。意味のわからない講義と訓練が続く。やがてソ連の宇宙飛行の真実がわかってくる。
 ソ連のロケットは人間の犠牲の上になりたっていたのだった。ロケットの切り離しは各段ごとに人間が操作していて、もちろんその人間は直後に死ぬのである。
 オモンは「無人月探査機」ルノホートに乗り込んでそれを操作する役を割り当てられる。自転車みたいにペダルをこいでルノホートを動かすのだ。地球に帰る手段はないから、最後に空気も食糧も尽きたら自殺するしかない。ひどすぎる話である。
 親友のミチョークは、そんな殺人ロケットにすら乗せてもらえず、「前世試験」というわけのわからない試験で危険分子と見なされて射殺されてしまう。
 オモンは何人もの仲間の死の果てに月の裏側に着陸、何十日もルノホートのペダルをこぎ続けて目的地に到着し、無線標識を設置する。これで後は死ぬだけなのだが、自殺用の銃は不発。そしてオモンは月面のはずの周囲の様子がおかしいことに気づく。
 結局、ソ連宇宙計画のとんでもないインチキがオモンの前で明らかになる。秘密を知ったオモンを殺そうとする政府の手先たち。追われるオモンが最後に行き着く先は…。
 地獄のような宇宙計画の果てに待ち構える大ドンデン返し。だが実のところ、前半の描写と後半の展開が矛盾するところも多く、そもそも最初の試験のところからすべてがオモンの妄想だったとも解釈できる。

 それにしても、ソ連崩壊の直後に、ソ連政府と共産党の信じがたい非人間性と冷酷さ、教条主義、形式主義をパロディ的に暴き出し嘲弄する、こんな作品が出ていたとは。

Omonra

| | コメント (0)

2020年7月29日 (水)

とどめの一撃

とどめの一撃/マルグリット・ユルスナール;岩崎力訳(岩波文庫,1995)
 ロシア革命後の混乱期を背景にした長編小説(長さから言えば、むしろ長い中編か)。
 主人公エリック・フォン・ローモンは、ドイツとフランス、バルト人の血の混じった複雑な家系の持ち主。ドイツで暮らしていたエリックは、母の故郷クールランド(現在のラトヴィア)に行き、反ボルシェヴィキ義勇軍に身を投じる。
 エリックの母親はクラトヴィツェという町が故郷で、土地の貴族ド・ルヴァル伯爵の従姉妹だった。伯爵家のコンラートとソフィーの姉弟とエリックは、少年時代の一時期をともに過ごしたことがあった。
 義勇軍の司令部でコンラートと再会したエリックは、彼とともに最前線と化したクラトヴィツェに向かう。伯爵の館は義勇軍の根拠地と化していて、そこでエリックはソフィーに再会する。
 普通なら、ここからロマンスが始まりそうなものだが、全然そうはならないのがこの小説。エリックとソフィーの間の、愛憎が混淆する心理の動きの複雑さは、さすがに主流文学である。
 エリックとソフィーの心はすれ違い続ける。ついには、エリックはソフィーの心を決定的に傷つけてしまう。ソフィーは館を飛び出し、いずこともなく姿を消す。
 やがてボルシェヴィキの攻勢が強まる中、エリックの部隊はクラトヴィツェを放棄して移動する。戦いの中でコンラートは戦死。捕虜にしたボルシェヴィキの小部隊の中に、赤軍の女兵士となったソフィーがいた。
 反ボルシェヴィキ軍には捕虜をとる余裕はなく、捕らえた敵兵士はすべて銃殺されることになっていた。ソフィーは自ら、エリックを自分の処刑人に指名する…。

 ――というような、表面的に見ると非常に殺伐とした話。荒涼としたラトヴィアの大地に展開する愛と死のドラマは、日頃気軽な小説ばかり読んでいる人間には、なかなか歯ごたえがありすぎるのだった。とはいえ短いのですぐに読めることは読めるのだが。本当に「読めて」いるのかどうかは自分で怪しい気がする。

 

| | コメント (0)

2020年7月 5日 (日)

暁の女王と精霊の王の物語

暁の女王と精霊の王の物語/ジェラール・ド・ネルヴァル;中村真一郎訳(角川文庫,1952)
 1989年、角川文庫創刊40周年記念特別企画「リバイバルコレクション」の1冊として刊行されたもの。一応、1952年の初版から数えて3版ということになっている。
 しかし当然ながら、再刊といっても1952年の初版時の活字を使っているわけではない。かといって新たに写植で刷り直したわけでもなく、単に初版を写真製版して印刷したものらしい。実のところ、あちこち字がかすれていて見苦しい。旧仮名遣いなのは雰囲気が出ているが。

 それはともかく、内容は古代イスラエルを舞台にした歴史ドラマ。タイトルから想像するようなファンタジー的なものではない。
 元々は1851年に刊行された『東方紀行』の一部だったものを抽出して独立した本にしたもの。これは日本でそうしたのではなく、本国でもそういう本がすでに出ていたそうである。確かに完全に独立した作品として読める。
 物語は、シバの女王がソロモン王のもとを訪れたという、旧約聖書の有名なエピソードに基づいている。本書でのシバの女王の名はバルキス(伝承によって名前が様々に伝えられている)。
 バルキスはソロモンの名声を聞いてイスラエルを訪問する。しかしバルキスが惹かれたのは、ソロモンではなく、天才建築家アドニラムだった。ソロモンの壮麗な神殿はすべてアドニラムが作ったものだったのだ。
 この作品のソロモンは伝説のような賢者ではなく、自負心と欲望が過剰な困った男。結局バルキスは、しつこく言い寄るソロモンに愛想をつかしてイスラエルから逃げ出す。一方アドニラムもバルキスと示し合わせて逃亡。後日二人で再会することを約束する。
 しかしアドニラムは都を脱出する直前、部下の職人たちに裏切られ、殺されてしまうという悲劇で終わる。

 多分この作品の魅力は、上のような、ある意味ありきたりなストーリーではなく、ネルヴァル華麗な文章にあるのだろう。まだ若かった中村真一郎(初版が出た時は30代前半)の訳文は、そのいくらかを伝えているとは思う。少なくとも意味不明なところはない。いかんせん、今読むと少々読みにくいのは確か。

Solomonetbalkis

 

| | コメント (0)

より以前の記事一覧