文学

2009年12月 9日 (水)

詩人、草木虫魚を語る

艸木虫魚/薄田泣菫(岩波文庫,1998)
 ほぼ一年前に、「詩人、本を語る」と題して、『本を読む前に』(荒川洋治)を取り上げたが(2008年11月27日)、今回はその本とは何の関係もない。ただ、詩人の書いたエッセイ、という点が共通しているだけである。というか、こういうものは、やはり「エッセイ」ではなく「随筆」と呼びたい。
 明治・大正期の詩人として名高い薄田泣菫は、随筆の名手でもあった。というか、後半生はもっぱら随筆ばかり書いていたらしい。随筆の代表作とされる『茶話』は、大正5年から8年(1916~1919)にかけて複数の新聞に書いたコラムで、4年間に660篇あまりを書いたというからすごい(解説による)。随筆のプロである。
 この本の原本は1929年刊。タイトルのとおり、植物や動物について書いた短い文章が中心。同時代や歴史上の人物にまつわるエピソードや、社会の片隅の出来事を取り上げた小コラムみたいなものも、少し混じっている。上の『茶話』と重複しているものもあるそうだ。全体として、植物や動物に対する目は温かく繊細で、人間に対しては皮肉とペダンティズムに満ちているような気がする。それはまた、随筆の王道でもあるが。詩や文学のことは意外なほど出てこないが、故人を偲んで書いた「徳富健次郎氏」や「芥川龍之介氏のこと」などは、文学者らしい面が出ている。
 動植物に関する随筆が中心といっても、タイトルをよく見てみると、「柚子」、「とうがらし」、「蜜柑」、「松茸」、「桜鯛」、「蟹」、「海老」、「苺」など、実は半分くらいは食べ物の話なのだった。「食味通」なんてタイトルのもあるし。「食べ物エッセイ」の走りなのか。
 薄田泣菫の詩といえば、「ああ、大和にしあらましかば」とか、「かなたへ、君といざかへらまし」とか、やたら詠嘆的な印象があるのだが、随筆の方はわりと淡々としているというか、普通である。あまりに叙情的な随筆というのは、読めたものではない。
 もっとも、食べ物に関したことを語る時、薄田泣菫は時々やたらと生々しい、というかなまめかしい文章を書くことがある「馬には馬の毛皮の汗ばんだ臭みがあり、女には女の肌の白粉くさい匂いがあるように、秋の松山にはまた松山みずからの体臭がある」(「松茸」)とか、「肥り肉の女が、よく汗ばんだ襟首を押しはだける癖があるように、大根は身体中の肉がはちきれるほど肥えて来ると、息苦しそうに土のなかに爪立をして、むっちりした肩のあたりを一、二寸ばかり畦土の上へもち上げて来る」(「蔬菜の味」)とか。もしかしたら食べ物に異様な執着を持っていたのかもしれない、とも思わせる。
 こういうところを除けば、だいたいにおいて文章は平易で、ところどころで詩人らしい巧みなさ言葉の使い方を見せる。とはいえ、やはり戦前の文章であり、現代の文章とはリズムがやや違うのだが。
 つまるところ、上品な面もあれば俗っぽい面もあり、日常的かと思えば浮世離れしたところもあり、一筋縄ではいかない本なのだ。『艸木虫魚』というタイトルから連想されるような、自然を語った優雅な随筆集でないことは確かである。

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2009年11月15日 (日)

ダブル/ダブル

ダブル/ダブル    マイケル・リチャードソン編;柴田元幸、菅原克也訳(白水Uブックス,1994)
 「分身」をテーマにしたアンソロジー。より厳密にいうと、「原則として二十世紀に書かれた西洋の小説の中から<双子><分身><鏡><影><人造人間>といった、いわば「一人が二人で二人が一人」の物語を集めて面白い本を作る」(訳者まえがきより)というのがコンセプトだそうだ。
 このテーマから連想されるのは、当然ながらSFやファンタジーに属する作品なのだが、実際にはそういうものは約半分。著者も、どちらかというと文学系の作家の方が多い。編者のマイケル・リチャードソンはカナダ人で、他にミステリやホラーのアンソロジーも編集している。

 実際にどんな作品が収録されているかというと―。
 「かれとかれ」(ジョージ・D・ペインター)は詩。いきなり詩から始まるのが、このアンソロジーのジャンルにこだわらない、「なんでもあり的性格」を示している。
 「影」(ハンス・クリスチャン・アンデルセン)。いきなり「原則」からはずれる19世紀の作品。著者は、あの童話で有名なアンデルセンである。自分の影と対立する羽目になった哲学者の物語。童話じゃないけど、寓話。
 「分身」(ルース・レンデル)。レンデルは日本でもよく知られているミステリ作家。この話は、「自分のドッペルゲンガーに会ったら死ぬ」というよく知られた伝承をひとひねりしたもの。当然ながら、ミステリ・タッチ。
 「ゴーゴリの妻」(トンマーゾ・ランドルフィ)は、イタリアの幻想作家ランドルフィの代表作。他のアンソロジーにも収録されている。ここに出てくる「ゴーゴリの妻」は、<分身>ではなく、<影>でも<人造人間>でもなく、ある意味もっとすごいものである。
 「陳情書」(ジョン・バース)は、自分の片割れを憎むシャム双生児からの訴えという形をとるブラックユーモア作品。実はバース自身が一卵性双生児なのだそうだ。
 「あんたはあたしじゃない」(ポール・ボウルズ)は、病院を逃げ出した女の崩壊した自我を鬼気迫るタッチで描く。一種のサイコ・ホラーものと言えるかもしれない。
 「被告側の言い分」(グレアム・グリーン)。収録作家の中では、多分アンデルセンの次に有名。双子の一人が殺人の罪で裁判を受ける顛末を描く、皮肉のきいた法廷ものショートショート。
 「ダミー」(スーザン・ソンタグ)。自分のダミーを作って(材料は日本製)、会社勤めや家庭生活を代行させようとする男の話。つまり自家製コピー・ロボットである。作者はSFではなく文学系の作家なので、技術的な話は無視。結末もSFやファンタジーのつもりで読んでると裏をかかれる。
 「華麗優美な船」(ブライアン・W・オールディス)。バース、ボウルズ、グリーン、ソンタグと、一般文学で有名な作家が続いた後で、いきなりSF作家の登場。しかしこの作品はSFというより寓話。とんでもないもののドッペルゲンガーが登場する。
 「二重生活」(アルベルト・モラヴィア著)。二つの家を借りて二重生活を送ろうとする学生(学生のくせになんでそんなに金があるのか?)が、奇妙な出会いを通して人生の二重性に気づく、やや哲学的な物語。
 「双子」(エリック・マコーマック)は、以前紹介した『隠し部屋を査察して』(2009年6月5日のエントリー)に収録されていた(もっとも、その時にはこの作品には言及してない)。あまり長くもない作品の中に、一人でありながら二人の声を出す男と、二人でありながら一人の声を出す双子の物語が詰めこまれている。「一人が二人で二人が一人」というテーマを、ある意味もっとも端的に表現した、密度の濃い作品。
 「あっちの方では―アリーナ・レイエスの日記」(フリオ・コルタサル)は、どこか別の世界にいる「もう一人の自分」と遠隔感応して体験を共有する女性の物語。収録作品の中では、一番ファンタジー色が強い。
 「二人で一人」(アルジャーノン・ブラックウッド)。ブラックウッドといえば怪奇小説の巨匠だが、この作品はあまり怪奇色はない。一種のサイコものと言えなくもないが、不思議と爽やか、かつ思索的な話である。
 「パウリーナの思い出に」(アドルフォ・ビオイ=カサーレス)は、複数のアンソロジーに収録されている、著者の短篇の代表的作品。二人の男と一人の女を巡るラブストーリーに見えていたものが、一転してゴースト・ストーリーになる――かと思っていたら、最後に「稲妻に照らし出されたように」、さらに予想外の真実が明らかになる。

 見てのとおり、主流文学の、それも世界的に有名な作家が多い。そういった有名作家の作品がSF的だったり幻想的だったりする一方、SF作家の作品がSFではなく、怪奇小説作家の作品が怪奇ではなかったりする。原著の発行は1987年だが、ジャンル・ミックスを先取りしたようなアンソロジーである。
 ベスト3を選ぶなら、「あんたはあたしじゃない」、「あっちの方では」、「パウリーナの思い出に」というところ。

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2009年11月12日 (木)

10月に読んだ本から

10月に読んだ本から、小説とノンフィクションを1冊ずつ(このところ、このパターンが多い)。

ロミオとインディアナ/永瀬直矢(筑摩書房,2009)
 太宰治賞を受賞した新人作家の、今のところ唯一の本。受賞作である表題作と、「ジェダイの福音」の二つの中編を収録。
 この2作品、直接のストーリー上のつながりはないが、同じ場所を舞台としている。
 ひとつは、とある巨大古墳(天皇陵)の、隣に住んでいる女子高生のだらけた日常の話。もうひとつは、同じ古墳に密かにもぐりこんだ大学生の、非日常的冒険。外と中、日常と非日常。裏返しの関係である。
 「ロミオとインディアナ」では、堺市の女子高生、福本惠理の作っているブログに、ある日「インディアナ」と名乗る謎の人物から書き込みが入るところから物語が始まる。その人物は、家の隣の天皇陵(もちろん立ち入り禁止)に潜入して、ときどき彼女を古墳の中から観察しているらしいのだ。「インディアナ」というのはもちろん「インディアナ・ジョーンズ」から来ていて、話の中でも惠理の頭の中にあのテーマソングが鳴りやまなくなるシーンがある。
 が、それ以上何が起こるというわけでもなく、惠理は友達やボーイフレンドと淡々と日々を過ごしていく。「高校行ったからってなんかが起きなきゃなんないのかそもそも」、「学校行って適当に勉強してくっちゃべってげらげら笑ってカラオケ行って手ェ叩いてくっちゃべってケータイいじくってってめっちゃ楽しいやん」と本人が言うとおりの生活なのである。
 ただ、そんな日常の中に、「インディアナ」とのメッセージのやりとりや、古代史の謎が唐突に顔を出す。友情、恋愛、謎、サスペンス、そういった要素がかみ合いそうでいてかみ合わないまま、作者は物語を結末まで引っ張っていく。最後まで予想のつかない話だった。
 「ジェダイの福音」は、それに比べると、話そのものはわりと単純。「ロミオとインディアナ」の福本惠理が毎日家から見ている天皇陵にもぐりこんで、盗掘をやろうとする男二人組の物語。「インディアナ」の立場の話なのだ。「ジェダイ」はもちろん、あのジェダイの騎士のことで、主人公の友人で稀代の変人、那智が、高校時代にジェダイの騎士を気取っていたところから由来するタイトル。つまりこちらは「スター・ウォーズ」がモチーフである。
 ただ、この那智が福本惠理のブログに書き込みをしていた「インディアナ」かというと、そうではないみたいで、二つの話の直接の関わりを示す記述はない。
 物語は、那智に誘われて古墳に潜入した主人公の、古墳上での宝探しの日々に、高校時代以来の回想が混じる。そして終盤は、古墳に突如現れたヤクザに二人が捕まって、アクションドラマへと急展開する。最後の方は予想外だったが、非常にわかりやすい話ではある。「ロミオとインディアナ」ほどのユニークさはないが。
 どちらの作品も一人称で、話し言葉に非常に近い、独り言が延々と続くような文章が特徴的。

 ところで、二つの作品に出てくる問題の古墳は、はっきりとは書いてないが、堺のどこかにある、天皇陵に指定された巨大古墳である。すぐ連想するのは仁徳天皇陵だが、いろいろな点で、作品内に描写されている古墳とは合わない。
 仁徳天皇陵は三重の堀に囲まれているが、作品中の古墳は、一重のかなり広い堀の中に島のように浮かんでいる。「ジェダイの福音」の主人公は、作品冒頭で、広い堀にボートを浮かべて、古墳本体に渡るのだ。
 というか、「ロミオとインディアナ」に出てくる一言が決定的なヒントになっている。「全長三六〇メートル」。
 仁徳天皇陵の全長は約480メートル。この360メートルというのは、その南隣にある、履中天皇陵の大きさである。履中天皇陵は一重の広い堀に囲まれているし、周囲は住宅街、方形部に面した堀の対岸には細長い公園があり、そばを阪和線が通っている。履中天皇陵だとすれば、すべての描写に当てはまるのだ。
 まあ、それがわかったからどうということはないのだけど。

ロミオとインディアナ

短編小説のアメリカ52講 こんなにおもしろいアメリカン・ショート・ストーリーズ秘史/青山南(平凡社ライブラリー,2006)
 2000年に出た『アメリカ短編小説興亡史』の改題、加筆改訂版。オリジナル版では大量の脚注になっていた部分を、全部本文に組み込んだのだそうで、見かけ上もずいぶん変わっていることになる。著者は翻訳者で、軽妙なエッセイも多く書いている。

 短編小説のことを、"a national art form"と呼ぶことがあるのだそうだ。そう言ったのはアメリカ人ではなく、アイルランド人の作家フランク・オコナー。アメリカの「国民芸術」というわけである。それほどに、短編小説という形式はアメリカの特産みたいに思われていたし、当のアメリカ人もそう思っていたということだろう。日本の俳句や短歌みたいなものか?
 確かに、いかにもアメリカらしい小説家といえば、ポー、ヘミングウェイ、O・ヘンリー、サリンジャーなど、短篇を得意とする面々がまず頭に浮かぶ(ような気がする)。
 ところで、本書は確かにアメリカ短篇小説の歴史を書いているのだが、別に時間順に書かれているわけではない。最初の章は、「1 イギリスからの風」で、20世紀末、つまり本書のオリジナル版が出る直前に、アメリカの短編小説に起きた大きな変革について語る。といっても、雑誌「ニューヨーカー」の編集者がイギリス人に代わって、編集方針も変わったというようなことなので、門外漢が聞くと、「は? それが何?」と言いたくなるのだが。しかし考えてみると、SFの歴史でも、主要SF雑誌の編集長が交代したというのは、大きな流れを変える出来事だったわけだ。
 本書の大きな特徴のひとつは、短編小説の歴史を、主要作品だとか作家とかを通じて語るのではなく、雑誌やアンソロジーの盛衰をメインに語っていること。だから、最初の章で「?」と思っても、読み進むうちに、あの雑誌やこの雑誌の編集長が交代したり、新しいアンソロジー・シリーズが発刊されたりすることが、すごく重要なことのように思えてくる。その意味で、この最初の話題は、全体の内容を読者に知らせるイントロダクションの役割を、うまく果たしている。
 この後、著者は古くは19世紀から、つい最近(つまり2000年頃)まで、時代を言ったり来たりしながら、アメリカの短編小説が辿ってきた一筋縄ではいかない歴史を語る。上にも書いたように、そこで主要な役割を果たすのは編集者であり、雑誌であり、アンソロジーである。もちろん、作家の名前も数多く出てくる。よく出てくる作家の名前には、例えばジョン・アーヴィング、カート・ヴォネガット、ジョイス・キャロル・オーツ、レイモンド・カーヴァー、ウィリアム・ギャス、ジョン・チーヴァー、アーネスト・ヘミングウェイ、エドガー・アラン・ポーなどがある。だけどそれは舞台の上の役者みたいなもので、この本ではそれよりも、舞台そのものである雑誌や、監督や演出家である編集者たちが、それと同じくらいか、それ以上に重みを持って扱われているのだ。それは作家たちの物語以上に劇的であるように見える。
 やや長すぎる感のあるサブタイトルが言っているとおり、確かにおもしろい。ただ、別に隠されているわけでもないのに「秘史」って...。

短編小説のアメリカ 52講 こんなにおもしろいアメリカン・ショート・ストーリーズ秘史 (平凡社ライブラリー)

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2009年6月 5日 (金)

隠し部屋を査察して

隠し部屋を査察して/エリック・マコーマック;増田まもる訳(創元推理文庫,2006)
 スコットランド生まれ、カナダ在住の作家、エリック・マコーマックの短篇集。同姓同名のカナダの俳優がいるが、もちろん別人である。
 20の短篇を収録。一つ一つは短いが、簡単に読み飛ばせないような「濃い」作品が揃っている。
 最初が表題作「隠し部屋を査察して」。ある意味、この本全体を象徴するような作品である。舞台はどこだかわからない国。地の果ての入植地にある種の罪人を収容する施設があり、「隠し部屋」と呼ばれる地下牢に、それぞれ一人ずつが収容されている。語り手は「隠し部屋」の査察官なのだが、査察と言っても、ただ単に部屋を回って窓から囚人をのぞくだけ。語り手である査察官の担当する囚人は6人。その6人がどんな「罪」を犯したのかを、査察官は順番に説明する―要するにそれだけの話なのだが。
 6人の罪状は、各人各様。柴田元幸によるの解説では「想像力の罪」と書いてあるが―。中には新式のギロチンで動物や人間の首を片っ端から斬り落とした、正真正銘の罪人もいる。かと思えば、奇怪な現象を起こしたというだけで投獄された者もいる。共通しているのは、「普通でない」、あるいは、現実を歪める力を手にしている―この作品の政府の言い方を借りれば、「堕落している」―というところ。
 世にも奇怪で残酷な「堕落」のありさまを次々と綴っていく作者こそが、実は一番「想像力の罪」を犯しているのではないか。そんな気もしてくる。この短篇集に収められた作品の一つ一つが、「隠し部屋」であって、読者はそこに隠された様々な「堕落」のありさまを「査察」しているのではないか―と。

 表題作以外で印象に残った作品を挙げると―。
 突如カナダに出現した正体不明の「無」の空間が、地球の自転と同じ速度で地表に溝を刻んでいく「刈り跡」。イレネウス・フラッドという怪人物と、彼の作った「庭園列車」を巡る、奇想天外なエロティシズムと不条理な冒険の物語「庭園列車」二部作。おぞましくも神聖な死のゲームの物語、「祭り」。「隠し部屋」の住人たちがまとまって暮らしているような異様な町での一日を描く、「町の長い一日」。かみあわないインタビューを通じて語られる、ある作家のポートレート「ともあれこの世の片隅で」。

 それにしても、この短篇集、どういうジャンルに属しているのだろう。創元推理文庫から出ているが、間違いなく、ミステリではない(「海外文学セレクション」のシリーズだし)。怪奇小説でもない。広い意味での幻想小説ではあるかもしれない。やたらと人体を破壊したり切り刻んだりする話が出てくるが、「ホラー」や「スプラッター」と呼ぶには描写がドライすぎて生々しさを感じさない。「奇想小説」という、どこか陽気でポップな呼び方をしてしまうにはためらいを感じるような、暗くてグロテスクな発想に満ちている。では、単なる「文学」なのか―そう呼ぶのもためらいを感じる。
 要するに、よくわからない。どうでもいいと言えばいいのだが、従来のジャンルに収まらないこういう小説が、最近日本でも外国でも増えてきたような気がする。とにかく「変な話」が好きな人には向いているかもしれないが、好き嫌いはわかれるだろう。

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2009年3月31日 (火)

東大の教室で『赤毛のアン』を読む

東大の教室で『赤毛のアン』を読む 英文学を遊ぶ9章/山本史郎(東京大学出版会,2008)
 タイトルのとおり、東大教授である著者が、1年生相手の英文学の授業で講義した内容を元にした本。モンゴメリの『赤毛のアン』やトールキンの『ホビットの冒険』など、誰でも知っている児童文学作品を入り口に、イギリス小説の面白さ(『赤毛のアン』は正確にはカナダ文学だが、同一文化圏ということなのだろうか、著者はイギリス文学として扱っている)、小説の読み解き方、さらには小説の方法論に至るまでを教えようという、なかなか野心的な授業である。だが、東大生とはいえ1年生が相手なので、けっこう高度な内容を含んでいるわりには、きわめてわかりやすい。
 テキストとして取り上げられている作品としては、上に書いた『赤毛のアン』、『ホビットの冒険』が9章のうちそれぞれ3章、2章と半分以上を占めているのだが、後半になるとオースティンの『高慢と偏見』、ディケンズの『大いなる遺産』、C・ブロンテの『ジェイン・エア』といった、有名な古典作品が出てくる。
 タイトルは、「東大」と『赤毛のアン』という一見ミスマッチな組み合わせで興味をひくが、その本質は、古典的な手法で古典的な題材を扱う文学講義なのである。その基本は「著者の意図を正確に読み取る」こと。これが簡単なようでいて難しい。著者は原文を丹念に読み解きながら、その実践を解説してみせる。
 例えば第1章では、『赤毛のアン』の冒頭のシーンを題材に、文章に秘められた作者のもくろみをどのように見抜くかという技術の基本を講義し、「過剰なるものは解釈を誘発する」という格言風の言葉でまとめる。明日の読者のために、その一、みたいな感じだ。
 続く第2章では、『ホビットの冒険』の最初の方に出てくる「押し入り強盗(burglar)」というたった一つの単語から、この表現の背後にあるイギリスの文化的伝統、物語世界の構造、文章にこめられたユーモアなど、トールキンによる仕掛けの数々を解読し、その上で、『ホビットの冒険』をディケンズの『オリヴァー・トウィスト』と結びつけてみせる。
 かと思えば第8章、第9章では、『ジェイン・エア』のクライマックスシーンを、映画化した3作品がどのように扱っているのかを手がかりに、このシーンにこめられた作者の意図、というか、それを書かざるを得なかった心理を分析したりする。
 20世紀後半以降の文芸批評では、文学作品はどのような解釈も許容する、みたいな考えが主流なのだが、著者はあくまで伝統的に、文章を精密に解読することによって作者の意図に迫ろうとするのだ。
 デッサンがあらゆる絵画の基礎であるように、こういう手法は小説の読み方の基礎なのだろう。それがわかっていても実践は難しく、ストーリーだけを追って読んだ気になるのが常なのではあるが。こういう本はもっと若い頃に読みたかった。今まで読んだ小説の印象が、少しは変わっていたかもしれない。
 小説を「深読み」する技術論と方法論を知りたい人にはおすすめである。

東大の教室で『赤毛のアン』を読む―英文学を遊ぶ9章

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2009年2月28日 (土)

詩人、本を語る 2

 前に荒川洋治の『本を読む前に』を取り上げたが(2008年11月27日)、今回はねじめ正一による書評エッセイ。

読むところ敵なし 言葉のボクシング/ねじめ正一(ハルキ文庫,1998)
  銀座と巨人をこよなく愛する詩人・作家のエッセイ集である。
 ねじめ正一といえば、『高円寺純情商店街』で直木賞を受賞し、テレビドラマ化までされたことでよく知られているが、やはり本業というべきは小説ではなく詩だろう。1997年には「詩のボクシング」の初代チャンピオンにも輝いている。その翌年に出たこの本のタイトルは、もちろん「詩のボクシング」から来ているに違いない。
 この本だが、要はコラムや書評が中心の軽いエッセイ集である。が、言葉の選び方のはしばしに詩人らしい感性が埋め込まれている。中には「中上健次に捧げる」や「美空ひばりに捧げる」みたいに詩の形式のエッセイまである。
 が、詩人が書いているから高踏的なところや抽象的なところがあるかというとそんなことはなく、その感性はあくまで日常的。高橋源一郎や長島茂雄や藤井貞和の「地に足がついてない」ところを誉めているが、本人は実に地に足がついた人のようだ。
 無論、詩人だけあって詩関係のエッセイも多く、この世界をよく知らないこともあって、なかなか新鮮だった。現代詩のおもしろさを力説する著者の言葉には、詩の世界への思い入れがこもっていて、この人はあくまで詩人が本領なのだと思わせる。
 特に、北村太郎、高橋鏡太郎(俳人)、藤井貞和(高橋源一郎の「ゴヂラ」の登場人物としてしか知らない)、山口哲夫、高岡淳四、田中庸介などの詩は実におもしろそうに見える。もっとも、詩を紹介するというのは至難の業である。この本でも、実は詩の中身はさっぱり見当がつかないので、それぞれの詩人のキャラクターの書きぶりのが、おもしろそうに見える主な原因だが。
 「ボクシング」と言うほどのインパクトは正直なところ感じられないが、頭を心地よく揺さぶられる気分にはなる。なお、巨人ファンだというところだけは残念だが、誰にも欠点の一つ二つはあるものだから仕方ない。

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2008年7月 9日 (水)

輝きの一瞬

輝きの一瞬 短くて心に残る30編/中島らも・他(講談社文庫,1999)
 30編のショートショートを集めたアンソロジー。元は、『小説原題』1996年5月号の「超短編小説25人集」の掲載作に、『IN★POCKET』掲載の5編を足したもの。
 執筆陣は非常に豪華で、ラインナップは次のとおり。

 1.ココナッツ・クラッシュ(中島らも)
 2.堰(有吉玉青)
 3.トマト(藤原伊織)
 4.死ぬのはごめんだ(高橋直樹)
 5.ねずみ(山崎洋子)
 6.毛蟲(池内紀)
 7.悍妻懦夫(高橋義夫)
 8.燻り(黒川博行)
 9.探偵ごっこ(落合恵子)
10.桜(桐野夏生)
11.コンパス(斎藤純)
12.サドルは謳う(山上龍彦)
13.おかね座談会(嵐山光三郎)
14.せめてものディナー(佐々木譲)
15.相合傘(高橋三千綱)
16.春分の日(目黒孝二)
17.橘の宿(加納朋子)
18.獲物(中村隆資)
19.聖なる河(泡坂妻夫)
20.霞ヶ谷(鳥越碧)
21.死の天使(小沢章友)
22.おこぜ(内海隆一郎)
23.長谷川辰之助の暇乞い(関川夏央)
24.推理小説作家の午後(今野敏)
25.山月忌(篠田節子)
26.花火(高橋克彦)
27.女も虎も(東野圭吾)
28.たたり(井上雅彦)
29.生きている山田(太田忠司)
30.変わらずの信号(斉藤肇)

 「短くて心に残る」というから、「ちょっといい話」系の短編が集まっているのかと思ったが、普通のエンタテインメントがメイン。
 あえて単純化して分類すれば、
 8、9、10、15、22、24、26、27、29、30は広い意味でのミステリで、5、6、21、28はホラー。だから、どちらかというと、ミステリ・ホラー系がメインなのである。あと、4、7、20、23が時代小説、歴史小説。異色作品としては、どこかわからない国を舞台にした寓話めいた話である1、お札の架空座談会の13、中世説話めいた幻想歴史小説の17、原始時代を舞台にした18、そして25は、タイトルからもわかるように中島敦の「山月記」のパロディ。残り7編が、まあ普通の小説ということになる。
 要するに、なんだかまとまりのないアンソロジー。共通点といえば、短いタイトルが多いということくらいか。
 が、さすがに売れ筋作家を集めているだけあって、ひとつひとつをとると、それなりにうまい話が多い。名前からイメージする作風と違っていたりするのもおもしろい。独断でベスト3を選べば、2、26、29といったところか。
 ところでこの本のカバー、全作者の名前が印刷してあるのだが、中島らも・桐野夏生・藤原伊織・篠田節子・東野圭吾・高橋克彦の6人だけ特に字が大きい。それについでやや大きいのが黒川博行と有吉玉青。他の作者の立場はどうなる? 黒川博行や有吉玉青は加納朋子や関川夏央や佐々木譲や高橋三千綱や太田忠司よりも大物なのか? これだけつっこみどころの多いカバーも珍しい。

輝きの一瞬―短くて心に残る30編 (講談社文庫)

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2008年7月 3日 (木)

百人一首の秘密

百人一首の作者たち/目崎徳衛(角川文庫ソフィア,2005)
 これは、和歌についての本ではない。
 「百人一首」作者の人物論でも(そういう要素が一部はあるが)ない。
 「百人一首」を通じて王朝文化の盛衰を語る、異色の文学史であり、文化史であり、社会史であり、同時に評論であり、謎解きの本でもある。
 第一首めの天智天皇の歌をはじめ、百人一首に納められた万葉歌人の歌には、本人の作でないものや、架空の作者のものがあると論じる第一章「万葉歌人の変貌」。ここだけでも意外な指摘が山ほど出てくるが、これはほんの序の口。
 第二章からは「敗北の帝王」「賜姓王氏の運命」「古代氏族の没落」と、百人一首の作者たちが政治的敗者であることを明かしたり、社会の表舞台には出られない女性歌人や隠遁者たちの内面を探ったりしながら、終焉に向かう貴族社会を描き出していく。そこに描き出されるのは、政治闘争や出世競争に敗れ、運命を嘆く貴族たち、貴族社会の片隅で細々と生きる、滅び行く氏族の末裔たち。歌に気持ちを託すしかない不遇な人々の姿である。
 そして、百人一首の編者である藤原定家が、収録された歌の選定とその配列に秘めた意図を解き明かす最終章は圧巻。
 著者は一流のミステリのような推理と論理展開を見せ、歌人たちの内面をえぐり出し、藤原定家の隠された意図を暴き出していく。恐るべし定家。恐るべし「百人一首」。
 が、考えてみれば、すべては著者の「解釈」にすぎないのだ。
 それがわかっていても、「百人一首」とは鎌倉時代初期に生きた藤原定家が、失われた貴族文化に向けた挽歌だった、この本を読むとそうとしか思えなくなってくるのである。真に恐るべきは著者か。
 もともと和歌にも「百人一首」にもほとんど興味はなかったのだが、つい引き込まれてしまった。文学作品を分析し、解釈するとはどういうことか、その一つの見本とも言える本。

百人一首の作者たち (角川文庫ソフィア)

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2008年5月12日 (月)

4月に読んだ本から

 4月に読んだ本から2冊。それにしても、新刊がないなあ。

読書の腕前/岡崎武志(光文社新書,2007)    
 1年前くらいに発行された読書エッセイ本。書評ではなく、あくまで「読書」そのものがテーマ。
 タイトルといい内容といい、本好きのアンテナにひっかる部分が多いらしく、多くの読書ブログで取り上げられている。人生のすべてを本に捧げているような著者の姿勢に共感する人が多い一方で、その主張に対しては賛否両論あるようだ。
 本書は7章に分かれているが、第一章「本は積んで、破って、歩きながら読むもの」だけで全ページ数の4分の1を占めている。ここには「読書」という行為について、著者の体験をベースにした独自の考え方が書かれていて、正直、内容的にはこの章だけ読んですませてもかまわないくらいだ。後の章は付け足しみたいなものである。
 この第一章中に、多くの人がブログで取り上げている「ツン読」論が披露されている。曰く、「買った本を全部読む」という人は、「ぜんぶ読む本しか買わない」人であり、それでは読書人として失格。「まともに本とつきあって、コクのある読書生活を送ろうと思ったら、「ツン読」は避けられない。と、いうより、それしかありえないのだ。」
 まあ、本好きというのは、読むペースより買うペースの方が多いのが普通なので、自然ツン読はたまる。私の家にも、20年以上ツン読になっている本がたくさんある。ツン読は避けられない。それは確かだ。
 しかし、著者の主張には、「読まなくても、持っているだけでかまわない」、あるいは「全部読もうと思うのが間違い」みたいなニュアンスが感じられ、それはちょっと違うのではないかという気がする。私の場合、持っている本は全部、いつかそのうち、読むつもりなのだ。「これはもう絶対読まない」と判断したら、その本は処分する。まだ「ツン読」を必要悪としか思えない私は、読書人失格なのだろうか。
 以下、第二章「ベストセラーは十年後、二十年後に読んだ方がおもしろい」、第三章「年に三千冊増えていく本との闘い」、第四章「私の「ブ」攻略法」と続く。「ブ」とはブックオフのことである。この章題からもわかるように、話題があちこちに飛んでけっこうとりとめがない。独立したエッセイを集めた本、と思った方がいいかもしれない。
 第五章「旅もテレビも読書の栄養」の冒頭に出てくる、「人に本を薦めない、人から薦められても読まない」という一節も、賛否が分かれる部分だろう。人から本を薦められても、「余計なお世話だ」と思う一方で、読んだ本やテレビ番組に触発されて新たな本を読むことはあるという。まあ、自分の判断で選んだものしか読みたくないという、気持ちはわかる気もするが...。
 第六章は「国語の教科書は文学のアンソロジー」では、「読書に費やしたこれまでの膨大な時間を、もっと別の有意義なものに置き換えられなかったのか。そんな風に悔やんだことは一度もない。」という一文が光る。こう言い切ることができる人間こそ、真の本好きなのだ。
 第七章(目次では間違って第六章がもうひとつあることになっている)「蔵書の中から「蔵出し」おすすめ本」。人は本を薦めないんじゃなかったのか!とつっこみたい気もするが、この第七章では、著者の本領である古本マニアぶりがかいま見える。
 全体として著者の本に対する熱情には感服するし、共感できる面も多いが、もうちょっと視野を広く持ってもいいのではないだろうかと思う部分もある。

読書の腕前 (光文社新書 294)

唐詩/村上哲見(講談社学術文庫,1998)
 講談社学術文庫には珍しい、文庫オリジナル。
 第一章で唐以前の漢詩の歴史を簡単に解説した後、第二章から第五章まで、初唐・盛唐・中唐・晩唐と、伝統的な唐詩の時代区分(南宋の『滄浪詩話』に出てくるのが最初だというから、700年くらい前からある考え方なのだ)に従って、各時期の代表的詩人と作品を取り上げている。
 中でも盛唐から中唐にかけての、李白、杜甫、白居易といった日本人にもなじみ深い詩人たちに多くのページを割いているのは当然のことだろうが、あまり人気のない初唐や晩唐の詩についてもけっこう詳しく、著者のバランス感覚が伺える。
 だけどこの本の一番の特徴は、単なる唐詩の歴史解説や語句解説に留まらず、詩としてのテクニックについても解説している点だろう。例えば私のような漢詩の素人にもわかりやすいように、全ての作品について、韻を踏んでいる文字に印をつけている。作品説明の中では、対句や平仄ついてたびたび解説している。
 何より、巻末に「附章」としてつけられている50ページにわたる「唐詩の韻文形式」がすごい。いや、漢詩をやっている人間には当たり前のことばかりなのだろうが、私みたいな素人にとっては、韻律・平仄についての漢詩の精密な規則は驚異的なのである。
 これを読むと、漢詩が中国語の発音をベースにした「中国語の詩」であるということがよくわかる。学校などで漢詩を教える時も、読み下しばかり覚えさせるのではなく、詩として何より重要な要素である韻やリズムについても、少しは教えるべきなのではないだろうか。これは本来日本語ではなく、中国語の詩なのだということを理解させるために。
 こういう本は、もっと早く読んでおきたかった。

唐詩 (講談社学術文庫)

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2008年2月12日 (火)

1月に読んだ本から

1月に読んだ本から3冊。

遣唐使/東野治之(岩波新書,2007)
 この本の「はしがき」によると、遣唐使についての一般向けの本は半世紀余りも出てなかったのだそうだ。その間、歴史研究の分野では当時の国際関係についての研究が進み、従来の常識が覆されてきた。そんな最新の成果を踏まえ、遣唐使を通じた日本の外交史を解説する。
 「一般向け」とは言っても、史料の引用や分析が多く、かなり専門的な印象を受ける人が多いだろう。決して読みやすい歴史読み物というわけではない。が、史料を通じて明らかにされる、日本と唐との外交関係の真相解読は、歴史に興味のある人間にはなかなか刺激的。
 遣唐使は唐の側から見れば周辺諸国からの「朝貢使」の一つに過ぎず、日本からの使者もそのようにふるまっていた。その一方で、日本国内向けには、唐に持って行く品を、「唐への賜り品」と称し、日本こそが世界の中心であるかのように取り繕っていたのだ。まあ、当時そういうことをしていた国は日本だけではないかもしれないが。
 遣唐使船が逆風で天候の悪い夏に渡海してたびたび難波していたのも、実は唐の朝廷での正月の儀式に間に合うように出発時期を選んでいたから(日本を出発してから長安に着くまで半年くらいかかる)なのだそうだ。正月には朝貢国の使者が揃って参賀することになっており、日本の使者もその中に混じって「皇帝陛下万歳(ワンセー)」と言っていたのだろう。
 前に紹介した(2007.5.31)司馬遼太郎の『空海の風景』には、遣唐使船が夏に渡海していたことについて「この当時の日本の遠洋航海術は幼稚という以上に、無知であった。」と、さんざんなことを書いていたが、実はこういう事情があったのだ。
 その他にも遣唐使のメンバー構成とか往来した品々の実態解明とか、小さなボリュームにかなりぎっしりと情報が詰め込んである。その分、上にも書いたようにとっつきやすさを犠牲にしているような感もあるのだが。
 終章から「あとがき」にかけて、日本が「本質的に持つ鎖国体質」とか、世界的に見た日本の歴史の特異性とか、けっこう刺激的なことがさりげなく書かれている。

遣唐使 (岩波新書 新赤版 1104)

黒いハンカチ/小沼丹(創元推理文庫,2003)
 小沼丹(おぬま・たん)というのは今では忘れられた作家らしく、私も当然ながら知らなかった。本来は文学畑の人で、余技にミステリを書いていたそうだ。
 これは、その余技のミステリ作品で、オリジナルは1958年に刊行されたもの。とある女学院の女性教師、ニシ・アズマを探偵役とする連作短編集である。
 学校の先生が探偵役、というと加納朋子や北村薫みたいな「日常の謎」的な話を予想する人がけっこういるかもしれない(実は私も、裏表紙の紹介文を読んでそう思った)。が、実は全12編中、窃盗(未遂も含む)が5件、殺人(傷害致死も含む)が6件と、ほとんどがれっきとした犯罪のからむ話なのである。残る一つだけが、犯罪ではない。そういう意味では本格ミステリなのだ。
 なぜか殺人やら窃盗やらの現場に居合わせてしまうニシ・アズマは、鋭い観察力とひらめきで、犯罪の真相を瞬時に言い当ててしまう能力の持ち主。普段は眼鏡をかけてないのだが、その推理能力を発揮する時だけ、なぜか伊達眼鏡をかける。いっそのこと、その眼鏡に秘密があって、それをかけることにより平凡な女性が天才探偵に変身する、という設定の方がおもしろいような気がするが、そこまではじけた話ではない。
 表題作になっている「黒いハンカチ」は、タイトルは印象的だが、字面から連想するような暗くおどろおどろしい雰囲気は全然なくて、実に淡々というか、裏表紙の紹介の言葉を借りれば「飄飄とした」話。実際のところ、この話だけではなくて、どの作品もそんな雰囲気(殺人事件が起きても!)なのだが。
 収録作の中では、道端に落ちていた人間の手首を、どこからともなく走ってきた犬がくわえて消え去る、という事件を扱った「犬」が一番おもしろいかったのだが、書きようによってはいくらでもセンセーショナルに書けるこんな話も、やはり雰囲気はあまり変わらない。血のついた手首をくわえて走り去る犬を見て、「まあ、驚いた」なんてのんきに言ってるニシ・アズマに、「お前本当に驚いてるのか!」とつっこみたくなる。
 なお、この作品の登場人物はなぜか全員カタカナで名前が表記されている(単に作者の方針で、別に未来が舞台とかいうわけではない)。主人公ニシ・アズマ(西東?)の友人がミナミ・タキコにヒガシ・ケイコといった具合で、何だか命名が適当である。このいい加減なカタカナ名前のせいで登場人物たちが記号化されているのに加え、ストーリーは謎解きだけに焦点が当てられ、犯人たちの身の上や動機はほとんど語られない。全体として非常にゲーム性の強い、ある意味時代を先取りした作風になっている。

神を見た犬/ディノ・ブッツァーティ;関口英子訳(光文社古典新訳文庫,2007)
 古いSFファンにとって、ディノ・ブッツァーティは、イタロ・カルヴィーノと並んで、「イタリアのSF」を代表する名前である。昔ハヤカワSFシリーズから『偉大なる幻影』 という中編集も出ていた。
 実のところ、ブッツァーティはカルヴィーノと同様にSF作家というわけではなく、一般文学の作家で、ただファンタジーやSFとしても通用するような幻想的作品が比較的多いというだけなのだが。

 この本のオリジナルは、過去の短編のセレクションである『コロンブレ ほか50編の物語』(1966)。そこからさらに22編をセレクトして訳したもので、いわばセレクションのセレクション。この1冊を読めばブッツァーティの作品世界がだいたいわかる、ということだろう。
 印象に残った作品をピックアップしてみる。
 収録作の22編のうち、完全にSFと呼べるの唯一の作品が「秘密兵器」。東西冷戦を背景に両陣営の「最終兵器」の応酬を嫌みのきいたコメディに仕立て上げている。一昔前のショートショートに、こんな雰囲気の作品がよくあって、なんだか懐かしい味わいがある。
 半分以上の14編はファンタジーと言っていい作品。宗教がらみの話が多い。
 最初の作品「天地創造」は、タイトルどおり神による天地創造をコミカルに語る話だし、「聖人たち」、「風船」、「天国からの脱落」は、天国に住む聖者たちを主人公にした話。「高さ数十億光年に及ぶ高架の回廊」なんて、カルヴィーノ作品に出てきそうなぶっ飛んだ舞台設定もある。
 この本の表題作で、収録作中一番長い「神を見た犬」は、一匹の犬の存在が村の人々の生活を変えていく話で、超自然的と言えるかどうか微妙なところだが、やはり一種の宗教的ファンタジーと見ていいだろう。ただ、こうした宗教をテーマにした作品は、キリスト教徒でない人間には今ひとつ理解しにくいところがある。
 「コロンブレ」は、原典のタイトルにもなっているので、ブッツァーティの代表的作品と目されているのだろう。海の怪物につけ狙われる男の生涯を描いた作品で、他のアンソロジーにも翻訳が掲載されている。寓話、皮肉、幻想、それに宗教風味が混じっていて、確かにブッツァーティの作風が凝縮されている。
 老山賊の最後の意地を描く「護送大隊襲撃」は、日本の時代小説みたいな「サムライの魂」を感じさせる。
 表題作についで二番目に長い作品、「戦艦《死(トート)》」は、かつてSFマガジンに掲載されたこともあったが、どちらかといえばSFというよりファンタジーだろう。ナチス・ドイツが終戦間際に完成させた、謎の秘密兵器を搭載した巨大戦艦、<フリードリヒ2世>のすさまじい運命の物語。最初は第二次大戦秘話、みたいなリアルなムードなのだが、次第に話が幻想的になっていく。
 「一九八〇年の教訓」は、ある手段により神が地球上に平和をもたらす有様を描く。フレドリック・ブラウンの短編「スポンサーから一言」でも、やはり神と思われる存在により地球上に平和が無理矢理もたらされるのだが、ブッツァーティのこの作品では、その方法が遙かに強引。
 最後の作品「この世の終わり」は、神による最後の審判が実際に起きるという、これまた宗教的ファンタジー。最初の作品が「天地創造」で、最後が「この世の終わり」と、ちゃんと照応しているあたりが凝っている。
 そのほかに超自然的な要素のない作品も7編あるが、別に写実的というわけではなくて、まず起こり得ないような話が多い。
 特に病院を舞台にした「七階」。軽症で入院したはずの主人公が、あらかじめ定められた運命、としかいいようのない出来事の連鎖により、重症者の収容される下層病棟に引きずり込まれていく。最初から結末が予想できるとはいえ、これは怖い。
 病院ものがもう一つあって、タイトルはそのまま「病院というところ」。病院がいかに悪意に満ちた場所であるかを語る。それにしても作者は病院や医者に何か恨みでもあったのだろうか。
 私的ベストは、「戦艦《死》」、「七階」、「護送大隊襲撃」。

 それにしてもこの「古典新訳文庫」、クラークの『幼年期の終わり』の新訳も出していたりして、目が離せない。

神を見た犬 (光文社古典新訳文庫 Aフ 2-1)

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