文学

2020年12月28日 (月)

カミュ『ペスト』

ペスト/アルベール・カミュ;宮崎嶺雄訳(新潮文庫,1969)
 今ではこの本について感想を書いている人は山のようにいるのだろうが、この2020年という年を象徴するような1冊として、今年の本ブログの最後に取り上げることにする。
 言わずと知れた疫病文学の古典。
 ブログ主はこの本をずいぶん前から持っていたが、積ん読のままだった。今年の3月、新型コロナウイルスの世界的流行(パンデミック)というこの時期こそ、読むのにふさわしい本だと思い、初めて読んでみたのだった。
 この本の新版が書店にどっと並び始めたのは、その後のことである。それを見た時は、「やっぱり…」と思ったが。
 ただ、この作品の場合、ペストが流行するのはオランという一都市内だけだから、「パンデミック小説」とは言えないが。

 オランは、アルジェリア北岸に築かれたフランスの植民都市。本書の描写を読む限り、住んでいるのはフランス人を中心とするヨーロッパ人だけで、現地民であるはずのアラブ人やベルベル人については何ひとつ書かれてない。それはそれで気になるところではあるが、さしあたり物語の本筋とは関係ない。
 ペストは静かにこの都市に忍び寄ってくる。最初は鼠の大量死。そして散発的に起きる住民の突然死。次第に増える死者、これはペストではないかと医師たちがついに認めるのが序盤。
 ペスト汚染地区と認定されたオランの町は、政府によって閉鎖される。ここからが本当の物語。伝染病とともに都市内に閉じ込められた住民たちの苦闘を、一人の医師の眼を通じて描いて行く
 この小説は、その医師ベルナール・リウーが、すべてが終わった後に書いた手記という設定になっている。(そのことは最後の最後になってわかるのだが。)
 務めて記述に客観性を維持しようとするリウーは、彼自身の内面をあまり描こうとしない。まして、他人の内面に立ち入ることもない。ただ、果てしなく続くペストとの闘いの日々が、感情を押さえた乾いた筆致で描かれていく。
 そのリウーに協力するのが、もう一人の主人公と言うべきジャン・タルー。事態が始まる数週間前にオランにやってきた金持ち。最初登場した時はかなり得体の知れない人物だが、献身的にリウーたちの医療活動を補助する。そして終盤で自らもペストに倒れる。
 印象的な登場人物がさらに二人いる。新聞記者のランベールと、犯罪者で自殺志願者のコタール。彼らもまた、それぞれの事情を抱えながらも、ペスト蔓延という事態の中で、やはり医療活動に協力する。事態が終わった後の二人の運命は対照的だが。
 本書には女性の登場人物がほとんど登場しない。それがかえって物語全体にストイックで引き締まった印象を与えている。

 本書は疫病小説であっても、パニック小説ではない。病に襲われた者の恐怖や悲哀、あるいはペストに立ち向かう者の勇気や使命感などは、きわめて抑制的に表現されている。はっきり言ってストーリーらしいストーリーもない。そこにかえって疫病のリアリズムが感じられる。
 本書の一節に、次のような文章がある。

 みずからペストの日々を生きた人々の思い出のなかでは、そのすさまじい日々は、炎々と燃え盛る残忍な猛火のようなものとしてではなく、むしろその通り過ぎる道のすべてのものを踏みつぶしていく、果てしない足踏みのようなものとして描かれるのである。(p.214)

「果てしない足踏み」。これこそ、今の日本を予言する言葉のような気がする。まあ、致死性という点では、新型コロナウイルスは本書のペストとは比べものにならないだろうが、対策が空回りしているような今の事態をよく言い表している気がするのだ。

Pest

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2020年11月11日 (水)

「一九〇五年」の彼ら

「一九〇五年」の彼ら 「現代」の発端を生きた十二人の文学者/関川夏央(NHK出版新書,2012)

 日本の国民国家としての頂点は、一九〇五年五月二十七日である。

 そんな文章から、本書は始まる。これは、「日本海海戦」の日。
 著者はこの年を、「まだ明治三十八年でありながら大正・昭和の発端した年、あるいは「現代」のはじまった年として記憶される」と位置づける。
 歴史に名を残す12人の文学者がその年に何をしていたのか。さらに、彼らはその後、どのように生き、死んだのか――。
 1905年と、それぞれの没年。12人の人生と作品を、二つの年に焦点を当てた短い評伝の形で語る。そんな本書の執筆意図を、著者は後記で端的に語っている。「文学・文学者と時代精神の関係について考え、大衆化社会のとば口、すなわち一九〇五年からそれぞれの文人の全盛期を眺め、ついでその晩年を紙の上に記述する本」と。
 そして、そんな本は「もう出ないかも知れない」とも書いている。確かに、こんな構想の本は他に知らない。

 登場する12人は下のとおり。さすがに超有名人ばかりである。順番は生まれた年の順。

「森鷗外――熱血と冷眼を併せ持って生死した人」
「津田梅子――日本語が得意ではなかった武士の娘」
「幸田露伴――その代表作としての「娘」」
「夏目漱石――最後まで「現代」をえがきつづけた不滅の作家」
「島崎藤村――他を犠牲にしても実らせたかった「事業」」
「国木田独歩――グラフ誌を創刊したダンディな敏腕編集者」
「高村光太郎――日本への愛憎に揺れた大きな足の男」
「与謝野晶子――意志的明治女学生の行動と文学」
「永井荷風――世界を股にかけた「自分探し」と陋巷探訪」
「野上弥生子――「森」に育てられた近代女性」
「平塚らいてう(明子)――「哲学的自殺」を望む肥大した自我」
「石川啄木――「天才」をやめて急成長した青年」

 いかにも明治人らしい気骨を持って人生を終えた森鷗外に始まり、どうしようもなくだらしない短い生涯を送った石川啄木まで。最後に登場する石川啄木が一番若いのだが、一番早く死んでいる。
 そして鷗外と啄木の間には、著者の描いた、12人の個性が作るグラデーションがある。それを見ていると、なんだか世代が若くなるにつれて、文学者としての才能はともかく、人格的にはだらしなくなっていってるような気もする。あるいは、思考や行動が、徐々に「現代人」に近づいているというか…。
 著者の意図とは違うのだろうが、そんなところで、「現代の始まり」を感じてしまった。

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2020年10月22日 (木)

魅せられた旅人

魅せられた旅人/ニコライ・レスコーフ;木村彰一訳(岩波文庫,1960)
 19世紀のロシア小説。原著は1873年に刊行されている。
 実のところ、こんな作品があるなんて全然しらなかった。60年も前に出版された本なのに。いや、だからこそか。古本でたまたま見つけて買ったのである。

 巡礼の一行に加わってきた、曰くありげな修道僧の身の上話という形で、一人の男の波瀾万丈の半生が語られる。
 男の名はイヴァン・セヴェリヤーヌイチ・フリャーギン。姓を呼ばれることは滅多になく、「ゴロヴァン(頭でっかち)」の通称で呼ばれることが多い。元は農奴の出身だが、その運命の変転は実に予測不能というか、どこに転がっていくかわからない。
 主なところだけでも、伯爵の召使い、韃靼人の捕虜(この捕虜生活中に身につけた馬の知識が、後で大いに役に立つ)、公爵に仕える馬鑑定人、兵隊、そして最初の方で予言されたとおり、修道僧になる。
 しかしこのイヴァン氏、これだけいろいろな経験をしながら、女性関係についてはあまり語るほどのことがなかったらしい。終盤になるまで、女性はほとんど話の中に出てこないのだ。
 ただ、韃靼人(今で言うタタール人か)のところに10年間捕らわれていた間に、現地の女性と結婚して子供もできていたということがさらっと語られている。しかし韃靼人の妻子は、イヴァンが脱走する時にみんな置き去りにしてきたのだった。
 その他にも、身分が変わるたびに、過去をさっぱり投げ捨ててきている。この人物、妙に人にも物にも執着がないのである。
 話も終わりに近くなって、やっと女性がらみのエピソードが出てくる。後半の大部分を占める公爵家のエピソードで、公爵の愛人だったジプシー女グルーシュカと危うい仲になりかけるのだ。しかし結局、公爵に捨てられて殺して欲しいと懇願する彼女を、崖から突き落としてしまう。イヴァンは彼女を殺したと思っているが、本当に死んだのかどうかは、最後までわからない。

 とにかく話がどう展開するかわからない。現代の小説のような約束ごとは通用しない世界なのである。正直言って、ストーリーが行き当たりばったりという気もしないではない。だが結局のところ、妙に面白いのだ。ロシア小説の隠れた佳作ではないだろうか。

 

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2020年8月19日 (水)

カレル・チャペック

カレル・チャペック 小さな国の大きな作家/飯島周(平凡社新書,2015)
 本ブログでは過去に一度だけカレル・チャペックの本を取り上げたことがある(2016年7月23日のエントリー『絶対製造工場』)。他に例を見ない独創的なSFの作者で、「ロボット」という言葉の創造者――まさに本書のサブタイトルどおり「小さな国の大きな作家」というにふさわしいだろう。
 本書はそのチャペックの評伝(余談だが、平凡社はチャペックの著作を何冊も出していて、日本で一番チャペック推しの出版社と言える)。チャペックの生涯とその人間像、文筆から政治問題、趣味までの多才な活動をさまざまな角度から語っていて、その全体像を知ることができる。
 とはいえ、『ロボット』や『山椒魚戦争』などの有名作品の内容そのものについてはあまり触れておらず、作品論を期待するとあてがはずれる。ただ、日本であまり知られてない作品については、そのあらすじをかなり詳しく紹介しているが。

 内容は4章構成。
 第1章「世に出るまで」は、チェコ北部の田舎での少年時代から、大学を出て文筆家の道を歩み始めるまでの前半生。
 第2章「ジャーナリスト、作家として」は、本書で一番長く100ページ以上。ジャーナリスト、作家、評論家としての活動と、その死までを語る。
 若くして新生チェコスロヴァキアきっての流行作家として活躍、マサリク大統領の若い友人として、対談を本にしたり、伝記を書いたりするなど、政治とも深くかかわってきたチャペックだが、最後は悲劇的だった。
 ナチスドイツの台頭に警鐘を鳴らし続けたのも虚しく、チェコスロヴァキアがドイツに併合される直前の1938年に48歳の若さで病死する。兄のヨゼフは、カレルの死にあたって、「あのカレルは、ずっと幸せな人生を送ったんだ。死ぬのさえちょうどいいときだった。これ以上生きてたって、もう何もいいことなんかなかったさ」と言ったそうだ。
 チャペックの伝記としては、一応ここで終わりということになる。残る2章は、チャペックの周辺について別な角度から語るもの。
 第3章「趣味に生きる」は、趣味の世界からチャペックの人間像を浮かび上がらせる。犬と猫、園芸、詩、チャペックと日本の関わりなど。日本はともかく、他の分野はそれぞれに本を書いているほどだから、趣味というレベルを超えている。
 第4章「カレルの周辺の人たち」は、チャペックと交友のあった人々や家族、親族について。トーマス・マンとも交流があったそうだ。

 カレル・チャペックの作品は何冊か読んだが、その生涯については、意外なほどに若死にしていたことを含め、あまりにも何も知らなかったことに気づかされる本だった。チャペックが病死せず、ナチスの手も逃れて、どこかで長生きして活躍していれば、「世界の大きな作家」になっていたかもしれない。

 

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2020年8月10日 (月)

宇宙飛行士オモン・ラー

宇宙飛行士オモン・ラー/ヴィクトル・ペレーヴィン;尾山慎二訳(群像社ライブラリー,2010)
 1992年に出版されたロシアの小説。ソ連時代の架空の宇宙飛行計画を中心とした小説だが、SFというより不条理小説に近い。
 父親から変わった名前をつけられたオモン・クリマヴァーゾフは、少年時代から宇宙飛行にあこがれ、高校を出ると親友のミチョークとともに宇宙飛行士になるために航空学校の試験を受ける。
 ザライスクという町の試験会場で、オモンは一人の老人に話しかけられ、「宇宙に行くってのは並大抵じゃないぞ。お国に命まで求められるかもしれん」と言われる。「やるべきことをやるだけです」とオモンは答えるが、これが文字どおりの意味だということが、後でわかるのである。
 そしてオモンとミチョークが試験に合格して宇宙飛行士訓練生になった途端に、悪夢が始まる。訓練生たちはまず足を切られる。意味のわからない講義と訓練が続く。やがてソ連の宇宙飛行の真実がわかってくる。
 ソ連のロケットは人間の犠牲の上になりたっていたのだった。ロケットの切り離しは各段ごとに人間が操作していて、もちろんその人間は直後に死ぬのである。
 オモンは「無人月探査機」ルノホートに乗り込んでそれを操作する役を割り当てられる。自転車みたいにペダルをこいでルノホートを動かすのだ。地球に帰る手段はないから、最後に空気も食糧も尽きたら自殺するしかない。ひどすぎる話である。
 親友のミチョークは、そんな殺人ロケットにすら乗せてもらえず、「前世試験」というわけのわからない試験で危険分子と見なされて射殺されてしまう。
 オモンは何人もの仲間の死の果てに月の裏側に着陸、何十日もルノホートのペダルをこぎ続けて目的地に到着し、無線標識を設置する。これで後は死ぬだけなのだが、自殺用の銃は不発。そしてオモンは月面のはずの周囲の様子がおかしいことに気づく。
 結局、ソ連宇宙計画のとんでもないインチキがオモンの前で明らかになる。秘密を知ったオモンを殺そうとする政府の手先たち。追われるオモンが最後に行き着く先は…。
 地獄のような宇宙計画の果てに待ち構える大ドンデン返し。だが実のところ、前半の描写と後半の展開が矛盾するところも多く、そもそも最初の試験のところからすべてがオモンの妄想だったとも解釈できる。

 それにしても、ソ連崩壊の直後に、ソ連政府と共産党の信じがたい非人間性と冷酷さ、教条主義、形式主義をパロディ的に暴き出し嘲弄する、こんな作品が出ていたとは。

Omonra

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2020年7月29日 (水)

とどめの一撃

とどめの一撃/マルグリット・ユルスナール;岩崎力訳(岩波文庫,1995)
 ロシア革命後の混乱期を背景にした長編小説(長さから言えば、むしろ長い中編か)。
 主人公エリック・フォン・ローモンは、ドイツとフランス、バルト人の血の混じった複雑な家系の持ち主。ドイツで暮らしていたエリックは、母の故郷クールランド(現在のラトヴィア)に行き、反ボルシェヴィキ義勇軍に身を投じる。
 エリックの母親はクラトヴィツェという町が故郷で、土地の貴族ド・ルヴァル伯爵の従姉妹だった。伯爵家のコンラートとソフィーの姉弟とエリックは、少年時代の一時期をともに過ごしたことがあった。
 義勇軍の司令部でコンラートと再会したエリックは、彼とともに最前線と化したクラトヴィツェに向かう。伯爵の館は義勇軍の根拠地と化していて、そこでエリックはソフィーに再会する。
 普通なら、ここからロマンスが始まりそうなものだが、全然そうはならないのがこの小説。エリックとソフィーの間の、愛憎が混淆する心理の動きの複雑さは、さすがに主流文学である。
 エリックとソフィーの心はすれ違い続ける。ついには、エリックはソフィーの心を決定的に傷つけてしまう。ソフィーは館を飛び出し、いずこともなく姿を消す。
 やがてボルシェヴィキの攻勢が強まる中、エリックの部隊はクラトヴィツェを放棄して移動する。戦いの中でコンラートは戦死。捕虜にしたボルシェヴィキの小部隊の中に、赤軍の女兵士となったソフィーがいた。
 反ボルシェヴィキ軍には捕虜をとる余裕はなく、捕らえた敵兵士はすべて銃殺されることになっていた。ソフィーは自ら、エリックを自分の処刑人に指名する…。

 ――というような、表面的に見ると非常に殺伐とした話。荒涼としたラトヴィアの大地に展開する愛と死のドラマは、日頃気軽な小説ばかり読んでいる人間には、なかなか歯ごたえがありすぎるのだった。とはいえ短いのですぐに読めることは読めるのだが。本当に「読めて」いるのかどうかは自分で怪しい気がする。

 

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2020年7月 5日 (日)

暁の女王と精霊の王の物語

暁の女王と精霊の王の物語/ジェラール・ド・ネルヴァル;中村真一郎訳(角川文庫,1952)
 1989年、角川文庫創刊40周年記念特別企画「リバイバルコレクション」の1冊として刊行されたもの。一応、1952年の初版から数えて3版ということになっている。
 しかし当然ながら、再刊といっても1952年の初版時の活字を使っているわけではない。かといって新たに写植で刷り直したわけでもなく、単に初版を写真製版して印刷したものらしい。実のところ、あちこち字がかすれていて見苦しい。旧仮名遣いなのは雰囲気が出ているが。

 それはともかく、内容は古代イスラエルを舞台にした歴史ドラマ。タイトルから想像するようなファンタジー的なものではない。
 元々は1851年に刊行された『東方紀行』の一部だったものを抽出して独立した本にしたもの。これは日本でそうしたのではなく、本国でもそういう本がすでに出ていたそうである。確かに完全に独立した作品として読める。
 物語は、シバの女王がソロモン王のもとを訪れたという、旧約聖書の有名なエピソードに基づいている。本書でのシバの女王の名はバルキス(伝承によって名前が様々に伝えられている)。
 バルキスはソロモンの名声を聞いてイスラエルを訪問する。しかしバルキスが惹かれたのは、ソロモンではなく、天才建築家アドニラムだった。ソロモンの壮麗な神殿はすべてアドニラムが作ったものだったのだ。
 この作品のソロモンは伝説のような賢者ではなく、自負心と欲望が過剰な困った男。結局バルキスは、しつこく言い寄るソロモンに愛想をつかしてイスラエルから逃げ出す。一方アドニラムもバルキスと示し合わせて逃亡。後日二人で再会することを約束する。
 しかしアドニラムは都を脱出する直前、部下の職人たちに裏切られ、殺されてしまうという悲劇で終わる。

 多分この作品の魅力は、上のような、ある意味ありきたりなストーリーではなく、ネルヴァル華麗な文章にあるのだろう。まだ若かった中村真一郎(初版が出た時は30代前半)の訳文は、そのいくらかを伝えているとは思う。少なくとも意味不明なところはない。いかんせん、今読むと少々読みにくいのは確か。

Solomonetbalkis

 

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2020年5月18日 (月)

小川洋子の陶酔短篇箱

小川洋子の陶酔短篇箱/小川洋子編著(河出文庫,2017)
 基本的に純文学系の作品を集めたアンソロジー。純文学といっても、いわゆる「奇妙な味」に似た、変な作品が多い。
 戦前の文豪から現役作家まで、16編を収録。各作品に編者の解説エッセイ(あまり解説になってないが)がついている。

「河童玉」(川上弘美)
 友人のウテナさんが河童に招待されて人生相談を持ちかけられる。最初から最後まで変な話。
「遊動円木」(葛西善蔵)
 奈良に新婚夫婦を訪ねた夜、遊動円木に乗る妻。それだけの短い話だが、どこか変。
「外科室」(泉鏡花)
 手術室に運び込まれた伯爵夫人と執刀医の間の過去の因縁。文語調の文章なので、仮名使いは旧仮名のままにしてほしかった。
「愛撫」(梶井基次郎)
 猫の虐待を妄想する男の独白。猫好きの編者は何を思ってこの作品を選んだのか。
「牧神の春」(中井英夫)
 牧神に変身した青年が、ニンフと化した少女と動物園で暮らし始める。変な話には違いないが、中井英夫が書くと自然に見える。
「逢びき」(木山捷平)
 大陸の旅から帰ってきた男と、その妻の噛み合わない会話。それでいて、いかにも似合いの夫婦に見えるのが不思議なところ。
「雨の中で最初に濡れる」(魚住陽子)
 知らない女がスクアランを売りに来る。次には野草茶を。そしてレイエンを。特異な言語感覚に満ちた作品。
「鯉」(井伏鱒二)
 十数年前から作者を悩ませる鯉の話。
「いりみだれた散歩」(武田泰淳)
 三軒茶屋のアパートに引っ越した主人公の周囲は、どこにでもいそうで、それでいてどこか変な人間ばかり。日常的なのに、やはり変な話。
「雀」(色川武大)
 子どもの頃の悪夢と、父親の奇妙な言動の思い出話、みたいなもの。
「犯された兎」(平岡篤頼)
 大学時代の友人が訪ねてきて、同人誌に誘う。恋人がやってきて、犯されたかもしれないと告白する。主人公の男は、そんなことよりも飼っている兎の心配をする。どこか狂気をはらんだ日常の物語。
「流山寺」(小池真理子)
 死んだ夫が、自分が死んだことに気づかずに家に帰ってくる。その妻である「私」は、夫に自分の死を気づかせないようにふるまう。しかしそんな夫の行動が死者たちの怒りを買う。この話はなかなかいい。
「五人の男」(庄野潤三)
 作者の記憶に焼き付いた、名前も知らない5人の男の話。相互に関係のないエピソードがただ並んでいるだけに見えるが、なぜか鮮やかな印象を残す。
「空想」(武者小路実篤)
 兄と妹の会話。兄の絵をけなした批評に対して、ひたすら絵を擁護し、兄を激励する妹。実は――というオチが情けなくも悲しい。
「行方」(日和聡子)
 ふと目にした「影」に取り憑かれた女性。海辺の荒れ果てた漁師小屋に導かれ、そこでいつ果てるとない日々を暮らすことになる。ちょっと山尾悠子に似てる気もする、ほぼ純粋な幻想小説。
「ラプンツェル未遂事件」(岸本佐知子)
 これはエッセイ。しかしほぼ全部フィクションと思われる。内容は小説よりも変。

 マイベストは「流山寺」。

Ogawayoukonotousuitanpen

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2020年4月24日 (金)

小説の解剖学

小説の解剖学/中条省平(ちくま文庫,2002)
 著者は作家ではなく文学研究者。だから読む前は、これは小説の文章や構成を詳細に分析した評論の類なのだと思っていた。
 しかし実は全然違っていて――というか、そういう側面も確かにありはするが、それは主題ではなく――小説家志望者に向けた創作講座なのだった。
 実は単行本(1995)のタイトルは、『小説を書く!』。1992年から94年にかけて開講していた「創作学校創作科」の講義の一部をまとめたものなのだった。そんなことを全然知らずに、評論だと思って買っていたのである。
 本書の元となった創作講座の対象は、純文学の創作をめざす人たち。だから、講義内容も、純文学をいかに書くかというテーマに特化している。
 とはいえ、講義の題材として純文学しか出てこないかというとそんなことはなくて、ミステリはさかんに取り上げられている。ただし、ミステリを書くための見本としてではなく、小説のテクニックのための教材として。「われわれの書く普通の小説にいくらでも応用が可能なんです」「ミステリーほど小説のテクニックを学びうる形式はない」と著者は言っている。
 さらに、こういうくだりもあって、著者や受講者たちの立場を端的に語っている。「われわれの小説は謎解きなしでも自立する面白いミステリーであるべきなんです」と――。
 受講者たちのめざすのはあくまで、「普通の小説」という前提なのである。
 それにしても、「普通の小説」とはなんなのだろう。

 あとがきによれば、著者は小説を書いたことはないし、これから書くつもりもないのだそうだ。
 そういう人が小説の書き方を講義するというのは、考えてみればなかなかいい方法なのかもしれない。自分で書いてないからこそ、客観的に、どんな作家の手法も解説できるし、何より、「偉そうに講義しているが、そういう自分が書いた小説はそんなにたいしたものなのか」などと思われる心配はないのだから。
 ともあれ、趣旨を間違えて買ってしまったとはいえ、小説を読む上でも、参考になることは多かった。

Shousetsunokaibougaku

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2020年4月 4日 (土)

千霊一霊物語

千霊一霊物語/アレクサンドル・デュマ;前山悠訳(光文社古典新訳文庫,2019)
 あの大デュマが書いた怪談小説。タイトルは「千夜一夜物語」をもじったものだが、複数の語り手が交互に自分の体験した怪異を語るという形式なので、むしろ日本の「百物語」に近いと言える。

 1831年、デュマはフォントネ=オ=ローズという町で首切り殺人事件に遭遇し、裁判の証人となる。
 事件は、ジャックマンという男がよくわからない理由で妻の首を斬り落として殺したというものだが、ジャックマンは切った後の妻の首が噛みついて来たと供述する。
証人として立ち会ったのは、デュマの他、この町の市長ルドリュ、医師のロベール、文人のアリエット、司祭のムール。デュマは市長の家に招かれ、そこで調書に署名することになる。
 市長の家には、先ほどの証人たちの他、ルノワール士爵と謎の女性が招かれていて、彼らは署名の後で食事をふるまわれ、食後に歓談をする。そこで怪談話が始まるのだった。
 最初は、正体主のルドリュ自信が語る。切り取られた首が生きていたという犯人の言葉に関連して、自身が若い頃に体験した話。フランス革命の頃、ソランジュという偽名を名乗っていた女性との恋と、彼女の悲劇的な死、そしてその首から呼びかけられた体験。
 続いて、ロベール医師が話すのだが、それは彼自身の体験ではなく、イギリス人の医師から聞いた話。――で、その医師が判事から聞いた怪異体験の話。判事は自分が処刑した悪党のかけた呪いに取り憑かれ、死んでしまうのだった。もう首がどうのこうのというテーマとは関係なく、ただの怪談になっている。
 次はルノワールの話。フランス革命の時、サン=ドニの王墓でアンリ4世の亡骸を侮辱した男のたどった悲惨な運命。フランス革命の時期でも、アンリ4世だけは特別だったらしい。
 その次はムール司祭が自分の体験を語る。ラルティファイユという悪党を自ら改心させた体験と、その後の彼の刑死。非常に説経くさいが、司祭がしゃべっているんだから仕方ないか。
 そしてアリエットの話。スイスの温泉で若妻が療養中、フランスにいた夫が病死する。夫の埋葬に間に合わなかった未亡人は、夫が自分の死後に身につけておいて欲しいと願った髪の毛を手に入れるため、墓を掘り起こす。彼女にはなぜか夫が埋められている場所がわかったのだった。
 最後は、謎の女性ヘドウィグの話。これが一番長く、かつドラマチック。
 ヘドウィグはポーランド人。一族がロシアに対する独立闘争に蜂起し、敗れたため、彼女はモルダヴィアに亡命することになる。その旅の途中で彼女が体験した、吸血鬼の恐怖と悲恋の物語。

 一同の中でデュマだけが何も話をせず、聞いているだけ。ヘドウィグの話が終わったところで、あっさりと作品も終わる。
 ひとつひとつのエピソードは、さすがにデュマだけあって読ませるのだが、全体としては、なんだか中途半端に始まり、終わった印象が残る。

Senreiichireimonogatari

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